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非/国民


 “「19年間、日本人だった。」
 「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」 
 これらの言葉に私は、日本人以上の日本に対する誇り、愛着を見出すのだが、読者のみなさんはいかがだろうか?
 「仲間内の会話は今も主に日本語」というところにも、「自分たちは国(日本)のために日本国民として尽くした」という強い自負を感じる。
 当時の台湾の人たちが、自分たちを「日本人」だと思っていた。これは投じの日本による統治が公正・公平だったということの証明でもある。そうでなければ、そう思うわけがない。
(中略)
 「反日」日本人たちには、「19年間、日本人だった」「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」という李雪峰さんの言葉を、一度、噛みしめてもらいたい。”
      依存症の独り言 「19年間、日本人だった」という台湾人と韓国人の「半日」

                 
 “「僕は思ふ、内地の同胞は、君の期待せられる通りに君を理解することができまい、今それができないのみならず、何年になったらできるか、其の時は遂に来るであらうか」”
                   昭和3年 衆議院議員 田川大吉郎


             *
 (以下で使われる「台湾住民」は日本人植民者を含まない。台湾人と統一して記述しなかったのは、日本統治下の台湾人の法的帰属問題・自覚的帰属意識に触れたため。基本的には「台湾住民」を台湾人と読み替えても構わない)
             *


 田川大吉郎はこの言葉を、日本領有下で台湾議会設立請願運動の中心となった蔡培火の著作『日本々国民に与ふ』へ寄せた。
 1915年(大正4年)に林献堂の要請で板垣退助(板垣は対欧米の大アジア主義の観点から同化主義)を会長に据えて設立された台湾道同化会は、統治の現状と乖離した日本の主張「一視同仁」を逆手にとって総督府の弾圧や低度の教育施設を批判し権利要求するという「親日」を掲げた「抗日」運動を起こした。台湾植民者たちは台湾議会設置に反対・抗議するが、日本側は「親日」「同化」に対して表立って弾圧できず祝辞を送り、すぐに経理乱脈を理由に理事を逮捕し、公安を害するとして半年で解散させた。
 その5年後の1920年、台湾人内地留学生らによって新民会が結成され機関紙『台湾青年』が発行され、編集兼発行人を林献堂の援助で東京高等師範学校に留学していた蔡培火が勤めた。
 当初は台湾文化向上と63法(総督府立法権の根拠法)撤廃を訴え、「一視同仁」を逆手に取った総督府批判を展開したが、当時の殖民政策学の潮流であった非同化・自治主義(の誤解)の影響を受けて台湾住民公選による台湾議会設置へと運動を変化させていった。その背景には、数千年来の文明保持者であった漢民族としてのアイデンティティ(日本への同化拒否)と非文明的・後進的な台湾への不満・批判(文明化への意思)というアンビバレンスがあった。つまり、近代国家日本の権利を欲したが、台湾としての独立性を維持したいという思いが、(国家としての)独立の名を捨てて実を採る台湾議会設立という解に結びついていた。
 そして、その帝国議会への請願の紹介議員となったのが田川大吉郎だった。
 田川は文明による同化・支配の信奉者だったが、イギリスの植民地統治を(誤解の上に)模範としていたために議会請願に賛成していた。
 1921年の第一回請願は何の結果ものこさず終わり、1922年の第二回もほとんど審議されないまま不採用に。
 1923年には総督府が自治運動弾圧にのりだし、集会に警官を配して解散を命じさせ、運動に協力した公務員・会社員の解雇、免許停止、取立て・貸し出し拒否などで圧力をかけ、治安警察法で出版制限を行い、議会期成同盟メンバーを一斉検挙した。
 1924年第四回、第五回では台湾議会を内地の地方議会に準じるものと釈明するも不採用。1927年には運動母体が分裂、同年第七回請願、第八回も審議未了で失敗。運動は衰退するが、1934年の第十五回請願まで続けられた。
 1928年、運動の衰退するなか、蔡培火が日本人に向けて請願の趣旨を書いて出版したのが『日本々国民に与ふ』だった。

