2005年 10月 30日 ( 1 )

血液型占いに反論するとモテないのか? part3

 ここまで血液型占いに反論するモテないのか?血液型占いに反論するとモテないのか? part2で、必要とされる一応の知識の整理が終わりましたので、冒頭の問題へと移ります。
 「いんちき」心理学研究所(http://psychology.jugem.cc/?eid=41)で“浅野教授”は“血液型占い”(血液型を“占う”、ABO式血液型の当てっこ。広義の“血液型占い”に含まれる)に対して、日本人のABO式血液型の比率に則った発言をし、女子短大生が“「だからあんたはモテないのよ」”と応じた会話の流れを整理してみますと、こうです。

 女子短大生:血液型性格判断を念頭に置いた、ABO式血液型の当てっこ=「~型でしょ?」等の発言…発言①
             ↓
 “浅野教授”:「『A型』って言えば40%の確率で当たるし、『A型かO型』って言えば70%の確率で当たるよ。」=日本人のABO式血液型の分布に則った応答。…発言②
             ↓
 女子短大生:「だからあんたはモテないのよ」…発言③


 この発言①~③までの、①②間の会話は順当です。
 ①で女子短大生はABO式血液型の当てっこをすることで、その念頭にある血液型性格判断の助けを借りて、会話を通じた相互理解を進めようという意図を持っていたと考えられます。
 対して、②で“浅野教授”は、血液型性格判断という非科学的な人物判断・偏見を用いるという手法へ疑義を、確率の数字を出すことで表明しています。
 つまり、①②とは、血液型性格判断についての双方の意見の違い述べあった会話として成立しています。

 そこに突如、③で“モテない”という女子短大生の印象・意見が表明され、①②で成立していた血液型性格判断をめぐる会話を全く異なった(それまでの会話と整合しない)内容へと飛ばしてしまっています。

 このように③は、会話として大変に奇妙で乱暴な発言です。
 会話として順当な応答は以下が考えられます。
 ③-α:血液型性格判断についての自分の知識からの擁護発言。
 ③-β:“浅野教授”が血液型性格判断について否定的な態度を表明したことをうけて、“浅野教授”の持つ知識や意見につての質問。
 ③-γ:血液型性格判断が非科学的なものであることの認識を表明をした上で、一般的な会話での利用の是非に関する肯定的な意見。
 
 少なくとも“浅野教授”は確率の点で間違ったことを言ってはいないにもかかわらず、③α~γを採らずに、どうして全く筋から外れた感想の表明をしようと思ったのか・できたのか?さらに、私がこの①~③を一読して(“だから”という理由を表す接続詞が使われていることに)違和感を感じさせないのはなぜか?について考えてみます。

 まず、女子短大生が③の応答をした理由は以下が考えられます。

 ⅰ:経験。過去に血液型性格判断について“浅野教授”と同様の応答をした人間を知っており、その人物が異性(若しくは同性)にモテなかったことを想起したから。
 ⅱ:ごまかし。血液型性格判断が非科学であることを知っており、非科学なことを持ち出してしまった自己の恥ずかしさが露呈することを避けるために、会話を逸脱させようとしたから。
 ⅲ:応酬。血液型性格判断が非科学であることを知っており、非科学なことを持ち出してしまったことを他の知人達のいる場所で指摘されて貶められたと感じ、相手も同じように貶めてバランスを取ろうとしたから。
 ⅳ:一般化。自分が会話のために血液型正確判断を持ち出した意図を“浅野教授”が受け入れなかった(肯定しなかった)ことを、自分が女性であることから、女性一般の意図を受容できる能力がないと解釈したから。
 ⅴ:空気。異性を交えて飲酒をする場、つまり、遊興性の高い場において確率のような細かい話をすることが野暮であることを咎めようとしたから。

 以上のうち、ⅰについては、“だから”という接続詞を女子短大生が用いていることから省いて考えてよいでしょう。
 もし、理由ⅰならば、「モテなかったでしょ?」という確認・疑問の形で発言されると考えられるからです。
 
 とうことで、ⅱ~ⅴの4つの理由が考えられます。
 この4つの理由は、共立可能なもの、もっと言えば、相互の理由が支えあった構造を持つことで、会話の筋を違えた発言がなされたと考えられます。
 理由ⅲはり理由ⅱを強化した形ですし、理由ⅳと理由ⅴは女子短大生自身を拡大させて、女性一般や空気を支配する場(やその背景にある世間の秩序)を利用したものです。
 そして、理由ⅳとⅴだけでは会話の筋を外して発言させるだけの契機となるとは考えられず、理由ⅱとⅲという情動がなければ発されなかったと考えられます
 
