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政治家が政治の場で政治学用語を使うと失言になる国。

仙石氏「自衛隊は暴力装置」参院予算委で発言、撤回   
朝日2010年11月18日11時33分
http://www.asahi.com/politics/update/1118/TKY201011180169.html
 仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、「自衛隊は暴力装置」と述べた。その後、「実力組織」と言い換えた上で、発言を撤回し、謝罪した。
 「暴力装置」の表現は、かつて自衛隊を違憲と批判する立場から使用されてきた経緯がある。
 この発言は、世耕弘成氏(自民)の質問に対する答弁で飛び出した。世耕氏は、防衛省が政治的な発言をする団体に防衛省や自衛隊がかかわる行事への参加を控えてもらうよう指示する通達を出したことを問題視し、国家公務員と自衛隊員の違いを質問。仙谷氏が「暴力装置でもある自衛隊は特段の政治的な中立性が確保されなければならない」と語った。
 世耕氏は仙谷氏に対し、発言の撤回と謝罪を要求。仙谷氏は「用語として不適当だった。自衛隊のみなさんには謝罪致します」と述べた。

                *
 同発言に対する自民党政治家の反応については
 法華狼の日記「自衛隊や警察が暴力装置ということ」を参照。
 http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20101118/1290097225                
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 この自民党政治家・マスメディアの反応については様々語られているので、これ以上語ることはない。
 
 きょうも歩く 暴力装置という政治学の基礎も知らない自民党の国会議員
 http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/11/1118-02f9.html

 マックス・ウェーバーは「暴力装置」という言葉を使ったか?
 http://togetter.com/li/70243
 
今日も得る物なし 暴力装置
 http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20101118/1290064490 

 kojitakenの日記 「自衛隊は暴力装置」との仙石発言を「右」から批判する毎日新聞に目を疑う
 http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101118/1290079499

 Apes!Not Monkeys!はてな別館 朝日新聞によれば石破茂・元防衛大臣は左翼なのかもしれない
 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20101118
 
 池田信夫blog part2 自衛隊は「暴力装置」である
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51501855.html
               
おおやにき 暴力装置
 http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000746.html
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 そこで、どうしても「暴力装置」と言う用語が自衛隊を侮辱する左翼独自の用語だと思いたくて仕方がない方々のために、以下の引用を提示しておく。(世耕弘成参議院議員山本一太参議院議員,谷垣禎一自民党総裁も分かりやすいように注目部分を太字にしてあります)
 

“暴力をなくすためにはやはり暴力を使わざるを得ないというジレンマは、常に文化や制度につきまとう。たとえば政治権力はいつでも軍隊や警察など、物理的暴力装置をもって過剰な暴力を行使できる。イデオロギーやそれに基づく教育などがそれを支援する場合すらある。”
          『政治学事典』猪口孝ほか著(弘文堂)p,1013「暴力」より

“直接的・物理的・肉体的な強制力をともなう力の発動を「暴力」という。これが何らかの形で正当性をともなっている場合には「実力」(force)とよび、いかなる正統性をも欠いているときに「暴力」(violence)とよんで、この両者を区別する場合も現実政治のなかでは多々ありうる。また、ソレルが『暴力論』のなかで「ブルジョアジー」が国家機構を通じて有している強制力をforoceとよび、これを「プロレタリアート」の革命的「暴力」(violence)と区別したのに対して、ヴェーバーは、「暴力」装置の合法的独占を国家権力の特性としたことが良く知られている。要するに政治の場では、「暴力」は正統性・合法性とのかかわりあいで「実力」にも「権力」にもなりうるのである。他方、政治の場におけるやむえをえない手段として「暴力」の行使を是認する立場もあり、歴史的にはマルクス主義、アナーキズム、サンディカリズムならびにファシズムや右翼思想などに見られてきたが、それらの場合でもなお、正統性や合法性の問題がどのように扱われているかに注意しなければならない。また、「暴力」概念を拡大して「強制力」一般と同義語にしてしまう事例も多々ある。”
          『現代政治学辞典』(大学教育社)p,940 「暴力」より




 “主権国家は、国内的に治安維持に裏付けとなる警察機構や、対外的に他国の干渉を排するための物理的保証たる軍隊を備えているという特徴を持つ。これは国家による強制措置を構成する権力装置である。つまり、国家とは合法的暴力装置を備えた巨大な権力機構と位置付けられる。”
      『ファンダメンタル政治学』等松春夫・竹本知行編著(北樹出版)p,20より
            (注:等松春夫さんは現職の防衛大学校教授です)


近代国家は、物理的強制力を独占することによって成立した。物理的強制力とは、警察とか軍隊などの物理的暴力装置である。国家権力は、社会権力をもたないこのような物理的暴力装置を独占する。”
      『政治学のすすめ』名古忠行著(法律文化社)p,43より


“国家への暴力集中は、現実政治の出したひとつの解答であった。しかし、それは暴力の問題がすべて解決したことを意味しない。国家が、私的暴力の蔓延を押さえられるか。国家の暴力装置が《法維持》以外の目的で、無辜の市民に不法な暴力をふるったら、一般市民は何ができるのか。合法的暴力とされる戦争はいかに回避できるか。(略)国家の暴力装置は、クーデターを起こし、また国家を支配する軍国主義などを産んだ。こうした暴力はどうすれば封じ込められるのか。”
『政治学のエッセンシャル』
辻康夫・松浦正孝・宮本太郎編著(北大図書刊行会)p,95より


                  
“ドイツの有名な社会学者マックス・ヴェーバーの説を聞きましょう。『職業としての政治』という有名な講演で彼は、政治団体が今日では国家であると断ったうえで、国家を含めたすべての政治団体に固有な特殊の手段として、物理的暴力の行使を挙げます。「『すべての国家は暴力の上に基礎づけられている』。トロツキーは[…]こう喝破したが、この言葉は実際正しい。[…]国家とは[…]正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(ヴェーバー『職業としての政治』)捕捉すれば、トロツキーはロシアの革命家で、当時(第一次大戦後)のドイツ人にとっては、ブレスト=リトフスクの講和交渉でのソ連側の当事者として誰でも知る人でした。ヴェーバーは社会主義には反対の立場です(ヴェーバー『社会主義』講談社学術文庫、参照)が、「政治」(または「国家」)の定義(または「本質」)に関しては自分の論敵もまた同じ主張であることを指摘することにって、自分の言い分の妥当性を増そうとしているわけで、これは論議における有力な戦術です。”
          『入門政治学』仲島陽一著(東信堂)p,6・7より


追記:ヌレイヌ 「暴力装置」自民党時代の防衛省・財務省・内閣府も使用していた言葉だったことが判明。http://blog.livedoor.jp/arbu/archives/1691072.html
 が2chの、財研・防衛研究所・内閣府調査資料の引用・リンクを示したコメントを転載。「暴力装置」と軍隊・警察をさして用いていることを指摘。

 
              *


 今回の発言への議員や知事やアナウンサーらの仙石発言への反応で印象づけられたのは、マスメディアの様々な点での凋落だ。
 この用語が、政治学・社会学をはじめとして、少しでも国家や権力といったことを考えようとする場合に常識的に認識されている用語・概念であるということを、(学歴・会社的)エリート集団であるはずのマスメディア構成員がまともに解説しなかった・できなかったことは心底驚かされた(もとから期待していない産経は除いて)。
 だが、その体に対し、ツイッターを中心としてネット上で注目された言論の大勢が用語の常識性を指摘し、特にApemanさんの指摘した石破発言は、ネット上での仙石発言評価の流れをほぼ決めたように思える(時系列的に確かめていない。また、ブログのTB制限もあって、情報の拡散メディアとしてはブログからツイッターへネットの主力が移ったように感じる。)。
 そして、このネット上の流れがマスメディアの仙石発言への攻勢に幾分か水を差し、逃げを打つ(発端の柳田発言へ焦点を合わせ直す)よう影響したのではないだろうか。(もちろん、マスメディアの全反応を確かめたわけではないので、まったく私の過大評価・誤解かもしれない)
 
