2006年 04月 23日 ( 1 )

藤原正彦の喪失と成熟への渇望

新田次郎によろしく/『国家の品格』への道ソープへ行け!に引き続いて。

 教育基本法の改正(or悪)に纏わって語られる、愛国心、国家を求める言説。
 一貫性もなく、事実としてもせいぜい明治までしか遡れない「伝統」への奇妙に浮ついた憧憬。
 何が、それらを必要とさせるのか。

 藤原正彦さんと江藤淳を通じての考察。
  
(1)喪失/父
 敗戦は「父」の喪失だった。父の死ではなく、父が生き残ったことによる喪失。
 幼すぎた藤原さんには、喪失される以前の記憶はなく、喪失という状態が所与のものとして経験された。
 記憶が明確になるのは、帰国後の4歳ころ(威厳維持60p)。
 父は係長で、課長以上の住める官舎に特別に入居していたため、周囲は上司の家族。
 “「あなたがいつまでたっても課長になれないから、子供たちまでバカにされる」”(62p)と妻になじられる。 
 
 “母の毒のこもった批評に対し、父が余り反論しないのが私には不思議だった。文学上のことばかりか、家庭内のありとあらゆる論争において、父が激しく母に立ち向かう、という場面はまったく私の記憶にない。少々の反撃はもちろんするが、母が激昂するや、父は必ず二階の書斎に消えてしまうのだ。中略。いま思い起こすと、母が窮地に陥ったときの常套句があった。「三十八度線を越えて、三人の子供をつれて帰ったのは一体誰ですか」激しい口論になると、必ずこれがどこかで飛び出した。水戸黄門の印籠よろしく、父はこの切り札を菊や書斎へ退散したような気がする。”(威厳意地51p)
 “(銀座のバーから)父が帰宅するや否や、中略、(母は)嫌味を連発した。中略。父は黙って小さくなっているか、勉強している私の部屋へ来て、半開きのドアから赤ら顔を出し、「お前の母さんの名前を知っているか。バカていケチていヤキモチていと言うんだ。あーいうのと結婚したら一生の不作だからな。覚えておけよ。」などと、ろれつの回らぬ声で言ったりした。中略。母の辛辣な物言いをかわすため、午前様になるようなときは、決まってお供を連れて帰宅した。中略。お供のいるときの父は、天下無敵だった。”(威厳意地54~55p)

 作家として成功しても、妻に頭が上がらないことに変わりはなかった。
 それ以前に、作家としても妻は先輩であった。

そんな父に藤原さんは“父が私の前で弱さをみせていることに、名状しがたい反発を覚えた。私にとって父は常に強くなければならなかった。実際はどうあれ、私の前では強くあってほしかったのだ。”(言葉では237p)と喪失された「父」を求めるうずきがあった。

 成功と繁栄を手に入れる闘いによっても、家庭の統治者・指導者の地位として家族に向けらることはできず、経済的上昇という恵沢が家庭にあっても、孤独であり、弱さの影を持っていた。

 “「闘いだ、闘いだ」と自らを励ましながら二階の書斎へ上がっていく父の後姿は、子供の私にとって、時に恐ろしく見えたこともあった。”(休憩時間189p)
 その書斎は
 “家族にとって最も近寄り難い部屋だった。同じ家にありながら孤島のよう”な“聖域”だった。

 もし強ければ、“「闘いだ、闘いだ」と自らを励ます”ことは不要だった。
 弱さを抱える自らとの闘いの場は、孤独な“(家族が)見たくもない修羅場”(休憩時間148p)だった。
 書斎は喪失された「父」を父自身が供儀する“聖域”であり、家族がそこに踏み込むことがためらわれたのも、そこが喪失された父の斎場だったから。
 家は、“聖域”という存在を感じながらも、視線をそらすことで、戦後(55年以降)の産業化・高度成長のもたらした豊かさを享受することができる空間となった。
  