 1895年(明治28年)、日清戦争勝利、講和条約により台湾は清から日本に割譲される。
 しかし、台湾住民は台湾民主国独立を宣言し、日本の領有に激しく抵抗した。台湾住民から危害を加えられるのを恐れた清国代表の求めで船上で引き渡し会議開催が行われた。
 日本は抵抗を鎮圧するために軍を送り、台北攻防戦はあっけなく勝利したものの、南進は熾烈な抵抗にあい十月の全島平定宣言までに、日本側死傷者は北白川宮能久をはじめ4500人、台湾側死者は約14000人(当時の台湾総人口約260万人)を出した。
 その後も、抗日ゲリラによる抵抗は続き、1987年には13回もの反乱がおき、1902年までに約32000人の台湾人死者を出すことになり、特に山岳部の原住民(高砂族)の抵抗は激しく、1906年から08年まで計18回もの平定軍が派遣され、1915年までほぼ平定されなかった。
 しかも同年には西部一体から全島にかけての独立を求める反乱、西来庵事件が起き、1464人の逮捕者、903人の死刑(実際に処刑されたのは200人、残りは無期)を出した。
 さらに、統治後期の1930年には総督府の討伐・強制労役・官憲の仕打ちなどを理由にした反乱事件、高砂族200名が学校の運動会・駐在・役所を襲撃、日本人134人・漢人2人を殺害する霧社事件が起きる。
 
 台湾住民による抵抗の鎮圧に追われ、初期台湾統治は混乱を極めた。
 総督府官僚の腐敗と植民者たちの横暴が、混乱に輪をかけた。
 台湾は官僚にとって「島流し」の地であり、他に行き場のない人材が送られ、能力もなくやる気もない官僚たちは職務怠慢や収賄・職権乱用を重ねた。高等法院長として汚職を摘発した高野孟矩は逆に解職されてしまった。植民者たちの多くは「一旗揚げに」やってきた下層民で、台湾住民への差別むき出しの態度をとり、一攫千金目当てで犯罪まがいの行為をおこなったり、富裕な台湾住民にこびへつらい、遊女として買われたりし、統治者としての日本の威信を大きく損ねていた。
 そこで事態を「改善」したのが1898年から1906年まで台湾総督・民政局長に就いた児玉源太郎・後藤新平だった。
 治安対策として清国統治下の保甲制度(相互監視と連座制)を敷くと同時に、鉄道敷設・築港・道路整備を行い(行わせ:保甲制度による義務動労)、水力発電事業を起こした。
 産業としては鉱産のほか、従来から産地として知られていた製糖事業を法で優遇・保護し日本の財閥の投資を呼び込み、児玉・後藤統治の終わりには生産量は倍に増え、後に最高で160万トンまで増加した。
 1905年には、日本からの補助金辞退をし、財政独立を果たす。
 

 1915年の山岳部ほぼ平定の8年後、林献堂や蔡培火らの自治運動に対して総督府が弾圧に乗り出した1923年(大正12年)、葉盛吉は生まれた。
一家は没落により離散し、盛吉は叔父夫妻に引き取られ、叔父の勤める製糖会社の社宅で育てられる。
 叔父は師範学校を出て日本の教育を受けており、日本人が経営する製糖会社にも多くの日本人社員がいたため、付き合いはなかったが、社宅では日本人に囲まれていた。
 だが、1930年、満7歳で公学校へ入学した葉盛吉は台湾人の子どもに囲まれる。
 しかし1936年、台南一中に入学すると逆に、クラスに台湾人は3~4人しかおらず、日本人に囲まれる。
 自分は日本人なのか台湾人なのか。
 “公学校に入った時、級の中に内地式に育った人が一人いたが、私はその友達を見て、台湾語を全然知らないということは、どんなに幸福だろうかと思った。台湾語を全然知らないということは、それだけ内地人に近いと考え、ただそれだけのことで、組中の尊敬の的となり、組の大将になることができた。”
 彼は二高へ入学した後に「台湾の豊田正子」と呼ばれる天才文学少女・黄鳳姿の書いたこの文章を読み公学校時代を振り返って共感した。


