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差別戒名。


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 『中外日報』昭和54年10月11日
 人権の国際化に悪質な挑戦
 「日本に部落問題は存在せず」町田曹洞宗宗務総長(全日仏理事長)が重大発言
 アメリカのプリンストンにおいて 第三回世界宗教者平和会議で
  世界46カ国から350人の宗教代表者がアメリカ、プリンストンに集い、国際会議、世界宗教者平和会議(略称=WCRP)が、8月29日から10日間の日程で開催されたが、会議半ばの9月5日、最終現実問題部会の席上で報告された“日本の部落問題”に対し、日本代表団の一員である町田宗夫曹洞宗宗務総長・全日本仏教会理事長が、「日本に現実に部落問題はない。百年前まであったが今は全く存在しない。ただ、部落問題、部落解放を理由に騒ごうとしている一部の人たちがあるだけ」と発言、同報告書から「日本の部落問題」の削除を要請した。その後、延々40分にわたり討議が行われ、町田氏の三度にわたる「日本に部落問題は全く存在しない」との執拗で、感情的な発言に、結局、議長採決で同報告書からその項目は削除された。しかし他の日本代表団からも、町田氏の“無責任発言”を重要視し、“日本の宗教者の信頼を失う発言”“外国の指揮者から嘲笑される”として今後、WCRP日本委員会、キリスト教、仏教会など宗教界は町田発言問題を取り上げる模様。

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 戒名の格付け法の手引き書の一つ、『貞観政要格式目』は9世紀半ばの「貞観」を称しているが、15世紀初~中期に東寺(真言宗)の僧侶たちが自宗派の優越性・正当性を訴えるためにつくられたものだと考えられている。
 朝廷を権原としてきた真言密教の意図が反映され、禅宗を“慢心倒破仏心宗”とし、力を持った商人などを“三家ノ者”として強く貶めている。
 江戸時代に『貞観政要格式目』を原本に作られた『真言引導要宗便蒙』では「秘口云 商人ト駄賃と皮剥ト 三所ノ者ト云 難第一トス」とし、民間信仰の担い手として力を発揮した商人や職人などの職能者を罪ある者としている。
 近世に幕府の宗教統制が強まったため、統制に対応するための手引き書として宗派に関係なく『貞観政要格式目』は出回り、それぞれで都合よく利用した。
 もともと中世には河原を生活の場とした多くの職能者の存在形態を意味した「河原者・えた」が、江戸時代の身分制によって一身分とされていた。
 先祖供養を最高徳目と奨励する吉宗の享保期に寺請制が強化され、現在の「格式としての戒名」が成立定着し(お金で買える戒名)、その一環として、過去帳記載方法や戒名の付け方の身分差別がなされるようになり、「えた・非人」には牌格からはずれたものを位戒として定められた上で、寺院ごとの独自性にゆだねたので、特定の文字を用いない場合でも、戒名は身分格式をあらわすものとして機能した。
 したがって、地域・時代によって差別戒名に違いがある(浄土真宗の法名にもある)。
 そのような相対的差別指標ではなく、明確な身分差別の戒名に用いられたのは「革門ト 灵(下が火ではなく大)・革尼ト灵(下が火ではなく大)」や頭字に「連寂」。差別戒名をあらわすのに使われた字としては「革・草」の各種変字や「ト・僕」、インドのアウトカーストを意味する「旃陀羅」や「蓄」、「松・柏(の白が百)・苗(に「まだれ」)・宿・除饉女・紅門・精門」などがある。
 「三家ノ者」は江戸中期においても広く商人や職能者など賎民をさしたが、幕府により「えた身分」とイコールとされ、差別戒名は根拠であるはずの仏教の理屈から離れ・形を借りた身分制度維持に用いられた。
 明治4年に、解放令が出て被差別身分は表向きなくなることになり、差別戒名も激減した。
 しかし以降も、江戸時代の手引書が内容をそのままに・不完全な訂正で復刻・重版され、教団における差別が自覚されず、先祖の差別戒名を変えてもらうのに高額な金銭を要求されたケースなどがある。

