“日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。”
『ホテル・ルワンダ』パンフレット 町山智浩著 http://d.hatena.ne.jp/kemu‐ri/20060304/1141410831より (1) 1923年9月6日、震災から6日後、千葉県東葛飾郡福田村。 午前10時ころ、5家族15人の行商の一行が、利根川の渡し場に着く。 渡し場で船頭と渡し賃の交渉にあたっていた一人のほかは、6人が神社の鳥居近くに、9人が15メートルほど離れた雑貨屋付近で涼をとっていた。 交渉にあたっていた一人に「言葉がおかしい」「朝鮮人じゃないか」との疑いが向けられた。村の半鐘がならされ、駐在所の巡査と福田村の自警団、隣村の田中村の自警団が集まった。 君が代を唄わされるなど、一行は取り調べを受けた。 不審感が拭われず、巡査は本庁の指示を仰ぐために現場を離れた。 行商一行と自警団との間のやりとりは続き、雑貨屋付近にいた一行と自警団との間でこらえきれなくなった緊張が解き放たれた。 「やっちまえ」 自警団が一行に襲い掛かる。 交渉にあたっていた一人は鳶口で頭を割れる。 乳児を抱いていた母親は竹やりで突き殺される。 川に逃げた者は小船で追われて、日本刀で切り殺される。 鳥居付近にいた6人は針金や縄で後ろ手に縛られて、川べりに並べられ、川に投げ込まれようとした。 そのとき、馬で戻ってきた巡査が止めた。 20代の夫婦2組、2歳から6歳の子供3人、24歳と18歳の青年2人、計9人が殺されていた。 “ウンカのごとく”集まった自警団の中から8人が殺人罪で逮捕された。 彼らの弁護士費用は村費で負担され、家族には見舞金が出された。 裁判で、3年から8年の刑を受けるも、大正天皇の崩御、昭和天皇の即位の恩赦で釈放。 出所後、ひとりは村長となり、町村合併後の市議も務めた。 被害者たちは四国出身の日本人。被差別部落出身だった。 参照 『世界はもっと豊かだし、人はもっとやさしい』森達也著(晶文社) 四国新聞社 シリーズ追跡 福田村事件 http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/098/index.htm (2) 1923年9月1日、午前11時58分、相模湾を震源として起きた関東大震災で生じた流言が、言うまでもなく、この悲劇を引き起こした。 流言は、伝播性の恐怖であるパニック、意図的に他者や集団を誹謗中傷する目的で流された情報であるデマ、内容が個人的で伝播範囲が狭く・持続時間が短いうわさ、などとは異なる、人々の感情を基礎に自然発生的に発生し、人から人へ内容を変容させながら形成・伝播し、広範囲で長期間持続する、社会的逆機能をもった情報を言う。 流言の発生(量)は、情報の需給アンバランスが大きく寄与していると考えられる。 状況のあいまいさから情報を求める欲求が高まっているにもかかわらず、情報がそれを満たすほどない場合に、不安・恐怖・願望などの感情の消費が流言として現れる。 流言の形態は二つ、噴出流言と浸透流言。 日常性を消滅されるような状況で生じ、緊急性の高い指示を内容として、猛烈なスピードで広範囲に広がり、状況収拾とともに消える噴出流言。 日常性がある程度残存する状況で生じ、低速度で巷間に浸透するように広がり、過程で内容が洗練され、長期間持続する浸透流言。 関東大震災では、噴出流言が複数生じた。 再度の強震の予言、囚人脱獄、大本教徒の暴動、社会主義者の蜂起など。 朝鮮人の暴動等に関する流言の発生は、1日午後7時ごろ、横浜市内山手本町警察署管内で「朝鮮人が放火している」との内容だった。同日は横浜市内で留まり、翌2日、近接する神奈川・川崎・鶴見へ、午後には多摩川を渡って東京へと広がり、2日中には千葉・茨城・群馬・栃木へ、3日には福島まで到達した。内容は途中から強姦や強盗など変化した。 『流言とデマの社会学』廣井脩著(文春新書) 参照 (3) “ジェノサイドの期間中、男たちには「仕事を片づけろ!」と激励の言葉がかけられた。” “大量殺戮という仕事の膨大さを思うと、集団的狂気や暴徒心理、熱病的憎悪から集団犯罪が生まれたのであり、その場で一人ずつが一人か二人殺した、と考えたくなる。だがニャルブイェでは、一九九四年の数ヶ月のあいだ、この小さな国の幾千の地でそうだったように、数十万人のフツ族たちは定期的なシフトを組んで殺戮を続けた。” “組織的に人々を、たとえほんの百二十万人ばかりの無抵抗な少数は男性、女性、子供、つまりルワンダのツチ族だったとしても、根絶しようとするときには、もちろん、血の渇きは役に立つ。