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「報道」の「真相」

 Hiroshi Yamaguchiさんのブログhttp://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/4065735
で日本テレビの「真相報道バンキシャ!」に疑問が呈されています。

 すでにhkkkdさんが『北海道に住む国家公務員日記』の「取材の自由」の限界で必要十分な解説をなさっているので、何も法律的には言うことがないのですが、一つ繰言を加えさせていただきます。

 番組HP(http://www.ntv.co.jp/bankisha/index.html)によると、福沢朗さんと菊川怜さんが同番組のメインキャスターを勤めていらっしゃいます。
 そして、番組のタイトル通りに同番組は報道番組に分類されています。
 http://www.ntv.co.jp/news-info/index.html

 福沢朗さんは、88年から日本テレビのアナウンサー、そして、05年6月30日に退社して、現在はフリーアナウンサー。
 http://66.102.7.104/search?q=cache:CU4sFza2Xv4J:www.asahi.com/culture/update/0513/013.html+%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E6%9C%97&hl=ja
 菊川怜さんは、オスカープロダクション所属の女優(タレント?)。
 http://www.oscarpro.co.jp/profile/kikukawa/

 女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日で述べたことがここでも言えます。

 福沢さんもアサヒビールのCMに出演なさっています。
 http://www.asahibeer.co.jp/shinnama/

 女優に報道番組のキャスターをやらせる時点で、すでにこの「真相報道」とやらの底が見えていたのです。
 それに追いうちと言うか、裏書というか、お墨付きというか、を福沢さんがしたのですね。

 最初から、「報道」とは認識するべきではない、と言うのが「真相」ではないでしょうか。


追記)H Yamaguchi(山口浩)さんのコメントを受けて。
コメント:“「バンキシャ!」のキャスターの人々の本職に関する点は、正直よくわかりません。利害関係がまずいというのであれば、「参加型ジャーナリズム」なんて存在自体おかしいですよね。誰が番組に出てるかより、何をやってるかのほうが大事なように思えるのですが、どうでしょうか。”

 利害関係がまずいというのであれば、「参加型ジャーナリズム」なんて存在自体おかしいというご指摘について
 これは、“利害関係がまずい”即ち「報道に携わるものがCMに出てはいけない」と言うこと自体を「参加型ジャーナリズム」の存在を理由に否定できるということでしょうか?
 そうであるなら、順序が逆だと私は考えます。
 つまり、ジャーナリズム・報道において「参加型ジャーナリズム」以前にマス・メディア(新聞、テレビ、雑誌、ラジオ)にジャーナリズム(職業ジャーナリズム)があり、そこで報道、ジャーナリズムとは何かという理念や概念が生まれたはずです。
 確かに、既存のマス・メディアの報道・ジャーナリズムに限界や欠点が目立ってきたことから「参加型ジャーナリズム」が考案されたのだと思います。
しかし、既存のマス・メディアの報道やジャーナリズムによって生み出されてきた報道やジャーナリズムという理念・概念自体を否定するものではないのではないでしょう。
 「報道に携わるものがCMに出てはいけない」ということ、より広範に言えば、「ジャーナリストは当事者になってはないけない」「ジャーナリストは読者・視聴者に対する義務を最上に置かなくてはならない」という倫理規範は「参加型ジャーナリズム」に要請されるべきこそすれ、それをもって従来の報道やジャーナリズムを否定する理由にはならないと考えます。
 (海外のニュースについてはネットを主に情報源にしているので分からないのですが、海外でも報道番組のキャスターがCMに出ているのでしょうか? 金融問題に関するニュースを伝えて「CMです」と言った直ぐ後に、同じ人物が「~の保険はよい」と伝えるという事態は海外でも起きているのでしょうか?)

 では、“利害関係がまずい”によって「参加型ジャーナリズム」は成立しないのか?と言う点について。
 まず、「参加型ジャーナリズム」をどのような位置で考えるのか、「参加型ジャーナリズム」に対してどのような期待を持つのかという前提によって、この点についての見解は分かれると思います。
 「参加型ジャーナリズム」が既存のマス・メディアによるジャーナリズム(便宜的に「従来ジャーナリズム」と呼びます)に代替するもの、競合するものに位置する、として期待するのならば、“利害関係がまずい”は「参加型ジャーナリズム」にとって大きな問題となるでしょう。
 特に、現在のネットの大部分の言説が匿名によって成っている、匿名情報が大きな力になっていることを考えると、“利害関係がまずい”を回避する、「従来型ジャーナリズム」と同様の利害関係に関する倫理規範を保持することは「参加型ジャーナリズム」に対する期待の実現を大きく阻害するはずです。
 これは、現に「参加型ジャーナリズム」を標榜しているJANJANの記事を見ると理解されるのではないかと思います。(記憶違いです。JANJANはペンネームも可でした。http://www.janjan.jp/journalist/journalist.html)
 「参加型ジャーナリズム」を「従来型ジャーナリズム」の代替や競合するものではなく、補足的なもの、さらには「従来型ジャーナリズム」にはない機能(議論や視点の多角性)と言う点からみれば“利害関係がまずい”は「参加型ジャーナリズム」にとって致命的なものとは言えないと考えます。
 確かに、“利害関係がまずい”という認識、報道やジャーナリズムの実践に関わる倫理規範の認識があることは必要だと思います。
 しかし、「従来型ジャーナリズム」の担い手と違って、それを生業にしていない以上は“利害関係”の明示、それも主に発信者の倫理観に頼っての、があることでよしとしなければ現実的ではないでしょう。
 その脆さを補うことは、「従来型ジャーナリズム」なら不可能だと思いますが、「参加型ジャーナリズム」ならば「参加型」故に可能だと考えます。
 つまり、「参加型ジャーナリズム」の機能によって“利害関係”から生じる偏りが是正される可能性、若しくは、偏ったものであると他の参加者によって示される可能性があると言うことです(報道ということではありませんが、ソニーが宣伝目的でブログを利用した件でこのような機能が発揮されています)。⇒追記:ユートピア論を唱えるつもりはありませんが、“許された危険”とネットの匿名性で述べたような善意に期待する部分はあります。もちろん、善意に依存するというのではなく、基本的には善意であろうという期待に立つという意味でです。現状でも厳しさは感じますが、これを放棄するとネットを利用した「参加型」の力は相当に落ちると思います。

 この二つのタイプがハッキリと分明されて存在せずに、幾つもの「参加型ジャーナリズム」の場や組織がそれぞれの色合いで存在することができれば、“利害関係がまずい”ということを何とかクリアできるのではないかと、私は考えます。
 これが「参加型ジャーナリズム」の最終的な形としてどうかという疑問があり、ネット出現以降のジャーナリズム全体の形としても最善とは思えませんが、ひとまずの形(一つの段階)としては適当なのではないかと思っています。

 誰が番組に出演しているかよりも、何をやっているかの方が大事というご指摘について
 これは全くその通りだと思います。
 上記の記事の書き方が悪かったために、本業が何かということを指摘しているように読めてしまったと思います。
 しかし、基本的には上記記事でもリンクした女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日と同様のことを述べたかったのです。
 
