『殺された側の論理』/愛と正義の不可能性

 “ロープ担当の刑務官が、規定の方法でロープを死刑囚の首にかける。同時に他の刑務間が死刑囚の膝をひもで縛る。間髪をいれず保安課長の合図でハンドル担当がハンドルを引く。死刑囚の立っている踏み板が落下して死刑囚が宙吊りになる。この間わずか三秒程度のものなのである。”
 “宙吊りの体はキリキリとロープの限界まで回転し、次にはよりを戻すために反対方向へ回転を激しく繰り返す。大小便を失禁するのはこのときである。遠心作用によって四方にふりまかれるのを防ぐために、地下で待っていた刑務官は落下してきた死刑囚をしっかりと抱いて回転を防ぐ。”
 “医官は死刑囚の立っている踏み板が外れるのと同時にストップウォッチを押す。つぎに仮死状態の死刑囚の胸を開き聴診器をあてる。心音の最後を聞くためである。もうひとりの医官が手首の脈をとる。脈は心音より先に止まる。心臓がすっかり停止するまでには、さらにもうしばらく聴診器をあてたままでいなくてはならない。
 しかし、それも、そうな長いことではない。ストップウォッチを押してから、心臓停止までの平均時間は十四分半あまりである。この十四分半あまりが、死刑執行に要した時間ということである。”
               『死刑執行人の苦悩』大塚公子著(角川文庫)

 “より多く殺した人間ほど得が大きい刑罰、それが死刑だ。”
                『宣告』加賀乙彦著(新潮文庫)

                  *

(1)愛と正義
①<愛>について
 
“そもそも、<愛する>というのは、ある固有名詞をもった存在が、別のある固有名詞をもった存在と関係を結ぶことである。言い換えれば、<愛する>というのは、固有の「名」と「顔」をもつものとしての、かけがえのない、とりかえのきかないこのわたしが、やはり固有の「名」と「顔」をもつかけがえのないこの他者とかかわるということだ。(中略)それは、システム、あるいは共同体の成立していない地点で、この他者と交通するということである。”
 立川健二(言語学・記号論、元東北学院大助教授)さんの固有名詞を用いた愛に関する上記引用を整理すると<愛>の対象には
 ・不代替性=比較不能性
 ・脱共同体性
 の二つの要素が見られる、と言える。
 一言で言えば、「市場に通用するものではない」ということになる。

②家族について
 私たちの言う家族は、社会学で言うところの近代家族。
 近代家族の特徴として挙げられるのは
 ・公私の領域分離=性別役割分業
 ・子ども中心主義
 ・家族内の強い情緒関係=外部者の排除
 などだが、これも一言にすれば「家内の市場からの分離」と言える。
(定義はどうあれ大部分の当事者が「恋愛結婚」だと認識しておこなわれるのが現代日本の結婚であり、それによって家族が形成されている。それは当然、①で述べたような<愛>の言葉と理屈が近代家族の特徴のひとつである「家族内の強い情緒関係」に当てはめられていることになる。理屈を確認すれば、<愛>とは「比較不能なものの選択」という不可能な行いであり、不可能であるがゆえに<愛>は市場で比較されてはならないものとして認識されなければならない。比較を始めればとたんに<愛>の不可能性が露呈してしまうので、比較されてはならないものと予め認識さていなけれなければならない。<愛>による家族である近代家族の子どもは市場の中に存在せざるを得ない生産財ではなく、建前として市場と接触しない消費財へと変化する。もちろん現実には消費財や奢侈財としての価値の比較・競争はおこなわれているが、比較不能・してはならないと言う建前の認識を堅持しなければ親自身の近代家族としてのアイデンティティが崩れてしまうので、当事者が自認することは稀。 とにかく、「家族は<愛>しあうもの・べき存在」というのが近代・現代家族だと言うことを押さえておけば、ここでは十分。)
 