昭和54年の「町田発言」は差別戒名の問題、宗教者の差別の歴史への反省の無さを露わにし、大きな非難を集めた。
山口県の禅昌寺に住する町田はその後の『部落解放』での対談で“「体のしんにあるものをかえていくには精神的苦痛はどうしても必要」なことを述べた後、現在の心境をつぎのようにかたっている。
春は新入社員、夏は学生が来られますね。二泊三日くらいの日程で参禅される。(略)多いときには一日に7,8時間くらい法話の時間をもちます。近頃は、曹洞宗の経典の「修証義」第四章に出てくる「貴賎の衆生におきて…」というところへ来ますと、「貴賎の衆生」とは「一切衆生」ということだが、人の尊い卑しいは何できまるか。それは生まれや育ちではない。その人の行いによってきまる。それが仏の教えであるが、わが国でも大きな過ちがあるのは、「同和」問題である。ある地区に生を受けたがゆえに、あるいはその縁故者であるがゆえに差別視されるという、そういう不条理をいつまでも許してはならない。(略)時間の許す限り、この問題を掘り下げるようにしています。”

「町田発言」をきっかけに曹洞宗は自宗の差別戒名を調査し、現在も作業を続けている

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 戒名は、その字が表すように、受戒を受けた仏教徒としての名だ。
 しかし、所謂ブッディスト・ネームとしての戒名には、仏教としての根拠がない。
 歴史的に、戒名は中国で生きている間に用いられる別名「字(あざな)」に対する死後の「諱(いみな)」に由来すると言われる。だが、中国では葬送儀礼は儒教が担っていたので、死者に対する名づけである日本の戒名とは異なる。中国で受戒によって仏教徒としての名が用いられていたのが、日本において葬送儀礼が仏教に担われるようになり、死者を「ほとけ」と呼び生者と区別することと重なり、死者に受戒した仏教徒としての名であった戒名を付けるようになった。
もともとは役所の名称・天皇の譲位後の御所を指した「院」が天皇の戒名に、足利将軍以降の歴代将軍に「院殿」がつけられ、やがて寺院建立などに貢献した社会的身分の高い人々にも付けられるようになり、上述したように江戸時代の寺請け制の下で広く死後の身分を示すものとして確立整備された。
このように、日本で死後に付けられている戒名に仏教としての根拠はない。
 そして、本来なら生きている間に仏教徒としての受戒を受けて戒名を得るべきものが、死後に付けるものだと常識的に認識されている。それを仏教団側も認めている。江戸時代の名残によっているのだから、もはや異常が正常になっている。
 
 仏教を信じていない、知らない人々が、死んだというだけで戒名を得る。
 それもタダではない。数十万から数百万、時に一千万を一行の名前の為に支払う。支払うように寺から当然の様に求められ、遺族は不満を言いながらも支払う。
 僧侶は、それは「喜捨」「布施」だと言う。生前から仏教に貢献していれば、死亡時に(不満が出るような)大金を要求することはない。大金は生前の行いの代わりである、嫌なら戒名を付けない・ランクを下げればよいと。
 葬儀の不満で必ずといっていいほど出る戒名を、どうして評判を下げてまで仏教寺院は固守するのか。
 もちろん、建前を言えば「仏教寺院の葬儀を望むのだから、故人や遺族は仏教徒である」から、ということになる。しかし、実態を見れば異なるものがあることは分かる。それは、戒名が一寺院(に所属する僧侶)が付けたものでしかなく、他の仏教寺院では通用しないということから理解される。つまり、A寺院で付けられた戒名はB寺院では通用しない、A寺院からB寺院に何らかの理由で墓地を移す場合にはB寺院(所属の僧侶)で戒名を付け直すことが求められることから、戒名は仏教徒としての名前ではなく寺院の檀家としての名前でしかないことが分かる。墓に限らず、何らかの事情で同じ宗派でも葬儀の導師と墓のある寺の僧侶と異なる場合には、後者の僧侶が戒名を付ける(戒名料を求める)ことになる。要は、戒名とはゴルフ場の会員権のようなものだ。
 その例えで言えば、もし戒名が仏教徒としての名であるというなら、当然寺院が変わっても通用する、ゴルフのプロライセンスのようなものであるはずなのに、そうはなっていない。
 だから、仏教教団・僧侶がどう建前を言おうと、戒名は仏教徒としての名ではない。
 日本の戒名は、歴史的に根拠のないものであるのと同時に、宗教としての理屈すら成立してない。
 