 何をやっているか、報道をしているのか、ジャーナリズムを実践しているのか、ということが、報道番組としては言うまでもなく核心だと思います。
 それができていないことと、誰がやっているか、その人物が報道やジャーナリズムをどう考えているのかは結びつくはずです。
 今回で言えば、福沢さんはアナウンサーとして報道やジャーナリズムに関わっていたものの、CMに出ること、人物に対する視聴者の信頼を一企業の宣伝に用いたという行為によって、どの程度の考えでやってきたのかが表されているのではないでしょうか。
 菊川さんの報道やジャーナリストとしての実績を私は知りません。
 本業が何かと言うことではなく、なぜ報道とは言えない、ジャーナリズムの実践とは言えないと認識される行為を報道の名の下でできたのか。
 それが、メインキャスターを務める二人が何をしている人なのか(本業が何かということを決めるのではなく)を見ることでも理解されるのではないかと思います。

 一企業の商品を宣伝すること、つまり、視聴者への義務よりもスポンサーへの義務を優越したものと認識される行為を行えた人物と演技することを実績としてきた人物だから、できたのではないか。
 そう私は思います。


 
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by sleepless_night | 2005-12-02 22:46 | メディア

9・11の論理

 テロとの戦争を前面に出して勝利した、ジョージ・W・ブッシュ。
 郵政民営化を前面に出して勝利した、小泉純一郎。

 一方は、9・11という自爆攻撃をされたことで、都合の良い争点を与えられ勝利した。
 もう一方は、自爆することで、9・11を作り出して、都合良く争点を絞り勝利した。

 どちらも、「テロの撲滅」「官から民へ」という、それ自体は否定されないキーワードで自分を覆い、具体的に何をするのか・どうなるのかを問わせなかった。

 一方は、恐怖を煽り、反動の攻撃を支持させた。
 もう一方は、不安の反動の強権を支持させた。

 そして

 一方は、「テロの撲滅」で、テロとは関係のないイラクを占領できた。  
 もう一方は「官から民へ」で、郵政民営化の結果がどうなるにせよ、郵政と関係の無い、どんな法案でも通せるようになった。
 

 9・11の論理。

 9・11の論理は、論理自体に注目を集め、恣意的に前提を設定されて使われる。

 一方では
        テロは撲滅しなくてはならない
               ↓
            イラクはテロ支援国だ
               ↓
        故に、イラクを撲滅しなくてはならない。

 もう一方では
         官から民へ移行しなくてはならない
               ↓
            郵便局は官だ
               ↓
         故に、郵便局を民営化しなくてはならない

 どちらも、論理の整合性のみがスッキリしているが、そもそもの前提はスッキリしていない。

 一方には、そもそもどうしてテロが起きるのか?
        そもそもイラクはテロ支援国家なのか?
 もう一方には、そもそも官から民へ移行させることの目的は何だったのか?
          そもそも、郵便局の各事業も、他の官業もひと括りで語れるの?

 とられる手段は目的実現に有効なものなのか?

 
 そして

 一方では、軍事制裁を拒否されたわけでもないのに、なぜか3ヶ月の査察延長を拒否し、形だけの連合を作って軍隊を侵攻させた。
 もう一方では、任期がまだ残っているのに、なぜか継続審議を拒否し、それだけの賛否を基に組織を再編して選挙をした。

 どちらも、その時、国民は圧倒的にそれを支持した。

 しかし
   
 一方では、支持をした本人達が、それが自分達の首をしめることだったと気付きだした。

 もう一方は、どうなるだろう。


 論理が整合していればしている程、前提の間違いは、はっきりと結果に現れる。
 論理が単純であればある程、個々をそれたらしめている差異は切り捨てられる。

 それを踏まえての選択だったのだろうか。

 もちろん、そうだったのだろう。

 国民は賢明ですから。






補足)「郵便局員は公務員じゃなきゃだめですか?」というレヴェルでの小泉さんの問いかけに、素直に同じレヴェルで応答して投票してしまった人がどの位いるかという疑問です。メインのはずの金融・財政への効果(その先の社会保障)についての政府案への評価をある程度までつけて投票したのか。さらに、郵政法案を国政・外交の全体とタイミングの中で評価して投票したのかという疑問です。

追記・個人的な感想)
 どのようなスタンスで投票をしたにせよ、郵政民営化の結果が自分達の選択によるものだということは忘れられない事実として認知されるでしょう。
 得票率では議席数のような圧倒的な差ではなかったですし、公明票の強い影響もありましたが、結果は結果です。
 現在の有権者が未来の有権者によって責められるか、称えられるか、政治に究極的な責任を持つことを(今更ながら)自覚させる(する)には、とてもよい選挙だったと思います(だからこそ、小選挙区制が導入されたのだから、死票を問題にするのは妥当ではないと思います)。

 小泉さんの選挙手法は、間接民主制を破壊する可能性を持ったものでした。
 もし今回のような選挙手法が許され、インターネット投票が可能になれば、衆参で決められないことは全て国民投票でということになり、議員の意味を大幅に低下させることになります。
 もちろん、それは悪いこととは言えませんが、議会の意味を改めて決めなおさなくてはならないでしょう。
 インターネット選挙活動のみならず、議会制度自体を考え直すことを、今回の選挙は求める意味があったと言えます。

 自民は圧勝しましたが、多くの人が指摘するように自民党が勝ったとは考えられません。
 特に、首都圏の得票を見ると、候補者本人の力だったと評価できるような得票ではありません。
 小泉さんが勝ったと言うべきです。
 そして、小泉さんはあと1年で政権を離れます。
 自民党は、政権党であることがアイデンティティーの大部分を占めるといわれる政党です。
 小泉さんは自民党が自民党であることを守るために、自民党を壊したともいえます。
 小泉さんが守るために壊した自民党を、次に誰が支えることができるでしょう。
 私は、小泉さんが院政を敷いたとしても、もたないと思っています。
 自民党にも有能で、ヴィジョンを持った議員がいると思います。しかし、その存在が自民党という古びた大船を新しい大洋の航海に向かわせるだけの力を発揮できるとも思えません。また、小泉さんのような人物とイコールの政策を認知されている人もいませんので、今回のような戦略を採れることもないでしょう。
 民主党も今回の選挙で大きなダメージを負いました。指摘されるように、民主党の未だにはっきりしないバックボーンの弱みが戦略と状況の悪さで露骨に出たのでしょう。今回、政権を取ったら、それこそ第二自民党にもなれずに終わったかもしれません。

