夜回り先生と金八先生 part2

中山文科大臣はゆとり教育やジェンダーフリーが本当にお嫌いのようで、ぼろぼろと批判を吐き出しています。
http://www.asahi.com/life/update/0605/005.html

 ジェンダーフリー教育・過激な性教育⇒日本をダメにする

 この矢印を成り立たせる理屈や根拠が何なのか知りたいものです。

 国会議員のジェンダーフリーについての話を聞くと、不安になることがあります。
 この人たちは、ジェンダーの意味や意義を分かって話してるんだろうか?と。
 理解できない横文字がある、けしからん!気に食わないことはこのせいだ!
 のような、自分の人生の安寧や正当化のために、感情的な攻撃をしているように聞こえるのは思い過ごしでしょうかね。

 「こんな教育は私は子供のころ受けたことは無い。」「知らないうちに一通りのことは覚える」
 こんなこと言った人もいました。きっと、時代や環境が変わったことに気づかなかったのでしょう。4年に一回くらい、車にのって名前を連呼している以外は特殊社会で生きてきた人ですから。知らないうちに一通りのことを覚えたって、睡眠学習法でもあったのかしらん。

 中山さん、「これからの日本で生きていく子供達を素直に育てたい。できれば世の中のために貢献できるようになって欲しい」んですね。
 
 素直=性格がおだやかで、逆らわない様子。従順。

 本音が出ていますね。こんな子供が有権者になってくれたら中山さんも安泰でしょう。失政があっても怒らないし、政権交代なんて考えもしない、無茶苦茶な予算管理と支出があっても払えと言われたらそのとおり払い、もしかしたら死ねといわれたら死んでくれるかもしれない。
 いい国を夢見ていらっしゃる。


 皮肉はさておき、前回の続きで教員について。

 前回夜回り先生と金八先生で、本来の職責である学科の指導に教員への期待を移せと述べましたが、これが簡単ではないのです。

 「自然と一通りのことを覚えた」人は気づかなかったかもしれませんが、世の中では高等教育の大衆化と同時に情報社会化が進展したために、教員がそれまで与えられていた下駄を履けなくなってしまっているのです。
 
 大学進学率が大きく跳ね上がったのは70年代から80年代にかけてです。
 その間に、20%付近から40%以上へと上昇します。つまり、現在、子供が教育期間にある親の半分近くが大学を卒業していることになります。
 そうすると、学校の教員と学歴では遜色がありません。進学校や私立校になると、教員よりも難易度の高い大学を卒業した親がごろごろといることになるのです。
 かつてなら、大学に行ったと言うだけで少数のエリートであり、教員はその知的エリートだと認識されることが可能でした。
 しかし、もはや教員に大学卒業ということで与えられていた下駄が許されなくなっています。
 加えて、情報化の進展が同時におこっているので、高等教育を受けた親が教員などの知的エリートしか触れること・理解することが出来なかった情報を入手し・理解することができるようになってしまったのです。

 学科においても、気を抜けばあっという間に、専門知を持った人間という資格を疑われるようになってしまいました。

 さらに、教員が関わる様々な犯罪、特に性犯罪がメディアによって知られるようになりました。
 メディアによる情報以前に、生徒が街に出てみると教員を含む大人が建前の裏で行っている様々なことが知られるようになります。かつてなら、それらが知られても自分の親達のような知的エリートとしての資格がない人間の世界だとごまかすことができたかもしれませんが、教員と自分の親が同様な資格をもっているようになれば、ごまかしが効きません。

 ここまでくれば、もう下駄どころの話ではありません。

 ただのオッサンやオバサンが、つまらない話をしている位にしか授業が受け止められないこと、要は学級崩壊の発生が合理性をもったものとなります。

 教員にこの環境条件のなかで、生徒との“触れ合い”や人格的指導を求めることがどれ程理不尽なことか。学科でさえ、教員としてのレヴェルを保持するために厳しい環境なのに、それ以外のことを重ねて求めれば壊れてしまってもおかしくはないでしょう。

 水谷さんは、殆ど寝ていない生活をおくっているようです。私は、水谷さんを見ていると、もはや担えない期待を負わされている教員達が放置した負担を一人で担おうとしているように感じます。
 人間業ではありません。水谷さんは、ご自身のことをよく「水谷は・・」と三人称のように話をなさいます。これを聞くと、一人称として自分を捉えてしまうと持たないので、あたかも他人がやっているように捉えるとこでなんとかやっているように思えるのです。これは、乖離と似ています。
乖離は、耐え難い苦痛などにあった時に自分を守るために、新しい人格を心に作ってあたかもつらいのは他人であるかのようにして生き延びるための心の防御機能です。(あくまでも類似したやりかたで耐えていると私が感じるのであって、水谷さんが乖離しているというのではありません。)

 金八先生を理想とするような教員への期待と教員自身の願望。

 これらを廃し、新しい教員像が社会に受け入れられるとき、状況は変わると私は思います。

そんな教員像がメジャーになるようなドラマを私は観てみたいです。

 
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by sleepless_night | 2005-06-06 21:46 | メディア
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