『殺された側の論理』/正義の先と早過ぎる選択

『殺された側の論理』/愛と正義の不可能性の続き。

(4)正義の先、もう一つの選択肢
①もう一つの選択肢

 (3)③結論で、被害者加害者の両方をプラスにする、加害者がプラスの状況にあることは善いことだと認めたうえで出来ること・すべきことを述べた。
 しかし、もう一つの選択肢が正義の先にある。
 
 “大多数の遺族にとって、加害者の「更正」は(するにこしたことはないが)二の次さんの次の問題であって、かつ「真の」更正など期待はしてないのである。もっと言えば「どうでもいいことなのだ」私は100家族以上の犯罪被害者遺族の方々に会ってきたが、これが遺族の心情であると断言することができる。”
 藤井誠二さんは繰り返し「更正が大事か?」と問い、問う形を採って否定の意思を伝える。
 そもそも加害者がプラス状況にある(権利が保障されている)・なる(更正し・社会に有益な存在となる)ことを期待しない、認めないという前提。

 確かに、これはこれで正義となりうる。
 つまり、被害者や遺族の<愛>とは関係なく、純粋に社会における正義(比較可能なものとしての均等・平等)として加害者をマイナスにし、被害者をプラスにすることは、相対的平等・分配的正義の観点から認めることが出来る。
 (2)④で述べたような被害・加害者を両方プラスにしようとする正義の場合も分配的正義によるが、同時に形式的平等による矯正的正義(法の下の平等、人間としての侵されない権利)の観点があるので、加害者をマイナスに放置することが認められなかった。

 中嶋博行(作家・弁護士)さんは、新人権主義と銘打ちこの選択肢を明確に支持し提案する。
 “新人権主義は犯罪者の更正改善など求めない”
 “私は常々不思議に思っていることがある。わが国の行刑目的、いや刑事司法の究極の目的は犯罪者の更正改善にあるとされ、だれもそれをうたがっていない。しかし、犯罪者を更正改善させるのはそんなに大切なことだろうか。”
 “犯罪者を更正させる費用はすべて税金であり、かつ、いたれりつくせりの更正プログラムを用意しても成功する可能性は低い。(中略)いったい、だれがそこまでかけてレイプ少年の立ち直りをのぞんでいるのか?血税が泡と消えているのだ。少年には己の更正より、まず被害者に償わせるべきである。”
 そして、その手段として刑務所に工場を誘致し、働かせた利益を当てる。刑期満了時に賠償額を稼げなければ公設取立人に追わせ、金がなければ犯罪賠償刑務所で働かせることを提案している。

②その先
 中嶋博行さんの上記アイディアはちょっと見で悪くないと思われる。
 しかし、少し考えればこれはうまくいかない、少なくとも中嶋さんが目指す犯罪の無い社会には絶対にならないことは容易に予測できる。
 なぜなら
 「刑務所に工場誘致=安い労働力+法の不適用」となれば、捨てることが公に認められる労働力を国内で調達できるようになるのだから、企業がこれを手放すはずが無い。
 企業は、犯罪がなくなったら困ることになるのだから、犯罪をなくそうとしなくなる。
 これは、刑務所運営参入した民間企業(警備会社)は、治安がよくなったら困る企業なのだから、犯罪がなくなって欲しいはずが無いことと全く同じ。全体的な数が減ったとしても、定期的に国民に恐怖と不安を感じてもらえるような事件がおきてくれなければ困る。これでさらに工場誘致などすれば、何が起こるのか。

 さらにそもそも、刑務所に“健康で働き盛りの人間”が溢れかえっているのかという疑問まである。
 “よく観察してみると、「治安の最後の砦」であるはずの刑務所は、たしかに処遇困難者で一杯になっている。しかし、それは従来よりも手間がかかるという意味であって、凶悪犯罪者というよりは、明らかに労働市場から締め出された、何らかのハンディキャップを持った者たちで埋め尽くされているのだ。”
 法務省の研究官から累犯刑務所(犯罪性の進んだものを収容する刑務所)の矯正官に移動した浜井浩一(竜谷大法科大院教授・臨床心理士、統計学・犯罪心理学)さんが過剰収容の刑務所で見たのは、「福祉の最後の砦」と化した刑務所だった。

 単純で説得的な分配的正義のメッセージ(犯罪者にはその負の価値に応じた扱いを考えるだけでよい)、その先に現れる光景を私達は見たいのだろうか。
 
(4)司法と民主
①民主的基礎=ペコペコ?

