2005年 11月 03日 ( 2 )

血液型占いが無くなる日

 前回、“血液型占い”が話題として出された場合に、どういった対処をすることが適切で有効なものかを述べました。
 しかし、このような対処法を考えるまでも無く、社会の変化によって広義の“血液型占い”に含まれる血液型性格判断は廃れる可能性が高いと私は考えます。
 
 推測の理由は、血液型性格判断が日本や韓国などのごく一部の国でしか広まっていないことと関係します。
 日本などのごく一部でしか血液型性格判断が浸透していないのは、他の多くの国・地域では、血液型という調べなくてはわからない程度の差異よりも見てすぐにわかる外見の差異(皮膚・目・髪など)や、性格の差異以上に深刻で歴史的な信仰による差異があるからだと考えれます。
   
 血液型占いに反論するモテないのか?で述べたように現在の血液型性格判断の発信源である能見は古川竹二のリバイバルを行ったのですが、これが成功し、血液型と性格の関係が広く受け入れられた(ている)のは、血液型占いに反論するとモテないのか? part2血液型占いに反論するとモテないのか? part3で述べたのとは別に、時期的な要素が大きく寄与したと推測します。
 つまり、能見がリバイバルを起こした1970年とは、日本の第二次郊外化が進んだ年だということが寄与したと考えるのです。(※)

 第二次郊外化とは、1950年代から始まった日本住宅公団が発売した団地を生活の場とし、男性がサラリーマンとして稼ぎ、女性が専業主婦として家事育児を担い、電化された家財を消費し、「文化的生活」を営むことを理想とした第一次郊外化の後に来た現象を指します。
 第二次は第一次が「文化的生活」を目指した夢やそれに向かう充実感があったのに比べて、それらがある程度達成され風化した状態を指し、団地のような雑多さが無くなり均一化したニュータウンに象徴されます。
 均一化したニュータウンでは、隣と自分には目立った違いはなく、そのためにかえって小さな差異をつけることに集中する傾向が生じたと指摘されます。
表面上の均一の下で、隣よりもいい車、いい家財を揃えること、隣の夫よりも自分の夫が出世すること、子供を偏差値の高い学校へ入れることに集中する、それも突出しない程度の優位差をつけようとする努力がなされる(突出する違いは叩かれる)。

 血液型性格判断が日本やごく一部でしか浸透していないことが、差異への欲望を消化できる目だった目標の無さに大きく依拠するならば、日本の1970年代は血液型性格判断の発展にとって絶好機だったと言えます。(※1)

 そして、現在、社会が大きく変わろうとしています。
一つは、社会の階層化。もう一つは、人口減少です。

 一つ目、社会が階層化すれば、その階層は目立った差異として、人々の差異への欲望を消化する端的な目標となるでしょう。
上層の人間と下層の人間がはっきりと分化したとして、上層の人間の~型と下層の人間の~型が同じだとされるメンタリティには相当の抵抗が生じるはずです。

 もう一つ、人口減少ですが、これにより人口規模を維持するためだけにも年間数十万人の移民を受け入れなくてはならなくなります。
どんな意識を日本人がもつのであれ、経済を維持することを考えれば、移民を現在以上に受け入れる必要があります。
 そうすると、殆どの日本人が、外見の違いを持った人々、目に見える差異をもった人々と生活で不可避的に接することになりますので、血液型のような目に見えない差異にわざわざ注目する意欲は低減されると考えられます。

 それぞれの人自体に向き合うことで判断するのではなく、偏見やステレオタイプで判断しようとすることは、血液型性格判断が廃れても、次々に対象を変えて存在するでしょう。

 しかし、私は血液型性格判断に向かう時よりも、人種や国籍や階級による偏見やステレオタイプに対する方が気が楽に感じます。
 もちろん、それらが軽いというのではありません。
 結果としては、それらのほうが苛烈です。
 ただ、血液型性格判断があまりに面倒で、うんざりするような固着の仕方をしているのです。

 社会が上記のような変化を見せたとき、「遊び」で血液型性格判断を受け入れる態度、人を「科学的」な差異で判断しようとする姿勢が、どれほど悲惨で低劣な差別行為をさせるのか・させてきたのか・繋がっているのかを、身をもって学ばなければならないのかもしれません。



E・フロムの機械的画一化による「自由からの逃走」に関して⇒「ばらばらにされた一人一人」にできること。
科学の装いをした根拠による差別に関して⇒殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド


※)『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者達の行方』(朝日新聞社)宮台真司著
※1)能見正比古が血液型性格判断について出版しようとしたきっかけは、師匠である大宅壮一に「血液型をやると儲かる」といわれたからだという大村政男の指摘もあります。
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by sleepless_night | 2005-11-03 09:00 | 血液型関連

血液型占いにどう対処するか?

