ロックフェラーの野口。

 
 オーマイニュース「野口英世は偉人か虚人か」で引用してある福岡伸一著『生物と無生物の間』が参照元と思われるロックフェラー大の野口評。
 (コメントで野口は“小学校もろくに出ないで”と書かれているが、当時の義務教育だった尋常小学校も、義務ではない高等小学校も出ている。野口生家の近隣で育った(と称する)会津人がこれでは。)


 以下、ロックフェラー大のニューズレター「BENCHMARKS」2004年6月7日の私訳。
http://www.rockefeller.edu/benchmarks/benchmarks_060704_d.php

「ウェルチ・ホール、旅行者のメッカ。」
 6月、ロックフェラーの細菌学者だった野口英世が日本の千円札に登場予定です、旅行者がもっと図書館に来ることことになるでしょう。

 20世紀初期に23年間ロックフェラーで過ごした野口英世は、今日ではキャンパスの有名人の一人ではありません。梅毒、ポリオ、狂犬病、そして黄熱病についての彼の研究は当時喝采されていましたが、研究成果の多くは矛盾し混乱したものでした。そしていくつかは後に誤りが証明されました。彼は大酒のみで遊び人としても評判でした。
 ですから結局、1904年にサイモン・フレキスナーの研究室に参加し、1927年にアフリカでその原因を究明していた黄熱病で死亡した野口は、ロックフェラーの歴史の主章より脚注にいるのです。
 日本では、全く話が違います。
 日本の猪苗代の野口の生地は観光名所です。彼が育った農家は現在、彼の業績、母からの手紙や彼の死後に摘出された肝臓の写真まで展示している博物館になっています。彼は日本の20世紀の最重要人物の一人だと考えられています。そして今年の6月、彼の国は、最も重要な手段、デザインが更新される千円札(大体十ドル相当)に彼の肖像を印刷する、で彼を称えようとしています。
 図書館の二階のウェルチ・ホールに入って左手にある、彫刻家セルゲイ・ティモフェエヴィッチ・コネンコフによって1927年に製作された野口の胸像はちょっとした観光地になっきました。年に何十回も66番街門の警備員は日本の観光客に野口の胸像の写真を撮るために入ってよいかを丁寧に尋ねられています。
 2・3ヶ月前、旅行会社が三台のバスでカメラを持った観光客団をウェルチ・ホールに連れてきた時、日本人の野口の胸像に対する関心は新しい高みに到達しました。
 そして3月25日、大学の司書パトリシア・マッキーは自分が日本人観光客の一陣に飲み込まれていることに気づき、彼らが順でお互いに胸像の前で写真を取っているのを辛抱強く待っていました。マッキーはロックフェラーの人口研究所で働いていた科学者サム・コイデがその団体に野口の研究について話すように手配しました。
 2000年に野口についてロックフェラー公文書センターの調査報告を書いた日本のいわき明星大学英米文学部のアヤ・タカハシによると、野口の日本での名声に対しては、いくつかのことが寄与してきたそうです。
 まず、彼の子ども時代があります。野口は貧しい農家に生まれ、幼児期に左手に深刻なやけどを負い、それは彼に障害を残すことになりました。彼はその両方の障害に打ち勝ちました。そして国際的な名声を得ました。一時期は、作った黄熱病ワクチンに対してエクアドルは彼を英雄だと讃えました。(後に科学者たちは黄熱病に対してこれが何の効き目もないことを明らかにした。)さらに、彼が追い求めたまさにその病気による早逝は、彼が“科学の殉教者”であるとの印象を強く残しました。
 ロックフェラー研究所(もともと大学が呼ばれていたように呼ぶと)はその野口神話を押しつぶさず、タカハシによれば、研究所初代所長サイモン・フレキスナーが個人的に野口の葬儀をすべて取り仕切り、この科学者について尋ねる皆に華やかしい野口の伝記を公表したそうです。
 ウェルチ・ホールの胸像が世界に唯一のものではありません。フレキスナーは50年前に野口記念館に複製を送っています。現在、これは猪苗代の野口記念館には展示されていません。
 それでも、観光客は個人であるいは団体でわれわれの所有する胸像を観にロックフェラーに現れ続けています。
 あなた方の野口の見方がどうであれ、野口の紙幣が流通し始めるまで2・3週間です。この流行はなかなかおさまりそうにありません。
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by sleepless_night | 2007-08-23 20:25 | その他
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