 裁判官は世間知らず、と言われる。
 試験合格・修習の後にキャリア裁判官として基本的にその世界で生きる。しかも膨大な事件・訴訟を抱え込み、裁判所と官舎(転勤があるので持ち家ではない)を通勤バスで行き来し、休日も自宅で仕事をしなければならないのだから、法廷の外と接する機会は限られたものとなる。
 また、それが良いことだとする、エリート意識のようなものを持つ人もある。

 議院内閣制により、国民は選挙を通じて立法と行政のメンバーを選ぶことで、自分たちの意見・選択を国政に伝えることができるとされている。それが実際できていると感じているかどうかは別として、選挙(選ぶ)と言う具体的な行為とメディアによって立法と行政について僅かでも具体的な操作感を持つことはできる。
 しかし、三権のうち司法だけは、そうではない。
 判事・検事の選挙はなく、衆院選時にある国民審査で分けも分からず×をつけてみるしかない(それだって、解職された最高裁判事はいない)。メディアでは弁護士が大活躍しているが、彼・彼女は法廷の外にスタンスを置いている(裁判官・検事が法務省内にいるのと違い、外部者のようなもの言いができる。それが視聴者の味方のような錯覚を与え、共感できない・ように報道される被告(人)の代理人は弁護士失格だとの感覚を与える)。
 「税金で食わせてやっている」のに、なんで国会議員のように定期的にペコペコしてみせ、私達の鬱憤を晴らさせないんだ、と感じてもおかしくない(懲戒請求という手が最近「発見」され、弁護士はペコペコさせることができるかもしれない)。
 この視点は単なるイチャモンではない。国民主権の立場から言えば、司法の意思と国民の意思がズレることは悪いことで、正されなければならない。だから、選挙で判検を選ぶ国だってある。

②感情が正義に
 “被害者にとって法廷は、法的な枠組みの中で扮装を解決すべき場ではなく、彼らの思いが正義の主張として裁判官に聞き届けられるべき場であり、真実を追究し、謝罪を求め、彼らの受けた被害を社会にとって意味のあるものとして位置づけようとする場である”

 刑事訴訟法が改正され、殺人・強姦・重過失致死などの刑事裁判で被害者が、検事の横に座り、証人質問・意見陳述、求刑などを行えるようになる。
 これは、今までの刑事裁判の性質を根本的に変えるものといえる。
 横に被害者を置いて、法の下の平等(と自分のキャリア)を理由に先例との比較をできる検事がいるとして、それが今度は槍玉に挙げられないだろうか。
 もし、冤罪事件だったら、検事の横で求刑などに関った被害者は何だったことになるのか。検事なら、それを職務上の間違いにできる。でも、被害者は何だったことになるのだろう。
 いや、これはいままで被害者が悲惨に放置されてきたのだから仕方がない。多少の犠牲はつきものだ、と流すのだろうか。
 では、冤罪の被害者(犠牲者)は、裁判に参加して自分の自由・生命を奪った被害者にどうすればいいのだろう。

③善いままに、そこから
 (3)③で述べた結論の繰り返しだが、善いことは善いと認めるべきではないか。
 人権が保障されることは善い。人権の「人」には加害者も含まれる。
 そして、善いものを悪くする必要はない。
 現状の効果が期待値以下だといっても、それで善いものを悪くする必要もない。
 どうせ効果が期待値以下ないのだ・そもそも期待などしないのだから、悪くして放置したっていいじゃないか。と思うかもしれないが、犯罪者を全員一生閉じ込めておこうとでもしなければ、社会にその悪く放置された犯罪者は帰ってくる。
 だから、善いものは善いままに、今度は被害者を善く(プラスの状況に)する方法を考えればよい。
 そしてそのアイディアは既に提案されている、賠償や公的な援助者・組織の整備があり、実現すべきだと思う。
 
