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新田次郎によろしく/『国家の品格』への道

はじめに)

 以下、『若き数学者のアメリカ』(新潮社・81年)を(アメリカ)
    『数学者の言葉では』(新潮社・84年)を(言葉では)
    『数学者の休憩時間』(新潮社・94年)を(休憩時間)
    『遥かなるケンブリッジ』(新潮社・95年)を(ケンブリッジ)
    『父の威厳 数学者の意地』(新潮社・98年)を(威厳意地)とします。

 ※はじめに、(7)(8)に目を通していただけると、(2)~(6)の意味が分かりやすいと思います。又、(言葉では)と(休憩時間)の間に、イギリス留学が挟まれていることを念頭に目を通して頂くと、(7)で指摘した変化に気づき易いと思います。

(1)略歴(エッセイの記述からまとめたものなので、年齢と出来事の対応について若干の間違いがあるかもしれません。)

1943年、満州国中央気象台の課長をしていた藤原寛人とていの間に次男として生まれる。
三人の子供のうち、父親にもっとも似ており、もっとも可愛がられたよう。
三歳のとき、敗戦。母に伴われて帰国。
十歳ころから、父寛人が新田次郎として文壇で活躍し始める。
中学から英語の他に、フランス語・ドイツ語を自習。
都立西高校では、サッカー部に所属。
東京大学理学部数学科、同大学院修士課程終了。
29歳、ミシガン大に研究員として留学。一年後、コロラド大へ公募で助教授に採用され、二年間在職。
33歳、御茶ノ水女子大助教授。
35歳、十一歳下の教授令嬢(田丸謙二教授)と見合い結婚。
36歳、父の急死。
37歳長男誕生。38歳、次男誕生。
43歳、三男誕生。44歳、イギリス留学。
45歳、お茶の水女子大教授。

(2)父 

 “父が全く突然に逝ってしまってから、半年余りがたった。もう私の原稿は読んでもらえない。よいものを書いてもほめてはもらえない。文を書く上で、父の存在がどんなにおおきかったことだろう。”(言葉では247p)

 “父は書斎への階段を上がる時、「闘いだ、闘いだ」と口癖でいっていた。”(休憩時間148p)

 “父の死を信じたくない、という気持ちが私の胸に深くこもっている。私の内容にある何かが、父の死をみとめることを、意固地なまでに拒否し続けているのである。”(休憩時間189p)

 “いつもの丹前を着て、「戦いだ、戦いだ」と自らを励ましながら二階の書斎へ上がっていく父の後姿は、子供の私にとって、時にはおそろしくみえることもあった。(休憩時間189p)”

 “取材ノートに従って父の足跡をたどってみたい。しかもできるだけ忠実に。こんな気持ちがいつの頃からか芽生え、ふくらみ、ついにはいてもたってもいられなくなっていたのである。父と同じルートを、できたら父と同じことを考え、同じことを主因果らめぐりたかった。父とおなじ山に分け入り、同じ潮騒を聞き、同じ空気を吸い、同じ人々と話、同じホテルに止まり、同じレストランで同じ料理を食べ、同じ酒に酔いたいと思った。父の想い出に、溺れるほど浸りたかった。そうすることで、あっけなく私の視界から去ってしまった父に、もう一度会える気がした。ポルトガルの果てでなら会える気がした。私の腕の中で息を引き取りながら何もいえなかった父に、山積する話をしたかった。中略。私を、家族を、悲しみのどん底に突き落としたままさっさとどこかへいってしまった父に、満身の怒りを伝えたかった。限りない恨みを連綿と訴えたかった。”(休憩時間203p)

“「これは終わりなき闘いだ」と心につぶやいた。戦い続けることだけが、父を向こうへやらない手立てである。それが私の歩む道である。ほかに道はない。”(休憩時間304p)

(3)アメリカ
 対アメリカという形で発露したナショナリズム。

 “夢にまで見た国は単に“文明化された野蛮国”に過ぎないのかもしれない。”(アメリカp10)