 葉盛吉が台湾人に囲まれて「台湾語を知らなければよかった」と独り想っていたとき、王恵美は台湾語を知らなかった。
 “当時は「自分が中国人」ということが受け入れられなかった。「私は日本人」であり、「中国人ではない」と思っていた。終戦前、日本人は、中国人を「チャンコロ」と呼んでいた。あからさまに表に出さなくても、日本人の誰もが「優越意識」を「確かに」持っていた。それまで、自分の親が台湾人でありながら、自分が「中国人と同じ(民族)」だとは考えたことがなかった。”
 現在、彼女は振り返って、そう語る。
 1932年(昭和7年)に、大地主の息子で師範学校卒の教師の父と医師の娘で高等女学校卒の母との間に生まれた王恵美は、日本語が生活言語として使われる家庭に生まれ育った。
 小学校に入学し、40人~45人のクラスで台湾人は彼女のほかに一人いたが、小学校低学年のとき松岡恵美子と改名し、周りも王が台湾人だとは認識していなかった。生徒や教師からもいじめや特別扱いもされず、王自身も台湾人だとの自覚はまったくなかった。


 葉盛吉と王恵美、一方は日本と台湾の間でアイデンティティに悩み、もう一方は台湾にありながら日本人としてのアイデンティティを疑いなく形成した。
 この違いは、二人が通った場所の違いにある。
 葉盛吉が通ったのは公学校で、王恵美が通ったのは小学校。

 1895年の台湾領有からすぐ、日本は台湾住民に対する同化教育を開始する。
 上陸直後の7月には国語伝習所・国語学校が設置され、1896年には抗日武装蜂起で6人の日本人教員が死亡する。台湾総督府初代学務部長・伊沢修二は台湾が人種的・文化的に近く(台湾は古来日本の領土だったのを清が取ったと主張)西欧の植民地における教育とは異なることを主張し、教育同化による精神の征服を目指し無償による国語と修身を中心としたプランを建てた。しかし、抵抗鎮圧と台湾財政の逼迫により伊沢プランは縮小され、1898年制定の初等教育に関する公学校令・規則では国語・修身中心の教育や六年の修学年限は井沢プランを反映したが、科目から歴史・地理・理科などが削除され、(日本国内では1900年から初等教育無償なのに対して)無償教育は否定され費用は地方庁と区域内住民の負担となった。これによって国語伝習所は公学校として台湾住民子弟用の初等教育となった。
 国語学校は師範部・国語部・実業部に別れ、師範部は公学校教員養成、国語部は中等教育、実業部は農業電信鉄道に関する中等教育を行った。
 1904年の公学校令改正では公学校増設制限、50人学級から60人学級へ、さらに入学年限を半数近くの公学校で4年に短縮。
 後藤新平が“「台湾教育方針は無方針であります」”と述べたように、国語による日本人化ということ以外には教育方針がなく、コスト削減による中途半端な日本語教育に落ち着いていった。
 一方、日本人子弟は台湾住民子弟の教育とは別系統で、小中高と国語学校付属であったが、1898年~1910年の間にそれぞれ独立。
 
