カテゴリ:自殺( 9 )

誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが/自殺という過酷な自由を考えるために

 パンがないなら、死ねばいいのに 後編の続き。


(14)生きづらさ・インターネット・自殺
①生きづらさ

 社会、学校・会社、での友人関係のトラブル、いじめ、同調圧力(とそれへの馴染めなさ)、リストラ、借金。家庭でのアルコール依存症の親、性虐待、暴行、ネグレクト、過剰な期待、大人であることの期待、居場所のなさ、過剰同調、バランス役。
 むなしさ、無気力、疲労、いらだち、絶望。
 欝、摂食障害、自律神経失調症、強迫神経症、人格障害。
 売春、家出、リストカット、オーバードーズ、自殺。

 明らかな悲惨によるものから外観上恵まれた環境における苦しみまで、現代日本社会で生きること、普通に生活すること、ができずに彷徨い、試行錯誤にある人々。

②インターネット
 パソコンの95年のOSウィンドーズ95、携帯での2000年のiモードの登場によってインターネットが社会で広く利用されれるようになり、ネットは日常に浸透するようになった。
 98年、ドクターキリコ事件とペット美容師自殺幇助未遂事件という二つのネットを利用した自殺が起きる。
 2000年、歯科医師と元OLがネットで知り合い歯科医宅で服毒自殺する。報道された最初の「ネット心中」となる。
 2003年には心中掲示板で知り合った3人が埼玉のアパートの開きべたで練炭による集団自殺をする。ネット心中は連鎖し、「ネットで募集・練炭・車」が定番化する。

③自殺とメディア
 ①のような状態にある人々を「生きづらさ系」と名づけて取材・執筆活動を行っている渋井哲也さんは、テレビや新聞といった比較的古いメディアとインターネットという比較的新しいメディアにおける生きづらさや自殺との関係について以下のような指摘をしている。
 インターネットは「生きづらさ」を言葉にできる場となることで苦しむ人々の解放に作用する面もあるが、語ることで“「生きづらさ系」な自分を発見し、自己イメージを「固定化」”させ“「不変な自己」をネガティヴに受け入れていく”危険性や自傷行為がネットでのコミュニケーションのキーとして作用し内部で激化(“生きづらさ競争”)し周辺を引きずり込んでしまう危険性、社会に関る問題を“個人的な「心」の問題に吸収”させてしまう危険性がある。
 テレビや新聞といったマス・メディアはネットに関連・利用した自殺事件を契機に、本質的な分析抜きに規制論を訴えるが、自殺事件の報道自体が新たな連鎖の引き金となる危険性があること、逆に報道しないことで注目を浴びようと新奇性を狙って行う人々が現れる危険性がある。
 
 メディアはその登場発展の過程から自殺に大きな影響を与えてきた。
 現在は比較的古いメディア、エスタブリッシュド・メディアである新聞は、明治36年(1906年)に起きた藤村操の華厳の滝投身自殺を3日に渡って一面で報じ、一人の死を賞賛と非難に包まれた“歴史的事件”に高めた。この事件報道は群発自殺を誘発し、一ヶ月で6件、4年で185人の未遂を含む自殺者が出た。新聞は連鎖したこれらの自殺、上昇している自殺率について報じ、自殺問題の原因について現在と同様なもの、哲学・文学かぶれ、自由恋愛、拝金主義、都会の奢侈などを「識者」たちは挙げた。
 華厳の滝と並ぶ自殺名所となった三原山も、新聞が大きな役割を果たした。
 昭和8年(1934年)に起きた女学生の投身自殺は、「死の立会い」という特異性から発行総数1000万部に達した新聞に大きく取り上げられ、3ヶ月で99人が自殺した。
 さらに戦後は、テレビも加わったマス・メディアが昭和47年(1972年)に高島平団地の投身自殺を報じ、団地外から自殺者志願者を集め、報道自粛とともに自殺者を減少させた。
 そして平成15年(2003年)、埼玉の練炭による集団自殺は「ネット心中」として大きく報道され、連鎖する。

④心中機械
 “彼らには「ネット心中」という手段でさえ、模索の一つの形なのだ。”
 
 渋井哲也さんによると、「ネット心中」は、[心中呼びかけ]→[応募]→[条件等の提示](→[打ち合わせ]→[下見])→[集合]→[実行]、のプロセスで進行する。
 
  応募したり打ち合わせをしたりするプロセスで集団が自然消滅したり、個々人が抜けたりする(しかも自殺自体を止めるわけではない)。
 興味深いのは、[条件等の提示]にある。「女性のみ」や「未成年お断り」ならば分かりやすい理由(レイプ防止や法的責任回避)が考え付くが、「タバコをすわない人」といったものまである。 
 “お互いがお互いを「道具」として、「自殺マシン」として利用するのが「ネット心中」なのだ。”と表現される場合の、「自殺マシン」はキヴォーキアンの作った自動的で確実な安楽死装置ではなく、スロットのようなもので、その当り目が提示された条件だと言える。
 その姿勢は、「生きづらさ」を抱える人々の自分語りにある運命論の色彩と通底する。

 なお、見知らぬもの同士が集まって自殺するという点が「ネット心中」で注目されるが、昭和初期の三原山での自殺でも、熱海で同宿した4人が偶然自殺志願者であることを知り合い三原山に行き、さらに大島の宿で東京からきた自殺志願者の少女と知り合い一緒に自殺することにした、という事件(この集団自殺は辞世を落としたのを発見され、直前に止められた)、汽車中で知り合った20代の男性二人が三原山について話が弾み、一人が自殺するのをもう一人に見届けてくれるように依頼した事件、があった。
 これらの事例は交通網・情報網の発達によって可能となった集団自殺の形態として現在の「ネット心中」の途上に位置し、メディアを意識した自殺である点でも本質的には同じものだと言える。
 つまり、見知らぬもの同士の自殺は特別新奇な現象ではないし、「ネット心中」の特質としても[条件の提示]の方が強いと考えられる。
 
⑤濃密さと勢い
 “自殺まで行くのは偶然的な確率の問題だと、みんなが知っている。あったからといって必ずしも死ぬわけではないことを知っているわけです。だからこそ、会ってみようかということにもなりやすい。
 で、会ってみると偶然にシンクロして、死んでしまうこともあるというわけでも。そのことも十分に意識されてうえで、それでもいいと思っている。”
 宮台真司(首都大教授・社会学)は、ドクター・キリコ事件の草壁竜次が行ったような濃密なコミュニケーションから現在はコミュニケーションの勢いへと自殺が変化したという。

  “待ち合わせの日の天候も左右したのではないか。待ち合わせは10月9日。この日は、巨大となった台風22号が関東を通過した。朝から交通機関は麻痺状態。新幹線もストップした。そのため、地方から来る人達はなかなか上京できない。 その中で、結果的にマリアも含めて7人が集まった。(中略)通常の心理でもなかなか集まらない状態だったために、「こんな天気なのに、せっかく集まったので、実行しないと…」とは、メンバーの誰しもが考えたことだろう。”
 渋井哲也さんも、知人の女性マリアの自殺について気候という、本当に偶然的な要素が後押しとなったのではないかと分析する。

 ネットを自殺に利用することは、多数の情報によって確実性を上昇させていくというより、自殺する・しないを含めた偶然性を上昇させた。
 しかし正確には、偶然性を上昇させたというより、偶然性を可視化するものがインターネットであり、それを利用したために偶然性が上昇したように見えるのではないか。
 濃密さから勢いへという図式は単純に過ぎ、インターネットという偶然性を可視化するものの上に起きたがために「勢い」という要素が強調されるが、内容や事情から見ても濃密さという点では(少なくとも明治以降の自殺と比較して個人レヴェルでは)大きな違いがないように感じられる。
 ただネットにおけるコミュニケーションのシニカルさは、面識のコミュニケーションでの勢いを容易に加速させる要素となっているとは考えられる。


引用・参照は以下の通り。
タイトル 『卒業式まで死にません』(新潮文庫)南条あや著
②『ネット心中』(生活人新書)渋井哲也著
③『若者たちはなぜ自殺するのか』(長崎出版)渋井哲也著
 『自殺の思想』(大田出版)朝倉喬司著
④⑤『明日、自殺しませんか』(幻冬社文庫)渋井哲也著
⑤『この世からきれいに消えたい』(朝日文庫)藤井誠二・宮台真司著
 『Dr.キリコの贈り物』(河出書房新社)矢幡洋著
 
[PR]
by sleepless_night | 2007-10-04 21:40 | 自殺

パンがないなら、死ねばいいのに 後編


パンがないなら、死ねばいいのに/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き。

⑤労働の「日本人論」
 石澤靖治(学習院女子大教授・メディア関係論)さんは、終戦後から80年代まで、一説には千冊といわれるほど大量に出版された日本人や日本に関する代表的な本を「日本人論」と「日本論」に整理した。
 「日本人論」とはルース・ベネディクト『菊と刀』や土屋健郎『「甘え」の構造』といった文化によって日本を説明するタイプ、「日本論」はエズラ・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン』、チャーマーズ・ジョンソン『通産省と日本の奇跡』などの官僚制や終身雇用・年功序列といった制度によって日本を説明するタイプ。
 前者は書かれた時期も影響して、どちらかといえば日本の特異性をネガティブに、後者は日本の特異性をポジティブに(そして後に、米国の脅威や参照対象として)描く傾向があると言える。(さらに「日本人論」から制度を正当化し、日本文化が欧米の行き詰まりを救うという「文明の超克」的な話も出現する)
 石澤靖治さんの整理から言えば「日本人論」のはしり1955年に、ロバート・ベラー(UCバークレー教授・宗教社会学)は、日本が“自国を「近代産業国家」に変えた唯一の非西洋国家”だったのは何故か、ヴェーバーの言う「資本主義のエートス」たるプロテスタントの倫理の機能的代替物は何かという疑問にこのように答えている。
 近代後発国が西欧近代産業社会へ参入するためには、既に形になっている西欧の工業・産業を輸入して移植する他なかった。国内の原始的な段階にとどまっている貧弱な民間組織が膨大な資本を必要とするそれを担うことはできず、唯一国家だけが可能だった。国家が主導して国内の資源を集中させることが有効な唯一の道だった。
 そこで“政治体系および政治価値の強さが、決定的な変数”となる。
 徳川時代は、所属する身分階級において・を通じて集合体への忠誠を重視する社会。藩における君主への忠誠、商業では株仲間、農業では村落といた集合体への忠誠が重視され、家族はそれ自体内部で政治的であると同時に幕府組織の最末端として政治体系に組み込まれていた。そこでは、静的な統合という価値より、集合体への積極的な献身が評価され、動機付けられていた。
 この集合体への忠誠という特殊主義、積極的献身という遂行、政治価値・体系の合理化に対して日本の宗教は寄与した。
 歴史を通じて政治と密接にかかわってきた神儒仏の諸宗教は相互に借用しあい融合され、「日本宗教」と呼べる要素を持つ。日本宗教には二つの神的な観念、“与えてくれる至高存在の観念”と“実在の内的本質”があり、それに対応して二つの宗教行為の型、“報恩”と“合一”がある。つまり、至高存在者の恵みへの返報と存在の本質との一体化を目指す行為の二つで、後者は“個人的な宗教的実修”といった隠遁形式と“倫理的行為、あるいは「愛の作業」”といった世俗義務の没我的な遂行という世俗内神秘主義的形式あがある。後者の世俗内神秘主義的形式が日本では主流になったが、両者とも“利己心は、外的な義務の正当な返済を妨げ、また、人間の内的な本性の真の調和をやぶる。”と利己心を最大の罪とみなすことで共通している。
 この宗教行為の型は“仕事に従事するならば、それは、仏法に奉仕するもの”と“自利-他利の教義”により労働と利益を正当化した蓮如後の浄土真宗を信奉した近江商人や、“天、地、人から受けた恩に報いる”と報恩により労働正当化し貯蓄と投資による経済回復を宗教的救済と融合させた二宮尊徳の報徳運動、“自己を捨て、道を行う”と禁欲主義と世俗的義務の没我的遂行を教えて江戸後期の都市を中心に広まった石田心学に現れる。
 これらは、身分社会の義務・上位者への服従を積極的に肯定し、宗教的に意味・動機付けを与えた。
 この日本宗教による政治合理化(特殊主義的遂行、集合体のための遂行を宗教化により合理化して強化)は、西欧でプロテスタントの倫理が経済合理化に果たした役割に類似し、機能的等価物として明治日本の政治主導の近代化の基礎となったとベラーは考えた。

⑥死に至る労働
 “自殺者が発生した場合、ほとんどの企業は、労働条件や労務管理の問題点を棚に上げ、自殺を労働者個人の責任ととらえる。そして遺族に対して、「会社に迷惑をかけた」として高圧的な態度をとり、遺族は「申し訳ない」とおわびする立場に立たされる。自殺の基本的な原因を作った加害者側が、自殺=被害者側を叱り付けるという、誠に本末転倒なことが繰り返されている。”

 過労死問題に取り組む川人博(東京弁護士会)さんは、「過労死110番」への相談事例に基づいて過労自殺の5つの特徴を挙げる。
 過労自殺は職種地位を問わず“幅広い範囲の労働者に広がっており”その多くは“長時間労働・休日出勤・深夜労働・劣悪な職場環境などの過重な労働よる肉体的負担、および重い責任・過重なノルマ・達成困難な目標設定などによる精神的負担”にされされ“うつ病などの精神障害に陥っていたと推定される”が精神科を受診しないまま死を選び、“実態がなかなか組織の外部に伝わら”ずに遺族は社会的偏見に晒されて孤立する。
 中高年は比較的長い遺書を残すが、その内容は家族と会社へのお詫びと自責。
 それが会社の保身に使われる。

 “業務命令とあらばどんな過重な労働でも受け入れて”死に至る中高年労働者。
 “就職前の予想をはるかに上回る仕事量、責任の重さに遭遇し、心身のバランスを崩して”拘禁反応のような自死に至る若年労働者。
 
⑦宿命としての死、回教徒の死
 “リスク社会においては、リスクを人為的な努力で完全に抑圧し、否認することはできるというかつての幻想は捨てねばならない”。
 “リスク計算を冷静におこなう一見合理的な態度と、宿命論とは実は紙一重ではないだろうか”、“リスクの回避に最善を尽くす”態度と“最初から起こりうる事態を運命として受け止め、腹をくくる態度”は、どちらもリスク社会の“日常性を生き延びるための合理性を有している”。
 “現在、「自己責任」―「リスクを受け入れよ」―のスローガンとともに若者に向けられるメッセージは、明らかに矛盾したダブルバインドのメッセージである。それは一方で「自分の将来や老後を自分で備えよ」(=国や企業に頼るな)である。しかし同時に発せられるのは「あらゆる長期計画(=長期的安定性)を放棄せよ」である。”

