2007年 12月 27日 ( 1 )

「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。


(1)あきらめてください。
 95歳男性、認知症、肺炎で入院。
 不足している輸血製剤のオーダーを取り消し、それを家族に話す。
 “娘は泣き崩れた。
 「お願いです。できるだけのことをしてください。」”
      ↓ (対する感想)
 “不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。”
 “「老いたら死ぬ」そんなことがこの国では当たり前のことではなくてってる。”
 “日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。”

http://blog.m3.com/Visa/20071227/1より

(2)できるがために
 “技術が発達するということは、つねに新しい「選択」ができるようになるということだ。奇妙なことに、技術は私たちに新たな選択を与えるかもしれないが、必ずしも選択の幅をひろげはなしい。”
 “技術を使うのを「選択」するとき、私たちは女は何よりも母親であるという社会の見方を認め、正当化していることになる。そしてこの選択をするとき、「あきらめる」「自分なりの人生を生きる」という選択の扉が、うしろで閉まってしまうのだ。”

 女性の不妊に対して、現代技術は大きな力を発揮している。
 体外受精はもちろん、代理母という手段まで現実的な「選択」肢を提供している。
 すでに国内でも、産婦人科学会の反対を押し切って閉経後の母親にホルモン療法を受けて娘の子を出産した事例まであり、不妊に悩む人々にとっては希望となっているのかもしれない。
 しかし同時に、技術の発達は、それまで「できなかった」たために「諦める」ほかなかったことを、「できる」のに「諦める」ことへ変えた。「諦める」を事実から理由を必要とする行為に変えてしまったことを意味する。
 不妊であっても子供のいない人生や養子を迎えることで解決すればいいと当人たちは思っていたとしても、周囲は「諦めた」のだとみなしたり、「諦め」ないように励ましたりするために、肩身の狭い・罪悪感めいたものまで押し付けられたりすることが起きる。また、「できる」とされるがために、経済的・時間的・精神的な労力を過度の消費する人々もいる。

(3)死生観?
 死生観:死あるいは生死に対する考え方。また、それに基づいた人生観。

 死生観には死亡ということのみならず、死後の世界観も関係する。死後の世界の有無、死後の世界の様相によっていかに生を決める・評価する。
 
 まず、日本人の死生観を伝統という点から言えば、死んだら何もなくなるとはならない。『古事記』では地下の黄泉の国があるが、民族宗教(そして仏教の葬儀・盆・正月のような循環的儀礼に組み込まれて)では山中や海上に他界があると想定され、魂は仏壇の位牌にもしずまっていると想定され、現在では墓にも存在すると考えられている。
 死者は生者と同様に、死んで時間が間もないときは落ち着かず、時間とともに生者の供養を受けて静まり、やがて個性を失い代々の先祖(年神)と一体化し、生者を守る働きをする。
 死者と生者の世界は異質・逆な性質をもつ部分もあるが、同じ構成要素を持ち、二つの世界は相互に関連しあい、力・影響を及ぼしあっていると考えられている。
 そして、基本的には、生きているうちの倫理・戒律の遵守程度による地獄極楽といった厳しい選別になじまない。本覚思想に代表されるような全員が救われることを好む傾向がみられる。
 
 確かに、This is Christmas,so what?でも述べたように明治以来の大きな社会変化・人口移動で先祖観は変化をこうむってきた。仏壇・位牌、神棚といった先祖崇拝の設備を持たない家は都市部に顕著に増加していることは調査からも明らかになっている。
 葬儀もかつては村や近所が仕事を休んで行われてが、火葬場・公営斎場や葬儀業者の進出で大きく変化した。土葬や野辺送りがなくなり、納棺などが省かれ葬儀時間は著しく減少し、葬儀と埋葬は分離した。波平恵美子(御茶ノ水大教授・人類学)さんはこの変化を“「葬送」から「葬儀」”への変化を呼ぶ。