 政権交代がない民主主義国家とは異常です。
 政権とは国家の最大の利権です
 政権を取れば、行政の収集・集積してきた膨大なあらゆる情報を入手でき、行政のもつ広範な裁量を利用できます。最高裁の人事を最終的に決めるのも行政(内閣)です。ということは、行政や行政によって管轄される企業で問題が生じた時の最後の砦でさえも、影響を持つことができるのです。
 どんな政党が取っても、利権は利権です。
 違った集団が一定期間ごとに担当しないと、全ての情報と全ての裁量権の作る利権のパイプが敷かれ、公式のシステムの流れを阻害してしまいます。
 同じ政権のブラックボックスでこのパイプの配管図が引かれているかぎり、国民は選択の基礎となる情報を十分に与えられたとはいえないはずです。
 そして、そのパイプで自分たちが最も効率よく利益を得るために、自分たちがパイプを支配する場合以外を想定して配管図は引かれません。固定した分配が、多くの知らない場所で知れない情報に基づいて為されるのです。
 それは民主主義とはいえません。

 自民対民主という図式ではなくとも、私は、自分の住む国が政権交代のある国であって欲しいと願っています。
 情報や利益配分がブラックボックス内で作られる国家の心地よさよりも、情報が表に流通し、利権が固定されないことでもたらされる混乱のある国家の緊張を、私は望みます。
 一朝にして成るものではないはずです。少なくとも、十年単位で見る目を要求するはずです。
 その混乱と緊張に国民(私)が耐えられるか。

 中毒を持つ患者は、その中毒の弊害によって自分の身が殺されることを認識し、受け止め、新たな人生を生きたいと思った時、初めて中毒の対象を断ち、その禁断症状の苦しみに向かおうとすると言われます。
 財政は、国債中毒です。
 一党が政権を持ち続ける、それを許してきたのは、関係に対する嗜癖(中毒)です。
 中毒であることを認識し、それを断ち、新たに新陳代謝のある体、健全な距離のある関係を作り出せるのか、国民に問われているはずです。
 国民がどうありたいのか、どういう社会が幸せな社会か、どういう社会で生きたいのかということを自らに問いかけることが必要となります。

 “痛み”の先に何を求めるのか。
 小泉さんからは、それは聞こえません。
 自民党からも、民主党からも聞こえません。
 それは、国民が自らに問いかけて、答えを出していなからだと思えます。
 どうありたいのか?どのような社会を生きたいのか?
 漠然とした誰かではなく、「私」はどう考えるのか。 

 選挙の喧騒が過ぎた今、メディアの提供する日々の祭りに逃避せずに、沈黙の中で自らに問いかけるべきだ、と思います。
 
 
 
 

 
 
 
 
 

   

 
 
 
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by sleepless_night | 2005-09-12 00:29 | メディア

一票では、政治は変わらない。

 投票所に行って、一票を投じる。
 その一票では、政治は変わりません。
 面倒だったり、他の予定があったり、何となく興味がなかったりして、投票に行かなくても、その一票では、選挙結果は変わりません。
 だから、投票に行かなくたっていいのです。

 一億人以上の有権者の中の一票に「意味」を感じることが出来ないのは、とても合理的な感想です。

 無「意味」なことをしないのは当然です。

 でも、その無「意味」さを感じた人は、何を望んでいるのでしょう。
 どうだったら、「意味」があると感じられるのでしょう。

 自分の一票で、どこかの政党に政権を取らせること?
 自分の一票で、候補者の誰かを当選させること?
 自分の一票で、政治を変えること?

 一票を投じること、一票しか投じられないこと。
 その一票が無「意味」だと感じた時、人は一人の人間以上であることを望んでいるのです。
 一人の人間である、一人の人間でしかあれないことに我慢できないでいるのです。

 無「意味」な一票を投じることで、無数の人間の中の無力な一人であること認めなくてはならない。
 面倒で、興味がなくて、他に用事があるかもしれない時、苦い思いをしに行くなど、そっちの方がおかしいでしょう。

 
 それなら、なぜこんな仕組みが作られたのか。
 なぜ、こんな仕組みが過去の人々によって選ばれたのか。

 それは、私達が結果を負わされるからです。
 何かをしても、何かをしなくても、必ず、結果を負わされます。
 為政者が、何をしようと、その結果は支配される側が必ず負わされます。
 失敗した為政者がギロチンにかけられようとも、火あぶりにされようとも、磔にされても、泣いて謝っても、切腹しても、為政者の行った結果を負うのは民衆です。
 結果を負うことが逃れられないから、せめて、その結果を作り出すことに参加する権利を持つことを過去の人々は望み、得ようと戦ったのです。
 つまり、納得したかったのです。
 参加することのなかったことによって、結果を負わされることがないように
 一人一人の人間に、その権利が与えられるように。
 一票を投じることで納得できなければ、選ばれる立場になれるように。

 もし、為政者が何をしようと、どんな結果になろうと、その結果を負うことに納得できるなら、一票を入れに行かなければいい。
 一票を入れるだけで納得できるなら、選ばれる立場になろうとしないことと同じように。

 
 思いつきでも、寝ずに考えても、候補者の名前を知らなくても、政党の政策を熟知していても、それぞれに過去から与えられた権利があり、その権利をどうするかは委ねられている。

 一人一人が納得できるように。







補足:投票しただけで満足で、それで自分が責任を果たしているかのような人を見ることがあります。しかし、私は単に投票しただけで、為すべきことをしたと言わんばかりに無邪気に政治を語るべきではないと思っています。正確には、語っている底に「引け目」を持って語るべきだと思います(だからと言って、議員の側が開き直ったりすることは許されません。選挙民が批判することは自由・権利であり、議員が批判されることは義務だからです)。なぜなら、私達は被選挙権を持っているからです。カバンも看板も地盤もないと圧倒的に不利ですが、現実に権利を与えられていることは間違いありません。ですから、本当に政治に不満があるなら、自分が議員になればいいのです。「それは・・」と言うなら、その人はその程度だと言うことです。もちろん、私もその程度の一人です。だから、その程度の人間が出来ること、納得できることはしようと思っています。

 
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by sleepless_night | 2005-09-10 15:35 | メディア

146条の迷走の迷走の整理

 前回の記事、公選法とブログについての迷走を整理します。
 メモのような形ですので、文体が硬く、断定的な観がありますが、容赦ください。
 
 以下、私見です。(全文を読むのが面倒でしたら、(2)の太線になっている想定問答だけでも、公選法のインターネットへの適用の奇妙さは理解できると思います)

1)世耕議員のブログ(http://blog.goo.ne.jp/newseko/)について

前回述べたとおり、9月3日のブログ記事に示された基準自体について、二つの点で疑問。
 世耕議員の示した基準は、整理すると下記①~③となると考えられる。
 ①公示後
 ②政党公式HPで候補者や政党の選挙運動を告知する行為と候補者でない人間の選挙運動や特定候補への投票の呼びかけにならないブログを区別する。
 ③前者は違法、後者は合法。

 疑問の第一は、②の“候補者でない人間”の範囲が広すぎる点。
 小選挙区・比例代表ともに候補者を擁している政党の国会議員、しかも、幹事長補佐という重要な役職に就いている人物と、何の政党にも属さない一般人とを同じカテゴリーに入れることは基準として妥当ではない。既に見られる批判の一つとして挙げられているように、政党公式HPと国会議員の公式HP・ブログの間に認められる差異と、政党公式HPと一般人のHP・ブログとの間に認められる差異は、政党ともう一方との関係性が両者では、あまりに違い過ぎるために同一視できる範疇にないと考える。
 また、同一視すれば、国会議員に対する要求基準に引きずられて、一般人への基準まで厳しくなる。

