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「心の闇」も占うのか?

 マス・メディアもそれが常套句だからなんとなく使っているだけで、本当に「闇」だなんて思っていないのかもしれません。
 近年の不透明な動機、それまでの重大刑事事件と比べて動機が確かに信じられないくらいあっけないものに思えることは確かで、その表された文面通りの動機を信じることができないので、「心の闇」と言う常套句でとりあえずしのごうと言う意図があるように思えます。

 分析心理学の創始者、ユングは“私はパラノイア的観念や幻覚が意味の兆しを含んでいることを理解した。ある人格、生活史、希望や欲望のパターンが精神病者の背後に横たわっている。もし我々がそれを理解しないのなら、我々の方が間違っている。”(※)と述べています。ユングやフロイトといった、臨床心理の流れから私が感じるのは、人間の合理性です。
 一見不合理にしか見えない行為にも合理性があると考えられるのです。例えば、以前に述べたコンプレックスに影響をされた行為でも、外から判断される行為の目的を基準に考えれば不合理な行為ですが、内面にある行為の目的を基準に考えれば合理的だと解釈できますし、コンプレックスの解消がコンプレックスの意識化による認知の訂正という合理性に基づくものであるのも人間の合理性のなせる業に思えます。(※2)
 
 そう考えると、「心の闇」は単に、「闇」だと思っている側の方が“間違っている”のではないでしょうか。 
合理性は、それだけでは駆動原理となりません。常に何に向けての合理性かでしかないと考えられます。
 「心の闇」と表現され、不可解だと言われる動機も、合理性の視点を変えれば合理的だと評価できます。
 今回の高校生の事件でも、同級生との口論・日常のストレス⇒同級生の殺害、と言うのは非常に(そのあまりの単純さから受け入れがたいほど)合理的な行動です。
 何故、かつてはこの様な事件が無かったのか?(※3)
 それはかつての合理性が向けられていた、社会に暗黙裡に共有されてきた合理性の向かう先と現在の若者(特に十代)が無意識的に持つ合理性の向けられるものが違うからだと、私は考えます。 
かつての合理性、これらの事件を「心の闇」と言わしめる合理性は、殺人をすると社会から排除される、社会で排除されると、社会から受けると感じるメリットが受けられなくなるという暗黙裡の前提(合理性の向かう先)に向けられていたのに、現在はそうではなくなってきている、その暗黙裡の前提が変化していると考えられのです。
 正確には、合理性がその合理性によって解体されはじめたということだと考えます。
 
 19世紀の社会学者マックス・ウェーバーは、伝統主義的な幸福感からは不合理である(生活するのに不要ほどの利益を作るのに余計な労働をすることは苦痛であり、苦痛な行動をとることは不合理)にもかかわらず、近代資本主義が利潤の合理的な追求による蓄財と富の投資による拡大と言う態度を持ったことで発展できたのは、カルヴィニズムの予定説(誰が神に救われるかは予め決まっているが、人間はそれを知ることはできず、行動とその結果によって自分が救われるかの確信を持つようにするしかない)に基づくエートス(倫理)を持てたからであり、その合理化は進展するに従って合理化を支えたエートスの源泉である宗教から世俗化し、独立したと考えました。(※4)
 つまり、合理化はその根拠を合理化の進展によって無化してしまうということを意味すると考えられます。
 そうだとしたら、合理化はその合理化が向かった先に行く着くと、向かう先を失い、逆にそれまでに築いてきたものの前提を解体する、それまでの基準からは不合理な方へと向かいます。
 その合理化による合理性の解体が、この近年の不可解とされる事件が意味するものではないでしょうか。

 以前人生の意味と目的で、人生の意味に関する二つの用法について述べました(※5)が、その叙述を敷衍してみますと、用法②の「意味」「目的」を持つことが行き詰ってしまったように感じるということです。
 そこで、用法①の「意味」「目的」という超人間的・超自然的な存在や法則によって保証された(ように見える)「意味」「目的」を求めている人々がかなり目立ってきているように思えます。
 かつてはノリやネタであったはずの占いが社会の中で無視できないほどに主流化しており、マス・メディアで現実を侵食しています(占い師の発言が現実に当たっているかどうかではなく、占い師の発言によって現実を変化させてしまっている。例えば、芸能人の改名騒動や朝の報道番組での占いコーナー。確かに、「心霊」「霊界」「超能力」ブームはありましたが、ここまで現実を変化させてしまう力を持つようになった、報道番組にまで浸潤するようになったのは近年のことです。血液型占いについて⇒血液型占いに反論するとモテないのか? part2)。

 少年の「心の闇」は、社会の最も明るい光の当たっているとされる場所にも見て取れる、光が作り出した陰が「闇」となるのではなく、光が無化されてしまっているということです
 この「闇」の合理性がどこへ向かうかは、見えてきません。
 北朝鮮が暴発が生じたり、狭量なナショナリズムと連動すればかなり暴力的で危険な方向へ向かうかもしれません。若しくは、大きな暴力的な事変がなければ、今までの合理性が作り出した仕組みを激化させて、「闇」の合理性がどうしようと、仕組みの中の致命的な部分だけを守って、それによって利益だけは守ろうとするかもしれません。つまり、監視技術の徹底利用とそれによる徹底した違法行為の摘発と重罰化です。
 「闇」が新たに方向を定めることで、その持つ合理性の力を発揮させて光とならなければ、この超監視・重罰化へと現在の合理性が向かう可能性はかなりあるでしょう。

※)『ユング自伝Ⅰ』C・G・ユング著/A・ヤッフェ編/河合隼雄・藤縄昭・井出淑子訳(みすず書房)
※2)以前も述べましたように、これは一つの仮説であり、それに対する私の印象です。
ある理論が現実を正しく表したものなのか、それとも現実をある理論で分析したからそう見 えるのか(理論負荷性)は明確には分かりません。
※3)激増する少年事件などと言われますが、警察統計を見る限りここ十年で大きな変化をしていません。 http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen21/syonenhikoh16.pdf
※4)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』M・ウェーバー著/大塚久雄訳 (岩波文庫)
※5)用法①:超人間的・超自然的存在や法則(神や仏や宇宙の法則など)によって示された人生の「意味」「目的」。/ 用法②:自分が意図した結果へのコントロール力や影響力を持てた時に感じる、人生の「意味」「目的」。例え仕事を受注する「目的」で努力して資料を作りプレゼンの準備をしたら受注成功したという時に「意味」があったと感じること。
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by sleepless_night | 2005-07-02 10:46 | メディア
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