               *

 最後の引用は、佐藤正久さんや宮川典子さんという自民党関係の方がツイッターでウェーバーがトロツキーを引いているのでトロツキーと同じだと思っているような発言をしているようなので一応。日本語の不自由な方にはあまり意味はないかもしれないけれど。
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by sleepless_night | 2010-11-19 20:08 | メディア

鳩山が参りました。




“象徴としての天皇陛下の前では全ての人が同等である。したがって、陛下に申し上げる場合、人名にさまとかさんとかの敬称をつけない。総理大臣であろうが誰であろうがすべて姓だけで呼ぶ。「大平が参りました」、「入江が申しております」というように。これでよいのだけれども、侍従が総理大臣や侍従長を呼び捨てにしているようで何とも気がひける。そこで「総理大臣が参りました」、「侍従長が申しております」というように肩書きで申し上げると総理大臣や侍従長にも敬意を表していることになり、まことに具合がいい。こういうとき肩書きは便利なものである。”
                 角田素文 『宮中侍従物語』入江相政編

                  *

 今月14日に来日する次期国家主席との観測もされる習近平副主席と天皇陛下との会見が内規による一か月前の申請を特例的にまげて実現されることについてマス・メディアは大勢で批判的だ。
 羽毛田宮内庁長官も“「陛下の国際親善活動は、国の大小や政治的重要性とは別次元で行われてきた。(特例扱いは)二度とあってほしくない」”と述べている。

 天皇の政治利用ではないかという指摘は、そもそも天皇が政治的存在以外のなにものでもないので、云々することが馬鹿らしい。
 胡錦濤主席が98年の副主席時代に天皇陛下と会見したことのつり合いや小沢民主党幹事長の訪中の返礼という意味合いなどがあるのだろうけれど、政治的に天皇陛下との会見の慣例を破ることは適当かには疑問がある。
 天皇と言う儀典上の最上位者を持ち出す、それも特例でというのは大きすぎるカードをきることに思えるし、建前であると分かっていても「国の大きさ等」とは関係のない次元で天皇は動くということの説得力を傷つけることになるだろう。
 
 敬称をつけないのは国内事であるだろうが、今回の特例扱いは天皇の一君万民的な平等性の持つイメージを落とすことにもなりかねない。
 正に慣例で続いてきた天皇というあり方で、慣例を破ることにもう少し慎重であってしかるべきだと感じる。
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by sleepless_night | 2009-12-12 21:49 | メディア

権力は腐敗する。





 民主党という野党が生まれ、二大政党制による政権交代ある政治を繰り返し訴えて選挙を戦い、十数年かけて、それが実現しました。

 では、どうして二大政党制や政権交代が必要とされ、私たちはどうして政権交代を是としたのか。
 もちろん、多くの理由があげられるでしょう。
 しかし、その理由に必ず含まれたのが、一つの政党がずっと政権を担い続けることで権力が腐敗する(した)という理由でした。
 一つの政党が何十年も政権を持ち続けたことで、行政(官僚)との間に緊張感がなくなり、さらには行政(官僚)に立法(議員)がとりこまれ、官僚支配が横行し、私たちの税金が官僚や元官僚たちによって、国民のためではなく官僚や元官僚のため、官僚にとりこまれた議員(の支持者)のために浪費されてしまっているという理由です。
 だから、私たちは先の参院選と衆院選で、政権を変えることを選択したのです。

 一つの政党が政権を担い続けると腐敗する。
 この事実認識をもって投票したのなら、私たちは今回の官邸記者会問題についても同じ事実認識を持ち、行動しなければ筋が通らないことになりますし、政権交代の選択の意義すらあやうくしてしまうことになります。
 
 確かに、これは政権交代や二大政党制ほど有名でもなく、投票の理由とはならなかったかもしれません。
 
 官邸をはじめ行政機関、企業などの取材がどう行われているのかを知る人や興味を持つ人は多くはないからです。
 しかし、ジャーナリズムやメディアに少しでも関心がある人で記者クラブ問題を知らない人はいないし、もし疑問や関心をもつなら直ぐにネット検索で要点は理解されます。
 とても簡単なことだからです。

 一つの政党が政権を担い続けると腐敗する。
 それと全く同様に、一つの集団のみが権力への取材を独占し続けると腐敗する。


 私たちが政権交代を選択した、この理由と全くパラレルに記者クラブ問題はあるのです。
 一つの集団がずっと取材権を独占してきたことで、取材対象(行政・与党)との間に緊張感がなくなり、さらには情報提供や便宜供与をネタに権力(行政・与党)にとりこまれ、情報の隠ぺいや操作が横行し、私たちの知る権利が国民のためではなく権力(行政・与党)や自分たちに都合のよい情報をばらまき本質的な調査や批評を怠ることの大義名分とされ、権力や税金の使われ方の監視や調査もなされず、権力(行政・与党)の浪費・濫用を放置してきた。
 このような現状を打破する情報公開こそ政権交代の最も基本的な意義であることを理解してきたから、民主党も岡田・小沢・鳩山の歴代代表がずっと党の会見を記者クラブ以外のフリーランスや雑誌記者たちにも開放してきたのです。
 
 
 野党民主党を取材してきたビデオジャーナリストの神保哲夫さんがおっしゃっているように、記者会見の開放は実行するのも理解するのと同じくらい簡単です。
 今まで官邸の会見に出来てた人たちを排除するのではなく、新たな人たちを受け入れるだけなのです。世界の先進国で当たり前にされているように、基準を明確にして、受け入れるだけなのです。
 そして今までの取材の独占は全く理由が成り立たないし、違法ですらある(記者クラブ加盟以外のメディアを排除する権利も行政から無料同然で施設占拠をする権利もないのです)のですから、会見を開放することで記者クラブ側が非難してきたなら、いくらでも反論できます。小学校中学年程度以上の人なら、なぜ開放するのかを聞いて、開放を拒む側とどちらがまともかは理解できます。
 
 一つの集団のみが権力への取材を独占しつづけると腐敗する。
 一つの政党が政権を担い続けたために腐敗したように。


 知らされていなことを知らない、ことに気付くだけで、この腐敗を取り去ることを阻むことはできなくなります。
 
 なのに、この認識を持ち続けてきたはずの民主党が記者会見を記者クラブの手から国民の手へ取り戻せなければ、いったい、いつになったら国民は自分たちの知る権利を取り戻せるのだろう。
 毎日や産経が経営に行き詰まり、身売りするまで待つのだろうか。
 もう、いいかげんこんな馬鹿げたことで騒がなければならないのは止めたい。
 だから、希望をすてずに、民主党に働きかけよう。


 
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by sleepless_night | 2009-09-17 19:49 | メディア

あきらめないよ、みずほ。




“流動層を取り込もとする過程で、「世論と政策の政治」よりは、政党と候補者への「認識を操作する政治」が盛り上がったのである。”
       『代議士のつくられ方』バク・チョルヒー著(文春新書)