 “突然私は、さきほどまで自分を支配していた不安感が一掃され、きわめて不思議な感情に襲われているのに気づいた。“見よ東海の空空けて旭日高く輝けば…”で始まる愛国行進曲を口ずさんでいたのだ。それは、戦時中海軍にいたことのある叔父が、酒に酔ったときに必ず高吟したものだった。私はいつしか、眼下の海で死闘を繰り広げた日本海軍の将兵に思いをはせていた。中略。その瞬間、アメリカに行って静かに学問をしてくるというそれまでの穏健な考えに革って、殴り込みをかける、というような荒っぽい考えが心の底に台頭してくるのを感じた。中略。このような感情の変化は日本を出発する前にはよそうもしなかったものだった。 なぜ、あの朝陽に輝く波頭を見たほんの一瞬に、日本というものを強烈にいしきたのだろうか。”(アメリカ11~12p)
 ⇒(威厳意地136~138p)に同じ話。

 “アメリカに対する根強い劣等感のようなものを棄て切れない“敗戦を知っている人々”の目に余る卑屈さ、それに腹を立てていたのが、反動の形をとって奇妙な時に爆発したのかも知れない。”(アメリカ24p)

 “ハワイで真珠湾を見た頃から、心の底に根強く定着し始めた“アメリカ対私”という奇妙な対抗意識が、時と場所を選ばず頭をもたげては、私を悩ませていた。”(アメリカ49~50p)

(4)アメリカ体験、情緒と論理へ
 アメリカとの比較で考えた日本の情緒性。アメリカの受容。帰国後の、アメリカ=論理性至上主義。経年による、情緒とのバランス。イギリス体験を経て、情緒性へ重点をシフト。情緒至上主義へ。
  
 “私は「アメリカには涙がない」ということに思い至った。中略。土壌に涙がにじんでいなかった。それない反して日本には…。思わず、これだと飛び上がった。これですべてを説明できる、と小躍りした。私は日本で美しいものを見ても、それが単に絵のように美しかったから感動していたわけではなかったらしい。その美しさには常に、昔からの数え切れない人々の涙が実際にあるいは詩歌などを通じて心情に滲んでいた。中略。晃考えてくると、アメリカに歴史のないということが致命的に思えてきた。中略。これに比べて日本は長い歴史があるし、そのうえ国土が狭いこともあって、いたるところに、どの土にも水にも涙の浸透と堆積があった。少なくともそう感じさせてくれた。ひきかえアメリカはどうだ。文化や伝統の重みもなければ微妙な美しさも繊細な情緒もない。あるのは大味で無味乾燥な白痴美だけではないのか。”(アメリカ85~87p)

 “「この海の向こうに何があるか知っているかい」「この海の向こうに?」彼女は突然の奇妙な質問に、そういったまま黙り込んでしまった。中略。「horizon(地平線)」とだけ言った。私は意表を疲れてうろたえた。なんと美しい言葉だ。感動を抑えきれずに「horizon,horizon」と、うめくようにつぶやいた。中略。私はセキを切ったような感情の本流に戸惑いながらも、その奔流のなかで、埋もれていた“愛”がふつふつと蘇るのをしっかりと感じ取っていた。アメリカにだって、どこにだって、涙の堆積はなくとも、新鮮で美しい涙は確かに存在している。こう考えた時、始めてアメリカが美しいものとして心に映った。そして、上陸以来はじめてこの国を好きになった。というよりも、一瞬のうちに恋してしまったようだ。”(アメリカ118~119p)

 “私には、アメリカをアメリカたらしめているのは、何はさておき、まずその国土ではないかと思えるのだ。中略。そんな状態だから、アメリカの国民性などという問題は考えようもない。気取った言い方ではあるが、「国民性がないところが国民性」とでも言うのが精一杯であろう。中略。国民性のないという事実は、日本人がアメリカ人になりきるのを、ある意味で容易にする。多少、逆説的に聞こえるが、日本人のままでありさえすればよいのだ。周囲の目など気にせず、日本人らしい顔をし、日本人としてごく自然に考え、行動すればそのままアメリカ人的なのである。そして彼らに好感さえもたれる。”(アメリカ264~266p)

