2006年 08月 08日 ( 1 )

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義 続編

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編の続き

⑥病気としての自殺というアプローチ(※12)
“自ら意思で死を選ぶというよりも、心の病によっておのずから命を絶つ意外にないところまで追い込まれてしまうのだ、と考えられるようになりました。したがって、私たちは、自分の意思で命を絶つという考えに基づく「自殺」という言葉ではなく、本人は生きたかったのだけれど、病魔に犯されたがために、やむをえず、つまり、おのずから死なざるを得なかったおおくの人々を思い、「自死」という言葉を使うことにしました。” 

⑦本能としての自殺
 “本能とは生命ある有機体に内在する衝動であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。”
 “生物が、かつて捨て去った状態であり、しかも発展のあらゆる迂路を経てそれに復帰しようと努めるふるい出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという過程が許されるなら、われわれはただ、あらゆる生物の目標は死であるとしかえいない。また、ひるがえってみれば、無生物は生物以前に存在したとしかいえないのである。”
 精神分析学の創始者ジームクント・フロイトは、“不快を避け、快を生むような結論に進む”という快楽原理を中心と、心の性質を説明しました。
 しかし、反復強迫(過去の苦痛や悲しみを再現するような行動を繰り返し行うこと)という現象にあたり、快楽原則では説明がつかず、“快楽原則以上に根源的で、また独立しているような諸傾向”があるのではないかと考えました。
 生命において絶えず生じる不均衡を不快から快へとむかわせる“生の本能”である性本能の働きは、究極的な均衡状態である死に、結局は向かわせる過程でしかない、“快楽原則は、まさに死の本能に奉仕するもののように思われる”と述べています。(※13)

 アメリカ合衆国で精神分析学発展に力を尽くしたカール・A・メニンジャー(メニンガー)は、“生きたいという本能と死にたいと言う本能‐われわれはこれを人間personalityの建設的傾向と破壊的傾向と呼ぶことにしよう‐とは間断なく相争”うなかで“もって生まれた破壊性および建設性を完全に外部へ向けること”ができずに、“敵と戦わずに自分を破滅させる”行為としての自殺を分析し、その三つの内面的要素を“死ぬこと、殺すこと、および殺されること”であると述べています。
 “死ぬこと”という死の本能そのもの以外の、“殺すこと“という要素は、成長に伴って生(性)と死の本能(破壊性)の中和がなんらかの事情で崩れ、“以前に結びついていた愛と憎悪は、いまやその対象を失い、バラバラになり、その双方ともが元来の出発点、すなわち自己へ復帰”することから生じる。そして、自己を対象としているようで実は“摂取行為”という幼児的(口唇的)な他者の自己同一視であり、自殺の“殺すこと”とは自己に取り込んだ他者の殺害であると述べている。
 “殺されること”という要素は“元来、攻撃本能の一部であるが、それが外にでて、環境に対して威力を発揮しないで、内部にのこり、そこで裁判官、または王様みたいなものに変容された”ものである良心(超自我)が他者への加害を欲した自己を罰したいこと、もしくは、“自分で自分を殺すのは、自分が万能であると思う錯覚を持続しようという”幼児的幻想によるよ述べている。
 そして、通常想像される自殺(急進的自殺)のほかにも、過剰な禁欲や殉教、アルコール中毒(それ自体が病気ではないが、病気から逃れるための自殺的“逃避”・内面的な軋轢を自分で救済しようとする不幸な努力)、反社会的行為(理性と判断を無視するの自己破壊の技法の一部)、精神病(現実性原理の放棄)の一部を“慢性的自殺”と呼び、それらが“死を無限延期する”かわりに“受難や機能障害などの犠牲”を支払っている行動、“生願望と、破壊したい(死にたい)という願望との間に行われる持久戦”であると解釈します。
 さらに、自己毀損(自殺、を回避するための妥協)、仮病(他者を操作・攻撃した欲望とそのような自己を罰したい行為の結果)、故意の事故、性的不能(正常な快楽を失うことでり、“破壊”することである)として、これらを“焦点的自殺”として、生と死の本能の相克として解釈しています。(※14)