 「自己責任」で競争セクターから脱落し、住居を失えば「住所がない→保護が受けられない+就職できない」のループに嵌り“永続的な待機状態”へ。
 <人間としての権利>を実質的に保障するのが法的な市民権というより企業社会の地位である日本で、「国内難民」化し、「人間の生き方でないような」生を生きることになる。
 そこでも“適応できる前に打ち負かされてし”まえば、ナチス強制収容所で「回教徒」と呼ばれた人々―生きる意思、感情を喪失し死ぬに任せる―に類似する末路をたどる。
 
 “市場競争や収益性といった新たな要求に答えて生きることができない者たちは、死に廃棄されることを通じて社会的に内包されるのだ”。
 静かに、深夜の車道に横たわって。

⑧ゴミはゴミ捨て場に、美しい国へ。
 労働は大成功を収めた。
 ④で述べたように、労働はただ必要なものを賄うためではなく、「快」「喜び」の源や「自己実現」になった。たしかに、その反作用(面白くないからやらない)もあったが、成功には変わりない。労働と非労働の区別は曖昧になり、「遊び」こそが理想的な労働観となった。
“仕事が遊びになるとき、仕事は実質的に労働者の自由な時間を消滅するところまで侵食してくる。さらに、人間的な職場とは、ただの職場とは違う―つまり、そこには多くの創造的自由や、規律かされない労働時間や、娯楽ゲームはあるかもしれないが、雇用保険や賃金平等、経営管理といったものがなかったのだ。”(※)
 しかし、“この「苦境」は<コスト>としてではなく、むしろ仕事に付随する<特典>と解釈され、低賃金を正当化する口実となる”
 同時に、③で述べたように価値を決める中心が労働から消費へ変化し、価値と労働の結びつき―価値尺度は不確かになった。
 それは単なる労働の生産物の価値尺度の問題に止まらないものとなる。労働と非労働(遊び)、生産と生活の区別が曖昧化した社会では、人格の価値尺度の問題(人間力?)につながっている。
 “要求されているのは、個人の<実存>や<生>そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入することであろう。”
 この事態は二つのことを通じて新しい社会を回す。
 一つは、カルヴィニズムの予定説よろしく、不安を通じて「自己実現」というな名の労働と消費へと人々(私達)を駆り立てて社会を回す。消費社会では価値尺度が曖昧化し(しかも上述したように労働者との結びつきは人格にまで深化)ているため、生産社会だったカルヴィニズムの時代より天国(「救いの確証」)を得るのは困難。しかし、地獄への道はハッキリしている。
 この「やってることの価値は分からないけど、頑張ってね」というメッセージが引き起こす“永続する不安と消耗”に耐えるためにもう一つのことが必要となる。
 それが地獄、つまり競争セクターからの脱落、若しくは底辺に対する恐怖。
 自分が落ちるのが怖い、「ああはなりたくない」という意味のみならず、そこを犯罪予備軍の場所とすることで向けられる恐怖。
 その恐怖は対価に「自分のやっていることはあれよりはマシだ」という安心感も与えてくれる。
 さらに恐怖は、脱落や底辺を搾取対象することも正当化する。犯罪予備軍として貶めておけば、刑務作業中の囚人のように、いかようにでも扱っても良心が痛むことはない。
 ここで、経済学がたどってきた「分配の正義から交換の効率へ」という流れが逆転し、人格価値に基づく交換正義が復活する。人格価値(人間力?)の違いが、同じことをやっても違う報酬を正当化する。
 社会を競争セクター(「分からないけど、頑張ってね」)とゴミ捨て場(「死ねばいいのに」)に分けることは、政治(立法・行政)にとっても大変に都合がいい。
 競争セクターは人々がいつゴミ捨て場へ落ちるか分からないために内部で団結や抵抗ができない(競争相手と団結、立法活動の監視などする余裕がない)状態になり、ゴミ捨て場には競争セクターと隔離したの上で「生き残りの生産」に必要な程度の援助をして、勝手に荒廃してもらい外部へたまに噴出し恐怖を見せ付けて、援助支出に対して競争セクターが道徳的な怒りを感じるようにしてくれればいい。
 そのために、無関心では足りない、“確信犯的に「敗者」や「余計者」を敵視”するようにメディアを使って情報解釈の道筋を植えつけること。貧困問題を治安・犯罪問題に、政治問題を人格問題に、想像力は恐怖と怒りを感じるために、情報選択・操作をして無感動と忘却を生み出すこと。
 そうすれば、「公共=国家」として、“政治的なもの―敵対性―は存在し得ない”社会で“<対話>の可能性は前もって完全に封殺”し、“よき統治に従順な者となるか、あるいは統治されることを拒む犯罪者”となるかを迫って、“住民は政府にとって潜在的に危険な要因として位置づけなおされ、逆に政府が住民にとって脅威になったり、暴走するという可能性は前提の上で消されている”という美しい国が創れる。

⑨敗北を抱きしめて
 “勝ったのは誰か?ニューライトと呼ばれるリニューアルされた右翼である。”
 “より正確に言えば、家族的価値の回帰を唱える新保守主義、市場原理による福祉国家解体をねらう新自由主義、権威主義的ポピュリズム、これらの接合によって出現した新たな権力である。”  
 渋谷望(千葉大助教授・社会学)さんは、リニューアルされた右翼、ネオリベ・ネオコンが勝利した新しい権力ゲームで労働と産業という要素の果たした役割を⑧のように分析し、左派の敗北を記述する。
 (5)(6)で述べたような自己決定権による積極的安楽死の歴史、自己所有という発想をめぐる伝統的なリバタリアンとリベラルとの共闘の成果(言葉)は、ネオリベ・ネオコンに流用されている。
 もちろん、自己所有・自己決定を放棄してもなんら変わらない。
 「間柄主義」「間人主義」によって個が否定され、非人称・単数の「われわれ」に生が所有されるだけで結果は同じ。「われわれ」以外の生を敵視・恐怖する点でも新しい権力ゲームと変わらない。これは⑤で述べた特殊主義的遂行と同様に、組織犯罪を防衛行為という特殊(内部)倫理により正当化することにつながる。(※)
 この価値観は、新しい権力ゲームの要請するフレキシブルな主体に邪魔なように見えるが、新しい権力ゲームで要請される忠誠の抽象化・一般化は政治合理化(特殊主義の一般化)の結果とも言え、むしろ親和性が強い。リニューアルされた保守にとって日本的「伝統」は有効なアイテムとなる(なっている)。
 それは、⑥で述べたように、過労自殺が特殊主義(業務)の遂行に失敗したこととして捉えられている現状や、アメリカのアンダークラスが『葉隠れ』を生存の美学として流用していることからも分かる。

⑩戦争は希望に過ぎない
 『論座』の赤木論文は、“狂気と紙一重のいわば一発勝負”の表出。
 現実に、戦争は必要なゴミ捨て場にされている。
 ただ、量産される名誉負傷賞や青銅賞では慰撫されなくなってはいる。
 1ドルの報酬でこの不協和を解消するには無理があるし、ウェーバーも言うように、合理化の強力源泉である宗教(的な不合理)は合理化が達成・完成されると忘れられ、力を失い、心理的報酬を与えられない。 

 それでも、アルバイト・コンプレックスはいっそう刺激される。
 それはベラーが述べたように、社会が大きく変化し人々に緊張や挫折をもたらした時、旧来の宗教体系(社会道徳の基礎となる価値観への意味付与)では対処できず(緊張や挫折に納得するような意味を与えられない)、新しい宗教体系も生まれない場合、旧来の宗教体系が逆に“パターンを維持し、緊張に対処しようとする宗教の努力は、激しく、しかも組織的なもの”となる現象かもしれない。
 心底から信じているわけではない。“やりがいのない、しかも低賃金の労働を若者が率先して行うなど、いったい誰が本気で信じるだろうか。”
 労働倫理は、“内面化された自己理解の形態にあるのではなく、隣人の労働に投げかける私たちのまなざしにある。”(※)
 そして、まなざしは不安と恐怖に染められる。
 “<マジメ>なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働倫理ではないだろうか。勤勉な主体としての自己肯定感は、<怠惰>への道徳攻撃によってはじめて可能となる。”
 
  自殺は苦痛からの逃避と解決の選択であり、苦痛の最たる要素は「苦痛がいつ終わるか分からない」という意識状態と焦燥にある。
 戦争は希望でしかないかもしれないが、希望は必要だ。生きる限りは。

⑪行き止まりとしての円環
 “生産を欲しているのは社会であり、負の生産を欲していないのは社会なのだが、社会とは私たちのことだ。”


続き→誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが/自殺という過酷な自由を考えるために




引用・参照)
①③『労働と正義』有江大介著(創風社)
④※以上『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー著
                                   大塚久雄訳
 ※以下『働かない』トム・ルッツ著 小沢英実+篠儀直子訳(青土社)+⑧⑩の※
⑤『日本人論・日本論の系譜』石澤靖治著(丸善ライブラリー)
 『徳川時代の宗教』R・N・ベラー著 池田昭訳
⑥『過労自殺』川人博著(岩波新書)
⑦⑧⑨⑩『魂の労働』渋谷望(青土社)
⑨※「集団と所有」斉藤純一著(ナカニシヤ出版『所有のエチカ』)
⑩http://blog.yomone.jp/kayano/
⑪『私的所有論』立岩真也著(勁草書房)
[PR]
by sleepless_night | 2007-03-17 13:03 | 自殺

パンがないなら、死ねばいいのに/自殺という過酷な自由を考えるために


“神はアダムに向かって言われた。
 「お前は女の声にしたがい、とって食べるなと命じた木から食べた。
  お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
  お前に対して、土は茨とあざみを生え出でさせる、野の草を食べようとするお前に。
  お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るまで。
  お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」”
                     創世記3章17節

 “常時滴水さんは京都の林丘寺に居たのだが、林丘寺は門跡で、寺格がよいので政府からお手当てが下ってゐた。話のまに河村が滴水さんに、
 「政府が若し林丘寺のお手当てを取り上げたら、あなた、どうなさいますか。」
 と尋ねた。
 「さうなりや、托鉢でもしよう。」
 と滴水さんの答。河村が、
 「若し政府が托鉢も封じたら、どうなさるつもりですか。」
 「そうなりや、死ぬだけじやがな。―おまへは何とか云う大学校を出たとかいう話だが、ものの道理の分からん男だな。食へなけりや死ぬだけぢやないか。」”
            『おれの師匠』(島津書房)小倉鉄樹著

 “プラトンが奴隷を軽蔑したのは、彼らが自殺もせずに、むしろ主人に服従する方を好んでいたからであった”
     『人間の条件』(ちくま学芸文庫)ハナ・アレント著 志水速雄訳

                *

 自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き。
 「自分の命・身体は自分のもの」という自己所有に関する議論に続き、若干的を絞って、自殺と生産(労働)、過労自殺に関しての議論。

(13)パンがなければ
①アルバイト・コンプレックス

 “人は誰でも苦労より安楽を求めていると思う。身体を働かせることをできるだけ少なくしたいと思っている。私もそうであり、身体をつかって汗水たらして働くことはもちろんのこと、どんなに洗練されたきれいな仕事でもそれが仕事である限り、できるだけご免蒙りたいと思っている。”
 “ところで、こうした考えは、二宮金次郎に典型的に示されるように日本的労働観が浸透している社会では、ともすると口にするのがはばかれることになる。「労働は人生だ」、「働くことは素晴らしい」、「働くことこそ立派なのだ」、「仕事が人生だ」等々の大合唱の前では、勤勉に立ち働くことを忌避する概念は倫理にもとるものとして社会的に指弾される。しかし、勤勉であることは本当に人間とししての立派なことなのだろうか、なぜ働くのがいやであってはいけないのであるか。本当は、いやなこと‐労働‐を仕事として無理やりやるからこそ、それを償う報酬があるだけなのではないだろうか。
 視点を変えれば、人は誰でもおおむね、何についても自分の労力を費やしたことを無駄であるとは思いたくないものであろう、とうことである。労力を費やす過程に喜びを感じようが単に苦しみと思おうが、費やし終わったあとに残るものについては、自分の労力の故に目の前の結果があると考えるものではないのか。つまり、人は労力を費やしたことを、その結果生ずる事態の根拠や原因とみなしたいのである。”
 “そうであるとすれば、働くこと自体に何か労苦であること以上の積極的な意味を持たせるのは、人間労働に対して特殊な価値判断を加えているからなのではないか。”

 “〈労働は人間の本質であり、勤勉に立ち働くことは無前提に善いことである〉というドグマ”、“このドグマ-仮に〈アルバイト・コンプレックス〉と呼んでおこう”

②認知的不協和
 レオン・フェスティンガー(スタンフォード大・社会心理学)の実験。
 大学生たちに機械的な単純作業をさせた後に、この実験は期待に関する調査目的で他の被験者たちは予め「私もやったが、楽しい作業だったよ」と(フェスティンガーが用意した実験協力者である)偽の経験者から言われてやった、との情報を告げる。
 後に大学生たちの一部には、フェスティンガーの同僚が大学当局による外部調査を装って「実験は楽しかったか。非常に楽しかった、から非常に詰まらなかったまで十段階評価で回答して欲しい」と質問調査を行った。
 残りの大学生たちには、実験の続きの被験者たちに「楽しい作業だった」と告げる実験協力者が足りないから協力してほしいと要請した。
 協力した大学生たちには報酬として1ドルか20ドルの報酬が与えられた。実験協力者になった大学生たちにも、その後に外部調査を装った質問調査を行った。
 結果、実験協力を要請されなかった大学生たちは1以下つまり「非常につまらかった」、実験協力者をして20ドル貰った大学生たちは4~5「楽しくも退屈でもない」、そして1ドル貰った大学生たちは6~7「やや楽しい」と回答した。

 機械的単純作業をしただけの人は当然「つまらない」という認知をそのまま持つ。
 しかし、作業後に「つまらない」と思いながら「楽しかった」と言わなければならなかった人の場合には、認知的不協和が生じ、それを解決しようとする。
 20ドルを貰った場合、「つまらない」作業を「楽しかった」と言うことの不協和を20ドルが解消してくれる(不快感を補う金をもらった)。
 対して1ドルしかもらえない場合、不快感を補う金がないので、「本当は楽しかったのだ」と認知を修正することで不協和を解消した。