                 *

 中選挙区制が自民党の派閥存続を支え政党や政策中心の選挙とならないことなどの批判を受け、1994年の政治改革4法案成立により96年衆院選の衆議院選において小選挙区制が導入された。
 
 しかし、“握手とういう選挙技術は、少なくとも大都市以外、日本では流行しているとは言えない。”と1971年に佐藤文生の衆議院選を調査した時にジェラルド・カーティスが描写し、さらに“神奈川県(第三区)選出の若い衆議院議員、河野洋平に、彼の後援会のことを尋ねた時、彼は、後援会にあまり関心を払わない、自分の選挙区は東京のベッド・タウンとして首都東京へ通勤する人々の住宅地が主体であり、「浮動票」が多すぎるから、と答えた。組織化の努力に値するだけの有権者数を、後援会に勧誘することは不可能だと河野は信じているのだ。”とのインタビューを得た(『代議士の誕生』サイマル出版会)時から40年近い時間が過ぎて小選挙区制が導入され圧倒的多数で政権交代がなされた今。

 選挙はどぶ板が当たり前のこととなり、後援会は一層重要度を増していることを、カーティスの弟子であるバク・チョルヒーが1996年の平沢勝栄の衆院選を調査したことで描き出した。
 カーティスが調査した71年の佐藤は票まとめをする人物らの存在で一度も足を踏み入れない地域・演説する必要もない場所があったが、小さくなった選挙区では対面によって対立候補に支持者を奪われなくする必要が生まれ、取りこぼすことを前提とした地域を持つ贅沢は失われた。
 中選挙区では当選に必要な支持者を集めればいいミニマリスト戦略だったのが、小選挙区では競争相手に勝つために可能な限り多くを集めるマクシマリスト戦略を採らなければならないからだ。

 だから、政党の掲げる政策は小選挙区導入の意図とは逆に似通ったものにならざるを得なかった。
 (幸いなことに現在までは)目立った社会的分裂もイデオロギー的対立も存在しない日本では政党が利用できる流動層を取り込む戦略は、波風を立てずに、いかに信頼できるイメージを有権者間に醸成するかに重点を置かれる。
 
 特に、有力な地方メディアが存在せず、対面よりもマス・メディアからの情報を重視する都市部の有権者を獲得するには、マス・メディアという「認識を操作する」集団・機構との関係を議員となろうとする者は重視せざるを得ない。

 マス・メディアが情報の受け手の「認識を操作する」ことは、マス・メディアが情報のゲートキーパーである、と言い換えられる。
 社会心理学者クルト・レヴィンが家庭食習慣の主婦の決定・影響の研究において提唱したこの概念は、D・M・ホワイトによって新聞のニュース選択へ応用され、それはA・Z・バズによって取材と編集の役割の違いに着目した「二段階行為モデル」へ発展し、さらにP・J・シューメーカーによってより広くニュースの制作に関わる諸力の相互関係を分析する概念へと展開されていった。


                  *


今日、民主党・社民党・国民新党の連立による鳩山内閣が発足し、記者会見が官邸で行われた。
昨日までの自民党・公明党連立政権と同じく、これまでの自民党政権と同じく、記者クラブが主催し、“特例”として、記者クラブのお情けと新政権への顔立てで、数社の外国メディアと雑誌記者を入れて、会見が行われた。
 再三の問いかけと再三の明言は見事に破棄された。 
そして、問いかけられたことも明言されてきたことも、マス・メディアは知らせていない。


 もはや古典的な概念となっているゲートキーパーの研究が恥ずかしくなるほど、古典的な情報統制が今日もまた維持されたわけだ。
 一日二回の、ポーター(お使い段階の人)やリポーター(ストレートニュースの記事を書ける段階の人)たちの愚にもつかない下らない質問(なのかイチャモンなのか懇願なのか雑談なのか分からない会話)に付き合う「ぶら下がり」が1回に減らされることに“首相への取材機会を減らすのは認められない」と、再考を求めている”のに、実績のあるフリーランスの出席を認めないという。
 情報が欲しいのか、欲しくないのか、はっきりしてくれ。
 これじゃあ、そそり立つ巨大なクソが官邸の入り口をふさいでいるも同然だ。
 

 さて、その巨大なそそりたつクソの皆さんが集った今日の会見で鳩山総理はこう述べた。
 “今までのように、国民の皆さんもただ1票を投じればいいんだという発想ではなく、ぜひ政権に様々ものを言っていただきたい。政権の中に参画していただきたい。私たちが皆様方のお気持ちを、いかにしっかりと政策の中に打ち出していけるか否かは、国民の皆さまの参加次第にかかっているとも申し上げていいと思います。”

 なので、さっそく私は声を上げる。
 

 私たちの目の前を塞いでいるゴミをどけてください。
 さもないと、次の参院選では民主党に入れません。


 このメッセージを民主党、その衆議院議員・参議院議員へあらゆる手段で届けよう。




 この民主党の対応について、「すぐにはできない」「仕方がない」といった反応がネットに散見されるが、池田信夫さんが述べているように、記者クラブは国民共有の財産である官邸を不法に占拠している。記者クラブが会見を主催することや会場を利用することが問題なのではない、彼らが独占する権利も占拠する根拠もないのに、している不法集団となっていることが、問題なのだ。
 今日、それを正さなくて、いつできるのだろう。
 もちろん、この不法状態を晒し、正そうとすればマス・メディアは抵抗する。
 しかし、それなら会見を別の場所で開けばいいのだし、海外メディアや記者クラブに加盟していないで排除されている雑誌メディアら地方メディアへ案内を回せばよいのだし、会見は成立する。
 このような事態になれば、国民でも今までいかに異常なのかくらい理解するだろう。
 「自由に来てください」と官邸が言っているに、行かないのはマス・メディアの側なのだから、彼らが出席しないならそう会見で言えばいいのだ。
 もし会見を別の場所でやるのが無理なら、現在の官邸記者クラブ主催でさせても、彼らから相応の会場使用料などを徴収すべきだ。
 これは、石原東京都知事が記者をコントロールする手段にしたものだ。
 「メディアを敵に回すな」とメディアが言ってみたところで、味方になるわけじゃない。自民党の復権とそれを通じた自分たちの権益維持(なにせ、今のマス・メディア体制は自民党がつくったのだし)を目指すのは目に見えている。長年自民党に張り付いてきた人たちがマス・メディア内部での力を失ったわけではないのだから、民主シンパがいいようにしてくれるというのは幻想だ。
 だったら、さっさとやってしまった方がいい。まさか自分たちの権益を奪うことはできないと思っていた相手が、あっさりと権益を奪われた時、政権を失った自民党議員と同様に呆然とするだけだろう。
 
 
 





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参照)
新首相就任会見、雑誌記者の参加認める 朝日、自時… と報じられているが、実際は少し違うらしい。
J‐CAST 首相会見の出席枠拡大 民主党が記者クラブに申し入れ
PJニュース 民主党と記者クラブが「密約」、首相会見出席は徳麗華津限定的にと
ビデオジャーナリスト 神保哲生 なぜ記者会見がオープンでなければならないのか
新聞が書かない民主党の「公約破り」(山口一臣の「だめ編集長日記」)
鳩山政権 神保さん上杉さんそのほか雑誌記者さんへきつくお灸をすえる
Gatekeeping international news:an attitudinal profile of U.S.television journalists.
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by sleepless_night | 2009-09-16 22:53 | メディア

下品な島の猿の話を知ってますか?


