2005年 11月 10日 ( 1 )

大峰山「炎上」について

 世界遺産に含まれ、修験道の修行場として女人禁制を現在でも維持している大峰山に、伊田広行(大阪経済大学教授訂正:立命館大非常勤講師)とトランスジェンダーなどの性的マイノリティの人々が登ろうとした(以下「大峰山に登ろうプロジェクト」)件について、気になった点を述べておきます。

 参照 伊田広行さんのブログ http://www.tcn.zaq.ne.jp/akckd603/page5.html
     内田樹さんのブログ http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1355
朝日新聞http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200511040017.html

 「大峰山に登ろうプロジェクト」の概略。
 大峰山が女人禁制を維持していることに対し、禁制の開放やそのための問題提起を目的として、性別を問わずに様々な人々との大峰山登山を企画した。企画意図を理解してもらうために予め31項目の質問・提案書を大峰山の寺院に送付したが、寺院は登山中止を求める以外の回答をしなかった。登山予定日の11月3日に企画参加者35名が登山口に集まった。地元住民で信徒の男女約100人も集まり、35名に対して伝統や信仰を根拠に入山をしないように要請した。信徒男女100人いたが応対したのは総代で区長の桝谷源逸さん一人で、他の人とは話ができなかった。質問・提案書も住民へは渡せなかった。議論が成立しないまま信徒側が解散。企画参加者のうち3人が入山した。

(1)個人的領域と自由主義の問題。
 ① 大峰山には公道が通っており、その道を女性であることを理由に通行することを制限することは許されるのか。
 寺院敷地内や寺院や信徒所有の土地内に、女性が入ることを伝統や信仰によって制限することならば、憲法20条と22条1項の対立、14条違反の問題と解釈することができる(正確には、私人間の紛争なので不法行為の内容として違憲性を考える)。
 しかし、「大峰山に登ろうプロジェクト」は公道がある大峰山を登ろうという企画。
 したがって、法的には住民信徒側には女性の入山を制限する権利は認められない。
 よって、もし法的に争うことを考えるならば、寺院や信徒住民には、所有敷地周囲についてまで自己の伝統や信仰を根拠とする権利を主張できか否かが問題となる。
 ここでそのような権利として、村落などの地域共同体が伝統的・慣習的に河川や漁場や山林を利用することを法的に認めた入会権が考えられる。
 しかし、入会権は財産的な権利であって、伝統や信仰などの思想・感情をもって所有権のない財産の排他的な利用を保障するものではない。
② 仮に信仰や伝統の類似的入会権が認められたとしても、その権利をもって女性であることを理由に一律の入山禁止を主張できるか。
 信仰は憲法20条1項によって保障され、その権利は憲法上きわめて尊重される地位にある。
 そして、信仰の内容、是非については法律が関与するものではない。
 しかし、信仰の権利といえども、多様な思想信条を持つ多数人が構成する社会にあっては無制限なものではなく、対立する権利との間で制約を受ける。
 さらに、既述したように、問題となっている場所は大峰山の寺院・住民信徒の所有地ではなく、信仰や伝統を根拠とする類似的入会権によって保護されるにすぎない。
 また、伝統についても、伝統を伝統であることのみに以って擁護することはできない。
 結論を理由に用いては、理由を述べたことにはならない。問われるべきは伝統か否かではなく保護されるべき伝統か否かという内容についてであり、これは多くの伝統は伝統となり維持される過程で変化をしてきていることでも理解される。
 つまり、類似的入会権という権利を認めた上でも、権利の性質から考えて、同権利の行使には多分に制約があると考えられる。
 制約の基準としては、類似的入会権の維持に不可欠か、権利の行使が他の権利を相当程度以上に制約するものではないか、の2点が考えられる。
 女性を一律に入山禁止とすることが信仰や伝統の核心から見て不可欠かについては、大峰山の寺院・住民信徒側はその理由を可能な限り提示する必要がある。
 その際に、男性であれば娯楽目的でも入山できている現状をいかに考えるのかも示される必要がある。
 また、過去に部落出身者の入山を禁止していた伝統があったなら、その点について現在は開放しているにもかかわらず、女性の禁止を解かないこととの関係も示される必要がある。
 これらを示せた上でも、世界遺産・国立公園としての公共性、公道(入山)の一律の通行禁止という措置が類似的入会権の保護を超えていないかは疑問といわざるを得ない。公道を女性が通行することを一律に通年で禁止する権利を一宗教法人やその信徒に認めることまで法的に認めることは、憲法20条1項の「特権」を与えることに該当する可能性がある。
 類似的入会権の行使として相当程度に入るのは、女性が露出の多い格好をしないことや、時期・時間帯を制限すること、みだりに声を出してはいけない場所を定めること、が限度だと考えられる。
 14条については、(3)で述べておきます。