③分配と交換/働くこと(労働)と価値
 労働はそれが生み出すものの価値とどのように関係づけられてきたか。言い換えると、労働と生産物との関係はどのように正当化されてきたのか。
 古代、初めて倫理学を独立に立てたアリストテレスにとって経済は倫理の一分野であり、人間の理想的な生を可能とする場所であるポリス共同体を秩序付ける倫理思想だった。
 そこで、共有財産や地位などは幾何学的比例(人の価値とものの比例)に分配する分配的正義、私的取引契約などを算術的比例(等価交換)により公正にする是正的正義、両者をつないで交易関係を維持する応報的正義の三つが考案された。
 人格価値の比例関係(幾何学的比例)の上で等価交換(算術的比例)を指示する応報的正義は、奴隷制度が支えるために市民において所産と労働とが結びつかない社会維持の倫理であり、生産コストといった観点もなく、市場の需給関係は正義の秩序撹乱要因とされた。
 中世、局所的商業と遠距離商業が栄えヨーロッパに国際貿易圏が成立した時代、都市に活動した托鉢修道会士にしてスコラ学の大成者トマス・アクウィナスは静的な階層社会と勃興する商業社会との間で究極的な幸福を導くための経済思想をアリストテレスの上に考察した。
 トマスはアリストテレスと同様に共同体全体の利益や共通善を重視した目的指向の経済思想を持ったが、アリストテレスが人格的価値による比例関係を前提とした交易社会を描いたのとは異なり、生産されたもの・労力による比例を前提とした交換的正義による社会―労力と材料費は通貨によって公正価格に表されて正しい交換が可能になる社会―を考えた。
 ただし、商業社会の要請から節度ある利益まで認めることで、当事者の合意があれば正当な価格としたローマ法的伝統と教会法との妥協を見出し、キリスト教会の教義と托鉢修道会が対象とした都市民の対立する要請に応えた。
 つまりトマスは、身分階層社会の人間から均質な労働力としての人間、労働と財貨を正義による結びつけ、分配的正義から交換的正義などの商業社会が必要とした倫理、を結果として教会社会から表した。
 トマスの公正価格はヴェーバーの『プロ倫』でお馴染みのルターにも引き継がれ、需給関係による価格付けを否定しながらも、商業社会を消極的に肯定し(フッガー家が鉱山所有と高利貸しでヨーロッパの各王家をしのぐ財力をもった状況からそうする他なく)、さらに神との直接対峙を打ち出したプロテスタンティズムが産業社会に適応的な個人概念の成立に寄与した。
 近代、目的論的な倫理・宗教思想の経済思想から離れた経済社会の分析的で実用的な経済学が誕生し、共通善が退き交換的正義の理論が前面化することで、物的・人的資源の効率的運用による労働と生産物の関係正当化が表れる。
 アダム・スミスは利己的な経済的主体が商業社会を自立的に成立させるための自然なメカニズムとして交換的正義の原理を記述し、分配的正義は政治の分野の問題として経済分析とは切り離した。そして、交換的正義原理の分析において、労働(投下労働量)はそれ自身ではなんらの価値的性格を持たないが、物的な富の源泉であるとの分析から生産物の価値をはかる尺度として用いられた。スミスは、トマスの公正価格に類似した自然価格という概念も持つが、分析としてではなく社会政策的な判断として規範性が弱いものだった。
 スミスの投下労働による生産物の価値(価格)の説明を定式化したデヴィット・リカードは、スミスが生産段階の投下労働量に無関心であったのと異なり、土地所有者・資本所有者・労働者の間の地代・利潤・賃金という異なる生産物の分配法則決定の不変の統一的価値尺度として労働量を用いるために生産段階で「生産の難易」と呼ばれる労働量の多寡に着目した。
 つまり、生産物それ自体に、価格変動に影響されない、交換価値とは区別された(交換や価格とは関係なく)、投下労働量によって生産された不変の絶対価値があると考えた。
 リカードの絶対価値という考えは、当然にベイリーなどの経験主義から批判される。
 労働量による生産物の価値という思想を引き継いだマルクスは、社会的な必要労働時間と抽象化することで批判を免れて労働価値論を継承しようとした。
 しかし、労働量による価値が交換過程によって表されるという批判は解決されずに、マルクスにおいて労働と価値との結びつきは定義(抽象化された労働が抽象化された商品と根拠無く同一視される)として表されただけで、労働量と商品価値との定量的な関係は説明されなかった。
 こうして、分配を考える倫理としての経済から交換の効率と正当性を考える科学としての経済へと経済思想は変化し、同時に、個人が働くこと(労働)とその生産物との結びつきは正当化・強化されていったが、生み出したものの価値と労働(量)の関連は交換によって分かたれていった。
 
④労働の意義/働くこと(労働)の正義
 冒頭に掲げたアレントと創世記の記述からも分かるように、労働はギリシア的価値、ユダヤ・キリスト教的価値観からすれば苦痛であり、可能ならば免れたい行いだった。
 そこに、生きていくための必要という以上の意義は見出せない。
 そのような単なる労苦としての労働に対して、働くこと(労働)に意義を与え、近代の労働者の思想的に一貫した基盤を与えた(出発点)のがルターやカルヴァンなどのプロテスタンティズムなのではないかとしたのがマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 ヴェーバーは顕著な経済発展発達のある地域で豊かな市民的中産階級がカトリックよりも徹底した支配を行おうとするプロテスタントに従おうとしたこと、その特有の経済合理性に着目し、経済発展と信仰の間に親和性があるのではないかと考えた。
 単に貪欲というならば歴史的に珍しくはないし、合理的な私法制であるローマ法の発展地域や合理主義哲学の発展地域、個人の自由な利益の重視した地域とも経済発展は有意な結びきを見せない。
 かつて経済発展していた組織や経営形態を見てみても、企業家たちが労働者から最大限の労働を引き出そうと賃金を上げれば労働者は生活に十分なだけ労働して休んでしまい、逆に下げれば、やる気をなくし習熟せずに生産が落ちてしまうという伝統主義的合理主義の悠長さを脱せていなかった。
 なにより、経済発展や蓄財はお目こぼし的に承認されていたのであって、“自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務”であり“これに違反することは愚鈍というだけではなく、一種の義務忘却”だとする倫理(エートス)に支えられていなかった。この倫理―ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」に象徴される倫理―禁欲的で自己目的な労働と資本増殖の積極的正当化こそが近代資本主義に特徴的であって、伝統的な産業にはなかったものだとヴェーバー考え、これを「資本主義の精神」と名づける。
 ヴェーバーはこのような労働と利潤を正当化し近代資本主義を可能にした最初の思想が聖書をドイツ語に訳したときにルターの用いた「天職(Beruf)」だとする。
 そして、カトリックのように聖俗に高低をつけずに、むしろカトリック修道院のような世俗から利己的逃避せずに各人が生活する地位から生じる世俗的義務を遂行することこそが神から与えられた「召命(Beruf)」に他ならないとしたルターの思想を、カルヴィニズムなどのプロテスタント諸信団が定式化し一層の正当化を可能にしたと述べた。
 特にカルヴィニズムと洗礼派が重要な役割を果たしたと考えた。
 予め救われる人間とない人間は神により決められており、人間の活動はもちろん牧師の典礼によっても変えることができないというカルヴィニズムの予定説は、信徒に深い孤立化・個人的内面化を求めることになる。カルヴァンにとって職業労働はただ神の栄光を増すための行いではあり、それによって予定に影響することも、隣人愛のような人格的要素を認めることもなかったが、信徒とそれを束ねる牧会の必要から労働・労働の成果による「救いの確かさ」「救いの確証」をカルヴィニズムは認めるようになった。これは世俗生活へ積極的な刺激を与えた。自己の救いを賭けた生活では相応しい規範を必要とし、旧約がこれに重要な役割を果たし、その合理主義的性格が生活態度の組織化を促した。
 洗礼派とその流れをくむクエーカーなどの諸派は、教会などの集団制度や典礼を排し、個人化と脱呪術化を進めた。個人の理性と良心の重視は非政治的な職業生活での世俗的禁欲へと信徒を結びつかせた。
 こうして、積極的義務としての労働と生活の合理化・組織化を自発的におこなう個人達がプロテスタンティズムによって作り出されると、合理的で組織化された労働者となり、富を生み、しかも目的は富ではなく労働でありので、富は必然的に蓄積され、現世的享楽に費やすことは戒められ、さらなる労働のために投資されるという循環が起こった。
 これがヴェーバーの考えたルターに始まる宗教改革の資本主義への影響であり、労働の正当化過程。
 ヴェーバーも指摘しているように、ルターの思想自体は積極的な世俗的職業と利潤の肯定ではない。腐敗したカトリックの評価切り下げの反面として聖職と同等化された世俗的地位への順応と適応を述べたに止まり、むしろ所与の地位を「召命」とする点で中世の神秘主義的な思想に近く、独創的は薄い。また、「職業=召命=天職(Beruf)」という言葉もすでにフランス語訳聖書において同様の意味を持つ言葉が存在していたことが指摘されている。
 また、カルヴィニズムについてもヴェーバーが述べているように当のカルヴァン自身の思想から変化され継承されている。
 したがって、ヴェーバーの『プロ倫』が説いた「資本主義の精神」とは、同書が引用した『ウエストミンスター信仰告白』やリチャード・バックスターの17世紀イギリスやベンジャミン・フランクリンの18世紀アメリカにおけるプロテスタントが背景とした経済倫理だと考えるのが妥当。
 では、イギリスやイギリスにルーツを持つフランクリンの活躍したニューイングランド、そこから発展していったアメリカにおいて、「資本主義の精神」は労働を祝福し正当化することに成功していたのか。(※)
 結果を見れば、それは成功したとも言えるし失敗したとも言える。
 ヴェーバーが資本主義の精神として引いたフランクリンは確かに「時は金なり」と言い、修道院のようなスケージュールを自分に課したような記録を残している。しかし、実際の生活でのフランクリンは規則正しく勤勉であるよりも、そうみせかけることに情熱を注ぎ、「空気浴」と称する健康法を好み、ジョン・アダムスを呆れさせた。つまり、本人すら自分の表現したようなエートスに対してアイロニカルな姿勢を保っていた。
 フランクリンの生きた18世紀は農業・産業革命によって社会における労働のあり方が激変した時代だった。
 植民地アメリカへは17世紀からイギリスの若年失業者や孤児たちが農業労働者として送り込まれ、年季奉公の過酷な労働を強制されていた。そこは、旧来の農作業のような牧歌的な労働から、機械化され効率を追求する労働への変化の舞台。職務怠慢を罰するための法律も各地で制定された。
 当然労働者たちは組合を結成し、ストや暴動や怠業によって工場経営者に反抗した。
 19世紀を通じて、警官隊による鎮圧でストや暴動側に多くの死者が出、同時に経営者側は労働報奨制度と規律訓練によって、徐々に労働者の労働管理権を失わせていった。
 20世紀にはいると、産業社会の生産した商品を購入する、消費社会も始まり、労働の主体がブルーカラーからホワイトカラー・サーヴィス業へと移行し、中産階級と言われる人々も現れる。
 20世紀初頭の経済の乱高下によって、アメリカ中を失業者が仕事を求めて移動する(仕事があるだけありがたい)時代を経て、大戦による雇用の安定化、そして戦後の虚脱感。
 この激動の時代を経て、アメリカで労働はフランクリン流の労働の意義(正当化)から、労働の喜び(正しいか否かより、遊びのような喜びを感じるか)というフランクリンも思いつかなかった場所へと行き着く。
 象徴的なのが「ティーンエイジャー」の出現。思春期を迎える年齢には労働者となっていた子供たちが、かつてないほど長期に渡り労働から離され、消費する主体として労働(生産)側へ影響を与えるようになった(無産者が生産に影響力)こと。
 喜びとしての労働はフランクリンも予想外の労働の大成功とも言えるが、労働と遊びの区別が曖昧化し、労働・生産という側面を腐敗させる(面白くないからやらない)という側面を不可避に伴う点で失敗だともいえる。
 20世紀後半のリースマン(『孤独な群集』)やミルズ(『ホワイトカラー』)といった組織人や会社人間への批判は、労働を喜びの源泉として意義を認めるがゆえに労働(の機械化、窮屈な現状)を批判した、失敗と成功の両方を示したものと言える。
 この捩れは深化して続き、20世紀末から現在、その捩れは新しい段階へと進もうとしている。


続き→パンがないなら、死ねばいいのに 後編
[PR]
by sleepless_night | 2007-03-17 13:01 | 自殺

自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるために

 
自分の命/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き

(10)所有と決定
 (8)②で紹介した小松美彦さんの議論でも述べたように、自己決定権はパターナリズムへの異議や弱者の権利奪還としてここ数十年に現れた話であり、自己決定権の(暗黙・無意識化されるほどに当然視される)基礎である自己所有権の発想が正面に押し出されるようになったのは(7)②で述べたようなミルら啓蒙思想家の出現によってである。
 (8)①で述べたように(自己所有を含む)所有の概念は通歴史的であるとしても、近代の自己所有概念はそれ以前のものと比較して、外部からの侵略への抵抗意識であると同時に新しい社会の非関与を通じた介入戦略の道具でもある点で特徴的な変化があったと考えられる。
 つまり、「私のもとにあるもの・作ったものは私のものだ」という所有概念は、封建的権力からの恣意的侵略への抵抗を強く正当化すると同時に、新しい経済・社会では、個人の所有意識に訴えかけることで市場の活性化・増大に自発的に寄与させる生き方へと導くことに成功した。私は私の所有者として、私自身を価値あるものにするために教育し訓練し、失敗すれば自分のものとして自分を処分する(放置される)。
 このように、自己所有権は抵抗や奪還としての意味合いと同時に介入と廃棄の可能性をも含む。
 自己決定権によって中絶や治療選択を主張した医療での弱者が、同じ自己決定でも自発的積極的安楽死に反対する矛盾は、この自己所有権の二面性にあるといえる。
 そこで、(死の)自己所有権に反対する小松美彦さんの異議や、自己所有権を認めずに自己決定権を認める立岩真也さんの議論が起きる。
 とすると、自己所有権への抵抗とは、自己所有権の介入と廃棄の可能性に対する抵抗だと言える。
 これを言い換えれば、人が在ること・他者が在ることよりも、自分(たち)が増大すること・自分のもとにあるものが奪われないことを大切だと感じるか否かという問題(自分の知らない場所の1000人を餓死から救うために、自分が新車を買うために貯めた金を寄付できるか?)だといえる。

(11)「在る私」から自己所有権/<他者>と≪他者≫の倫理
①第一にあるもの

 人(他者)が在ることが大切だ。私たちの社会にある感覚をもとに自己所有権を否定(解体)して自己決定権を認める立岩真也さんの主張は確かに理解できる。
 しかし、森村進さんが訴えかけた私自身の犯されがたい感覚(所有感)もある。
 どちらかが優越する、第一の原理であるというのではなく、もし社会や私たちに第一にあるものを記述するとしたら両者が対立しあう構造なのではないか。

②自己所有権の肯定
 他者(制御できない・しないもの)が快を、私たちが世界を生きることの享受に欠かせないものであるということと同時に、他者(制御できないもの)を制御することも生きるこの享受には欠かせない第一のものとしてある。
 立岩真也さんは「私の身体は私のもの」であるという認識を論理的に正当化できないことから、他者を介して自己決定を認める。
 しかし、立岩真也さんの設定した問いは「魂‐肉体」の二元論を前提にしないと成り立たないのではないか。
 私たちは存在するとは、肉体によって生まれなければならない。つまり、私とは身体であり、そのほかの物とは異なり私に問うためには私が肉体として存在しなければならない。
 肉体によって生まれ・存在している私に「あなたの身体はなぜあなたのものなのか?」と問うことは、そもそも、私へ問いの回答を求めることから、身体によって存在している私を認めることにはならないか。
 肉体によって存在する私は「意識‐肉体」「脳‐肉体」「魂‐肉体」という二元的なあり方を認識する以前に「在る私」であって、その私に対する侵害に「私だ」と反応する。その反応こそが、森村進さんの訴えた通歴史的な所有意識と言い表せられると考える(他者をわざわざ介さなくとも「在る私」はある)。
 したがって、やはり自己所有権は肯定される。
 特に自己決定では「在る」という占有性を表すことができない。
 ただし、立岩真也さんが他者の承認によって自己所有権を解体して限定したように、「在る私」によっても自己所有権の限定はされる(特に、自己所有権の延長から正当化する所有権について。また、自己所有権の介入と放置の危険性を防ぐためにも)。