「下品な島の猿の話を知っていますか?」と僕は綿谷ノボルに向かっていった。
綿谷ノボルは興味なさそうに首を振った。「知らないね」
「どこかずっと遠くに、下品な島があるんです。名前はありません。名前をつけるほどの島でもないからです。とても下品なかたちをした下品な島です。そこには下品なかたちをした椰子の木がはえています。そしてその椰子の木は下品な匂いのする椰子の実をつけるんです。でもそここには下品な猿が住んでいて、その下品な匂いのする椰子の実を好んでたべます。そして下品な糞をするんです。その糞は地面に落ちて、下品な土壌を育て、その土壌に生えた下品な椰子の実をもっと下品にするんです。そいういう循環なんですね」
 僕はコーヒーの残りを飲んだ。
 「僕はあなたを見ていて、その下品な島の話をふと思い出したんです」

 『ねじまき鳥クロニクル 第二部予言する鳥』村上春樹著(新潮文庫)

              *


私がアジアを救う
私は、国際貢献の一貫(ママ)として、貧困にあえぐ、東南アジアの一角、フィリピン共和国の名も無き人々に仕事を与えるため、幻の天然バナバを追い求め、四年間の歳月をかけ、前人未到の密林を切り開き、遂に、薬餌飲料「ユニバG」を誕生させた。
日本国は、糖尿病、高血圧症ならびに肥満に苦しむ人々を救い(音声では「救う」)、そして、フィリピン共和国を物心両面で救済する。
私はここに誓う。アジア人民のため、この身が朽ち果てる迄、一命を持って、この身を捧げ尽くす。
私がアジアを絶対に救う。
これが私の国際貢献だ(音声では「だぁ」)。

 『ユニバG物語』大神源太



「一介の知事がいきなり大臣とか首相候補に指名されるなんてありえない。でも歴史を変えなくてはならない」
「僕が行ったら負けません。負けさない。負けたら分権ができない」
「あの時、今変えないと宮崎は変わらないと思った。あのときみたに、いま勝負しないと歴史は変わらない」
「三年前に知事選に出る時、高千穂で決めた。神のお告げがあった。天孫降臨の地で、ぼくに白羽の矢が立ったと勝手に思っている。くしくもこんな日、また高千穂に来たのも何かの縁だと感じている」
 7月1日 県民フォーラム 初代そのまんま東(東国原英夫)

                  *



 会社を倒産させ、詐欺で有罪(高裁)とされた人物と、講談社襲撃に加わり、風俗店で未成年者のサービスを受け、後輩の後頭部を蹴り鞭打ち症を負わせた後に県知事として絶大な人気でマスメディアへ露出してマンゴーと地鶏販売や県庁観光化に成功し、若者への徴兵・徴農・体罰合法化を規律のためとして提言する自身は独身を理由に女性問題が囁かれ、政党代表を条件に二大国政政党への出馬を表明する程になった人物の発言を並べるのは不適切かもしれない。
 だが、彼をマスメディアで目にした時の私の感触は、大神さんを見た時のものと似ている。
 しかし、両者のとり上げられ方と、それが引き起こしている反応は正反対だと言ってもいいだろう。
 大神さんは笑いとあざけりの対象でしかなかったが、そのまんま東さんは英雄扱いだ。
 それでも、両者の「目」は似ている、と私は感じている。
 困惑する程の自己評価の高さ、自分へのゆるぎない信仰、全能感を隠そうともしない眼差し、「貢献」「救済」や「規律(教育)」「歴史」「分権」という言葉と発している自身の行動との恐ろしいほどの距離への無自覚。
 
 初代そのまんま東さんの知事としての評価に関して私はかなり不公平かもしれない。
 観光・物販を除く(これは知事の仕事ではなく芸能人の仕事。彼がいなくなれば通用しなくなるのだから、継続性や成長できる仕組みを作る行政の仕事ではない)彼の仕事を見てみると、他の県知事と比較して悪いものではないだろう。
 つまり、彼はさほど悪い知事ではないのかもしれない。
 でも、全国にいるさほど悪くない知事は二大国政政党の代表職を条件に国政へ出馬することを表明しないし、自分がいなきゃ地方分権ができないとは言わない。そんなことを表明してもマスメディアは大騒ぎしないし、好意的な取り上げ方をするとも予想されない。全国のさほど悪くない知事は自分が国を救うほどの画期的な業績を上げていないことを知っている。もし、自覚がなかったとしても
 「あんたいったい何をやったの?」といわれるのがオチだろう。
 初代そのまんま東さんは、もちろんこう答えられる。
 「3日に1回はテレビに出ました」
 県内の自殺も倒産も失業率も人口流出も3日に1回テレビ出演することの偉業を前にした県民は耳目を向けずに済む。県民は地元のローカル放送が全国へ流されるという快挙に喝采を上げ続けるだろう。

 彼は「知事」という冠(番組)で驚異的な高視聴率をたたき出した実績をひっさげて、今度は「総理」という冠(番組)を手に入れようとしている。
 「知事」という冠(番組)は通販番組で済ますことができた、宮崎の物産を初代そのまんま東として宣伝すれば日本の少なからぬ人が見てくれた。元2流芸能人がワセダで更生して地方で冠番組を持って成功したのだから、好意的に受け止められたのだろう。
 しかし、「総理」という冠をかぶったら、今度はどこへそれを流すのだろう。
 国内の民放は既に通販番組で飽和している。
 海外で初代そのまんま東は通用しない。
 
 大神源太さんのように映画でも作って世界へ公開するつもりだろうか。





追記)
山崎元さんのブログ 「王様の耳はロバの耳」 東国原さんの何がダメなのだろう で山崎さんも嫌な感じをそのまんま東さんから受けるているものの、“公のコンテクストで彼を批判しようとすると、論拠を挙げてトドメを指すことは案外簡単ではない。批判の仕方によっては、批判する側の人格の卑しさを露呈してしまいかねない。政治家としての彼を批判するなら、それなりの材料と覚悟が必要になる。”と述べている。
 過去の傷害・淫行などをもっていつまでも社会的活動から排除するのは間違っている、と私も考える。
 だが、どうしてそのお粗末な過去から「宮崎をどうにかする」や「国の未来」を憂うという時代錯誤的なまでの大文字の言葉をまき散らせる人間になったのか・なっているのかは問われるべきだし、それは公のコンテクストでも変わらない。
 自分や家族の生活を購うための仕事を云々する話ではない、公の組織の長の審査で、「わたしは変わりました」という当人の発言で済過去を済ませている国があるのだろうか。公人の言ったこと・言っていることとやったこと・やっていることの違いは常にチェックされる必要がある。
 高位の公職にある者が大幅にプライバシーを制約されることの意味を考えれば、彼の過去から見た現在を問われることは十分公のコンテクストに位置づけられると考えられる。
 
 また、政治家として機を察してより大きな貢献をするために現職を捨てることは筋があると言いうるものの“彼にはたとえば国会議員の職責を十分果たす能力(知能も人柄も)が無いと思っている。だが、こうした「心配」や「能力」への評価は、私の彼に対する評価の説明にはなっていても、他人を説得するコンテクストで主張するには盤石な根拠を持っているとは言い難い。”とも述べている。
 山崎さんが言及している、岸博幸さんの「クリエイティブ国富論 東国原知事は国会議員として適格か」 で述べてられていることで十分に“私の彼に対する評価の説明”を超えているのではないだろうか。
 それ以上、県のデータから県民の生活や経済が改善しているかどうかを判断する以上にどう知事の仕事を評価し他者を説得するのだろう。