 第二に、②で“特定候補への投票の呼びかけにならない”として、政党への投票呼びかけが、なぜ外されているのか疑問。
 この点、たしかに選挙管理委員会の選挙運動の定義には特定政党への投票が含まれていない。
 しかし、政党名で投票される比例代表制に加え、小選挙区制という党の公認が極めて重要な意味を持つ選挙システムを採っている。
 その上、今回の選挙は政党の政策と候補者の政策の一致が、これまでの選挙と比較して非常に注視されている。そのため、特定選挙区が明示されてなくとも、特定政党への投票の呼びかけは、閲読者の在住する小選挙区の当該正統候補者への呼びかけと同一に解釈され得る
 また、公選法146条は政党名を除いていない。
 上記したような選挙システムを採用している以上、特定政党の呼びかけ(と取られる行為)も含めるのが適当と考える。

議員のブログ自体を考えると
 上述したように、政党公式HPでなければ一般人と同じ範疇に属すると言う論には無理がある。幹事長補佐という選挙事務・候補者支援について重要な役割を果たしている人物が、選挙期間中の活動内容をブログに書けば、政党を支持を呼びかける内容の文書図画を掲示していると解釈される相当の可能性があり(直接的に投票を呼びかけなくとも、議員であり、党の要職にあることを考えれば、かなり限られた内容にしなければ、投票の呼びかけに類する行為と解されると考える)、それは同時に、143条の禁止を免れるための行為とも解釈され(党公式HPの代わりになっている)、146条違反と認めれる可能性はあると考える。 
 但し、世耕議員のブログは、広い意味での選挙関連情報を含むと判断されるが、それが特定政党や特定候補者への投票の呼びかけと判断される様相・程度とは認め難く、③の合法との判断は妥当と考える。(一方、山本一太議員のHPは選挙応援や討論についてかなり踏み込んでいるため、違法の可能性が高いと考えられる。本人も承知の上のよう。)

 しかし、世耕議員が違法と指摘する側についても、前々回の記事で述べたとおり、“文章図画”の解釈が分かれ、司法判断が出ていない段階で違法とは断定できないと考える

 尚、基準自体についての疑問第一の“候補者でないもの”の範囲が広すぎる点に関連する、政党公式HPと政党所属国会議員公式ブログとの違いによる、取り扱いの差異の是非について補足する。
 公選法適用の差異という観点から考えて、差異がない(議員の公式ブログと政党公式HPは同じだ)とするのは乱暴に過ぎるが、同時に、当該政党所属であることや政党の役職に就いていることが表記してあれば(党名を明記せずとも、その政党が一般に十分認知されており、文面から所属政党が容易に判別される場合を含むと解する)、当該政党に対して持っている閲覧者の知識・記憶・期待などが想起・投影されると考えられ、政党所属国会議員公式ブログと政党公式HPとは極めて近似したものと認め得ると考える。
 したがって、政党公式HPではないことをもって、政党公式HPに対する公選法の制限を回避できると判断することは妥当ではなく、その記載内容が選挙運動か否かに重点を置き、総合して判断されるべきだと考える。(世耕議員自身もどこに書いたかのみを問題にしていないと解される。又、議員のブログの内容は、前述したように選挙運動といったレヴェルではないと考えられるので、どこに書いたかというのはそれほどの影響をもたないと考えられる。逆に、そうなると政党公式HPでも内容によっては更新可能だということにもなると考えれる。党公式HPを避けることは、党公式HPと議員公式ブログとの間にあると考えられる差異が与える、さほど大きくもない公選法適用の差異を得ることしかできないと考える。)

  
2)ブログと公選法について。

 特定の政党にも、特定の候補者にも関係を持たないブログ開設者が、政党名や候補者名を出してその政策や行動について比較・論評をする行為と公選法について。

 考察を進める上で、二つの前提を確認しておく。
 一つは、政治運動も選挙運動も、その主体についての限定はないこと。政党に属していようがいまいが、“特定の選挙に、特定の候補者の当選を図ること又は当選させないことを目的に投票行為を勧めること”が選挙運動、“政治上の目的を持って行われる一切の行為から、選挙運動に渡る行為を除いたもの”が政治運動。
 もう一つは、(行政の解釈では)インターネットの表示画面は“視覚に訴えるもの”であり、公選法上の“文書図画”に該当すること。

参照:公選法
142条一項:衆議院(比例代表選出)議員の選挙以外の選挙においては、選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書及び第1号から第2号までに規定するビラのほかは、頒布することができない。
143条一項:選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号のいずれかに該当するもののほかは、掲示することができない。
146条一項:何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない

 まず、インターネットが普及する以前の選挙での公選法142条143条と146条の関係を考える。
 選挙運動を含む政治運動をするには、膨大な人的・物的・時間的なコストを必要とする。
 142条143条は、そのような選挙において、指定されている以外のポスターや看板などが頒布・掲示されることを禁じている。具体的に想定されるのは、候補者・政党・選挙事務所・後援組織などが指定外のビラやポスターなどを頒布・掲示した場合や、それ以外の人が特定の政党や候補者を推薦・批判したビラやポスターを頒布・掲示した場合と考えられる。
 そして、146条は、“142条又は143条の禁止を免れるため”とあることから、候補者・政党・選挙事務所・後援組織が142条143条を免れるために、別の人物や組織によって、特定政党や候補を推薦・批判するビラ・ポスターの頒布・掲示をさせることを防ぐためにあると解される。

 つぎに、インターネット普及以後、つまり、現在について考えてみる。
 インターネットの普及によって、普及以前のビラ・ポスターの頒布・掲示と同じ行為が、比較にならないほどの(人的・物的・時間的・動機的)低コストで可能となる。
 政治運動・選挙運動は主体について限定はない。
 したがって、現在、インターネット上には多数の政治運動が展開されていると考えられ、当然、そこには選挙運動と認めれれるものも多数含まれる。
 142条も143条も、“選挙運動のため”としか規定されておらず、“文章図画”を“視覚に訴えるもの”と解釈されるため、それらインターネット上の政治に関する論評は同条の適用対象とすることが可能だと考える。
 しかし、そうすると146条との解釈に齟齬が生じる。
 それは、146条は“何人も”とわざわざ主体の無限定を明記している以上、142条や143条は主体について限定がないと整合しないと考えられること。
 つまり、142条143条を“選挙運動するため”でその主体を無限定とだと解釈すると、146条は“演芸等の広告その他いかなる名義をもってするを問わず”というように文書図画の頒布・掲示の手法・形式を制限する条文だと解される。法定外文書図画の頒布・掲示もそのほかの手段も主体を問わずに禁止するのに、一方だけの条文にどうして“何人も”とつけてあるのか整合しない
 この齟齬を回避するには、やはり、インターネット普及以前と同様に、限定された143条142条の対象となる人物・組織(候補者・政党・事務所・後援組織)からの委託等を受けた人物・組織による法定外文書の頒布・掲示とその他手法・形式による宣伝・批判文書図画を146条は禁止していると考えるしかない。
 しかし、そうすると、インターネット上での特定政党や特定候補についての論評をする場合は、142条143条の対象になる人物・組織からの委託がない限りは146条の対象とならなくなる。
 それでは、総務省の解釈とは整合しなくなる
 総務省は、“各党や候補者の政策を収集して比較するなどのページを作ることは許されるだろうけれども、それに論評を加えるなどすれば、それが選挙運動と見なされるおそれが生じるという”との見解を示したとされている。(この解釈は146条148条に関する南山大院の町村教授からの照会状にたいする総務省の回答によるが146条から出ているのか、はっきりしたことは不明)
 ページの作成について、委託などの有無は問題にしていない。
 142条や143条を適用しようとすれば、146条との解釈に齟齬をきたす。146条を適用しようとすれば、“142条又は143条の禁止を免れる”という文言を無視することになる。 

