“私はクリスマスの夜は必ずミサに行く。乃木坂に近いある女子修道院にクリスマス・イブを送るチャペルがある。
家族だけでなく“キリスト教”に関心のない友人たちも連れて行く。その友人たちが隅の席で困ったような、しかし満更でもない表情をして座っているのを見るとおかしい。 ミサがすむと、その由修道院では修道女たちが熱い紅茶やケーキをご馳走してくれる。 「どうだった」 と無宗教の友人にケーキを食べながら問うと、彼等の何人かは、 「一年に一度ぐらい、こんな夜があっていい」 という意味のことを答える。” 『心の航海図』遠藤周作著(文春文庫) “この国のクリスマス・イブは“ファックの日”。“イブなんだからして当たり前”。この日にSEXしないほうが恥ずかしいという、キリスト教の人からすれば、なんともうらやましい日になっているのでした。” 『女子の生きざま』リリー・フランキー著(新潮OH!文庫) * (1)ファースト・クリスマス “切支丹の夢が覚め切れない日本では兎角に基督教が異端扱ひされて、耶蘇というと舶来の穢多のように毛嫌ひされる。其の中でクリスマスだけは不思議に人気を集めて信者でない方面にまでも流行してきた。パパさんママさんと児供に呼ばせる家庭では聖誕を祝して忙しい歳暮にノンビリした春の魁けを味はせる。…今は片山里の児供迄もクリスマスが待たれてをる。俳句の季語となつたほど日本の生活化して、銀座や日本橋の商店がクリスマスの装飾を年中行事はおろか、郊外の淋しい町の玩具屋の店先にまでクリスマス御進物の建札を見掛ける。夫程クリスマスは年々盛んになりて、教会へ行く者が一人も無い家庭でも聖樹を飾って児供と共に無邪気な一夜を面白く遊ぶ風俗が次第に殖えて来た。” と、明治中期のクリスマスを評論家・内田魯庵は描写した 明治7年に裃姿のサンタクロースを登場させ、初めて日本人がクリスマスを主催してからすぐ、キリスト教会や学校を拠点に、商店街を通じ、クリスマスは日本の年中行事へ浸透した。 (2) ①1% リリー・フランキーさんに指摘されるまでもなく、クリスマスは多くのキリスト教にとってイエス・キリストの誕生を祝う宗教上の祭儀だ。 だが、明治に内田魯庵が言ったように、平成にリリーさんが言うように、そして文化庁も言うように、日本人にキリスト教徒は全国諸宗教団体申告の信者総数でも約1%しかいない。(ただ81年のNHKの宗教意識調査ではキリスト教徒を自認する人は若干多く約2%で、12%が何らかの親しみを感じている) 明治6年(1873年)にキリスト教禁教の高札が撤去されてから、既に140年近くが立とうとし、その間に膨大な人的・物的資源が投じられたのにもかかわらず、キリスト教は「1%の壁」を破れない。 その間、新宗教の中には一団体で公称1千万人の信者を抱えるまでに成長したものまで有る。 ②温暖湿潤気候 キリスト教布教はなぜ失敗したのか。 “キリスト教の土着化をめざすいくつかの方向がすでに明治期に現れ、あるものは孤立におちいり、あるものは埋没に堕するなど、土着化は多難な道程を辿った。政治的には禁圧→黙認→公認という過程の中で土着化の阻止条件は後退したが、他方、文化的には、さまざまな文化機関の発達により教会が西洋の思想と文明の橋頭堡である性格を薄めていくに従い、日本社会一派の文化レヴェルとの落差も縮まり、落差から小慈雨べきエネルギーも乏しくなって、土着化の推進条件はその力を弱めた。こうして、キリスト教の種が落ちた日本の土壌は、土の薄い石地、いばらのふさぐ地であって、所詮、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ良い地ではなかったのではないか、との感を深くせざるを得ない。” 森岡清美(東京教育大名誉教授・社会学)さんは、キリスト教の日本における受容・土着化についてそう述べる。 