③<他者>と≪他者≫の倫理
 私が私にとって他者である場合を<他者>、他の人やものの場合を≪他者≫とする。
 ≪他者≫の制御はもちろん、<他者>の制御でさえしつくすことは不可能なのではないか。
 私たちは生まれようとして生まれたのではない。私であろうとしたから私であるのではない。つまり、私が在ること自体ですでに<他者>は否定できない事実としてある。
  
 倫理と道徳は、ethicsとmoralsにあてられる。
 英語はどちらも、ギリシア語(とそのラテン語訳)に由来し、慣習や習俗の意味と、慣習や習俗の大本にあるべき目的(善・真理)の探求の意味がある。
 アリストテレスのような国家観から離れて、人間の生きるべき真理と単純化するならば、後者は慣習や習俗と敵対する場合もある(倫理をたんなる共生の作法であり、歴史的文化的な相対的規則だと考えるのか、そうではなく永遠普遍の人間が従うべき・目指すべき目的や法則だと考えるのかという対立、最低の倫理と最高の倫理の対立とも言える。勿論、この問いは倫理とは何かという疑問であり、確固とした答えはない。実践哲学としてはじめて倫理学を独立させたアリストテレスならば、理想的な人間の生が国家と不可欠に結びついている国家観から、両者は敵対しない)。
 その意味からすれば、<他者>との関係で問題になる倫理(私の生き方)と≪他者≫との関係で問題になる倫理(世界のあり方)が対立しうることと重なる。
 それは、(10)で述べた私の所有増大と他者の生存との対立とも重なりうる。

(12)自殺の倫理的評価/所有による存在の危機
“今日の西洋社会において、自殺は、自ら手を下した意識的行為によってもたらされた死とされる。その行為は、死ぬことが最良の解決法と認識された出来事に直面し、窮地を脱することを願った人物の、多くの次元をもった苦痛によってもたらされる、と考えるともっとも理解しやすい”
 E・S・シュナイドマン(UCLA名誉教授)の自殺定義から考えて、自殺はどう評価するべきなのか。
 まず、倫理を生きている人間の倫理と考えれば、自殺に積極的な評価を与えることはできない。自殺することに積極的評価を与えれば、倫理の適応する場がなくなってしまう(もちろん、死後の生といった宗教の裏づけあればそうはいえないが)。
 それを踏まえて、上述した自己所有権の観点から、シュナイドマンの定義する自殺を倫理的に承認することはできる。
 承認せざるを得ない。
 ただし、自己所有権を「在る私」によって肯定したことからの制限がつく。
 その制限とは、“多くの次元をもった苦痛”がいかなる苦痛なのかによる。
 その点に関して、所有・生産の意味づけが存在を危機においやる現状、過労自殺と労働の正義を述べた上で示す。
 これは結局、(10)(11)で述べてきた対立、命の尊厳とは何か?生命はなぜ尊厳あるとされるのか?所有し生産できなければ死ぬことを持って人間の尊厳とするのか、人間の存在そのものに尊厳を認めるのかという問いを考えることにつながる。(生命倫理でのsanctity of lifeは特定の要素に還元することのできない無限の価値を認めることなので、所有・生産すること、達成できることをもって尊厳とするという言い方は妥当ではない。ここでは、この社会で私たちは人間の尊厳とはなにであると認めているのかを問いたいので、あえて生命倫理学からは不適切な用法を使う。sanctityも言葉の定義としてquality やconditionと切り離すことができないことを考えれば、holinessから外れるもののひとまず許容されるのではないかと考える。)


参照)
森村進著 『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)
     『財産権の理論』(弘文堂)
小松美彦著『死は共鳴する』(勁草書房) 
     「私が脳死移植に断固反対する理由」
      http://www.videonews.com/on-demand/281290/000904.php
  SOLの立場、人間が在るということに尊厳を認め、功利的な脳死移植議論を批判
立岩真也著『私的所有論』(勁草書房)
     「死の決定について」(ナカニシヤ出版『所有のエチカ』)
 (11)②で述べた立岩さんの『私的所有論』への疑問は、存在論と認知論という大テーマを擬した怪しい内容だと自認する。しかし、どうしても「他者」を介した自己決定には違和感があった。20年近くの蓄積が成した徹底した立岩さんの思索のそこだけは納得がいかず、“禁じ手”を認めることができなかった。だから、その手を使わずに同じような結論、自己決定を認めるが条件を問題にする、という順当な結論を導けるのではないかと考えた。それが成功している(納得させることができる)とはまったく思えないが、今の時点ではこの程度が限界だと記録する。
 
追記:倫理の現れる場としての身体)
 他者があるということは、他者に対する私がなくてはならない。
 したがって、(11)①②でのべたように、第一にあるのは一つの原理ではなく、一つの対立構造、つまり、他者の享受と制御の対立であると考える。
 “光あれ”と言う様に、神の意志は瞬間に実現する、全能であるのだから時間的なズレはないし、摩擦もない。
 だが人間はちがう。思い通りになるはずもない≪他者≫との関係も、<他者>との関係もズレと摩擦の連続だといえる。
 しかし、このズレと摩擦の存在こそが人間に倫理を問うのではないだろうか。
 神は存在自体に倫理があるが、人間は自由意志によって善悪を実現する。
 そして、その善悪の可能性、ズレと摩擦という倫理が現れる場所が、なんらの関与も貢献も無く、都合も一顧だにされずに自分だとされる身体である。
 立岩真也さんの述べたとおり、これは事実であって、私が自由にしてよいという規範ではない。
 しかし、この自分という身体に正当性を認める、排他的に自らのものとすることを他人にも認めさせるということがなければ、倫理はどこに現れればよいのだろう。
 「魂‐肉体」のような二元論によって、肉体なく存在できる倫理的主体を想定しなければならなくなる。
 私はそれこそ認めることはできないと考える。生きた人間の倫理なら、その手はまさに“禁じ手”だ。
 初期割り当て以前を考えることはできない。「在る私」が他のものに出会い・侵害される時の抵抗を所有という通歴史的な概念で認めるほか無い。
 その上で、自己所有に関する近代の戦略がもたらす廃棄や介入の照準を散らす道を考える。
 残された道はそれほど多岐なものではない。
 選んだ道が、人間の尊厳とは何かという問いの答えになるだろう。

さらに追記)
 sanctityの問題。 dignity無しにsanctityはあるのだろうか? 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-12-26 21:51 | 自殺

自分の命/自殺という過酷な自由を考えるために

 “フィル、アンリ、ジョルジュの三人が遭難して山小屋にたどり着く。食べ物はなにひとつとしてない。空腹感が募ってくる。
 フィルの片脚は凍傷にかかっていた感覚がない。初めにその計画を思いついたのはアンリだった。ジョルジュは一応反対はしたけれど背に腹は替えられない。
 「三人で食べるんだからいいじゃないか」
 中略。その片脚が尽きてしまうと、なまじ肉を食べたあとだけにさらに空腹感は激しくなる。フィルのもう一本の脚も感覚をなくしているんじゃあるまいか。
 中略。ある日、ついにアンリとジョルジュは決心する。またしてもフィルが眠っているときに、ナイフを取り片脚にかかった毛布をめくって…だが…。
 「糞ッ」
 二人の口からくやしそうな叫び声が漏れた。
 なんと、二本目の足はほとんどなくなっていた。フィルが一人で食べてしまったのだ。”
        『恐怖コレクション』阿刀田高著(新潮文庫)より
     
 “あなたの価値は、「葬儀費用+慰謝料+遺失利益[(自殺前一年間の年収)×(1-生活費控除率)×(67歳-現在の年齢に対応する中間控除率)]+弁護士費用-過失相殺」だ。これがこの貨幣経済を前提とした社会で計算可能なあなたの「価値」だ。”
 “生きていても自分でコントロールできることは、きっと驚くほど少ないだろう。ならば、自殺するその瞬間くらい、自分の命を自分でコントロールできる程度の知識はもっているべきだ。”    『自殺のコスト』雨宮処凛著(大田出版)

      
              *

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義 続編死を選ぶ権利/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き

(7)自己所有/自殺で問われる底の思想
①自分の体は自分のものではない

 “その御手に万物を所有したもう方を讃えよ。おまえたちは、そのみもとにこそ帰される。” 
    『コーラン』藤本勝次 伴康哉 池田修 訳(中央公論社)

 クルァーンの記述からもわかるように、イスラームでは人間に自身の所有を認めない。
 正確に言えば、この世にあるもの・生きるものは唯一絶対の神アッラーのものであり、人間が自分たちの判断でものとして勝手に処分することは許されない(ピーター・シンガーの主張する動物の権利、人間の恩恵としてのものではない権利、という点ではイスラームの思想は偽装された人間中心主義よりも主張する内容に即したものだと言える)。
 イスラームほど明確に表現されない(聖書に記述がない)が、キリスト教(カトリック)でも同様に人間が自分の判断で処分することは許されていない。
 日本では“身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷せざるは、孝の始めなり”という『孝経』のフレーズに代表されるような自分の血脈による所属意識から、自分のものとして処分することを否定する発想がある。
 もちろん、『孝経』は日本の書物ではないので、アニミスティックな意識の表現として借用されてきたと捉えるのが相当だと考えられる。
 「自分の体・命は自分のものなのに」といった自殺肯定をした際に返される決まり文句「体・命は自分のものではない」という際に想定される(発言者が自分の発言の歴史的正当性を)裏づけは『孝経』にあると推測しても外れてはいないと思える。

②自分の体は自分のもの
 “大地と人間以下のすべての被造物はすべて人々の共有物であるが、しかしすべての人間は、自分自身の身体に対する所有権をもっている。これに対しては、本人以外のだれもどんな権利ももっていない。”
        『統治論』J・S・ミル著 宮川透訳(中央公論社)

 宗教からの主張を基本とする①の立場とは反対に、自分の体・命は自分のものであると考える立場。今日の常識的な立場であり、自明の前提となって、現代社会を支えているのがこの自己所有権という考え。

 以下、自己所有権を擁護する森村進(一ツ橋大教授・法哲学)さんの論述を用いて整理すると。
 “自分の身体への所有権”を狭義の自己所有権とよび、この権利は干渉されない道徳敵領域としての身体を守り、社会的な諸々の権利の起点となると考えられる。
 自己所有権を否定する立場への反論であり、肯定する自説の根拠として哲学者ジョン・ハリスの思考実験「生存のくじ」を援用する。
 「生存のくじ」とは臓器移植が発達した未来に健康な全員を対象にくじを設置し、くじに当たった人から強制的に臓器を摘出し病人(ただし、不養生ゆえの病人は除く)に移植することで、一人の命の代わりに複数の命を救うことができるようになる・全体としての生存権を拡大できる、という功利主義の発想。
 くじの当選者の理不尽さは病人が病気に罹る理不尽さと同じであり、臓器移植の受益者から外れることを避けるために人々は自己の健康を気遣うようになる。社会全体としての利益を考えたとき「生存のくじ」導入は望ましいものとなるし、平等主義の視点からも肯定される。
 この思考実験に反論する最も説得的な理論は自己所有権(自己所有権テーゼ)にある。
 現代社会で最有力な倫理思想のひとつである功利主義に立ったときに「生存のくじ」がいかに肯定されようとも、わたしたちはこれを直感的に拒否するだろう。
 “われわれが自己所有権テーゼを全面的に廃棄して自分の身体や能力や資質を共有財産とみなすことは論理的には想像できる。しかしそれは実際的に不可能である。自己所有権テーゼはそれほど吹く核人間心理に根をおろしているものだから。そのテーゼを認めないような道徳を強調しようとする試みは、よくて無駄であり、悪ければ人々の協力関係を損なってしまうであろう。”
 自己所有権、自分の体を自分の所有とする考えが、功利主義では正当化しきれず、さらに自分がなんら努力せずに手に入れているものであるにもかかわらず個人差が大きいことから恣意的で不公正な権利だと言われても、それ以上遡りえない直感に支えられた思想だと言える。
  また、仮に自己所有権を否定してしまえば、善意による臓器提供(献血を含む)もできなくなる(現に善意の提供が認められているということは、自己所有が前提とされていると言える)。
 “所有権テーゼは議論の相手が現に持っている信念に訴えかけることによって正当化できる”。

(8)所有の意味と死からの問い
①所有の意味

 所有の意味を確定させずに、「自分の体を所有する、自分の体を処分できる」と上述してきましたが、ここで「所有」の意味をおさえておきます。
 民法206条は「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分する権利を有する」と定めてる。
 つまり、「使用・収益・処分」が所有の基本にあると民法は考えているといえる。
 ただし、206条の文言上にはない、前提の条件が二つある。
 ひとつはそれが法律であることから、他者(社会)の承認があること、もうひとつは所有権が物権であることから排他性をもつこと。
 整理すると、「所有」には「使用・収益・処分」「排他性」「他者の承認」の三つが必要だと考えらる。
 このような「所有」権は法律的・近代的な概念であり、日常的・歴史的にいう「所有」とは異なるとの反論があるが、森村進さんはトニー・オレノの分析を用いて、二つは完全に一致することはないが、核心としては一致しており、通歴史的であると述べる。
 オレノは時代場所を通じて共通する要素として占有・使用・管理・収益・資本・安全・相続の権利、加害防止義務・強制執行の責任財産などだと分析し、森村進さんはこのうち占有・使用・安全への権利が「所有」権の核心的要素であり、「所有」を表す動詞がなくとも、国家による制度的保障がなくとも、成立する普遍性を有する日常的な正義感覚が法的な所有権にも重要な役割を果たしていると述べている。
 これは、民法から整理した三つの要素とも合致する。
 上記のような「所有」の意味からすれば、自己所有(自分の体・命は自分のものだ、自分は自分の命の所有者である)は「所有」で表すことが認められる。
 対して、二つの異議があげられる。
 まず、自分の命を「所有」するとしても処分(売る)することは完全にはできないのではないかという点。
 しかし、この不完全性からの異議を認めると自己所有以外にも「所有」できないものが現れる。たとえば、土地や治水は完全に「処分」することは物理的に不可能である。
 もうひとつには、「所有」には上記の三つの要件以外にも隠れた要件、「所有」する主体は「所有」する客体の外部になくてはならない、という点から。
 たしかに、右手は右手自身を把持することはできない。つまり、物理的に「持つ」ことができない。
 しかし、「所有」とは上述したように物理的に実現している必要はない。むしろ、物理的に実現していないにもかかわらず「収益・処分」ができたり、安全への権利が確保されている点に「所有」権の権利性はあるともいえる。
 したがって、物理的な不現実性を理由とする異議は認められない。
 
