2005年 06月 17日 ( 2 )

女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日

テレビを見ているとき、私はテレビ画面に写っていない場所のことを想像します。
 真面目に原稿を読んで、深刻そうな顔をしているアナウンサーは上半身だけスーツを着ていて下半身は裸じゃないかとか、かなり変態じみた想像をします。

 直接見ることのできるスタジオの中にいる人しか、アナウンサーは下半身裸かどうか分からないはずなのに、多くの人はアナウンサーが下半身裸かなど疑問をもたないでしょう。
 もっと一般的なことを言えば、ドラマで出てくる室内のシーンでは天井がないこと(がある)を意識することはないでしょう。
 
 私達は、テレビを見るとき、「~のはずだ」という信頼でもって、見えない部分を補っています。 アナウンサーは上半身しか映ってなくてもズボンをはいている「はずだ」。ドラマに出てくる室内に天井はある「はずだ」。ということです。
 テレビは「~のはずだ」がないと、成り立たないメディアということです。
 
 その「~のはずだ」が最近、急速に融解してきています。

 端的には、CMに出ている人が、報道・情報番組に出ていることに表れています。

 CMとは、CMを出している企業の宣伝です。そこに出演することは、その企業の利益のために働くということです。さらには、その宣伝する商品などについて一定の責任を負うことになります。CMに出ることはただの仕事であって、出演者の人格とは全く関係ないということはありません。社会保険庁の広告に江角さんが出ていたにも関わらず、江角さんが未納だったときのことを考えれば理解されます。もし、CMに出ることがただの仕事で、出演者の人格に関係なければ江角さんの未納は社会保険庁のCM出演の障害にはならないはずです。社会保険庁のCMに出ると言うことは、出演者の江角さん自信が年金の掛け金は払うべきだと思っている「はずだ」ということです。同様に、コナカのCMに出ている松岡修造さんはコナカのスーツが良いと思っている「はずだ」とみなされますし、セコムのCMに出演している長島さんはセコムが信頼できると思っている「はずだ」とみなされますし、アメリカンファミリーのCMに出ている矢田亜希子さんはアメリカンファミリーの保険が優れていると思っている「はずだ」とみなされます。
 勿論、それらを仕事でやっていること(建前という要素があること)は視聴者は知っているのですが、それでも「はずだ」という思いが私達にあるから、江角さんはすさまじい非難を浴びたのです。

 CMと対極にあるのは報道です。報道を語る際に公平中立(※)と言う言葉が持ち出されるのを聞けば分かるように、報道をするにはCMのような一私企業の利益にたった姿勢ではできません。 報道する人間は、そんなに優れているとも素晴らしいとも思っているわけではないのですが、それでも私達は報道に携わる人を公平中立な「はずだ」と言う約束めいた考えを捨ててはいないはずです。報道番組を見ると言うときの態度は、社会で起きていることを、ありのままの事実や、それについて公平中立な立場で分析している「はずだ」という態度が基本として存在します(メディア・リテラシーはこの「はずだ」という基盤の上で展開されるものだと思います。何故なら、もともと公平中立「のはずだ」という基盤としての信頼・期待がなければメディア・リテラシーが要請されることはないからです)。
 報道番組でこのような「はずだ」という期待や信頼の構造がなくなるということは、電波の有限性やテレビ・メディアの強い影響力から導きだされた公共性と、それを理由とした寡占体制を否定することになります。民放がスポンサーによって支えられているということがあっても、報道において公平中立である「はずだ」と言えない(報道ができない)のなら、寡占を維持する根拠を失います。

 CMの出演者が報道番組に堂々と出ているということは、「はずだ」というテレビを支えている約束が無くなったということです。

 一私企業の商品を良いものだと思っている「はずだ」という人が、公平中立な「はずだ」というのは無理です。
 例えば、保険のCMでアメリカンファミリーに出ている(アメリカンファミリーの保険が良いと思っている「はずだ」)矢田さんが保険業界の報道をすること(公平中立である「はずだ」)は両立できません。保険会社のCMに出れば、その保険会社をはじめ、保険業界全体の利益と関係します。その会社や業界の利益のために働いている人が、公平中立であることはできません。できる可能性が無いのではなく、見ている側が「~のはずだ」という信頼を持つことができないのです。矢田さんは保険会社のCMに出ている以上、保険会社の利益関係者「のはずだ」としか見ることはできませんし、発言もその制約をうけます。報道に求められる「はずだ」を満たすことは不可能です。