 ここまでの私の理解が大筋で間違っていなければ、この法律(の総務省解釈)で、法律としての整合性を保ちつつ、一般の人がブログで政党や候補者についての論評をすることについて、規制することは不可能だと考える。
したがって、木村剛さんのブログ(http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/)のように148条を持ち出さなくてもよいはず。

 つまり、最初に出した例で考えると
 委託関係のない一般ブロガーが政党や候補者について選挙期間中にブログで論評をした。
 ある日、警察官がやってきて「あなたのブログは公選法に反します。」と言った。
 そこで、ブロガーが聞く。「公選法のどの条文に反するのですか?」
 警官は答える。「公選法146条にです」
 ブロガーはそれを聞いて「146条は“142条又は143条の禁止を免れるため”と条件がついてますけれども、私は候補者・政党・選挙事務所・後援組織・政治団体などの誰からも委託を受けてブログを開設しているのではないので、“142条又は143条の禁止を免れるため”という要件を満たしていませんよ。」
 警官は答える。「それならば、143条違反です。」
 ブロガーは聞く。「たしかに、選挙運動はだれでもできますし、143条は“選挙運動のため”としか規定されていませんので、政党や候補者の比較・論評をした“文書図画”をインターネットで掲示した私は143条違反かもしれませんね。でも、それならどうして146条はわざわざ“何人も”としてあるのですか?私の様な誰からも頼まれていないブロガーに142条や143条を適用するということは、142条143条と146条の違いは法定外文書の掲示・頒布とその他の手法・形式による文書図画掲示・頒布という行為面の違いでしかないと言うことですよね?それなら146条に142条143条と違って“何人も”とわざわざつけてあるのはなぜでしょうね?やったことの違いだけで、誰がやるのかが違わないなら、どうして条文で一方だけ“何人も”とついたりつかなかったりしているんですか?
 警官は答えられない。「・・・」

 といったことになると考えられる。
 
 本気で逮捕・起訴をするつもりなら、整合性を無視するだろうし、逮捕・起訴も可能となる。さらに言えば、総務省と実際の検挙をする警察・検察は別組織だから、違う解釈を採ることも可能になる。
 おそらく最後の部分で警察官は「そういうのは裁判所で言ってくださいよ。こっちは令状もっていますから。」と言って逮捕するでしょう(実際、逮捕令状は裁判官が判断して発行される)。

 142条143条と146条は、どう考えてもインターネット普及後の選挙には対応できていない。
 インターネットの普及に対処できないというよりも、普及の結果、選挙運動(繰り返しますが、候補者とも政党とも関係のない一般人がブログで特定政党や候補者について論評することは、総務省解釈では法定外文書を配っているのと同じく、選挙運動となる可能性がある)をこれほど多くの人ができるようになった社会に対処できないといったほうが正確だろう。以前なら、選挙期間中に法定外のビラを勝手に作って勝手に配っている(つまり、勝手に選挙運動をしている)人など滅多にいなかったし、その人はまさに“選挙運動のため”にしているので問題がなかった。つまり、“何人も”が選挙運動をするなど現実的でもなかったので、わざわざ“選挙運動について”“何人も”の規定を用意しなくてよかった。選挙運動として通常想定される概念自体が“何人も”ではない、“選挙運動について”という文言が限られた人に主体を絞る機能を果たしえていた(多くの普通の人が選挙運動に該当する・できることを想定していなかった)。
 それは現在の投票が投票日に投票所まで行ってなされるために、有権者全員が投票するとは想定しておらず(現在の投票概念自体に、現実的な投票率の限定が含まれている)、全員分の投票用紙を用意する必要がないと言うのと似ている。投票ですら全員がするとは想定していないのに、選挙運動を“何人も”するとは想定しているはずもない。
 その法律をかえずに、“文書図画”にネットの表示画面を含めたことで、ネット上で特定の政党や候補者の名前を挙げて比較・論評することが、選挙運動と見做されるおそれを生じさせている。
 そのような法律の下で、インターネット上で、普段から、正面からの政治的な評論などできるはずがない。なにせ、(総務省の見解では)法律上は、勝手に法定外文書を撒いていると評価されるというのだから。事前運動だと評価される可能性を考えれば、普段から政治について、真面目に考えていればいるほど書けなくなる。
 
 これは、民主主義に対する犯罪とまで言える法律だと思う。

 
 もちろん、現状から考えて、これほど厳しい解釈がそのまま適用されるとは考えられない(町村教授のご指摘の通り、政策論議ができないなどおかしすぎます)。
 
 しかし、これは法律上は可能な、ありうるものです。
 
  一般のブロガーが、もし逮捕・起訴されたら、きっと日本は凄い言論統制のある国なのだと世界中から思われるでしょう。一瞬、いつの時代のどこの話をしているのかわからなくなるはずです。日本と言うのは経済大国で技術力の高い国だけど、それはきっと、強固な言論統制下でものを言えず、統治権力の命令に従って黙々と国民が働かざるを得なかったからだと思われるでしょう。
 悪名高い記者クラブの比ではないです。
 普通の人間が、政策について真面目に考えて、それをネットで表明したら逮捕される国、その可能性がある国が、自由主義国家だと表明しているなど言語を絶しています。
カナダ大使館あたりに亡命申請すれば受理されるのではないでしょうか。

追記:http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/senkyo/news/20050908k0000m010120000c.html
毎日新聞の記事『インターネット普及、公選法の問題浮き彫りに』では、あいかわらず、議員のネット利用制限について述べられています。 148条で自分達が守られているから、一般の人がネットで政党や候補者について論じると違法とされるおそれがあると気づかないのでしょうか。
それとも、マス・メディア以外の人間は選挙情報を受け取れれば十分だと思っているのか。 この記事を書いた人の想定している有権者は公選法の想定しているレヴェルと同じだと思われます。
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by sleepless_night | 2005-09-07 21:18 | メディア