 “父の死については、小説「孤愁-サウダーデ」を精力的に執筆している最中であったため、「戦死である」と評した人がいた。”(休憩時間189p)

 喪失された「父」を、喪失されて力なく弱い自らを励まし、闘い続けて力尽きた。
 敗戦と占領、産業化と経済成長の社会で、喪失された「父」を社会から隔離し、自らで引き受ける闘いを続けなければならなかった。そうしなければ、自らと戦っていなければ、弱い自らの生涯を続け、変化した社会のなかで家族を養うことはできなかった。
 
(2)喪失/母
 母は、父が「父」であることに拘り家族を任されたことで、「母」を捨てざるを得なかった。
 
 “父は晩年のころ、私にこういったことがある。「お前たちのお母さんはもともとはやさしくて、ロマンティックなお嬢さんだった。それがシベリアからかえって見たら驚いた。可愛らしくおセンチな若妻が、猛女に変わっていたんだ。猛女にならなければ、家族みんな全滅してしまっただろう」”(威厳意地62~63p)

 “家族みんな全滅”の“家族”に父は含まれていない。
 
 母は、「父」に子供たちを任された時をこう表現している。

 “最後まで見栄と、ていさいのために、私たちを犠牲にしようとする夫に向かって、私はただ人並みの妻として涙を流すより仕方がなかった。”(流れる星17p)
 “夫は習慣になっている責任感と犠牲心とそしておせっかいのために私たち一家五人をこの危ない土地に残しておくつもりであろうか。時代は変わった。観象台はない。したがって夫は課長でもなんでもない。”(流れる星34~35p)

 父は逃げ遅れシベリアに抑留されることになる。
 母は、不安と貧窮に満ちた小集団の陰湿な人間関係に一人で向かわなければならない。
 敗戦国民として、国家の後ろ盾を決定的に失い、いつ途切れるかもしれない配給の他に手元にある僅かな金銭が生きるため足がかりだった。
 女性という体力的なハンデに加え、当時の教育が女性に与えたのは妻として夫の存在を前提にしたもの。一人で生きていくこと、他者を支えることの力や知恵をさずけるものではなかった。
 そんなあやふやな衰退へ向かっている時。
 “「よかったら私と一緒に石鹸売りに出かけましょうよ、私だって前に石鹸売りをやった頃、先生がいましてね、とても欲張りの婆さんだったわ。これから私があなたの先生になってあげましょう。あなたは今一銭もないでしょ、貴女がここですっかり変わらなければ、貴女の家族は全滅よ。あなたは団の人に誰からも好かれるようにおとなしく、摩擦をおこさないように上手に、猫をかぶっていらっしゃる。」「猫をかぶっているですって」「怒ったって駄目、あなたの性質はもっともっと、はげしい性質だということが私には良く分かっています。ただあなたはそれを人に見せないようにしているだけのこと、結局あなたはお嬢さん上がりよ。でも、駄目よ、今の生活には少しでも虚栄とか自惚れとかいうものがあればおしまいになってしまうわ、きっと」私には何も言えなかった。誘われるままに、大地さんと連れ立って町に出た。”(流れる星128~129p)

 石鹸売りは乞食も同然の商売だったが、母は母であるために「母」を捨てる。
 強く貪欲に、利己的と言われても、だらしのない男やばらばらになる集団の中で強さを顕していく。
 自分を棚に上げた虚勢や欺瞞を鼻で笑い、自分と子供たちを守るためになりふり構わない。
 南下する厳しい道中で、強さは猛りをあげる。
 “私は前の影を追うことだけしか考えない。頭の中が妙に空白になっていながら前進するということだけが激しく私を支配して、歯を喰いしばり、正広と正彦をどなりつけていた。「正広、なにをぐずぐずしている!」「正彦、泣いたら、置いていくぞ!」私はこの時初めて男性の言葉を使っていた。自覚しないで私の口をついて出てくるものは激しい男性のことばであった。中略。(正彦が)「お母ちゃん、見えないよう」と泣く。「馬鹿!」私は思い切って前に突き飛ばしてやると、まだ起き上がる元気はあった。”(流れる星187~189p)