 “数人の女友達もいたし、週末はデイトやパーティで忙しかった。パーティでは老若男女の誰からも好かれたし、アパートでは子供やその親たちの大変な人気者であった。大学においては、学生たちは私をほぼ熱狂的に支持してくれたし、同僚教授や事務職員にも好かれ、週末の同じ日に複数の人から夕食に招待されて断るのに苦労したことが何度もあった。”(アメリカ271p)           
                         ↓アメリカから帰国
                         ↓
 “ほとんど全てのものに腹が立った。病気だった。三年間ものあいだ日本を恋焦がれているうちに、心の中の日本が極端に美化されてしまったようだった。中略。二言目には必ず、「アメリカでは」が口を出た。中略。私の処置なしぶりにあきれ果て、たまりかねた長老教授に「君はアメリカかぶれだ。そんなに素晴らしいならアメリカへいったらどうですか」と公の席で諫言されたことさえあった。私の病気が落ち着きを見せたのは、帰国後五、六年を経てからだった。”(威厳意地156p)

 “この情緒が、その人の人間性にどんな効果をもたらすのであろうか。中略。これが情操的成長の真髄である。これに付随する魅力は一言で言うと、「涙の魅力」といえるのではないだろうか。中略。これはある意味では、人間としての「弱さの魅力」でもある。中略。一方、これに対する専門的魅力は、人間の「強さの魅力」である。中略。情操的魅力というものが一生をかけて徐々に獲得されるのに対し、専門的魅力のほうは、数年でもよいから、自分の選んだ何かに一途に打ち込むことによってのみえられる。中略。これは、巨大なる精神的および肉体的エネルギーを必要とするから、若いときにしか出来ない。青年が何かに没頭することが出来れば、それは何であってもより。学問でもスポーツでも金儲けでも何でもよい。”(言葉では38p)
⇒(言葉では167p)馬鹿になること でも同じ話
“馬鹿になること。これが受験に限らず人生のさまざまな局面で、成功のための重要な鍵となることが多い。どの分野にすすもうと、その道での第一人者といわれる人はほぼ例外なく馬鹿である。”
                 ↓ 情緒へ重点をシフト
                 ↓  
 “情緒という言葉は、意味が広くやや漠然としている。喜怒哀楽などの一時的情緒だけでなく、友情、勇気、愛国心、正義感など、さらにはより高度なものまで含んでいる。私は多種の情緒の中から、とりわけ重要なものとして二つを取り出してみたい。一つは。「他人の不幸に対する敏感さ」である。中略。もう一つは「なつかしさ」である。中略。私自身の過去を振り返ってみるとき、喜びに比べ悲しみの方が、はるかに底が深くかつ永続的であることに気づく。そして驚くべきことに、印象にのこる悲しみというものは、ほとんど常に、何らかの形で別れとかかわっている。別れは単なる物理的離別ではない。別れの悲しみは、深層において「人生が有限である」ことにつらなっている。中略。アメリカ人の情緒力低下の原因として、アメリカにはどんな事情があったのだろうか。「他人の不幸に対する敏感さ」に関しては、貧困の解消が大きいと思われる。中略。「なつかしさ」に関しては、アメリカ人が「故郷を失った人々」であることを、想起する必要がある。中略。ここに言う故郷とは、故郷の地だけではなく、そこに存在する歴史、文化、伝統などを含めた広いがいねんである。なるほどアメリカ人もホームタウンに住む親や友人を懐かしく思っている。しかしそれは、我々日本人が故郷に対して抱く、精神的緊縛感とはことなるものだ。中略。実は、以上に述べた情緒の問題は、決して対岸の火事ではなく、日本にとっても切実な問題である。中略。強い情緒力が明治から大正、昭和初期までは健在であった、との思いを深めた。この頃までに思春期を迎えた人々の情緒力が、断然光っているように感じられるのである。この情緒はその後、次第に愛国心のみに凝縮されゆがめられ、敗戦と同時にすべてが否定されたため、決定的打撃をこうむった。中略。本質的に重要なのは情緒力の向上であろう。中略。人間の理性ないし論理で、戦争を廃絶することが不可能なのは、歴史的に証明されている。中略。核戦争から人類を守るには、地球上のあらゆる人間の、美しい情緒力にたよる他に、どんな手立てもないような気がする。”(休憩時間119~122p)
 ⇒(言葉では180~182p)でも同じ図式。
 アメリカ=故郷のない=客観的郷愁、日本=故郷がある=精神的密着感。
 私の体験→我々日本人=私の情緒→日本人の(あるべき)情緒