146条についての二人の迷走についての迷走

 インターネット選挙運動とは別に、ブログで選挙に関する話題、特に特定候補者や政党の名前を出している場合に公選法146条に反しているため、禁固や罰金の罰を受ける可能性があるということを記事にしている人が見られます。
 木村剛さんのブログhttp://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_03d3.html#moreではこう述べられています。
 “つまり、どのような立場の人であっても、そして、著述や演芸等いかなる表現方法によっても、候補者や政党を応援したり批判したりできないというのですから、ブログで誰かを推したり批判したりできないということになります。政党についても、コメントできないという風に解釈されかねません。”


(追記:142条143条と146条の関係について、非常に混乱した考察になっています。
   後日に書き直しをする予定ですが、元文として残しておきます。
   最後の部分で記しましたが、146条の解釈の混乱が、142条143条の解釈についての混乱を私見内で生じさせています。146条にある“142条又は143条の禁止を免れるため”という文言を無視するのなら、委託関係のないブログが選挙運動と認められる行為した場合を142条143条で対象にしたほうが妥当なのではないか?142条143条は“選挙運動のために”としか条件が付けられておらず、選挙運動の定義にも主体について限定は付けられていませんので、条文上は適用可能であると考えられます。但しそう解釈すると、146条の意味が何の為にあるのか分からなくなると考えられます。   
 142条143条と146条の関係を解説できるかたいらしたら、お願いします。 例えば、「候補者・政党・後援組織と何の委託関係等の関係がないブログ開設者が、公示期間以前から各党や候補者の政策や行動について比較し論評した場合」にはどうなるのでしょう?できましたら、条文の適用要件とあてはめ、その他の条文との整合性についても触れていただけると助かります。)
 


 (以下、私見です。)

 しかし、この解釈を146条の法文から導くことは考えられません。

 146条はこう定めます。
 “何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない。”

 つまり、146条は確かに“何人も”が対象なのですが、同時に“142条又は143条の禁止を免れる行為として”という目的に関する限定が明確に規定されているのです。
 そして“142条又は143条”はどちらも、選挙事務所や候補者や政党のポスターなどについての規定ですから、その対象になるのは実際にそれらに関わる候補者本人や事務所の正規・非正規の職員や後援会の実働者だと考えられ、その他の一般人は含まれないと解釈されます(※)。

 ですから、わざわざ148条をもちださなくても問題はないと考えられるのです。
 ⇒追記:但し、選挙運動だと見做される危険性をさけるためなら、148条をもちだすのは妥当だと考えられます。また、146条の解釈で“142条又は143条の禁止を免れる”という目的についての限定がなくてもよいと解釈されるなら、146条の問題と考えることは理解できます。その場合は、上記追記で述べた142条143条と146条の関係が、理解できません。

 そこで無理が現れて迷走しているもう一人が、自民党の世耕参議院議員です。
 世耕議員はご自身のブログでこう述べています。
 http://blog.goo.ne.jp/newseko
 “選挙の公示後に、候補者個人あるいは、比例区で党名を書いてもらう立場である政党の公式ホームページ(あるいはメルマガ)でその候補者や政党の選挙運動を告知する行為と、候補者ではない者(私も含む)が選挙運動や特定候補への投票の呼びかけにならないよう留意しながら個人的に作成しているブログとでは全く意味が異なる。
 前者は総務省も見解を示しているように、残念ながら公職選挙法上認められていない。(私は個人的には公選法を改正し、きちんと利用できるようにすべきだと考えているが、現在のところ認められていないのが現実である。)
 後者については特定の候補者名を表記せず、選挙運動になっていなければ問題はない。
 一部にこれらを同一視する見解があるが、そのような見解を認めてしまっては、今ネット上で展開されているこの選挙に関する自由な意見表明を制限することになる。私は候補者でない人物が、選挙運動や特定候補への投票の呼びかけにならないよう留意しながら作成するブログ等については、最大限自由が尊重されるべきだと考える。”
 
 整理すると、こうです。
 ・“候補者個人、政党の公式ホームページ”と“候補者でないもの”は別。
 ・前者での選挙運動の告知はダメ。後者の場合は候補者名を出さず、選挙運動になっていないらないい。
 ・よって、私のブログはOK。民主のHPはダメ。

 この理屈の無理がでるの一つは、“候補者でないもの”があまりにも広くとられていることです。
 つまり、前述したように、 公選法146条は“142条又は143条の禁止する行為を免れるため”という限定から考えて、142条や143条の記載するような行為を行う立場の人、候補者本人はもとより選挙事務所関係者が対象ですので、そこには当然、候補者本人の所属する政党の人間が含まれます
 特に、世耕議員は自民党の役職についている方です。
 選挙の候補者を擁する政党の役職にある人間が、選挙期間中にその政党の候補者の当選を目指し・支援する活動をしていないと評価できることは考えられません。
 現に、世耕議員のブログには討論会やメディア戦略の事務を行っていることが書かれています。これが、現在、選挙運動をしている候補者本人を支援する政党の活動ではないということはできるのでしょうか
 世耕議員は146条の対象となる人物であることは否定のしようがありません。
 その人間と、政党に所属する人間でも、特定候補者の事務所関係者でも後援者でもない人間(即ち146条の対象外の人間)を同じカテゴリーで考えることこそ適切ではありません

 無理が出る二点目は、“特定候補者名を表記せず、選挙運動になっていなければ問題ない”という点です。
 146条は、“政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する”とあるように“特定候補者名”のみならず“政党その他の政治団体”をも含んで禁じています。
 どうして、世耕議員は政党名をわざわざ除いて条件をつけているのでしょう
 その論拠が示されていません。
 二大政党制が進んでいること、小選挙区制という政党公認が重要な要素となる選挙システムを採っている以上、政党の名前は候補者の名前と同様に重要であるはずです。
 なのに、どこをどう考えて、政党名を出すのはよしとしているのでしょう?
 日本に住んでいる日本人は原則として、小選挙区での投票権を持っています。
 各人がどこの選挙区に在住しているかを表明してブログを書かなくても、政党名を書いて論評をすることは不可避的に、それを読む人の地区から立候補しているその政党の候補者を論表していることになります。(特に、今回の選挙で自民党は郵政民営化法案という一つの法案に関して反対した議員を公認せずに、その一法案に賛成する殆ど名前を知られていない公認候補を同一選挙区に立てています。彼ら・彼女らにとって自民党に公認されているということが唯一に近い、政党名が自分の名前に冠されていることが、選挙における当選可能性をささえているはずです。その選挙区が注目をあつめている選挙で、特定候補者名前を出さないければOKというのは無理がありすぎる。)
 そして、論評をすることには、その人への投票を呼びかけや忌避の呼びかけを程度の差はあるものの含まざるを得ません。
 ましてや、自民党の国会議員で、役職にまでついている人間(146条の対象となる人間)が自分や自分の周囲の人間(選挙の責任者クラス)の行動とそれについての感想を公にする行為に自党や自党の候補者のアピールを含まないなど考えられません(あからさまな投票の呼びかけ以外はよいと考えているのだろうか?感覚で合法か違法か判断するだろうか?)。
 現在の行政の解釈(そして自民党が従っているとされる解釈)では、これこそ146条違反の可能性があります。 
⇒追記:おそらく、候補者だけなのは、選管による選挙運動の定義が“特定候補者の当選をはかること、又は当選させないことを目的に”とされているためだと考えられます。しかし、述べたように、小選挙区制と比例代表制を採っておいて、特定政党の主張を述べることが選挙運動ではないと考えるのは妥当性を著しく欠くと考えられます。勿論、それを含めると通常の政治運動ができなくなるのではないかとの疑問も生じますが、現在でも候補者本人について判別する基準がある(一応あるらしい)のだから、その疑問を持って致命的とはできないはずです。

