テロの隣人



“イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある司祭がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』”さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」”
                 ルカによる福音書10章30節~36節

             *
 大阪市にはホームレス状態にある人々が約4000人いる。
毎年約800人が路上、公園、水中、簡易宿泊所、運がよければ病院に運ばれて死ぬ。
死因は病死、餓死、凍死、自殺、暴行死など。
大阪市西成区、釜ヶ崎には約2万5千人の日雇い労働者がおり、約1万9千室の簡易宿泊所がある。簡易宿泊所は住居と認められないため、住民票を取ることが認めれず、選挙権を行使できない(つまり、憲法の三大原則の一つ「国民主権」の「国民」から実質的に除外されている)。仕事を探し、部屋を借りようにも、金銭的余裕に加え保証人がハードルとなって極めて困難な状態に置かれている。そして、住居がないので「居宅保護」も受けられない。

 約20年前から釜ヶ崎に赴任し、釜ヶ崎の労働者支援活動を行っている本田哲郎神父(フランシスコ会)は“貧しく小さくされている人”と彼・彼女らを呼ぶ。
“彼らは「社会的弱者」と呼ばれてはいても、社会的に弱い立場に立たされているという意味であって、彼ら自身が無力だというのでは”なく“持っている力を発揮するための「場」や「条件」を奪われているだけ”であり、“「小さい者」ではなくて、「小さくされている者」”だ、彼ら・彼女らを小さくしているのは中流クラス以上の人々、そこには教会に今日集っているキリスト者達も含まれているという。
 本田神父は原典の読み込みから、旧約・新約聖書“この二つが共通していっていること、それは「神は貧しく小さくされている者と共に働かれる」この一事”だったとの認識にいたる。
 アブラハム、ダビデ、モーゼ、イスラエルの民、マリア、ヨゼフ、12使徒、彼らが宣教した人々、そしてイエス自身も、皆貧しく虐げられた人々だった。
  “神は底辺の人たちを選び、その人たちと共に立ち上がることをとおして、すべての人を救われる”、“貧弱だからこそ、神がご自分の力をその人たちに託し、自分たちが貧しさ小ささから立ち上がって、まわりの人々を解放しつつ、共に豊かになっていけるように定めている”のだと。
貧しいことが良い、価値があるのではない。貧しくない人が貧しくなろうとする必要はないし、貧しくない人が貧しくなったとしても、貧しく生まれ育った人々と同じにはなれなるわけではないし、“はじめから下積みでがんばるしかない、そういう状況におかれている人たちを差別することになる”。へりくだりを評価する際の根拠とされる従来の聖書解釈“神→人間→僕→十字架の死”というイエスの生涯も間違っている。貧しく小さくなる競争をするのではなく、貧しく小さくされている人々から学ぶ、正義に反する、抑圧的な社会構造の被害をもっとも受けている人々の願い・洞察・価値観・感性に学び、協力・連帯することで救い(解放)が社会にもたらされる。
 そのためには、現実の対立の緊張から逃避し偽りの和解・調和を選ぶのではなく、「敵」を明確に認識し、被抑圧者と連帯しなければならない。
 “いくら個人的・私的な生活態度がつつましく、敬虔で、善意に満ちた人であっても、その人が社会の富裕な側、力を持つ側にいるということは、貧しい人たち、力を持たない人たちを抑圧する側にいるということ”であり、“富と権力の恩恵を、正義に反して自分たちだけで享受できる仕組み”が問題である以上、中立はありえない、と言う。
 隣人愛の「愛」は家族・夫婦などにあるエロスでも、友人などの好意を持つ関係にあるフィリアでもなく、アガペーである。平たく言えば「大切にする」こと、好きになれない・愛情を感じられない相手でも、一生懸命大切にしようとする。貧しく小さくされている人々を好きになれないとしても大切にする。同様に、敵を敵だと認識することを放棄するのではなく、敵を敵として認め、愛すること。抑圧に加担することで損なわれる尊厳を回復させるように解放すべきだと訴える。
 そして、“福音はつげ知らせるべきであるけれども、宗教は宣教すべきものではない”、“宗教はどれも限界がある”と述べ、重要なのは福音的視点であり、「ケリュッソー:告げ知らせる」、“正しくは「身をもって告げ知らせること」”であると福音の普遍性を訴える。