 <愛>の正義は不可能だということ。
 社会が不可能を追い求め続ければ、とどまることを知らず、深淵に導かれる。
 もしかしたら、社会全体が一緒に深淵に落ち込むことは望ましいと考える人もいるかもしれない。
 しかし、私は違う。犯罪者に期待といえるような立派なものなど持ち合わせていないが、それと法・制度を切り替えてマイナスの状況を加速させるようなことは、社会を安全にするもの・生活したい社会ではないと考えている。深淵に落ち込む必要はない。深淵に落ち込んだ社会で、人々が安心や信頼を持って生き・育てらるとは考えられない。
 (3)②で述べたように、被害者支援と死刑廃止は切り離して考えられるし、そうすべきだ。
 それと同様に、加害者の人権が保障(プラスの状況)されたまま、被害者の人権を保障することだって考えられる。両者はもちろん無関連ではありえないが、完全連動するものでもない。一方のプラスをそのままに、もう一方もプラスにすることは考えられるし、それが望ましいことだと考える。
 
 “「法律がこれじゃどうにもならない」と嘆く本村氏を、その刑事は一喝した。
 「そんな泣き言をいうな。法律が悪いと思うなら、なおせばいい。それが、きみのやるべきことだ」
 本村氏は当時の心境をこう語る。
「ふつう法律を変えるなんて想像もつかないのに、いともあっさりいわれて驚きました。でも、その一言がきっかけで、法律を変えるという、今の被害者活動に結びついたんです。」”

 少なくとも、もう一つの選択肢を選ぶしかないとするのは、早過ぎる。
 法律に納得しないなら変える、その権利は国民にあるという小中高と繰り返し教えられたはずのこの理屈が、当たり前に出てこない現状(これは本村さんのことを特別に指しているのではない。実際、この当たり前の仕組みや三権分立の意義を理解し、どこをどう動かせばいいのか・動かしてはならないのかを分かっている人は多くないと思う。結局、学校で習ったのは穴埋め問題に答えられるための知識で、現実を運営するためのものとして認識させるものではないのかもしれない)で、もう一つの選択肢しかないと考えるのは間違いだし、早過ぎる。 



引用・参照)
(1)①『愛の言語学』立川健二著(夏目書房)より引用
 ②『21世紀家族へ』落合恵美子著(ゆうひかく選書)を主に参照
 ③『ニコマコス倫理学』アリストテレス著 高田三郎訳を引用・参照
 文中ではアリストテレスの考え・用語を利用したが、これはアリストテレスの正議論と一致しているということではない。 
 ⑤『殺された側の論理』藤井誠二著(講談社)より引用。(2)①③④、(3)①も同様。
(3)①『罪と罰、だが償いはどこに?』中嶋博行著(新潮社)より引用。(4)③も同様。
 ②『犯罪不安社会』浜井浩一・芹沢一也著(光文社新書)より引用。
 (4)②は同書に紹介された和田和孝さんの意見。

(2)④で「藤井さんは死刑を煽っている」と述べた理由)
 これは間違いや誤解に註も訂正も入れていないことが大きい。
 取材ノート①被害者遺族の方の対談、p92“犯罪白書によると、住宅地の夜の一人歩き~”の部分で、実際の治安と体感治安の区別をつけない意見や、p97で覚せい剤利用時の犯罪での心神耗弱の議論でも刑法学的に誤解を生む(犯罪の度胸付けで覚せい剤を打てば刑が軽くなるわけではない)記述がある、p101で刑法制定“当時の平均寿命は40代”とあるが、これは乳児死亡率の高さを考慮していないので不適切、p102で“国家が命を奪うのがおかしいと主張するならば、警官が銃を持つのも禁止しなくては”とあるが死刑と警官の拳銃使用場面の意味が違いすぎて無意味、p103で“すべての犯罪者を同一視して、同じ更正プログラムに”とうのも日本の刑務所では分類処遇制度を採っているので間違い。
 いくら対談だからといって、誤解や間違いをそのまま刊行してよいというのは、プロのライターとして誠実ではない。メディア(第三者性)を放棄している。
 また、(2)③で述べたような図式、「なぜ善人が悪人に殺されなければならなかったのか?」という問題、何に怒っているのか、が意識されておらず、被害者が放置されていることの怒りと混合されている。被害者や遺族の方が手記の形で怒りを表現することと、第三者であるライターが同じ表現をとることでは意味が違ってきてしまうことを看過している。
 同書は読者に対して、「死刑以外はない」というメッセージに障るものを意図的に除けて伝えるもので、死刑を煽っているものと言える。


