2005年 06月 08日 ( 1 )

野良猫のえさやりと善意

野良猫を見ていると、不思議な感覚を覚えます。
 あれだけの大きさの生き物が、都会で普通に、誰の管理の下にもいずに生活しているというのは、立ち止まってみるとはおかしなことに思えます。

 縄張りを巡ってにらみ合いをしていたり、思わぬところで寝ていたりと、これが他の動物だったら、それがおとなしい動物だとしても、きっと大騒ぎなのでしょう。
 野生動物の緊張感も切迫感もなさそうに、人間の知らない時間や場所で生活をもち、ふと気づくと新しい代の猫が現れています。

 そんな野良猫達の生活に安定を与えている人たちがいるのを目にした人もいるでしょう。
 私は相当あります。用意した容器に市販のキャットフードや魚の切り身を入ていると、猫達も心得たものでいっせいに回りに集まってじゃれついたりしています。
 
 それは微笑ましい都市の光景ともいえます。
 
 しかし、その光景が、そのえさをやる人たちの私有地ではなく、公道であったり、他人の集合住宅敷地内で見られるという問題があります。
 他人の住宅敷地内でえさをやることは、違法(不法侵入)です。集合住宅でも、敷地の所有権に戸建と違いはありません。排他的にその敷地を管理する権利があります。住人以外が無断で入り利用することは基本的に違法となります。
 また、えさを与えられる猫達は、そこに縄張りをもち、当然その周囲で糞尿をし、爪を研ぎ、繁殖をします。
 えさをやる人は、それをどう考えているんでしょうか。
 
 えさをやっている人の家の敷地に、ある日、知らない人が入ってきて突然ものをまきはじめた。「何をやってるんですか?人の家で!」。相手は答えます「ここに鳩がくるんでえさをあげているんです」。そんなことがあったら、野良猫にえさをやっている人は「ああそうですか」と、気に留めないんでしょうね。駐車してある自分の車に傷を付けられても気にしないのでしょう。庭で糞尿をされて匂いが酷くても、気にしないんでしょう。

 でも、私はそんな心のゆとりは持っていません。また、それ程心の広い人ばかりではないと思います。

 「猫だって食べ物が必要です。命をどう考えているのか?車の傷や糞尿の匂いのために猫の命を犠牲にしろっていうのか?」
 と、野良猫にえさをやる人は思うかもしれません。

 しかし、野良猫にえさをやる人は生き物の命が大切だから、えさやりをしているのではなく、可愛い猫にえさをやる自分を可愛るためにしているように、私には思えます。

 生き物の命を大切だと思うなら、その猫を自分の家で飼うべきです。
 それが、物理的にも経済的にも不可能だと言うのなら、そう言っている時点で、その人は自分の生活を生き物の命に優先させています。
 他人の住宅や車を害しても猫の命を助けたいけど、自分の生活を害してはしたくないと言っているのです。
 
 「野良猫を捕らえて、不妊治療をしているから自分は地域に貢献している」と言う人もいるかもしれません。
 でも、それでその人の自己愛は慰撫されるかもしれませんが、野良猫の持つそのほかの問題は解決されません。
 その程度は、受忍するべきなのでしょうか?新たな原因の発生を防ぐかわりに、現在ある原因については維持させるために力を貸すことは認めろと言うのでしょうか?

 私は猫が好きです。可愛い猫にえさをあげて、和むひと時を持ちたいとも思います。
 でも、私は猫を飼えないので、野良猫を保護する責任を果たせません。
 私達は、人間であって、この社会は人間が作っています。
 その弊害や是非については別として、この社会が人間中心の社会であることは否定できません。人間以外の生物は、人間の生活のために犠牲になることが多々あります。
 その犠牲が避けられないから、出来る限り犠牲が許容できるようにするための制度をつくります(その基準でさえも、人間が自分達の考えで、自分達の社会を心地よくするためという限界があります)。

 その一つが、生物を飼うときは、その生物に責任を持つということです。生物と過ごす喜びを手にするためには、その生物を自分の管理におく責任を求められるのです。

 野良猫にえさをやる人は、その責任を果たせないのに、喜びを得ようとしています。

 多くの人間が生活していない場所であるなら、その希望も許容されるかもしれません。
 でも、都市部では、多くの人間に直接的な財産的損害を与える行為になります。
 それを意識しているのか、疑問です。

  可愛い猫だからえさをやりたいのであって、命が大切だからではないはずですよ。
 毎年、路上で死を迎える人間がいる社会で、猫にえさをやって命の大切さを説くことがどれほどの欺瞞で自己慰撫的か。

 善意という自己認識の危険さを感じます。

 善いことをしているという意識には危険がつきまといます。
 その“善い”は、あくまでも“自分が善いと思っている”ことに過ぎない可能性があり、“善い”という意識は、自省を阻み、暴走するおそれがあります。

 ある宗教団体の信者が、自分達の教えによれば地獄におちると考えられる人を救おうとして、宗教団体の勧誘であることを隠してサークルや集会などに参加させたり、酷い場合には合宿形式のセミナーへと誘い、強制的な教化をする。また、家族がこのままでは地獄におちると教えられた信者が、家族の財産を勝手に教団に寄付して、布施によって家族を救おうとする。
 この人たちは“善い”と思ってするのです。

 宗教団体に属する人の多くは“いい人”に感じることが少なくありません。
 実際、“善い”ことをしようとする人が多いのでしょう。
 でも、彼ら・彼女らに欠けているのは、その“善い”は自分達にとって“善い”のであって万人にとって“善い”ことにはならないという単純な認識です。信仰をするとは、万人にとって“善い”思想だと考えることを含むのは間違と言えないのですが、“万人にとって善いと自分は信じている”と認識せずに“万人にとって善い”とだけ信じていると、暴走をする危険があります。

 野良猫にえさやりをする人の“善意”と危険性のある宗教団体の“善意”、人間が持つことのできる“善意”は限界があり、それを意識しなければオウム(アーレフ)が引き起こした惨劇が繰り返される可能性があると、私は思います。
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by sleepless_night | 2005-06-08 18:31 | 宗教