とりあえず、武士道

 “「武士道」という言葉を聞いて、今日多くの人が思い浮かべるのは、新渡戸稲造の著書『武士道』(現代はBushido,the Soul of Japan)であろう。学問的な研究者を除く一般の人々、とりわけ「武士道精神」を好んで口にする評論家、政治家といった人たち、の持つ武士道イメージは、その大きな部分を新渡戸の著書によっているように思われる。”
 “新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係も無いということである。”
 “新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳のひとつである。”
  『武士道の逆襲』菅野覚明(東大助教授・日本倫理思想史)著(講談社現代新書)


 新渡戸稲造の『武士道』は、おそらく、鍋島藩士山本常朝の語を浪人田代陣基が筆録した『葉隠』と並んで現代人が想像する武士道の源泉となっている。
 と言いたいところですが、時代劇や時代小説の武士イメージを格好付けて表現する際に用いられると言ったほうが正確なところかもしれません。
 
 以下、幾つかの書籍から簡単にまとめて置きます。

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 “武士とくに上級武士は、算術を賎しいものと考える傾向があり、算術に熱心ではなかった。熱心ではないどころか「学ばないほうがよい」とさえ考えていた。上級武士の子弟には藩校で算術を学ばせないようにしていた藩がかなりある。(中略)ソロバン勘定などは「徳」を失わせる小人の技であると考えられていたからである。”
 “ところが、幕藩社会が崩壊し、近代社会になると、この「賎しい技術」こそが枯渇され重視されるようになった。由緒や家柄は藩内でのみ通用する価値である。藩という組織が消滅すれば、もう意味がなくなる。”

 “かつて家柄を誇った士族たちの多くは、過去を懐かしみ、現状に不平をいい、そして将来を不安がった。彼らに未来はきていない。栄光の加賀藩とともに美しく沈んでいったのである。”
                    『武士の家計簿』磯田道史著(新潮新書)

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(1)武士
 “ヨーロッパと同様に日本では、封建制が主流となったとき、職業階級としての武士がおのずから台頭してきた。”
 “この階級は、長い年月にわたり絶え間なくつづいた戦乱の世にあって、もっとも男らしく、もっとも勇猛な人々の間からごく自然にえりぬかれたものであった。その時代の選別の過程を通じて、臆病な者、ひよわな者たちは、自然に取り除かれていった。”
        『武士道』新渡戸稲造著・奈良本辰也訳(三笠書房)

 近世(江戸)へと続く武士は、古代王朝の兵士・武官と異なり、地方領主や貴族の私兵を起源とするので、新渡戸の認識どおり。
 ただし、自然淘汰によって云々と言うのは、世襲による統治を役割とした近世の武士には当てはめ難い。

(2)武士道の要
 “義は、もうひとつの勇敢という徳行と並ぶ武士道の双生児である。”
 “これは文字通り「正義の道理」なのである。”
 “「勇気とは正しいこをすること」となる。”(『武士道』新渡戸著)
 
 新渡戸武士道の評価でポイントとなる発想。
 つまり、武士を普遍的な価値観を体現・実現するべき存在と位置づけていると解される。

 たしかに、家法や家訓には仏教や儒教の思想表現、「天道」といった普遍的な世界観を示すような言葉も散見される。
 しかし、大前提は、それが家法であり家訓であること。
 つまり、何かの普遍的価値を実現することではなく、まずもって自分たちの一族集団が存続繁栄するための知恵を自分の子孫に伝えるものである。
 たとえば、北条氏綱(早雲の息子)は“大将だけでなく、およそ侍たるものは、義をもっぱら守るべきである。義に違ったのでは、たとい一国二国切り取ったとしても、後の世の恥辱はどれほどかわからない。”と述べているが、最後に“右の訓戒を護ったなら、当家は繁盛すること疑いない”と締めている。
 さらに、この意識の痛烈な表現として毛利元就が長男に贈った遺訓が挙げられる。
 “この毛利家の繁栄を願うものは、他国においてはもちろんのこと、当国においても一人としていないのである”
 また、「天道」も、孟子の思想と同様に、統治の正当化と下克上の正当化に使われており、使う側の都合によって良いほうに内容を解釈できるようになっている。(孟子について⇒惻隠の情が堀江貴文に向けられる時
 