 幾人もの子供、年寄りが死んでいくのを振り払い、生きるものたちを生き延びるために引きずって行った。
 三十八度線を越えた時、こう叫んだ。

 “「正広、正彦、みんな助かったんだよ。アメリカに助けられたんだよ」”
                         (流れる星232p)

 帰国後、病床に臥し、遺書のつもりで書いた『流れる星は生きている』がベストセラーとなり、夫と子供たちとの生活が徐々に貧しさを脱しても「母」は喪失されたままだった。
 
 “子供の私がそのころ母から感じていたのは、包むような慈愛ではなく、常に激しい、動物本能とも言うべき愛情だった。”(威厳意地62p)

 “今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。”
                『成熟と喪失』江藤淳著(講談社文芸文庫)

 「父」も「母」も喪失した後で、いかに生きるか。 
 “露出された孤独な「個人」”が選択した生き方の結果が何だったのか、それ以外には無かったのか。 

(3)喪失/江藤淳

 1932年(昭和7年)、東京で、父方・母方ともに祖父が海軍の将官、父は銀行員という上流家庭の長男に生まれる。
 4歳のとき、母が結核で死去。
 戦中のインフレで家は没落。
 湘南中学(現高校)で石原慎太郎と同級、のちに都立一中(現日比谷高校)へ転校。
 20歳で慶応大文学部入学。小説や評伝を書き始める。
 23歳でデビュー作『夏目漱石』が三田文学に掲載される、大学院へ進みながら執筆活動をする(26歳で中退)。
 29歳のとき、ロックフェラー財団研究員としてプリンストン大学留学、2年滞在。
 39歳で東京工業大学助教授、のちに教授。他に慶応大、大正大でも教鞭をとる。
 66歳のとき、妻の後を追う形で自死。

 敗戦時、15歳。
 敗戦時の記憶がない(当時3歳)藤原正彦さんと異なり、江藤淳にとっての敗戦、そして家の没落、父の零落は所与のものではなく、思春期という最も敏感な時期と重なって体験された。
 母は、その死によって喪失されており、敗戦によって「父」は喪失された。
 
 江藤は保守の思想家として知られるが、大学院を中退し評論家として活動していた20代のころは政治に対するスタンスが違っていた。

 1960年、安保改定の強行採決に抗議する活動を行ったことについてこう述べている。
“私は政治に多くを期待しない。政治家は日常生活を保障してくれれば良く、できることなら、よりよく、平和な生活を保障してくれさえすればよい。政治が人間を結びつけるということを私は信じない。中略。だから、私はたかだた自分にひとりで生き、ひとりで死ぬ事由を与える政治を要求するだけである。中略。政治はこのような孤絶した人間の内面に干渉することはできず、また干渉すべきでもない。魂の問題は個々人に委ねよう。単に万人の眼に明らかな日常の事実に基づく利害得失だけを政治の役割としよう。中略。議会制民主主義というものは、私の理解のかぎりでは、あたうるかぎり非政治的な政治体制である。換言すれば、政治の人間に対する支配をできるだけゆるやかにし、そのかわりに人間の自分に対する支配をできるだけ強固にするという体制である。”
 “政治を不必要に精神的なものとして、利害得失の代わりに情熱を論じる「民主主義」とは何であろうか?”
 “私の主人は私以外にはいない。そうでなければ、どうして文学をやっていられるであろうか。”

