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自分の命/自殺という過酷な自由を考えるために

 “フィル、アンリ、ジョルジュの三人が遭難して山小屋にたどり着く。食べ物はなにひとつとしてない。空腹感が募ってくる。
 フィルの片脚は凍傷にかかっていた感覚がない。初めにその計画を思いついたのはアンリだった。ジョルジュは一応反対はしたけれど背に腹は替えられない。
 「三人で食べるんだからいいじゃないか」
 中略。その片脚が尽きてしまうと、なまじ肉を食べたあとだけにさらに空腹感は激しくなる。フィルのもう一本の脚も感覚をなくしているんじゃあるまいか。
 中略。ある日、ついにアンリとジョルジュは決心する。またしてもフィルが眠っているときに、ナイフを取り片脚にかかった毛布をめくって…だが…。
 「糞ッ」
 二人の口からくやしそうな叫び声が漏れた。
 なんと、二本目の足はほとんどなくなっていた。フィルが一人で食べてしまったのだ。”
        『恐怖コレクション』阿刀田高著(新潮文庫)より
     
 “あなたの価値は、「葬儀費用+慰謝料+遺失利益[(自殺前一年間の年収)×(1-生活費控除率)×(67歳-現在の年齢に対応する中間控除率)]+弁護士費用-過失相殺」だ。これがこの貨幣経済を前提とした社会で計算可能なあなたの「価値」だ。”
 “生きていても自分でコントロールできることは、きっと驚くほど少ないだろう。ならば、自殺するその瞬間くらい、自分の命を自分でコントロールできる程度の知識はもっているべきだ。”    『自殺のコスト』雨宮処凛著(大田出版)

      
              *

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義 続編死を選ぶ権利/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き

(7)自己所有/自殺で問われる底の思想
①自分の体は自分のものではない

 “その御手に万物を所有したもう方を讃えよ。おまえたちは、そのみもとにこそ帰される。” 
    『コーラン』藤本勝次 伴康哉 池田修 訳(中央公論社)

 クルァーンの記述からもわかるように、イスラームでは人間に自身の所有を認めない。
 正確に言えば、この世にあるもの・生きるものは唯一絶対の神アッラーのものであり、人間が自分たちの判断でものとして勝手に処分することは許されない(ピーター・シンガーの主張する動物の権利、人間の恩恵としてのものではない権利、という点ではイスラームの思想は偽装された人間中心主義よりも主張する内容に即したものだと言える)。
 イスラームほど明確に表現されない(聖書に記述がない)が、キリスト教(カトリック)でも同様に人間が自分の判断で処分することは許されていない。
 日本では“身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷せざるは、孝の始めなり”という『孝経』のフレーズに代表されるような自分の血脈による所属意識から、自分のものとして処分することを否定する発想がある。
 もちろん、『孝経』は日本の書物ではないので、アニミスティックな意識の表現として借用されてきたと捉えるのが相当だと考えられる。
 「自分の体・命は自分のものなのに」といった自殺肯定をした際に返される決まり文句「体・命は自分のものではない」という際に想定される(発言者が自分の発言の歴史的正当性を)裏づけは『孝経』にあると推測しても外れてはいないと思える。

②自分の体は自分のもの
 “大地と人間以下のすべての被造物はすべて人々の共有物であるが、しかしすべての人間は、自分自身の身体に対する所有権をもっている。これに対しては、本人以外のだれもどんな権利ももっていない。”
        『統治論』J・S・ミル著 宮川透訳(中央公論社)

 宗教からの主張を基本とする①の立場とは反対に、自分の体・命は自分のものであると考える立場。今日の常識的な立場であり、自明の前提となって、現代社会を支えているのがこの自己所有権という考え。

 以下、自己所有権を擁護する森村進(一ツ橋大教授・法哲学)さんの論述を用いて整理すると。
 “自分の身体への所有権”を狭義の自己所有権とよび、この権利は干渉されない道徳敵領域としての身体を守り、社会的な諸々の権利の起点となると考えられる。
 自己所有権を否定する立場への反論であり、肯定する自説の根拠として哲学者ジョン・ハリスの思考実験「生存のくじ」を援用する。
 「生存のくじ」とは臓器移植が発達した未来に健康な全員を対象にくじを設置し、くじに当たった人から強制的に臓器を摘出し病人(ただし、不養生ゆえの病人は除く)に移植することで、一人の命の代わりに複数の命を救うことができるようになる・全体としての生存権を拡大できる、という功利主義の発想。
 くじの当選者の理不尽さは病人が病気に罹る理不尽さと同じであり、臓器移植の受益者から外れることを避けるために人々は自己の健康を気遣うようになる。社会全体としての利益を考えたとき「生存のくじ」導入は望ましいものとなるし、平等主義の視点からも肯定される。
 この思考実験に反論する最も説得的な理論は自己所有権(自己所有権テーゼ)にある。
 現代社会で最有力な倫理思想のひとつである功利主義に立ったときに「生存のくじ」がいかに肯定されようとも、わたしたちはこれを直感的に拒否するだろう。
 “われわれが自己所有権テーゼを全面的に廃棄して自分の身体や能力や資質を共有財産とみなすことは論理的には想像できる。しかしそれは実際的に不可能である。自己所有権テーゼはそれほど吹く核人間心理に根をおろしているものだから。そのテーゼを認めないような道徳を強調しようとする試みは、よくて無駄であり、悪ければ人々の協力関係を損なってしまうであろう。”
 自己所有権、自分の体を自分の所有とする考えが、功利主義では正当化しきれず、さらに自分がなんら努力せずに手に入れているものであるにもかかわらず個人差が大きいことから恣意的で不公正な権利だと言われても、それ以上遡りえない直感に支えられた思想だと言える。
  また、仮に自己所有権を否定してしまえば、善意による臓器提供(献血を含む)もできなくなる(現に善意の提供が認められているということは、自己所有が前提とされていると言える)。
 “所有権テーゼは議論の相手が現に持っている信念に訴えかけることによって正当化できる”。

