2005年 12月 13日 ( 1 )

ご質問への応え。

 「報道」の「真相」のコメント欄より、104様のコメント:フロムが他人への愛と、自己愛とは一致すると考えるのはなぜか?またその難しさについておしえていただけないでしょうか? 

 『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論の記事をお読みくださってのご質問と考えて、応えさせていただきます。

 以下、『愛するということ』(紀伊国屋書店)エーリッヒ・フロム著/鈴木昌訳の第二章“愛の理論”の要約です。
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 人間は死の認識に端的に表されるように孤立した存在であり、その孤立感から逃れたいというのが人間の最も強い欲求である。
 孤立感から逃れる・克服する幾つかの手段の一つが、自分以外の他者と融合すること。
 この他者との融合の達成を単純に愛と呼ぶことはできない。
 なぜなら、融合の達成手段は多様だから。
 そこで、恣意的にではあるが、実存の問題に対する成熟した答えとしての他者との融合を愛と呼び、未成熟なものを共棲的結合と呼ぶ。
 愛は受動的な感情ではなく、能動的な活動である。愛の能動性は、愛とは与えることであるという表現に良く示される。
 与えるとは犠牲や剥奪されることではなく、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。自分のもてる力、生命力の表現行為であり、喜びである。与えることで相手を豊かにすると同時に、自分も高められる。
 愛は、与えることの他に、配慮、責任、尊敬、知という性質を持つ。
 配慮とは、愛するものの生命と成長を積極的に気に掛けること。
 責任とは、外から押し付けられる義務ではなく、自発的で、相手の要求に応じる用意があるということ。
 尊敬とは、その人のありのままの姿を唯一無二の自由な存在として認めること。
 知とは、自分の思い込みや想像を押し付けるのではなく、相手の本質を知ろうとすること。
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 104様のご質問に対する答えとしては、愛は能動的な活動であるとフロムが考えていることが重要なのではないかと思います。
 より端的に申せば、愛は能動的な活動であり、能動的活動の前提には能力の問題があるということです。
 対象が自分であれ、他人であれ、必要とされる能力は一緒であり、人間の成長過程(能力形成)の段階が自分⇒他者の順であるために、自分を愛せること(自己愛)が他者への愛へと“連結”している、前提となっていると考えられるのでしょう。
 
 104様の仰る“その難しさ”についてですが、自己愛と他者を愛することとが“連結”する難しさのことを仰っているのだと解しますと、それは愛するという能力を持つこと、愛することができる人間として成長すること(成熟すること)の難しさと言う事ではないでしょうか。
 “愛とは本質的に、人間的な特質が具体化されたものとしての愛する人を、根本において肯定することである。中略。特定の個人を愛するときにはじめて人間そのものを愛することになるが、人間そのものを愛することはあくまで特定の人間を愛することの前提なのである。”
 まず、自分の存在を、自分の生き方、生きる様を“肯定”できるか。
 その能力を他者へと向けることができるか。
 さらに、特定の他者のみならず、人間という存在そのものへと向けることができるか。
 言い換えると、人間という存在への根本的な信頼感を基調にして生きることができるか、ということかもしれません。

 

  尚、この記事はフロムの同著を私がどう解釈しているかを示したものであって、フロムの愛の定義や同著の内容の全てを私が支持していると言うことではありません。

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by sleepless_night | 2005-12-13 21:09 |