個人的な総括。

 元はと言えば、選挙におけるメディアの問題について触れたことだったのですが、そのままズルズルと引きずってしまいました。
 なので、解毒のための総括として以下を書きました。

 メモのような形式ですので、味気ない文章です。

 まず、投票動機は人によって様々であり、何を重点に、どの位の理解の深度で投票したかも人それぞれであることは言うまでもない。

 そこで、選挙期間中に記した、『民主党は日本をあきらめてはいかが?』で示した、認知的不協和の観点から、選挙の意義をまとめてみる。

 まず、簡単に振り返ってみると。

 認知的不協和とは二つの認知が不一致・矛盾によって両立しない状態を指し、人間はこれを解消しようとする傾向があると言うのが認知的不協和理論の示す内容。
 そしてこの理論を実際に応用するために重要なことはコミットメントであること。
 つまり、コミット(結果形成に参与させること)によって、認知の不協和を明確に意識させることが必要になる。

 私見から考えると、小泉さんの戦略は有権者に認知的不協和を生じさせる戦略。
 つまり
 認知A:郵政民営化を持論とする小泉を支持して首相にした。
 認知B:郵政で解散した小泉を支持しない。
 この認知ABは両立しない上、認知Aについては有権者が重要なコミットをした。
 特に、“約束”や同じ写真を使うことでこのコミットメントの記憶を喚起させた。
 これによって、投票動機に一定の影響を及ぼすことができると考えられる。

 実際にどの程度効果があったかは、もちろん不明。

 しかし、今回の小泉自民党の戦略は、郵政というシングル・イシューの賛否という非常に単純で明確な意思を求めた(それ以外を許さなかった)点にあったことは間違いない。

 この戦略については、メディアを含めて評価は高い(好ましいと評価)とは言えない。
 やり方(戦略)について、容れなさや反発を感じる人も少なからずいた。

 だが、今回の戦略:シングル・イシューの明確な二項対立図式の設定を強く否定できない、メリットがある為に否定して小泉戦略を全否定するべきとは言い切れない点があり、それは少なからず有権者の自民への投票動機に結びついていると考えられる。

 メリット、全否定を拒ませる要因とは、従来の選挙方式の弊害の排除
 つまり、小選挙区制が導入されたのは以下の中選挙区制の弊害を打破するためであったのに、小選挙区制でかえって激化してしまったという弊害を除去する効果が小泉戦略にはあったこと。
 弊害とは
・日本の政党は政党が中心ではなく議員個人が中心であり、議員の互助組織的な色彩が強かったために政党の政策合意が不鮮明だったこと。
・小選挙区制によって政党の力を強くし、政策合意に重点を置くようにしようとしたが、反対に議員個人のネットワークによる選挙が激化して、かえって政党の政策が弱められてしまったこと。そして、これは政党によって候補者が立てられると言うよりも、ネットワーク(後援会)を個人的に形成できる個人が政党の候補者として取り込められてきた日本の選挙のあり方に由来する。
・もともと深刻な社会対立がない日本で後援会を個人的に作るためには、広く無限定なり益集団を取り込まなくてはならず、明確な政策が出せずに人柄による選挙になってしまったこと。そして、議員の投票行動が有権者の投票行動に大きな影響を与えなかった。(今でも、議員の投票行動を公報する媒体がない)
 
 小泉戦略は、郵政民営化法案と言う極めて明確な法案の賛否による候補者選別、それに漏れた人間を容赦なく切り捨て、選挙区に何の縁(個人的ネットワーク)もない人間を投入したことで、この上記の弊害を排除する(少なくとも、そうしたポーズは国民に受け入れられた)メリットがあったと考えられる。

 だからこそ、小泉戦略が全否定できなかった
 有権者も、小泉郵政民営化案に賛成だとは言い切れないにもかかわらず、投票したほうがいいように感じた。(このくらいラディカルな手法をとらないと、変えられないだろうという実感から、許容できた)
 