 なぜ、こんな奇妙なものが残存しているのか。
 それは、仏教教団・寺院側にとっては、どのように批判を浴び・不満の源泉となっていようと手放すことが出来ない価値があるからだ。
 戒名の付け方は、宗派ごと・寺院ごとで異なる。だから、基本的には自由な設定ができ、ランクを操作することで寺院は収入をコントロールすることができる。
 戒名は葬儀の一回きりの収入源となるだけではなく、その後の回忌法要などで収入源となり、さらに寺院修理などでも寄付をランクに応じて檀家(遺族)に要求することができる、金蔓になっている。
 檀家側、戒名を支払う側にも価値はある。それは、死後の保険(免罪符)ということや死者への気持ちを形に出来るということと同時に、戒名に明確なランクがあることで、一目で自分たちの地位(や財力)を他者に示すことが出来るという価値だ。

 このような社会的な地位を表し・機能する“戒名は社会を支える宗教的なシンボルの一つなのである。 戒名が社会秩序を維持することに貢献している以上、社会は戒名に対する批判を好まない。戒名を批判することは、それだけにとどまらないかだ。(略)それは、結局のところ日本の社会そのものを批判することにもなっていくのだ。”
 “戒名は、公に定められた制度ではない。その起源もあいまいである。一般には、仏教の教えと結び付けて理解されているが、日本に見られるような形態は、日本だけに限られている。日本以外の社会に戒名は存在しないといってもいいだろう。ところが、その事実は公にされないまま、死者に戒名を付けることはあたりまえだという観念がいき続けている。それでいて、戒名は生者たちに大きな影響力を持っている。戒名は、無言のうちに私たちを動かしているのだ。”

 差別戒名と院殿居士は一続きになっている。
 戒名は全てが「差別戒名」だといっても差し支えない。
 社会で差別を貫徹するためのトドメが戒名だと言える。
 社会と変わることのない、それどころが社会に現れる差別以上に鮮明に社会の序列のあり様を宗教が見せ付けるものだ。
 『核式目』は真言密教が、当時力を付けてきた禅仏教と独自の民間信仰を担う力を持つ職能人たちに対する敵対心を表したが、それは時の統治権力にとってそのままには受け入れらなかったため、権力の意図に沿う形に変形して、えた・ひにん等の被差別民に対する差別の正当性付与と貫徹に寄与した。
 その基本的な姿勢は今も変わっていないのだ。
 「差別戒名」を付けた仏教教団も、それを受け入れている私たちも、この歴史的現実を自ら直視できていない。
 自分たちの所有地にあった差別戒名の刻まれた墓石について“「先代からあると聞いていた。うちのじゃないし、うちには関係ないから(本山には届けなかった)」”と住職が言えてしまう。例え、自分たちが直接関与したものではないとしても、同じ仏教が担った差別の歴史に、どうして“うちには関係ない”のか、どうしてこれほど無自覚・無責任でいられるのか。
 それは分からない。この程度の人間しか今や寺にいないということなのかもしれない。
 だが、だからこそ、都合のいいように理屈を作り出し・曲げて「差別戒名」を金蔓にし続けてきたのだし、続けていられるのだろう。
 その金蔓は私たちの差別したい心に根をはり、蔓を伸ばし続ける。

 ただ今後、この金蔓を伸ばすために必要な太陽(金)や、金蔓を巻きつける棒(子孫)が減少すれば伸ばしようは無くなるだろう。
 しかしその時は、また別の金蔓を仏教教団・寺院は見つけようとするだろう。
 差別したい心という土壌があれば、植え付けることができるのだから。

 差別したい心を見つめることを説いた仏教の名の下で。
 
          



引用・参照)
『宗教と部落差別』中尾俊博著(柏書房)
『差別戒名の歴史』小林大二著(雄山閣BOOKS)
『戒名』島田裕巳著(法蔵館)

 『身分差別社会の真実』斉藤洋一、大石慎三郎著(講談社現代新書)では、えた・ひにん等の被差別民の起源について“すでに中世には被差別民が存在しており、「賎視」が成立していたのだから、それを権力が民衆支配に最大限に利用したと考えるべき”と述べ、権力による創造説や分断説に疑問を呈している。そして“中世の被差別民が、一方で「賎視」されながら、他方で「ケガレ」や「キヨメ」という特殊な職能の保持者として、いわば「畏怖」される存在でもあった”んのが“近世の被差別民に対しては、こうした両様の観念のうち、「畏怖」の念がうすれ、「賎視」の念のみが強められたと考えられ”、“江戸時代中期の享保期ごろから、権力によって差別が強化されたようにみられる”と述べている。
 
 
by sleepless_night | 2008-08-10 16:32 | 宗教
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