③正義について
 “正(ディカイオン)とは、適法的(ノミモン)ということと均等的(イソン)ということとの両義を含み、不正(アディコン)とは、違法性(パラノモン)ということと不均等的(アニソン)ということとの両義を含む。”
 アリストテレスは正義を、適法的であることは全ての(ポリスの)人に関る全般的な正義、それとは(全体に対する部分として)別に名誉・財産・モノの分配や取引・犯罪の矯正に関るものとして特殊的な正義に分析した。両者はともに対他的関係での徳として共通する。
 そして、特殊的正義は、分配については幾何学的比例による分配的正義、矯正については算術的比例による矯正的(是正的)正義によるとした。
 整理すると正義は
 ・他者との関係
 ・平等
 の二つに関る概念だと言える。
 当然、正義は比較可能を前提とする「市場に適合的なもの」だと言うことができる。
 この正義に関する考え方は、その後の正議論に影響を与え、西洋思想の影響下にある日本国憲法にも通じる。(正義の定義は、「等しきものは等しく」や「各人に正当な持分の分配」といったものが一般的だが、その内容はアリストテレスの発想と重なる。)
 14条の“すべて国民は法の下に平等であって”の意味とされる形式的・相対的平等は、法の適用がすべての国民に一律的である(算術的・矯正的正義)であることと、具体的差異に基づく合理的な異なる取り扱いの可能(幾何学的・分配的正義)に当てはめることができる。

④愛の正義の不可能性 
  ①で述べたように、<愛>は「比べられない・かけがえがない」不代替性と「対象者以外のとの一般的な関係から離れる」脱共同体性を特徴として持つ、そして②で述べたようにこの特徴は近代家族と重なる。
 両者とも、その特徴から、「価値を比べることができる」比較可能性と「替えが調達できる」交換可能性を特徴とする市場とは相容れないものと言える。
 そして、③で述べたように市場(より広く共同体内・間での一般関係)に適合するのは正義の原則。
 したがって、<愛>の正義を求めることは原理的に不可能と言える。

⑤償い、渇望と飛躍 
 妻と娘を殺害された本村洋さんはこう言う
 “残虐な犯罪が社会で発生する以上、私はそれに見合った死刑という刑罰が必要であると考えます。”
 夫を殺害された上月志津代さんはこう言う 
 “修復が不可能な罪を償うことははたしてできるんですか。”

 だが、<愛>する者を暴力的に奪われた人に、“見合った”刑はない。
 ④で述べたように、<愛>に正義を求めることは原理的にできない。
 一人の<愛>する者を奪った百人を死刑にしても、見合ったものになることはない。比較できない、替えが効かないのだから、“償う”こともできない。(これは、被害者遺族が犯人が死刑になったことで終わりだとは考えないこと、それで忘れられることに納得しないことからも推察される。)
 不可能を渇望、求められないものを求めずにはいれない、激甚な痛みのような悲しみがあるのだと思う。
 しかし、そこに飛躍が生まれ、人々を深淵へ導いてしまう可能性が生まれる。
 
(2)正義の内で
①有益と有害・善人と悪人

・原因不明の難病を薬で抑え積極的に社会生活を営んでいた夫、その妻と生後11ヶ月の娘。
                と
 強姦のために無断欠勤し、殺害を犯し、逮捕後も「勝った」と嘯く18歳の男。

・小さな会社を経営し、障害を持つ息子の教育と仕事一筋に生きた父であり夫。
                と
 引きこもってテレビ・ゲームに浸り、家族からも見放され、大学も除籍され、注目を集めるために模倣殺人をし、心神喪失を主張する男。

・交通事故で半身不随になり通院のために定時制高校に通っていたが、猛勉強をして普通高校を受けなおし、家事を手伝う優しい息子。
                と
 普段から因縁をつけてくる定時制を受験する2人の少年、と呼び出された3人の少年。2人が死ぬまで暴行し続け、それを傍観し続けた3人。逮捕された二人は2年で社会へ、3人は民事責任もなし。

・        警察官を目指していた大学生の息子。
                と
 ヤクザまがいの職質で追い掛け回し、轢かれた被害者を教護もせず、事件をもみ消し、目撃者に圧力をかけて保身しようとし、逃れられなくなると退職し天下った警官。

・   優しく純粋、真面目な勉強家で小学校教師になった姉・娘。
                と
 職を転々とした後に、小学校警備主事となった妄想癖のあるトラブルメーカー。殺害後に遺体を自宅の掘りごたつの下に埋め、時効期間を過ごし、区画整理で事件発覚を覚悟し自首するも、330万の慰謝料のみ負い、退職金を貰い年金生活。

 被害者その家族は、優しさ・努力・真面目といった人格的価値と乳幼児の母・会社経営者で父夫・普通高校生・大学生・小学校教師で姉娘と社会的に肯定的な存在であり経済的利益を生み出し・生み出すであろう人々。
 であるのに対して、加害者は自堕落・淫乱・幼稚・凶暴・卑怯といった人格的負価値と無断欠勤・引きこもり・定時制・不良公務員・流れ者といった社会的に否定的な(社会のメインラインから外れる)存在であり経済的にも利益を生み出していないか・逆に無駄になっている人々。
 