これは、遠藤周作が中期の代表作『沈黙』で“「たずさえてきた苗はこの日本と呼ぶ泥沼でいつの間にか根も腐っていった。」と棄教した宣教師フェレイラに言わせ、切支丹を取り締まる井上筑前守に“「土の違い、水の違い」”と言わせたもの。初期の作品『白い人』で妻帯した元神父デュランに“「腐った国、黄ばんだ人種」”と呼ばせたもの、そして晩期の代表作『深い川』で大津に“「ぼくはこの国の考え方に疲れました。彼等が手でこね、彼等の心にあうように作った考え方が…東洋人の僕には重いんです」”といわせ、遠藤が作品で一貫して描き・追求してきた、日本の湿潤な土壌と西洋の乾堅な文化(キリスト教)、といった視点と重なる。 日本の「風土」に西洋のキリスト教は育たない。この140年は無駄な努力だったという解釈。 ③歴史と展開 1549年のフランシスコ・ザビエルの来日から約1世紀、中世日本にはキリスト教の世紀があった。 大名の庇護の元で70万の信徒が生まれ、セミナリヨ(神学校)やコレジオ(大神学校)が作られ、日本人司祭が養成された。 1614年の徳川幕府の禁教令から30年後、最後の司祭マンショ小西の死後、日本のキリスト教徒は各地で潜伏し、200年後の宣教師再来日を待つことになった。 1873年のキリスト教禁教の高札撤去以前、1865年にカトリックの司祭プチジャンは隠れキリシタンと出会い、プロテスタントの宣教師バラから日本語教師・矢野元隆は洗礼を受けた。 日本における近代キリスト教の出発点だといえる。 プロテスタントは禁教の高札撤去以前から宣教師を60人投入し、宣教準備に当たらせていた。すでに布教が行われていた中国語のテキストを使い、日本人の協力を得て日本人用の書籍を作成し、言葉を習得し、医療奉仕や教育活動を始めた。 72年には日本人による初のプロテスタント教会も生まれ、禁教下でも信者が増加した。 73年後も、キリスト教は公認されたわけではなく、1884年まで神仏以外の葬儀が禁じられ(自葬禁止)、1899年の内務省令まで宗教としても公認されていなかった。公認後も国家神道の整備により制約を受け、結局、1945年の敗戦後までキリスト教は政治的に抑圧されていた。 壬申戸籍から戸籍には所属神社が記載され、1906年には神社へ公費から供進され、生徒の神社強制参拝が行われるようになる。 内村鑑三の不敬事件に代表されるようなキリスト教信者の教員の辞職や免職や1899年の訓令12号でキリスト教主義の学校から徴兵猶予と上級学校関進学の特権が剥奪された。 文化的には、講演会の妨害など、反論本の配布が仏教側から行われたり、祭りのときに教会や信徒の家が壊されたりした。特に真宗の強い北陸ではキリスト教排除運動が行われ、門徒が地域から布教を締め出す盟約を結んだり、法的根拠なく埋葬を拒んだりが行われた。 その政治的・文化的逆風のなかプロテスタントは当初、教派の垣根を越えて布教に当たろうと超教派団体・日本基督公会が設立された。だが、禁教高札撤去後、各教派は各自の宣教会へと動き、50個の公会は大きく3つに分かれていった。 明治末までにプロテスタント信徒数は全体として8万人を、教会は600を超えた。発展は単調ではなく、18 72年ごろに少数増加軌道に乗り、83年~89年ごろに横浜発の大リバイバルにより爆発的に増加し、90年ごろからリバイバルの反動と初期指導者の死、反欧化主義・国粋主義の中で停滞し、93年ごろには甚だしい停滞、1899年ごろからキリスト教圧迫に対抗してリバイバル運動が起き再び急増し、沈静安定期へと向かった。(カトリックは明治末までに4万5千、正教は2万5千まで増加) 昭和初期にはプロテスタント約20万、カトリック9万まで増加した。 1930年代末、戦争へ突入するなか、キリスト教は成長を止められる。 1939年宗教団体法により40年にプロテスタント諸派は明治の初めに実現し損ねた超教派の統一組織・日本基督教団が結成される。