図書館の水からの伝言は答えを知っている、わけないか。 「水からの伝言」「水は答えを知っている」について、量が多いので別ブログ↑を開きました。 基本的には各県立図書館の県内公共図書館横断検索でタイトルの欄に 「水からの伝言」「水は答えを知っている」 と入力して検索し、結果、これらの書籍が収蔵されている館のリンクを表示させ、分類がどこになされているかを調べた。 分類が表示されていない場合は、請求記号を記した。 分類番号と請求記号が異なる場合は、請求記号について(請求~)と書いている。 また、其々の県立図書館内の横断検索が何らかの理由で利用できなかった場合は レファレンスクラブ http://www.reference-net.jp/lib_link.html を利用し、リンクを表示させ、上の手順でそれぞれの図書館内検索に表示させて調べた。 大学については各県の横断検索に入っていれば、その結果を記したが、ない場合は各県の国・県立大を基本に調べた。 全国の大学図書館の蔵書はNACSISで分かるので、そちらを参照した方が大学蔵書における2書の扱いについて知るには早いだろう。 水からの伝言:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA42419073 水は答えを知っている:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA55164849 調べたのはここ1カ月ほどの間なので、調査結果はその期間で表示されたものだ。 さらに、見落とし・見間違いの可能性は否定できない。 正確な現時点での情報が必要ならば、横断検索のページを開いたり、各市町村の図書館のページから、自身で検索してみてほしい。 ただ、この国の、私の、あなたの住む場所・地域にある図書館で「自らの伝言」「水は答えを知っている」という2つの書籍がどう分類されているのかを、おおざっぱに知るに足るだけの情報になっているとは自認している。 ちなみに、分類番号・請求記号は日本10進分類法に従っているので、2書の代表的な分類である435.44と147で言えば、435は無機化学、147は心理学・心霊研究の分類を表している。他にも若干別の分類をしているものがあるが、それについては随時(十進分類で「~」に該当)記してある。 つまり、435.44と分類・請求がなされていれば、私たちはその図書館で化学の図書の中に「水からの伝言」「水は答えを知っている」を目にすることになる。 この2書籍の分類が全国でいかになされているかという面倒で実りのなさそうなことを調べようと思い立ったのは、私の住む街の図書館での出来事がきっかけだった。 散歩ついでに図書館に寄って、科学の棚で面白そうな本を見繕っていると、この2書籍が435の棚に並んでいるのが目に入った。 意外なことで、自分が見ている棚を確認した。間違いなく化学の棚だった。 勝手に占いの棚にでも置いてしまおうかと思ったが、占いの棚も一杯で、置く余地がなさそうだったので、その思いつきは放棄した。 何もしないのも癪なので、本をもってカウンターへ行って聞いてみた。 「すいません、この本の分類について知りたいんですけど」 「はい」 「この分類ってどうやって決まっているんですか?」 「うちはTRC(図書流通センター)の分類に従っています」 「でも、この本の分類はおかしくないですか?」 「うちはTRCに従っているので」 「それじゃあTRCでこの分類になっているのか確認してください」 「今ですか!?」 「はい」 といった感じの会話を(貸出手続をしていない)カウンターの内側にいて目のあった図書館員と思しき人と交わた。 図書館員と思しき人は日常の忙しい業務、を阻害しようとする利用者の存在にとまどいを見せ、TRCで確認してほしいと言うと明らかに不満と驚きを露わにした。まるで、私が下着の色を今すぐにトイレに行って確認してほしいと要求したかのようだった。 私は、特別おかしな要求をしているつもりがなく、むしろ図書館職員の本業に関わるような質問をしているつもりなのに、不満げな驚きを向けられて若干憮然とした。 図書館員とおぼしき人は5分ほどして早足で戻ってくると、もっていった本を私に渡して言った。 「はい、一冊だけ147でした。あとはそのままです」 私は本を受け取ると、この予想外の回答に混乱した。 「これでいいでしょ」 私は図書館員とおぼしき人の、その言葉に何と応えていいのか、他に私が問いうることがわからず(分類が違っていたのを私に渡していいのか?) 「いえ、よくはないんですけど…」 と混乱し俯いて手にした本を見つめたまま言った。 でも、その図書館員とおぼしき人は、君子も図書館員もクレーマーに近寄るべきではないことを旨としているのか、私の前から立ち去り、カウンターの奥へと消えていった。 とりのこされた私は、自分がこれ以上何をできるだろうか、よくわからないまま帰宅して、この件に関してざっと情報をあつめた。 ブログyamada_radio_clinicで青森県の事例が紹介され、さらにそれを引いてブログcold9science@wikiでは読者に図書館での分類を確認して、科学に分類されていたなら見直すよう図書館に提言するように呼び掛けられていた。 この呼びかけに、どれほどの人が応えて、行動に移したのかは分からない。 私の調べた結果からは、行動があったとしても私のように実を結ばなかった例が多かっただろうとは予想できる。 本の分類について、多くの図書館、特に人員に余裕のない多くの図書館ではTRCなどの分類に自動的に従って、館独自の判断というのはないのだろうと推察される。 私の相手をしてくれた図書館員とおぼしき人、というのも、彼が図書館の正規の職員なのか、司書資格を持っているのか、私には分からない。 利用してる図書館は中規模の市立図書館で都市部の図書館の例にもれず、ホームレスらしき人々と泣き叫ぶ・走り回る子供と勉強している学生で満ちて、それを捌くためにパートやアルバイトが多くカウンターや棚で働いている。 生産に、もの作りに、直接結び付くようには見えない図書館に、潤沢な資金(税金)が投入されている地域が簡単に見つかるとは思えない。 