②放置と保護 
犯罪者は逮捕され、起訴されれば弁護士が付けられる。有罪となり刑務所に入れば三食は保障され、医療も(建前的には)保障され、技術などの習得も援助される場合がある。
 税金が投入され、人権が保護されるような仕組みがあると見える。
 対して、被害者とその家族は、頼まなければ支援してくれる人間はいないし、被害にあって肉体的・精神的に勤務や学習が不可能になっても職や学籍が保護されないし、民事裁判も自分で動かなければならず、勝訴しても賠償が実行されることが稀だったりする。
 犯罪被害者給付によって治療費相当額の支給があるが、そのほかには自力で生活・人生を守らなくてはならない。
 犯罪者として人を傷つけ・損害を与えた者が生活・生命を保証され、傷つけ・損害を負った者が自力で生活を支えなければならない。払った税金が、犯罪者を保護することにも使われる。
 
③正義の問題
 ①②で見てきた、二つの問題を確認すると
 ・善人と悪人・有益と有害の間の不平等 ・保護される者と放置される者の間の不平等 があることが分かる。
 つまり、2つの正義に関する問題がある。 
 言い換えると
 なぜ、善人が悪人に殺されなければならないのか? これに重ねて、なぜ悪人が保護され、善人が放置されなければならなかったのか? という疑問。

 “父が殺される理由なんてないわけですから。まじめに生きている者が無残に殺されて、モノとして扱われる。一方、犯人は税金で弁護士をつけてもらい、ぬくぬくとご飯を食べている。この隔たりに強い怒りがあります。”

 前者(悪人に善人が・有害に有益が、なぜ殺されなければならなかったのか)の問題・疑問にこたえることは出来ない。
 これは表現として成立しているが、論理としてあるものではない(上記引用、父を殺害された大鞭孝孔さんの言うとおり、殺されなければならない合理的な理由などない)のだから、答えようがなく、あえて答えようとすれば宗教の範囲になってしまう。
 そこで、後者の問題・疑問に移れば、教科書的な答え-近代国家の成り立ちや立憲主義の考え方-しかできない。
 しかし、それで納得できないから問題があり、疑問の形をした怒りが発せられる。
 そして納得がいかないことの背景に前者の答えられない問題・疑問がある。
 1人以上の命を奪った1人の命を奪っても平等にはならない上に、被害者1人の価値を加害者1人の価値で見合うとすることができない。
 単に保護と放置があるのではなく、善と悪があるから、怒りがある。 

(3)愛と正義
①二つの不可能
 “被害者は加害者が生きていること自体が赦せないのです”
 孫娘を殺害された宮園誠也さんは言う。
 結局、“生きていることが赦せない”という端的な表現が、被害者やその遺族の想いを表す最適ものだと思われる。(家族が殺されたのに自分は生きて笑ったり楽しんだりしているという罪悪感の形を採っても同様のものだと解される)
 ③で述べたように答えられない疑問・問題があり、(1)⑤で述べたように回復不能な喪失がある。
 そこで被害者や遺族は、自分たちがマイナス状態のと同じく、加害者側もマイナス状態にしようとする。
 つまり、均衡・平等=正義を求めようとする。
 しかし、そこに(2)③で述べたような答えられない事実・問題があり、被害者や家族に(1)⑤で述べたように不可能な<愛>の正義を求めさせてしまう。

②切り離して
 “だれだって、生きるチャンスがある者を死刑にするということに迷いはあります。ですが、あくまでも法治国家である日本の最高刑は死刑であり、被害者遺族としてそれを求めるのは当たり前の感情なのです。”
 “死刑制度はその名の通り、人間社会の秩序を維持するための制度です。今現在、死刑制度が存在する以上、死刑廃止をするのであれば、まず死刑を存置することのデメリットと死刑を停止した時のメリットを明確にする必要があります。”
 “死刑になりたくなければ、人を殺さなければよいだけのことです。これ以上でも、これ以下でもない。この極めて簡単で明確なルールを守れず、人の命を粗末にする人間は、ルールに従ってもらうだけのことだと思います。”
 “私は死刑存置論者だと思われていますが、単純に死刑がこの国の最高刑だから死刑を求めているのです。”