 山崎さんはエントリで説得は難しいと言いながらそのまんま東さんへの低評価が説得的に述べられているなのは、それが狙いなのだろうけれど、確かに単なる中傷になりがちなだけに批判には留意しなければならないと思う。

 これも公式の定例会見で記者に向かって「ストーカーで警察にうったえてもいいくらいですよ」「あなたの生活態度をあらためてください」と言ってみたりテレビ番組で話し相手に「しゃべりかたがおかしい」と言ってみたり、反論されたり批判されると相手の質問・批判内容ではないことを批判することでごまかそうとする、そのまんま東さんへの山崎さんの揶揄なのだろう。
 




参照
  ○内○外日記「そのまんま東はなんかやっぱり怖いんだよ」
 モジモジ君の日記。みたいな。「そのまんま東ブームがみえなくしているもの」
 大田市長とれたて日記「東国原知事、どうしたの」
 宮崎の企業倒産:http://74.125.153.132/search?q=cache:MF9ezXmrWl4J:https://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/88311+%E8%B2%A0%E5%82%B5%E7%B7%8F%E9%A1%8D774%E5%84%844300%E4%B8%87%E5%86%86%E3%80%80%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E3%80%80%E7%9C%8C%E5%86%85%E3%80%80108%E4%BB%B6&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 宮崎県20年度予算案:http://www.pref.miyazaki.lg.jp/parts/000095549.pdf平成18年からの基金の減少
 宮崎の有効求人倍率:
http://www.miyazaki.plb.go.jp/antei/antei_02.html 
 宮崎の経済成長見通し:http://www.mkk.or.jp/2009_4/0904newsrelease.pdf
 宮崎の人口:
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/toukei/jinko-hayawakari/dotai_sokatsu.html#21 
テレビ出演回数: http://74.125.153.132/search?q=cache:Sq1cHe_AtBAJ:www.asahi.com/politics/update/0701/SEB200906300040.html+%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E5%8E%9F%E3%80%80%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E5%87%BA%E6%BC%94%E3%80%80%E3%80%80%E5%9B%9E%E6%95%B0&cd=9&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 都道府県別自殺率:http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/everymonth/pdf/kenbetsu.pdf
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by sleepless_night | 2009-07-06 22:31 | メディア

だから問いたい。




       図書館の水からの伝言は答えを知っている、わけないか。


     「水からの伝言」「水は答えを知っている」について、量が多いので別ブログ↑を開きました。


 
 基本的には各県立図書館の県内公共図書館横断検索でタイトルの欄に
 「水からの伝言」「水は答えを知っている」
 と入力して検索し、結果、これらの書籍が収蔵されている館のリンクを表示させ、分類がどこになされているかを調べた。
 分類が表示されていない場合は、請求記号を記した。
 分類番号と請求記号が異なる場合は、請求記号について(請求~)と書いている。
 また、其々の県立図書館内の横断検索が何らかの理由で利用できなかった場合は
 レファレンスクラブ http://www.reference-net.jp/lib_link.html
 を利用し、リンクを表示させ、上の手順でそれぞれの図書館内検索に表示させて調べた。
 大学については各県の横断検索に入っていれば、その結果を記したが、ない場合は各県の国・県立大を基本に調べた。
 全国の大学図書館の蔵書はNACSISで分かるので、そちらを参照した方が大学蔵書における2書の扱いについて知るには早いだろう。
 水からの伝言:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA42419073
 水は答えを知っている:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA55164849
調べたのはここ1カ月ほどの間なので、調査結果はその期間で表示されたものだ。
さらに、見落とし・見間違いの可能性は否定できない。
正確な現時点での情報が必要ならば、横断検索のページを開いたり、各市町村の図書館のページから、自身で検索してみてほしい。
ただ、この国の、私の、あなたの住む場所・地域にある図書館で「自らの伝言」「水は答えを知っている」という2つの書籍がどう分類されているのかを、おおざっぱに知るに足るだけの情報になっているとは自認している。

 ちなみに、分類番号・請求記号は日本10進分類法に従っているので、2書の代表的な分類である435.44と147で言えば、435は無機化学、147は心理学・心霊研究の分類を表している。他にも若干別の分類をしているものがあるが、それについては随時(十進分類で「~」に該当)記してある。
 つまり、435.44と分類・請求がなされていれば、私たちはその図書館で化学の図書の中に「水からの伝言」「水は答えを知っている」を目にすることになる。


 この2書籍の分類が全国でいかになされているかという面倒で実りのなさそうなことを調べようと思い立ったのは、私の住む街の図書館での出来事がきっかけだった。
散歩ついでに図書館に寄って、科学の棚で面白そうな本を見繕っていると、この2書籍が435の棚に並んでいるのが目に入った。
 意外なことで、自分が見ている棚を確認した。間違いなく化学の棚だった。
 勝手に占いの棚にでも置いてしまおうかと思ったが、占いの棚も一杯で、置く余地がなさそうだったので、その思いつきは放棄した。
 何もしないのも癪なので、本をもってカウンターへ行って聞いてみた。

 「すいません、この本の分類について知りたいんですけど」
 「はい」
 「この分類ってどうやって決まっているんですか?」
 「うちはTRC(図書流通センター)の分類に従っています」
 「でも、この本の分類はおかしくないですか?」
 「うちはTRCに従っているので」
 「それじゃあTRCでこの分類になっているのか確認してください」
 「今ですか!?」
 「はい」

 といった感じの会話を(貸出手続をしていない)カウンターの内側にいて目のあった図書館員と思しき人と交わた。
 図書館員と思しき人は日常の忙しい業務、を阻害しようとする利用者の存在にとまどいを見せ、TRCで確認してほしいと言うと明らかに不満と驚きを露わにした。まるで、私が下着の色を今すぐにトイレに行って確認してほしいと要求したかのようだった。
 私は、特別おかしな要求をしているつもりがなく、むしろ図書館職員の本業に関わるような質問をしているつもりなのに、不満げな驚きを向けられて若干憮然とした。
 図書館員とおぼしき人は5分ほどして早足で戻ってくると、もっていった本を私に渡して言った。

 「はい、一冊だけ147でした。あとはそのままです」

 私は本を受け取ると、この予想外の回答に混乱した。
 
 「これでいいでしょ」

 私は図書館員とおぼしき人の、その言葉に何と応えていいのか、他に私が問いうることがわからず(分類が違っていたのを私に渡していいのか?)

 「いえ、よくはないんですけど…」

 と混乱し俯いて手にした本を見つめたまま言った。

 でも、その図書館員とおぼしき人は、君子も図書館員もクレーマーに近寄るべきではないことを旨としているのか、私の前から立ち去り、カウンターの奥へと消えていった。
 とりのこされた私は、自分がこれ以上何をできるだろうか、よくわからないまま帰宅して、この件に関してざっと情報をあつめた。

 ブログyamada_radio_clinicで青森県の事例が紹介され、さらにそれを引いてブログcold9science@wikiでは読者に図書館での分類を確認して、科学に分類されていたなら見直すよう図書館に提言するように呼び掛けられていた。
 この呼びかけに、どれほどの人が応えて、行動に移したのかは分からない。
私の調べた結果からは、行動があったとしても私のように実を結ばなかった例が多かっただろうとは予想できる。

本の分類について、多くの図書館、特に人員に余裕のない多くの図書館ではTRCなどの分類に自動的に従って、館独自の判断というのはないのだろうと推察される。
 私の相手をしてくれた図書館員とおぼしき人、というのも、彼が図書館の正規の職員なのか、司書資格を持っているのか、私には分からない。
 利用してる図書館は中規模の市立図書館で都市部の図書館の例にもれず、ホームレスらしき人々と泣き叫ぶ・走り回る子供と勉強している学生で満ちて、それを捌くためにパートやアルバイトが多くカウンターや棚で働いている。