 
 この2点をどうクリアするのか?現在の自民党が従っているとされる、総務省の解釈内でどうクリアできるのか?
 いいとこどりはできませんよ。

 さらに言えば、世耕議員の解釈と希望は矛盾しています。

 候補者になっていない議員を一般人と同じカテゴリーにいれておいて、特定候補への呼びかけになっていないならばよいと解釈すると、かえって一般人の発言を抑制しかねません。
 つまり、(候補になっていなくても)議員の発言は所属政党を強く連想させ、その政党の意見を述べていると認識されます。そのレベルで求められる特定候補への呼びかけになっていない表現とは、できてたとしても殆ど内容のない感想めいたものになるはずです。
 望んでいる“最大限の自由”とは、そんな感想を表明する自由ですか? 
  

 いずれにせよ、もともとの公選法の解釈自体に無理をしてインターネット選挙運動を抑制していることが問題なのですから、あっさりと解釈を変えてしまえばいいのだし、その解釈でさえ法律解釈の最終的な決定権を持たない行政のものです。(ただ、解釈を悪い方に変えることも当然にできるわけで、そこを避けるためにも公選法の改正は是非とも必要でしょう。)
 
 

 
※)これは総務省ですら認めています。
“公職選挙立候補者との委託関係が立証されない限り、一般市民がその政治的見解を特定の候補者名・政党と結びつけて表明することは、当然許され、またそれがインターネットのウェブページやブログを通じて公開されることも禁止されるべきでない”

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/08/no_action_lette_3b49.html
 
⇒これは総務省の見解ではなく、南山大院の町村教授から総務省へ送られた照会状に示された解釈でした。ご指摘しただいた、S-Iさんに感謝いたします。
 照会状の回答はこちら
http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/08/no_action_lette_3b49.html
“「(1)外形上選挙運動と認められる行為」や、「(2)142条等の禁止を免れる行為とみなされるもの」は、ネットワークを用いてすることができないというのが基本”とのことだそうです。
 総務省は“文章図画”にインターネットの表示画面を含めて解釈しているので、142条や143条で候補者や政党がインターネット選挙運動をできないと牽制している。142条や143条を免れることを防止するためにある146条は“何人も”としている。とすると、146条は一般の人には関係のない規定のはず、まさに町村教授が指摘したように委託関係がある場合に限られるはず。それにもかかわらず、146条の回答で(1)を持ち出されると、法文の“免れるため”というのは無視して総務省は解釈しているのだろうか?
 そうだとすると、本当にネットでまともな政治論評はできなくなりますね。
さらに追記:そもそも、インターネットの普及で、それ以前なら人的・物的・時間的なコストを相当に必要とされる政治運動が極めて容易になったために、政治運動と区別が曖昧な選挙運動についてまで多くの人ができるようになったことに、公選法が対処できていないのが最大の問題であることは論を待つまでもないでしょう。 こんな法律を放置することは、民主主義に対する犯罪とまで言える立法の不作為です。  
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by sleepless_night | 2005-09-06 01:00 | メディア

自民と民主、ネット選挙運動の法解釈/拡大と類推の静かな戦い

 インターネット選挙運動をめぐって、自民党の総務省への通報と民主党の質問状という、静かな戦いは、法律上で見ると、拡大解釈と類推解釈の戦いだと考えることができ、別の面白さが感じられます。

 拡大解釈と類推解釈は、法律を解釈する時に使われる手法として非常にメジャーです。
 拡大解釈とは、法律の言葉や文章から通常読み取れる意味から拡大して意味を取ることで、直接的には規定されていない事例にも法律を適用するために使われる解釈手法です。
 類推解釈とは、直接的に規定されていない事例に対処するために、同じようなことを規定してある別の条文を使うことで法律を具体的事例に適用をするために使われる解釈手法です。
 両方とも、全ての具体的な事例に直接的な法律(条文)を作っていると、膨大な量になってしまうし、事実上そのようなことが出来ない、そのようなことでは法律の存在自体の意義が失われてしまうので、法律を現実社会のルールとして通用させるための解釈手法です。
 
 以下、私見です。

 インターネット選挙が報道などでは「公選法で禁止されている」となっている場合がありますが、前回も述べたように、インターネットを明確・直接に規定している条文はなく、公選法142条等について行政が示した解釈を通じて、禁止しているというよりも控えさせているというのが正確です。
 
 さて、拡大解釈と類推解釈の戦いということを述べますと
 自民党は、一政党として立法の立場にあると同時に、自民党政府つまり行政の立場もあります。結局、政府・行政の解釈に従うといっても、解釈をするのが自分達ですので、政府の解釈に従っているというのは、単に自分で言って自分で従っていることになります。
 前述したように、行政(総務省)は公選法142条の“文章図画”を“視覚的に訴えるもの”・“頒布”に“不特定または多数の人の利用を期待してインターネットを利用すること”を含める解釈をしています。
 これは拡大解釈の意図でしていると考えられます。
 つまり、法律の条文にある文言“文章図画”“頒布”の通常の意味を拡大させているのです。特に、“頒布”とは通常読み取ることのできる意味は「配ること」で、インターネットのサイトにアクセスすることは「取りに行く」とこですので、サイトを開設して「取りに来る」ことを許すことは含まれません。総務省(行政)は“頒布”という条文にある言葉の意味を拡大して“不特定または多数の人の利用を期待”している場合、つまり「取りに来る」ことができるようにすることを“頒布”の意味を拡大させて含めているのです。
 
 対して民主党は公選法142条はインターネット選挙運動についての規定ではない(公選法にインターネットを規制する条文がない)として、142条の“文章図画”にインターネットの画面を、“頒布”に“特定または多数の人の利用を期待”して「取りに来る」ことができるようにしておくことを行政が類推して含めることによって規制していると考えていると見ることができます。

 非常に単純化して言えば、両者のとる前提が違うのです。
 自民党は142条を拡大解釈すればインターネット選挙運動を規制する法律があると言っているのに対して、民主党はインターネット選挙活動を規制する法律はない、142条をインターネット選挙活動に適応するのは条文の類推だと言っているのです。