だがわたしが立っているドアの裏で起きたような虐殺を計画し、実行するにあたっては殺人を楽しむ必要はない。不愉快にすら思っていた可能性すらある。なにより必要なのは犠牲者にいないでいてほしいと願うことだ。必要性の域に達するほど強く願っていなければならない。” “結局のところ、ジェノサイドはコミュニティ形成の実践だった。全体主義の強力な命令は全住民をリーダーの計画に組織する。ジェノサイドはそれを実現するための、もっとも異常かつ野心的な、だが同時にきわめてわかりやすい方法だった。一九九四年のルワンダを、外の世界は崩壊国家がひこおこす混乱と無政府状態の典型だとみなしていた。事実は、ジェノサイドは秩序と独裁、数十年におよぶ現代的な政治の理論化と教化、そして歴史的にも稀なほど厳密な管理社会の産物だったのだ。そして奇妙に聞こえるが、ジェノサイドのイデオロギー、あるいはルワンダ人が言う「論理」、は苦痛を与えるためではなく、それを緩和すると喧伝された。絶対的脅威の影によって人民と指導者は錬金術的ユートピアに融けあい、個人、全体主義にとってはつねに癪の種だ、は存在しなくなる。 九〇年代前半の虐殺に参加した大衆たちは、隣人の殺害を楽しんではいなかったかもしれない。だが、殺害命令を拒んだ者はほとんどおらず、積極的反対はほとんどなかった。ツチ族を殺すのはルワンダ独立以来の政治的伝統だった。人民を団結させてくれるものだったのである。” 『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著 柳下毅一郎訳(wave出版)より (4) 流言の発生、流言が人々を大きな混乱へと導いたこと、導くことは情報の需給アンバランスがあれば、あると容易に考えられます。 特に、モバイルの通信機器が発達している現在、情報への要求・欲求レヴェルは高く設定されていることから、災害などで情報供給が大きく下がった場合に、情報不足が緊張の高まりに直結し、緊張への耐性力の低下と相乗して、過去の流言以上の現象を起こすかもしれません。 また、浸透流言は、地理的な狭さを特徴としてきたものが、日常のコミュニケーション範囲の飛躍的な拡大によって噴出的な広まりをみせるようになるのかもしれません。 流言・流言による暴走は、百年どころか、時間的な距離や歴史とは関係なく、極めて身近な現象と考えて不適当ではないでしょう。 それは、日常の揺らぎや裂け目を狙って、私たちを誘惑しようとしている存在だと思えます。 ジェノサイドは、ルワンダのケースを考えても、ユーゴスラビアやカンボジア、ドイツのケースを考えても、誘惑ではない、誘惑という機会的な話では考えることが不可能な行為だと、私は思います。 情熱に支えられた殺人とでも表し得るかもしれません。 情熱的な殺人ではなく、情熱に支えられた殺人。 この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいという願い。 最後の一人まで救い尽くそうとする阿弥陀仏や一人の贖いによって人類の罪を引き受けようとしたイエスの情熱(パッション)をベクトルだけ真逆にしたもの。 それが起きている場面を実際的に想像しようとしても、頭がしびれ、出来の悪いホラー映画程度が私にはせいぜいです。 誘惑と情熱の間には質的な差異が存在し、比較や連想を阻むものがあります。 (5) “われわれは当時の囚人だった人々が、よく次のように語るのを聞くのである。 「われわれは自分の体験について語るのを好まない。何故ならば収容所に自ら居た人には、われわれがどんな気持ちでいたかを説明する必要はない。そして収容所にいなかった人には、われわれがどんな気持ちでいたかを、決してはっきり分からせることはできない。そして、それどころか、われわれが今なおどんな心でいるかも分かって貰えないのだ。」” 『夜と霧』V・E・フランクル著 霜山徳爾訳(みすず書房)より “「ジェノサイドって何だか知っているか?」 わたしは教えてくれと頼んだ。 「チーズサンドだよ。そう書いときな。ジェノサイドはチーズサンドだ」 わたしはどういう意味かと訊ねた。 「誰がチーズサンドのことなんか気にする?ジェノサイド、ジェノサイド、ジェノサイド。チーズサンド、チーズサンド、チーズサンド。誰も気にしやしない。人類に対する犯罪。人類ってなんだ?誰かきみに犯罪をしかけたか?