 ラサール石井さんは、何の疑問も無かったのでしょうか?
 ラサールさんは「~のはずだ」の融解現象の象徴だと、私は捉えています。
 ラサールさんが嫌いというのではありません。好き嫌いという感情的な話ではなく、本当にテレビ自体が支えられてきた構造(視聴者が「~のはずだ」と信頼を持てる)が軽々と無化されていること、それにたいして何も疑問が上ってないメディア全体に対して唖然としているのです。ラサールさんが出ている報道番組のあとに、ラサールさんが出ているCMが流れるのを見るのは、本当に信じられない光景です。

 もう、ここまでするならテレビに出る人は、俳優とか歌手とか芸人とかキャスターとかアナウンサーとかの区別を一切なくしてしまったほうが良いはずです。
 そうすれば、視聴者は明確に「~のはずだ」という態度を放棄できます。
 アナウンサーで採用するとか、芸能人として事務所に所属するとかを一切やめて、全て“テレビに出る人”という枠で採用をするようにすれば分かり易くなります。
 現状でさえ、それと似たようなものなのですから。
 俳優は演技ができるから俳優になっているのではないし、歌手も歌が上手いからなるのではない、アナウンサーは日本語が正しく使えるからでもないし、芸人は芸があるからでもない。
 この人は「~のはずだ」という態度を視聴者からなくし、ただ画面に次々と表れる“テレビに出る人たち”の戯れを見る。
 
 双風亭日常ではhttp://d.hatena.ne.jp/lelele/20050616とマツケンとヒトシくんの壊れ方についておっしゃっていますが、これらも、「~のはずだ」の融解という視点からすれば極めて当然の出来事のはずです。
 つまり、これだけ無茶苦茶にテレビを支えてきた「~のはずだ」という区切りを侵犯する行状が出現しても見ている側も作っている側も問題だと思っているように見えない。マツケンさんもヒトシくんもメディアの中で長いキャリアを持ってきた人たちですが、この現状を見て、もう今までの約束ごとを気にしなくてもしたいようにしても問題ないということを悟ったのでしょう(ヒトシくんはスーツのCMにもともと出ていましたけど)。
 時代劇俳優は時代劇に出る「はずだ」とも、司会者はおちゃらけた番組にでない「はずだ」とも視聴者も製作側も期待・信頼していないということが分かって、やりたいようにしはじめたというのが“壊れて”見えるのであって、“壊れて”いるのはマツケンやヒトシくんではなくテレビメディア自体だと考えるのが自然です。

 ですから、もう女子アナもののAVという世界は終わりになってもいいのです。
 これからは、女子アナがAVに出たり、AVに出ている人がニュース原稿を読む時代になります。
 その時には、アナウンサーという存在自体がもっていた「~のはずだ」という考えがないのですから、だれがニュース原稿を読もうと関係ありません。
 視聴者側も、その原稿を読む人間の属性に今までのような「~のはずだ」という期待を持っていないのですから。
 AVに出演して、男優と激しい性行為に及んでいる女性が、ニュースを読む、そのニュースが過激な性教育を非難する議員の発言の紹介であったり、未成年の性交経験についてであったりしたら、それを見る視聴者にとってまたとない脱「~のはずである」の機会となるでしょう。
 テレビに出ている人が何をし、何を言おうと、そこに立場や役割に要請され、期待される属性は一切ないとありありと実感されるはずです。
 現状と程度の差の問題であって、本質は一緒なのですから、そんな日が来ても、私は驚きません。