 江藤は、日常の生活に根ざした個人として生きることを重視し、安保反対の運動が観念化して氾濫していくことをリアリストであり、リベラリストとして批判した。
 それは、家の、父の没落によって自らが生活を支えてゆかなければならなかった江藤の敗戦後の経験や、戦時中の経験に依るものかもしれない。
 “戦争中、私のかよっていた小学校に代用教員が二人いて、時々抜身の日本刀をひっさげてあるくのを得意にしていた。今から思えばこの先生方は純粋な理想主義で、「天皇陛下」という言葉を口にするとき、気をつけをするのが一瞬でもおくれるとほほを殴るのであったが、その目は大変美しく澄んでいたものである。中略。うっかりすると殺さねかねないので、私はひそかに彼らを嫌っていた。中略。この代用教員たちは、敗戦後しばらくして学校から姿をけしたが、次に見かけたときには赤旗を押し立ててトラックの上で、大音声を張り上げて共産党の選挙演説をやっていた。そのときも、やはり彼らの眼は美しく澄んでいた”

 皇国少年の劣等生として殴られる。
 殴った教師(「父」)たちは、戦後も“美しい眼”をしたままに、完全に非両立な主張を訴えることができる存在であることを、江藤はまさに身をもって学んでいた。
 
 だから
 確かに“こと芸術、文学に関する限り私は絶対的な価値というものを思わずには一行も書けないだろう”と述べているものの、同時に“日本を支えてきたものが生活する実際家たちの努力で、それを危険においやったのが理想化の幻想であった”と述べて、江藤の立つ場所はあくまでも生活であること示している。

 しかし、1964年。二年間のアメリカ滞在の後にこう述べるようになる。

 “二年間の米国生活を通じて、私は戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった。それは国家であることをためらっている国家であり、民族の特性を消去することに懸命になっている民族である。中略。私は、今日の日本で、国家が各個人に対して発する義務要請の声が、ほとんどききとれぬほどか細いものだといった。つまり、現在の日本に、それにてらして個人が各々の行動を規制する客観的な倫理規範はない。修身斉家治国平天下の道徳はもはや顧みられない。中略。個人は、したがって孤独であり、なにをもって善とし、なにを悪とするかを知らない。中略。だが、それにもかかわらず、私は日本につなげているきずながあると感じる。それは、日本から私に向かって来るものではない。むしろ私のほうから日本に向かっていくものである。”
一人で生き、死んでゆくことを政治に望んだ人間が、義務を課されることを国家へ要求した。
 生と死を国家が引き受けてとなることを求めた。
 孤独であれる基盤を、生活という実際的な世界を支えることが政治の役割であると言った人間が、自分の内面へ国家が来ること、自らが国家のほうへ向かってゆき、客観倫理を国家に要請した。

 “美しい眼”をした教師たちの頭上にあり、裡へと垂直に繋がって、少年の江藤を殴らせた国家を求めていた。

 さらに、アメリカの大学にあるオナー・システム(試験時にカンニング等をしていない旨の宣誓書にサインすることで、試験官を置かない仕組み)について触れて、どこかで読んだような話もしている。
 “国の品位というものは、なんらかの内面的規範をもった「エリート」の存在しない国には、決して生まれない。自家用車が持てて、消費生活が派手に出来る人間だけが尊敬される国に、品格ある文化が生まれるわけはない。”
 
 藤原正彦さんのアメリカ体験より、十年前の江藤のアメリカ体験が何故、このような大きな変化を促したのか。

(4)『成熟と喪失』

 “日本の母とこの密着振りと米国の母子の疎隔ぶりのあいだには、ある本質的な文化の相違がうかがわれる”
 江藤は、アメリカの精神分析学者E・H・エリクソンの説を下敷きに、二つの歌に象徴させて日米の人間を比較する。
 アメリカは“ゆっくり行け、母なし仔牛よ”というカウボーイの子守唄、日本は“をさなくして罪をしらず むづかりては手に揺られし”という安岡正太郎の小説『海辺の光景』で母が歌う歌に象徴させる。
 そして、“「成熟」する間もなく母親に拒まれ、心に傷を負って放浪のたびにでたカウボーイは、誰にも頼らずにじ分の死を見つめて「ゆっくり」大草原のかなたに消えてゆく。中略。一方、『海辺の光景』の母親のうたう歌にこめられているのは、成長して自分を離れてゆく息子に対する恨み、あるいは「成熟」そのものに対する呪詛である。”として、アメリカ人が母親という人間関係の原初から拒絶された延長で生きる孤独な人間たちとし、日本人は母親の延長として生きると分析している。 さらに、アメリカ人をフロンティア放浪型、日本人を農耕定住型と位置づける。
 