(3)ねじれ
 新渡戸の武士道が実際の武士の思想と異なっていると言われるにもかかわらず、奇妙に武士の言行と重なって見えるのは、見る側の認識にねじれがあるからだと考えられる。
 つまり、(1)で述べたように近世へと続く武士と言うのは私兵であり、(2)で述べたように自分の家(一族)の存続発展を目的とする家訓がある。これを、見る側、私たちが近代の発想で見てしまうことでねじれが生まれる。
 武士たちは自分たち一家一族の問題を語っているにもかかわらず、それを、近代の国民国家のまなざしで見ている。
 歴史的に見れば、見ている側がねじっているために線のように見える伝統を、まっすぐに伸びた一本の線のような伝統だと誤認している。

(4)私兵としての武士
 ①中世
 軍事化した貴族の末裔である平家の世から、初の武士政権である鎌倉、続く室町、戦国と見て分かるように、武力にる領地の奪い合いの時代。
 この時代、武士の倫理は「弓矢取るものの習い」として表現される。
 内容とは名利(名誉と利益)の重視。
“弓矢よるものは、仮にも名こそ惜しめ候へ”(平家物語) 
“古より今に至るまで、人の望むところは、名と利の二つ也”(太平記)
 そして、特に「名を惜しむ」として名誉を重んじた。
 
 “名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教え込まれる侍の特色をなすものである。”
 “その高潔さに多雨するいかなる侵害も恥とされた。そして「廉恥心」という感性を大切にすることは、彼らの幼少のころの教育においても、まずはじめに行われたことである。”
                         (『武士道』新渡戸著)
 と、新渡戸が述べているのと違いがないとも思える。
 しかし、(3)で述べたように、それは見る側の認識による。

 なぜ中世の武士が「名を惜しんだ」のかと言えば、それは、私兵だから。
 つまり、戦乱の世で、自分と一族が生き残り発展するためには、固定した主従関係以上に自分の固有名をアピールしておかなくてはならない。
 何よりも、戦での活躍によって、自分の名前を広めておく。
 そうすれば、現在の主従関係が崩れたり、敗れても新しい主を見つけることができる。
 武士の世界は狭く、さらに、現代のようなマス・メディアがないので、噂が命取りとなる。
 “他人の家へ行った際には、どこかに穴があいていて、そこから人がいつもながめていると思って挙動をつつしみなさるがよい”(北条重時)
 “天下の情勢が平穏なように見えるときでも、遠近の諸国へ間者を出しておいて、つねにようすを密告させるがよい”(朝倉敏景)
 “不穏の考えをいだくものがあったらならば、決して容赦せずに取り調べるが良い。ただし、その際には外聞をはばかって行うことが大切である。”(武田信繁)
 などと、常に見られているという意識を持っていた。
 したがって、日常生活においても自分の名前に悪い情報が着かないように気をつけなくてはならなかった。

 関連して
 “礼は武人特有のものとして賞賛され”
 “礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人と共に喜ぶことである。”
 “嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。”(『武士道』新渡戸著)
 などの「礼」や「誠」という徳目も、上記の視点から評価すれば、それは自分の名前というブランドを維持するために必要なものだと解される。
 特に、嘘をつくなというのは多くの家訓でも述べられている。
 戦場や、戦闘という生死がかかった状況で、嘘をつくかもしれない(若しくは嘘をつくと言う評判)というのは致命的な傷であることを考えれば当然と言える。
 だから、真実ではないことへの倫理的な忌避ではないので、計略は許されている。
 また、礼ということ、広げて思いやりについても家訓ではかなり細かくふれてあるものが見られる。
 勿論、それも統率の術と解される。
 ちなみに、引用した新渡戸の文章は明確に新約聖書の文言(ローマの信徒への手紙12章15節)。