明治神宮を参拝し、礼拝で宮城遥拝し、君が代を歌った。1月25日のクリスマスは、大正天皇の誕生日・天長節のために、他日に移して祝われた。 戦後、GHQの協力もあり、宣教が再び力を入れられ、急増、1960年までにカトリック32万、プロテスタント40万まで増加。 そして、「1%の壁」で現在まで立ち止まっている。 信徒層も一律ではなく、初期は殆どが没落士族であり、僧侶や上昇的豊商も加わった。明治中期から社会解体が進み、小資本家や豊農などのブルジョアが加わり、やがて都市のホワイトカラーが加わっていった。信徒層の変化にかかわらず、キリスト教は一貫して新しい文化への関心が高い知識人によって支えられてきた。 ④メイド・イン・ジャパン “キリスト教そのものは受け入れても、教えの運び手は拒絶したということ” “土着運動の信者にとって、キリスト教はいまや日本の宗教なのである。” マーク・マリンズ(上智大教授・宗教社会学)は、「主流派」キリスト教やその研究者たちから無視されてきたカリスマ的準教祖に指導され、日本文化と聖書の双方の多元性の中から生まれた小規模なキリスト教土着運動・教団の分析を通じて日本人のキリスト教に対する姿勢をこう述べる。 “独立したキリスト教運動の創始者にとって、宣教師が移植した伝統は利用価値のある情報源ではあっても絶対的真理とはほど遠いものだった。” 近代日本キリスト教の草分けの一人内村鑑三は清教徒主義とクエーカーの影響を受けながらも、日本在来の伝統とキリスト教を断絶したものとせず「過去のキリスト教化」を通じ西洋人宣教師と対立し、士族階級の倫理観をキリスト教に適用し、宣教師の教会を中心とした布教形態ではなく、講堂などでの非聖職者による講義・雑誌・学術研究での布教という無教会運動を創始した。 横浜バンドの宣教師から洗礼を受けた村松介石は儒教や新神学や高等批判の影響を受け原罪や三位一体や処女懐胎などを否定した万教帰一の立場にたつ道会を明治末期に開いた、メソジスト派の教会で受洗しドイツ改革派の東北学院で教育を受けた河合信水も儒仏の教えをキリスト教に統合することで豊かさを増すと考え、研究と瞑想の末に、救済者としてのキリストを信じるのみならずその遺志を実践するための修行の必要を訴え、昭和初期に郡是製糸株式会社(現:グンゼ株式会社)敷地内に基督心宗教団を開き、教育部長を務めた。 第一期土着運動の主体は士族的出身者であり、儒教的な知識と自己修養をキリスト教に持ち込み土着化させた。 第二期土着運動は第一期と大きく異なる。 メソジスト教会の牧師の次男に生まれた村井じゅん(「屯」のした二「二」)は青山学院中退後自殺を試みたときに聖霊の存在を感じ異言を発し、キリスト教宣教に向かい、天啓史観とペンテコステ(個々聖霊の働きを強調し、その証拠としての異言や奇跡・癒しを重視するキリスト教)的、現世利益的な特徴、聖職者と信徒の役割分離した組織を持つイエス之御霊教会を開いた。ホーリネス教会の宣教師だった大槻武二は満州で「キリストと出会い」、「御名を呼ぶ」ことで生ける神と出会い奇跡と神癒を得られるとする信仰、イスラエル再生のために祈りと援助活動、聖職者育成にも力をいれる聖イエス会を開いた。無教会運動に影響をうけるも、主知主義的な姿勢に不満をもった手島郁郎はそのペンテコステ版ともいえる原始復員運動・キリストの幕屋を開き、原始キリスト教再興の観点からユダヤ教・イスラエルの伝統を重視し、同時に日本文化とのつながりをもとめ記紀なども高く評価し国家主義的傾向をもった。 第二期土着運動は、西洋の教会・行政組織に類似した形態を採る一方、主流教派が軽視した日本人の民族宗教的な関心からの聖書を解釈を取り入れ、先祖崇拝・生者死者との相互影響を配慮した(死者の救済など)。 