 生産に、もの作りに、直接結び付くようには見えない図書館に、潤沢な資金(税金)が投入されている地域が簡単に見つかるとは思えない。
 図書館をバックにした強力な政治力をもった組織が存在するというのも知らない(だけで、あるのかもしれないけれど)。
 少なくとも、私の利用する図書館が潤沢な資金に支えられているようには見えない。
 行政にお得意の妙な(先進的な?維持管理費の掛かりそうな)デザインの巨大なハコモノが計画通り作られ、それに合わせたかのように、10年以上住んでいるのに聞いたこともないような内容のキャッチフレーズが市に付けられ、そのキャッチフレーズがさらに訳のわからない方向へと表面的に街を引っ張っているなかで、図書館はキャッチフレーズに関わりのない混沌にいる。
 
 図書館は国民の知る権利を保障、自由主義社会・民主主義を維持するための不可欠の前提となる知識の獲得を保障するための施設であり、国民の精神的自由・成長・発展の基礎となるための資料を提供する。
 図書館の自由に関する宣言でもそのため
 “第一 図書館は資料収集の自由を有する。”“図書館は、自らの責任において作成した収集方針に基づき資料の選択および収集を行う。その際、(1)多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの簡単に立つ資料を幅広く収集する。(2)著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除するいことはしない。(3)図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。(4)個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。(5)寄付資料の受け入れにあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。”
 “第二 図書館は資料提供の自由を有する”“図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。”
 と収集・提供に関して図書館自体の独立性と自律性を宣言し、これには“わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。”との歴史的背景もあることが示されている。
 さらに“検閲が、図書館における資料収集を事前に制約し、さらに、収集した資料の書架からの撤去、廃棄に及ぶことは、内外の苦渋にみちた歴史と経験により明らか”であることから“第四 図書館はべての検閲に反対する”とし、これには“ 検閲と同様の結果をもたらすものとして、個人・組織・団体からの圧力や干渉がある”と主体を行政権力から広げている。
 この点からすれば、図書館がどの分類にどんな図書を置こうが、図書館の自由であり、それに対する圧力は「悪」とされるだろう。また、過去に思想善導機関であった反省からすれば、どれほど荒唐無稽でも著者の著作への位置づけや主張に分類は従うべき、となるだろう。

 だが他方で、図書館は図書館法に基づき、図書館法は社会教育法の精神に基づき(図書館法1条)、その社会教育法は教育基本法の精神の則り(社会教育法1条)、教育基本法は“真理を求める態度を養”(2条)うことを目標の一つに掲げている。(目標には“生命をたっとび、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う”もあるけれど、「水伝」「水答」の著者江本勝さんの提唱する“言霊による水の浄化セレモニー”は環境保全に結び付かないだろう。)
 ここからすれば、「水伝」「水答」が化学に分類されることと真理を求める態度の育成がそぐうものではない。

 しかし、教育基本法は憲法の精神にのっとっており、その憲法に図書館の自由に関する宣言は支えられている。

 こうして図書館は法律と憲法の作り出す円環の中心で自由を叫び、「水伝」「水答」の置かれるべき棚を巡る問題は図書館の現場で業者の供給する図書分類へと流される。

 
 果たして、それは図書館の自由なのだろうか。
 少ない予算、限られた人員、忙しい業務、それ故に業者に流される図書の分類。
 それが図書館の自由に関する宣言が謳った、憲法の保障すると言う自由なのだろうか。

 私は違うと考える。
 むしろ、それは自由の破壊だと言いうる。
 図書館で司書などの職員が検討した結果なら、「水伝」「水答」を化学の分類にしようが物理学に分類しようが、図書館の自由・自律・独立性が意味する表現の自由・知る権利という原則に従って最終的に(反対意見は表明しても)従うべきだと私は考える。
 その図書館の分類に納得したからではなく、表現の自由という原則を支持する以上はそれしかない。
 しかし、業者が提供する分類だから従い、業者が変えたから変更する、業者の分類が即図書館の分類となり、それ以外にないという態度を図書館が採っているなら、その図書館はもはや表現の自由も知る権利の原則も放棄している、自らが宣言したはずの分類を独立して自律的に判断しうる自由と同時に放棄しているとしか言いようがない。

 「水伝」「水答」の水という物質によって言葉の良し悪し、思想の善悪が分かるという主張と、この図書館の態度は同じだ。 
 自由な決定こそが倫理を問う前提であり、物質的に決定されるものを受け入れることが倫理ではない。
 自由を免じられようとし、考えることを放棄する。
 それは人間の倫理の否定でしかない。
 
 図書館が業者の分類に従い、それだけで「水伝」「水答」を化学に分類するなら、私はそれを受け入れない。
 だから問いたい。
 なぜ、あなたの街の図書館はこのような分類をしたのか。




参照)
COTTO TOWN図書館日誌:選書と検閲
kikulog:カテゴリー「水からの伝言」
PSJ渋谷研究所:図書館でニセ科学書籍は、たとえば147に分類してもらおう。


後日、館長を見かけたので声をかけ、話した結果、江本著のTRC分類が変更されていることが確認され、分類は変わった。
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by sleepless_night | 2009-05-09 22:45 | メディア

公然と。

 




刑法174:公然とわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

 と定めている。
 この解釈は

 “本罪の実行行為は、公然とわいせつな行為をすることである。公然とは不特定または多数人が認識しうべき状態のこととされる。不特定であれば少数でもよく、多数であれば特定の人の集団でもかまわない。そしてそれらの者がわいせつ行為を実際に認識する必要はなく、認識する可能性があれば足りる。問題はその可能性の程度であり、人が通行する可能性もほとんどない浜辺や早朝の道路・公園等で全裸になる行為は本罪に該当しないと解するべきであろう。”
       『刑法各論講義 3版』前田雅英著(東大出版会)

 というのがオーソドックスなもの。

 
今回の問題は、彼のわいせつな行為(全裸)に公然性があったか否かということだろう。

 場所が六本木という飲食店の多い地域の近くで、当該公園のすぐ横にホテル、近辺に病院と、24時間人が出入りする蓋然性がある施設がある点を考えると公然性はあるとも解釈される。
 一方、当該公園は夜間の立ち入りが制限され、さらに1.4ヘクタールの広さがあり彼が全裸でいた場所によっては人通りの可能性が極めて低いと言え、時間も午前3時と最も人通りが少ないと考えられる時間帯であること、しかも実質的な被害を受けた人間がいない(※)ことを考えれば同条が想定する公然性があるとは言えないとも解釈できる。

ただ後者の場合でも、
 
 軽犯罪法1条14項 公務員の制止をきかずに、人声、楽器、ラジオなどの音を異常に大きく出して静穏を害し近隣に迷惑をかけた者

 に該当するので、彼がまったくの無罪になるわけではないが。



   
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ということに、当分なるのだろう。
 無駄なことを。
 


ばか騒ぎをしている今日、自衛隊が海外で武力行使を行うことになる法案が衆院通過。




※読売 24日06時03分「草なぎクン、なぜ逮捕したの?」警察に女性ファンの抗議殺到
 “同容疑者が全裸になっていた時は、公園にいた人が目撃していた”
 とのことなので、事実なら公然わいせつ罪の要件を満たす。
 逮捕は適当でしょう。
 