 本田神父の主張・運動は解放の神学の日本版だと評価できる。
 1950年代から南米でカトリックの反貧困運動を理論的に支えた解放の神学の提唱者の一人グスタボ・グティエレスは教会が“政治に関する事柄は、低次元のもの”として関心を向けないことを批判し“教会の歴史的現存は、必然的に政治の次元を含む。”先進国の発展の副産物として抑圧されている南米の解放は、経済的次元と同時に政治的文化的、倫理的な次元を含み、解放者としていのイエスやキリスト教の存在意義に関わると述べる。
  “正義と公正がなければ神を知ることは存在しない。”
 “救いの業を厳密な「宗教的」分野に限定して、その普遍性に気づかない人々とは実に、救いの業を矮小化してしまっているのである。(中略)彼らは、救いの価値を守るため(あるいは彼ら自身の利益を守るため)に、人民と社会階級とが、他の人民と社会階級によってつながれている従属と抑圧から解放されるために戦っている歴史のただなかから、救いを取り去ってしまうのである。彼らは、キリストの救いが、あらゆる悲惨、略奪、疎外からの根源的解放であることを認めるのを拒むのである。そして、彼らはキリストの業を「守ろう」として、それを「失う」のである。”
 教会は現状維持を意味する政治不介入から不正な体制・秩序との絶縁へと決断し、「脱中心化」する必要があり、聖職者・信者・非信者の区別を超え、“キリストの業と霊性とが、救いの真の要である、という認識”を持ち、福音・救いの普遍性に立って、改良主義に堕せず、“人間があらゆる従属から開放され、自らの運命を担う者たりうるような、質的にまったく異なった社会を求めるなかで”、“「新しい人間の創造」”を目指すべきである。
  “中立は不可能である。これは我々が直面する事実を、容認するか否定するか、という問題ではない。むしろそれは、我々がどちらの側に立つか、という問題である。”
 “福音は、万人に神の愛を宣言し、神が愛したように愛せよ、と呼びかける。”“すべての人を愛するということは、対立を避けるということではない。作り出された調和を保ち続けることではない。普遍的愛は、被抑圧者との連帯の内に、抑圧者をもその権力、野望、そしてその利己主義からかい法しようと努めるものである。「客観的な罪の状況に生きるものへの愛は、われわれに彼らを解放すべく戦うよう要求する。貧しい人の解放と富める人 の解放とは、同時に達成される。」”“「敵を愛する」ことは緊張関係を緩めはしない。むしろ、それは体制全体に挑戦し、社会を覆す形をとっていく。”
 グティエレスも聖書における“貧しさは人間の尊厳にさからう、したがって神の意思に反する、恥ずべき状況”であると述べ、記述から“貧しさに対する力強い拒絶”が示されているという。
だが、キリスト者にとっての貧しさの意味という点に関して、グティエレスは“連帯と抗議へのかかわりとしての貧しさ”を提唱し、自らの意志で貧しくなることへの一定の評価を与えている。
 貧しさは悪であるが“貧しさを、あるがままの姿として-すなわち悪として-受け入れ、それに抗議し、廃絶のために闘う”ために、貧しくなることを肯定している。

 1950年代に生まれた解放の神学は、南米はもとより、アジア、アメリカにも影響を与え、日本でも在日や障碍者の運動に影響を与えた。
 だが、「解放の神学は死んだ」といわれるように、南米の解放の神学もバチカンの圧力などもあって力を弱め、理論的主導者の一人レオナルド・ボフは聖職を辞した。
 しかし、イスラムやアメリカ福音派に代表されるように、政治に対して宗教が影響を与える流れはやんでいない。そして、それらは純粋に宗教運動であるというより、背後には貧困をはじめとする社会問題を抱えている。宗教教団が自らの教勢を伸ばさんとしたり、国家が宗教による統治を試みても、背景にあるものを見過ごし、思うようには利用できていない。
宗教の復権を生み出したものが、宗教の発展を阻害する要因でもある。
本田哲郎神父が“宗教はどれも限界があるな、と強く感じています。”と述べて、信者を増やそうとしない、洗礼を行おうとしない、福音の実行・実現を強調するのにも、これが関係するように考えられる。