 では、女子短大生の発言③の理由が解釈できたとして、私が③の“だから”に違和感を感じなかったのはなぜかを考えて見ます。
 引用したブログの内容から、発言③以降がどうなったのか、発言③に対して周囲の人間はどのような反応をしたのかは不明ですので、全く根拠のない推測ですが、周囲の人間も発言③を乱暴だと感じても奇妙な説得感を感じたのではと想像します。

 実際にいた周囲の人の反応がどうだったのかはさておき、私が違和感を感じなかった、発言③が会話としての筋を外しているのに不適当だと感じなかった、“浅野教授”が「モテない」という指摘が外れていないように感じたのはなぜか?

 それは、理由ⅴに挙げた「空気」です。
 「空気」が読めない、場が読めないこと、その力についての重要な考察をした二人の人物のうち、一人はすでに「性」を語ること、「いき」を語ること。で紹介した九鬼周造です。
 九鬼が分析した日本文化における「いき」という概念の三要素のうちの「意気(意気地)」が文字通りに「空気」に当てはまり、飲酒空間の遊興性が「媚態」に当ります。
 そして、「いき」に必要な「諦め」の観点からすれば、血液型性格判断が科学的に考えてどうであれ、ここまで浸透していることに疑義を持ち出すことは(無駄な抵抗であり、「諦め」の悪い)野暮とみなされ、野暮ということはまさしくモテないことになります。
 したがって、女子短大生が用いた“だから”は「いき」を考慮に入れて解釈すると順当なものとも考えられます。
 
 しかし、それはとるべき態度なのでしょうか。
 前回、前々回と述べてきたように、血液型性格判断は科学的な支持を持ちません。
 さらに、科学的な支持不支持以前の問題として、血液型という生得的な要素で人を判断する・決め付けようとすることを遊びで(あっても)してよいのでしょうか。
 その場における「いき」という“無上の権威”“至大の魅力”の前に唯々諾々と屈する以外にないのでしょうか。
 また、「いき」の要素である「諦め」とは「明らかにする」という前提を必要とするので、もし女子短大生が既述したような血液型性格判断についての前提知識を欠いて“血液型占い”で遊ぼうとしたならば、「いき」ではなく、「粋がっている」だけでもあります。
 「いき」ですらない、その場の「空気」とは血液型性格判断の非科学性や不当性を上回る価値を持ち、守るべきものなのでしょうか。


 とはいっても、発言③が「空気」を乱したことには変わりなく、乱された「空気」の気持ち悪さを考えると、面倒な科学だの倫理だのに目をつぶりたくなります。
 問題だと思っていても、実際にはどうしたらよいのかわからないこと。
 正しいと思っていても、それを口にできないこと。
 その思いをどうしたら、会話に実効性を持たせることができるのか?
 「空気」によって問題意識や正しいと思っている考えを圧殺されないで、どうしたら活かすことができるのか?