 “血液型占い”に抗いたい、しかし、抗うことでその場の「空気」を読めない人間だと思われる、野暮な人間だと思われるのが怖い。
 遊びだったり、軽い話題作りなのだから“血液型占い”(当てっこ)をしたっていいじゃないか。
 この場で相手に反論したところで、どうなるわけでもないのだ。
 
 それでも、ABO式血液型で人をどうこう言うことなどナンセンスだし、生得的な要素で根拠もなく人を判断する遊びなどしたくない。
 何か上手い手はないものか。

 そこで戦略のために、前回述べたように、「空気」とその土壌である「水」の流れを理解してみます。

 前回血液型占いに反論するとモテないのか? part3で、山本七平の「空気」と「水」、状況による絶対的精神拘束と日常性の関係を血液型性格判断について当てはめたところで述べたように、血液型性格判断が生き延び得た環境は啓蒙主義と科学の誤解にあると考えられます。
 つまり、ABO式血液型と性格には何か関係があるという“臨在感”を啓蒙主義は単純に否定して「感じるものを感じないと思え」としてしまったために、“臨在感”は実際に何かが存在することで生じているのか、存在していないとすればどうして“臨在感”があるのかということを究明しようとする意識(即ち科学する意識)までも却下してしまったのです。
 そのため、“臨在感”は啓蒙主義が覆う教育課程による侵犯を受けずに温存されました。
 これが血液型性格判断の「空気」を醸成させる「水」の環境原因だと考えます。

 では、その環境因子と組み合わさって実際に「空気」を生じさせるのは何か?
 それは、「水」分子の一部に存在する、つまり血液型性格判断を会話に持ち出したり、血液型性格判断に同調する・受け入れられる人間が持つ認識(認知)という発現原因だと考えます。
 この発現原因である血液型性格判断を肯定的に捉える・用いる人間の認識は、その人間の中でどうして生まれ・維持発展できたのか?
 血液型性格判断が科学から支持を受けていないことは、血液型性格判断(を話題に出す程度)に関心がある人間ならば耳にしたことはあるはずなのに、なぜそれを乗り越えて認識(認知)を維持できるのか?
 考えられている理由は以下あります。
 理由Ⅰ:血液型性格判断は当るから。(※)
 ABO式血液型の日本人の比率は、A:O:B:AB=4:3:2:1です。
 これは「あなたはA型でしょ」と言えば40%の確率で当てることができるということです。もちろん、「A型でしょ」と常にいわなくとも、適当に言っても25%の確率で当てることができます。さらに、上記比率を知った上で言えば30%程度の確率で当てることができます。人の見えないことをこれほどの高確率で当てることができる機会は多くはないはずです。
 相当の確率で当てることができるから、血液型性格判断を肯定できてしまうと考えれてています。つまり、当てることができた経験が、科学から支持を受けていないという(漠然とした)情報を乗り越えさせてしまうということです。
 さらに、性格から血液型を当てること以上に、血液型から性格を当てることが容易(~型と聞いて、例えば「あきっぽい」と指摘した場合、「あきっぽい」部分を程度はあれ多くの人が持っているため血液型比率よりも「あきっぽい」比率が高くなるので、結果として当ててしまうことが多い)であること、その両方の経験の記憶が合わさって、血液型と性格が関係するという認識(認知)を個人の中で維持発展させてしまうことが指摘されています。

 理由Ⅱ:自己成就予言。(※1)
 ABO式血液型と性格は関係するという信念を持つ人間が、様々な人と会って、その血液型と性格を知ることになった時、自己の血液型正確判断の信念に合わせた解釈をしたり、信念に外れる場合を無意識的に忘れたり、信念に合致した場合に重点をおいたりすることで、あらかじめ持っていた信念を「客観的に」証明されたとして成就させてしまうこと。
 さらに、血液型性格判断という信念を知ってしまい・受け入れた結果、その内容に自分が性格をあわせてしまう傾向が生じていることも指摘されています。(自分は~型だから…だ、と自己の行動を意味づけすることを繰り返すことで、性格を先に設定されている血液型正確判断に合わせてしまう)

