一票では、政治は変わらない。

 投票所に行って、一票を投じる。
 その一票では、政治は変わりません。
 面倒だったり、他の予定があったり、何となく興味がなかったりして、投票に行かなくても、その一票では、選挙結果は変わりません。
 だから、投票に行かなくたっていいのです。

 一億人以上の有権者の中の一票に「意味」を感じることが出来ないのは、とても合理的な感想です。

 無「意味」なことをしないのは当然です。

 でも、その無「意味」さを感じた人は、何を望んでいるのでしょう。
 どうだったら、「意味」があると感じられるのでしょう。

 自分の一票で、どこかの政党に政権を取らせること?
 自分の一票で、候補者の誰かを当選させること?
 自分の一票で、政治を変えること?

 一票を投じること、一票しか投じられないこと。
 その一票が無「意味」だと感じた時、人は一人の人間以上であることを望んでいるのです。
 一人の人間である、一人の人間でしかあれないことに我慢できないでいるのです。

 無「意味」な一票を投じることで、無数の人間の中の無力な一人であること認めなくてはならない。
 面倒で、興味がなくて、他に用事があるかもしれない時、苦い思いをしに行くなど、そっちの方がおかしいでしょう。

 
 それなら、なぜこんな仕組みが作られたのか。
 なぜ、こんな仕組みが過去の人々によって選ばれたのか。

 それは、私達が結果を負わされるからです。
 何かをしても、何かをしなくても、必ず、結果を負わされます。
 為政者が、何をしようと、その結果は支配される側が必ず負わされます。
 失敗した為政者がギロチンにかけられようとも、火あぶりにされようとも、磔にされても、泣いて謝っても、切腹しても、為政者の行った結果を負うのは民衆です。
 結果を負うことが逃れられないから、せめて、その結果を作り出すことに参加する権利を持つことを過去の人々は望み、得ようと戦ったのです。
 つまり、納得したかったのです。
 参加することのなかったことによって、結果を負わされることがないように
 一人一人の人間に、その権利が与えられるように。
 一票を投じることで納得できなければ、選ばれる立場になれるように。

 もし、為政者が何をしようと、どんな結果になろうと、その結果を負うことに納得できるなら、一票を入れに行かなければいい。
 一票を入れるだけで納得できるなら、選ばれる立場になろうとしないことと同じように。

 
 思いつきでも、寝ずに考えても、候補者の名前を知らなくても、政党の政策を熟知していても、それぞれに過去から与えられた権利があり、その権利をどうするかは委ねられている。

 一人一人が納得できるように。







補足:投票しただけで満足で、それで自分が責任を果たしているかのような人を見ることがあります。しかし、私は単に投票しただけで、為すべきことをしたと言わんばかりに無邪気に政治を語るべきではないと思っています。正確には、語っている底に「引け目」を持って語るべきだと思います(だからと言って、議員の側が開き直ったりすることは許されません。選挙民が批判することは自由・権利であり、議員が批判されることは義務だからです)。なぜなら、私達は被選挙権を持っているからです。カバンも看板も地盤もないと圧倒的に不利ですが、現実に権利を与えられていることは間違いありません。ですから、本当に政治に不満があるなら、自分が議員になればいいのです。「それは・・」と言うなら、その人はその程度だと言うことです。もちろん、私もその程度の一人です。だから、その程度の人間が出来ること、納得できることはしようと思っています。

 
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by sleepless_night | 2005-09-10 15:35 | メディア
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