猫を殺す悲しみが、私を充実させる。 続編

猫を殺す悲しみが、私を充実させる。の続き。


(4)生命の功利主義 
 以上まで述べてきたことは措いて、坂東眞砂子さんの一連の「問題提起」には考えるべき論点が二つあります。
 一つは、(1)で指摘した「他生物所有権否定」の問題。
 もう一つは、生命の功利主義の問題、特に<イシュー2>で述べてある「未受精卵子=新生児猫」の問題(“生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。”)です。
 
 “「平等の原理が、我々人間の種に属する他の人々との関係のための確固とした道徳上の基礎であることを認めた以上、この原理が我々自身の種に属さないもの‐つまり人間以外の動物との関係のための確固とした道徳上の基礎であることも認めることになる」。”
 “動物の平等のために時間を費やすことなどどうしてできようか。 この態度は、動物の利益を真剣に考えようとしないは世間一般の偏見を反映している‐この偏見には、自分のアフリカ人奴隷の利益を真剣に考えようとしない白人の奴隷所有者の偏見と同じ程度の根拠しかない。”     『実践の倫理 新版』(昭和堂)ピーター・シンガー著

 功利主義倫理学を代表する哲学者ピーター・シンガーは、倫理に必要な要素としての普遍化から要請される平等原則を“利益に対する平等な配慮”であると考え、平等を問うにあたって“誰の利益をはかっているのかについては、全く考慮しない”のです。
 それは、平等を問題にされる際に暗黙の前提となっている「人間の平等」を突き破るものです。 

 “どのような本性の存在であれ、その苦しみは、ほかのどんな存在の同様の苦しみとも‐おおよその比較ができる限りにおいてであるが‐同等に計算されるべきだということである。”と、その存在のもつ利益のみを注目し、ホモ・サピエンス(人間)という種であることに特権的な地位を認る態度を“キリスト教の到達以降のものである”として退けます。
 そして、功利主義の立場から、ホモ・サピエンスという種であることからではなく、人格という“理性的で自意識をもった存在”“存続的存在と言う概念”を持つことのできる存在が、自身の安全やの将来への期待に対する利益を持つことから、“感覚することができ快苦を経験することはできるが、理性的でもなければ自意識も持ってはおらずそれゆえ人格ではないような存在”よりも多くの配慮される利益を持つと主張します。
 ですので、“「生命擁護」運動とか、「生きる権利(生命への権利)」運動という名称が間違って与えられた名称であることは今やあきらかである。中絶には抗議するものの、習慣的に鶏や豚や子牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っているというにはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているに過ぎない。理性、自意識、感知、自立性、快苦など、道徳的に意味のある特性を公平に比較検討してみれば、子牛や豚やそれらにはるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠期間にある胎児よりも進んでいることがわかるであろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較すれば、魚のほうが意識の兆候をより多く示すであろう。”と考え。
 これは“チンパンジーを殺すのは、生まれつきの知的障害のために、人格ではないし、決して人格でありえない人間を殺すのに比べて、より悪い”し、“豚やチンパンジーなど人間以外の動物の生命がそれらの動物自身のとって価値を持っているほど、新生児の命は新生児自身にとって価値は持っていない”という結論を導きます。

 人間に特権的な立場を認めない立場を貫徹するのなら、このような結論に耐えなければなりません。
 その覚悟もない人間が、飼い猫に過剰な自己投影をして自己慰撫しているだけの話を、倫理問題として語るのは許されるべきではないと私は考え、非難します。
 

 シンガーの功利主義によれば、新生児猫は未受精卵子よりも利益(苦痛から逃れる利益)がありますので、これらを同等とみなすことはできません。
 ただし、一匹の成猫の「生」の充実のために、その一匹をかわいがることで得られる人間の「生」の充実のために、複数の新生児猫を殺すことは正当化できる可能性はあります。
 しかし、(坂東さん自身が述べたように)猫の本来の幸せが野生で自由に生きることであるならば、それを人間が飼うことはできなくなります。人間と動物を平等に考えたとき、人間の娯楽・愛玩のために動物を飼う利益は、動物が本質的な「生」を生きる幸せ(利益)に劣るからです。

 坂東眞砂子さんの話は、自分の都合に甘く、表明した自身の思想に不誠実です。
 他の生物に関して権利が無いとするなら、そもそも飼うことを自らに許してはなりません。
 本来権利が無いが避けられないというのなら、いっそう最小の犠牲にとどめるように配慮するべきであって、全力で子猫の貰い手を探せばいいのです(現実として血統証つきでないと難しいというのなら、著名な作家という自分のブランドを着けてやればいい)。
 
 坂東さんの結論(生ませて殺す)では、「どうせ権利が無いことをやるのだから、後は何してもいいでしょ」という他棄的なスタンスであって、倫理的に正当化することは(坂東さんが神であったり、神託を受けてるような場合を除いて)できません。
複数の新生児猫たちには「生」の本質を味わうことは認めずに、「生」の本質=セックス・出産を理由として新生児猫を殺すことが、いかなる理屈で可能なのかが全く理解できません。「神の選択」をしているのは、ほかならぬ彼女自身であることに、どうして気付けないのか。(この部分、倫理の普遍化要請については補論を述べます)
 