 宗教は大きな可能性を持つ、大きな可能性をひきつけるというべきかもしれない、が日本の貧困をはじめとする社会問題に対する可能性は期待されるのだろうか。

 一人の日本人がインドで「解放の仏教」とでも呼ぶべき運動を主導している。
 1935年岡山に生まれた佐々井実は中学卒業後上京、丁稚奉公の後、帰郷し薬剤行を営むも女性問題に悩み廃業し投身自殺を試みるも止められ放浪の後帰郷、日本パルプの子会社に勤めるも満たされず出家を試み延暦寺・久遠寺・総持寺などの本山を尋ねるも「大学を出ていないから」とあしらわれ彷徨先に倒れ山梨県の大善寺(真言宗智山派)住職井上秀祐に拾われ2年間修行に励む。1960年、井上の計らいで高尾山薬王院管主山本秀順により得度。法名を秀嶺とする。大善寺に一時帰り、再び求法の旅にで、鹿児島の教王寺(日蓮宗)で修行。62年に薬王院に帰り、住み込みで新聞配達をしながら大正大学に通い、岐阜の正眼寺に参禅、浪曲師二代目東家楽水を襲名し仏教浪曲の巡業を行い、手相・姓名・易を学び有楽町で易者をする。山本秀順に薦めで65年にタイ留学、パーリー語を習得しパクナーム禅の最高位を贈られるも、女性問題を起こし帰国へ。しかし途上インドの日本山妙法寺へ行き、八木天摂のもとで修行、大宝塔建設に従事。妙法寺・藤井日達に疑問をいだくなか、夢で老人に「我は竜樹なり。速やかに南天竜宮へ行け」と告げられたのを受け、竜(ナーガ)宮(プール)から、ナグプールへ行く。題目を唱えまわりイスラム教徒住人の迫害をうけつつ、仏教徒に受け入れられ始めるなか、不可触民である仏教徒の貧困、仏教僧の既得権益に胡坐を欠く無能に触れ、不可触民出身の仏教徒(仏教によるカーストの打破を志向)でインド憲法の起草者アンベードカルの命日12月6日にあわせ八日間の断食・断水行を行い注目を集める。行の場所に寺院建立を求める募金運動が起こり69年に建立。寺院建立運動を続けるなか、(本人は否定的だが)祈祷師としての力も評判を集める。73年、日本山妙法寺と決裂。80年全インド仏教大会の大導師、アンベードカル改宗25周年記念実行委員を務める。国・派閥で分裂しあらそう仏教徒を統合する役割を担う。200以上の寺を建立し、82年アンベードカル入滅式典の導師、83年に全インド比丘総本山建設委員長を務める。85年、中央政府の国籍許可にもかからわず、(反仏教の占める)高級官僚・警察組織による妨害で強制退去命令を受け、87年に不法滞在で逮捕。数万人が警察を囲み、連日各地で大抗議集会が開かれ、十万人を超す署名、陳情で各政党が警察を非難する声明を出し釈放、国籍取得。89年アンベードカル生誕100周年記念式典導師を務め、20万人大改宗集会導師など少なくとも80万人の改宗に携わる。92年から大菩提寺奪回運動を主導。2003年から政府少数者委員会仏教徒代表。改宗者は一億を越すといわれる。
 “マハトマ・ガンディーが裸身を白衣で包み、無欲の姿勢で歩いているのを見て、私は背広を着、ネクタイを締め、ちゃんとした家に住んでいる。私は人間の欲望を否定しない。逆にそれらを肯定する。一切の人間的権利を三千年来奪われてきた人々にとって第一にもっとも必要なのは、社会的平等と自由と人間性の確立であり、それらをこの現実世界で獲得することである。人間の可能性をどこまでも追求することのできる社会を実現することである。そのためには戦わねば何者の手にすることはできない。わたしの仏法は戦う仏教なのだ”
 アンベードカルのこの言葉を引いて、佐々井師は瞑想仏教への対決、人間解放の道としての仏教を提唱する。

 密教化の後13世紀に消滅したインド仏教の復活と言えるこの運動は、階級支配からの解放運動のひとつだった釈迦の行いと重なると同時に、その変容とも重なる。
佐々井師が日本に残っていたらとも思うが、経歴からもわかるように彼は日本社会を飛び出した存在だ。出会い、導いた宗教者たちは恵まれたものであったが、日本の仏教会に納まることはできなかっただろ。
 そしてなにより、インドの社会事情(対立すべき集団が宗教に基づくため、対抗的に宗教を持出すことが有効)やインド人の素地が大きい。

 だとすると日本において可能性としてあるのは、新宗教しかないと考えるべきだろうか。
創価学会、立正佼成会、霊友会、PL教団、天理教などの数百万・数十万の信徒を抱える大教団ならば、宗教が社会を動かす可能性を持つだろうか。