これら土着化がなされた運動・教団は、ほとんど衰退してしまい、“日本においてきり巣今日への反応がみられないことと、キリスト教が土着化に失敗したことに関連があるという説明は、観察された事実と一致しない”し、“土着化が成長に対する「治療法」”であるとも言えない。 一方でキリスト教布教が「成功」した韓国の事例をみると、土着化した韓国キリスト教は日本の第二期土着化運動と同様にペンテコステ派で、“キリスト教化した坐堂の宗教”といわれる。 同じように、仏教儒教の伝統を持ちシャーマニズムが強く残る国でキリスト教が成否を分けたのには、韓国にとってキリスト教は植民地支配の抵抗・解放者として受け入れられ、日本にとってキリスト教は西洋というアイデンティティを脅かすものと結びついて受け入れられるという“どんな布教戦略家の手にも負えない状況”が隠れた次元としてあったのではないかと指摘する。 (3)余暇の消費 “人間が本当の「余暇」を持つことができるのは、彼自身の力をふりしぼることによってではなく、むしろ恵みによって、いわば忘我の状態においてである、といいましたが、秘蹟が人間に対して及ぼす影響力がまさにそれです。 人々はまさしく秘蹟によって「魅了され、魂を奪われて」神へと心をささげるのです。このことはクリスマスのミサのなかの一説で明らかに言い表されています。「私たちはいまこの目で神をうち眺めることができました。願わくは私たちが目に見えないものを愛することできるように高めてください」” ヨゼフ・ピーパー(ミュンスター大名誉教授・哲学的人間学)は現代と古代ギリシア・中世スコラ学の労働と余暇の概念を通じて、現代社会は労働(理性)に支配され余暇を喪失し、それが人間の尊厳や安らぎを奪っていると訴える。 これは通俗的な「余裕有る暮らし」を訴えるものではない。 ピーパーは古代・中世の哲学で、認識が、探求・比較・証明などの緊張を伴う「理性」とその基礎の上で直感的受動的な観察を得る「知性」、訓練によって断片的な認識を得る働きとそれを超えて全体を認識する働き、に分かれており、近現代は労働(=「理性」)を偏重し人々から真の自由(それ自体に目的を含む完全な自由)を奪っている。そして、労働(=「理性」)偏重は、苦労・困難を自己目的化して、休息までも労働への回復に位置づけられ、安らぎを奪っていると考えている。 “人間が彼固有の尊厳にふさわしい生き方を放棄してしまうこと、それが「怠惰」の意味でした。言い換えると、それは神の意思に従った生き方をしないこと、人間が真実の、そして究極的な意味での自分自身であろうとしない、ということです。” 現代人が労働の支配から余暇を守り・実現するためには、ヒューマニズムのみでは不十分であり、余暇の本質である解放・一体感による安らぎ・肯定感をもたらす祝祭、それに不可避に含まれる礼拝を持つことだとピーパーは述べている。 遠藤周作は、冒頭の引用の続きでこう述べている。 “「こんな夜」というのはどういう意味だろう。 推定するに毎日、生活ために働かねばならぬ我々が、生活を超えた「心を清められたい」願望を充たしてくれるような夜のことを言うのだろう。(中略)そういう日が人間に一年に一日ぐらいあっていいのではないか。それは別にキリスト教でなくてもいい。昔の日本人にとって元旦のような日が。”(遠藤は「生活」と「人生」を分けて考えている。) ピーパーも遠藤も、宗教学で言うところの世俗化を嘆き、聖性の必要性を述べているが、その宗教(社会)学では「近代=世俗化の進展」という予想(P・バーガー)は既に外れたものとされている。 島薗進(東大院教授・宗教学)さんはそれを“社会の個人化と、個人の宗教化”と表現し、宗教(性・的なもの)は教団といった組織を通じてではなく、個人化した形で現れていると指摘する。(スピリチュアリティ、新霊性運動) (4)ラブホのチカラ “裏通りにこっそりとあるならともかく、真昼の光を浴びて町の中に立ち並んで言うラブホテル群や、堂々と幹線道路の脇に並びサーチライトでその存在を誇示し、盛り場の夜をネオンサインで彩っている。