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マザー・テレサはワタミ・渡邉美樹を「偽善者」と呼んだか?

“自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である。”
 渡邉美樹さんを批判すにのに用いられた、マザー・テレサが行ったと言われる言葉をめぐってブログTEST マザーテレサの「名言」と伝言ゲームでは、その検証がなされ、マザーの言葉とそれを引用した者の意見とがコピペを繰り返すうちに融合したものだと結論されている。

 私も、上記マザーのものと言われる発言には違和感を感じたので、とりあえず、実際にマザーが行ったことで関係しそうな部分を手元の資料の範囲で挙げておく。

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 ぼくは、マザーに、日本人がマザーを支援する場合どうしたらいいのか、と聞いたことがあった。マザーは答えた。
 「<マザー・テレサ国際協労者協会>(The International Association of Co-Workers of Mother Teresa)という組織に入ってくれればいいわ。本部はイギリスにあるのよ。協会に入るには、私がいつもいっているように、もっとも不幸な人々のために何かをしたいという意志を表明してくれるだけで充分なのよ」
 「カトリック信者でないとダメですか」とぼく。
 「オキ、私はね、どんな人でも、もっとも貧しい人々のために何かをしたいという愛の心を持っている人なら歓迎しますよ。プロテスタントでも回教徒でも、ユダヤの人でもヒンズー教徒でも、オキの国の仏教とでもね。隣人に奉仕するのは献身と祈りと会いによってですよ」
 マザーは、深いシワを刻んだ口もとに微笑をうかべ、身ぶり手ぶりをまじえてたのしそうに<愛>のあらわしかたをぼくに教えてくれる。
 「私はね、人間的なあつかいをうけていない人たち、社会から拒絶され、きらわれ、軽蔑されている人たち、この世でもっともひどい病気に苦しんでいる人たちのもとにいかなければならないのよ。でもね、オキ。あなたたちはもっと身近なことからはじめたらどうかしら。病院に入院している患者に花をもっていってあげるとか、年をとった人のために窓を拭いたり洗濯をしてあげるとか、ね。浮浪者のために社会保障の用紙に記入する手助けをするのだって、目の不自由な人のために手紙を書いてあげることだって、とても立派な愛の表現なのよ」
 『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘 著(講談社文庫)p169-170より

 「いや、日本にも、いつもマザーが口癖のようにいわれている、繁栄のなかの貧困がありますよ。老人の孤独な死とか…」
 「それじゃあオキ、あなたたちがまず、そういう貧しい人たちを愛することですね。自分の実のまわりでできることはないか、よく考えてみるんですね」
 同著p231より


 神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛をまわりに放ちながら生きられるようになるのです。愛は過程からはじまると、私は常々言っています。家族が最初で、それからあなたの町へと広がっていくものなのです。遠くにいる人々を愛するのはたやすいことですが、一つ屋根の下に同居したり、ごく近くに暮らしている人を愛することは、たやすいことだとはいえません。私はあまりおおげさなことwをするのには賛成しかねます―愛は個人からはじまるものだと思うのです。だれかを愛するようになるためには、あなたはその人と接し、ちかづかなければなりません。だれもが愛を必要としています。だれもがその存在を必要とされており、神にとって重要な存在であることを知るべきです。
 『マザー・テレサ語る』ルシンダ・ヴァーディ編 猪熊弘子訳(早川書房)p69より

 もし富を得たなら、幸福になることは、より難しくなるだろう、と。なぜなら、富を得ると、神を見つめることが難しくなるからです。富を得ると、他に考えることがおおくなりすぎてしまうからです。しかし、もし神があなたに富と言う贈り物をされたなら、浪費したりせず、それを神の御意志にしたがって使いなさい―他人を助けたり、他人を助けたり、貧しい人々を援助したり、仕事を作って他の人々の仕事を与えなさい。食べ物や家、尊厳、自由、健康、教育といったものはすべて神の贈り物なのです。ですから、私たちは自分よりも少しこういったものに欠けているほかの人々を助けてあげなければなりません。
 同著p164

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上記の引用から、またマザーテレサの元には世界中からボランティアが来て、それを受け入れてきたこと、さらにはマザーテレサの組織が世界中で活動していることからわかるように、マザーが自国ではなく外国で援助しようとすることを「偽善」と呼ぶことは考えにくい。
 ただし、マザーは常に身近なところから愛を広めることを重視していたことは確かだと言える。

 渡邉美樹さんの経営する居酒屋チェーン店・ワタミに勤務した若い女性が過労自殺に追い込まれたこと、その労働環境の問題点や自身の責任に対する渡辺さんの一連の発言から、私は以下のマザーの言葉を思い出した。



 「健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。でもね、飢えた人、貧しい人は、にぎりあった手、みつめあう視線に、ほんとうにいいたいことをこめるのよ。(略)」
  『マザーテレサ あふれる愛』p29より


 大事なのは、思いやりを持って行動することです。能率よく働くことができて、誇るに足る仕事ができるのは、自分だけだと思ってはいけません。そんな風に思っていると、自分と同じ天分に恵まれていないかもしれない他人に対して、思いやりに欠けた、利己的な厳しい評価を持ってしまいます。あなたがたは、自分たちの最善を尽くせばよいのです。そして、他人もまた、それぞれに最善を尽くしているのだと信じることです。
 『マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り』ベッキー・ベネネイト著 
  アンセルモ・マタイス/奥谷俊 訳(主婦の友社)p23より




  マザー・テレサは“「私がもし、社会福祉や事前のために活動するのだったら、しあわせだった家もすてなかってしょうし、両親とも別れなかったでしょう。私は神にささげた身ですから、いま私がしていることがヒューマニズムでもなんでもないんですよ。ごく当たり前のことなんですよ」”と言うように自身の宗教行為として活動してきたので、彼女の言葉を社会貢献活動をしようとする一般人に適用するのはどうかと思う部分もある。

 しかし、渡邊美樹さんの「経営」は宗教という観点から言って、カルトやマインドコントロールではないかという疑問や批判は向けられるべきなのではないかと私は思うし。どうして女性芸能人と占い師の関係でこれらの言葉が使われるのに渡邊さんの居酒屋チェーンには使われないのかは疑問を感じる。

 もしマザー・テレサが従業員を自殺に追い込む企業の経営者を何と表現するかと聞かれたら、「偽善者」ではなく「悪魔」とでも言うのではないだろうか。
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by sleepless_night | 2012-02-23 20:25
政治家が政治の場で政治学用語を... >>