自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるために

 
自分の命/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き

(10)所有と決定
 (8)②で紹介した小松美彦さんの議論でも述べたように、自己決定権はパターナリズムへの異議や弱者の権利奪還としてここ数十年に現れた話であり、自己決定権の(暗黙・無意識化されるほどに当然視される)基礎である自己所有権の発想が正面に押し出されるようになったのは(7)②で述べたようなミルら啓蒙思想家の出現によってである。
 (8)①で述べたように(自己所有を含む)所有の概念は通歴史的であるとしても、近代の自己所有概念はそれ以前のものと比較して、外部からの侵略への抵抗意識であると同時に新しい社会の非関与を通じた介入戦略の道具でもある点で特徴的な変化があったと考えられる。
 つまり、「私のもとにあるもの・作ったものは私のものだ」という所有概念は、封建的権力からの恣意的侵略への抵抗を強く正当化すると同時に、新しい経済・社会では、個人の所有意識に訴えかけることで市場の活性化・増大に自発的に寄与させる生き方へと導くことに成功した。私は私の所有者として、私自身を価値あるものにするために教育し訓練し、失敗すれば自分のものとして自分を処分する(放置される)。
 このように、自己所有権は抵抗や奪還としての意味合いと同時に介入と廃棄の可能性をも含む。
 自己決定権によって中絶や治療選択を主張した医療での弱者が、同じ自己決定でも自発的積極的安楽死に反対する矛盾は、この自己所有権の二面性にあるといえる。
 そこで、(死の)自己所有権に反対する小松美彦さんの異議や、自己所有権を認めずに自己決定権を認める立岩真也さんの議論が起きる。
 とすると、自己所有権への抵抗とは、自己所有権の介入と廃棄の可能性に対する抵抗だと言える。
 これを言い換えれば、人が在ること・他者が在ることよりも、自分(たち)が増大すること・自分のもとにあるものが奪われないことを大切だと感じるか否かという問題(自分の知らない場所の1000人を餓死から救うために、自分が新車を買うために貯めた金を寄付できるか?)だといえる。

(11)「在る私」から自己所有権/<他者>と≪他者≫の倫理
①第一にあるもの

 人(他者)が在ることが大切だ。私たちの社会にある感覚をもとに自己所有権を否定(解体)して自己決定権を認める立岩真也さんの主張は確かに理解できる。
 しかし、森村進さんが訴えかけた私自身の犯されがたい感覚(所有感)もある。
 どちらかが優越する、第一の原理であるというのではなく、もし社会や私たちに第一にあるものを記述するとしたら両者が対立しあう構造なのではないか。

②自己所有権の肯定
 他者(制御できない・しないもの)が快を、私たちが世界を生きることの享受に欠かせないものであるということと同時に、他者(制御できないもの)を制御することも生きるこの享受には欠かせない第一のものとしてある。
 立岩真也さんは「私の身体は私のもの」であるという認識を論理的に正当化できないことから、他者を介して自己決定を認める。
 しかし、立岩真也さんの設定した問いは「魂‐肉体」の二元論を前提にしないと成り立たないのではないか。
 私たちは存在するとは、肉体によって生まれなければならない。つまり、私とは身体であり、そのほかの物とは異なり私に問うためには私が肉体として存在しなければならない。
 肉体によって生まれ・存在している私に「あなたの身体はなぜあなたのものなのか?」と問うことは、そもそも、私へ問いの回答を求めることから、身体によって存在している私を認めることにはならないか。
 肉体によって存在する私は「意識‐肉体」「脳‐肉体」「魂‐肉体」という二元的なあり方を認識する以前に「在る私」であって、その私に対する侵害に「私だ」と反応する。その反応こそが、森村進さんの訴えた通歴史的な所有意識と言い表せられると考える(他者をわざわざ介さなくとも「在る私」はある)。
 したがって、やはり自己所有権は肯定される。
 特に自己決定では「在る」という占有性を表すことができない。
 ただし、立岩真也さんが他者の承認によって自己所有権を解体して限定したように、「在る私」によっても自己所有権の限定はされる(特に、自己所有権の延長から正当化する所有権について。また、自己所有権の介入と放置の危険性を防ぐためにも)。

③<他者>と≪他者≫の倫理
 私が私にとって他者である場合を<他者>、他の人やものの場合を≪他者≫とする。
 ≪他者≫の制御はもちろん、<他者>の制御でさえしつくすことは不可能なのではないか。
 私たちは生まれようとして生まれたのではない。私であろうとしたから私であるのではない。つまり、私が在ること自体ですでに<他者>は否定できない事実としてある。
  
 倫理と道徳は、ethicsとmoralsにあてられる。
 英語はどちらも、ギリシア語(とそのラテン語訳)に由来し、慣習や習俗の意味と、慣習や習俗の大本にあるべき目的(善・真理)の探求の意味がある。
 アリストテレスのような国家観から離れて、人間の生きるべき真理と単純化するならば、後者は慣習や習俗と敵対する場合もある(倫理をたんなる共生の作法であり、歴史的文化的な相対的規則だと考えるのか、そうではなく永遠普遍の人間が従うべき・目指すべき目的や法則だと考えるのかという対立、最低の倫理と最高の倫理の対立とも言える。勿論、この問いは倫理とは何かという疑問であり、確固とした答えはない。実践哲学としてはじめて倫理学を独立させたアリストテレスならば、理想的な人間の生が国家と不可欠に結びついている国家観から、両者は敵対しない)。
 その意味からすれば、<他者>との関係で問題になる倫理(私の生き方)と≪他者≫との関係で問題になる倫理(世界のあり方)が対立しうることと重なる。
 それは、(10)で述べた私の所有増大と他者の生存との対立とも重なりうる。