(中略)自分たちのセクシャルな行為については、日常生活では切り離して考えたいと思う一方で、これほどストレートにセックスと結びついたハコモノが日常的な風景の中に点在している(場所によっては群生している)ことを、意識しないでいるのはとても不思議なことだ。” 鈴木由加里(東洋大非常勤講師・現代文化論)さんはラブホテルという日本独特の存在を通じて日本人のセクシュアリティに働く力を“射精重視の風潮やアダルトビデオなどの影響を受けた定式化された性行為を、恋愛の公式にあてはめてしまうことに、疑問を抱かせな”くし“<わたしたち>にそこで演じるべき恋愛役割や行うべき行為を割り振ってくれる”ものと分析する。 ラブホテルは江戸時代の出会い茶屋、料理屋、明治の待合(娼婦と性交場所)、戦後の連れ込み(温泉マーク)を経て昭和30年代に郊外のモーテル・都心のアベックホテルから昭和45年以降(1970年代)に確立したもので、昭和55年以降(80年代)のディズニーランドの影響を受け現代のラブホテル観(過剰な概観装飾・鏡・回転ベット)を生み出した。 80年代は、射精産業やAVとともに「物語消費」に適応する身体を生み出し、その「物語」の典型が恋愛だった。そして、「物語」だから初体験をラブホテルですることに抵抗感がある。 (5)クリスマスの宿題 “新霊性文化が個人主義的な考え方を尊んで共同体の形成を好まず、商業主義や消費主義に適合的であることはたしかである。” 70年代以降のラブホテル確立と新霊性運動は一致する(恋愛と宗教という「物語消費」)。 クリスマスがラブラブな(運命の)彼・彼女とのイベントだと(まで)認識するなら、それはクリスマスのラブホテル版といってもよい。運命とまでいかずとも、大切な・特別な日として利用するならば、そう言えるだろう。 (“一年三六五日が恋人たちのためのクリスマスというコンセプトで作られているラブホテルも存在している”) だが、(1)の内田魯庵が描いた明治のクリスマスはいったい何なのだろう。 祭りには聖俗交歓・公式的な祭儀と聖俗融合・非公式な祝祭があり、時間がたつにつれ後者が強調されて残る。日本の祭りは大きく、先祖祭祀・農耕儀礼に別れ年中行事として続いてきたが、特に先祖祭祀については(2)④で述べたように日本人の宗教にたいする姿勢として強く存在してキリスト教土着化に影響を与えてきた。 ただ、明治・戦後の人口移動は農業人口を減少させ、都市部に移った人々を先祖(父系の代々の集合)から切り離したことで、日本の年中行事を大きく変質させたことも確か(先祖観の変化:父系代々の集合→双系の曽・祖・父母)だ。 しかし、移植文化は移植先とまったく異質・逸脱したものならば、移植・土着化ができないこともキリスト教土着化からも示されている。 とするなら、日本はクリスマスを受け入れる素地を持っていたと考えられる。 これがいったい何なのか、今晩暇な人は考えて、わかったら教えてください。 キリスト教徒の人々へ Mrry Christmas. それ以外の人々へ、Safe sex. 引用・参照) 『日本の近代社会とキリスト教』森岡清美著(評論社) 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』マーク・R・マリンズ著 高橋恵訳 (トランス・ビュー) 『余暇と祝祭』ヨゼフ・ピーパー著 稲垣良典訳(講談社学術文庫) 『ラブホテルの力』鈴木由加里著(廣済堂出版) 『スピリチュアリティの興隆』島薗進著(岩波書店)
by sleepless_night
| 2007-12-24 10:15
| 宗教
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