“茶道は日常行為が規範化され様式化された時、それがもつ本来の日常性を形骸化する危険性を有していたといえよう。 しかし逆に言って、作動におけるそうした形式性を否定してしまうと、茶道はたちまち日常に還元し埋没して、その存在の根拠そのものをみずから否定することになる。つまり茶道とは、日常生活にも続く営為であるがゆえに、その日常性をいったん否定し、そこから乖離しなければ成立しないのである。だからそれは一種の「虚構」といってもよい。” 『千利休』(講談社学術文庫)村井康彦 ロイター:茶道とゲリラとフランス人 http://today.reuters.co.jp/tv/videoChannel.aspx?storyId=3f8feb3cee76d93b3e002964496edd3f0b0fb9f6 都市の路上から砂漠まで、そこに組み立てられた即席茶室が置かれると、日常と「虚構」の日常が出会う。 「虚構」の日常に出会うことで、日常は自らの日常性を突きつけられる。 日常に出会うことで、「虚構」の日常は、自らの「虚構」性と同時に、日常性をも突きつけられる。 ただ茶を飲むという行いを芸術とした茶道は、その確立とほぼ同時に権力者たちによる政治資源化と芸術行為としてのあり方により、絶えずその否定し得ない本質である日常性を脅かされてきた。 ピエール・セルネの「ゲリラ ティー」は、日常性の反撃にして芸術の挑戦という、茶道内部での二律背反のエネルギーを活かした素晴らしい表現に思える。 “世間一般の常識によってなにかをやるというのは、あまり個人の責任が追及されません。みんながやっていることで、自分はその他大勢の類なわけです。法が規範になっている場合でも同じで、法に基づくといううしろ盾が行為の安全弁となっています。問題が生じても法に訴えるという切り札をちらつかせることができます。しかし美的行為は、なにかに守られているという保証がどこにもありません。いつも危険と隣り合わせの状態です。” 『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)森村泰昌著 芸術家は一人の感性と創造に賭け、表現によっていかなる強力な他者や異者の思惑を超えゆかなければならない。 だから、ゲリラ(非正規)は芸術にとっては正統な手法となる。 “ある年、利休の庭に朝顔が花盛りと聞いた秀吉が、それを所望して訪れた。ところが庭に朝顔はひとつも見当たらない。不思議に思って茶室に入ると、床の間にただ一輪、葉をつけていけてあった。”(『千利休』) 美は一振りの刀も一発の銃弾もなく、後ろ盾も保証もなく、専制的権力者の権威さえ下す。 それが天才の為した業ならば。 時の為政者が「美」を持ち出したら、問わなければならない。 彼は天才なのか。 「美」は天才の賭け。 もし天才でなければ、醜態の一人芝居。 そして為政者の場合、一人芝居では済まない。 ピエール・セルネの作品集 http://www.paulrodgers9w.com/artists/p_sernet/ps_addwork/tseries.html
by sleepless_night
| 2006-12-04 21:07
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