2005年 08月 19日 ( 1 )

「純愛」の絶望/ストーカーから見えるものpart3

 前回、前々回と求愛型ストーカーを考えることで、現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)におけるコミュニケーションのジレンマが現れることを述べてきました。
 簡単に要約しますと、自由主義に基づく権利意識の向上から男女関係(同性関係)において理性的なコミュニケーションが求められ、権利化されているにもかかわらず、その自由主義の社会での進展により、選び・選ばれる者として非理性的なコミュニケーションへの欲求がより求められるようになったという、同一の理論が導く両立しない欲求の間で生じるジレンマです。
 
 さて、前回述べたように求愛型ストーカーについての考察の視点として2点ほど加えます。

 まず、一点は、求愛型を典型とし、略奪型や拒絶型なども含む男性が加害者の大多数を占める犯罪であるストーカーを生み出す社会環境についてです。
 日本に限ったことではありませんが、今回は一応日本についての話に絞ります。
 ストーカー関連の書籍にも触れているものがありますように、ストーカーという犯罪を生み出す・助長する要因の一つに、社会的に男性が主導権を取ることが期待されている環境が考えられます。
 つまり、男性は様々な組織・場において主導権をとること、特に女性がいる場合にはその関係で男性が関係を主導することを期待されているという社会環境(社会といっても、行政・産業などの主要な社会部門は男性社会ですので、主に男性同士で何とはなしに期待しあって、それに女性も同調しているというのが正確かもしれません)の中でストーカーが生まれ・育てられるという側面があるということです。
 特に、象徴的・公的な場、儀礼的な場では男性が未だに主導的な役割を果たすことが求められています。例えば、戸籍、子供の保護者、葬儀の喪主、などでは男性という性別を持つことが何らの実質的な意味を持たないにもかかわらず男性が戸籍筆頭者、保護者欄は父親の名前、喪主は成人男子が優先されるなどが社会的に通用しています。
 しかし、このような社会的期待があるものの、男女関係の実際では男性が主導していると言えないのは経験からも様々な兆候からも了承されることでしょう。
 例えば、「コクる」(好意感情を相手に告白する)のは男女ともに行われており、とりたてて男子・男性側がするものだという意識は見られませんし、妻側の申し立てが7割を占める結婚20年以上の夫婦の離婚、所謂熟年離婚の急増を考えれば、男女関係の実際は男性が主導しているとは言えません。また、夫婦関係にあっては他国と異なり妻側が家計を握る割合が圧倒的であることからも、男女関係の実際を主導しているのは男性だとは言えません。
 傾向としては、女性が関係の主導権をとるようになっているとまでも言えるでしょう。(※)
 
 男性へ主導権をとることを求める社会的期待はあるが、男女関係の実際では女性が主導権をとる傾向がさらに増してきている、社会的期待と実際との間のズレが拡大しているのです。
 かつても関係の実際を女性が主導していることは、家計の把握の点からも、少なからずあったはずですが、同時にそこでは女性が男性の要点的な主導権を認めること、社会的期待に沿うことが要請・強制されていましたのでズレがあっても問題化しなかったのですが、社会的期待の圧力がそこまでの力を失ったために男女共に自身の都合で入り乱れた形で使い分けをするようになってしまっている(都合の良い時に、女であること・男であることを持ち出せる)と考えられます。
 これは、以前述べました「レディ・ファースト」「頼りがい」として現れています
 「レディ・ファースト」は「レディ」である前提を抜いて要求され、「頼りがい」が引き換えなく要求できる(「頼りがい」のある男性を求めることは、その男性の言うことを聞くことが理論的には必要であるが、その都合の悪い部分は抜いて、単に「頼りがい」だけを求めることができる)事です(※1)。
 関係の実際に圧力をかけるだけの力も無くなった社会的期待が残り、軽くなった分それを入り乱れて都合よく使うことができる社会環境、その言説・態度が、男子(の保育者・教育者)をコミュニケーションを通しての不透明で多様な成果より、分かりやすく数量化された成果(偏差値・金銭等)の獲得へと向かわせ、その獲得が男女関係を主導する資源・資格であるとの「誤解」(※2)を生み、関係の実際に当たって自愛的なストーカーを生む要素になっていると考えられるのです。