⑧社会と病気の視点への問い
 “避けがたい不完全性は病ではない”(※15)
 確かに、デュルケムのような視点、社会現象としての自殺という視点と、それを基礎付ける定義の科学性は必要であり、一般的に用いられる言葉の恣意性を排除することは必要です。
 自殺とは病気(躁鬱・統合失調・気分障害)によってもたらされる死であるとすることは、たしかに、「勝手に死んだ」という突き放しの思考を防ぐことができます。
 しかし、社会現象としての科学的な定義も、病気による死という認識も、自殺によって死ぬこと、自殺というものが何なのか(自殺で死ぬというのはどういうことなのか)を見据えられていないのではないか。
 結局、自殺とは何かという単純な問いを満足させることができないのではないか。
 社会学的なアプローチの定義では、まるで、人型にくりぬかれた画用紙から自殺だと判断するようで、肝心の自殺そのものが見えず、心理学的アプローチではくりぬかれた場所から見えない動きを想像しているだけで、目の前に自殺そのものがあってもかえって分からなくなるような感想を持ちます。

⑨他殺と自殺
 自殺がほかのあらゆる行為と異なるのは、それが、他ならぬ自らを殺すということにあります。
 自らの他のあらゆる行為を為す一人しかない自らを、自らによって殺す。
 殺すということについて、他の存在を対象とした殺しと比較してみると、他殺が自己を保存する行為(たとえ、死刑になることが目的の他殺であっても、死刑になりたい自分は保存される)であるのに対して、自殺は自己を放棄・消滅させる行為です。
 自殺という場面に他者や他者と関係した事情が現れても、その全てを支える自分という基盤で自殺は行われるます。
 つまり、問題は、意思によるか・結果予見していたか・直接的か・積極的か、あるいは病気なのかではなく、その一人の人間の中でなにが死に結び付けられたかという具体的な本質を見ること(個人の自殺の本質。ただの個人的出来事ではなく、そこに自殺と呼ぶべき全てに通じる本質)であり、それによる定義・基準でなければ、自殺への科学的取り組みが生み出した様々な「成果」が死の位置づけを巡る不毛な争いに(一般社会の中で)堕してしまうと考えます。
 一人の人間の中で、一人しかない自分の放棄・消滅へと結びつけたのは何かという視点からの定義を必要とするということです。

(3)一人でも、社会でもなく(※16) 
“その本質において自殺はいつも個人の出来事である。”
 
 E・S・シュナイドマン(UCLA名誉教授)は、以上の定義群とはことなり、個人という自殺の行われる舞台に注目して自殺を分析しています。
 “しかし(あるいは、そして)自殺は好むと好まざるとにかかわらず、ひとつまたはいくつかの文化に市民権を得ている個人に起こる出来事であり、その個人はどこにも逃げ出すことのできない個人なのである。”
 
 社会学的か、心理学的か、そのどちらかに還元するのではなく、社会の中の個人に起こるものとしての自殺です。 
 
 シュナイドマンは“自殺の心理学的要素はいわばその幹である。生物学的な状態がその根である。自殺の手段、遺書の内容、遺された人にどのような影響が及ぶかといった計算などは、いわば、枝や傷ついた実や葉である。”と心理学を中心にすえた多元的な分析し、以下のように定義を表しています。 
 
 “今日の西洋社会において、自殺は、自ら手を下した意識的行為によってもたらされた死とされる。その行為は、死ぬことが最良の解決法と認識された出来事に直面し、窮地を脱することを願った人物の、多くの次元をもった苦痛によってもたらされる、と考えるともっとも理解しやすい。”