 確認しておくと、
 私たちは自分の体・命を占有しており「使用・収益・処分」している(例:体・命を働かせて利益を得て、その利益を自分の体・命に帰属させている)。
 私たちは、「生存のくじ」でみたように自分の体・命に関して「排他性」の要求を持つ。
 私たちは、上記二つのことを他者へ、または社会へ認めさせている。
 よって、私たちは、自分の体・命を「所有」している、自己所有権を有すると言える。

②死から生の「所有」への問い
 “生命や死が当然のごとく「所有格つきの生命・死」として語られるところに、生命や死に対するわれわれのある種の把握のしかたが隠されているのではないか。そしてそれこそが「死の自己決定権」という思想の不動性の謎を解く鍵なのかもしれない。”
 小松美彦(東京海洋大教授・科学史・生命倫理)さんは、死の側から自己所有への疑問を呈します。
 脳死移植法によって移植の場合に脳死を死とすることが選択できること、脳死を死と認めることへの反論が「死の自己決定」という擁護推進側の主張に不思議と歯が立たないのはなぜか。
 その源を探る中で小松美彦さんは“死の死亡への還元”へと辿り着く。
 18世紀ころまで死は単なる個人の生理的変化の不可逆点ではなく、時間的にも現象的にも幅と広がりをもって存在していた。
 しかし「早すぎた埋葬」(まだ生きているのに死んだと誤認されて埋葬される)の恐怖が医学を死の判定の厳密化・探求へと駆り立てた。結果、死が死にゆく個人の体内の生理現象に求められ、得られた死の医学的判定基準が、それまであった死と溶け合い不可分だった逝く者と看取る者達との間の時間や関係を消却してしまった。
 “死者と看取る者との関係のもとに成立する非知覚的な差異化的統一態”である死が“ある一定の状態、ないしある状態からある状態への移行過程を指す知覚的なもの”である死亡へと還元されてしまい、「共鳴する死」が「個人閉塞した死」へと、死者と周囲の人々との「こと」だった死が死者個人内の「もの」であると認識されるようになった。
 1960年代に医療のパターナリズムを批判し、患者個人の権利を奪還するための旗印として持ち出された「自己決定」という概念は、現代医療自体の設定した知的枠組みに基づくものであり、自らの立つ場の批判へ繋がることから根底的な批判とはなりえていない。
 逆に、生命を自分の「もの」とした前提の「自己決定」は、死(そして生)を無人称化し、平板な貧しい状態へと導いてしまう。 

③所有できない「こと」の内在性 
 死が「こと」である(あった)のに、個人の体内での生理現象である死亡へと還元され、あたかも「もの」のような所有対象となったことへの小松美彦さんの疑問。
 確かに「もの」ではないが、「こと」が個人の体内にあることは否定できない。
 共鳴する「こと」に豊かさはあるかもしれないが、だからといって共鳴性(共同性)が死者個人内で生じている生理現象(「こと」)に対して、当の個人に起きる「こと」を優越する根拠とはなりえないと考える。
 つまり、関係性を所有することはできないが、かといって、一方の当事者内の生理現象をきっかけとしている関係において、その関係の優越を理由に当人に主張することは本末転倒させることになり、(8)①で述べた自己所有概念を覆すことはできない。

(9)抵抗と抵抗/快を巡る争い
①快からの抵抗

 “生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんどすべてが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえるご都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立たせるような感覚があるはずである。”
 (8)①で述べたように所分権は所有権の内容を占める重要な要素であることを考えれば、自己所有を認めることは自己決定の基礎であり、内容的には同じことである。
 とすると、自己所有を認める、それが私たちの社会の第一の原理となる考えだとするならば、売春や臓器売買や積極的安楽死などに反対することはできない(それを拒む最終的な正当性がない)。
 私は私の体で労働し、利益を得、生活をしている。身体・生命をどう生きるか決定することで生きている。
 なのに、臓器売買などの身体・生命にかかわる交換や売買には他者の場合でも抵抗感がある。
 所有とそれへの抵抗、この矛盾する二つを一貫させるものがあると考察を重ねた立岩真也(信州大学助教授・社会学)さんは“他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚”に求める。
 他者とは制御できないものであり、他の人間が他者であると同時に、私の生命・身体も私が生産したものでもない・思うままにならない他者である。
 それが第一原理であり、「私の体は私のものだ」という私的所有の発想は、私の身体が私のもとにあるという事実を規範と捉えた信仰にすぎない。
 そして、私の生命・身体については「他者をみとめる」観点から、自己決定を認められる。なぜなら、他者としての私は制御しないことで世界を享受する基盤だからであり、自分(意識)が身体・生命を所有(制御)するからではない。
 
②抵抗と抵抗
 ①で述べた立岩真也さんの考察、つまり、他者という快の源泉が第一としてなくてはならないという考察に対して、(7)②で挙げた森村進さんは“全世界が自分にとって制御可能になってしまったら快楽がなくなるというのは、杞憂の極みである”と反論し、自己所有権への反論として不十分だと退けます。
 この点について、立岩真也さんも、“禁じ手”を使っていることを同意し、その上で、身体所有権とそれに基づく自己決定ではすまない問題(抵抗の存在)があることを、「他者」という言葉を用いて表すほかなかったと述べている。
 つまり、森村進さんはジョン・ハリスの「生存くじ」への抵抗を軸にして人々の内面にある身体所有権の強固さを訴えたのに対して、立岩真也さんは「生存くじ」をもって身体所有の論理的正当性を放棄した上で身体処分への抵抗の存在を「他者」に求めている。両者は何に抵抗感を持つかという次元、これ以上は掘り下げられない場所で争っている(結局何に抵抗があるのか?という素朴な次元での争い)。
 
③存在による所有の分離
 ①で述べたように立岩真也さんも自己決定を認めている。ただ、それが自己所有権から直接にではないという点で森村進さんと異なり、その根拠の違いが結論でも違いを導くことになる。つまり、自己所有権から自己決定権を導けば基本的には排他的・独占的な処分ができるので臓器売買も売春も代理出産もできる(森村進さんは自己所有権を重視すると同時に多元的な価値基準を並存させることを認めるので、これらの無制限を認めてはいない。)のに対して、自己所有権からではなく「他者があること」から自己決定権を認める立岩真也さんの立場からは「自己決定だからよい」とは認められず、「他者があること」に反するような決定の承認はしない方向で制限がかかる(例:生活する金のために臓器を売る、代理出産する。治療費がないから治療を止める)。
 立岩さんの考えは、(8)①でのべた様々な要素の束としてあった所有権の考えからいえば、ひと纏まりだった所有権の要素をバラバラにしたうえで、存在することに必要な限度で認めていくものだと言える。

 続き→自分が決める命/自殺という過酷な自由を考えるために
[PR]
by sleepless_night | 2006-12-26 21:50 | 自殺

死を選ぶ権利/自殺という過酷な自由を考えるために



 “一体死を望んでいる者を、脅かして思いとどまらせるに足るような刑罰などありうるであろうか。”
     『自殺について』(岩波書店)ショウペンハウエル著 斉藤信治訳



     ***********************

 話を進める前に、自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義 続編の(3)で述べたE・S・シュナイドマンによる自殺の定義は以下の(4)~(5)③では適用できません。
 シュナイドマンの定義を繰り返しますと
 “今日の西洋社会において、自殺は、自ら手を下した意識的行為によってもたらされた死とされる。その行為は、死ぬことが最良の解決法と認識された出来事に直面し、窮地を脱することを願った人物の、多くの次元をもった苦痛によってもたらされる、と考えるともっとも理解しやすい”です。
 したがって、歴史的な問題を扱う以下の文章(4)②~(5)③までは、この定義を用いることができません。 
 そこで、社会的視点からなされた(3)④で述べたE・ディルケムの定義
“死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名付ける。”
 を用います。

 シュナイドマンの定義を用いることの有効性は、(5)④や自殺の倫理性を扱う項目で理解されると思います。

     ************************

(4)自殺と犯罪
①自殺と他殺の理不尽/「殺」とう言葉

 “199条 人を殺したものは、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。”
 人を殺す故意と行為、死と言う結果、その間に因果関係がある場合、それは殺人罪と言う犯罪であるとみなされて、裁判を受け、刑を科される。
 ただし、その殺害行為が“法令または正当な業務による”(35条)場合、“急迫不正の侵害に対して、自己または権利を防衛するため、やむをえず”した場合(36条)は違法性が無く、行為者が“心神喪失”(39条)の場合は責任を問えないために、犯罪として処罰しない。 
 この殺人に関する法律(を支える評価)のありかたは、規模を大きくしても当てはまる。
 つまり、侵略戦争は許されないが、自衛戦争は許される。
 侵略戦争に加担して人を殺せば、(敗戦後)犯罪者として裁かれるが、自衛戦争に参加して人を殺せば英雄となる。
 
 自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編で同じ行為なのに評価が極端に分かれる、宗教のために死ぬのは聖人で会社のために死ぬのは自殺者である、とするのは理不尽であると言う点から自殺の定義について話を進めました。
 しかし、他者の命を奪う行為であっても、それが為された状況によって極端な評価を与えられます。
 「殺」という行為は、自らであれ、他者であれ、理不尽さを含んでいます。

②犯罪としての自殺
 自殺もかつては単に貶められただけではなく犯罪として処罰されていました。

 ローマ法は自殺を禁じた上で、自殺者の財産相続を認めませんでした。
 そしてなんと言っても、迫害された宗教から保護された宗教へと転換した4世紀以降のキリスト教による自殺の禁止(犯罪化)がありました。
 これは聖アウグスチヌスの主張に主導されて5世紀から幾たびかの公会議を経て確立し、当然、この自殺禁止(犯罪化)は聖のみならず俗界をも支配する(刑法による処罰)ことになります。
 さらに、カトリックの司祭に認められた七つの秘蹟の一つ“病者の秘蹟”が8世紀ごろから現れたことも自殺禁止(犯罪化)に影響したと考えられます。
 死を迎えるまで生きていることが義務であると同時に、勝手に死ぬことが許されなくなったのです。
 
 ところで、自殺が犯罪だとしても、どのように罰するのか。
 自殺未遂を罰することはできても、自殺既遂をどうやって処罰したのか、という疑問があります。
 自殺既遂ということは死んでいるので、何とも仕様がないと思えますが、とりあえず二つの手段が存在しました。
 一つは、ローマ法と同様の財産没収。もう一つは、自殺死体の毀損です。
 具体的に幾つか挙げますと。
 (革命前の)フランス刑法では、財産没収の上で、死体を顔を下にして市中を引きずり回し、絞首刑台にさらした上で、下水かゴミ投棄所に捨てる侮辱刑が科されていました。
 ドイツの一部では自殺死体はたるに詰めて川に流され、イギリスでは自殺死体を杭に突き刺したり、馬で引きずり回すといった侮辱刑が科されていました(イギリスでは自殺未遂者を死刑にした時代もあります)。
 
 このような犯罪としての自殺は、革命後にフランスで刑法から削除されたのを初めとして、1813年のドイツ(バイエルン)、1931年のイタリアと非犯罪化が進み、1961年のイングランドとウェールズ、1993年のアイルランドを最後になくなりました。
 
(5)自殺する権利
①生きる義務への疑問/生の質への問い

 都市部(思想を生産する上流階級)での栄養状態の改善、寿命の上昇が影響してただ生きることへの疑問が16世紀ヨーロッパで生じ始めます(古代ギリシアでは状況や思想によっては自殺が選ばれるべき死とされていたので、まさにルネサンスであると言ってもよいでしょう)。
 『ユートピア』の著者トマス・モアやイギリスの哲学者フランシス・ベーコンなどは、医者の無力が苦痛を長引かせることから、積極的安楽死(不治の病で死期を早める医療行為)の発想を述べるようになります。
 イギリスの詩人ジョン・ダンは自殺の非犯罪化、自由化を訴える論文を著しました。
 ただし、プロテスタントの出現(プロテスタントの源流の一人マルティン・ルターも自殺を悪魔の所業と非難しています)によってカトリックの威信がゆらぎだした時代とはいえ、自殺を聖俗ともに犯罪とみなすことがオーソドックスであったために、ジョン・ダンの論文は彼の死後刊行されました。 
 さらに18世紀には、フランスの思想家モンテスキュー、ヴォルテール、イタリアの法学者ベッカリーアなどから、自殺死体への侮辱刑への批判、自殺自由化の主張も(匿名で。イギリスの哲学者ヒュームも“人間の生命は、大宇宙からみれば牡蠣ほどの価値しかない”と自殺を擁護した論文を死後発表したが、即時発禁にあった)なされるようになります。
 この背景には種痘などの予防医学の発展や衛生思想の普及による全般的な寿命の上昇、マルサスの『人口論』のような生きる人の過剰への不安まで出現するようにな時代変化があると考えられます。
 しかし、これら「お勉強のできる人」たちの批判や自殺自由化主張は「自殺=犯罪」という大勢の価値観を変えるにはそれほど力を持ちませんでした。

②変えたのは一つの恋だった
 “さあ、ロッテ、ぼくはためらうことなく冷たい死の杯をとって、死の陶酔を飲み干しましょう。あなたが差し出してくださったのだ、どうしてためらうことがるでしょう。僕の生涯の念願や期待はひとつ残らずすべて満たされたのです。ぼくがこんなに冷然と、こんなに頑固に死の鉄の扉をたたこうとしています。あなたのために死ぬという幸福に、あなたの生活の平穏と歓喜が再び帰ってくるというのならぼくはよろこび勇んで死んでゆくのです”

 ゲーテの代表作の一つ『若きウェルテルの悩み』は1774年に刊行されるとすぐさまヨーロッパ中を席巻し、主人公と同じ格好をして死ぬ「ウェルテル病」の罹患者が続出した。
 この大ブームが、犯罪とされていた自殺のタブー視へ大きな一撃を与え(カッコいい自殺が人々に受け入れられるようになった)、時代変化と相俟って1791年のフランス刑法から自殺を無くすることに繋がった。
 それからは、(4)②で述べたとおり、各国で徐々に自殺への刑事罰が廃止されるようになる。
 ちなみに、最後まで残ったイギリスは処罰根拠となる法が20年ほど前まで存続していたが、18・19世紀ごろから心神喪失であるとして大半の自殺を有罪にしなくなります。