 もう一点は、求愛型ストーカーの心理類型の中心を占めるパーソナリティ障害の現代性に関連してです。
 前回は“体感的”であること・ストーカー規正法の背景的な理論への無自覚さを中心として『世界の中心で愛を叫ぶ』を例に述べましたが、今回は前々回の最後に述べた鏡像としての“体感ストーカー”、その象徴としての「純愛」について述べます。
 パーソナリティ障害について軽く振り返ってみますと、著しく偏った思考や行動のために生活で苦痛をもつまでに軋轢・支障を生じさせる人がパーソナリティ障害を持っていると考えられ(※4)、日本だけでも100万人単位で持っている人がいると推測されています。
 大きく3群に分けられ、全部で10分類されており、求愛型ストーカーをはじめとして、ストーカーの心理類型に境界性と自己愛性が入っています。
 境界性パーソナリティ障害・自己愛性パーソナリティ障害ともに、原因が特定されていませんが、育成環境に注目する説では幼児期の全能感からの発達が上手くいかなかったために、一方では空虚感や同一性障害・極端な対人評価変動と見捨てられ不安へ(アダルトチルドレンとの類似)、一方では幼児的な誇大感・他者への共感性欠如・嫉妬へとつながるとされています。
 いずれにしても、『世界で一つだけの花』を例に述べたように、「健全な自己愛」を欠いている、“肯定”感不足であり、不安や空虚や恐怖すらを秘め持っていると考えられます。
 これが21世紀の精神疾患と呼ばれるものであり、“体感ストーカー”とはこれに集約されるような現代の不安と願望に歪められた鏡像だと考えられると記述しました。
 しかし、これと「純愛」との接点は何か?
 前回述べたような、理性的なコミュニケーションに対する割り切れなさや自由主義的権利の進展による“個人的”領域の解体以外に何があるのか。
 それは、近年に「純愛」と称された代表的作品、『世界の中心で愛を叫ぶ』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』に共通する要素、主人公やその相手方が死者である(『冬ソナ』は死にませんが、実質上の死による分断があります)ことに注目すると現れると考えます。
 なぜ、死者ではなくてはならないのか?
 死者ではないと、理性的なコミュニケーションによる割り切れなさを通り過ぎることができない、“体感ストーカー”のような鏡像に向き合わなくてはならないからです。
 つまり、求め得ないものを求めざるを得ない欲求を突きつけられてしまうことを回避するためには、原理的に、求め得ないもの、死者が必要になるのです。
 しかし、“求め得ないもの”など求めていないと反論があるでしょう。
 ここに、パーソナリティ障害の特徴である幼児的な自己愛の下の不安と空虚感という視点が必要になります。
 パーソナリティ障害を持つ人のの不安や空虚感を満たそうとする行動、特に、境界性パーソナリティ障害の場合、すり替えが生じると考えられます。即ち、パーソナリティ障害は幼児期の自他分離時の不安や恐怖からの回避行動が偏りの一つの原因と考えられ、その幼児期に作られた不安や恐怖の強い感情的の充足を今の他者との関係に求めても不可能、過去の保育者が満たさなかったものを代償的に今の他者との関係に求めている(すり替えて入る)ために、どれ程求めても満たされることはないと考えられるのです。
 このようなすり替えには“求め得ないもの”を求める、満たされさを抱えながら求める絶望的な疲労と苦痛を伴うと考えられます。
 前々回に述べたように、現代の交通・情報技術の発達による過剰選択施と、その選択をするための価値観の相対化は、男女関係(同性関係)における不安と空虚感をもたらします。誰かの“ONLY ONE”であることを保障されることはないにもかかわらず(それ故に)、“ONLY ONE”でありたい欲求が生じる。膨大な他者の中での“ONLY”(唯一性)は現実的にも理論的にも不可能(他者の選択基準を設定することの不可能性・他者は常に生死するため時間軸を入れると選択対象が定まらない)であるのに、求めようとしている・求める欲求があるのです。(※5)
 即ち、そこに“求め得ないもの”を求める欲求があるといえるのです。
 これを現実の世界、生きた人間に求めれば挫折は自明です。たとえ、フィクションであっても生きた人間を対象に求める話であれば、幻想が現実感にくじかれる惧れがあります。
 そこで死者を持ち出すこと、死者をすり替えの対象とすることで挫折の痛みを回避できる上に、それを求める行為自体の自愛的耽美に留まっていることができます。
 これは最もコミュニケーションから遠い関係性を求めていることになります。
 理性的なコミュニケーションを前にした割り切れなさを通り過ぎた形態、相手の出したメッセージによって思考・行動を修正する必要も無い究極的な求愛型ストーカーの夢の形とも言えます。
 
