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ストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前に

 ストーカーとは何か?/ストーカーって一つじゃないの?でストーカーの分類と分類の歴史を通して分類すること自体の問題について述べるに引き続き、分類の内の心理類型について必要な範囲で解説を加えます。
 ストーカーについて突っ込み過ぎて当初の目論見である恋愛や結婚などの男女関係についての話から離れているようにも思いますが、今しばらく我慢していただけるとこの突っ込んだ話の意義が見えてくると思います。
 私自身もここまでストーカーについて回数を裂くようになるとは、実のところ、思っていませんでしたが、話題の核を十分に述べるためには避けることができませんし、特に、今回触れるDSMについてはストーカー問題について書かれた書籍で無視され、暴走気味な感があるので述べておきたいと思うのです。

 さて、前回からDSMと普通に使っていましたし、これからストーカーの心理について話をする時にDSMが多く登場することになりますが、ご存知ない方のためにも、そもそもDSMとは何かから話さなくてはなりません(※)。 
 DSMとはDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorderの略称です。
 逐語訳をしますと、精神の障害(病気)の診断と統計の手引き、となります。
 前回述べたように、発行しているのはAmerican Psychiatric Association(アメリカ精神医学界 略してAPA)と言う学会です。APAはその名の通り、アメリカ合衆国の心理学・精神医学の学者・医師が属する最大で、最も有力で権威ある学会です。
 DSMはAPAによって1952年に最初の版(第1版)を発行され、現在の第4版の改訂版に至っています。
 どうしてアメリカ合衆国の学会が作った手引き書(マニュアル)でグダグダと話をしなくてはいけないのかと言いますと、このDSMがアメリカの精神医学・心理学のみならず世界の精神医学・心理学に携わる人から(勿論日本でも)聖書のような扱いを受けている(そして、ストーカー関連の書籍でも必ずと言っていい程DSMの基準が出される)からです
 もう一つ、WHO(世界保健機関)が発行しているICD(International Classification of Disease 訳:疾病の国際的な分類 現在は第10版)もありますが、これとDSMが精神医学・心理学の診断の指標として代表的な存在となっています。
 ICDという国際機関の発行する診断指標とアメリカ合衆国という一国の学会が作った診断指標が同等(若しくは、DSMの方が多用される)の影響力を持っているのです。
 ですので、病気か否か、何の病気かを決めるためのマニュアルであるDSMについて、DSMに問題があるなら、それについて触れておかなくてはいけないと考えるのです。単純に、DSMに記載されていることを根拠に、人に病気にがあるとか、障害があるだとかと判断するのは本当に危険です。特に、ストーカーというそれだけでも犯罪者として扱われる対象を、精神病だと判断する、精神病(や人格障害)が原因だとするような危険な雰囲気がストーカーについて書かれた本にはあるように、私には感じられる(※1)のです。
 