 ②近世
 近世、つまり江戸時代。
 言うまでもなく、最後にして最強の戦国武将である徳川家康が開いた時代。
 有名な「人の一生は重き荷を…」は過去の創作。

 三大将軍家光の治世(家光の代で、神格化された豊臣である豊国大明神の神位を朝廷に取り消させている)に現れるように、この頃までに江戸幕府は安定期に入る。
 つまり、それぞれの武士の身分・階級が固定化する。
 ただし、完全に動かないということはなく、名家も跡継ぎがなければ養子を迎えなくてはならず、なければ廃絶される。また、長い忠勤によって徐々に役目や石高が上昇することもあった。
 
 この時代に、儒教道徳によって整理された武士の思想が「士道」と呼ばれる。

 近世の武士は非常に厳しい状況におかれる。
 ①で述べたように、武士は自分と一族の名利をかけて戦ってきた。
 近世には、この点に二つの大きな変更が加えられる。

 一つは、戦闘を存在理由にしていた武士が、戦闘を否定される。
 つまり、戦闘による秩序の再編可能性を否定される。
 しかし同時に、武士が武士であることをやめることもできない。
 武士は、中世の価値観を否定せずに、実態を変化させなくてはならないジレンマに陥る。
 戦士として生きる現実を奪われて、戦士としての生き方を捨てることができない。
 端的な、例として、道端での喧嘩や無礼打ちがある。
 可能な限りの争いを避ける義務を課されながら、喧嘩する時にする・無礼打ちするときにすることをしないと、咎められる。自分が当事者でなくとも、そこにいただけで問題になる。
 しかも、その基準が殆どない。ありとあらゆる方向からどうすることが適切だったかの究明を受ける。中世同様に噂という強力なメディアが存在していたので、噂によって藩が動いたり、噂があっただけで切り合いを挑んで死者を出したりした。
 だから、対処法としてみて見ぬ振りをする、人が歩かない悪路を行く、見ている人がいなかったら互いになかったことにする、とりあえず言訳ができるだけのアリバイを作っておく等が考えられ、伝えられた。
 
 もう一つは、家の独立性の基盤を奪われて、自分の家以上に君主を優先させる滅私奉公が求められるようになる。
 武士が君主の官僚となったため、それまで、いざとなったら自分の家・一族が独立できた基盤となる土地(財政基盤)が失われ、代わりに身分に応じて俸禄をもらい生活する。
 官僚機構として番方と役方に分かれ、評価基準も変化する。

 結果として、中世に存在したような自分の家・一族と主君の家・一族との緊張関係が薄れた。

 中世、江戸幕府を創始した徳川家康は“上を見るな”“身の程を知れ”と家臣に教え、忍従を説いた。しかし、家康自身の生涯を見れば分かるとおり、その忍従は決して盲目的な隷従を説くものではない。耐え忍ぶのは、力を保ち、機を見て自らが権力を握るため。
 大黒天が頭巾をかぶるのは上を見ないで分を弁えて身を守ることもあるが、その本質は、頭巾を脱いだときにある。頭巾だけをみて、それを脱いだときを考えないのは間違いだと家康が説いた。
 この考えからすれば、中世の武士は次第に、頭巾を脱ぐ発想を無くした存在。
 皮肉なことに、武士の中の武士だった家康を基準とすると、当の家康の社会設計によって、武士のあり方が劣化されたと言える。


(5)間違いと美化
 ①感情
 “侍にとっては感情を顔にあらわすことは男らしくないと考えられていた。”
                  (『武士道』新渡戸著)
しかし
 “たけき武士は いずれも涙もろし”(甲陽軍艦:武田信玄の軍書)