 理由Ⅲ:FBI効果。(※2)
 血液型性格判断が設定する各ABO式血液型の性格内容が以下のFBIの頭文字に表される特徴を持つこと。
 Freesize(フリーサイズ)、即ち、「神経質な方」「二面性がある」など、多くの人が「そうと言われればそうだ」と言い得る。
 laBeling(ラベリング)、即ち、~型は…だと言われると、それ以外の部分よりも指摘された部分に注目を集めることができる。
 Imprinting(インプリンティング)、即ち、~型は…だといわれると、その情報に従った解釈を通じて人を判断するようになる。
 
 これらが「水」分子、つまり血液型性格判断を肯定的に捉え、その認識を維持発展させて、話題として出すことを可能にしている発現原因として挙げられます。

 以上より、「水」の環境原因、啓蒙主義の下で科学する意識を無視してきたこと、そこに発現原因をもった「水」分子が存在し、二つの原因が合わさることで血液型性格判断の「空気」が発生すると考えられます。

 では、この環境原因と発現原因を持って「水」自体の流れの性質はどうなのか?
 つまり、「水」という言葉で表された私達の日常性・日常の人間(集団)関係の特徴は何か?、その流れに環境原因と発現原因はいかに作用するのか?
ということです。
 
 まず、「水」自体の流れ、私達の日常性・日常の集団関係の特徴について、社会心理学者S・アッシュが行った人間の同調性を調べた実験を紹介します。(※3)
 同調とは、同じ集団にいる他人の行動に自分が合わせることです。同調を強要されるような雰囲気(「空気」)を同調圧力とよびます。
 アッシュの行った実験はこうです。
 一方には一本の線、もう一方には三本の線が書かれた二枚のカード(前者を一本カード、後者を三本カードと呼びます)を用意します。
 三本カードには、一本カードの線と同じ長さ、より短い線、より長い線が書かれています。
 一つの部屋に集めた八人に、まず一本カードを渡し見せ、次に三本カードを私見せて、一本カードに書かれていた線と同じ長さは三本の線のうちのどれかを答えさせます。
 八人のうち、実は一人を除いて答える内容を指示されたサクラです(つまり、被験者は実際は一人)。
 同じことを18回繰り返し、被験者がサクラを疑わないように、内6回は普通に、残りは決められた答え(誤答)をするようにサクラは指示されています。
 被験者は7番目に答えるようにしてあります。
 これを実被験者50人に行いました。
 結果、被験者の誤答率は35%。一人で同じカードを見せた実験では誤答率5%。
 一度もサクラに同調しなかったのは、13人。残りのうち、15人が50%以上の確率で同調。 
 個人の行動は集団の行動に影響されるという当たり前と言えば、当たり前なことをこの実験の結果は示しています。 
 さらに、アッシュは同調の実験を重ねた結果、集団内の同調の性質について二つのことを明らかにしました。
 一つは、同調は3人以上のサクラがいることで、それ以上いるときと同じ程度生じること。
 もう一つは、3人以上のサクラがいても、一人でも被験者と同じ判断をとる人間がいれば同調しない確率が大きく上昇すること。
 
 アッシュの実験はアメリカの大学生を対象に行われましたが、他国の実験でも同程度の同調率を記録しました。
 日本でも行われました。
 結果は、アメリカよりもやや同調率は低く、さらに特徴的なのは一人当たりの同調誤答数が目立って低かった点です。
 つまり、実験の結果からは、日本人は集団の同調圧力に対して比較的強いことがいえます。
 
 これは集団主義、人に合わせやすい、という通念や、ここまで述べてきたような「空気」とは反することになります。
 なぜこのような結果が出たのか、一つの推測として、実験の仕組みがその原因ではないかということが考えられています。
 実験では被験者もサクラも全く面識の無い人間を集めて行われました。
 そこで、面識の無い人間間だから同調が起きにくかったのではないかという推測がなされます。つまり、日本人は知らない人間同士では同調がおきにくいという推測です。
 この推測は、日本人が対他的な人間関係よりも、対内的な人間関係の把握に適応しているという実験結果に合致しています(※4)
 所属集団内での人間関係がどのようかを読み取みとろうとする傾向が他国人と比較して強いということ。つまり、無関係な人間との関係を作り出そうとする傾向(能力)よりも、既に所属している、自分が利害関係を有する集団内で人間関係を知ろうとする傾向が強いということです。
 