 まず、DSMがどうしてアメリカ合衆国のみならず世界で影響力を持つようになったかと言いますと、それはDSMの第3版が現れるまでの精神医学・心理学の状況に原因があると考えられます。
 すでに心理学についてはその弱み(※2)について述べましたが、その弱みがもろにDSM-3の出現まで精神医学・心理学の現場に現れていたのです。自分の習った先生や、自分の属している組織の上司、または、その地域や国の精神医学・心理学の権威者によって、用語・診断内容や方法がばらばらで、そこにいる限り、自分の先生や上司、権威者が言ったことに異議を挟むことが難しかった、つまり、先生・上司・権威者=診断のマニュアルだったので、それらの人々が言っていること、診断したことが正しいと見做されることになります。そこに、DSM-3が登場しましまた。
 DSM-3には、いくつかの代表的特徴があり、それらの存在によってDSMが現在の地位を獲得したのですが、その中の一つに操作的診断基準があります。
 操作的診断基準とは、診断する側の主観を排し、病因ではなく症状の無味乾燥な既述を並べることで操作性を持った診断基準です(幾つかの基準を後に出します)。
 この診断基準を採用することで、それまで自分の先生・上司や権威が即診断基準となって異議を挟むことが困難だったものが、現れた症状をDSM-3の基準に合うかどうかという視点が診断に持ち込まれ、その基準への適否を持ち出すことで自分の先生・上司や権威と違った診断を採りやすくなった(それまでの権威へ対抗できる新しい権威が登場した)と考えられます。又、DSM-3がそのような利便性から世界で影響力をもったことで、バラバラだった診断基準に統一の要素が生まれ、精神医学・心理学自体の弱みを軽減でき、学者・医者の間での思考・意思疎通にも利したと考えられます。 
 しかし、そのDSMには問題点が幾つか指摘されます。
 まず、操作的診断基準の利便性も相まって、日常が病気化されてしまう点です。DSMの診断基準を読むと、殆どの人が病気だと見做される恐れがあり、DSMの権威によってそれが裏書されてしまう問題があります。ですが、これは利便性のあるマニュアルを取る反面として致し方ない、許容範囲の問題だと言えると思います。
 看過できないのは、DSMの病気の採否や診断基準の形成にある問題です。
 表面化した問題の最たるものに、病気としての同性愛があります。
 DSM-2に性的倒錯の一つとして挙げられ、病気だとされた同性愛は、DSM-3が出されるまでの間の社会変化、それによる同性愛者達(APAの会員も含む)の運動の攻撃対象になりました。
 しかし、DSMは精神医学・心理学という科学を標榜する分野のマニュアルです。
 誰かが何か言ったこと、社会の多数の心証が変わったことで、科学的な基準であるマニュアルが変わってよいのでしょうか?
 ですが、もともと、同性愛がDSM-2に入れられていたのは精神分析学の影響が原因であり、精神分析学の人間観を基準に考えること、精神分析学の科学性が保障されていることが前提として必要だったはずなのです。
 そして、繰り返すように、精神分析学(心理学)には脆弱性があります。
 科学性に脆弱さを抱えた前提での判断とそれに対する社会の価値観変化という科学ではない要素との戦いが、DSM-3にはあったことになります。 
 そして、妥協的に“性的志向性の障害”という新しい診断がAPAで承認されにもかかわらず、DSM-3を実際に作るときになって“自己違和的な同性愛”という診断名が登場し、おまけに、DSM-3の改定版でこれが削除されてしまったのです。
 この一連の動きが、科学性を支えるデータと理論の検証というよりAPA内部の政治性によってなされたと指摘されています。
 もう一つ、人格障害というこの後の話で登場する診断名に関する問題があります。
 DSM-3の改訂版の草稿でマゾヒスティック・パーソナリティ・ディスオーダー(自虐的人格障害、マゾヒスティックといっても性的な意味ではなく、自虐的で他者からの承認を不快に感じる障害を指す、以下、MPDと略します)の名称と診断基準が提唱されました。しかし、その診断基準を見ると“アメリカ人らしい利己主義に染まってない行動”が精神障害だと言っているようなものになっていたのです。MPDは改訂の審議過程で名称を自己敗北型人格障害と変え、診断基準に小さな訂正を加えられ、DSM-3の改訂版の特別付録に入れられましたが、DSM-4ではなくなってしまいます。その一連の動きも、科学的な検証とは言い難く、恣意的だという指摘がされています。
 また、人格障害の一つである境界性人格障害の成立も、同様で、診断基準を作る過程で、他の診断と明確に分離できなかったにも拘らず、DSM-3に入れてしまったこと、そして、この診断名が医師の側の都合(新しい病気をつくることで患者を拡大できる。人格障害の特殊性を利用して医師と患者との間に起こったトラブルを患者の人格障害のせいにできる)の為に使われてしまう恐れがあることが指摘されています。
 
