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やる夫で考える麻生「ナチス」発言 part2

 やる夫で考える麻生「ナチス」発言。の続き。 

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  /::⌒(__人__)⌒:: \   「その通りだお!」
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 |    ( ●)(●)  適当だな・・・
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「じゃあ、とりあえず、どうして議会が政権を生み出す力を失ってしまったかについてだが、これはワイマール共和国の成立時の事情から考えるのが簡単かな。
 ワイマール帝国の前身であるドイツ帝国には政党も議会も存在したけど、皇帝が官僚からなる内閣を任命して統治する議会制と君主制の折衷のような形態だった。1914年からの第一次大戦は予想外に長引き、ドイツ帝国は経済封鎖で窮乏し、1917年にはベルリンでストが起き、社会民主党からは反戦を表明したグループが独立社会民主党を結成するなど議会でも反戦への動きが高まり、1918年のベルリンでの大ストはパンと平和と軍部支配排除を訴えた。同年の7月18日は「ドイツ軍の黒い日」と言われる敗北を喫し、参謀総長ヒンデンブルクと参謀次長ルーでンドルフは政府に即時休戦の交渉を求めた。実権を握っていたルーデンドルフは議会多数派の政府にアメリカとの交渉をさせるために、バーデン公マックス内閣を組閣させた。憲法が改正され、それまで皇帝にしか責任を負わなかった内閣が議会に責任を負うように変えられた。バーデン内閣はアメリカと交渉し、そこでアメリカは戦争主導者の処分を要求、つまり皇帝ウィルヘルム2世退位を求めた。皇帝がこれをなかなか受け入れずにいるあいだ、ついに無謀な戦争継続命令に不服従の姿勢をとったキール港の水兵が逮捕された。逮捕に抗議した水兵たちは反乱を起こし、労働者も加わり、市民革命的な軍部・君主制打倒の動きへと発展し、帝国内で最も伝統的なバイエルン王の退位へと繋がった。ベルリンでもゼネストが行われ、軍も任務を放棄した。事態の激化を前にバーデン公マックス首相は独断で皇帝退位を発表し、軍も皇帝を見捨てたことで皇帝は退位してオランダへ亡命した。」

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「市民革命によってワイマール帝国が生まれたっていうことは、すごく民主的なんだお。」

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「そうとも言えるな。だが、ワイマール共和国の成立はそれほど単純には終わらなかったんだ。
 革命のきっかけとなったキール軍港での暴動の主役となった水兵と労働者は労兵評議会(レーテ)と言われる組織を結成して統治に当たった。この評議会による統治の形式は全国へと広がった。
 つまり、議会や政府とは別に、一部の人々からなる組織が革命のイニシアチブをとり統治の実権を握る状況が生まれてしまった。
 これは政府に加わって新しい国家の建設を担おうとしていた議会多数派の社会民主党・民主党・人民党にとっては障害となるものだったけれど、戦争中に社会民主党から分離した独立社会民主党にとっては好機となった。独立社民は反議会的な暴力革命による国家建設を目指して、戦争中から社民の支持基盤だった労働組合への浸透を図ってきたから、レーテ支配による国家は理想に沿うものだった。
 独断で皇帝退位を発表したマックス首相は辞任して、社民党のエーベルトへと首相を引き継いだが、社民は一党で議会多数がなかったので連立の交渉を独立社民ともすることになった。
 その社民と独立社民の連立交渉の間に、独立社民が社民より先に勝手に社会主義共和国成立の宣言をする動きが出たため、社民のシャイデマンがこれまたエーベルトに勝手に共和国成立の宣言をしてしまった。
 でもまだ決着はつかなかった。
 さっきも言ったように、革命を主導したのは議会ではなく、兵労評議会だった。だから、政府がつくられても、それを評議会が承認しないといけなかった。
 そこで共和国宣言成立宣言を先行された独立社民は、政府の主導権を奪うべく、兵労評議会に手を回して政府の方針を自分たちの構想に沿うようにしようとした。
 だが、社民も評議会に手を回してあり、多数派を抑えることでベルリン評議会の支持を得て暫定的な承認を得た。
 独立社民は再度の巻き返しを図って全国評議会に向けて運動をしたが、これも成らなかった。
 結果、社民の主張である選挙を経た議会制による国家の運営が、独立社民の主張した評議会制に勝ったのだが、独立社民も連立に参加している以上、すんなりと対立が解決するはずはない。
 両者の対立は議会制と評議会制という違いにも現れるように、同じ左派であるが、左の程度・スタンスの違いによる。独立社民は暴力革命によって社会主義国家を建設し、企業の社会化や反軍的な構想を実現しようとしていたのに対し、社民は左派であるが、現実的に見て戦後の荒廃から復興するためには資本家の協力が必要であり、軍部の力も必要であるという穏健な姿勢を採っていた。
 この不揃いな政府の状態下で、革命の余波でベルリンに残留して宮殿に駐屯していた水兵団が政府に恐喝的な要求をし、それが容れられないと官邸占拠し人質をとった。
 革命後の政府は武力鎮圧を決定したが、しっかりと支配できる軍がなかったため、旧軍で残存していた部隊に援助を求め進撃させたが、逆に市街戦の中で市民に武装解除され、結局、交渉によって王宮からの撤退を承諾させた。
 この事件の対処、旧軍への姿勢が合わないとして独立社民は政府から抜けてしまった。
 その後も独立社民も関わる大ストや暴動などが起き、これに対処するために政府は旧軍の将校団を引っ張り出すために具スターフ・ノスケを司令官にし軍隊編成を早急に行い、本格的に武力による鎮圧に乗り出した。
 そしてやっと、選挙が行われて、国民に選ばれた議会による政府が生まれた。
 もちろん国民は左派だけではないので、右派・保守派で帝政を支持している政党もワイマール共和国の選挙に参加した。」

