前回恋愛の混乱と恋の普遍性の(2)言葉を越えての続き。“「恋愛」はなかった”とはどういうことか?について述べます。
まず、話を進める準備として、“「恋愛」はなかった”に対する最も一般的な反発・反論の根拠である、動物としての本能、つまり性欲の普遍性からの反論を否定しておきます。 ① 動物としての人間には本能があり、性欲は本能である。「恋愛」は性欲に基づく。したがって、「恋愛」は本能であり、普遍的である。という考えについて。 これが“「恋愛」はなかった”を否定できるものではないことは二つのことから言えます。 一つは、性欲、性交と「恋愛」がイコールではないことです。 性欲やそれに駆動された性交に普遍性があるとしても、「恋愛」によらなくとも性欲の満足や性交が可能であることから、性欲の存在は“「恋愛」はなかった”を否定できません。 もう一つは、これに重ねて、性欲や性交が「恋愛」へと実現される必然性はないことです。 つまり、性欲・性交=「恋愛」でもなければ、性欲・性交⇒「恋愛」ということも言えないのです。 ただし、この二つは、あくまでも“「恋愛」はなかった”を性欲・性交の存在によって否定できない、本能によって「恋愛」を保障できないことを示すだけで、“「恋愛」はなかった”を積極的に肯定することにはなりません。 そこで、重要になるのは「恋愛」をするとは何かということの検討です。 ②-1「恋愛」をするとはどう言うことか? (1)③で述べたように、「恋愛」という語は、「恋」でも「愛」でも表す(翻訳する)ことができなかった言葉として、二つを併せてできた熟語です。 既述したように、「恋愛」という訳語は表れてすぐに定着せずに、ラブ・ラーブなどから好愛・恋情・愛情・情交・恋着・恋慕などと試行錯誤が行われてきた中から生き残り、落ち着きました。 それまで使われてきた「恋」に、ややマイナーでネガティブな「愛」をくっつけただけの安直さ、恋や愛という字が経てきた年月から来る慣れ、言葉としての座りの良さが成立に寄与した便宜的なものだとも言えます。 しかし、「恋愛」という語は偶然で便宜的に出来たものかもしれませんが、ある部分でよく出来た言葉と評価できます。 それは、「愛」という語を使用したことに大きく原因があります。 既述したように、「愛」は「アイ」として用いられることが少なく、「愛(アイ)」という言葉も「恋愛」と 同様に明治以降の言葉だと言えます。そして、「愛(アイ)」と「恋」の最大の違いは規範性の有無です。 「恋愛」の「愛(アイ)」には、規範性が込められているのです。 正確には、「愛(アイ)」として明治以降に再利用された言葉が担わされた規範性が込められているのです。 ②-2 規範とは何か? 規範とは“行動や判断の基準となる模範、判断・評価・行為などの基準となるべき原則”です。つまり、「~べき」論です。 規範、「~べき」の宛先は言うまでもなく人間です。 そして、個人内の規範ということもあり得ます(自分はどう生きるべきか等)が、行動や判断・評価ということは基本的に多数の人間が集まる社会の中の人間の規範ということを意味します。 ですから、規範性ということは社会性という言葉にも置き換え得ます。 言わば、社会の中の「べき」論です。 ②-3 「恋愛」の規範性。 「恋愛」の規範性とは「恋愛」の「愛(アイ)」の規範性ということです。 「愛」は過去も、現在も男女間の好意感情を表す言葉でありますが、同時に、男女間よりも広い範囲を対象として男女間のとは異なる感情・思念を表します。 それを、「恋愛」の「愛(アイ)」という限定、「恋」と「愛」という言葉を併せているのですから「恋」+「愛」⇒「恋愛」の順であるのを、逆に「恋愛」⇒「愛(アイ)」という形で限定して話すことになります。 さて、その「恋愛」の「愛(アイ)」の規範性とは何を意味するのか? 規範の内容、即ち「恋愛」の内容については、これから紹介して行く「恋愛」の歴史の後で述べたほうが理解され易いと思います。 ですので、「恋愛」の規範性そのもの、「恋愛」に規範性があるとは何を意味するのか?ということについて述べます。 ここで再び橋本治さんに登場願います。(※) “意外なことかもしれないけど、世の中に恋愛っていうものはないんですよ。そりゃあるかもしれないけど、世の中に存在する恋愛っていうものは必ずいかがわしいものなんですね。(中略)。恋愛っていうものが存在することを許されているんだったらサ、別に、結婚したら人間はそれをやってはいけない、なんてことにはならないもんでしょ?(中略)だからサ、恋愛って、ないの。あったとしても公然とその存在を許されてはなくって、たとえば“大目に見られる”“黙認される”って言うような形でしか存在を許されないのね。(中略)結婚ていうことを前提にして交際っていうのを続けてきて、それで結婚する寸前にその道筋っていうものをブッた斬ってみれば「ああ、この世に恋愛っていうものが存在する余地っていうものはないんだなァ…」っていうことは簡単にわかると思いますね。それをやったのが男であるにしろ女であるにしろ、ぜったにロクでもない言われ方しかしない。“婚約不履行”で訴えられたり損害賠償請求なんてことを起こされたりするって言うことは、それが恋愛なんかでなかったんだった言うことの証明以外のなにものでもないですからね。恋愛が結婚に続いていくと思っていて、どうやらそれがそうではないらしい、そういう続かせ方はなんか無理みたいだからやめようと思ったとたん、「傷物にしたな、金払え」ったいう請求が追いかけてくる。それが結婚まで行けば“祝福”っていうのがやってきただろうけど、たまたま結婚というものに行き着けなかったという理由だけで請求書というものが追いかけてくる。「だってあれは私たち二人の間での恋愛というものであった訳で…」なんてこと言ったってもう通らない。