(※)公平中立とは、真ん中に立つと言うことではありません。独立性を意味するものです。
 人間が物理的に存在する以上、真ん中に立つとことはありえません。どこかに立つことしかできない人間が、真ん中に立ったりはできません。どこが中心かも、どの規模や時間で測るかで異なるのです。できるのは、独立した自分という立場から、自分がその責任を持つ形で、誠実な資料読解と論理展開をすることです。
 今のマス・メディアの使う公平中立は、単にどっちつかずの状態で責任を取らないようにするための欺瞞であり、公平中立を口実にメディア批判する議員は単に自分の言うことを聞かないことへの感情的反応にすぎないと、私は思います。
また、“ありのまま”の事実と表現しましたが、これも同様の理由でありえません。
 何か出来事が生じたとき、それを見聞きした人が観察・記憶・表現する過程を担う以上、“ありのまま”はありえなくなります。これはビデオなどの記録媒体をつかっても同様です。その記録媒体も物理的に存在する以上、どこから・いつ・どのくらいの間、記録するか、その映像・音声をどうやって編集するかで、“ありのまま”はありえなくなります。
 
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by sleepless_night | 2005-06-17 22:13 | メディア

平原綾香の「意味」

 前回は平井堅さんの『life is・・』に触れて「意味」「目的」の二つの用法について述べましたが、この二つの用法の混用という形があらわになっているのは平原綾香さんの歌う『jupiter』です。この作品の作詞は吉元由美さんという方なので、歌詞について述べる際に平原さんのお名前を出すのは筋違いともいえますが、作品自体が平原綾香さんと切り離せないような認知のされ方をしていると思いますので、間違いともいえないでしょう。

 さて、歌詞について話を進めます。「意味」「目的」の混用を示す前に、歌詞の分析をします。

 まず、出だしであり、曲の最も印象深い(これは平原さんの声によるものが極めて大きいと感じます)“everyday l listen to my heart ひとりじゃない”とあります。
 これが何故、“ひとりじゃない”のか?
 歌詞からこの理由となる部分を抜き出してみます。

 “深い胸の奥でつながってる”
 “この宇宙の御胸に抱かれて”
 が直接的なものです。
 
 さらに、“私を呼んだなら どこへでも行くわ”“ありのままずっと愛されている”“いつまでも歌うわ あなたのために”も間接的な理由と言えるでしょう。つまり、“呼んだなら”と言うことは、コミュニケーション可能な位置に“私”がいることになりますし、“ずっと愛されている”ということは、距離的にそばにいなくても、“ずっと”気にかけてくれている存在がいると解釈できるので心理的には“ひとりじゃない”といえます。これらは“深い胸の奥でつながってる”と同じことを言っていると考えてよいでしょう。距離的にそばにいなくても、気持ちの上で“つながって”“ひとりじゃない”といっていると考えられるからです。
 
 “この宇宙の御胸に抱かれて”というのも“listen to my heart”“命のぬくもり感じて”と合わせて考えると“つながって”と同じことになります。
 “listen to my heart”は心音を聞いているいることですし、“命のぬくもり”というのも心臓から送り出される血液の暖かさです。
 “宇宙”と一見関係がなさそうですが、そこで「人は地球に生まれ、地球は宇宙に生まれた。したがって、宇宙の営みと人間の営みは究極的に一致している」と言う考え、「自然の秩序と人間の秩序は同じだ」という考えを媒介すれば、心拍や血液という人体と宇宙は関係します。
 “果てしないときを超えて輝く星が出会えた奇跡を教えてくれる”という部分からも、“輝く星”という宇宙の仕組み・法則と“出会えた”という人間の営みを一致させようとする考えが読み取れます。<※>
 つまり、人間は“宇宙”とも“つながって”いると言っていることになります。

 以上から、“ひとりじゃない”のは、“呼んだなら どこでも行く”“ずっと愛”してくれるような存在がいるので、心理的に“ひとりじゃない”ことと、“宇宙”と“つながって”いるので理論的に“ひとりじゃない”と言うことを表していると考えられます。

 ここまでで、「意味」「目的」の混用の基礎が現れています。

 「意味」「目的」について述べてきた文章で繰り返していますが、「意味」「目的」には二つの用法があります。用法①は超自然的・超人間的存在(神さまのような存在)や法則の示す「意味」「目的」です、用法②は人生をコントロールできたり、意図した結果への影響力を持てたときに感じる「意味」「目的」です(例えば、試験に受かる「目的」で勉強して合格したときに、「意味」があったと感じる)。
 