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by sleepless_night | 2009-04-23 20:10 | メディア

哈日

 



 話題に出ているNHKの番組はちらっとだけしか見ていない(台湾の老人が教育勅語を諳んじられると訴える場面だけ)。
 なので、感想を読んだ感想になってしまうが

 ブログ「台湾は日本の生命線」
  証言の「断片」のみ放映―台湾の被取材者が怒る反日番組「NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビュー」を読む限りでは、日本の侵略面に重点を取り上げたものだと感じられる。


他方
 ブログ「コナームタ・セイディーナ」
   「台湾=親日」 では(名指ししていないが「台湾は日本の生命線」のエントリに)対して
 “批判する前提が、「台湾=親日」という幻想にあるとは、まったくもって辟易しますね”と“戦後台湾の対日観・対日感情は、事情に複雑で重層的”であるのを無視している、また番組の内容自体からも親日的雰囲気が抹消されてたわけではないと批判をしている。

 さらに
 ブログ「過ぎ去ろうとしない過去」
  NHKスペシャル『アジアの“一等国”』が伝えようとしたもの  では“コロニアルな視線の獲得こそ日本が「文明国」の仲間入りをする条件であったという事実から、「近代」とは何だったのかという本質的な課題を提示するものであった。(略)台湾は「親日」か「反日」かという議論は、「台湾問題」を「日本問題」としてとらえていないものであり、したがってこの番組の意図を正しく読み取れていない”と指摘している。”


 それぞれのエントリを読めば、下2つの批評は首肯されるものだと思う。

 番組を見ていないので、私自身の番組自体への感想も批評も持ち得ないが、「台湾=親日」という前提ゆえに、台湾に対する日本の支配の及ぼした被害を取り上げることを「反日」と騒ぐのは、ブログ「コナームタ・セイディーナ」の指摘通り複雑で重層的な台湾の被支配の歴史を無視することになるだろう。
 

 ただ、ブログ「台湾は日本の生命線」で“被害者”とされる 柯徳三さんをNHKが台湾同化政策被害の中心人物として取り上げるのは難があったのかもしれない。

  
 柯徳三さんは、当ブログのエントリ「非/国民」で台湾問題で述べるのに取り上げた “公学校に入った時、級の中に内地式に育った人が一人いたが、私はその友達を見て、台湾語を全然知らないということは、どんなに幸福だろうかと思った。台湾語を全然知らないということは、それだけ内地人に近いと考え、ただそれだけのことで、組中の尊敬の的となり、組の大将になることができた。”と嘆き、日本人になろうと必死に勉強して公学校から名門台南一中、そして仙台二高・東大医学部へと進んだ葉盛吉の立場に近く、差別をなくそうとするのではなく、(ひとまず)差別をされないために差別する側へ回ろうとした植民地エリートなのだ。
 そこには台湾の同化教育の精華とされたのに内心では冷めた目を日本に向けていた黄鳳姿のように「平等」を求めるのではなく中華思想を含んだ面従腹背するエリート家庭や日本人だと信じて疑わずに育ち戦後に深刻なアイデンティティの危機を迎え(再び日本の宗教を信仰することで同化して危機を乗り越えた)た王恵美のようなエリート家庭といった帝国日本において「平等」だった存在は見えない。
また、 「反日/日本人」で取り上げた中村輝夫こと李光輝のようにエリートでもなく、ただ同化教育を受け、そのまま戦争に日本人として戦い、そして日本に捨てられて死んでいった被害者でもない。
 
 ブログ「過ぎ去ろうとしない過去」で紹介されているように“植民地支配にたいする評価が、証言の中で豹変する瞬間、その地点に台湾植民地問題の本質”があるというのは重要で素晴らしい着眼だと思うが、「台湾=親日」という前提を持つ人々は気付かないだろうし、台湾の被占領史を知らない人々なら(ブログ「台湾は日本の生命線」が書き起こしているような証言の紹介ならば)「日本は悪いことをしました」という有りがちな感想で終わってしまい、結局、分かる人だけが分かるという番組になってしまったのではないだろうか。
 そして、なにより番組に取り上げられた柯徳三さんは無理な“被害者”の型にはめられるという番組制作の弱点を引き受けさせられてしまったように推測される。
 見る側の問題も当然にあるが、日本における台湾のとらえ方の複雑さを考えれば、作り手は誰に伝えようとするのか、そのための表現のコスト、慎重さと洗練のバランスをいかにとるのかが作り手に問われるのも当然だと思う。
 番組を見ていないので、あくまでも推測であり、感想の感想だが、そう思える。




 
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by sleepless_night | 2009-04-13 21:38 | メディア

Yes,we can!









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                 あと4年は仕事がなくならないぞ。
                    (後ろにいるのは京本正樹か?)



               




                          *

 豪華な外国客船では、イベントなど接客部門を担当する船長と、実際の航行を指揮する船長(スタッフ・キャプテン)がいるという。
 海運雑学ゼミナール:日本船主協会

 東京・大阪・宮崎と実績のないタレントが県の首長になることが続いているのを見ると、知事も外国客船の船長のように2人作って、片っぽうには「県のセールス」や「県民サービス」を担当してもらって、実務的なものと別枠で知事を選ぶようにしたらよいのではないかと考えられる。
 現在でも、似たような立場として観光大使などが存在するが、これは選挙で選ばれているわけでもないし、「大使」としての露出も少ない。
 「大使」となっているタレントは、「大使」としての仕事によってタレントとしての自分の価値が上昇するというより、タレントとしての自分の知名度などに「大使」の仕事が依存されている。つまり、「大使」はタレントとしてのうまみにつながらず、意欲がわかず、タレントを抱える事務所としても積極的に一線級のタレントを「大使」へとアピールしようという動機を持たない。
 しかし、これが上記の外国船船長のような知事、実務担当知事と「セールス・サービス」担当知事の2人制だったら話は変わる。