 しかし、同時に小泉自民党への投票をさせなかったデメリットは何か
 それが、戦略によって目を向けさせられなかった法案の内容

 郵政民営化の目標は財投改革であったはず
 つまり、特殊法人に郵貯・簡保・年金の膨大な資金が旧大蔵省によって自由に突っ込まれては不良債権化するという、国民の資産が非民主的な決定で損なわれることを防ぐ点にあった。
 しかし、2001年にこの仕組みは変わっている。
 以前は、[郵貯・簡保・年金⇒旧大蔵省運用部⇒特殊法人]だった
 現在は、特殊法人は独自に債権を発行してそれを市場で売ることで資金を得る仕組みに変わっている。つまり、構造的には郵貯・簡保・年金の資金は直接に特殊法人に流れないことになっている。
 ところが、特殊法人を支えるのに特殊法人自体が発行する債券だけでは足りずに、国からも資金を入れられている。それが、財投債という国債によってなされている。財投債は年間40兆円発行されている。そして、その国債を買っているのが郵貯・簡保・年金。
 つまり、[郵貯・簡保・年金⇒国債⇒特殊法人]に見かけが変っただけ
 これの流れを郵政民営化で変えることはできそうもない
 理由は二つ。
 民間会社(十年後に郵貯・簡保は完全民営化)になっても、国債を引き受けなくては既に保有している国債の価値を落としてしまう上、兆単位の資金運用先も国債以外に簡単に見つけられない。民間会社であるために、国がその運用を口出しできないため、かえって問題の解決を遠ざける。
 また、根本である特殊法人があり、そこに必要な資金が特殊法人自体で賄えない、特殊法人という天下り先の必要性がある限り、国債発行は止まらない。
 おまけに、株の買い戻しを認めているので、巨大な金融・流通・保険会社という私的独占を生み、かって健全な市場機能を阻害する可能性まである。

 手段と目的とは常に相関関係にある。
 目的が正しければ正しいほど、許される手段はリスクが高くても許容される。
 例えば、おぼれている人を見つけて助けようとした時、自分にロープも船もなければ、その近くにあったり、持ったりしている人から奪うことも許される。
 目的=人命救助と手段=窃盗との間のバランシングの結果、目的の価値が手段の不当さを補う関係が成立している。

 選挙とは、その目的を合意するための手段
 そこで、不当な手法を使うことはかなりの問題がある。
 しかし、シングル・イシューの明確で単純な賛否を設定する以外で、小選挙区制の目的を実効させることが可能かと言えは、今までの状況から考えて、極めて困難であると言わざる得ない。
 したがって、小泉戦略は必ずしも否定されるものではなかった。 
 ところが、その戦略を用いて果たそうとして当の目的たる政策の内容があまりにも穴がありすぎる。言葉の指す内容と、実際の中身が差がありすぎるし、補完的に具体的な法案がなければ有害な面ばかりが表に現れてしまう。
 それを今回主張すると、小泉戦略による二項対立図式に当てはめられてしまう上、本当に既得権益保守の為に反対する人間に誤ったメッセージを送ってしまいかねない。
 即ち、小泉のような人間が出てきても、その時だけうまく使って票を取り、肝心な時になったら潰せば済むということを学習させてしまう。
 また、補完的な政策が採られること可能性もある(一年後に小泉さんが降りるので、可能性は非常に低い)。

 結局、小泉戦略のような二項対立図式に持ち込まないと政策による選択が実現できないが、同時に、その法案自体に問題多いと、政策論を根拠にして法案に反対することも二項対立図式によって阻まれ、法案による選挙という小選挙区制の目的(二項対立を持ち込んだ目的)をかえって害してしまったと言える。

 小泉自民圧勝という結果をどう捉えるにせよ、この過程は通らなくてはならない道なのかもしれなない。
 それは、市場主義の本当の痛みを国民に理解させると言う点もさることながら、具体的法案を備えた政策と投票行動による議員の選択と言うことがどれ程の負担を国民に求めるかを理解させる点でも言える(今回も、郵政以外の政策を考慮に入れた上の選択でなければ、確実に「こんなはずじゃなかった」となる)。