 メディアにおいて努めて冷静な議論を展開しようとする(これ自体超人的なことだと思う)本村洋さんの発言に、特徴的に出てくるのが「法治国家」というタームと、それによる加害者・被告人への死刑実施の要求。
 確かに実定法思想(人が決めて書いたものが法律)から言えば、その通り。
 しかし、人権という思想は自然法思想(人が変えることのできない価値があり、それは人が書いた法に優越する)的な要素を(程度の違いはあれ)もつものであり、それは第二次大戦後に法治主義・実定法思想によって合法的になされたナチスの犯罪を処罰する・法的に許容すべきできないと考えられたことを一つの契機とし、以降の世界で否定することのできない人類の価値と確認されたもの。
 現実がどうであるか、たかだか200年程度の歴史しかないということを持っては否定できない。現実が理念とズレるからこそ、理念は理念として持ち続けなければならない、それが理念の意義である。その意義を否定することはできるが、そうなれば現実を前に法も倫理も不要となる。
 「法律がそうなっているから」ということを持ち出してこれを突破してしまえば、私達は歯止めを失うことになる。
 
 おそらく、本村洋さんもこんなことは分かっていると思う。 
 それでも、言わなくてはならない・持ち出さなくてはならなかったのは、<愛>するものを奪われたことの代替不能性を代替可能・比較可能を前提とする社会へ伝えようとする時、社会に通用する言葉としてあったのが法治主義だったからだと思われる。 
 つまり、妻と子を殺されるという経験、「加害者が生きていることが許せない」という発言は、<愛>におけるものであって、それは受けた者以外に伝えることは出来ない(仮に妻子を殺害された経験を持つ他の人がいてもそれは同じではない)し、社会に通用するものでもない。
 しかし、社会において、不可能でも発しなければならない、不可能な<愛>の正義を表現しなければない時、飛躍を承知で社会に通用する言葉として残されていた法治主義(法律がそうなっているから)を持ち出さなくてはならなかった、それしか社会を説得するために使えるタームとして残されていなかったからだと私には思われる。
 
 自然法思想を持ち出すまでもなく、「法律がそうなっているから」という話では、「じゃあ、なってなかったら死刑でなくていいのね」という話で終わってしまう。
 本村さんは、そうではない。
 “少年という理由で死刑にできないのなら、いますぐ社会に犯人を戻して欲しい。自分の手で殺します。”との発言から、そうでないことは理解される。 

 被害者支援と死刑廃止を切り離して論じなければならないのと同様に、死刑や人権と感情や現状は切り離して論じる必要がある。(これは両者を無関係なものとして扱え、ということではない。両者は同一事象で問題になる以上無関係ではなく、無関係として扱う議論は空論になってしまう。そうではなく、感情や現状を人権思想や死刑の理屈に直結させることは、死刑廃止に被害者支援を直結させることと同様に間違いだということ。)
 
③出来ること
 “私は死刑を煽っているわけではない。しかし、死刑制度が廃止されれば、人間を何人殺そうとも国家がその加害者の生を補償するということになる。そして、ここに記録したような犯罪被害者の複雑な思いを封じ込めることにもなる。それが私たちの社会の正義に反するのか、適うのか、どちらなのだろうか。”
 藤井誠二さんは言う。
 だが、これは二つの意味で間違っている。
 一つは、死刑制度廃止と“犯罪被害者の複雑な思いを封じ込める”ことは一致しないし、不可分ではない点で間違っている。
 もう一つは、(1)⑤で述べたように、そもそも殺人犯を死刑にすることで正義は実現されないし、(2)③で述べたように保護と放置の裏にある善と悪の(間にある平等=正義の)問題に答えることは宗教でない限り不可能である点で間違っている。
 藤井さんは死刑を煽っている、ように私には見える。

 <愛>の正義を求めることは出来ない、そして、被害者加害者を両方マイナスにすることで生み出されるのは、当然マイナスだけ。被害者加害者両方とも悲惨になるだけのことを、私は社会の選択(<愛>の範囲ではなく、社会の比較可能な正義の問題)としてすべきではないと考える。
 だから結局、社会ができる正義の選択としては、加害者がプラスの状況にあることを認め、被害者も同様に(それ以上に)プラスの状況にあるようにすること、だと考える。

続き⇒『殺された側の論理』/正義の先と早過ぎる選択
 
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by sleepless_night | 2007-06-22 21:27 | 倫理
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