(8)所有の意味と死からの問い
①所有の意味

 所有の意味を確定させずに、「自分の体を所有する、自分の体を処分できる」と上述してきましたが、ここで「所有」の意味をおさえておきます。
 民法206条は「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分する権利を有する」と定めてる。
 つまり、「使用・収益・処分」が所有の基本にあると民法は考えているといえる。
 ただし、206条の文言上にはない、前提の条件が二つある。
 ひとつはそれが法律であることから、他者(社会)の承認があること、もうひとつは所有権が物権であることから排他性をもつこと。
 整理すると、「所有」には「使用・収益・処分」「排他性」「他者の承認」の三つが必要だと考えらる。
 このような「所有」権は法律的・近代的な概念であり、日常的・歴史的にいう「所有」とは異なるとの反論があるが、森村進さんはトニー・オレノの分析を用いて、二つは完全に一致することはないが、核心としては一致しており、通歴史的であると述べる。
 オレノは時代場所を通じて共通する要素として占有・使用・管理・収益・資本・安全・相続の権利、加害防止義務・強制執行の責任財産などだと分析し、森村進さんはこのうち占有・使用・安全への権利が「所有」権の核心的要素であり、「所有」を表す動詞がなくとも、国家による制度的保障がなくとも、成立する普遍性を有する日常的な正義感覚が法的な所有権にも重要な役割を果たしていると述べている。
 これは、民法から整理した三つの要素とも合致する。
 上記のような「所有」の意味からすれば、自己所有(自分の体・命は自分のものだ、自分は自分の命の所有者である)は「所有」で表すことが認められる。
 対して、二つの異議があげられる。
 まず、自分の命を「所有」するとしても処分(売る)することは完全にはできないのではないかという点。
 しかし、この不完全性からの異議を認めると自己所有以外にも「所有」できないものが現れる。たとえば、土地や治水は完全に「処分」することは物理的に不可能である。
 もうひとつには、「所有」には上記の三つの要件以外にも隠れた要件、「所有」する主体は「所有」する客体の外部になくてはならない、という点から。
 たしかに、右手は右手自身を把持することはできない。つまり、物理的に「持つ」ことができない。
 しかし、「所有」とは上述したように物理的に実現している必要はない。むしろ、物理的に実現していないにもかかわらず「収益・処分」ができたり、安全への権利が確保されている点に「所有」権の権利性はあるともいえる。
 したがって、物理的な不現実性を理由とする異議は認められない。
 
 確認しておくと、
 私たちは自分の体・命を占有しており「使用・収益・処分」している(例:体・命を働かせて利益を得て、その利益を自分の体・命に帰属させている)。
 私たちは、「生存のくじ」でみたように自分の体・命に関して「排他性」の要求を持つ。
 私たちは、上記二つのことを他者へ、または社会へ認めさせている。
 よって、私たちは、自分の体・命を「所有」している、自己所有権を有すると言える。

②死から生の「所有」への問い
 “生命や死が当然のごとく「所有格つきの生命・死」として語られるところに、生命や死に対するわれわれのある種の把握のしかたが隠されているのではないか。そしてそれこそが「死の自己決定権」という思想の不動性の謎を解く鍵なのかもしれない。”
 小松美彦(東京海洋大教授・科学史・生命倫理)さんは、死の側から自己所有への疑問を呈します。
 脳死移植法によって移植の場合に脳死を死とすることが選択できること、脳死を死と認めることへの反論が「死の自己決定」という擁護推進側の主張に不思議と歯が立たないのはなぜか。
 その源を探る中で小松美彦さんは“死の死亡への還元”へと辿り着く。
 18世紀ころまで死は単なる個人の生理的変化の不可逆点ではなく、時間的にも現象的にも幅と広がりをもって存在していた。
 しかし「早すぎた埋葬」(まだ生きているのに死んだと誤認されて埋葬される)の恐怖が医学を死の判定の厳密化・探求へと駆り立てた。結果、死が死にゆく個人の体内の生理現象に求められ、得られた死の医学的判定基準が、それまであった死と溶け合い不可分だった逝く者と看取る者達との間の時間や関係を消却してしまった。
 “死者と看取る者との関係のもとに成立する非知覚的な差異化的統一態”である死が“ある一定の状態、ないしある状態からある状態への移行過程を指す知覚的なもの”である死亡へと還元されてしまい、「共鳴する死」が「個人閉塞した死」へと、死者と周囲の人々との「こと」だった死が死者個人内の「もの」であると認識されるようになった。
 1960年代に医療のパターナリズムを批判し、患者個人の権利を奪還するための旗印として持ち出された「自己決定」という概念は、現代医療自体の設定した知的枠組みに基づくものであり、自らの立つ場の批判へ繋がることから根底的な批判とはなりえていない。
 逆に、生命を自分の「もの」とした前提の「自己決定」は、死(そして生)を無人称化し、平板な貧しい状態へと導いてしまう。 