 しかし新宗教の大教団とはいっても、可能性は低減しつつあると言える。
 政党まで抱え、断トツの影響力を持つだろう創価学会も既成化が進み、組織が拡大よりも単純再生産に向かっていることは避けられない。伝統仏教よりは意識的だが、3世・4世ともなれば「家の宗教」化する。さらに、組織引き締めの役割を果たしていた公明党の選挙活動も、自民党との連立で曖昧化している。
大衆を主体とする新宗教として規模を拡大したが、組織の拡大は官僚化を不可避に伴い、官僚化は大衆とは容れない。
だが、大衆から脱すれば自己否定になり、それもできない。
 今後社会の二極化が進み、新宗教が発展した戦後や明治大正のような社会的紐帯から切り離された下層労働者階級が形成されることがあれば、再び新宗教の市場となるとも考えられる。
 ただ、創価学会がアピールするような現世利益獲得については、確率自体が社会に増加しなければ実現されないだろうため、「ウリ」になりにくいだろう。
 
 なお、テレビなどでポピュラリティを得ている占い師・呪術師のような存在は、消費者として享受している(好きな時場合に好きなようにトッピングする)層に支えれていると考えられるため、主体的担い手として教団や運動などの支える大規模で緊密な集団を形成するとは推測されない。
 マス・メディアに取り上げられなくなる、新しいネタが登場すれば、忘れられるし、代替されるだろう。
 突風のような気まぐれが社会現象を一時的に生じさせることはあっても、根本的で長期的な変化を社会に与えることはできないと思われる。

 大集団、大衆を基盤とするのではなく、エリートによる小中規模の新しい新宗教という可能性も考えられる。
 佐々井秀嶺師のような日本から飛び出すタイプ、既存の伝統仏教集団に納まりきらない修行や活動を志すエリートたちが形成する小中規模の団体・運動は、これからの日本社会における宗教を考えたとき、もっとも可能性を持つかもしれない。
 まず、一般的に葬式仏教と揶揄される伝統仏教団は、商業的慣習的な支持を得ることはできているが、実存的な欲求を満たすことを求める存在とは認知されていない。
 そして、商業的慣習的にも伝統仏教団の支持は失われつつある。葬儀・供養という伝統仏教の牙城でさえ、仏教離れは徐々に進展しつつある。
 だが同時に、多くの人々は実存的信念や超越的価値観を一から組み立てることもできないし、自らのみによって組み立てられたそれに揺らがないでいられるほど強くもあれない。
 そこに、堕落した既存の伝統仏教団ではなく、エリートによる新教団が信頼の投影先として必要性がある。
 この新宗教は、明治大正に天理教や大本教が法規制や世間の警戒をかいくぐるために形式的に神道の一派となったように、仏教の一集団として形成されることが予測される。つまり、いかに新しいのに、新しいものだと見せないか、いかに正統性を印象付けて信頼感をもたせることができるかが重要だと考えられる。
 鎌倉仏教が大衆に浸透しやすいように易行化することで仏教のリバイバルを成し遂げたのと対照的に、難行化しエリートによって担われる仏教としてのリバイバルだとも言える。
だだし、この新宗教が一定以上の規模を超えたとき、伝統仏教団の反発・妨害が必ず生まれるだろうし、貧しさの尊重といった価値観が一般社会を攻撃するものとみなされればバッシングを受けるだろう。また、エリートを支えるための資金が大口の寄付や富裕層の寄進によれば、伝統仏教団となんら変わることがなくなり、やはり支持を失うだろう。   
 
 ここでも、「貧しさ」をどう位置づけるかが問題となる。

宗教団にとって、貧しさは正当化することのほうが安全だ。
現世利益や富の祝福をすれば、利益が実現されなかった人や富をもてなかった人々を自宗教の「救い」からもらしてしまうことになる。
貧しさを正当化しておけば、少なくともそれに引かれてきた人々を逃さずにすむ。
また、財・富裕の創出・蓄積に価値を見出すなら、宗教という非世俗を持ち出す必要はそもそもなくなる。