ふん、たかがルワンダ人百万人だ。ジェノサイド条約って知っているか?」 わたしはうん、と答えた。 「あの条約は」バーのアメリカ人は言った。「チーズサンドの包み紙にぴったりだ」” 『ジェノサイドの丘』より (6) 日本において、『ホテル・ルワンダ』は“チーズサンド”として“包み紙”に包まれたまま処理されるはずだったのを、幾人かが中心となった活動の結果、とりあえず店頭には出されることになりました。 それでも、“チーズサンド”は“チーズサンド”だと、私は思います。 “人類ってなんだ?誰かきみに犯罪をしかけたか?” いいえ。 ホロコーストの生存者の言のごとく、体験者には語る必要は無く、それ以外の人間には実際的に理解することは出来ない次元の出来事でしょう。 (7) 植民地時代の人種思想植え付け、分断統治、生産手段の伝統的差異による貧富、民主主義の多数者独裁化、旧宗主国と近隣独裁国の思惑、国際援助団体の限界と欺瞞、事件規模の過大さによる法の無力。 ルワンダのジェノサイドは94年のハビャリマナ大統領殺害に始まったのではなく、それに終わったのでもない中(50年代からジェノサイドは断続していた。つまり、54年生まれのポールさんはルワンダのジェノサイドの歴史ともに生きてきた。)、ジェノサイドの矮小化のリスクを持ちながら、映画が一人の男性に焦点を絞ったのは、それを体験したことのない人間にとっては“チーズサンド”の粋を越す想像を不可能にさせる次元の出来事に、想像を動機付け、ジェノサイドを育成した無関心を放置することを止めることを訴える、唯一の可能性だったからだと私は感じます。 ジェノサイドは“チーズサンド”の粋でしか想像できなくとも、それを投げつけたい、“チーズサンド”のままであっても無視して、気づかないでいようとする人間に“チーズサンド”を投げつけて“チーズサンド”があることの認知を持たせたい、投げつけられて“チーズサンド”が落ちても“チーズサンド”のまま、落ちた地面は、殺人の誘惑という私たちの実際的な想像可能性の側。それでも、投げつけたい、投げつけて“チーズサンド”と投げつけられた自分という存在を意識させたいという使命感に近い欲求が町山智浩さんの最後の一行から感じられます。 誘惑の側の地面とその上に情熱の側からの“チーズサンド”。 見えるのはポール・ルセサバギナという一人の人間が情熱に乗らなかったこと。見ているのは誘惑の側に立つ自分。 “「わたしはずっといい続けた。『あなたのやっていることには同意できない』今こうやってあなたに話しているのと同じくらいはっきり。そうしなければならないと思ったら『ノー』と言う人間だった。わたしがしたのはそれだけだ、したと思えることは。わたしはどうしても殺人者たちに同意できなかった。どうしてもだめだった。わたしは拒否した。だからそう言ったんだ。」”(『ジェノサイドの丘』より) 誘惑の地面を見ながらその言葉を聞く。 私は言えない。人を殺せる可能性よりも、確実に低いように感じます。 “「この人なら知ってます。沖縄の人だ」” (http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060307#p1より) までなら言える、言いえる自分でありたいと願っています。 (8) “強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っている。そしてたとえそれが少数の人間であったにせよ、彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取りえるかもしれないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないと言うことの証明力を持っている。”(『夜と霧』より) 強制収容所での自身の体験から、V・E・フランクルは実存分析という意思や責任性を重視した心理療法を作り出しました。 “十代の少女ばかりの生徒たちは寝ているところを起こされ、分かれるように命じられた、フツ族とツチ族に。だが生徒たちは拒んだ。どちらの学校でも、自分たちはただルワンダ人であると少女たちは言った。そのため全員が無差別に殴られ射殺された。” (『ジェノサイドの丘』より) 希望はあるのか?との疑問にフィリップ・ゴーレイヴィッチはこの出来事で答えました。 殺人の情熱の地に希望はあるのか? “この国の人々、ルワンダ人は、明日にはどうなるか想像できない。” ポール・ルセサバギナは答えます。 