恋愛というものがこの世に公然と存在するものであったら、そのことで裁判沙汰なんかが起こる訳はない。(中略)このことではっきり分かることは、この世には結婚というものはあって、そのことはとても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしてとして“それを恋愛として享受する自由”とか“楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。” (1)②-3で述べたように、橋本治さんは「恋愛」と「恋」を混用しています。 上の引用部でも「恋」の意味で「恋愛」を用いているのですが、それが「恋愛」というものの規範性をよく表せています。 橋本さんは“結婚したら人間はそれをやってはいけない”“婚約不履行で訴えられたり損害賠償請求なんてこと”“「傷物にしたな、金払え」”と不倫や婚約不履行を例にして「恋愛」の存在できる余地のなさを訴えていますが、これは「恋愛」が「恋愛」だから生じるものですから、逆に「恋愛」の存在証明のようなものです。 つまり、「恋愛」に規範性がある、社会の中の「~べき」論があるから不倫や婚約不履行という形態が存在するのです。(これは二つ意味があります。ひとつは不倫や婚約不履行という否定されるべき、忌まわれる存在があるのは、基準となる規範が存在するからという意味。もうひとつは、「恋愛」の規範があるから不倫や婚約不履行、特に不倫が存在できるという意味。つまり、不倫の前提となる結婚状態があっても、それが「恋愛」の「愛(アイ)」の規範から見て支持できないようなものならば、より「愛(アイ)」の規範に適った関係を優先するべきだという根拠ともなりうるという意味でもあります。)(※1) もっと積極的に表せば、「恋愛」とは規範を伴う行為であり、価値追及行為であると言えるのです。(※2) “「恋愛」はなかった”というのは、そういった規範や価値追求の行為である「恋愛」がなかったということです。 規範性、社会の中の「~べき」論、社会の中の価値追及行為には大きく二つが関係します。 ひとつは、結婚という制度です。 もうひとつは、性交です。 「恋愛」とは、結婚という制度と性交という行為と組み合わされることで規範性や価値を形成するものなのです。 これは、近代即ち明治時代以前とは決定的に異なります。 結婚に「恋」が必要、「恋」による結婚こそが正当なものだともされていませんでしたし、性交に「恋」が必要であり、「恋」による性交やその結果である新しい生命の誕生こそがあるべき姿だとも考えられてはいませんでした。(そんなことを言っていればイエが守れない。) さらに、「恋愛」の規範性、価値追及に関係する性交の主体である人間観も近代以前と以後では大きく異なります。 個人という言葉も「恋愛」と同様に明治時代の訳語として登場しましたが、この個人という言葉が示すような一人の人格が「恋愛」をし、「恋愛」に関連するところの性交が人格に深く根ざしたものであるという発想もありようがないのです。 「恋愛」に規範性があるからこそ“「恋愛」はなかった”といえるのです。 (3) 整理 言葉を整理しておきます。 「恋」:個人の中の、特定他者に強く惹かれる感情のこと。 「恋愛」や「愛」と異なり、規範性や社会性は不要。したがって、「恋」は社会や時代の影響を受けずに普遍的に存在し得ると言える。(※3) 「愛」:対象に限定されず、規範性に基礎付けられた肯定・好意感情のこと。 恋人、夫婦、家族、友人、と身近な人物・関係から学校・会社などの組織や国家、さらには人類、生物と幅広く、その存在や関係を重要なものと認める感情。 「恋愛」:特定他者に対する相当程度に強い好意感情を規範や価値追求に現すこと。 「恋愛」の「恋」と「愛」と二つの語の内、「愛(アイ)」の方が要素として圧倒的で、「恋」を型付けていると言える。 では、肝心の「恋愛」の内容とは何か?ということについて、次回以降で「恋愛」へと続く歴史を振り返ります。 ※)『恋愛論』(講談社文庫)橋本治著 ※1)明治以前も以降も、不倫は姦通・私通や浮気・不埒・不義・密通と呼ばれて否定されるべきものでした。女性の不倫は1947年まで姦通罪として犯罪でした。しかし、そこでの不義とは「恋愛」の規範性に反することではなく、イエの論理に反することであって、現代の不倫とは意味がことなります。姦通罪を廃止するか否かの審議においても、女性の姦通によって夫が自らの血を継ぐ子孫を残せないのではないかという点が重視されています。 不倫という言葉が現代のように既婚者と未婚者、若しくは既婚者と既婚者の関係を一般に意味するようになったのは1980年以降です(広辞苑では1983年以降)。以前は、不倫は文字通りに人倫にはずれるという意味です。 イエの論理に反するのが不義であるということは、イエ(公儀)の承認がない関係は未婚同士であっても、買春であっても不義であり、タテマエとしては犯罪となりました。(タテマエはあくまでもタテマエにすぎず、性の規律の徹底とは程遠いのが実際です) 参照:『不義密通』(講談社選書メチエ)氏家幹人著 ※2)『情熱と親密性の間』(朝日新聞社『恋愛学がわかる』収録)山田昌弘著 「恋愛」が価値追及行為であることは、本田透さん(『電波男』)と酒井順子(『負け犬の遠吠え』)さんによく現れています。 →『電波男』は「答え」となりうるのか? ※3)求愛型ストーカーは「恋」をしている、「恋愛」における「愛(アイ)」の規範性の変化を伴った広域化によってはみだした「恋」によって現れた存在とも言いうる。 参照→世界の中心で愛を叫ぶもてない男とストーカーをめぐって
by sleepless_night
| 2005-12-19 21:00
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