 近代は、この日本人の環境を変化させ“父にたいする「恥ずかしさ」”を生んだ。
 つまり、“もし彼らが農民的・定住者的な感情の中に安住しているのなら、これほど極端な父を恥じる気持ちが母と息子の間にうまれるわけはない。中略。羞恥心は自他を比較するところから生じる。より正確に言えば、自他を比較し、自分は他人になれたはずなのにどうして自分のままでいなければならないのだろうと疑うところから生まれる。”
 近代学校制度が固定階級を揺るがせた結果、父は「恥ずかしい」存在であり、妻はその「恥ずかしい」父の妻でしかなく、さらに息子はやがて父と同じく「恥ずかしい」存在になるかもしれない。
 また、仮に息子が父よりも出世することで「恥ずかしい」存在ではなくなると、それは母にとって自らの延長を離れることになる。
 近代は母をジレンマに落とし入れ、前近代の農耕定住型の母子密着関係を揺るがした。
 そこでは、母と子はジレンマの中で、馴れ合いの自由を「はずかしい」父という経済的な支えの上で感じる。
 と江藤は分析をする。

  敗戦は、母子の平和ななれあいを支えた父の経済的な支えを奪ったから。
 “父親の経済力の喪失が権威の失墜を意味するとは、残酷な事実である。そして父の権威の失墜は、もちろんあの小宇宙の秩序の礎石が砕かれたことを意味する。中略。父の権威に反抗して勝ち取ったものでもない。敗戦という招かれざる客が彼らの家庭という私的な世界に泥靴のまま踏み込んできたために起こったものである。”
 そして
 “いったん秩序が崩壊してしまえば、そこにいるのは父と母と息子ではなく、二人の男と一人の女にすぎない。中略。これはすでに家族ではない。単に個人の集まりである。中略。思想よりももっと鋭利な「近代」が、家族のあいだのもっとも内密なきずなを切断した結果生じた解体がこれだからである。”

 敗戦という「近代」は、思想によって達成されるべきとされた「自由」な「個人」ではなく不自由な“仕方がなしに引き受けさせられた過酷な現実”にすぎずなかった。
 
 “「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。”

 喪失には、奪われた結果であっても、罪悪感が潜む。なぜなら、喪失の結果で、不本意な自由であり不自由であっても、自由であることには変わりがないから。
 
“「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに沸いてくるこの「悪」を引き受けることである。”

 そして
 母の延長として大地に生きた農耕民族の「自然」ではなく、“「社会」というもののなかで、つまり人と人のあいだで生きてゆかなければならぬことを自覚しなければならなかった。そこにしか彼の「成熟」の場がないことを、そしてこの人と人との間で「自由」に生きることはどういうことであるのかを身をもって示さなければならなかった。”

 しかし、日本人は近代によって喪失を強いられた「母」なる「自然」にしがみつく。

 児島信夫の『抱擁家族』に描かれた妻が米国兵と関係をもった夫婦関係を用いて、江藤はこう述べる。

 “彼らが「夫婦」という倫理的関係であるよりさきに、「母子」という自然的関係を回復しようという要求で結ばれている”
 “「家」が崩壊して「家庭」が生まれ、ひと目盛りだけ「近代化」が進んだなどという楽天的な議論のこっけいさは、断絶しながら同時に奇妙に濃い粘着性のある関係で結ばれ、お互いに救いようのない「淋しさ」を澱ませているのに決して「孤独」にはなれないという、日本の現状を直視すればたちどころに明らかになる。そこには倫理的関係はないがそれを実在するかのような錯覚はあり、夫婦である以上「母子」の自然関係を回復することは絶対不可能であるにもあかかわらず、この動物的衝動が馴致されることは決してない。”