 (2)「大峰山に登ろうプロジェクト」の疑問点。
 ①目的と手段。
 大峰山の寺院や信徒住民に向けての質問・提案書の内容には、やはり問題がある。
 何が問題かというと、質問・提案書を読む側が理解・受け入れられる知識・情報を考えて書かれたものだとは、とても思えない点です。
 まず、妥当だと言えるのは以下。
 質問1(女人禁制の理由、伝統となった理由の質問)
 質問13(過去の部落出身者の入山禁止を解除した理由)
 質問15(登山やハイキングなどの男性入山と女性の一律禁止との整合性)
 質問28(一部公道である登山道の交通を制限することの問題)
 質問29(女人禁制に関する関係者の意識把握)
 質問30(禁制解除の条件)
 質問31(意見交換・勉強会の提案)
 
 これ以外がなぜ妥当ではないと考えるのか。
 質問2~12で性別変更・性自認・女装男装・閉経に関係した質問。
 質問14で犯罪者・異教徒・障碍者に関係した質問。
 質問16~18で修行者のセクシュアリティに関係した質問。
 質問23で人間以外の生物のメスについての質問。
 質問24~26で宗教と差別に関係した質問。
 は、問う者と問われる者との間に一定の信頼関係や友好関係ができて、表面的な言葉尻を捉えあうことがない段階でなければ、質問の実りはないと考えるからです。

 質問2~12について、性別変更や性自認の問題を持った人がいて、その人と信徒住民や寺院の関係者が接して、話ができた上で為されなければ、問われた相手は言葉や思考の遊びやいやがらせにしか思えない可能性が大きいことは想像に難くないはずです。
 信徒住民も寺院関係者も人情はあるし、人が人と話せば情は湧くでしょう。
 どうみても女性だと思い、女性と話していると思ったのに、実は男性だったと言われれば驚いて事情を知りたいと思い、問いかけるでしょう。手術もして、戸籍も変更したといった話や、その過程の苦労を知れば共感や理解への動機もおきる人は少なくないはずです。
 しかし、そういった手順を抜かして、いきなり自分の事情に立った質問をいくつもぶつけられれば、理解できない部外者としか受け取らないのは無理もないことだと思います。
 相手にしているのは、大学で社会学を学んだ人間ではなく、変化が穏やかで慣習が残る地域で父祖の代からの知り合いに囲まれて生活してきた人たちではないでしょうか。周りには、性別変更をした人や、自分の性自認に苦しんでいる(それを表明している)人はいなかったでしょうし、ジェンダーという言葉さえも知らないかもしれません。
 
 質問16~18で修行者の性生活や山内での性行動についての質問も、会話もできない相手にしても実効的なものだとは考えられません。
 いくら質問する側がセックスやマスターベーションを恥ずかしいことでもないと考え、真面目に問いかけても普通に答えが返ってくる可能性は低いことは想像に難くないでしょう。
 相手は、社会学を勉強した人間ではないのです。
 セックスやマスターベーションの話は、飲酒でもしてふざけてはなす程度でしょう。
 普通の人と、しらふで性の話ができる関係になるまでに、どれだけの時間が必要かを考えているとは思えません。質問23は、補足説明が無ければ馬鹿にしているのかと、多くは受け取るでしょう。 
 質問24~26は、大峰山に限らず、宗教にとっては厳しい問題です。
 寺院の関係者にそれをぶつけるのはよいとして、一般の信徒へぶつけることで何ができるのでしょうか。地域の伝統と深く結びついている(宗教というよりも宗俗に近い)だけに、信仰を選び取った場合と同様に自覚的に宗教問題を考え・学んでいる割合は少ないのではないでしょうか。
 一般の信徒もこれらの諸問題を知る必要・考える必要はあります。
 しかし、話もしたことがない人から聞かれて直ぐに答えられるものでも、考えようと動機付けられるものでもないでしょう。