(12)自殺の倫理的評価/所有による存在の危機
“今日の西洋社会において、自殺は、自ら手を下した意識的行為によってもたらされた死とされる。その行為は、死ぬことが最良の解決法と認識された出来事に直面し、窮地を脱することを願った人物の、多くの次元をもった苦痛によってもたらされる、と考えるともっとも理解しやすい”
 E・S・シュナイドマン(UCLA名誉教授)の自殺定義から考えて、自殺はどう評価するべきなのか。
 まず、倫理を生きている人間の倫理と考えれば、自殺に積極的な評価を与えることはできない。自殺することに積極的評価を与えれば、倫理の適応する場がなくなってしまう(もちろん、死後の生といった宗教の裏づけあればそうはいえないが)。
 それを踏まえて、上述した自己所有権の観点から、シュナイドマンの定義する自殺を倫理的に承認することはできる。
 承認せざるを得ない。
 ただし、自己所有権を「在る私」によって肯定したことからの制限がつく。
 その制限とは、“多くの次元をもった苦痛”がいかなる苦痛なのかによる。
 その点に関して、所有・生産の意味づけが存在を危機においやる現状、過労自殺と労働の正義を述べた上で示す。
 これは結局、(10)(11)で述べてきた対立、命の尊厳とは何か?生命はなぜ尊厳あるとされるのか?所有し生産できなければ死ぬことを持って人間の尊厳とするのか、人間の存在そのものに尊厳を認めるのかという問いを考えることにつながる。(生命倫理でのsanctity of lifeは特定の要素に還元することのできない無限の価値を認めることなので、所有・生産すること、達成できることをもって尊厳とするという言い方は妥当ではない。ここでは、この社会で私たちは人間の尊厳とはなにであると認めているのかを問いたいので、あえて生命倫理学からは不適切な用法を使う。sanctityも言葉の定義としてquality やconditionと切り離すことができないことを考えれば、holinessから外れるもののひとまず許容されるのではないかと考える。)


参照)
森村進著 『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)
     『財産権の理論』(弘文堂)
小松美彦著『死は共鳴する』(勁草書房) 
     「私が脳死移植に断固反対する理由」
      http://www.videonews.com/on-demand/281290/000904.php
  SOLの立場、人間が在るということに尊厳を認め、功利的な脳死移植議論を批判
立岩真也著『私的所有論』(勁草書房)
     「死の決定について」(ナカニシヤ出版『所有のエチカ』)
 (11)②で述べた立岩さんの『私的所有論』への疑問は、存在論と認知論という大テーマを擬した怪しい内容だと自認する。しかし、どうしても「他者」を介した自己決定には違和感があった。20年近くの蓄積が成した徹底した立岩さんの思索のそこだけは納得がいかず、“禁じ手”を認めることができなかった。だから、その手を使わずに同じような結論、自己決定を認めるが条件を問題にする、という順当な結論を導けるのではないかと考えた。それが成功している(納得させることができる)とはまったく思えないが、今の時点ではこの程度が限界だと記録する。
 
追記:倫理の現れる場としての身体)
 他者があるということは、他者に対する私がなくてはならない。
 したがって、(11)①②でのべたように、第一にあるのは一つの原理ではなく、一つの対立構造、つまり、他者の享受と制御の対立であると考える。
 “光あれ”と言う様に、神の意志は瞬間に実現する、全能であるのだから時間的なズレはないし、摩擦もない。
 だが人間はちがう。思い通りになるはずもない≪他者≫との関係も、<他者>との関係もズレと摩擦の連続だといえる。
 しかし、このズレと摩擦の存在こそが人間に倫理を問うのではないだろうか。
 神は存在自体に倫理があるが、人間は自由意志によって善悪を実現する。
 そして、その善悪の可能性、ズレと摩擦という倫理が現れる場所が、なんらの関与も貢献も無く、都合も一顧だにされずに自分だとされる身体である。
 立岩真也さんの述べたとおり、これは事実であって、私が自由にしてよいという規範ではない。
 しかし、この自分という身体に正当性を認める、排他的に自らのものとすることを他人にも認めさせるということがなければ、倫理はどこに現れればよいのだろう。
 「魂‐肉体」のような二元論によって、肉体なく存在できる倫理的主体を想定しなければならなくなる。
 私はそれこそ認めることはできないと考える。生きた人間の倫理なら、その手はまさに“禁じ手”だ。
 初期割り当て以前を考えることはできない。「在る私」が他のものに出会い・侵害される時の抵抗を所有という通歴史的な概念で認めるほか無い。
 その上で、自己所有に関する近代の戦略がもたらす廃棄や介入の照準を散らす道を考える。
 残された道はそれほど多岐なものではない。
 選んだ道が、人間の尊厳とは何かという問いの答えになるだろう。

さらに追記)
 sanctityの問題。 dignity無しにsanctityはあるのだろうか? 
 
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by sleepless_night | 2006-12-26 21:51 | 自殺
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