 「純愛」と呼ばれる物語はなぜ、「純」即ち「純粋」だと言われるのか。
 おそらく一つは、登場人物に自分を投影することで代償的な経験をし、カタルシス(浄化感)を得られやすい話だからというのがあるのでしょう。
 しかし、この“求め得ないもの”が求められる話だから「純粋」だと言われている部分が少なくない様に私には感じられます。
 死者によって担保される「純粋」さです。
 やがて死ぬ人物、一時期だけ蘇った死者、死んだと思われ記憶喪失を経て別人となった人、死や実質的な死を持つことで、コミュニケーションによって「汚される」ことのなさを保障された「純粋」さ
 それは「純粋」であっても脆弱です。
 “コップの中に小さな油が一滴浮いて居たら、もうその水は飲めない”「純粋」な愛。
 “心底愛にあこがれながら、他方で、とことん愛に絶望している”(※6)人々が一方で「純愛」を求め、一方で不幸なストーキングに走る。
 
 行き着いた場所が豊かなオアシスではなく、荒野であった。
 ある人は砂漠の逃げ水を恍惚と眺め、ある人はそれが逃げ水だとの忠告を無視して砂漠へ駆けてゆく、ある人はそれが水かもしれないとあこがれを無意識に感じながら砂漠へと向かう人を笑っている。
 それを見るような寂寞とした感情を覚えます。

 この現代に行き着くまでどこをたどり、なにが起こり、何を取捨してきたのか。
 何を求め、何がその求める感情や行為の間で矛盾し、何がしうるのか。
 希望はあるのか。
 次回から、現代の男女関係へと続く歴史、本論へと進みます。

 
 
※)具体的・直接的なデータがありませんが、『人はなぜストーカーになるのか』の著者
岩下久美子さんは拒絶型ストーカーが増加している原因の一つを男女関係の実際を主導するのが女性である割合が増えたことだとしています。尚、岩下さんは男性側の取残されを指摘していますが※1の指示箇所でも述べてありますように、男性だけの問題と捉えることは妥当ではなく、女性側の思考・行動にも問題があり、岩下さんの様な分析は一方的な感想であると考えます。
※1)勿論、「頼りがい」「レディ・ファースト」で述べたように、これらは「頼りがい」を持ちたい男性、「レディ・ファースト」したい男性という対象が必要である、共依存的な関係(都合よく「頼りがい」「レディ・ファースト」を求める女性を、必要とする・都合のいい相手として求める男性がいる)です。だからこそ、それが維持できる社会環境全体が問題となるのです。依存症も進行する過程で一時期、上手く行く(例:アルコール依存も過程の一時期はアルコール摂取により日常をそれ以前よりも円滑に進めることができる)ように、男女関係の共依存体制も上手くいっていた時期があり、現在は、それを過ぎて、依存対象が依存する主体を蝕み始めた時期にあると考えられ、ストーカーはその一つだといえると考えられます。
※3)「誤解」として、「」をつけたのは、後に詳しく述べますが、数量化された成果が男女関係の中の一つである婚姻(恋愛結婚が9割を占めるため、恋愛についても関連する)においては資源となっていることがデータ上現れている(結婚は同一経済を形成できる法的形態ですから、当然なのですが、単にそれだけなら男女ともに同一程度要求されることになります。しかし、現実・要求に関するデータからは、男性の数量化された成果に非常な偏りがある、資源化していることが現れている)ため、誤解と言い切れないからです。だからこそ、男子(の保育者・教育者)が数量化した成果の獲得を重視するといえるでしょう。但し、数量化された成果の方が分かりやすいという点も、社会状況が不透明になるほどに、そちらへ向かわせる(保守化する)理由となっていると考えられます。
※4)ストーカーの心理/人格障害編を参照して下さい。
※5)『世界で一つだけの花』と自己愛をめぐって/ストーカーの心理part3補論を参照してください。
※6)『純愛時代』(岩波新書)大平健著
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by sleepless_night | 2005-08-19 20:22 |