二人の関係と何かが似ているかもね


(1)原則論
 ①
 不特定の多数人が視聴できる状態にすることを意図して、ある事象を撮影する行為をジャーナリストが行った場合と素人が行った場合、違いがあるのか。
また違いがあるとして、それは行為の正当化にいかに関係するか。

 近年の事件・事故の報道において監視カメラの映像と並んで、現場に居合わせた素人が撮影した映像・画像の使用は拡大している。
 先日の秋葉原での殺傷事件では、特に場所の関係もあり、その量の豊富さが目に付いた。
 そして、そのことは上記問題を私たちに検討する必要性を喚起し、随所でさまざまな意見が表明された。
 私見で、意見の典型として以下の二つをあげる。
 ひとつは、ジャーナリストであろうと素人であろうと行為に基本的な違いはなく、正当化も行為主体によって区別されるものではない。両者にあった境界は技術発達によって融解しつつあることを示した、とする意見。
 もうひとつは、行為の外形は類似していたとしても、ジャーナリストの行為と素人の行為では質などによって存在する次元が異なり、正当化も異なる、とする意見。
 

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 上図で示したように、ジャーナリストと素人で、使命感や意欲などの人格的(主観的)要素は一概に異なるとは言えない。
 したがって、それを根拠にジャーナリストと素人の行為を区別することはできない。
 両者の違いが明確なのは、その役割(とそれを果たすのに必要とされるもの)と位置だと考えられる。
 素人は、ジャーナリストに必要な知識を教育されておらず、実際の現場などで適用することで知識を実用的に獲得することもなく、収入もそこから得ているわけではないが故に、素人である。
 そして、位置については当事者(利害関係者)であることからまったくの無関係まで、不明確であり、表明や保証がされていない。
 したがって、素人がジャーナリストと外形的に類似した行為を行っても、質や意味が異なる。


 では、素人はジャーナリストと外形的に類似した行為を行ってはいけないのか、正当化はなされないのか。
 思うに、ジャーナリストの行為が正当化されるのは、民主主義社会において国民が意見を形成し、意志を決することに必要な基礎となる情報の提供、国家権力の監視に不可欠な存在であるからである。
 ゆえに、上述したような役割と位置が要請されている。
 だが、ジャーナリストも人間であり、過去の歴史を省みても幾多の間違い、暴走を行い、国民を誤った方向へと扇動してきた実績がある。
 そこで近年では、「第四の権力」と言われるマス・メディア、ジャーナリストの行為を検証・批判する必要が論じられている。
 つまり、権力の監視や情報提供を行うジャーナリストの存在は民主主義の維持に必要不可欠であるがゆえに正当化されているという点から、ジャーナリストの行為にも民主的な過程が必要とされるということである。
 これは、ジャーナリストに対する民主的な反応であった言論市場による選別やメディア・アカウンタビリティ(読者参加の委員会や紙面の読者への一部提供を通じた応答)をさすものではない。
そこからジャーナリストの行為に必要とされてきた機器の発達と一般化によって、ジャーナリストの行為結果(記事など)だけを材料としてきた従来の受動的ともいえる検証・批判から、ジャーナリスト以外の素人(つまり情報の受け手だった人々)によって提供される材料による積極的な検証・批判が要請され、さらには情報を立体的に発展させることまで欲求されるようになったことを意味する。
 以上から、素人であっても、ジャーナリストと外形的に類似した行為を行うことは認められ、ジャーナリスト同様の根拠からに正当化されうると考える。
 ただし、役割や位置の違いを考えれば、ジャーナリストの活動を一次的とした場合に、素人の行為は一次の存在を前提とする二次的なものとされる。