 だが、この儀礼の変化は死生観の変化を意味するのだろうか。
 “「葬送」から「葬儀」”になったこと、また神話・伝説・昔話などの伝承が途絶えつつあることを考えれば、死者との関係やそれに基づく行為に変化はあったのだろう。
 しかし、根本的なところでは変化がないように思える。
 人は死んだら終わりで、死後の世界へ生者が影響を行使できないから、先祖供養は必要ないとという風潮は見られない。仏壇や位牌といった形を取らなくなっても、死んだ祖・父母などが身近に感じられない・隔絶した世界に存在すると考える人が増えたとも思えない。
 戦後に発展した水子供養や先祖崇拝を重視する新宗教、近年のマス・メディアで流される「霊能者」たちの存在、を見る限り基本的・根本的な死生観(死後観)は変化していないようにしか見えない。

(ただ、自分の命/自殺という過酷な自由を考えるためにで述べたようにアリエスや小松美彦さんの指摘する“死の死亡への還元”は否定できないが)

(4)QALYという発想
 したがって、“日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。”のではなく、(2)でみた不妊治療における反作用と同様に、「できる」ようになったために「諦め」られなくなったと評価するのが妥当だと考えられる。

(また、医療にたいする人々の態度の変化も考慮に入れる必要がある。かつては、医者にかかるとを忌避する人がいたこと、かなり重症でも往診だけですませて入院を拒んだ人々がいたことを考えなくてはならない。さらに、インフォームド・コンセントをはじめとする患者側の姿勢の変化も見過ごして考えることはできない。)

(追記:死生観のうち、死亡という出来事のみに対する感情、便宜的に「対死感」と呼ぶ、は確かに変化しただろう。それは、(3)で述べた死後の世界の有無やその在り様に基づく生き方や死への態度とは関係が無い・僅かであり、変化の原因は医療・衛生の向上に伴う期待水準の上昇と近代家族の要件のひとつ「家族内の強い情緒関係=外部者の排除」によると考えられる。つまり、「年をとったら死ぬ」のはわかるとしても、現代医学はその事態にできることがある、しかも、死ぬのは大切な家族。だから、厳密には「死亡感」一般の変化というより、家族などの親密な他者や自分の「対死感」の変化と考えるのが妥当だろう)

 では、「諦める」べきなのだろうか。
 医療資源の有限性を前提にした分配問題に対して、功利主義の観点からQALY(quality-adjusted-life-year)という考え・解決法が提唱されている。
 これは、完全に健康な状態を1、死を0として、ある特定の医学的状態が持つ効用を1~0であらわし、それに生存年数を掛けた値(QALY値)を用いることで最も効率的な医療資源の分配を可能にするという考え。
 たとえば具体的には、腎不全の40歳男性の場合。人工透析の場合、しなければ死んでしまう0から透析を受けること生存できるが活動が大きく制約されるので0.6までしかQALYは上昇しないが、移植が成功すれば0.9まで上昇するとする。70歳までいきるとして、それぞれのQALY値は、透析0.6×30=18、移植0.9×30=27ということになる。
透析には月に40万かかるとして、70歳まで生きるとして30年で約1億5千万かかる、移植には約1千万かかるとすると、それぞれQALY値1を上昇させるのに、透析は約800万かかり、移植は約40万かかる。
 このように数値化できることで、同じ1000万なら、一人を0から7までを上昇させるよりも、三人を6から9まで上昇させるのにかけたほうがよいなど、判断でき、社会全体の医療分配に応用できる。
 ただし問題点として、QOLや選好(何をよしとして選択するか)を評価・測定するのが困難・曖昧であること、医療介入によって得られるQALYのみしか考慮に入れないことで個人から選択を奪ってしまうこと、命のかかわらない場合でのQALY値の上昇が多人数集まると命にかかわる場合のQALY値を超えてしまうこと、などが指摘される。
 浅井篤(熊本大・生命倫理・一般内科)さんはこられの疑問にたいして乱用・過剰使用を阻止する仕組みを前提とした上で“医療と「効果」「利益」「効率」「結果」「費用」などの概念を切り離すわけにはいかない。そしてQALYはそれらの概念を組み入れが唯一の理論で恣意的でない分配方法論である。”と支持する。
 そして救急かQOL上昇のためかを区別した上で少数への高額医療の制限と「ライフサイクル伝統主義」の視点から“若年者が高齢者よりも医療資源分配において優先”されることを許容するとしている。