 そして、勿論、これら全てには倫理学上の問題があります。
 例えば、同性愛を問題にするとして、どうして同性愛が病気だと考えられるかと言えば、精神分析の想定する人間の精神の理解もさることながら、一般に受け入れらていたのは、男は女に、女は男に性的な興奮を感じるのが「自然」だからというのが大きいのでしょう。
 そして、「自然」と言わしめる根拠は、自分の体験と男女間の性交ではなくては子供ができず、子供ができなくては人類が現在まで存続しなかったからでしょう。
 しかし、自分が男(女)に性的な興奮を覚えるという「自然」な体験、男女の性交で子供が生まれる、この二つの事実があっても、その事実を根拠に男性(女性)は女性(男性)に性的な欲望を感じることが「自然」であり「正しい」、という倫理的な価値の根拠とは認められません。
 なぜなら
 男性は女性に性的興奮を覚える→男女の性交が「自然」だ→同性の性交は不「自然だ」→不「自然」なことは「正しい」とは言えない
 という一連の論理は
 同性愛は「正しい」とは言えない→理由は、不「自然」だから→理由は、男女の性交が「自然」だから→理由は、男性は女性に性的興奮を覚えるのが「自然」だから→男女の性交が「自然」だ→同性の性交は不「自然」だ→不「自然」なことは「正しい」と言えない→同性愛は「正しい」とは言えない・・・・ と論理が循環してしまいます。つまり、主張する(証明する)事実の価値を、主張される(証明されるべき)事実によって根拠付けてしまっているのです。 
 同様に
 男女間の性交が「正しい」→理由は、性交とは子供を作る行為だから→男女間の性交で子供は生まれる→子供が生まれるから男女間の性交が「正しい」・・・・・と循環して、主張の根拠が主張の対象になってしまっています。
 このような循環論を持ち出してしまうと、証明として成立しないのは理解されると思います。俺が言っていることが「正しい」、なぜなら、俺が言っているからだ、と同じで、自分の意見に同意していない相手を合理的な論理を用いて説得し合意を得るための技術である証明とはならないからです。
 このように「自然」である、そもそも、「自然」なのかにも問題がある中で、何を病気にするか(何を「正しい」人間の行為とするのか)、どうそれを判断するかを、曖昧で、少数の間で政治的に決定していることに問題があるとされるのは当然です。性交の許可年齢を検討する際に詳しく述べますが、事実と価値の混同の問題です。
 
 では、どうするのか?DSMを無視するべきなのか? 
 私は、コンプレックスの問題でも述べました様に、一つの分析の道具として価値があると考えています。
 但し、あくもでも以上に挙げたような様々な難点を踏まえたうえでのです。
 DSM、そして精神医学・心理学を占いと同じような感覚で接すること・扱うことにも非常に危険を感じますが、聖書や神託のような扱うことにも非常に危険を感じます
 DSMが頻繁な改訂をすること、それがデーターの蓄積を待たずにであることが、非難を避けるための策略だとの見方もありますが、私は、それがあくまでも暫定的で過程的な知識の集積であることを表すものだと見たいと考えます。
 曖昧で、政治的かもしれませんが、それでも間違いを訂正できる、しようとする姿勢を持ち続けることが精神医学・心理学への信頼、科学への信頼を支える重要な要素だと考えるからです。
 
 以上を踏まえた上で、ストーカーの心理類型の解説を進めます。
 続き⇒ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 

※)DSMの歴史、DSMの問題点については『精神疾患はつくられる』(日本評論社)ハーブ・カチンス スチュワート・A・カーク著 高木俊介 塚本千秋 監訳 と以下の文書を参照しています。
国立精神・保険センター精神保健研究所社会精神保健部 部長 北村俊則氏
  http://www2.kuh.kumamoto-u.ac.jp/kokoro/research2a.html
医学書院 週刊医学界新聞 第2248回
  http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1997dir/n2248dir/n2248_03.htm
※1)精神病や人格障害を患う人が決まってストーカーになるわけではないと明確に否定してあるのですが、書籍の大半を人格障害の解説に充てているという形態から説得力を欠くように私には感じられます。著者が精神科医や心理学者、カウンセラーであることが大きな理由なのでしょうが、無邪気に利用しすぎの感が否めません。せめて、精神医学や心理学の問題について一章割く位の配慮があっても良いのではないかと感じられます。
※2)マザー・コンプレックスについての文章を参照してください。
by sleepless_night | 2005-07-18 11:02 | ストーカー関連
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