 1918年に台湾教育令が改正され、国語学校が廃止され師範学校、中学校・女子高等学校、医学専門学校(台湾総督府医学校)が設置され、台湾住民子弟に専門教育機会が与えられる(但し、程度は日本の専門学校より低い)。
 1922年には新教育令により、初等教育に限り国語常用者は小学校へ(小学校令適用)、日常用者は公学校へ(普通学校令適用)、中等以上は(日本人子弟と台湾住民子弟)共学と定めれれ、法文上から民族差別が消える。ただし、国語常用とは“「業務上国語を使用するに止まる者、又は対話者との関係上国語を使用するに止まる者の類」”では常用と認めないといった非常に厳しい条件だった。
 同年には高等学校、1925年には台北帝国大学が設置された。
 台北帝大予科医類と台北高校理乙には定員の25%まで、その他学部には5%までという台湾人入学制限があり、法文上の民族差別撤廃は日本人による高等教育独占を実現した(1918年に設置された台湾住民向け医学専門学校なども22年新教育令で日本人向けへと変質した)。そこで、台湾での進学に破れた台湾住民子弟で余裕のあるものは日本内地への留学へ向かうことになる。
 また中等学校も、入試は小学校卒業生を基準に作られたため、公学校からの入学者は少なかった。
 さらに、制度上共学であっても実際には台北一中・二中、台南二中、台北一高女、台中一高、台南一高女などの「一」がつく学校は実質的に日本人子弟専用となった(台中は林献堂らによって先に一中が作られた)。


 つまり、生まれる前年に教育令から法文上の差別が撤廃された葉盛吉は、公学校からの僅かの中学進学を、しかも実質的に日本人子弟専用となった名門台南一中へ進んだ。
 だから、台湾住民子弟に囲まれた公学校から日本人子弟にかこまれた中学と環境を激変させ、日本人と台湾人との間でアイデンティティの不安に立たされた。
 一方、王恵美はそれこそ生まれながらのエリートとして小学校から高等女学校へ進み、日本人に囲まれ、日本語しか知らずに育ち、自分を日本人だと認識して疑わずに育った。

 そして、日本の敗戦は2人の人生を、アイデンティティを大きく変えることになった。
 自分は何人なのか。

 葉盛吉は中学で日本人にかこまれ、差別・侮蔑にもあい、日本人と戦うか・日本人になるかの二者択一から、積極的に日本人になろうとし、学業に打ち込み、学内2位の成績で卒業する。1941年には日本名に葉山達雄に改名する。
 競争の熾烈な台湾を避け、日本内地の岡山六高を受験するも2年連続失敗、3年目1943年に仙台二高に合格。二高の寮生活で再び民族問題に向き合う。
 八紘一宇の大理想による統一やユダヤ陰謀説に熱中したりしたが、やがて両方ともを批判し、抽象概念の下で行われた弾圧へと目をむけるようになり、(東北への愛着と同時に)中国(台湾)へ意識を向けるようになった。
 敗戦後、東京医学部へ進学していた葉は台湾へ帰り、台湾大学医学部へ編入した。
 葉は祖国中国への期待、理想の実現を夢見た。

 王恵美にとって敗戦は、自分が日本人ではないという現実を突きつける、アイデンティティ崩壊の危機を意味した。
 日本人は引き上げしまい、彼女も高等女学校から台湾省立第二女子中学(旧台北第三高等女学校)へ編入することになる。当然回りは台湾人であり、彼女をクラスメートは「どうして日本人が転校してきたのか」と見る。台湾住民の言葉、客家語もホーロー語(閩南語・台湾語)も話せない彼女にとって台湾は外国のような環境になり、登校拒否をした。
 台湾へ上陸した国民党の軍隊は乞食のようにみすぼらしく、その姿が眼に焼きついて離れず、戦前からあからさまにせずとも持っていた優越感も障害となり、どうしても自分が台湾人だとは認められなかった。
 
 王が眼にした国民党の軍隊は、台湾へ希望を胸に帰ってきた葉盛吉も失望させた。
 国民党は軍も官僚も腐敗しきっており、軍規はひどく各地で略奪・公私混同の強要・収賄が見られ、インフラの利用方法も知らず(もちろん整備もしない)、台湾住民に対して征服者のように横暴を働いた。
 1947年には2・28事件が起きる。台北でヤミ煙草を売っていた林江邁を国民党の密輸取締官が発見し、煙草だけではなく、売上金まで没収しようとしたため林がすがりついたのに対し銃で殴りつけた。これを見ていた通行人たちが取締官を取り囲んだため、取締官が発砲し死者がでた。これまでの国民党の横暴に怒りが積み重なっていた台湾人は警察・憲兵・専売局・台湾行政長官公署を包囲。群集に長官公署から発砲され死者を出す。抗議は台北から全島に広がった。最後は軍が鎮圧に乗り出し1万人以上が殺害された。
 インテリ学生たちは国民党の暴政から対抗的に第二党であった共産党へ加担する。
 葉も1948年に台湾大学の共産党地下組織に参加し、学生自治組織を使い活動すた。
 そして1949年大学卒業し結婚して医師としての生活をスタートさせたが、1950年朝鮮戦争による国民党の赤狩りで逮捕。処刑された。

