「できるのにやらない」ことについて語るときに、僕の語ること。



(1)発言の構造
 “「おねがいです。できるだけのことをしてください」”

 認知症・95歳男性の肺炎患者の娘がこう発したのは、医師が「輸血製剤」という「できること」の存在を示したからだ、と「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。で述べた。
 そして、これは死生観の変化の問題ではないことも述べた。
 過去の時代を見ても、死に対して可能な限りの反抗を試みた人々の存在は容易に見つかる。
 中国皇帝の不老不死の追及や欧州キリスト教での奇跡信仰を取り上げるまでもなく、過去も死を従容として受け入れられた人々で構成されていたわけではまったくない。
 だから、日本人の死生観を嘆くことは適当ではないし、嘆くとしたら俗流若者論に近いメンタリティーによるものだろう。
もし現代人の死生観を問うなら、高齢者よりも幼児の死を問題にすべき。百年前の幼児死亡率、「七歳までは神のうち」と言われたことを考えれば、現在の幼児への治療、特に障害を持つ可能性のある新生児への医療資源の分配は見直されなければならいだろう。
 
 この上記引用発言で考えるべきは、「できるのにやらない」ことの承諾・決断を娘自身に求めたことの応えである点だと思われる。
 つまり、すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。で述べた作為・不作為の問題だ。
 莫大な遺産を得るために風呂場で従兄弟を事故に見せかけ溺死させたスミスと、同じく遺産を狙って殺そうと風呂場にいったら従兄弟が滑って頭を打って溺れていたので、死ぬのを眺めていたジョーンズ。
 スミスとジョーンズの例を出して、J・レイチェルズが問うた「行為と不作為にどれほどの違いがあるのか?」、という疑問。
 そして、日本の刑法を見たときに作為と不作為の違法性を分かつ関係性。
 倫理的に見て二人に大きな違いはなく、法律的に見てスミスは殺人罪、ジョーンズは保護責任者遺棄致死罪に該当する。だが、仮に従兄弟でなければ二人に倫理的な違いを認め得、法的にもスミスが殺人罪であることに変わらない一方で、ジョーンズは罪を問われないという、関係性による作為と不作為の評価の変化がある。
 即ち、不作為の場合に関係性によって、倫理的殺人から法律的無罪へと大きく変化する。
 
 これが娘の発言を考える場合にも当てはめられる。
 認知症95歳男性の娘にとって、男性の死が父親の死(=「二人称の死」)であることが「できるのにやらない」ことの問題なのであって、見ず知らずの認知症95歳男性の死(=「三人称の死」)ならば「できるのにやらない」ことが問題となるとは考えられない。
  
 医師にとって「できるのにやらない」ことは単なる不作為(≒無罪・正当業務)、娘にとって父親に「できるのにやらない」ことを決断・承諾することは不作為(≒倫理的殺人・法的遺棄致死)になるのだ。
 だから“「できるだけのことをしてください」”と言わなくてはならなかった、と考えられる。

(2)「できるのにやらない」ためにできること
①みんなで渡れば

(1)の考察から、「できるのにやらない」ためにできること、のひとつが考えられる。
 娘にとって父親への「できるのにやらない」承諾は不作為(≒倫理的殺人)になる。
つまり、赤信号を渡ることだ。
だとしたら、それを変えることは容易ではないが、赤信号はみんなで渡ると怖くない。
 つまり、娘一人が「罪」を犯すことから、95歳男性の死を「二人称の死」と捉えることのできる娘以外の複数人を引き入れる、「共犯者」を入れればよい。
 そして、その複数人の内でも冷静であったりする(隠れ「三人称の死」派)人を使って説得させることが考えられる。
 こうすれば、医師・看護師といった病院側の人間と患者との利益衝突を回避できる。
 コーディネーターのような第三者を入れるカネもかからない。

②すり替え
 もうひとつは、「できるのにやらない」から「できることをする」へとすり替えてしまうこと。
 「やらない」(=不作為)ことが、「やる」(≒殺人)と評価されるのが問題ならば、別の「やる」(≒殺人以外)を提示してしまえばよい。
 何かを「やる」ことで、「やらない」ことから意識をそらす、もしくは「~はやらなかった」が「~はした」とマイナスのプラスによる埋め合わせを与えることができる。
 実際は、「できるのにやらない」ことに変化はないが、認知を変えるようにもっていく。

(3)分断統治
 「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。の(6)で、仮にQALYのような功利主義に基づく医療資源分配を医療従事者が提言するならば、自らの立つ現代医療という場を崩すことになると述べた。
 しかし、QALYのような制度を部分的に取り入れることならば、そうはならないと考えられる。
 たとえば、国民健康保険を二種類に分ける。一方は現在と同内容だが保険料を値上げする(通常版)、もう一方は現在より保険料を低く設定しQALYのような制度の適用を受ける(簡易版)とし、どちらにするかを個人個人に選択させればよい。
 これならば無保険者を現在よりも減らすことができ、国民皆保険という建前も守れる。
 そして、医療に対する平等性要求からも、多数派が前者を選択し、対立が後者を選択させられた少数者内部におさまる限り、現代医療に対する社会の支出への異議は起きないだろう。

 

 殺したのが従兄弟でなければ、スミスは殺人であることに変わりないが、ジョーンズは法的には罪ではないのだから。
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by sleepless_night | 2008-01-03 18:06 | 倫理
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