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遺体の国の21グラム。   完結編


遺体の国の21グラム。   後編の続き↓


(9)浮上した無縁
 病院の中での完結は解剖の歴史でもあった。
 それは「篤志」の歴史に読みかえられたものであることを香西さんは指摘した。
 だが、今私たちが目にするのは「篤志」に読みかえられた歴史から、逆転した新しい「篤志」だ。
 ここに、浮上したのは「篤志」に読みかえられた歴史によって潜伏させられていた「無縁」だ。
 “<篤志>という機縁を現在も押しあげつづけているのは、善意の語りに感応して提供を申し出るひとのうち、じつは遺族の承諾をえた遺体にもまして、遺族という抑止弁をもたない遺体である可能性が大いにある。つまり<無縁>が表現をかえて再現されているかもしれないのだ”
 「無縁」という機縁による解剖体の供給は「篤志」による供給に消されたわけではない。
 法律上も本人の献体申し出があり遺族がいる場合にはその同意を求められる一方で、遺族がいなければ同意は求められない。
 その中で、実は遺族のいる場合に本人の献体への意思表示が成就しない場合が少なくない。(子供の献体に親が反対する、親の献体に子が反対する割合が反対者の中で多いが、なぜか妻の献体に反対する夫は夫の献体に反対する妻より少ない)
 献体の歴史はミキ女の「篤志」によってはじまり「篤志」によって現在も支えられているといわれる中、実はその「篤志」というのが「無縁」の死体を解剖体へ供給するためのものだっとのと同じように、現在の「篤志」も遺族をもたない「無縁」が潜伏し支えているという側面がある。
 その潜伏させられていた「無縁」が献体の水面に現れてきたのが葬送依存型の献体だと言える。
 「無縁」はもはや人体の過剰性を解除や回避するのではなく、放棄しようとしている。
 
 独自に必要とされる技術論を軽視して、解剖の言葉を用いてドナーとなる「人体」の過剰性を解除しようとし、技術論に流通を阻害され、今、臓器移植では法律を改訂しようとしている。
 記述した様に、法改訂の内容は現行法の規定する2つの原則を覆すものであり、倫理が調停し得なかったドナーとレシピエントの「生」の内、数の論理でレシピエントの「生」を貫徹させた。
 覆された2原理のうち、自律尊重の原則によって保たれていた現行法のドナーの「生」はドナーを死んだことにすることで無視された。「無縁」のドナーは現行法では何ら意思表示を予めにしていなくとも「生」を守られていたが、改訂案では意思表示を予め行い・それが他者に確認されないなら「同意」したものとして「生」をレシピエントへ譲ることになる。
 「無縁」はここで解剖から臓器移植へ「同意(善意・篤志)」という倫理のトンネルを用いて出現することになった。

 臓器移植法の改訂案では記述した様にコントラクト・アウト方式を採用する。
 面白いことに、この方式は個人の権利(利益)よりも共同体の権利(利益)を優先するのだが、共同体の結合が弱まり、個人がバラバラにされるほど、共同体の利益に資するという仕組みになっている。
 つまり、予めの意思表示をしないでも家族や代理を務めうる人間関係がある場合には臓器提供を拒絶される恐れがあるが、そういった関係から個人が切り離されればされるほど、共同体が本来なら「弱まった」と表現される状況になればなるほど、臓器という共同体の利益が臓器するのだ。
 そう、「無縁」が顕在的に臓器移植のネットワークを支えるような仕組みになっている。


 今まで日本国内で臓器移植ができなかった15歳以下の子供たちは、親たちが億を超す金額を調達できるかどうかで生きられるかどうかが決まっていた。
 「無縁」は今まで臓器移植のネットワークへの参入が拒まれていたのだ。

 これからは、今回の改訂案・A案が成立すれば、この子供たちのうち「無縁」の子供が日本の移植のネットワークを支えることになる。


 
 
(10)三輪清浄
 出生率が1.3にも届かない現在は少子化の時代だと言われる。
 理屈から人口の再生産には最低でも出生率が2以上でなければならないのだから、人口は減少していく。
 人口の減少は抽象的な話ではなく、私たちの子孫がいないということであり、私たちの死後にどこかの墓へ埋葬されたとしても、その墓を参る人がいなくなるということだ。
 これを「無縁墳墓」(墓地、埋葬等に関する法律施行規則3条)と言う。
 昭和初期から都市化が進んだ東京では継承者のいない墓が増えて社会問題となっていたが、これからは全国規模の問題となるのだろう。
 無縁墳墓は上記規則にのっとって官報掲載による告知と1年の立て札掲示などで処分される。
 収められていたお骨は記録を付して納骨堂へ収められたり、合祀されることになる。
 つまり、無縁仏と同じ道を辿る。