 ジャーナリスト、素人、両者ともに認められるとされる行為の根拠は民主主義にあると述べた。
 そこから、両者ともに行為の制限、正当化される限度が導かれる。
 近代国家と呼ばれるに必要とされる民主主義は単純に構成員の多数の意見をもって全体の意見とみなすとする多数者支配型の民主主義ではなく、少数者の尊重、人権の保障を前提とする自由主義的民主主義である。
 つまり、民主主義の名の下に大衆の意思・欲望を掲げて個人・少数者の意志や権利を踏みにじることを許容するものではない。
 報道の自由は憲法の人権規定の中でも最上位の保障を要求されるが、外形的な権利行使である以上、内在的な制約を持ち、対立する人権との間で制約を受けることは避けられない。
 松本サリン事件で警察発表とリークによって報道を組み立てて河野義行さんの冤罪にマス・メディアが加担した事例などから提起されたマス・メディアの問題は、ジャーナリストの行為・報道の権利が報道される側の権利を許容限度を超えて侵害している事例が少なからず存在していること、本来なら権力者に対して向かうべき報道の自由が少数者・弱者・個人の圧殺に用いられかねない現状を示した。
 だが、ジャーナリストの行為、報道の自由に課せられるべき制限基準は必要最小限であるべきことはゆるがせることは民主主義の観点から許されるべきではない。
 そこで、問題の緩和・解決として考えられるのが、上述してきたような素人による積極的な検証・批判という二次的なジャーナリズムの過程である。
 つまり、ジャーナリストの行為に対する制限基準は従来と変わらないが、素人による積極的な検証・批判という新たな過程が加えられることで、制限基準の変更することなくジャーナリストの行為に再考を促すこと、対抗する言論によって訂正されることを可能とする。
 そこから、素人の行為についての制限、正当化の限度が導かれる。
 素人はジャーナリスト同様に被取材者などの人権と報道の自由との対立から生じる制限に服するとともに、二次的な役割からジャーナリストの被取材者の人権に対しては一層の制限を課されるべきである。
 したがって、ジャーナリストが現場にいない場合には素人は一次的な行為者としてジャーナリストに外形的に類似する行為を行うことができるが、ジャーナリストが現場に存在する場合には、その行為を参照して、ジャーナリストに対する検証・批判の要素が含まれる場合やジャーナリストの行為に欠けた・不十分・偏った要素がある場合などに限りジャーナリストに類似する行為を許容されると考える。


 結論的に述べれば、私見は、ジャーナリスト・素人の違いを認めた上で、ジャーナリストの存在根拠から素人にジャーナリストに対するジャーナリスト類似の行為を認めるものだといえる。
 これは、代議士による議会政治などの間接民主主義に対して、代議士以外の素人がデモなどの行為を通じて直接民主的な意思を表明することで、間接民主の弊害を是正することが憲法で想定されていることと構造としては同じである。

(2)現実

 原則論を述べれば(1)のとおりであるが、現実は厳しい。
 (1)②の図で示したように、ジャーナリストと素人の違いが明確に現れるのは人格ではなく、役割や位置である。
 素人であろうと使命感や興味のあり方がジャーナリストと違うとは言えないし、主観的な違いが行為の正当性に直接結びつくものでもない。
 違いを生むのはあくまでも、役割に規定される教育や知識や実践経験や収入源泉であり、役割と結びつく当人の立ち位置にある。
 