 夫婦は、「自由」のなかで「自由」な振る舞いをしようとしているにもかかわらず、「自由」にあることができない。
 不倫をしたことで、夫婦はその役割から「自由」となることもできるのに。
 「自由」を引き受けて「成熟」することができたのに。
 変わりに、夫婦という母子関係を形を整えることで回復して、「自由」から逃れることを選ぶ。
 ところが、夫婦という母子関係を引き受けると言うことは、妻にとっては母となり、「近代」がもたらした「自由」を失うことである。
 「近代」がもたらした豊かさの下、「自由」であることも、「自由」を失うことも“「成熟」の要件である自信を欠き、その裏づけとなるべき絶望を欠いている”女性は決意できずに、宙吊りの状態に留まる。
 夫は「自由」と「成熟」を逃れて母子密着の夫婦を回復しようとするが、妻の宙吊り状態がこれを阻害する。

 宙吊り状態の妻が「自由」と「近代」の象徴であるアメリカの兵士と話をした時、それも夫の通訳によって。
 “「私は私で責任を感じるが、あなたは責任を感じないかって、きいてみてちょうだよ」
 「責任?誰に責任をかんじるんのですか。僕は自分の両親と、国家に対して責任を感じているだけなんだ。」”

 江藤は、この『抱擁家族』の会話から、日本人の人間関係に決定的に欠けているものが「父」であることを確認する。
 “そのとき彼に影響を及ぼしているのは「母」ではなくて「国家」という形をした「父」である”

 「父」を欠いた「近代」で、外形によって「近代」を実現しようとしても、“「父」であるような絶対的な「他者」の視線”がなく、“相対的な世界であり、主人公はつねにどうして自分は絶対者を演じなければならないのだろうと戸惑いつづけなければならぬ世界である。”と江藤は解釈する。

 そうして、敗戦による日本の「近代」化は「近代」を腐敗させながら進む。
 同時に、「近代」はそれまで日本を支えてきた「自然」の崩壊を加速させた。
 「自然」とは、文字通りの自然であり、「母」である。

 “「隠れ場所」を持たず、どの方向に対しても露出されており、まったく孤立している。”
 “人工的な流民の生活”
 庄野潤三の『夕べの雲』に描かれた高度成長期の日本人を、江藤はそう表現している。
 “「隠れ場所というものをものがない」禿山の上に「全身をさらす」”ようになったのは、“政治思想だけによって実現された変化ではない。その背景には政治思想の対立を超えた産業社会の進展があり、その結果としてもたらされた農耕文化の崩壊がある。”

 神や国家などの「父」をもたず、農耕文化という「母」なる「自然」を喪失し、成熟へ強いられているが、「個人」として「成熟」できない日本人について江藤はこう行く先を示す。 
 
 “もしわれわれが「個人」というものになることを余儀なくされ、保護されている者の安息から切り離されてお互いを「他者」の前に露出しあう状態におかれたとすれば、われわれは生存を続ける最低限の必要をみたすために「治者」とならざるを得ない。つまり、「風よけの木」を植え、その「ひげ根」を育てあげて最低限の秩序と安息を自分の周囲に回復しようとこころみなければならなくなるからである。”

 しかし
 “何の権威によって治めようとしているのであろうか?”
 “「治者」の、つまり「不寝番」の役割に耐え続けるためには、彼はおそらく自分を超えた何者かに支えられていなければならない。”

 江藤は、『抱擁家族』で主人公が妻の不倫相手のアメリカ人兵士の“「僕は自分の両親と、国家に対して責任を感じているだけなんだ。」”によって受けた驚きに、自らのアメリカ体験による強烈な感想を重ねた。
 日本という国家に、江藤は「治者」となるための権威を求めるようになった。

 だが、その選択によって本当に「治者」たりえたのだろうか。
 続いて、その点へ考察を進める。⇒藤原正彦の喪失と成熟への渇望 その2
 
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by sleepless_night | 2006-04-23 23:28 | 藤原正彦関連