(4)平行して情緒と論理の教育 
 アメリカ=論理性=成熟、から、情緒性への変化。

 “彼らが日本の学生に比べて知識においてはかなり見劣りするのに、精神的にははるかに成熟しているように思われるのは、面白い現象だ。中略。知識というものは、必要になれば学校で教わらなくとも自然に身についてくるものであるのに反し、論理的な思考法とか表現方法は、若いときに身につけないと後になってはなかなかむずかしいということだ。しかし、この問題は、日本では受験地獄という社会現象(その善悪は単純ではない)と密接に関連しているのできわめて複雑だろう。"(アメリカ210~211p)

 “西洋人が“不可解な日本人(inscrutable Japanese)”という言葉を口にすることがよくあるが、これは吟味を要する文句である。不可解なのは、われわれの思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼らによく理解されつつある)、実は、ほかでもない論理面での未熟さ(精神面でのといってもよい)なのであり、それをただ婉曲に言い表しているのに過ぎないのではないか。”(言葉では52p)
 ⇒(言葉では63p)でもインスクルータブル・ジャパニーズを持ち出して論理的な言葉の教育を主張。
 ⇒(言葉では177p)“日米間に存在するこの「言葉と沈黙のギャップ」は、政治経済、外交をはじめ広く文化一般にまで見いだされ、あらゆるレヴェルでの誤解の元になっている。”
 ⇒(言葉では194p)“国際人たるべき最も大切な条件とはなんだろうか。それは多分、「論理的に思考し、それを論理的に表現する能力を持つこと」ではないかと思う。中略。なぜ論理的思考の訓練がわが国では十分にされていないのだろうか。やはり教育が真っ先に思い浮かんでしまう。大学入試を目指して会談を駆け上がるような小・中・高の学校教育しかもその中で知識の習得が偏重されているということ。このあたりに大きな原因があるのではないか。”(言葉では194p)
                   ↓ 情緒へ重点をシフト                  
                   ↓ 
知的判断において決定的なのは、いくらでもある論理の中から、どの論理を選ぶかである。通常この選択は、情緒によりなされる。中略。人間のこういった情緒の多くは、深部において、死の存在と不可分に結びついている”(休憩時間138~139p)
⇒(休憩時間172p)“それぞれの時期に特有の間情緒でとらえられたそれぞれの経験を通して、深い情緒がはぐくまれ、その人の個性の底に沈殿し、あらゆる判断の礎を形作る”


(5)イギリス体験

“私の意識下ではアメリカは巨大である。外国とはまずアメリカであり、外国人とはまずアメリカ人である。アメリカ批判を、種々の形で述べたりしたこともあるが、アメリカはあくまで、胸のうちではナンバーワンである。中略。私たち戦後世代は、映画、音楽、スポーツと、アメリカ文化をたらふく吸い込みながら育っている。中略。恰幅のよい係官は、ほかのイギリス人と同様に、アメリカをなんとも思っていなかった。中略。彼らの微笑は、アメリカへの嘲笑であり、アメリカを後生大事に抱えたままの私に対する、憫笑でもあった。”(ケンブリッジ25p)