マザー・テレサは“Poor is beautiful.”と言った。

本田哲郎神父は、貧しさの正当化を拒んだ。
しかし、本田神父は「貧しく小さくされている者」の立場から見えるものに価値を見出している。
すると疑問が生まれる。もし世界の人々が貧しさから解放されたら、その価値、イエスの力の働きは失われてしまうのではないか。
佐々井秀嶺師は、貧しさの正当化を拒んだ。
しかし、人間の可能性追及が圧倒的な富裕と圧倒的な貧困を生み出しているのではないか。
結局、仏陀が教えたように、人間の欲望を解決されなければ、新しい敗北・貧困を生み出すだけになってしまうのではないか。

もちろん、両氏は貧しさの拒絶というより、不公正・不正義への糾弾をしているのだと解釈するほうが妥当だ。
しかし、結果を考えれば、今富んでいる人々の富・財産を奪うことを意味するし、中間層にとっては貧しくなることを意味する。
それが、貧しさの正当化をなくして可能だろうか。
貧しさを正当化したからこそ、仏教もキリスト教も不労の上に大伽藍を建ててきたのではないだろうか。そして、両宗教が大伽藍に安住してきた・しているから、貧しさから批判され、貧しさの中から本田神父・佐々井師が生み出されたのではないだろうか。



          *
 “神の前で、神と共に、われわれは神なしで生きる。”
 1945年、ヒトラー暗殺のためにドイツ国防軍情報部に勤務し、計画に関与したデートリッヒ・ボンヘッファーは処刑された。
  神学者・牧師として聖書に基づいて悪による悪の根絶の不支持・絶対平和主義を標榜し、ナチスに抵抗する告白教会に加わっていたボンヘッファーは、霊的問題と現実的問題に聖書解釈をわけることを否定し、「機械仕掛け(デウス・エクス・マキナ)の神」や論理の「補完物」としての神ではなく、限界状況で罪を引き受ける(ヒトラーを暗殺する)ことで、人として歴史的現実に責任的に生き十字架に架けられ(苦しみ捨てられ)たイエスの行き方に倣おうとした。
 ボンヘッファーの思想は、現実社会への宗教(神学)のかかわりとして、解放の神学の先駆けだとの評価を受ける。

 ボンヘッファーの思想や行動は危険だ。
 ヒトラー暗殺ではなかったら、オウム真理教のテロとどう違うだろう。
 しかし、テロを起こせない、限界状況においてテロを起こせない宗教は、社会においてどれほどの意味を持つだろう。
 一般社会と同じ価値観や行動で、宗教を標榜することにどれほどの意味があるのだろう。

 本田神父の活動が全国に広がり、社会を変えることはないだろう。
 福音の普遍性を訴えても、聖書自体が特殊な社会で普遍性を認知されるとは思えない。
 しかし、宗教が日本において人々に働きかける力を持つ、希望のようなものがあってほしいと思う。

 橋本徹大阪府知事の財政再建の下で、彼の活動がどのように扱われるのか確かではないが、ホームレスにまわす金が今より増えるとも想像できない。
 寺院は慈悲を説きながら斎場経営に、教会は愛を説きながら幼稚園経営にいそしむだろうし、創価学会は公明党に票を入れるだろう。
 慈悲と愛と票の隣で、ホームレス状態の人々はダンボールを敷き横たわり続ける。
 テロでも起こさない限り、その隣を人々は通り過ぎるだろう。
 


引用・参照)
毎日新聞:野宿女性 浜松市役所に運ばれ死亡 「あと一歩」対応なく
『釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に』本田哲郎著(岩波書店)
 本田神父が言う、神は「貧しく小さくされた人々」を通して働くということは、その人々が素晴らしい人格者だから言うことを聞こう・見習おうということを意味するのではない。
 本田神父は人々との連帯における4つのステップ、「痛みの共感から救援活動」→「救援活動の行き詰まりから構造悪の認識へ:怒りの体験」→「社会的・政治的行動へ:構造悪と戦う貧しい人たちの力」→「『単純な弱者賛美』から真の連帯へ」、第4のステップで非現実的な誤解に基づく賛美を“「差別の裏返し」であり、わたしたちの連帯と支援を空洞化させるもの”と指摘する。

『解放の神学』G・グティエレス著 関望・山田隆三訳(岩波現代選書)
『解放の神学』梶原寿著(清水書院)
『破天 一億の魂を掴んだ男』山際素男著(南風社)
「週刊エコノミスト 2004年8月31日号」
『創価学会』島田裕巳著(新潮新書)
『新宗教の解読』井上順孝著(ちくまライブラリー)
『ボンヘッファー』村上伸著(清水書院)
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by sleepless_night | 2008-02-16 17:21 | 宗教
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