 この二つの用法からすれば、“宇宙”と“つながって”いることは用法①と関係します。
 上述したように、“宇宙”と“つながって”いるためには「自然の秩序と人間の秩序は同じだ」というような考えが無くてはいけませんし、これは“輝く星”が“出会えた奇跡を教えてくれる”のですから、『jupiter』はこのような考えを持っているといえます。そして、用法①は法則の示す「意味」「目的」ですから、“宇宙”と“つながって”いるとすれば、そこで使われる「意味」「目的」も宇宙(そら)という自然の法則(現在、人間と自然の間に共通した究極的な法則は見つかっていませんから、ここでの自然とは超自然的と考えていいでしょう)の示すもの、つまり、方法①の「意味」「目的」となります。

 そして、この歌詞では正面から「意味」「目的」に触れた部分があります。
 “愛を学ぶために 孤独があるなら 意味の無いことなど おこりはしない”です。
 この“意味”とは用法①の「意味」であると考えられます。

 ところが、“わたしのこの両手に何ができるの 痛みにふれさせて そっと目を閉じて 夢を失うことよりも悲しい事は 自分を信じてあげられないこと”とあります。
 これは、明らかに用法②の話です。
 つまり、自分という小さな存在ができることは、大きな社会や歴史の観点からは小さく、「意味」の無いことであるように感じます。その無「意味」さは“痛み”を感じさせます。“夢を失うこと”があれば「目的」を失い、“痛み”はなおさらでしょう。そこで、“自分を信じて”と励ましがあります。

 この歌詞全体はキー・フレーズである“ひとりじゃない”という部分に表されるように、超自然的・超人間的な次元を表現しようとしています。
 “宇宙”と人体の“つながり”という超自然的な話と、“御胸(みむね)”や“ありのままでずっと愛されて”という明らかなキリスト(超人間的存在)のイメージの話をしています。
 しかし、同時に“わたしのこの両手でなにができるの”“夢をうしなうことよりも悲しいことは 自分を信じてあげられないこと”という一般の人生の次元、生活の次元での話しがなされています。超自然的・超人間的な話が全体としてある中で、突然に“夢”という人間的・生活的な話が出てきてしまいます。

 違った次元の話を同じ歌詞の中、それも全体を無視する形で混ぜています。
 ですから、さっと聞くと“意味のないことなど”の部分の“意味”が用法①か②か分からなくなります。

 用法①の「意味」のように、人間を超えた存在などが示す「意味」(神様のような存在が、人間の生きる「意味」は~だ、と示す)なのか、用法②のように、私達が生活するなかでやってきたことの成果が感じられたときに言う「意味」なのか、迷い易くできています。
 
 この作品の曲は、ホルストの代表的な作品で、クラシックの定番であるだけに優れたものです。歌手である平原さんの声も独特で一度聞けば忘れない面白みがあります。

 しかし、歌詞はいただけません。あまりにも安易にニューエイジ的な概念を使いすぎている上に、それを貫徹もできていません。繰り返しになりますが、“自分を信じてあげられないこと”と“愛を学ぶために”につながりが無さ過ぎます(次元の違う話を入れているのですから当たり前です)。
 さらに言うと、“宇宙に抱かれて”“つながって”いるは子宮をイメージさせます。“ひとりじゃない”状態がこれでは、子宮回帰願望と同じです。子宮から出た上で、独立した個人としての孤独感や苦しみとそれを乗り切る希望を歌った平井堅さんの『life is・・』と対称的です。
 
 『jupiter』の印象で、以降の平原さんの音楽を能動的に聴いていませんが、もう少しきちんとした作詞の作品があれば聞かず嫌いを払拭して聞いてみたいです。

<※>このように宇宙や自然の内部にある秩序や法則にひそむもの(現代の科学や医学では分かっていない。西洋的な分析思考ではなく、東洋的な全体思考)こそ、人間に必要であるという考えは1970年代に登場したニューエイジと言われる思想潮流。
 耳障りの悪くないことが多いですし、日本人には馴染みのあるようなフレーズが多いのですが、それに完全に入り込む態度は受け付けられないでしょう(これはニューエイジに限らず思想全般についての日本人の態度ですが)。
 『jupiter』はこの日本人の思想への無自覚な態度や感覚で受け入れたり拒んだりする傾向をよく表しているとも言えます。 

 
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by sleepless_night | 2005-06-17 20:37 | 宗教