  達成したい大切な目的があるなら、どうして、目的の重要さに比例した慎重さを手順にかけなかったのか疑問です。
 話がしたい、対話のきっかけとしたいというのなら、どうして時間をかけて融和的な状況を作らなかったのか。現状がいかに「間違った」ものであっても、それを直ぐに変えることはできないし、現状に生きている人たちにはそれなりの居心地のよさや安心感があります。「大峰山に登ろうプロジェクト」の考えはそれらを脅かす内容なのですから、せめて手段や手順は安心感を与えるようなものであるべきだったのではないでしょうか。
 この質問・提案書の内容では、踏み込みすぎて、相手を萎縮させてしまう、考える精神的余裕を与えずに退却させてしまうとは予想しなかったか。 
 あせらなくてはならない問題があったのか。

(3)対応
 寺院や信徒住民側の対応について。
 まず、寺院は(2)で妥当とした質問、さらに宗教者として質問24~26には答えを出さなくてはならなかったはずです。
 宗教の内容も形式も、宗教の定義にいまだ争いがあることを考えれば、独自のものであることはなんら問題がないが、宗教法人としての公的性質や公道の通行を制約していることを考えれば、誠実な専門家としての対応をしなくてはなならなかった。
 現在、さまざまな地域の宗教の現場では、これに類した問題が生じていることは、少なくとも寺院の代表や公報担当は知っていなくてはならないし、それが決してふざけたものではないことも理解していなくてはならないはずです。
 また、観光の資源として女人禁制を維持したいとう気持ちが微塵でもあるのなら、その口から出される「信仰」や「伝統」に、フジテレビ・ニッポン放送が持ち出した「公共性」へと向けられたのと同じ嘲笑が浴びせられて然るべきです。
 信徒住民には、(2)で述べたように、同情を感じる部分もあります。
 しかし、区長のような公職にあるものが、「差別ではなく区別だ」といった程度の認識で「プロジェクト」の訴えを流したのならば是認されるべき態度ではないと考えます。(補足的な説明⇒区別と差別
 「差別」と「区別」の違いを、憲法14条の解釈と重ねて考えると、「差別」とは14条違反の差異的取り扱い、「区別」は合14条の差異的取り扱いだと考えられます。
 つまり、平等原則を定めて「差別」を禁じた14条が示しているのは、一切の差異的取り扱いを禁止ではなく、不合理な差異的取り扱いの禁止です。
 そして、例示された「人種、性別、社会的身分、または門地」による差異的取り扱いは、歴史的に理不尽で苛烈な差別の結果を生み出してきており、これらを基準とした差異的取り扱いは不合理であり「差別」である蓋然性が高いことを示しています。
 大峰山の女人禁制は、男性については条件を課していないことから、性別のみによる一律の通行禁止で、「差別」に該当します。
 それをわかっている、議論をすれば分が悪いとわかっているから、対話をせずに、ひたすら頭をさげて済ませようとしたのでしょうか。
 しかし、それは何も解決しませんし、正面から向かい合って相手の意見とぶつかり合って自分の意見を確認・発展・修正していかなければ、これからも同様の問題で同じように頭を下げ続けることになります。放置は衰退を自ら招くようなものです。
  

(4)反応と誤解
 この件への反応に限らず、フェミニズムやジェンダー論には感情的な反発と曲解が多く見られます。
 事実ではない事例をジェンダー・フリーの結果だとしたり、ジェンダー・フリーを誤解したり都合よくつかう人を見てジェンダー論自体に怒りを転嫁させたり、ラディカルな議論を見てジェンダー論の全てを却下しようとしたり、何を怖がっていのか分かりませんが、落ち着いて情報を集めて考えた形跡なく反射的に否定しようとする人がいます。 
 それは、偽ブランドを見てそのブランド自体を非難したり、間違った着方をして動きずらいと怒ったり、ファッションショーの衣装を見てその非現実さをあざ笑うことに似ています
 その悲惨な状態に、この拙いやり方が加担してしまったのではないか心配です。
 不安定化する経済環境の中、多様な価値観や不透明な人間関係に対して、自分の不安感を慰撫し、強い自分を思い描こうと、幻想によって虚飾された過去の記憶にすがる人。自分が恩恵を受け、都合のよい部分だけを使おうとする人。
 そんな人々に、格好の誤解と曲解の材料を投げ与えてたことにならないか。