 民主党新代表の前原さんは、ポスト小泉と対決することになるが、前原さんのような攻撃力を競う姿勢では、小泉さんには敵わないだろうし、ポスト小泉であっても与党としての力に対抗できる期待は低いように思う。自民党と同じような力の張りあいをして、自民党に勝てるはずはない。政権保持にかける執念、政権のうまみを知り尽くしている、政権無しには生きてゆけない体の自民党がどれ程の力を見せるかを侮っている。
 管さんの復活は、価値観としての対立軸を持ち出させるだろうが、民主党自体の与党への実現性は低くなったはず。

 行き着くところまで行かないとダメだということ、その流れを加速させるという意義がこの選挙にはあったとだと言えると思われる。
 もしくは、小泉さんを失った自民党も政権から遠くなった民主党も、どちらも内部崩壊して、再編が生じる可能性が出てきた。(ポスト小泉でトップに名前が出ている人が本気で小泉さんの代わりになれると思っているのだろうか?)

 以上、今回の選挙の個人的な総括。

 記事から分かると思いますが、私は小選挙区・比例区ともに民主へ投票しました。
 アメリカの大統領選で民主党ケリー候補へ投票した人が、選挙後に欝や放心状態になったと聞いたときに、大げさだと思いましたが、今回の自民圧勝という結果を見て私も放心気味になりました。
 個々の問題はありますが、根本的に、1000兆もの借金を作った行政を担当した政党がどうして、責任も取らずに延々と政権と言う最大の利権を確保していることを許すのか、なぜ自民党にかくも寛容なのか、私には理解できません。
 60年前、戦争に敗れても、この国は二つの機関的な組織が維持されました。
 官僚組織とメディアです。
 どちらも、そのままに戦後も維持されてきました。
 つまり、責任を取らなかったのです。
 責任を取らせると言うのは、組織の最も基本的で必要なルールのはずです。
 与えられたチャンスやポジションでミスをしたり成果を挙げられない場合には、そのチャンスやポジションを別の人間や組織に渡す。人材や組織の代謝がなければ、ミスを防ぎ、成果をあげるインセンティブが働くことは考えられません。代謝がなければ、内部での融和にのみ視線が向けられ、澱んだ人材や組織となることは避けられないでしょう。
 その二つの組織の上に現在の民主制があり、政党が同じような無責任の構造に組み込まれているように見えます。
 
 選挙のことを洗礼や禊と表現する人がいます
 選挙を経たことで、それ以前の問題や責任が流されてとでも思っているのでしょうか。
 洗礼や禊とは、人間を超えた神などの存在を前提に初めて意味を持ちます。
 選挙とは、最も人間的な営みです。
 神のような人間を超えた存在による赦しや免除の機能など微塵もありません。
 選ぶ人間が間違えば、その間違いはそのまま放置されます。
 神のような引き受け手はおらず、結果はそのままに返ってきます。
 
 あと何年後かは分かりませんが、国家財政が破綻する、つまり、国債を引き受けれる組織も国も無くなると言う状態になったとき、第二の敗戦の焦土からそれを学ばなくてはならない、民主制を血を流して勝ち取った社会が経てきたような混乱や苦しみから学ばなくてはならないのかもしれません。
 もちろん、それは私の単なる感想ですので、この先がどうなるか、自民党政権がどう4年を運営するかなどは分かりません。もしかしたら、驚異的な改革を成し遂げる党になるのかもしれません。経済回復によって税収が増えて、本当に財政問題を解消できるのかもしれません。

 私が民主党に入れたと言うだけのことです。 
 私の選択が間違っていることは十二分にあります。
 だからこそ、民主主義は現実における最善の統治システムだと思います。 

 次回から、元に戻る予定です。




追記・メディアについての雑感) 選挙当日に、自民党のあまりの議席数にテレビの特番を見る気になれなかったのですが、気を取り直してテレビをつけると、古館伊知郎さんが堀江さんと話している中継の場面でした。「金の次は権力ですか」「ホリエモンのロマンが聞きたい」だの「私は(選挙を)するつもりがないんです」だのと、何が彼をあそこまで勘違いさせてしまったのか分かりませんが、テレビを消させるだけの醜さを私は感じました。特番全体があの調子だったら、さぞ酷い番組だったろうと思います。
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by sleepless_night | 2005-09-18 21:25 | その他
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