図書館をバックにした強力な政治力をもった組織が存在するというのも知らない(だけで、あるのかもしれないけれど)。 少なくとも、私の利用する図書館が潤沢な資金に支えられているようには見えない。 行政にお得意の妙な(先進的な?維持管理費の掛かりそうな)デザインの巨大なハコモノが計画通り作られ、それに合わせたかのように、10年以上住んでいるのに聞いたこともないような内容のキャッチフレーズが市に付けられ、そのキャッチフレーズがさらに訳のわからない方向へと表面的に街を引っ張っているなかで、図書館はキャッチフレーズに関わりのない混沌にいる。 図書館は国民の知る権利を保障、自由主義社会・民主主義を維持するための不可欠の前提となる知識の獲得を保障するための施設であり、国民の精神的自由・成長・発展の基礎となるための資料を提供する。 図書館の自由に関する宣言でもそのため “第一 図書館は資料収集の自由を有する。”“図書館は、自らの責任において作成した収集方針に基づき資料の選択および収集を行う。その際、(1)多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの簡単に立つ資料を幅広く収集する。(2)著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除するいことはしない。(3)図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。(4)個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。(5)寄付資料の受け入れにあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。” “第二 図書館は資料提供の自由を有する”“図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。” と収集・提供に関して図書館自体の独立性と自律性を宣言し、これには“わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。”との歴史的背景もあることが示されている。 さらに“検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らか”であることから“第四 図書館はべての検閲に反対する”とし、これには“ 検閲と同様の結果をもたらすものとして、個人・組織・団体からの圧力や干渉がある”と主体を行政権力から広げている。 この点からすれば、図書館がどの分類にどんな図書を置こうが、図書館の自由であり、それに対する圧力は「悪」とされるだろう。また、過去に思想善導機関であった反省からすれば、どれほど荒唐無稽でも著者の著作への位置づけや主張に分類は従うべき、となるだろう。 だが他方で、図書館は図書館法に基づき、図書館法は社会教育法の精神に基づき(図書館法1条)、その社会教育法は教育基本法の精神の則り(社会教育法1条)、教育基本法は“真理を求める態度を養”(2条)うことを目標の一つに掲げている。(目標には“生命をたっとび、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う”もあるけれど、「水伝」「水答」の著者江本勝さんの提唱する“言霊による水の浄化セレモニー”は環境保全に結び付かないだろう。) ここからすれば、「水伝」「水答」が化学に分類されることと真理を求める態度の育成がそぐうものではない。 しかし、教育基本法は憲法の精神にのっとっており、その憲法に図書館の自由に関する宣言は支えられている。 こうして図書館は法律と憲法の作り出す円環の中心で自由を叫び、「水伝」「水答」の置かれるべき棚を巡る問題は図書館の現場で業者の供給する図書分類へと流される。 果たして、それは図書館の自由なのだろうか。 少ない予算、限られた人員、忙しい業務、それ故に業者に流される図書の分類。 それが図書館の自由に関する宣言が謳った、憲法の保障すると言う自由なのだろうか。 私は違うと考える。 むしろ、それは自由の破壊だと言いうる。 図書館で司書などの職員が検討した結果なら、「水伝」「水答」を化学の分類にしようが物理学に分類しようが、図書館の自由・自律・独立性が意味する表現の自由・知る権利という原則に従って最終的に(反対意見は表明しても)従うべきだと私は考える。 その図書館の分類に納得したからではなく、表現の自由という原則を支持する以上はそれしかない。 しかし、業者が提供する分類だから従い、業者が変えたから変更する、業者の分類が即図書館の分類となり、それ以外にないという態度を図書館が採っているなら、その図書館はもはや表現の自由も知る権利の原則も放棄している、自らが宣言したはずの分類を独立して自律的に判断しうる自由と同時に放棄しているとしか言いようがない。 「水伝」「水答」の水という物質によって言葉の良し悪し、思想の善悪が分かるという主張と、この図書館の態度は同じだ。 自由な決定こそが倫理を問う前提であり、物質的に決定されるものを受け入れることが倫理ではない。 自由を免じられようとし、考えることを放棄する。 それは人間の倫理の否定でしかない。 図書館が業者の分類に従い、それだけで「水伝」「水答」を化学に分類するなら、私はそれを受け入れない。 だから問いたい。 なぜ、あなたの街の図書館はこのような分類をしたのか。 参照) COTTO TOWN図書館日誌:選書と検閲 kikulog:カテゴリー「水からの伝言」 PSJ渋谷研究所:図書館でニセ科学書籍は、たとえば147に分類してもらおう。 後日、館長を見かけたので声をかけ、話した結果、江本著のTRC分類が変更されていることが確認され、分類は変わった。
by sleepless_night
| 2009-05-09 22:45
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