 この2人知事制のメリットは大きく3つある。
 まず、今のように賞味期限が切れたタレントが残存している知名度を活かして政治家となることによって、アテンション・ジャンキーとしての自分を満たそうと、政治の重大なポジションをいたずらに占め、何も変わらないなら良い方で、自身の無知を気づこうとしない怠惰から発される腐臭漂う思い込み・思いつきを実現しようとしてしまう現状のような危険を防げるという点がある。
 これは、知事を2人にすることで、実務担当に実績も説得的なビジョンもないタレントを選ぼうとするとき、従来までの「県のセールス」と「親しみ・楽しさ」という言い訳が有権者にも通用しないものとして自覚され、タレントを忌避するようになるからだ。さらに「セールス・サービス」担当知事選挙でマス・メディアのばか騒ぎがなされることで間接的に実務担当知事選挙は落ち着いたトーンで報道がなされ、候補者は今のようなイメージや勢いでの戦いがしにくくなるという効果があるかもしれない。
 つぎに、明確に「県のセールス」「県民サービス」を担当とする知事を選ぶことで、犯罪を行いながら道徳を説くという低レベルの、賞味期限が切れた、タレントは選ばれなくなる点。
 考えても見てほしい、わざわざ「県のセールス」を選ぶというのに、どうして森田健作を選ぼうとする人がいるだろう千葉県出身(※)で彼とキャラクターがかぶりそうな有力候補として(世界の)千葉真一もいるし、原稿を読むのがうまそうなNHKのアナウンサーもいるではないか。セールスでいったらヨネスケの家庭への浸透度に勝る人物はいないだろうし、若い世代の千葉県への注目を集めるなら押切もえが『Ane Can』に千葉県知事の肩書で登場するのだから森田健作が歌うよりもはるかに効果があるだろう。さらに極めつけは、ドラマで総理大臣を演じた木村拓哉が千葉県出身なのだから知事くらいできるだろう。抱かれたい知事No1は間違いなしだ。個人的には真木よう子の渋さに投票したいが、このような知事を選ぶむずかしさは、一歩間違えると現在の観光大使と似たようなポジションへ堕ちてしまう点だろう。そこは、県民のセンスが問われる。
 そしてなにより、立候補するタレントの質が向上する。
 上で千葉真一から木村拓哉などと千葉出身のタレントを挙げていったが、現在の知事や観光大使にこのレベルの人たちが積極的に立候補しようとはしないだろう。既述したように、現在の観光大使はタレントの実績になるというよりも、タレントの実績に「大使」が依存するという状況に感じられ、タレントとしても事務所としても積極的に活動するうまみがなさすぎる。また、現在のような知事では失敗のリスクを考えれば、タレントとして活躍できている時期に立候補する動機がない。
 これが「セールス・サービス」担当知事ともなれば話は別になる。
 選挙戦に立候補するだけで、公選法の規定によって相当程度のメディア露出が保障される。これならたとえ落選しても損はない。「セールス・サービス」担当なので政治的なリスクを負わなくてすむ。
 当選したら、「県のセールス」として全国各地で仕事ができる。どこかにいって何かを売り込む・視察するたびにメディアは追いかけてくれる。マス・メディアとしても数字は取りたいが、政治ネタもしなくてはいけないのでタレント知事に飛びついてそれらしいポーズをとってみるという現状を積極的に肯定してくれるので好意的に取り上げるだろう。
 そのまんま東のように商品のパッケージに自分のイラストを付けたり立て看板も作られるだろう。
 (できたら、こういった場合には通常より安くではあるが利用料を徴収して知事の給与にあてられたら、予算面でも助かるだろうし、有権者も真剣に選ぶだろう。落花生や梨のパッケージに森田健作か押切もえかどちらを選ぶと聞かれたら答えるまでもないだろう)
 各県にも「セールス・サービス」担当知事がいるのだから、気は抜けない。テレビの特番で全国知事会の放送だってあるはずだ。
 議会でも答弁にたって、現在の知事同様に用意されたペーパーを読み、会見にでて予め回収されている質問をもとに作成されたコメントを読むのが、テレビに映され、新聞に掲載される。
 これでも立候補するタレントがいなくて、結局、森田健作におちつくのではないかという疑問も生じるが、たとえ立候補しても彼の当選はないと考えられる。
 なぜなら、木村拓哉が立候補することはないとしても、そこから森田健作へ至るまでに存在する多くのタレントがいて、知事としての露出に魅力を感じる事務所、注目への嗜癖を満足させたいタレントは必ずいるだろうからだ。


 もしかしたら、この知事2人制でも、実務担当知事にタレントが選ばれるかもしれない。
 そのときは、きっとそのタレントが本当に能力があるか、有権者にほんとうに能力がないかだろう。






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(※)ウィキペディア:千葉県 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C

石川滋さんの活動日記:きょうも歩く「理想の上司がしっくりこない」 で示された毎年恒例の理想の上司アンケートの結果への違和感。“プレイヤーとして素晴らしくても、自分を管理し、自分に指示を下し、自分を評価する人物がどうあるべきか、そういう観点があまりにもなさすぎる。”というのは確かにそうだと思う。これは新入社員を対象にしたものなので、無理もないかもしれないけれど。
「セールス・サービス」担当知事の選挙はこの点、そういう観点抜きでよいのだから楽だろう。
ちなみに、福島研知事は伊東美咲がいいと思う。




 
 

 
 
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by sleepless_night | 2009-03-30 20:34 | メディア

OUT OF 眼中。



 以下のように30秒で計11枚の写真をナレーションと共に流す民主党の政党CMをテレビで見て驚きを感じた。
①40~50代の男性の話を水田で聞く小沢代表。
②同じく水田で30代の男性と話す小沢代表。
③作物を手に顔をほころばせる小沢代表。
④公民館のような場所で話す小沢代表。写真に写っている12人の聴衆の中心が3人の白髪の男性の後姿と後頭部が禿げている一人の男性。
⑤事務所のような場所で40~50代のアロハのようなシャツを着ている恰幅のよい男性の話を真剣な面持ちで聞く小沢代表。
⑥同じ場所で話を聞いているような小沢代表。
⑦施設らしき場所で入所者の高齢女性の話しに耳を傾ける小沢代表。女性の後ろに介護士らしき40代の女性。
⑧野外の集会でテントの前に立ち微笑む小沢代表。テントの中に30~40代の女性二人、テントの後ろに50~60代の男性が拍手。
⑨公園での集会で話を聞く小沢代表。写真中央は座って幼児を抱く20代の女性。その隣に20~30代の女性が3人。保育士らしき格好をした30~40代の女性。その背後にカメラなどを担いだ男性のカメラマン多数。
⑩同じ場所で微笑む小沢代表のアップ。
⑪水田で何かを手を振りながら何かを話す小沢代表。

 
 前回のCMも同じように11枚の写真とナレーションで構成されているが、映し出されているのは
①都会の交差点を渡る人々を上から。
②中小の運送会社の小型トラックを洗う50代の男性。
③パン工場で食パンを袋につめている20代の男性。
④オフィスで残業をしている20~30代の男性がカップラーメンを食べている。
⑤病院の待合室で座る20~30代の女性とその子、60~70代の男性二人。背後に受付で女性の看護師と年齢判別不明の女性。
⑥郊外の一戸建て郡。
⑦花屋の20代の女性店員が花を選んでいる。背後に30~40代の女性店員。
⑧都市の路上で携帯をかける20~30代の男性。
⑨小学生向けの学習塾で男の子に声をかけている30代の女性教師。
⑩郊外の住宅街でベランダで子どもをあやす30代の夫婦。
⑪「生活が第一」と言う小沢代表。

 比較してみれば、 
 前回のCMは都市・郊外の20~30代が中心となる対象で、メッセージは「景気・労働・子育て」が中心的だと解釈できる。
 対して今回のCMは地方・郊外の50代以上が中心となる対象で、メッセージは「地方(農業)・年金・子育て」が中心的だと解釈できる。
 なにより特徴的な違いは、前回は中心を20~30代においても(都市か地方かの色が薄い場面で)50代や60代以上の高齢者を出してバランスをとって(とろうとして)いるが、今回は20~30代の都市部で働く人が一人も出ていない。本当に皆無で、そもそも、前回にあった「労働」のメッセージが完全に消えていること。

 これが地方や都市部でも昼間のみに流されているならわかるが、他のバージョンもなく、これだけを都市部で終日流していいのだろうか。
 なぜ流しているのか理解に苦しむ。
 今回CMから消えた層は黙っていても民主党に投票する、あるいは何を言っても民主党に投票しない(どこでもいいから投票してくださいって共産党にあげたということ?)と考えて、眼中にないと言いたいのだろうか。消えた「労働」は民主党政権にとって最重要項目ではないことになったのだろうか。
 前回衆院選の民主党の東京・神奈川での結果や世論調査の結果を踏まえての判断だったのか、非常に疑問だ。
 というより、大丈夫?
 総理を二人辞めさせた法案をあっさり通してしまったけれど、そこまで選挙だけを考えているのに、重要なCMがこれで大丈夫なのだろうか。



 
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by sleepless_night | 2008-10-23 23:42 | メディア