 自分であること(に伴う)の苦痛という感覚と、それ(自分=苦痛)から逃亡し・解決しうと願い、それが社会の中で生きる一人の人間の中で死という結果を選択に結びつける。

 この定義は、一般的に言われる自殺の事例の全てに当てはめることができ、しかも、動くことの無い本質を突いているように思えます。
 自殺とは何かという単純な問いかけに対して、具体的で直接的な基準による答えを提供できます。

 シュナイドマンの定義でも、(1)①の四つの実例を全て自殺と判断します。
 しかし、(多次元の)苦痛の解決という、具体的で、自殺そのもの(自殺という行為に再接近して観察された)の本質によって判別されるので、デュルケムのような社会的(行為の態様や意思の有無)といった枠によるものやフロイトなどのような心理構造と動きに着目したものでもないので、ぶれることがありません。
 いわば、自殺の標本に加えるかどうかを、苦痛の解決というピンで刺し留めることができるかどうかという判別法です。

 そこで、以上の定義を前提に、自殺の倫理的側面、権利と義務という問題を述べます。
 自殺の「殺」という言葉に対するある種の理不尽さを出発点煮した考察です。
 ⇒死を選ぶ権利/自殺という過酷な自由を考えるために


※・※12)『自ら逝ったあなた、遺された私』(朝日新聞社)グリーフケア・サポートプラザ編 平山正実監修
※1)『自殺って言えなかった』(サンマーク出版)自殺遺児編集委員会
※2)厚生労働省 自殺志望統計の概要 より
   http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/
※3・6)『自殺の思想』(太田出版)朝倉喬司著 より
※4)『われ万死に値す』(新潮文庫)岩瀬達哉著
※5)『コルチャック先生』(朝日文庫)近藤二郎著
※6)『日本人の自殺』(サイマル出版)スチュアート・ピッケン著 より
※7)http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50568133.html
小飼さんのエントリは議論としては、特殊でもふざけたものでもないと思います。
 特に、“根源的かつ根本的解決ばかり期待するから、自殺に飛びつく”という指摘はシュナイドマンが“誤った三段論法”と呼ぶ認知の誤りの結果を的確に表していると考えられます。
 しかし、寿命を待つということを自殺に含めてしまえば、自殺の特殊性(言葉として自殺を成立させる性質)をなくしてしまいます。
 ※8・15)『自殺論』(中央公論新社)エミール・デュルケーム著 宮島喬訳
※9・16)『自殺とは何か』(誠信書房)E・S・シュナイドマン著 白井徳満 白井幸子訳
   『早すぎる夜の訪れ』(新潮社)ケイ・ジャミソン著 亀井よし子役
※10)『日本人の自殺』(サイマル出版会)スチュアート・ピッケン著
※11)『自殺と文化』(新潮社)布施豊正著
  “日本の自殺の特徴は、政治的、社会的スキャンダルや汚職事件があるたびに、自殺がみられる事実である。”
※13)『フロイト著作集6 自我論・不安本能論』(人文書院)S・フロイト著 井村恒郎 小此木啓吾訳
※14)『おのれに背くもの』(日本教文社)カール・A・メニンジャー著 草野栄三良訳
 “科学者が研究のために一身をささげ、死の危険を冒したり、愛国者が自由のために一命をささげたり、教会の聖人その他の人々が社会のため、またかれらが愛する人のためにわが身を犠牲にしても、それは通常自殺とは考えられない、なぜならば、それらの人の建設的要素が破壊的要素に対して勝利を占めたことが、かれらが選んだ手段の社会的効用、すなわち、創造性の要素によって明らかであるからである。”
 メニンジャーは、自殺と自殺ではないものを、生と死の本能の相克と言う精神分析学が想定する心理構造と社会性から判断している。
 しかし、これも日本の自殺の特色として布施が指摘した会社のためのものが、自殺か否か不明となる。
 
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by sleepless_night | 2006-08-08 23:16 | 自殺