メモ的な追記)
 このエントリで述べたこと
 加害者をマイナスにすることと、被害者をプラスにすることは別でありうる。
 被害者や遺族の求める<愛>の正義は不可能。
 は、ご自身も犯罪被害者で、犯罪被害者の会幹事をなさっていた渋谷登美子さんの幹事辞任理由と重なる。
 
 “私は、『復讐権』を認めた社会は、人間の文明を滅ぼすと考えています。被害者の『復讐したい』という情念を社会に伝えたいという思いを否定しがたいものがあります。しかし、国家が被害者に代わって復讐することを刑罰として捉え刑事司法の改革を世論として確立する働きかけをすることは、私にはできません。
 死刑を廃止すること、それに真っ向対立して死刑執行を求める動きもあります。
 私は、被害者の権利確立は、加害者の刑罰に関らず進めたいと考えています。しかし、「犯罪被害者の会」幹事会では、加害者の刑罰が少しでも重いことが、被害者の権利確立に通じるという情念で働いているように感じられます。そのため、修復的司法とか、和解という意味合いの言葉がどこかででてくると、犯罪被害者の会幹事会では、被害者に対しての裏切り行為のように感じられるようで、加害者を擁護することになるらしく、激しい攻撃にあうことがあります。
 遺族は、「家族を殺害した加害者に復讐したい」というつらい思いを語る吐露することも必要なことだと思います。復讐をかたるなとはいえません。「犯罪被害者の会」は、遺族の自助グループではなく、被害者の権利確立の運動タイとしての働きかけをおこなう団体として設立しました。「報復感情を実現したい」という情念からの被害者の権利確立の動きには、賛同できず、それを議論することは、遺族の感情を著しく傷つけることになるので、辞任することしました。” 
  http://www.k2.dion.ne.jp/~saiko/shibuya/TS1229.htm#辞任

 全くの思いつきだが、この考え方の違いにあるのは、被害者本人と被害者遺族という違いなのかもしれない。
 これは佐藤健生(拓殖大教授)さんが、戦後賠償についておっしゃっていた「赦すことができるのは被害者しかいない」を思い出してのこと。
 つまり、実際に直接被害を受けた戦争被害者が「赦す」と言えるように賠償をせず、ほっといて被害者が死んでしまえば、被害者の後の世代は「赦す」ことができなくなってしまう。「赦す」正当な権限を持つ本人がないゆえに、賠償に「これでよい」ということ、人を納得させる「これでよい」と言える人がいなくなる。とのことを仰っていた。
 犯罪被害者本人は、「被害を受けた自分」で生きていかなくてはならず、どこかで「これでよい」と思っていかなければならない(赦すというより、切り離して他にやらなければならないことがあると思うこと。「赦す」≠「これでよい」であって、「これでよい」を説得的に言えるのが「赦す」権限のある人だということ)のに対して、遺族の場合「これでよい」と言えない、言える正当な本人がいないために、権利確立と修復的司法や和解といった問題が切り離せず、不可能な<愛>の正義を求めてしまうのではないか、と思う。
 もちろん、「これでよい」といってくれる本人が生きていないこと、殺されたことが事実であり問題なのだが、それは解決できないことも事実である。
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by sleepless_night | 2007-06-22 21:28 | 倫理
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