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「ばらばらにされた一人一人」にできること。

“「ばらばらにされた一人一人」を結ぶことの本の一端が、この僕にもできるのだろうか。できないかもしれない。できないかもしれないが、もしその一人人が苦しんでいると知れば、救うことは出来なくても、せめて「ばらばらに苦しむのはやめよう」と呼びかけることくらいは、自分にも出来るかもしれない。不安に一人で震えていれば、せめて「ばらばらに不安になるのはやめようと呼びかけることも出来るかもしれない。”
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 「ばらばらにされた一人一人」が「ばらばらに苦しむのをやめる」こと、どのような形で「ばらばら」から新しい繋がりを作ってゆくのかは、今年、これから数年における日本の最大の課題となるでしょう。
 ただ、そこで注意しなくてはならないこと、気がかりなことは、「ばらばら」であることを止めるのではなく、「一人」であることを止めてしまうこと、その可能性です。

 『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論ご質問への応え。で触れたエーリッヒ・フロムは代表作『自由からの逃走』(河出書房 日高六郎訳)で、ナチス・ドイツが成立した背景を労働者階級とブルジョアジーの政治への諦めと下層中産階級の熱狂的な支持・共感であると分析し、以下の様に考えました。(※)
 “強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちくさいこと、そして本質的には禁欲主義ということである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては穿さく好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化してきた。かれらの全生活は心理的にも経済的にも欠乏の原理にもとづいていた。”という特徴の下層中産階級は、君主制の崩壊と第一次大戦の敗戦によって引き起こされた経済的困窮と社会的威信の喪失から、心理的な支えを失い、“不安とそこから生ずる憎悪”を持ち、“恐慌の状態におちいり、無力な人間を支配しようとする渇望と、隷属しようとする渇望でいっぱいになった。”
 このドイツの下層中産階級の心理は、近代以降の資本主義勃興におけると都市中産階級の心理である。
 中世以前、教会や身分制度によって“個性はかけているが、安心感と方向付けが与えられている”社会(一次的絆)に生きていた人間は、近代に入ると“みずからに方向をあたえ、世界のなかに足をおろし、安定をみつけださねければならな”くなる。
 教会や身分制度から自由になった人間は、自由のもたらす二つの側面にさらされる。
 ひとつは、自分の意思と能力によって自己を自由に成長させることができる側面、もうひとつは、圧倒的な力をもつ外界からの脅威と危険と孤独感の側面。
 それを前にして二つの選択肢が与えられる、ひとつは自由な独立した人間としての自発的で積極的な連帯を求めること、もうひとつは“個性を投げ捨てて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服”しようとすること。
 近代産業社会は、自由のもたらす無力感・孤独感を増大させた。
 この無力感と孤独感から逃れるために、自由から逃避しようとする傾向が生じる。
 自由からの逃避は、権威主義と機械的画一化というメカニズムを持つ。
 権威主義はマゾヒズムのような自分の徹底的な無価値・無力化によって自分外の圧倒的な何かに服従する傾向(“ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることで、ひとはその栄光にあずかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ、それの持つすべての力や誇りを投げ捨てて、個人としての統一性を失い、自由を打ち捨てる。しかし、かれは、かれが没入した力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りを獲得する。”)と、サディズムのように絶対的で無制限の権力で他者を支配し搾取し苦しめようとする傾向がある。サディズム傾向は一見、逃避のように見えないが、被支配者を必要とし、被支配者との支配関係によって自己から逃避していると考えられる。
 機械的画一化は“文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを、完全に受け入れる。そいてほかのすべての人々とまったく同じような、またほかのひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える”こと。
 この自由からの逃避がナチス・ドイツであり、その狂気を普通の人々が支えた原因である。

  江戸時代は藩が、明治から昭和の敗戦にかけては天皇とその臣民という壮大な家族幻想が、敗戦から80年台までは会社組織(もしくは、経済復興・経済大国のもたらす目に見える富の増大への共通した期待)が、日本では一次的絆として作用していたと解釈すると、ここ数年は日本人が初めて自由の持つ二面性に直面している時期だと言えます。
 一方では「行き過ぎた自由(個人主義)」への批判が、一方では不透明で非公式な障壁への批判があります。(※1)
 フロムの見解からすれば、両方は自由の二面性への反応だと考えられます。

 もちろん、自由を前にしていかなる選択をしようと、ナチス・ドイツが行ったような虐殺や迫害、侵略を日本(人)がこれから、することはないし、出来もしないでしょう。
 しかし、「ばらばら」である不安や苦しみの解消を「一人」であることの放棄、個人であることの消失、即ち、自由からの逃走によって果たそうとすることは、十分にあり得ることです。
 楽ですから。
 
 「一人」の人間であること、個人であることを支えるために、「ばらばら」を止めるにはどのような仕組みがあるのか、人と人の絆となりうる資源がどれほど残されているのか。
 漠然とした方向は様々に示されていますが、はっきりと施策できる次元のものを私は知りません。
 フロムが批判した産業社会の弊は消えるどころか、増大する一方ですし、代替できる社会もないに等しいと考えるのが今のところ適当でしょう。
 
 その中で、一人の人間にできることは踏みとどまる(ろうとする)ことだけかもしれません。
 諦めの自失と狂騒への誘惑に踏みとどまって、漠然とした絆の萌芽が弱弱しくも立ち上がり、絆としての使用に耐えるだけに発展する過程の不確かさを前に耐えること。
 分かりやすい輝きのない先へ向かって進む「ばらばらにされた一人一人」が「一人」に(で)どれだけ耐えられるのか。
 その答えがこれから先がどこになるのかの決め手になると、私には思えます。
 

※)ナチスは都市の新旧の中間層を中心として運動であり、それまでの棄権者と新しい有権者が最大(約半数)である点、政権獲得に際しては一部銀行家や重工業資本家などの伝統的支配者層の協力が不可欠であり、その大半が不承不承や便乗的な協力であった点ではフロムの分析は正しいといえる。しかし、ナチスの支配者層の多数派は下層中産階級ではなく上層中産階級であり、ナチスの運動自体も発展の局面によって内容が異なる点ではフロムの分析は当てはまらない。『ナチ・エリート』(中公新書)山口定著
※1)「行き過ぎた~」への批判は、何にせよ「行き過ぎ」は批判対象になるので「~」自体の批判として持ち出すことは適切ではなく、批判になっていないとも言い得る。

  
 
 
 
 
by sleepless_night | 2006-01-09 23:28 | その他
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