 自分で自分の考えに反することを行っている居心地の悪さを、他人や社会を批判することで紛らわすのは無意味です。悲しむ資格すら疑わしい。
 
(5)南泉斬猫(なんぜんざんみょう)
 “南泉和尚、東西の両堂の猫児を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん」。衆対無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に拳似す。州、乃ち履を脱いで頭上に安じて出ず。泉云く、「子、若し在らば即ち猫児を救い得ん。」”(『無門関』岩波文庫)
(意訳:座禅の修行道場で一匹の猫について論争をしていたところに、南泉和尚が来て、猫を取り上げ「この猫について、自分が掴み取ったものを表現してみろ。できなければこの猫を殺す」と言った。誰も表現できなかったので、南泉和尚は猫を切り殺した。夕方、弟子の趙州が道場へ帰ってきたとき、南泉和尚はこのことを話すと、趙州はすぐさま履物を脱いで頭上に載せた。南泉和尚は「もし、君があの場にいたら猫を救えたのに」と言った。)


 南泉和尚のこの猫を取り上げての問いかけに対する趙州の応え、それぞれが何を表しているのか。 
 そもそも禅の公案は頭で解くクイズではないので、“言句に滞って解会を求むるをや。棒をふるって月を打ち、靴を隔てて痒がりを爬く、甚んの交渉か有らん。(意訳:言葉によって悟りを得ようとしても、棒を振り回して月を打ち、靴を履いたまま痒い場所を掻こうとするのと同じ様に、求めていたものに近づくことはできない。)”のです。
 「道う(いう)」とは、言語表現に囚われない分別のはからいを超えた自己表現をすることを意味します。
 しかし、ここではとりあえず、無謀と僭越を承知で私の考えを分別知上で述べてみます。

 南泉に対して趙州は頭上に履物を載せます。
 この行為に表現の意味(特定の行為を選択した意図)を読み取ることは間違いだという見解もあります。
 ジャスチャーと言う言語表現の一種だと捉えることになり、言語表現に囚われない自己表現としての「道う」に反するからです。
 しかし、私はこの趙州の行為がとっさの行き当たりばったりなものとは考えられないのです。
 帰ってきたから履物を脱ぐのはよいとして、それを頭上に載せるというのは、あまりに大掛かりではないか。
 ですので私は、この履物を頭上に載せた行為は、“下座”の表現であると採ります。
 自らの頭上に全ての生命を頂いて礼拝することです。
 目の前にあった生命について問われたので、帰り来て脱がれた履物を載せた。
 勿論、それを明瞭に意識して行ったのではなく、日常の行いとして無心に合掌することと同じ姿勢でです。
 目の前にある猫という一個の具体的な生命を問われ、頭でのみ働く思想や概念を持ち出して論じ解明しようとしていた修行者たちは「道う」ことができなかった。
 それは、眼前の具体的な生命と言う、抽象的な観念や言葉で表現することなどできないものを、頭で考えていた中で「道う」ことを求められたからではないか。
 趙州は、生命を問われたら、ただ礼拝する。生命は頭で掴めるものではないからです。

 坂東眞砂子さんは、猫の生命の本質をセックスと出産にあると考え、その結果である子猫を殺したといいます。
 私には、彼女の行いは何も「道う」ことができなかった修行者たちが、趙州をまねて履物を頭上にのせているように思えます。
 履物を頭上にのせて、「猫は死んだけど、私の頭は汚れたよ」と得意になって、自分の頭上の汚れを喧伝しているのです。
 頭がどれほど汚れようが「道う」こととは全く関係がないのと同じく、猫が何回セックスして出産しても彼女の言う「生」の本質はつかめないでしょう。
 もし「生」の本質がセックスと出産にあるのなら、彼女自身が見当識を失うまでセックスし続け、子宮が破れるまで子供を生み続ければいいのです。
 そちらのほうが、子猫を殺す悲しみでつかめるはずも無い、自分の「生」を掴めるはずです。
 


(6)非難への非難
 仮に、坂東さんが「猫を殺す痛みが、私の「生」を充実させる。だから、生ませて殺すのだ」といったのなら。
 私は彼女を擁護したでしょう。
 私は人間による(人間を主体・中心とした)倫理を考える、シンガーの言うところの“種差別”主義者です。
 それには、人間だからという諦め(甘受)の部分と人間だからという意志・希望の部分があります。
 甘受する部分として動物の所有権を認めることを前提として、意志・希望の部分によって動物の(人間による・人間のための)保護や虐待防止を訴えます。
 そして、新生児猫を投げ捨てて殺すことは、不快感を催すものの、おかれた環境によっては認められるものであり、可罰的な行為だとは考えません。
 それぞれが飼っている犬や猫を「うちの子」と呼んで(私の価値観から)過剰な保育をする、人間の子供と同様の扱いをし、それを他者に求める(犬を犬と呼んで怒られる)のと同じ程度に不快なだけです。
 それは、「保守」的な家族論者が非難することとは違います。
 何を家族だと感じ・家族と認識したいかは、それぞれの勝手とすることであって、「一緒に住んでない祖父より、一緒にすんでいる犬を家族だと思うとはけしからん」と怒ってみても無意味であり、それは歴史的に変化してきた家族定義の変化の一つだと捉える(外部からの隔離と内部での親密性は、近代家族の特徴ですので、一緒に住んでいなければ家族と認識されなくても仕方が無い)からです。機能的に考えれば、現代において子供もペットも耐久消費財です(だからこそ、逆に、社会制度としては人間と動物の区別・線引きをしておくべき)。
 それぞれの飼い主サークル内部での認識や感情は問題とするべきではないし、できないと考えます。
 
 猫を殺すこと自体は些事です。
 可愛い猫を殺したからという感情で坂東さんを非難する人を、猫と人間の区別を都合よく使い分けて自己欺瞞に浸ろうとする坂東さんと同じ程度、私は非難します。
 
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by sleepless_night | 2006-10-06 21:59 | 倫理
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