会話による言葉の解離的消失と共謀罪の憂鬱

 “いま日本では、会話体主義が支配的なモードとなっている。会話体とは、合意の気分にもとづく文体であり、しっかりとした証拠をもとにした反論を伴わない。”
                        大江健三郎
                  (2004年3月5日、外国特派員協会にて)

 “言葉はただ騒音から発生し、騒音の中で消えうせていくだけである。沈黙は今日では単に、まだ騒音がそこまで進入していない場所であるに過ぎない。それはただ騒音のひとつの中断にすぎないのである。”
 “一切は普遍的騒音語の中に存在しており、しかも、存在していない。そこには言葉の現実的存在もなければ、また忘却もないのである。現代の世界においては、もはや人間によって直接に忘却がなされるのではない。忘却はいわば人間の外へ、普遍的騒音語のなかへと押しやられてしまっている。しかし、そのようなものは決して忘却ではない。それは騒音語の中での単なる消失でしかない。だからこそ、そこにはまた寛恕がないのだ。”
           『沈黙の世界』マックス・ピカート著 佐野利勝訳(みすず書房)

  
 “不動の信念に裏打ちされ力強く語られるテクストが、それを支える基盤であるはずのこの書物の形式によって、語られる端からやすやすと、かつ、にべもなく覆されているからである。”
 “『国家の品格』において顕在しているのは、専門家と非専門家のぶつかりあいという真剣勝負の対極であり、植木等=青島幸男ふうにいうならば、「楽して儲けるスタイル」の追求である。”
 “同書においては、テクストの水準において語られる「読書をとおした人格形成の重要性」という言説それ自体が、メディアの水準において、いかなる言説もただ消費の対象としか了解する用意のない、呵責なき「楽して儲けるスタイル」に接合されている。すなわち、同書がぼくたちに教えてくれているのは、もはや「教養」も「教養について語ること」も消費財でしかないということに相違ない。”
             長谷川一 明治学院大助教授(メディア論)
              http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/


 “データベース消費の局面においては、まさにこの矛盾が矛盾だと感じられないのである。作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだとということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情表現し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。”
             『動物化するポストモダン』東浩紀著(講談社現代新書)



  主張内容自体はスノビズムの典型であり、「大きな物語」への欲望であると解される。
  しかし、それを支えているのは、ポストモダン的な解離と言う態度なのかもしれない。

 だから、歴史的な検証や、主張内容相互の矛盾は問題ではない。
 人間的な欲望を表しているに見えて、内実は動物的な欲求を表している。 
 言葉が力を持って語られているようで、言葉に実がない。

 合意の気分で語られる言葉の形をした心地よい音が鳴り響き、ヒットしたシリーズものの癒し系コンピレーション・アルバムのように、やがて街の雑踏に流されて存在が消失される。
 沈黙が犯罪である会話体で言語空間が埋め尽くされ、言葉は無くなってゆく。

 
 “教養と研鑽を積む必要の無い教養主義”の“甘やかなゆるしと導き”は、どこに人々をつれてゆくのか。                       
            (『ベストセラーの構造』中島梓著 ちくま文庫)



 今までに、予想通り拡大して施行されている幾つかの法律、そして、これから通ろうとする法律。
 役割を果たせないどころか、会話体によって焦点をかき消すマス・メディア。 
  どこかにつれて行ける素振りを見せている後ろで、着実に今いる場所が変化され、気付いたときにはとんでもない状況が作り出されている。
 覆っている会話体が途切れ、沈黙によって言葉を見出したとき、既に言葉では何もできなくなっている。
 本当に、そんな日が、そう遠くなく簡単に来るかもしれない。
 




追記)2つの教養。
 教養番組、教養試験と言われるときの教養、と教養小説や教養学部と言われるときの教養。
 前者はトリビアルな知識を持つこと・雑学、後者は自由学芸(リベラル・アーツ)などを通じての自己の探求や完成を目指す知の営みのこと。      
 「教養として知っておきたい~」の類は、後者を目指しているようで、前者をもたらしている。
 
 
 
         
[PR]
by sleepless_night | 2006-05-06 08:09 | 藤原正彦関連
<< とりあえず、武士道 ふさわしい場所 >>