③死を選ぶ権利の芽生え
 当初、モアやベーコンが想定したのは、自殺というよりも、安楽死の問題です。
 安楽死には、積極的安楽死(苦痛や本人にとって無意味な生を避けるために、死期を早める措置をとること)と消極的安楽死(積極的な延命措置を採らないこと)があります。(ちなみに、尊厳死とは文字通り尊厳を持った人間として死を迎えることで、価値中立的な安楽死と違って目指されるべき死のありかたを指す。)
 都市の富裕層の寿命長期化に伴って慢性病を患うこと(医学の未発達から治療も苦痛の緩和もできない)が増え、その苦痛に注目が集り、「生きる義務」に基づく「生のひきのばし」への疑問と怖れが積極的安楽死という発想を生み出したと考えられます。
 安楽死の問題は「ウェルテル病」による自殺非犯罪化の最後の一押しに先をこされます。
 安楽死の問題が一般にクローズアップされるようになったのは、医学(人体構造の解明や細菌学)の発展に伴って効果的な衛生措置や病院施設・手術技術、栄養状態の改善によってヨーロッパの寿命が急上昇を始めた19世紀~20世紀です。
 直ることが無いのに死に至るまで苦痛にさらされることが一般的な問題となったため、安楽死の問題は切実な問題として1930年ころから盛んに議論されるようになります。
 同時に、この苦痛を和らげるアヘンやモルヒネによる廃人化も、人間の尊厳と関係した問題となりました。
 1950年台には生体管理技術が発達して、いわゆる植物状態の人間の問題、1960年台には脳死の問題も加わるようになります。
 
④積極的安楽死/権利としての死 
 言うまでも無く、積極的安楽死は自殺概念に入ります。

 積極的安楽死、その最も極端な例、極端故に特徴と問題を抽出し易いとして例を二つ。
 ・ジャック・キヴォーキアン博士によるジュディス・カレンの例。
 病的肥満、うつ病、夫からの家庭内暴力、慢性疲労、免疫疾患、など長年にわたる苦痛から42歳のジュディス・カレンは「死の医師」と呼ばれるジャック・キヴォーキアン博士に自殺幇助を求め、処方された薬物の服飲によって死んだ。
 ・バウドワイン・シャボット医師によるネティ・ボームスマ(仮名)の例。
 アルコール中毒の夫からの家庭内暴力、長男の失恋による自殺、次男の交通事故死から自殺未遂。
 長男の死以降、自身も強い自殺念慮を持つが次男のために生きることにしたが次男も事故死したことで、自殺を決意。一度目は発見されてしまったために、確実性を期すためにオランダの安楽死法を利用して医師の幇助の下での死を選んだ。
  
 上記二つのうち、キヴォーキアンの例はシャボットの例と比べて不備な点が多い(事前の調査不足、ほかの専門家の不介入、制度的な保障がない)ので、シャボットの例をもう少し詳しく述べてから、自殺する権利の核心だと考える点について述べます。

 まず、シャボットの例で安楽死法と述べましたが、これは正確ではなくオランダでも安楽死と自殺幇助(前者が医者が薬物注入などの行為によって患者の自殺を実現すること、後者は医者の処方した薬を患者自らが服飲することで自殺すること)は共に刑法上の犯罪であって、事実として(先例として)為され続けてきた安楽死・自殺幇助の法的リスクから医者とそのような医者を必要とする患者を救うために、法律上犯罪に該当するが一定要件を満たせば告発されない仕組みがある程度整備され、安楽死・自殺幇助が実質上非犯罪化されているということです。
 オランダのこのような法整備のきっかけになったのは、1973年にトルース・ポストマ医師が脳溢血で半身不随になった母親の(ベットから頭から落ちて自殺を図った程)強い希望で薬物注入によって安楽死を実施した件。
 この件で、ポストマ医師がホームドクターをしていた人々が支持運動をし、これが現在、安楽死に関して中心的な組織であるオランダ自発的安楽死協会となる。同協会は安楽死・自殺幇助に関する情報提供、専門化の派遣、法整備運動、希望者に「安楽死パス」を発行し延命治療や意思疎通不能時の安楽死処置の有無の事前指示などについての情報表示とその旨の保存・関係者との共有を支援している(同協会だけが、このような活動・権限を持っているわけではない)。
 ポストマ医師の裁判は、懲役一週間・執行猶予一年という実質無罪となり、同時に判決で安楽死の許容条件が出されて。以降同様の裁判で法理と要件が整備され、同時にこの司法の判断を受けて医師会からも安楽死・自殺幇助の要件が整理され、後の裁判でこの要件が確立した。
 要件は5つ:
 「自由意志による自発的要請であること」
 「熟慮された要請であること」
 「持続性をもつ要請であること」
 「受容できない苦痛を伴うこと」
 「医師が同僚と相談した結果であること」
 要件に、不知の病であることは入っていない。また、「苦痛」は肉体的のみならず精神的なものも含む。医師が相談する「同僚」は医師だけでなく他の医療関係者や宗教者なども含む。
 安楽死・自殺幇助の実質非犯罪化を支える法理は、法を守らなくてはならない市民としての義務と患者にとって最善のケアをしなくてはならない医師の義務が非両立な場合に、一定要件を満たせば不可抗力であったとして犯罪には該当するが有罪とはならないとしたもの。
 これは、法的な言葉を使えば、構成要件には該当するが違法性がない(構成要件とは法律の条文が示す要件のこと。仮にこの要件を満たしても違法性がない場合がある。例えば、ちり紙を一枚盗めば、窃盗罪の構成要件に該当するが、法定刑から考えて想定されていたような違法性=利益の侵害がない。)ものとして処理した、いわば正当防衛と同じ(日本だと刑法35条職務行為による違法性阻却)です。

 1991年のシャボットの例で問題となったのは、ネティが肉体的にも精神的にも医学的には病気ではなかった、いわば健常者の安楽死実施の始めてのケースだったため、告発され(安楽死実施の後に医師は検視官を呼び、その報告が検察に行くことになっている。検察で安楽死・自殺幇助の違法性を審査する)裁判を受けることになった。
 結果、一審、二審ともに無罪、最高裁で有罪だが刑罰免除の判決。
 バウンドワイン医師は安楽死を実施するにあたって、ネティの医療記録をホームドクターから入手、本人との計二十四時間の面接、ネティの妹や親友、四人の精神科医と一人の心理療法士、一人の一般医師との相談の結果、ネティの意思の「持続性」を確認し、仮に安楽死を実施しなくとも早晩自殺をしてしまうと判断した。しかし、最高裁はバウンドワイン医師が相談した医師がネティに面接しなかったことを理由に要件(「同僚と相談」)を満たさないとし名目上の有罪判決を出し、精神的な苦痛の場合の判断をより慎重であるべきとの判断を表した。
 ただし、この最高裁判決(自殺幇助に関する初の最高裁判決)によって、精神的苦痛だけであっても、終末期でなくとも、安楽死・自殺幇助が認められることが確認された。
 鍵となるのは病気かどうかでもなく、本人の苦痛であることもはっきりした。

 2001年に上下両院を通過して成立したのは安楽死法(安楽死・自殺幇助の合法化)ではなく、1990年から医師会と検察との間で合意された安楽死・自殺幇助の報告制度を埋葬法に適用付記として追加立法したもの。
 したがって、実質的に変化は無い(刑法上は犯罪)。

⑤安楽死に関する日本の司法判断
 日本での安楽死に関するリーディング・ケースは1962年(昭和37年)の名古屋高裁判決。
 同判決は
 「現代医学で不治の病で、死期が目前に迫っていること」
 「被害者の苦痛が甚だしいこと」
 「安楽死行為が、死苦の緩和目的で為されたこと」
 「本人の真摯な嘱託または承諾があること」
 「原則として医師の手によること」
 「方法が社会通念上妥当であること」
 の6つを挙げて、一般論としての積極的安楽死を許容する(違法性阻却される)要件を表明している。
 以降この要件を基礎として、75年鹿児島地裁、神戸地裁、77年大阪地裁、90年高知地裁、95年横浜地裁(東海大安楽死事件)のいずれも、安楽死による違法性阻却を認めていない。
 
(6)自殺する権利で問われる底
 (4)①で殺人においても、自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編の(2)⑥で述べた自殺の理不尽と同じく、行為の同一性にもかかわらず両極端の評価が存在する理不尽さがあると述べました。
 しかし、他の人を殺すことの理不尽と自らを殺すことの理不尽には、一つの大きな違いがあります。
 殺すのが自分であるのが自殺であること。つまり、殺す(処分する)対象は他人の「もの」ではなく、自分の「もの」であることです。
 その理不尽さは(5)④で挙げた積極的安楽死の是非において用いられ、今日の理療倫理・生命倫理において最も力のある言葉“自己決定”を介して考えると明確になると思います。
 積極的安楽死全般、特にシャボットの例のような肉体的・精神的な病気ではない者が苦痛を逃れるために医師の力を借りる(当然、国の保険制度も利用することになります。オランダではホームドクターを利用すれば安楽死に保険適用されます)場合を支えるのは、“自己決定”であり、その基礎は「自分の体・命は、自分のもの」であるという考えです。
 自殺が非難される・否定される・貶められる場合に殺人とは異なる次元での理不尽さを感じるのは、この点にあると私は考えます。
 
 「自分の体・命は自分のものなのに、どうして、自由に殺す(処分する・扱う)ことが他人にどうこう言われなければならないのか?」
 「自分のものを自分の思い通りにして、どうして(倫理的な)悪とまで言われる理由があるのか?」

 ここで反射的に返ってくると予想されるのは
 「親兄弟・友人が悲しむ」「一人で生きていると思うな」「あなたの体・命は、あなたのものではない」などです。
 
 しかし、親兄弟・友人の感情を自分の苦しみに優越させる必要・義務があるのでしょうか?
 一人で生きているのではないからこその苦しみがある、一人で生きることができたら苦しまなくともよいことは少なくないのではないか?
 もっと言えば、親兄弟・家族・友人のために自殺するのならば良いのか?
 そもそも、体や命が「自分のもの」ではなかったら、だれの「もの」なのでしょうか?
 自分以外の誰かの「もの」だとしたら、髪を切る・整体を受ける・献血・手術をする、など自分の体・命の自己所有を前提とする自己決定に関してはどうのように考えるのでしょう?
 加えて、もし自分の体・命が「自分のもの」ではないとしたら、いったい何を「自分のもの」だと言うことができるのでしょう? 何かの物や権利を所有する自分は自分の体・命を離れることはできないのに、当の自分の体・命が「自分のもの」ではないとすると、どうやって他の物や権利を「自分のもの」と言うことができるでしょう?

 このようなことを述べると、“行き過ぎた個人主義”という台詞が反射的に飛び出すかもしれません。
 しかし、他人の「自分のもの」ではない体・命を「もの」扱いするのは、このような台詞を口にする人々です。
 自分の命・体(や財産)を守るために、他人の体・命を「もの」のように扱う(える)人々です。
 (例:強制的ヴォランティアの導入を唱え、自分が加わる行政への奉仕を「愛国」の名で口にして恥じないジバン・カンバン・カバンという「もの」を引き継いだ日本の超世襲議員。私有財産を禁じておいて自らは世襲権力の上に賄賂や別荘を持った共産主義国家指導者層。など)

 続けて、体・命の所有に関する問題について、議論と結論、それを踏まえた上での自殺の倫理的評価について述べます。→自分の命/自殺という過酷な自由を考えるために


参照)
(4)② 『早すぎる夜の訪れ』(新潮社)ケイ・ジャミソン著 亀井よし子訳
   ②③『生きる権利・死ぬ権利』(新潮選書)鯖田豊之著
   ④ 『自ら死を選ぶ権利』(徳間書店)ジャネット・あかね・シャボット著
     『生命の尊厳とは何か』(青土社)アーサー・カプラン著
[PR]
by sleepless_night | 2006-08-19 20:07 | 自殺

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義 続編

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編の続き

⑥病気としての自殺というアプローチ(※12)
“自ら意思で死を選ぶというよりも、心の病によっておのずから命を絶つ意外にないところまで追い込まれてしまうのだ、と考えられるようになりました。したがって、私たちは、自分の意思で命を絶つという考えに基づく「自殺」という言葉ではなく、本人は生きたかったのだけれど、病魔に犯されたがために、やむをえず、つまり、おのずから死なざるを得なかったおおくの人々を思い、「自死」という言葉を使うことにしました。” 

⑦本能としての自殺
 “本能とは生命ある有機体に内在する衝動であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。”
 “生物が、かつて捨て去った状態であり、しかも発展のあらゆる迂路を経てそれに復帰しようと努めるふるい出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという過程が許されるなら、われわれはただ、あらゆる生物の目標は死であるとしかえいない。また、ひるがえってみれば、無生物は生物以前に存在したとしかいえないのである。”
 精神分析学の創始者ジームクント・フロイトは、“不快を避け、快を生むような結論に進む”という快楽原理を中心と、心の性質を説明しました。
 しかし、反復強迫(過去の苦痛や悲しみを再現するような行動を繰り返し行うこと)という現象にあたり、快楽原則では説明がつかず、“快楽原則以上に根源的で、また独立しているような諸傾向”があるのではないかと考えました。
 生命において絶えず生じる不均衡を不快から快へとむかわせる“生の本能”である性本能の働きは、究極的な均衡状態である死に、結局は向かわせる過程でしかない、“快楽原則は、まさに死の本能に奉仕するもののように思われる”と述べています。(※13)

 アメリカ合衆国で精神分析学発展に力を尽くしたカール・A・メニンジャー(メニンガー)は、“生きたいという本能と死にたいと言う本能‐われわれはこれを人間personalityの建設的傾向と破壊的傾向と呼ぶことにしよう‐とは間断なく相争”うなかで“もって生まれた破壊性および建設性を完全に外部へ向けること”ができずに、“敵と戦わずに自分を破滅させる”行為としての自殺を分析し、その三つの内面的要素を“死ぬこと、殺すこと、および殺されること”であると述べています。
 “死ぬこと”という死の本能そのもの以外の、“殺すこと“という要素は、成長に伴って生(性)と死の本能(破壊性)の中和がなんらかの事情で崩れ、“以前に結びついていた愛と憎悪は、いまやその対象を失い、バラバラになり、その双方ともが元来の出発点、すなわち自己へ復帰”することから生じる。そして、自己を対象としているようで実は“摂取行為”という幼児的(口唇的)な他者の自己同一視であり、自殺の“殺すこと”とは自己に取り込んだ他者の殺害であると述べている。
 “殺されること”という要素は“元来、攻撃本能の一部であるが、それが外にでて、環境に対して威力を発揮しないで、内部にのこり、そこで裁判官、または王様みたいなものに変容された”ものである良心(超自我)が他者への加害を欲した自己を罰したいこと、もしくは、“自分で自分を殺すのは、自分が万能であると思う錯覚を持続しようという”幼児的幻想によるよ述べている。
 そして、通常想像される自殺(急進的自殺)のほかにも、過剰な禁欲や殉教、アルコール中毒(それ自体が病気ではないが、病気から逃れるための自殺的“逃避”・内面的な軋轢を自分で救済しようとする不幸な努力)、反社会的行為(理性と判断を無視するの自己破壊の技法の一部)、精神病(現実性原理の放棄)の一部を“慢性的自殺”と呼び、それらが“死を無限延期する”かわりに“受難や機能障害などの犠牲”を支払っている行動、“生願望と、破壊したい(死にたい)という願望との間に行われる持久戦”であると解釈します。
 さらに、自己毀損(自殺、を回避するための妥協)、仮病(他者を操作・攻撃した欲望とそのような自己を罰したい行為の結果)、故意の事故、性的不能(正常な快楽を失うことでり、“破壊”することである)として、これらを“焦点的自殺”として、生と死の本能の相克として解釈しています。(※14)