 ②切腹
 切腹は、平安時代の袴垂れの切腹が最初。
 鎌倉以降に武士の自死手段として定着、刑罰としての切腹は江戸時代に定着。
 江戸以前は、例外を除いて、斬首が刑罰として一般的だった。
 刑罰としての切腹を定着させた一因が江戸初期の殉死ブーム。
 主君が死亡すると、家臣が追い腹を切った。
 家臣の誰が追い腹を切るかといえば、衆道(男色)の相手をしていた小姓。
 (小姓の殉死は自発的という以上に、武士社会の暗黙的な強制事項だった)
 それが徐々に、側近に広がり、さらにはほとんど関係のない下士まで切るようになる。
 ブームが過ぎるので、綱吉の代に禁令が出る。(だから、『葉隠』の山本常朝は出家で済ませた。)
  
 “中世に発明された切腹とは、武士が自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を逃れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であった”(『武士道』新渡戸著)

 たしかに、切腹は名誉の死という側面がある。
 しかし、刑罰として定着した江戸初期まで、切腹を命じられても武士は従わなかった。
 それは(4)①で述べたように、武士は独立性があったために、他の主君の下へ移ることができたから。
 だから、初期は切腹を命じると同時に討手を遣わして、従わないものを切らせた。
 (映画『たそがれ清兵衛』は幕末を舞台にしていますが、同様のもの)
 つまり、切腹が定着したことは、武士が武士らしくなったというよりも、武士として弱体化した証拠と言える。

(6)武士道の誕生
 明治維新を経て、武士は否定される。
 武士は江戸という終わった時代の象徴として一度捨てられる。
 そして、「武士道」が生まれる。
 武士の思想である「士道」に代わって、明治中期ごろから「武士道」が広まった。
 “忠節”“礼儀”“武勇”“信義”“質素”の徳目を大元帥である天皇が“股肱”の兵に与える。(軍人勅諭)
  私兵としての独立性を基礎にして、「私(わたくし)」の名利を追求する過程で生まれたものを、「私」なき臣民へ与えて、“義は山岳よりも重く死は鴻毛よりも軽し”とする。
 明治政府は、政権の正統性を歴史に求め(“古の制度に復しぬ”)、武士が政権を担った時代を例外とした(“我が祖宗の御制に背き奉りて浅間しき”)。
 正統性を明確にするために江戸時代までは使われていなかった古語を復活させると同時に、利用できる資源として「士道」の生み出した思想表現も使った。
 新渡戸の『武士道』はその一つの作品と言える。
 
 このように見てみると、明治武士道とは、否定しなくてはいけないものとしての武士政権と利用しなければならない近世武士の意識との危うい関係の中で育まれたものだと言える。
 そして、その危うさは現代日本で好んで口にされる「武士道」や「大和魂」が、その内容を少しでも検討してみれば矛盾だらけ(例:日本古来と言いながら漢語表現を好む)であることに引き継がれている。
 (4)②で述べたような近世武士の矛盾と、近代武士道の抱える矛盾をどちらも引き継いでいながら、それに無自覚である人が現代武士道の担い手を称するは、不幸だが、諦めるべきことなのかもしれない。矛盾の重なりを無視できる鈍感さがなければ、武士など称する人はいないであろうし。


(7)武士道のその後
 「武士道」を生んだ新渡戸稲造は、その後の1919年に雑誌『実業之日本』で“武士を理想、あるいは標準とする道徳もこれまた時代遅れであろう。それよりは民を標準とし、根拠とし、これに重きをおいて政治も道徳もおこなう時代が今日来た”と「平民道」を提唱した。
 「平民道」とはデモクラシーの新渡戸訳。



参照)
『武士の家訓』桑田忠親(講談社学術文庫)
『江戸藩邸物語』氏家幹人(中公新書)
『武士と世間』山本博文(中公新書)
『切腹』山本博文(光文社新書)
『江戸武士の日常生活』柴田純(講談社選書メチエ)
『葉隠』松永義弘(教育社)
『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編(角川ソフィア文庫)
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by sleepless_night | 2006-05-07 01:26 | 藤原正彦関連
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