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「革命はやはり大変だお。志位はわかっているのか。でも、結局は選挙が実施されて議会と政府が作られたんだから、いいのではないかお?」

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「いや、議会と政府が選挙によってできたのはいいんだ。
 だが、今言ったことから二つのことがワイマール共和国成立時の問題として見出せる。
 一つは、政府は革命の残存勢力を鎮圧するために軍を作ったんだが、それは政府が一から作り上げたものではない。旧軍の将兵や軍統帥部を利用してしまった。ドイツ帝国の軍はもともと皇帝の軍隊で、将校は貴族出身でバリバリの帝国軍人で思想は保守的な人間が多い。当然、共和制に対して忠誠や思い入れなどはない。そんな軍を共和国は内臓してしまった。
 それを象徴する事件が後に起きる。カップ一揆だ。
 カップ一揆は1920年に極右政治家カップがベルリン郊外の2個旅団を率いてベルリンへ進撃して首相と称したが、市民が抗議のゼネストを行い、何もできずに4日で首相辞任を発表して逃亡したというショボイ事件だ。カップの軍隊がベルリンへ進撃したとき、当然、政府は軍で応戦しようとした。ところが、カップが率いていたのが国防軍の旅団だったことを持ち出し、当時軍務局長だったゼークトが「国防軍は国防軍を撃つことはできぬ」と命令を拒否してしまったんだ。このように、信頼できる軍を持たなかった政府は、余計に軍の独立を許し、軍は国の中の国のような存在を気づき挙げてしまった。
 軍とはちょっと違うけど、同じくドイツ帝国を支えていた官僚組織もワイマール共和国は引き継いでしまったんだ。
 軍と官僚という近代国家に必要な二つの組織を、どちらもドイツ帝国のものに頼ってしまったのはワイマール共和国の根本的で、しかし避けられなかったミスだな。
 官僚の中でも、三権の一つである司法も保守勢力が残存した。
おかげで、1923年にヒトラーがバイエルン州政府をクーデターでのっとろうとして失敗し逮捕されたとき、裁判で反共和国的な右翼の裁判官によって叛逆罪として極めて軽い5年の刑を下され、監獄でも優遇されて『わが闘争』を執筆して、わずか9ヶ月で仮釈放されたんだ。
余談だけど、憲法学者でもあるベルハルト・シュリンクが書いた『朗読者』では、第二次大戦後も戦前からの裁判官がい続けたことへの若者たちからの非難の運動にいまいち乗れない主人公が描かれていたね。
 もう一つは、選挙までの過程で分かるように、新しい国を作ろうとする左派の集団がお互いに批判しあってバラバラだ。独立社民は社民の穏健なやり方に我慢できず、何かとデモや暴動にかこつけて再度の革命を目指してし、かえって自分たちが嫌う軍の再生を加速させてしまったし、独立社民も一枚岩ではなく知識人主体のスパルタクスは後に独立社民から離脱して共産党になって、後々に左派の統一を妨げることになった。それによって利益を得たのは右派の政党だった。もちろん、ナチスもその一つだ。」