 葬式仏教と揶揄されるように、仏教は特に近代から葬儀に依存するようになり、何軒の檀家を維持でき、月に何件の葬儀・法事が持てるかは寺院の経済を直撃する。
 葬儀の仏教離れが言われるが、それと同じくらい、少子化による墓地の継承途絶は仏教寺院の経済に深刻な影響を与えることになる。
 仏教は死を相手にしてきた、それが脳死問題や臓器移植に関する仏教の意見表明のなさ・曖昧さにつながっているのではないかと(3)で述べた。
 脳死状態のドナーからの臓器移植へ意見として否定的な傾向の一つに布施のロジックがレシピエントのエゴによって成立しない、三輪清浄を充たさないというものがあったことも述べた。
 その時、仏教寺院は寺の墓地から墓がどんどん消えていくのを前に、自分たちこそ三輪清浄を満たしていなかったことを思い知るだろう。


(11)遺体の国の21グラム
 マサチューセッツ州ヘーヴァリルのダンカン・マクドゥーガル博士は1907年に人の魂の重さを量る実験を行った。
 竿秤の台に乗せられたベットに瀕死の患者を寝かして死ぬ前と後の重さの違いを調べた。
 6人を調べた結果、重さは死後に4分の3オンス軽くなっていたことが分かった。
 
 人は死ぬ時、21グラムを失うといわれる。
 
 遺体への熱烈な執着を見せてきた(ただし、日本の歴史を通じてずっとそうだったわけではない)国で、それを失った時、「無縁」が増進されるべき「生」となった時、この国は何グラムを失うのだろう。





引用・参照)
臓器移植法
臓器移植法改訂 A案
「医療倫理の四原則」水野俊誠著(『入門 医療倫理1』勁草書房)
「脳死と臓器移植」児玉聡著(同上)
自民党衆議院議員 河野太郎HP 太郎の主張「臓器移植法改正関する河野私案について」
         ごまめの歯ぎしりブログ版「なぜA案なのか」
『脳死・臓器移植の本当の話』小松美彦著(PHP新書)
「仏教と「人の死」・「人の命」玉城康四郎著(『現代日本と仏教 第1巻 死生観と仏教』)
「脳死・臓器移植問題と仏教倫理」芹川博通著(同上)
「人間の生命は心身一元である」信楽俊麿著(同上)
「仏教から見る「人の死」の問題点」奈倉道隆著(同上)
「脳死・尊厳死・安楽死」奈良康明著(同上)
「医療と主体的な生の実現」庵谷行亨著(同上)
「何が仏の道に通ずることなのか」濱島義博(同上)
「仏教からみた人の死」松長有慶著(同上)
「日本人の感性、仏教の出発点から考える」脇本平也著(同上)
「「死」は文化的社会的側面がある」水谷幸正著(同上)
「臓器移植法における「死」の解釈について」長谷川正浩著(同上)
『病と死の文化』波平恵美子著(朝日選書)
『流通する<人体>』香川豊子著(勁草書房)
『医療倫理学』小川芳男著(北樹出版)
世界医師会 WMAの主要な宣言等
「功利主義をめぐる論争」伊瀬田哲治著(『生命倫理学と功利主義』ナカニシヤ出版)
『現代倫理学の展望』伴博 遠藤弘編(勁草書房)
「「自分の死」の選択としての献体」中尾知子著(『死の社会学』岩波書店)
『墓と葬送の社会史』森謙二著(講談社現代新書)
『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)

参照)
日本移植学会
日本臓器移植ネットワーク「移植に関するデータ」
5号館のつぶやき 「献体が増加していることをどう考えたらよいのか」
社会学と生命倫理学の迷い道 「WHOの(新)移植指針について」
赤の女王とお茶を 「「脳死が人の死か」という以前に「脳死判定が本当に脳の死を意味しているのか」が問題」
イスラーム世界がよくわかるQ&A「Q61 イスラームは科学の進歩をどう考えているのですか。」
科学に佇む心と体Pt.1「脳死と臓器移植の日米勘違い」
Smectic_gの日記「臓器移植絡み」
間歇日記 世界史Aの始末書「脳生きるは人の生か?」
哲劇メモ「小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』」
今日の小児科医の日記「小児脳移植問題について」
by sleepless_night | 2009-07-12 14:46
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