 そこで、問題が生じる。
 果たして、現在、私たちの現実で「ジャーナリスト」を称する人々やそれの属する組織は、ジャーナリストと素人を分かつはずの役割・位置の要件を満たしているのだろうか。
 まず、役割に必要とされる教育に関して言えば、日本のマス・メディアに登場する多くのジャーナリストと称する・される人々の(主流とされる)多くは社内教育の形でしか専門教育を受けておらず、それを基に社員としての経験を積み収入を得ている。
 こららからジャーナリストの役割の専門性に疑問符が付くことに加えて、最も重要なジャーナリストの位置の問題、つまり独立性(公平・中立)に極めて厳しい疑問を持たざるを得ない。
 役割に必要とされる要件充足に疑問がある(専門性が弱い)ことをひとつの原因として、その独立性が強く疑われる。
 原則として一つのマス・メディア企業の社員であり続けるということに加えて、記者クラブという他を排除して取材対象との癒着(を防ぐ仕組みのない)の危険性が大きい組織に属している者が、独立性をどうやって担保するのか疑問であるし、果たして独立しているのかはもっと疑問である。
 さらに、従来から疑問視されてきた政府の委員などへの就任に加えて、近年「ジャーナリスト」を称する人々が一民間企業のCMに出演するようにまでなっていることを考えると、ジャーナリストの独立性を取り巻く現状の惨憺たる部分が露になっていると言える。
 また、報道番組において、なぜか男性アイドルや女性タレントが外形的にジャーナリストに類似する行為を行うと同時に一緒にCMに出演し続けるという自体、それが番組として成立している(視聴者がボイコットしていない)現状を考えると、もぉー分からにゃいっ。
 

 原則論で示したように、素人の行為もジャーナリストの行為にとって必要とされるものである。
 それは、秋葉原の事件などで素人の撮影した画像・映像が多量に用いられたことによっても裏書された。
 これ自体、素人の提供する材料の利用自体はジャーナリストの敗北ではない。
 役割に必要とされる知識・経験を身につけて構造的に(潜在的にでも)独立性を有するジャーナリストが現場にいることは本質的な重要性をもつことはこれまでも・これからも変わることはない。
 素人が現場にいることと質・意味が異なる。
 だが、これまでも・これからもジャーナリストがいかなる現場にいられるということはなかったし、ない。
 だから素人であろうと、ジャーナリストと外形的に類似する行為、経験を書きとめたり・話を集めたり・画像映像をおさめたり、といった行為は否定されるものでもないし、社会にとって必要な行為でもある。
  ただ、役割と位置によって、素人はジャーナリズムにおいてあくまでも二次的にしかなれないということである。
  デモが起きたから議員が必要ではない、と言えないのと同様に、ジャーナリストも素人の類似行為も民主主義にとって存在が想定されている必要なことである。
 ジャーナリストにはこれから一層、素人の得た材料がゴミとならないように、もしくはゴミの中から玉を見つけ出す能力や、ゴミに見える材料を組み合わせ独自の光を当てることで新しい事実を浮かび上がらせる力量が求められるといえる。
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 しかし、鳥越俊太郎。
 そこまでいくと、ジャーナリストはいるのか?という話が出てくる。
 当事者であってはいけない、当事者であることを構造的に排除できるように自らの位置を考えて行動しなければならないジャーナリストが、自分の病気をネタにして一企業のCMに出演し、さらにその企業が企業としての責任をも果たさずに、まさに自分と同じ苦しみにある人々にさらなる理不尽な苦しみを与えたことにたいして反省のない人間が「大学でジャーナリズムを教えます」と言えている現状。本人も談合に関った水道メーター製造販売企業ニッコクの経営者であり同時に多数のCMに出演し続け(しかもその企業が景品表示法違反で排除命令を受け)るみのもんはたはTBSのニュース番組の総合司会をつとめる番組が100万人以上に視聴されている現状は、ジャーナリズムを携帯のカメラで血を流す人を取り囲んで個人的記念に撮影する意だと認めるに等しい。
 大手不動産賃貸仲介企業エイブルのCMに一緒に出演し、一緒に日本テレビのニュース番組に出演している桜井翔と小林麻央はどんな顔をしてエイブルに対する公取からの排除命令を伝えたのか、さらに競合する企業や業界のニュースをどんな立ち位置から伝えているつもりなのか(両者は他にも企業CMに出演しているし、芸能事務所に所属して歌手・俳優などの活動を継続していることは、いったいどういう意図があるのか)。
 対して、本人がよいと思っている製品・企業の紹介、本当に良質な製品などのCMならばCM出演は問題ないという感想を持つ人もあるが、問題は製品や企業の良し悪しとは直接関係ないことが全く理解されていない。
 ジャーナリストがジャーナリストであるためには、役割を果たす能力だけでは十分ではなく、その能力が発揮される位置が独立していなければならない。独立性が担保されない言論がジャーナリストを称する人間から発せられたとしても、情報の受け手は、それが情報の受け手に対する責任を第一とするジャーナリストとしての発信なのか、それ以外の人物・企業などへの責任を第一とする義務のある位置(立場)からのものなのか不明となり、最悪、立場が対立する場合に情報の受け手がだまされることになる。
 鳥越俊太郎はアメリカンファミリー生命保険会社から、桜井翔と小林麻央は株式会社エイブルから、相当の金銭を受領することに引き換えて自らへ信頼(知名度など)を同社の利益に利用することを認めた以上、彼らは契約によって、情報の受け手の利益より同社の利益を優先しなければならない。これは、本人がどう考えようと、多く存在する同業他社の中からアメリカンファミリー生命保険会社・株式会社エイブルの宣伝を引き受けたことから不可避に導かれ、主観の如何で否定されるものではない。
 同様にみのもんたは経営者として株主へ第一に責任を果たさなければならないし、タマホーム株式会社から相当の金額を受領して自らの信頼を同社利益に利用することを認めた以上は、情報の受け手への責任に同社への利益を優先させることになる。
 みのもんたや桜井・小林はジャーナリストを名乗っていない(「キャスター」を称している)が、ニュース番組に出演し発言を行っている。何を称しようが、民主主義国家においてきわめて優越的地位を保証されている言論企業の根拠となるニュース番組で主要な役割を果たしている以上、それは言い訳にならず、ジャーナリストとして求められる役割と位置の要件を満たすことの要求を拒絶することは許されない。
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『ハゲワシと少女』で言えば、彼らは撮影者ではなく、中のハゲワシになって少女が死ぬのを待っているようなものだ。