 王恵美はなんとか中学を卒業し、王の父は台北市政府教育課長を国民党の腐敗に絶望して辞職した。王は卒業後、進学も就職もせず、家に閉じこもり過ごした。

 
 王や葉のような激しいアイデンティティの混乱を受けなかった台湾人もいた。
 
 葉盛吉が二高時代に読み共感を覚えた文章の主、天才文学少女・黄鳳姿だ。
 1928年(昭和3年)、京都帝大卒の外務官僚の父(後に関西大・立命館大で教える)を父に生まれた黄鳳姿は、王恵美と違い、葉盛吉と同様に台湾住民子弟用の公学校に通った。
台湾における日本の同化教育の精華のような存在だったはずの黄はさめていた。
 “台湾の読書人家庭は、みな中華意識が強かったです。自分たちが一番だと思っている。影では、日本を、野蛮人と呼んで、日本の文化程度を低いと思っていました。私の曽祖父は、「気をつけなさい。いまは日本の天下だ。太陽が当たっている。表面は従えばいい。日本で一番注意しなければならないものは天皇だ。ちょっとでも触れれば大変事になる」。そう言っていました。(中略)だから、日本人に対しては、調子を合わせて奉っていればいいと考えていたのでしょう。ちょうど、平素は馬祖や観音といった伝統的な神様を祀っていて、警察が見回りに来るときだけ、その上に大麻を飾るように。(中略)私は子ども心にも、台湾の人たちは裏表があると思いました(笑い)。”と現在語る。
 黄も日本の敗戦を解放の日だと喜んだ。
 しかし、王や葉と同様に、国民党の腐敗・暴政にすぐさま失望に変わった。
 そして1947年1月に公学校3年時の担任で彼女の文章指導をしていた池田敏雄のプロポーズを受け結婚し、日本へ渡った。日本敗戦で日本人が最も軽蔑されていた時代で、母以外全員反対、父からは勘当を告げられるほどのなかでの結婚だった。

 王は30歳で日系企業へ駐在員として就職し、企業が台湾から引き上げたのを機に40歳で退社した。
 それから、彼女は父が後年熱心に信仰し活動していた日本の新宗教「生長の家」に参加した(生長の家:大本教第一弾圧で離反した谷口雅春が1930年に設立。唯心論思想・想念の転換による救いを説く。戦中戦後に国家主義・天皇主義的傾向を強めた)。信仰は彼女に日本人として育てられた自分を受けさせ、日本時代の「道徳」が失われるのを憂いた父の跡をつぐことを決意させた。
 “日本人よりも日本人なんですよ。はは、こういうとおかしいけど。(中略)以前の日本人は私たちといっしょだけどね。終戦後の日本人より日本人なんですよ。”
 “私はね、日本にも責任があると思うんですよ。今頃、何故、大陸との通称目的かなんかしらないけど、大陸、大陸と、言うこと聴いて…。”
 現在、王恵美はそういって日本人以上に日本を想い、その日本が中国へ眼を向け台湾を無視することを責めている。


 自分は日本人だ。
 1945年の日本敗戦時に、王や葉のような混乱も、黄のような覚めた感覚でもなく、そのアイデンティティを確固として持ち続けた台湾人、「最後の日本人」がいる。
 続き→反日/日本人
by sleepless_night | 2008-02-22 21:01 | その他
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