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「いつの時代も、サヨは内ゲバが好きなんだお」

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「左派一般の話は別として、ワイマール共和国での党同士や党内でのまとまりのなさを象徴するのがミュラー内閣とシュトレーゼマン内閣での出来事だ。
       関・係・ないから       γ⌒))⌒) ))  関係ないから
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            /⌒社民 ⌒⊂_ ヽ彡  / / ⌒社民⌒\
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                 / ̄ ̄ ̄ \ ←社民連立内閣の首相
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               /    。<一>:::::<ー>。    
              |    .:::。゚~(__人__)~゚j   
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               /  ⌒ヽ゚  '"'"´(;゚ 。  
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                と___)_ヽ_つ_;_ヾ_つ.;._
 1928年の選挙で共和国擁護派の優勢状況がつくりだされた国会で、第一党となった社民のヘルマン・ミュラーが組閣を命じられた。これで安定した議会勢力を持つ内閣ができたのかというと、連立を組む社民・中央・民主・人民・バイエルン人民は内閣に参画しようという気を見せず、閣僚は出しても「個人資格」「連絡員」という名目で、さらに首相を出している社民内部では中央や人民といったブルジョアを支持基盤に持つ正統との連立を嫌がり、内閣への協力姿勢を見せなかった。
 そして、内閣が最初に取り組んだポケット戦艦建造問題で、内閣が承認の閣議決定をしたことへ、社民は大反発し、建造案否決の動議を出して、閣僚に賛同させた。つまり、内閣は自分が閣議で決めたことを議会で否決するという馬鹿げたことを演じてしまった。
 もっとも、社民は選挙で「戦艦よりも給食を」をスローガンに戦って勝ってしまった以上、仕方のなかったことかもしれないが。
 1923年の社民・中央・民主・人民党の連立シュトレーゼマン内閣では、ザクセン州とチューリンゲン州で社民共産政権がソ連のコミンテルンの指示で革命へと進もうとしたのを、内閣が非常事態を宣言し国防軍を出動させて州政府を潰した。ところが、バイエルンでは右派が中央政府の法律適用を拒否して禁止されていた右翼団体が公認されて右派独裁状態で明確な憲法違反状態にあった。これにたいしては中央政府が対処しなかったのに、ザクセン・チューリゲンでは軍を出動してまで鎮圧したことに抗議して社民が連立から離脱、しかも、シュトレーゼマン内閣に内相として入閣していたウィルヘルム・ゾルマンに内閣不信任案を提出させ、内閣はこれを受けて辞任した。実は、この倒閣の背景であった左右への対処の違いには、バイエルンの右派は国防軍と通じていて、内閣は軍を出動させようにもできなかったという事情があったんだ。」

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 「そんなんじゃ、誰も議会や政府を信頼できなくなってしまうお!」


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「だろ。このように自党の閣僚を犠牲にするケースは珍しくなかった。ワイマール共和国での内閣の平均寿命は約253日。これは選挙が比例代表制だったために少数政党が生き残りやすかったことを考えても、政党同士の連立がいかに脆かったか、政党がいかに政権を粗末にしたかがわかる数字だ。
でも、それだけではないんだ。
最後のダメを押したのは共産党と他の左派が反ナチスで結束できなかったのは間違いないのだけれども、それだけではヒトラーの首相就任はならなかった。
きっと、これだけなら、まだヒトラーは首相にはなれなかっただろう。」

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「そ、それを教えてほしいお・・・」


 続き→やる夫で考える麻生「ナチス」発言  part3
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by sleepless_night | 2008-08-27 01:06 | メディア
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