 (4)展望
 若い世代の女性の住民の中には、比較的、「プロジェクト」の話を聞こうという意思や興味のあるひともいるのではないでしょうか。
 今回も、一人だけ、区長が解散を発した後も呼び戻しにこられるまで10分ほど残って話をした女性がいたようです。
 時間とやりかたを考えれば、そのような人はすこしずつ現れるはずです。
 その人たちが、少しずつ増え、家族や友人へとゆっくりと広まった時、今回「プロジェクト」側が出したような質問や提案が信徒住民や寺院の主だった人・決定権や影響力のある人にまともに受けられるようになるのではないでしょうか。
 
 それは寺院にも信徒住民にも決して悪いものではなく、信仰の意味を問い直し、より豊かな伝統へとつなげるきっかけとすることができるのではないか。
 
 “世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい”
 
 そう信じたいと、私は願います。



 と長々と書いてみて、この件の要点は公道を制限していることで、結論としては(1)の終わりで示した妥協点を探ることだと思います。
 宗教内部の問題(当該宗教思想としての女人の「穢れ」)は全く別に、教学を中心に宗教学的問題として検討されなくてはなならないので、今回の件とは一応の区切りを設けなくてはならないでしょう
 
 それにしても、どちらかといえば大峰山の寺院や信徒住民の方が「悪い」ことをしている、権利を「振り回している」ように考えられるのですが、逆に、相手方がひどい叩かれ様です。
 「伝統」への造詣と愛着が深い方が多くいらっしゃるのでしょう。
 この方々の熱意によって、大峰山から観光客など不埒な存在はおいはらっていただけるのでしょう。 



追記) 私有か否か。
 問題となっている山上ヶ岳の道の所有権が、どこに属しているのか確実な情報を私も持ちません。
 概略は伊田さんのブログの記述、大峰山女人禁制の開放を求める会のHPの情報を前提にしております。
  なお、公道とは、所有権がなくとも、管理権が行政側にあれば公道となります。
  (会のHPの「開放の歴史」では“2004年6月 奈良県議会で「大峰山女人禁制」問題を女性差別の視点で質問。さらに、禁制区域が公道であり、道路法違反と追及。”とありますので、会は問題の登山道が道路法上の道路として公道だと認識していると考えられます。つまり、所有はどこであれ、管理権は行政側にあると認識していると考えられます。道路法4条は“道路を構成する敷地、支壁その他の物件については、私権を行使することができない”としています。 但し、この点について、道路法が一般法であり、国立公園内については優先される特別規定があるのかもしれません。 )
   
 また、言うまでも無く、国立公園であることから、その管理には、道路補修も含めて、税金が使われています。
 したがって、(1)で述べましたように、私有地の時こそ権利の対立が明確に成立することになると考えられます。
 公道の場合は、(1)②で仮定したような類似の権利を無理やりひねり出さないと、寺院・信徒住民側の主張は法的に通りえないと考えます。
 (伊田さんのブログには“区長が、「私たちはとにかく登らないでほしいということは伝えました。後はあなたたちが登るのを実力でとめるようなことはしません」との旨の発言をして、「さえ、皆さん、引き上げましょう」といったようなことを言って、地元住民みながいっせいに帰り始めた”とあります。なぜ、信徒住民側が口頭要請だけ伝えて、実力を用いようとしなかったのか。邪推ですが、この対応は訴訟を可能にさせてしまわないためとも考えられます。つまり、女性に登山をさせないことを違法だとして訴訟を起そうとしても、登ろうと思えば登れる状態にしておかれると、裁判によって実現される利益がないことになると考えられ、訴えても裁判所は判断をしないことが考えられます。)
 
 

 
[PR]
by sleepless_night | 2005-11-10 21:19 | 宗教