 ここで、「空気」に関するもう一人の人物である山本七平(※)の考察を紹介します。
 評論家だった山本は、編集者が思っていても口に出せないことを「そんな話を持ち出せる空気じゃありませんよ」と表現したことに興味を持ち、第二次大戦の戦略決定や公害問題を参考に、非論理的だと分かっているのになぜだか逆らえない状態を“「精神的な空気」”の拘束状態だと捉え、「空気」とその対概念としての「水」というキーワードよって日本人の意識を解釈しました。
 “教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯が立たない何かである。”
 “非常に強固でほお絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに対抗するものを異端として「空気抗命罪」で社会的に葬るほろの力をもつ超能力”であり“論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれている”
 「空気」とは何かを、山本は、その発生状況から以下のように考えます。
 「空気」の醸成には、“物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状況”即ち、“臨在感”があり、この“臨在感”に対して“感じても感じなことにし、感じないふりをすることが科学的と考え”る近代後発国の啓蒙主義が重要な役割を果たしている。そして、科学的な探求を免れた“臨在感”は、“臨在感”を感じさせたものに対する感情移入の絶対化によって、「空気」となり、人々を支配すようになる。
 血液型性格判断に当てはめると、血液型という物質が人間の性格に影響を与えているという“臨在感”を持っているが、それが科学的支持を失っていることもわかっているものの、啓蒙的ではあっても科学的でないために、科学的支持を失った内容や意味を問わずに、非科学故に潜在化させて温存された“臨在感”が血液型と人間の性格との関係性についての感情移入が絶対化されたと解釈されます。
 山本はこの「空気」が生じる土壌が「水」という日本人の日常性だと指摘します。 「水」とは、盛り上がって他が目に入らないくらい熱した状況を一気に冷ます際に用いられる表現「水を差す」から採ったもので、「空気」の絶対的拘束を解消するきっかけとなるのが日常的という卑近で不便で非力な事実の想起(例:酒の席で、嫌いな上司についての話が盛り上がり、失脚させようという話まで出た時に「やっちゃうか?」と問われた瞬間に、「いや…家のローンが…」のように現実を想起させて、場の盛り上がりを一瞬で現実に引き戻す)だと考えたところから用いられています。
 矛盾しているようですが、この日常性である「水」が「空気」を醸成する土壌だとされているのです。
 なぜ「空気」の拘束を解消するはずの「水」が「空気」の土壌かというと、「水」即ち日本人の日常を支える意識が“状況倫理”に則っているからだと考えられています。
 つまり、日本では“「状況への対応」だけが「正当化の基準」とされ”るために、“西欧が固定倫理の修正を状況倫理に求めたのとちょうど逆の方向をとり、状況倫理の集約を支店的に固定倫理の基準として求め、それを権威としてそれに従うことを規範”とされている。状況に対応することで正当化される状況倫理を維持するためには、基準が状況にあわせて伸縮自在でなくてはならないが、その伸縮自在の基準も、無基準となることを避けるにはどこかに固定点を持たなくてはならない。状況やその状況に置かれた人間を尺度に伸縮する必要から、固定点は“状況を超越した一人間もしくは一集団”という虚構に求めなくてはならない。そして、固定点が虚構であることから、虚構であることを暴露することは許されなく、虚構が作り出した(虚構を作り出した)状況の“臨在感”に従うことしかできなくなり、“空気と水の相互的呪縛”の中で一つの虚構で自滅しても別の虚構へと移る。虚構だと知りつつ、それを表に出さないように思い合う気持ちの「真きこと」を求る、“知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり、それを口にすれば、正義と信実がないことになる、ということも知って”いることで“虚構の中に真実を求める社会”となっていると山本は述べているのです。
 これを血液型性格判断に適応して考えると、もともと血液型性格判断が正しいのかまちがっているのかというのは重要なことではなく、会話の材料として便利だと言う程度の認識しかないが、その会話で持ち出された以上は、その状況を維持することに正当化の基準が定められる。
 その状況に適用される基準は虚構によって固定されているだけなので、科学が目指すような統一性は考慮されない。つまり、血液型性格判断が自分の持っているほかの知識と整合しようがしまいが関係なく、その場に適用されている基準に従うことだけに焦点が向けられる。そして血液型性格判断に従って状況を円満におさめなくてなならない「空気」が醸成される。この「空気」を覚ますのも、日常性という「水」(例えば、同じ血液型で性格が全く異なる友人がいることを想起する)であるが、「空気」を醸成したのも「水」即ち、状況に適応された基準に従うことが、統一性や内心に持っている規範性に優先するという日常性である。


 九鬼周造の「いき」の観点からは、血液型性格判断に対して「粋がっているんじゃない」と言うことや、「諦め」て遊ぶことが対応として考えられます。
 後者は、山本七平の「空気」から言えば、「水」に流されるだけのことです。

 山本も分析で終わって、「空気」への具体的な対応は出せていません。結局は、文化の習いということです。

 しかし、この両者の考察を参照すると、一つの大まかな回答は導けます。
 九鬼は「いき」を“無上の権威”としていますので、相手が「粋がっている」としても現実に正面切って「粋がっている」とぶつけるわけにも行きません。それは「空気」の力を考えれば無謀です。故に、正論を単純にぶつけることはするべきではないし、逆効果となりうると考えます。
 では、どうするかといえば、 「空気」を生み出す「水」の流れを理解したうえで、その流れを利用し、流れの力を借りて自分の目指す場所へと向かい、「空気」を「いき(媚態)」を損なわないように解消させる知恵を探るべきです。

 続けて、「水」の流れについて、社会心理学の実験として有名なS・アッシュの同調実験について述べることで理解の助けとし、具体的な対処法を考えて見ます。 

 続き⇒血液型占いにどう対処するか?

※)『「空気」の研究』(文春文庫)山本七平著
 
 
 

 
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by sleepless_night | 2005-10-30 22:31 | 血液型関連