③所有できない「こと」の内在性 
 死が「こと」である(あった)のに、個人の体内での生理現象である死亡へと還元され、あたかも「もの」のような所有対象となったことへの小松美彦さんの疑問。
 確かに「もの」ではないが、「こと」が個人の体内にあることは否定できない。
 共鳴する「こと」に豊かさはあるかもしれないが、だからといって共鳴性(共同性)が死者個人内で生じている生理現象(「こと」)に対して、当の個人に起きる「こと」を優越する根拠とはなりえないと考える。
 つまり、関係性を所有することはできないが、かといって、一方の当事者内の生理現象をきっかけとしている関係において、その関係の優越を理由に当人に主張することは本末転倒させることになり、(8)①で述べた自己所有概念を覆すことはできない。

(9)抵抗と抵抗/快を巡る争い
①快からの抵抗

 “生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんどすべてが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえるご都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立たせるような感覚があるはずである。”
 (8)①で述べたように所分権は所有権の内容を占める重要な要素であることを考えれば、自己所有を認めることは自己決定の基礎であり、内容的には同じことである。
 とすると、自己所有を認める、それが私たちの社会の第一の原理となる考えだとするならば、売春や臓器売買や積極的安楽死などに反対することはできない(それを拒む最終的な正当性がない)。
 私は私の体で労働し、利益を得、生活をしている。身体・生命をどう生きるか決定することで生きている。
 なのに、臓器売買などの身体・生命にかかわる交換や売買には他者の場合でも抵抗感がある。
 所有とそれへの抵抗、この矛盾する二つを一貫させるものがあると考察を重ねた立岩真也(信州大学助教授・社会学)さんは“他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚”に求める。
 他者とは制御できないものであり、他の人間が他者であると同時に、私の生命・身体も私が生産したものでもない・思うままにならない他者である。
 それが第一原理であり、「私の体は私のものだ」という私的所有の発想は、私の身体が私のもとにあるという事実を規範と捉えた信仰にすぎない。
 そして、私の生命・身体については「他者をみとめる」観点から、自己決定を認められる。なぜなら、他者としての私は制御しないことで世界を享受する基盤だからであり、自分(意識)が身体・生命を所有(制御)するからではない。
 
②抵抗と抵抗
 ①で述べた立岩真也さんの考察、つまり、他者という快の源泉が第一としてなくてはならないという考察に対して、(7)②で挙げた森村進さんは“全世界が自分にとって制御可能になってしまったら快楽がなくなるというのは、杞憂の極みである”と反論し、自己所有権への反論として不十分だと退けます。
 この点について、立岩真也さんも、“禁じ手”を使っていることを同意し、その上で、身体所有権とそれに基づく自己決定ではすまない問題(抵抗の存在)があることを、「他者」という言葉を用いて表すほかなかったと述べている。
 つまり、森村進さんはジョン・ハリスの「生存くじ」への抵抗を軸にして人々の内面にある身体所有権の強固さを訴えたのに対して、立岩真也さんは「生存くじ」をもって身体所有の論理的正当性を放棄した上で身体処分への抵抗の存在を「他者」に求めている。両者は何に抵抗感を持つかという次元、これ以上は掘り下げられない場所で争っている(結局何に抵抗があるのか?という素朴な次元での争い)。
 
③存在による所有の分離
 ①で述べたように立岩真也さんも自己決定を認めている。ただ、それが自己所有権から直接にではないという点で森村進さんと異なり、その根拠の違いが結論でも違いを導くことになる。つまり、自己所有権から自己決定権を導けば基本的には排他的・独占的な処分ができるので臓器売買も売春も代理出産もできる(森村進さんは自己所有権を重視すると同時に多元的な価値基準を並存させることを認めるので、これらの無制限を認めてはいない。)のに対して、自己所有権からではなく「他者があること」から自己決定権を認める立岩真也さんの立場からは「自己決定だからよい」とは認められず、「他者があること」に反するような決定の承認はしない方向で制限がかかる(例:生活する金のために臓器を売る、代理出産する。治療費がないから治療を止める)。
 立岩さんの考えは、(8)①でのべた様々な要素の束としてあった所有権の考えからいえば、ひと纏まりだった所有権の要素をバラバラにしたうえで、存在することに必要な限度で認めていくものだと言える。

 続き→自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるために
by sleepless_night | 2006-12-26 21:50 | 自殺
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