⑧社会と病気の視点への問い
 “避けがたい不完全性は病ではない”(※15)
 確かに、デュルケムのような視点、社会現象としての自殺という視点と、それを基礎付ける定義の科学性は必要であり、一般的に用いられる言葉の恣意性を排除することは必要です。
 自殺とは病気(躁鬱・統合失調・気分障害)によってもたらされる死であるとすることは、たしかに、「勝手に死んだ」という突き放しの思考を防ぐことができます。
 しかし、社会現象としての科学的な定義も、病気による死という認識も、自殺によって死ぬこと、自殺というものが何なのか(自殺で死ぬというのはどういうことなのか)を見据えられていないのではないか。
 結局、自殺とは何かという単純な問いを満足させることができないのではないか。
 社会学的なアプローチの定義では、まるで、人型にくりぬかれた画用紙から自殺だと判断するようで、肝心の自殺そのものが見えず、心理学的アプローチではくりぬかれた場所から見えない動きを想像しているだけで、目の前に自殺そのものがあってもかえって分からなくなるような感想を持ちます。

⑨他殺と自殺
 自殺がほかのあらゆる行為と異なるのは、それが、他ならぬ自らを殺すということにあります。
 自らの他のあらゆる行為を為す一人しかない自らを、自らによって殺す。
 殺すということについて、他の存在を対象とした殺しと比較してみると、他殺が自己を保存する行為(たとえ、死刑になることが目的の他殺であっても、死刑になりたい自分は保存される)であるのに対して、自殺は自己を放棄・消滅させる行為です。
 自殺という場面に他者や他者と関係した事情が現れても、その全てを支える自分という基盤で自殺は行われるます。
 つまり、問題は、意思によるか・結果予見していたか・直接的か・積極的か、あるいは病気なのかではなく、その一人の人間の中でなにが死に結び付けられたかという具体的な本質を見ること(個人の自殺の本質。ただの個人的出来事ではなく、そこに自殺と呼ぶべき全てに通じる本質)であり、それによる定義・基準でなければ、自殺への科学的取り組みが生み出した様々な「成果」が死の位置づけを巡る不毛な争いに(一般社会の中で)堕してしまうと考えます。
 一人の人間の中で、一人しかない自分の放棄・消滅へと結びつけたのは何かという視点からの定義を必要とするということです。

(3)一人でも、社会でもなく(※16) 
“その本質において自殺はいつも個人の出来事である。”
 
 E・S・シュナイドマン(UCLA名誉教授)は、以上の定義群とはことなり、個人という自殺の行われる舞台に注目して自殺を分析しています。
 “しかし(あるいは、そして)自殺は好むと好まざるとにかかわらず、ひとつまたはいくつかの文化に市民権を得ている個人に起こる出来事であり、その個人はどこにも逃げ出すことのできない個人なのである。”
 
 社会学的か、心理学的か、そのどちらかに還元するのではなく、社会の中の個人に起こるものとしての自殺です。 
 
 シュナイドマンは“自殺の心理学的要素はいわばその幹である。生物学的な状態がその根である。自殺の手段、遺書の内容、遺された人にどのような影響が及ぶかといった計算などは、いわば、枝や傷ついた実や葉である。”と心理学を中心にすえた多元的な分析し、以下のように定義を表しています。 
 
 “今日の西洋社会において、自殺は、自ら手を下した意識的行為によってもたらされた死とされる。その行為は、死ぬことが最良の解決法と認識された出来事に直面し、窮地を脱することを願った人物の、多くの次元をもった苦痛によってもたらされる、と考えるともっとも理解しやすい。”

 自分であること(に伴う)の苦痛という感覚と、それ(自分=苦痛)から逃亡し・解決しうと願い、それが社会の中で生きる一人の人間の中で死という結果を選択に結びつける。

 この定義は、一般的に言われる自殺の事例の全てに当てはめることができ、しかも、動くことの無い本質を突いているように思えます。
 自殺とは何かという単純な問いかけに対して、具体的で直接的な基準による答えを提供できます。

 シュナイドマンの定義でも、(1)①の四つの実例を全て自殺と判断します。
 しかし、(多次元の)苦痛の解決という、具体的で、自殺そのもの(自殺という行為に再接近して観察された)の本質によって判別されるので、デュルケムのような社会的(行為の態様や意思の有無)といった枠によるものやフロイトなどのような心理構造と動きに着目したものでもないので、ぶれることがありません。
 いわば、自殺の標本に加えるかどうかを、苦痛の解決というピンで刺し留めることができるかどうかという判別法です。

 そこで、以上の定義を前提に、自殺の倫理的側面、権利と義務という問題を述べます。
 自殺の「殺」という言葉に対するある種の理不尽さを出発点煮した考察です。
 ⇒死を選ぶ権利/自殺という過酷な自由を考えるために


※・※12)『自ら逝ったあなた、遺された私』(朝日新聞社)グリーフケア・サポートプラザ編 平山正実監修
※1)『自殺って言えなかった』(サンマーク出版)自殺遺児編集委員会
※2)厚生労働省 自殺志望統計の概要 より
   http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/
※3・6)『自殺の思想』(太田出版)朝倉喬司著 より
※4)『われ万死に値す』(新潮文庫)岩瀬達哉著
※5)『コルチャック先生』(朝日文庫)近藤二郎著
※6)『日本人の自殺』(サイマル出版)スチュアート・ピッケン著 より
※7)http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50568133.html
小飼さんのエントリは議論としては、特殊でもふざけたものでもないと思います。
 特に、“根源的かつ根本的解決ばかり期待するから、自殺に飛びつく”という指摘はシュナイドマンが“誤った三段論法”と呼ぶ認知の誤りの結果を的確に表していると考えられます。
 しかし、寿命を待つということを自殺に含めてしまえば、自殺の特殊性(言葉として自殺を成立させる性質)をなくしてしまいます。
 ※8・15)『自殺論』(中央公論新社)エミール・デュルケーム著 宮島喬訳
※9・16)『自殺とは何か』(誠信書房)E・S・シュナイドマン著 白井徳満 白井幸子訳
   『早すぎる夜の訪れ』(新潮社)ケイ・ジャミソン著 亀井よし子役
※10)『日本人の自殺』(サイマル出版会)スチュアート・ピッケン著
※11)『自殺と文化』(新潮社)布施豊正著
  “日本の自殺の特徴は、政治的、社会的スキャンダルや汚職事件があるたびに、自殺がみられる事実である。”
※13)『フロイト著作集6 自我論・不安本能論』(人文書院)S・フロイト著 井村恒郎 小此木啓吾訳
※14)『おのれに背くもの』(日本教文社)カール・A・メニンジャー著 草野栄三良訳
 “科学者が研究のために一身をささげ、死の危険を冒したり、愛国者が自由のために一命をささげたり、教会の聖人その他の人々が社会のため、またかれらが愛する人のためにわが身を犠牲にしても、それは通常自殺とは考えられない、なぜならば、それらの人の建設的要素が破壊的要素に対して勝利を占めたことが、かれらが選んだ手段の社会的効用、すなわち、創造性の要素によって明らかであるからである。”
 メニンジャーは、自殺と自殺ではないものを、生と死の本能の相克と言う精神分析学が想定する心理構造と社会性から判断している。
 しかし、これも日本の自殺の特色として布施が指摘した会社のためのものが、自殺か否か不明となる。
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-08-08 23:16 | 自殺

自殺という過酷な自由を考えるために/自殺の定義編

〔注意〕
 以下の文章は自殺に関するものです。具体的な描写や事例についての記述があります。ご自身の体調・状態等を考慮のうえで、お読みください。






      *************************
 “これでやっとわかった。もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん21世紀はくる。ハルマゲドンなんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。ちょっと“異界”や“外部”にさわったくらいじゃ満足しない。もっと大きな刺激がほしかったら、本当に世界を終わらせたかったら、あとはもう“あのこと”をやってしまうしかないんだ。” 
   『完全自殺マニュアル』(太田出版)鶴見済著
  
 “私たちは自殺する自由を持っているが、その自由は過酷である。”
       『自由死刑』(集英社文庫)島田雅彦著 

 “「増池さんは考えたこと無いんですか?」
  名前を読んでもらえたのが増池は嬉しかった。
  「僕は、死ぬのが怖い。だから自殺なんて考えたこともない」
  増池は力を込めて言った。
  「生き続けることは怖くないんですか?」
  返答に窮した。”
      『自殺自由法』(中央公論新社)戸梶圭太著

 “死が希望の対象となる程に危険が増大した場合、絶望とは死にうるという希望さえも失われているそのことである。”
       『死に至る病』(岩波文庫)キェルケゴール著 斉藤信治訳


(1)はじめに/自殺へのまなざし 

 “残された者たちが味わう悲しみは、往々にして屈辱感と自己嫌悪がつくりだす沈黙によってふたをされてしまう”(※)
 
 かつて、自殺者が私の親族にもあるかもしれないと口にしたら、話し相手から真顔で「そういったことは口にするものではない」とのお叱りを受けたことがあります。
 もし、それが癌で死んだ者が親族にある、心臓病で死んだ者があるとの話を口にしたのなら、そのようなことはなかったでしょう。
 
 自殺遺児の手記のタイトルが『自殺って言えなかった』(※1)というのであることが示すように、自殺というのは、他の死とは扱いが大きく異なる、禁忌的なもの、本人だけではなく相当広い親族や関係者にまで社会的な影響を与える死であるようです。
 ダメなものに決まっていると大声で断言するにしても、善悪ではなく、むしろ「個人の勝手」的なスタンスを示すにしても、灰色の重苦しい霧で押し包み、語る言葉の響きを奪うような、それ以上の言葉を重ねることを許さないようなことが、自殺(の扱い)にはあると感じられます。

 しかし、毎年約32000人、毎日約90人、毎時間3~4人がこの国では自殺をしていることは事実です。(※2)
 ですから、自殺について、ただ口を噤み、気まずいため息を吐く、顔を強張らせて拒絶する前に、知ること、考えること、語るべきことがあるはずだ。そして、それは、麻薬追放キャンペーンのコピー(「ダメ、絶対」)の合唱指導のようなもので済ませるべきものでも、自殺や自殺予防のハウツーで済ませるべきものではないと、私は考えます。

 “自殺について話をすることは危険だ。自殺を話題にすると、その危険のない人まで自殺においこんでしまいかねない。
 自殺を話題にすると、「寝ている子を起こす」ことになりはしないかという心配をしばしば耳にします。しかし、自殺を話題にしたからといって、自殺の考えを植えつけることにはなりません。自殺したいという絶望的な気持ちを打ち明ける人と打ち明けられた人の間に信頼関係が成り立っていて、救いを求める叫びを真剣にとりあげようとするならば、自殺について率直に語り合うほうがむしろ自殺の危険を減らすことになります。自殺について言葉で表現する機会を与えられることで、絶望感に圧倒された気持ちに対してある程度距離を置いて冷静に見ることも可能になります。”
             『自殺の心理学』(講談社現代新書)高橋祥友著


 以下が、読んでくださった方々の考察と対話の土台構築に少しでも役立ち、自殺が語られるものされる一助となれば幸いです。(部分部分のつながりが相当悪く、不足箇所があるので、徐々に改訂します)


(2)自殺とは何か/定義と基準
 ①思考と判断のための実例
・藤村操/1903年
“悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以って此大をはからむとす。ほれーしょの哲学意に何等のオーソリチィーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、曰く不可解。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。”(※3)

・青木伊平/1989年
 “遺体は、ベッドにあおむけの状態で事切れていた。首にはネクタイがまきつけてあったり、ネクタイには腰紐が継ぎ足されていた、その端が寝室のカーテンレールにつながれていた。青木はパジャマ姿で、左手首に両刃のかみそりによる切り傷が十七ヶ所もあった。布団は血の海だったが、すでに乾き始めていたという。”(※4)

・コルチャック/1942年
 “泣いている子供もいたが、この積換場で、このような光景を目にすることは決してありえなかった。旗を先頭に、整然と四列に並んだ行列が、やせこけた老人に引率されて到着した。
 「これはいったい何なのか」
 SS指揮官が問いただした。
 「コルチャックとその子供たちだ」
 誰かが言った。指揮官は、その名を思い出そうと努めていた。子供たちはその間にすでに貨車に積み込まれ始めていた。
 「この人があのコルチャック?あなたは『小さなジャックの破産』を書いたかね」
 「そう、書いた。でも、そのことが、なにか、この移送と関係があるのかね」
 「いや、しかし、あれは良い本だ。私は子供のころ、あの本を読んだことがある」
 「………」
 「あなたは乗らずにここに残ってよろしい」
 「それで、子供たちは?」
 「ああ、それは、不可能だ。子供たちは行かねばならない」
 コルチャックが叫んだ。
 「あなたは間違っている。まず子供たちを…」
 彼は自ら貨車へ入っていった。”(※5)

・オーツ大佐/1912年
“南極からの帰路、オーツは病に倒れた。食料も乏しくなった探検隊の全身を遅らせてはならないと、彼はひどく心を痛めた。彼があとに残ることに、スコットが決して同意しないことは分かっている。そこである晩、猛吹雪の中を、彼は探検隊の宿舎をこっそり抜け出した。その後、再び彼を見たものはいない。”(※6)

 ②そもそも、自殺とは何か?
 私たちの大部分は、真に望めば、自殺することができます。
 しかし、自殺とは何なのか、自殺を自殺ではないものと分ける点はどこにあるのか、については実は分かっておらず、分からないままに「自殺をできる」という自信の上に胡坐をかいて論じる・肯定する・否定する・非難するをしてしまっている、そして、土台を抜かされたそれは結局、自殺をしない者達が自殺者を遠目に行う戯れに終始したものなのではないかと、私は感じます。(※7)

 ①で挙げた四つの実例の最初の二つ、明治時代に華厳の滝で投身自殺した一高(第一高等学校:現在の東京大学)の学生・藤村操の例と、竹下登元総理大臣の秘書で金庫番だった青木伊平の例に関しては、自殺であると通常は判断されると思います(報道では自殺とされていますので)。
 しかし、後者二つに関しては、多くの抵抗、否定(自殺ではない、自殺とは表現されていない)という判断がなされるかと思います。
 コルチャックは、ポーランドの医師にして、小説・戯曲作者、孤児院の設立者にして運営者、教育者、著名なラジオ教育番組の出演者であり、自らはナチスから特赦を受けており、何度も海外の協力者から助命の申し出を受けた身であるのに、孤児院の子供たちと共にナチスの収容所(トレブリンカ収容所)での処刑を選んだ人物。国連の子供の権利宣言にその思想が生かされている、20世紀を代表する思想家・教育者といえる人物です。オーツ大佐は南極点初到達をめぐり争った探険家ロバート・スコットに同行した人物で、重度の凍傷と食糧不足から、自ら隊を離れた(といわれる)人物です。
 さて、前二者と後二者を分ける判断基準はどこになるのでしょう、若しくは、このような判断は基準(判断結果から読み取れる基準)に整合性があるのでしょうか。
 