彼が想像できないことを、私ができるはずもありません。 では、殺人の誘惑の地には? (9) 希望は二つの点からあると言いうると考えます。 一つは、フランクルとゴーレイヴィッチが見出したように、悲惨すぎる出来事で示された人間の力という点。 もう一つは、ハンナ・アーレントが表現したような悪の凡庸さという点。 “ジェノサイドは「夢のようだった」とギルムハツエは語った。「政府から降りてきた悪夢だった」今、彼は夢から覚めただけでなく新しい夢を見ているようだった。罪の告白と、たいへん都合のよいルワンダ再生への希望、「新政府はとても立派だ。死者はまったくいない。歓迎されたのには驚いた。新しい秩序が生まれている。」、には政治にも心にも何一つ変化しなくてよい、という夢だ。ギルムハツエはあいかわらず中間管理職で、模範市民になって褒美をもらおうと願っている。当局が殺せと言えば殺し、自白せよと言えば自白するのだ。”(『ジェノサイドの丘』より) 後者の希望だけなら、虚無感が足の筋肉から力を吸い取り立ち上がり前進することはできないでしょう。 そこに、前者の希望があることが、かろうじて立ち上がり、前進させる。 歴史的な既得権益、当然私たちの日常に関る、を前にすっきりとした解決など望み得ない、過ちを繰り返す世界で、「それでも」といい続けること。 血による差異への欲求について⇒血液型占いが無くなる日 ナチスに関するエーリッヒ・フロムの見解⇒「ばらばらにされた一人一人」にできること。 追記) 職業倫理という解釈について。 ポール・ルセサバギナのとった行動に関して職業倫理に拠るものだとの意見が見られました。 人間の社会的な行動・活動を考える上で、主に三つの要素を区別して考える必要があります。 まず、パーソナリティ(人格)。成長と経験によって形成された思考と行動を持つ主体。 次に、ロール(役割)。社会内、さらにその中の集団や組織で期待されている行動。 そして、ステイタス(地位)。社会内、その集団や組織での評価を伴った居場所。 一人の人間の要素ですので、三つはばらばらに存在するのではなく、個々人によって程度の違いはあっても、三つは重なり合いをもちます。 ある役割を果たすには、適したパーソナリティが求められ、対して地位が与えられる。 役割と地位は、相対的、すなわち、どこの社会に属するか、どの集団や組織かにより変化し、さらには、同時に複数の役割と地位を持つことができます。 職業倫理とは、職業という役割を中心に考える倫理と解されます。 ポール・ルセサバギナはホテルの支配人でした。 ホテルの支配人の役割とは何か? 宿泊を接受すること、従業員を職場とそれに付随した場所において統括すること、ホテルの経済的利益に貢献すること。 ホテルの運営会社から給料をもらう対価として、です。 ホテルの支配人の役割範囲には、自分の命を捨てる高度の蓋然性にさらされることや、自分が助かる機会を捨てることまで含まれるのか? ホテルの支配人は、沈み行く船に残る船長や、山岳救助隊員や警察官や軍人と同程度の命の危険にされされるリスクを引き受けることを期待されているのか?ということです。 答えは、否であるとするのが適当だと考えます。 ホテルは、災害時などに負傷者や帰宅困難者を引き受けること(協定を市町村と結んでいたり、ホテル会社が社会的責任として自主的に行う)はあります。 しかし、戦闘の当事者から戦闘地域として相当程度の割合で排除されているために安全が保たれる予測を持てる場合を除いて、ホテルの営業を継続することを期待することはできません。 さらに言えば、ホテルの営業、宿泊客から宿泊費を受け取ることが不可能に近い(通貨自体が意味を失う可能性、通貨を発行する政府の消滅、通貨を行使する自分の未来の消滅がある)時点から、ホテルの支配人という役割を中心に考えることには無理があります。 ここで、役割はパーソナリティに中心を譲ることになります。 ただし、役割としての職業という大前提を問う余地はあります。 教育へのアクセス、移住移転や職業選択の自由に極めて厳しい制約が存在した前近代、その時代の影響を残す職人的な職業観を想定するのならば、ポール・ルセサバギナの行動を職業倫理として処理することは可能だと考えられます。 続き、私たち(私)にとってのジェノサイドの可能性について⇒隔たり
by sleepless_night
| 2006-03-15 20:46
| 倫理
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