(6)武士道から藤原道へ
 武士道の登場は(休憩時間)から。繰り返されるたびに、表現が激しく・陶酔的に変化。

“六歳の父は、雪のしんしんと降る夜に、一理近くの山道を町までおつかいにやらされたという。また、学校へ入る前から毎朝、漢文の素読をさせられた。信州の冬はとりわけ寒く、零下二十度近くにもなる。そんな朝でも廊下に正座させられ、四書五経の音読を命じられたという。”(休憩時間74p)

“武士の家に生まれた曽祖父は大変に厳格な人で、まだ学校に上がっていなかった父に武士教育を施していた。父は毎朝早く起こされ正座で諸所五経の素読をさせられたり、雪の夜道を一里も先の町までお使いにいかされたりした。”(休憩時間184p)

“父の負けず嫌いは、直治との競り合いの他に、祖父(私の曽祖父)藤原光蔵の影響も大きいと思う。江戸時代末期に武家の長男として生まれた光蔵は、きわめて激しい性格の人で、理不尽な上司にたてついて左遷されたりしたが、父が学校に入る前から徹底した武士道教育を施した。零下十度にまで下がる極寒の朝であっても、兄弟とともに廊下に正座させ、四書五経を素読させたという。”(威厳意地46~47p)

“父の生家、藤原家の本拠地は、上諏訪から一里ほど入った山中にある。江戸時代は高島藩の武士だったが、最下級の足軽だったから、武将の乗る馬の横を、歩きに歩いたはずである。明治以降は百姓だったうえ、町まで一時間もかかるところだから、先祖はみな、よくあるいたことになる。歩きは藤原家の伝統といえる。この伝統を、六年生を頭とする三人の息子たちに伝えようと、私は機会あるごとに彼らを歩きに誘う。武士教育の一環として、中略。雄雄しくも美しい伝統精神を叩き込もうと考えている。”(威厳意地103p)

“私の父は、信州諏訪の武士の家に生まれた。父はここで五歳のころから、曽祖父に武士道教育を受けた。零下二十度の厳冬でも、早朝には素足で正座させられ、四書五経を素読させられた。中略。夜遅く一里の山道を、町まで油を買いにやらされたこともある。中略。曽祖父の徹底した武士教育と、毎夜就寝前に昔話を聞かせてくれた、曾祖母の情緒教育があってこそ、いまの自分がる、と父は修正、感謝とともに語り続けていた。中略。私は以前から、父の受けた教育に憧れを持って折り、切腹の間にもあこがれがあった。”(威厳意地159p)

“武士の血を引く私の父は、幼いころから折に触れ武士道精神を吹き込んでくれたが、それは私の人間罫線に大きな影響を残したし、母親の現実的発想とバランスをとる上でもよかったと思う。”(威厳意地214p)

“私の父は明治四十五年生まれで、江戸生まれの曽祖父により、幼少の頃に四書五経の素読を毎朝させられたし、武士としての価値観を教えられた。私は父から武士道の香りを子供の時分に吹き込まれている。”(意地威厳235p)