 ③少し考えてみること
 藤村操の例は、特に自殺する外的な理由(脅迫などの外的圧力、死ななければならない社会的理由)はなく、彼の死が自殺である、自らの意思と行動による死であることに異論を挟む人はいないでしょう。

 そこで、後三者の例を重点的に検討してみます。

 まず、三者にはそれぞれ外的な理由が見られます。
 青木伊平はリクルート事件に関する国会への釈明報告においてミス(献金ではなく貸借形式で5千万を受け取っていたことを報告書に書かなかった)したこと、それを端緒に検察の捜査が自身を通じて竹下に及ぶことを防ぐため(と考えられている。一部殺害説も)。
 オーツ大佐は自身が進行と食糧消費の重荷となることを防ぐため。
 コルチャックは子供たちが死に際して不安がらないため。
 しかし、三者とも自らの意思で死を選んでいます。
 青木伊平は、仮に犯罪を立件され、さらに竹下やその他の政治家へと捜査が及んでも、死刑になることはなかったでしょう(ただし、暴力団などの組織から殺される可能性はあったかもしれませんが)。したがって、その時点で死ぬことは選択肢の一つであり、死は選択的行為だったと判断されます。
 オーツ大佐は、スコット隊の結果を見れば、そのままいても助からなかったかもしれません。しかし、結果としての餓死や凍死・病死と異なり、オーツは(結果の変化の有無は措いて)自らの意思で極寒の場所へと出て行くことで死を選択したと判断されます。
 コルチャックは、より単純で、確実に命が助かる機会が幾度も提供されていたのを意思的に放棄することで死を選択したと判断されます。
 ただし、三者とも藤村とはことなり、死なないで済むなら死なないことを選んだでしょう。
 つまり、死の願望はなくとも、外的な理由によって死を選択し、それでも自殺か自殺とは言わないかに違いは無いということです。

 次に、自殺行為の態様を見てみます。
 青木伊平は手首の動脈切断の未遂で、頚動脈圧塞による心停止による死。
 オーツはおそらく、凍死(低体温による生理機能の低下・変調による心停止)。
 コルチャックは、毒ガス吸引により死亡。
 青木とオーツは積極的に自己に対する加害行為がありますが、コルチャックの場合は殺されていますので、消極的・受動的です。
 また、青木とオーツを比較すると、青木には能動的な加害行為がありますが、オーツの場合は外に出て死を待つという受動性があります。
 とすると、自殺と自殺ではないとされる場合を分けるものは、能動性と受動性ということになるのでしょうか。
 
 しかし、この判断基準では受動性をどの程度まで認めるのか明らかではありません。
 たとえば、手首の動脈を切ったとしても、死因は失血ですので、血液が流れ出るのを死ぬまで待つとも表現できます。
 さらに凍死だけではなく入水自殺が自殺という概念から省かれることになります。

 では、行為の目的から考えてみるとどうなるでしょう。
 コルチャックは子供たちの不安を和らげるために一緒に死へと向かい、オーツは他の隊員の生存可能性を増やすために死にました。
 青木はボスである竹下やその関係者の秘密が漏れないためとミスの引責目的で自殺しました(と考えられます)。
 三者とも自分以外のだれかのために死んでいます。
 しかし、青木伊平だけが自殺だと思われ、評価されています。
 となると、違いはどこにあるのか。
 たしかに、コルチャックの場合は罪の無い子供たちのためですが、オーツは無謀で不十分な準備しかしなかった冒険に自発的に参加した上でのものです。犯罪が関係しているかどうかということなのでしょうか。
 しかし、たとえば約束した上での後追い自殺というのは、他人のためであり、犯罪とも関係していませんが、文字通り自殺と評価されるでしょう。
   
 結局、自らの意思で死を選択したか否か、積極的か消極的か、直接的か間接的か、目的が自分以外の存在のためか、というぱっと思いつくような基準、一般的な用法から導かれる幾つかの基準らしきものでは自殺を判別することができそうにはありません。
 

④デュルケム詣で(※8)
 自殺といえばこの人、デュルケムへと詣でて、定義を巡る議論の整理のとっかかりとしてみます。

  デュルケムは、日常使われる自殺という言葉が科学的取り扱いに耐えられない曖昧さをもっているとして、“十分に客観的であって注意深い観察者なら誰しもそれと認め、十分な特殊性をそなえているためにそれによって類別しても他種の死と混同するおそれがなく、かつ一般に自殺というな名のもとに考えられている現象に十分近いのでこの言葉を使っても慣用をそこなうこともない”ものであって、“一般の人々が自殺についていだいている観念を多少とも正確に表現することではなく、自殺という名称でよんでもいっこうにさしつかえない、しかも客観的な根拠のある対象の範疇、いいかえれば、事実のある明確な本質に対応しているそのような範疇を構成する”自殺の定義を次のように述べています。
 
 “死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名付ける。”

  そして“自殺率は、死亡率よりもはるかに各社会集団に固有なものであり、社会集団を特徴付ける一つの指標となる”ことから、この自殺率の原因となるのは何かを検討しています。
 まず自殺の原因として考えうる非社会的要因に関し、アルコール中毒を含む精神疾患については“いかなる精神異常も、自殺とのあいだに規則的で明白な菅家をたもっていない”こと、人種については“同じ人種に属する諸民族の間でも極端なひらきがみられ”、遺伝(ここで言う遺伝は気質の伝達ではなく、“ある種の自律性を備えた心理的メカニズムの一種”のこと)については、その発現と見るには不十分な資料しかなく、気候や日照と自殺に相関性が見られるが“直接の作用は、自殺の月ごと、季節ごとの増減を説明できない”と結論付け、模倣については“自殺が個人から個人へと伝染するのは確かであるとしても、自殺の社会率に影響をおよぼすようなかたちで模倣が自殺を伝播させるのはみられたためしかない”“模倣はそれ単独の力に還元されてしまえば自殺になんの影響もおよぼすことができない”と結論付けています。
 そして社会的要因に関し、まず宗教について、カトリックとプロテスタントの比較で前者のほうが自殺率が低いことから、プロテスタントの“自由検討”が宗教の社会統合機能を失わせていると指摘し、これを教育の普及率(教育が普及するほど自殺率が高い)と照らして補強しています。
 家族については、未婚・既婚・寡婦(夫)の自殺率の比較から結婚が自殺率抑制に効果があるといえるが、早婚者はかえって自殺率が高く、二十台の未婚・既婚では自殺率の差が大きいこと、男女差が大きいこと、さらに子供のいる夫婦といない夫婦の比較、子供のいる寡婦(夫)といない寡婦(夫)の比較から、本質は“家族の結合の影響にもとづいているのであって、夫婦の結合によるものではない”と結論付けています。
 さらに、政変・戦争について、その時期に一時的に自殺者が減少することを“種々の活動は同じ一つの目標にむかって集中し、すくなくとも一時期には、より強固な社会的統合を実現させる”からだと結論付けています。
 これら三つから、“自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する”、つまり“個人はあまりにも深く社会生活のなかに参加しているため、社会が病態におちいれば、個人もまたそれに冒されないわけにはいかない”という人間の社会的存在としての結果であり、“直接に自殺を思い立たせる、決定的条件に見える私生活上のできごと”は“偶発的な原因”であると述べています。
 
 デュルケムは、社会的統合性が社会の自殺に決定的な影響を及ぼすものだという観点から、自殺を、自己本位的・集団本位的・アノミー的の三つに分類します。
 まず、“自己本位的自殺”とは、“自己自身にのみ依拠し、私的関心にもとづく行動準則以外の準則を認めなくな“って、”社会的自我にさからい、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるような状態を自己本位主義とよん”だ場合に、“常軌を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプ”のこと。
 その特徴は、“行動への活力を弱める憂鬱なもの思わしさ”にあり、自分以外に関心が向かず、やがて思索の糧が失われ、空虚の無限に飲み込まれたり、耐え切りれなくなったり、もしくは無力であることを予期して欲望を単純化させたりするとされています。
 次に、“集団本位的自殺”とは、“自己本位主義”とは逆に“社会が個人をあまりにも強くその隷属下においている”ことから“自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、すなわち所属している集団におかれている状態”で生じる自殺のこと。
 集団本位的自殺は“義務としてなされる”が、義務的でなく、自発的であっても生への無頓着さが賞賛される“個人が独自の利害関心をもたないかぎりにおいて初めて維持される”道徳によって訓練された人間によってなされるものも含む。
 その特徴は“強烈な感情にねざしているため、かならずある主のエネルギーの発揚をともなう”“能動的な自殺である”点にあると述べています。
 そして、“アノミー的自殺”とは、欲求がそれを満たす手段との均衡を保つ安息した状態を人間社会に作り出す外部的な力(権威)が無力になったとき、“何が可能であって、何が可能でないか、何か正しくて、なにが正しくないか、なにが正統な要求でや希望で、なにが過大な要求や希望であるか”が分からず、無力な(正当性が認められない)権威による制限があれば耐え難く、神格化された限りない欲望が“つねにあらたにおそってくる責苦”の情熱(受難)となることで生じる、現代の商工業社会の自殺のこと。
 その特徴は、“無限という病”がもたらす“怒りであり、また失望にともなってふつう芽生えてくるあらゆる感情”であると述べています。

⑤ほかにも色々(※9) 
 デュルケムの他にも自殺の定義を試みた人々はいます。

 “自殺は、当人が承知の上で、しかも自分の意志で、危険な環境に自己をおくことによってもたらされた死である。”(R・G・フライ)

 “外部からの強制のない状況で、事故に自分の意思で死をもたらす行為が自殺である”
             (トム・ボウチャン)

 “自殺とは再帰性の、つまり、自分に帰ってくる形式をとるしである。自殺は、自分を殺すか、自分を殺させるか、自分が殺されるのをそのままにしておくのかのいずれかの形をとる。さらに、この再帰性の死において、当人は、自分に死をもたらす何らかの行為、ないしは行動をする。”(グレン・グラーバー)

“(1)彼らは死のうとした(殺されようとした)
(2)彼らは自らの死を招くような行動をした
(3)彼らは死ぬという意図の達成をはかるような行動に出た
これらすべてをある人物の死について偽り無く言えるとき、彼あるいは彼女は自殺したのである。”(スチュアート・ピッケン)

 機関的な定義として
“致命的な結果を伴う自滅行為(自滅行為とは、ざまざまな致命的意図を伴う自傷行為)”
             (世界保健機関)
 
 “死者が自分自身に加えた傷害、服毒、窒息による死で死者自身が自分を死に至らしめることを意図した(明白な、あるいは絶対的な)証拠が存在するもの”
              (アメリカ疾病管理予防センター)

⑥あらためて考えてみること(※10)
 まず、デュルケムの定義からすれば、①の四つの実例はすべて自殺に当てはまります。それを、特にコルチャックの例を汚職をかばってのものと同じ名称で呼ぶと言ったら黒柳徹子さんは怒るかもしれませんが、“それとても科学的にはひとつの自殺”ということです。
 ほかの定義からも全て自殺に当てはめることができます。

 しかし、④で挙げた一人、スチュアート・ピッケンは例外としてオーツ大佐、そしておそらくコルチャックも、自殺から除外するでしょう。
 ピッケンは、“オーツに必要だったのは、仲間の保護からのがれることだけである。だから私は、彼が自殺したとは認めたくない。”と定義のうちの“意図”の部分を用いた例外を認めています。
 これは、殉教を自殺と分けるために用いられる「二重の結果」ですが、この論理を用いることを許すのは定義として妥当なのか。
 これを用いることで同一の行為を汚辱の死と栄光の死と分けてしまうのではないか。
 その両極のどちらへ入れるかを、漠然とした世論や声の大きな言論機関、さらには、国家機関の恣意へと委ねることになってしまう。
 “会社の永遠を信ず”(※11)と言って死んだ会社員は自殺で、その遺族は自殺の負い目を背負い、“神の栄光を讃える”ために死んだ宗教者は賞賛される(しかも、その神はただの神ではなく、人民寺院のような社会から認められない宗教の場合は含まれない)。
 好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神で述べたメコネサンスと同様に、一つの言葉の両端を知らずの裡に横切らせてしまう。
 それでは、現状と何も変わりません。

 続き⇒自殺の定義 続き
 
 
追記:二重の結果)
 スコラ哲学の完成者、トマス・アクウィナスは著書『神学大全』で、意図した結果と予見される意図せざる結果を分けた。
 これを自殺にあてはめると、何のために死んだのかが問題とされ、それによって自殺か否かを決められることになる。
 つまり、善い目的で死ぬのはその目的実現のためであり自殺は意図せざる結果であり、悪い目的の場合はそうではい、とされる。
 これは結局、善いことをするのは善く、悪いことは悪いというトートロジーしか導かない。
 必要なのは、自殺とは何かということを、善悪の前にある自殺を考えることだと考え、二重の結果理論による区別を否定する。

 関連して、積極的手段を採るか・消極的手段を採るかの区別について。
 他殺の場合の故意と過失の区別、認識ある過失と未必の故意の議論と重なる。
 結論から言えば、手段が消極的でも、死ぬ行動の蓋然性がる事態を放置すること、その事態に対して回避・救助行為をとれば相当の蓋然性をもって防ぐことができるのに放置することは、倫理上積極的手段を採ったことと同等だと考える。
 法的には、そのような事態を引き起こしたことに関与したり、救助義務がなければ責任を問うことは困難だと考えられるが、倫理的には責任を問いかけることができる。
 自殺の場合、事態を放置するのは自分であり、他者の困難を放置する場合と異なり、防ぐことの効果が明確であり、放置したことをもって積極的自殺行為と同等とみなすことができる。



 
 
 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-07-26 00:30 | 自殺

自殺についての序文









             “私たちは自殺する自由をもっているが、その自由は過酷である”
                                           島田雅彦






 

 6月15日の自殺対策基本法成立に纏わって、自殺(自死)に関しての諸問題、基本的な知識と自由・権利の問題のまとめを提示します(予定です)。
 この問題は、売買春問題と深い関連性を持つので、性の倫理を考える前提とも言えるでしょう。

自殺に関して、そもそも論が抜かされている。
 そもそも論の考察・認識を抜かしたまま、社会対策(社会問題化)を立て、実施されれば、自殺(の可能性を持つ人間)を囲い込み、生き辛く死に辛い事態が導かれてしまうのではないか。
 
 「死にたい人の勝手」と「自殺は社会の問題」。
 どちらかではなく、その両方が繋がる場所からの話をすることで、死が個人に押し込められることも、社会(若しくは集団)に奪取されることも防ぐことになる。
 と私は考えます。
 
 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-07-05 21:53 | 自殺