 医療資源の有限性は否定できない現実であり、(2)のような技術の発達がコストダウンを可能にするかもしれないが、同時に先端技術開発は膨大な費用を必要とすることから、医療資源の有限性を無視してよい時代がくるとも想定できない。
 とすると、国家や社会の政策としてはQALYは有効なアイデアだといえる。
 だが、浅井敦さんがオランダ・日本・アメリカ・オーストラリアの調査を引いて述べている、人々の医療にたいする平等主義的嗜好は無視できないだろう。
 この調査について“「無差別に全員に平等な医療を提供し続け医療制度を崩壊させるか、それとも何らかの選別方法を用いて医療制度を維持しつつその範囲で可能な限りの人々に医療を提供するか」と問うべき”と指摘しているが、この問いに制限肯定と答えた人も、目の前で困難な状態に置かれた肉親・親しい人を前に煩悶するだろう。そして、そのような体験が、目の前に置かれた人だけでも助けてほしい、例外扱いしてほしいと本音をいだかせるだろうし、それこそが制度に立ちふさがるだろう。

(5)誰が言うか。
 曹洞宗の檀徒意識調査によると「なんのために『お坊さん』を尋ねますか」の問いに対し「葬式・法事をお願いするとき」が約66%、「仏教の教えを説いてもらうとき」が約3%、「困ったときや悩んでいるとき」が約1.5%。

 “現在の仏教のいちばん悲惨なところは、人々から何も期待されていないとろこだ。期待するに足る存在だとすら思われていない。”
             『がんばれ仏教!』上田紀行著(NHKブックス)

 “彼(高橋秀利)はなぜ自分がオウム真理教に魅力を感じたかを説明したが、その中で、既成仏教教団は、自分にとって「風景」でしかなかったという趣旨のことを述べた。”
             『若者と現代宗教』井上順孝著(ちくま新書)

 この状況を考えれば、仏教の僧侶に期待することは無理だろうし、期待されてもそれにこたえられるだけの僧侶がどれほどいるのかが疑問だ。
 だとすれば、一番、死の近くにいることになる医者・看護師ということになるのだろうか。
 しかし、それは患者から見て納得しづらい構造、医療行為を停止する当人に説得される、し医者や看護師に宗教領域に入る事項まで面倒をみさせるのは明らかに酷だろう。
 では、誰がいるのだろう。
 可能性としては、移植時のコーディネーターのような存在を病院に配置することが考えられる。
 ある程度の医療知識を備えることで医者・看護師と患者・家族を繋ぐことができる第三者を存在させる。これは、アメリカの保険制度と同じ危険、医療が患者の担当医ではない人間に支配される可能性もあるが、第三者性を担保できる仕組みを整備できれば低減できるだろう。
 だが、この第三者の言葉が、どれだけの説得力を持てるか、それも大いに疑問だ。(それに人件費もかかる。)

(6基盤を自ら壊す覚悟
 また、「諦めろ」が社会的に説得的なこととなった場合、社会は医療技術にたいする費用支出に合意しなくなると考えられる。
 功利主義的社会は利己主義的な人々によっては維持できないのと同様に、医療も利己的(発達はしたいので全員から金を集めたいが、その成果は一部にしか与えない)になれば社会から功利主義的な存在根拠を失うだろう。
 医療従事者が「諦めろ」と求めるならば、自分の足(基盤)を食べる(壊す)覚悟が必要だ、と思う。
 

補論→「できるのにやらない」ことについて語るときに、僕の語ること。

関連エントリ
すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。救う会の救われない救い



引用・参照)
『不妊』レナーテ・クライン編 「フィンレージの会」訳(晶文社)
「QALYと医療資源分配」浅井篤著(ナカニシヤ出版『生命倫理と功利主義』収録)
『日本の民族宗教』宮家準著(講談社学術文庫)
『日本人の死のかたち』波平恵美子著(朝日新聞社)
『葬儀と墓の現在』国立歴史民俗博物館編(吉川弘文堂)
『仏と霊の人類学』佐々木宏幹著(春秋社)
 
 
 
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by sleepless_night | 2007-12-27 22:52 | 倫理