(7)解釈

 非常に簡単に言えば
 戦後育ちで、父を敬慕している、もともと直情的な男性。
 当初はアメリカへの劣等感を伴ったナショナリズムを生じさせたが、アメリカに受け入れられ、その成功体験で論理性の重要性を体得し、その比較として日本の情緒性を感じ取った。
 帰国すると、アメリカでの成功体験がもたらした論理性を直情的に主張した。
 (強く・優れた)アメリカVS(日本の)私という経験の後、(強く・優れた)アメリカに受け入れられ、成功した結果、アメリカを私の内に受容することで対立を解消した。   受容したアメリカは(強く・優れ)たものとして私の内に存在したために、アメリカ体験の中心である論理性も(強く・優れ)たものとして表した。
 帰国後、五,六年間の日本での様々なぶつかり合いで、この論理性への直情も、力を逓減させた。
 それが、教育という面への、数学の美的感覚と国語での論理性という提言に結びついた。
 ただし、重点はあくまでも論理性。論理性=成熟。
 敬慕していた父が突然亡くなり、父への果たしえなかった想いが残り、それが年を追うごとに強まってきた。
 イギリスで、アメリカの否定を経験した。
 劣等感を含むナショナリズムに裏打ちされていた(強く・優れ)たアメリカが否定されたことで、(日本の)私という面が強く打ち出すことが、イギリス体験によって担保された。
 (日本の)私は、父への非常に強い敬慕の感情を、父=武士として象徴・美化して表した。
 イギリスによって担保され、アメリカの劣等感の反動的に優越感を含んだナショナリズムが、父=武士と重なる。
 武士道の内容は父や父を教育した曽祖父の時代である明治武士道。明治時代に、天皇のために平等に死ぬ権利として国定教科書や唱歌を通じて植え込まれたもの(威厳維持180pでは、山田耕筰作曲の『この道』を“日本人が長い間唄い、胸震わせてきた”としています。しかし、『この道』は西洋近代音楽を日本歌謡に取り入れることに成功した代表作)。(武士道にかんしてまとめ⇒とりあえず、武士道
 そして、教育について、情緒性への重点を移した。
 直情的に、情緒性を主張する。
 情緒性は、私であり、私の敬慕する父の情緒のこと。
 
 現在、父が闘ったように、闘っている。

 ということになると解釈されます。

『国家の品格』は藤原さんが父を向こうに行かせないために書いているとすると、リリー・フランキーさんが母を供養する気持ちで書いたとする『東京タワー』とは対照的です。

 おまけ⇒品格でも持ってソープへ行け!藤原正彦の喪失と成熟への渇望惻隠の情が堀江さんに向けられる時

(8)解釈と残念

『若き数学者のアメリカ』という秀作によってデビューした藤原正彦さんの作品は必ず手にしてきました。
 母藤原ていの『流れる星は生きている』の文章の強い引き締まりより、父新田次郎のリズム感に近い、魅力的な文章の書き手であると思います。
 以降の作品は繰り返しの話が多く、『遥かなるケンブリッジ』のように、海外滞在体験がないと、なかなか材料を生み出せないのかもとも感じました。
 それでも、文章のうまさと、ご家族を持ち出すことで逃げをつくる芸は藤原さんの持ち味としてクスリとさせられてきました。
 
 しかし、『父の威厳 数学者の意地』には、藤原さんの持ち味が放棄されて、ついに自身の情緒を情緒的に武士道として強弁する文章が顕れ、大変に残念に思いました。
 ご自身が武士道教育、厳寒に板の間で正座して四書五経を素読させられた、を受けていない分、記憶が反芻によって誇張されていく、上滑った話に辟易としました。

 “自分の数学が遠い未来のいつか必ずや有用になると確信している。だから、価値について考える必要は感じないし、罪の意識などはそのかけらもない。私がこの意識をいつまでも振り切れないでいるのは、ひょっとすると先祖代々百姓をしてきた信州の土のにおいが、血の中に濃く流れているせいかもしれない”(言葉では220p)

 百姓でも武士でも構わないのです。

“父が個々の文章の巧拙にこだわらなかったと言っても、その内容については当然厳しかった。同じ表現を一つの作品に二度使っただけでもう受け付けなかった。陳腐な表現も許さなかったが、なかんずく、情に流された表現を嫌っていた。淡々とした文章で深い情緒間を表し、抑制の効いた言葉で精神の高揚を表す、というのが父の理想とする文章作法だった。”(言葉では245p)

 戦っても、お父さんは戻ってこないし、今の文章をどう思うのか。


 

 
 
by sleepless_night | 2006-04-02 18:47 | 藤原正彦関連
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