 以上を総合して考えますと
 啓蒙主義的であるために科学的な探求を妨げる環境
 当った経験・自己成就予言・FBI効果などで維持された個人の血液型性格判断への肯定感
 それが、所属集団内では同調し、人間関係把握をしようとする日本人の日常性(「水」)の流れに圧されてて血液型正確判断の「空気」に逆らえなくなると考えます。


 この中で
環境を変えることはできない、肯定感を持った他人の過去の経験をなくすこともできないわけですから、有効性をもって行えるのは同調の性質・人間関係把握の傾向を利用することだということが分かります。

では具体的にどうするのかを、再び冒頭の発言①~③までで考えて見ます。
 発言①は、そういった考えをもった人間(「水」分子)が存在するので動かせませんので、対する発言②でどういった応答をすればよいのか?
 まず、すでに発言①によって血液型性格判断の「空気」を作ろうとする「水」が動き出しています。このままでは、「水」(日常性)の状況倫理にしたがって血液型性格判断の話題が進行し、「空気」が醸成されてしまいます。
 この流れは、同調実験の結果から、三人以上が参加してしまうと単独では変えることができなくなります
 したがって、まず積極的に会話の応答を引き受けて、他に存在する血液型性格判断に肯定的な人間(発現原因をもった「水」分子)に応答させてはならないことが分かります。
さらに、応答を引き受けても、そこに血液型性格判断に肯定的な人間が加わってしまう可能性がありますので、自分が知っている(親しい方)の人間に会話を振ることで流れの変化を補強することが考えられます。
 また、血液型性格判断を会話に持ち出した理由が、それを通じて、その場の人間関係を図ろうとする意図であったのならば、別に血液型性格判断でなくてはならないということではないのですから、血液に関係する別の話題の会話を通じても可能だということを行動で示すことにより、持ち出した人間の意図を引き受けることができます。

 但し、ここで血液型性格判断の話をそのまま引き受けても、意味がありません。
 そこで、発言①の「何型?」のような発言を受けて、血液に関する別の話にもっていく必要があります。 
 つまり、発言①に対して正面から血液型性格判断にの話題で向かえば、すでに動き出した「水」の動きを阻んでしまい、かえって血液型性格判断に注目を集めてしまい、「空気」の醸成を一機に加速させてしまう可能性が考えられるので、血液という発言①の会話の主題だけを引き受ける必要があると考えられるのです
 さらに、この血液に関する話において、できれば日常的で多くが経験する些細な話題が出せれば効果的だと考えます。(例えば、採血や献血のときの話、血液検査でわかったコレステロールの話、そこから血液とは関係ない話へ引っ張れるものならなお良い)
なぜなら、血液型性格判断に肯定的な人間(発現原因を持つ「水」分子)は上述したような経験の効果によって血液型性格判断という認識(認知)を維持できているのですから、体験の記憶という共通項があったほうが変化された会話の流れを受け入れやすいと考えれるからです。
 また、なぜ些細な話か、正確には血液に関する細かい話かというと、それだけのことを知っているということを相手に示せるからです。
血液型占いに反論するモテないのか?血液型占いに反論するとモテないのか? part2で挙げたような、血液に関する細かい話になれば血液型性格判断は否定できます。
 もし、血液型性格判断に関する是非を話すとしても、それを発言②で自ら持ち出すのではなく、相手に振らせてから発言したほうが穏当です。
これで相手が変化させた流れに乗らなければ、そこで利益衡量して行動するべきだと考えます。
つまり、もしその場の重要度と血液型性格判断の流通に手を貸す嫌悪感を比べて後者を優越させるのなら、容赦なく論破します。
 そうすると結局、冒頭の発言③「モテないでしょ」が返ってくるでしょう。
 その場合、血液型性格判断に肯定的な人間、それが支持されない科学からの説明を受け入れない人間は、他のステレオタイプや迷信を持つ傾向があること、集団内の人間関係を決め付けないと不安な人間であることを指摘する、若しくは、レイシスト(人種差別主義者)と呼ぶしかないでしょう。

 おまけ⇒血液型占いが無くなる日


※)『血液型当てっこの実際』川野健治著(『血液型と性格』至文堂 収録)
※1)『自己成就する偏見としての血液型ステレオタイプ』池田謙一(同上)
※2)『血液型と性格』(福村出版)大村政男
※3)『集団の心理学』(講談社現代新書)磯貝芳郎著を中心にまとめています。
※4)『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)山岸俊夫著
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by sleepless_night | 2005-11-03 00:19 | 血液型関連