 これらの目立つ場所でのジャーナリストの自壊現象。それらを成立させている視聴者(素人)の現状を考えると、原則論は遥か彼方の話ということかもしれない。
 ライフ・ログのために被害現場を撮影したり、メディア・スクラムの類似現象を引き起こす素人前に、一次的なジャーナリズムが機能していないのならば、素人とジャーナリストの行為は同じかどうかを問うにしても、「素人の行為がジャーナリズムと言えるか?」ではなく「素人以外が存在したのか?」と問わなければならなくなる。
 素人による二次的なジャーナリズムではなく、ジャーナリズムの存在が問題となる。
 

 鳥越俊太郎やみのもんたや桜井翔や小林麻央の十分の一(にも満たないかもしれない)の報酬でジャーナリストとしての役割や位置に忠実であろうと苦闘している人々はいる(みのもんたの十分の一だとかなり余裕がある暮らしができそうだが)。
 それは、報酬が十分の一であるから偉いのではない。
 ジャーナリストであろうとかしゆかであろうと、活動に必要な金銭は必要だし、納得の行く活動を維持するためにも可能な限りの報酬を要求することに何ら臆することはない。
 日のあたる場所、必要な情報がしっかりとした場所に置かれ、それを伝えたジャーナリストが相当な報酬を得られることは、現状から想像することは容易ではない。
 しかし、Perfumeも流離っていた時代があったのだ。
 一次的なジャーナリズムが果たされているとは言い難い状況で、二次的なジャーナリズムを展開しようとすることはドーナツの穴に中身を求めるようなものだが、そんなドーナツなジャーナリストと素人の関係も温めなおして食べごろになる時には、鳥越俊太郎の事も新しい時代のジャーナリズムに会うための過去ならば、全部幸せな思い出に見えてくるから、ホント不思議。
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by sleepless_night | 2008-07-06 07:26 | メディア
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