 類推解釈によってでも規制できるならいいのでは?法律でいちいちなんでも決めていたら限がないからいいのではないか?と思うかもしれません。
 しかし、類推解釈は、本人の不利益になる形で使うことが、特に刑法のような国家権力によって刑罰を科せられるような場合には採ることができません。一方、拡大解釈は法律の現実適応の必要から許されています。
 これは、近代法が、国王などの権力が国民に税金を課することに対する国民の反発から始まったことから導かれるのです。つまり、国家などの強制権をもった主体が被行使者の不利益になる形で強制権を行使する場合には、予め明確に規定しておかないと、何でもできるようになってしまい法律が権力者の恣意的な道具になってしまいます。これを防ぐために憲法を定め、その憲法の下の法律によって権力者が何をできるのか国民の同意に基づいて予め定め、権力者によって秩序を守らせると同時に、その権力から国民を守ることができるようにするのが近代法なのです。
 ですから、公選法のような罰則があり、かつ、それが国民の代表を選出するという民主主義の根幹に関わるような事項について、類推解釈しているならば許すことはできないのです。

 行政の立場にも立つ自民党はあくまでも拡大解釈を採っている姿勢を見せている(実際にある条文の文言を拡大した結果でインターネットで選挙活動はできないとしている)のですから、この不利益な類推解釈の禁止という原則には該当しないとも言い得ます。
 しかし、同時に、民主党のようにインターネット選挙活動の禁止は規定してある条文がないのだから、規定してないことについて、別の規定を持ち出して禁止することは類推解釈であり、許されないということも言えます。

 どちらが正しいかは、司法判断を待たないと分かりません。

 言えるのは、三権分立の大原則のもとでは、行政が最終的な法律の解釈権を持たないということ(憲法81条)
 そして、これほど解釈で争いが生じる重大で繊細なことについて、報道する際に、「法律で禁止されている」と表現することは許されないということです(「禁止されてる」とあたかも定められているかのような言説を繰り返すのは、彼ら・彼女らが三権分立を理解していないからなのか、選挙時の情報独占体制の瓦解を恐れているのか、権益を守ってもらってる総務省への服従のポーズなのか)。


追記:143条「文章図画の掲示」についても、同様の解釈の戦いがあると見れます。
 143条の規定の列挙は全てインターネット外についてです(つまり、インターネットの存在を想定した上での規定ではない)ので、これをもって規制する際に、143条を拡大解釈した上でネット選挙運動を規制する条文となる(規制する条文がある)と解釈するか、143条はインターネットについては想定されていない条文だからこれをインターネット選挙運動に適応するのは類推解釈(規制条文がないために、143を類推解釈して適用している)と捉えるかです。
 目的論的解釈(何の為にその法律や条文があるのかから考える)をすると、143条は一つは経済的な力で伝達力に差異を付けさせないため、もう一つは中傷ポスターのようなものを防ぐためだと考えられるので、前者を重視すればインターネット選挙運動に143条は適用できない方向に、後者を重視すればインターネット選挙運動に143条は適用できる方向にいくと考えれます。
 いずれにしても、これ程解釈によって重大な変化があることについて、なんの断りもなく「公選法はインターネットでの選挙活動を禁止している」と表現することは許される範疇に入るとは考えれません。
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by sleepless_night | 2005-09-02 20:37 | メディア

知らせないことの方が大事なの?

 気にはなっていたのですけど、民主党が公示後にホームページを更新したこと・選挙関連の情報を載せていること・メルマガを発行したことを自民党が総務省に通報したという日経新聞の記事でもやはり同じでした。
 “公選法は選挙活動でのインターネット利用を禁止している”です。
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050901STXKE023301092005.html

 公選法142条は“選挙運動のために使用する文書図画は、次の各号に規定する通常葉書及び第1号から第2号までに規定するビラのほかは、頒布することができない”と定めていますが、読んでの通り、インターネット上の選挙活動を明確に指摘して禁止をしているものではありません
 つまり、“文章図画”を“人の視覚に訴えるもの”、“頒布”を“不特定または多数の人の利用を期待してホームページを利用すること”を含めると解釈をすることで禁止しようとしてるのです。
 ここで最も重要なのは、これを解釈したのは司法ではなく、行政だということです。
 そして、行政は法律の最終的な解釈権を持つ主体ではないことが、三権分立という憲法の大原則が内容とするものです。
 
 ですから、正確には「公選法は選挙活動でのインターネット利用を禁止していると総務省は解釈している」としないとおかしいのです。(確かに法律は様々な解釈によって不明確な点を補われることがあるし、全てが司法によって判断されているわけでもないのですが、以下のように、その解釈に無理があることや、民主主義の根幹に関わる選挙での情報提供方法であることを考えれば、「禁止されている」と断りなく書くことは適切さを欠く)

 もともと、“選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする”公職選挙法の趣旨から言えば、安価で伝達力が高く、表現のために物理的な制約が問題にならないインターネットを選挙活動で利用することは認められないとおかしい、最も情報を必要とされる時期に最も情報の提供を阻害するというおよそ理解しがたい現状があるにもかかわらず、あたかも法律で明確に禁止されているかのような書き方が多く見られるのは、書く人に何らかの意図があるのだと勘ぐりたくなりますし、そうとられても仕方がないと思います。

 さらに、どうも総務省に通報した側の自民党の議員にも、通報した内容と同じこと(選挙関連の情報を掲示)をしている議員がいたようで、ここまでくると何がしたいのか理解に苦しみますね。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=285
 ここでまとめられています。
 指摘されている議員のブログを(http://blog.goo.ne.jp/tbinterface.php/c4b04da135f83db3aa01d4d9ca20e19d/04 )を見てみると確かに選挙情報と言えることが掲載されています。自分が候補者ではないから続けるけど、特定の候補者を連想させることは控えると述べていますが、党の役職についている国会議員が選挙活動の内容を日記風につけておいて、その言い訳は無理でしょう。

 インターネットで選挙活動ができるようになると、選挙期間のテレビや新聞の情報収集の独占的な権益が崩れる大きな要因になるのはわかりますが、知らせることより知らせないことの方が重要だと考えているのではない限り、インターネット選挙活動が阻害されている奇妙で理不尽な現状を正確に伝えるべきでしょう。
 
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by sleepless_night | 2005-09-02 00:30 | メディア

民主党は日本をあきらめてはいかが?

 衆院解散が決まった日、うっすらと汗を浮かべこわばったりのある紅潮した顔で、すでにインパクトをなくしたフレーズを空白を埋めるように用いた繰言に近い演説をする小泉さんを見て、「この人も終わったな」と感じました。
 自民党は小泉さんの持つ選挙の旨みだけを使い、任期の終わりが見えてきた今、捨ての姿勢へとシフトしていく。しかし、後の自民党は小泉さんという劇薬と公明党というカンフル剤の多用による懈怠感だけが漂い、“終わりの始まり”が顕在化してくるのだろうと思いました。

 しかし、そうなっていないことが、現時点です。

 何故か?

 小泉さんが解散を決定した時、郵政は世論的に全くの関心外でした。
 そこで、あの郵政民営化のキャッチフレーズを並べた演説をして効果があるはずはない、小泉自民党が勝つためには考えられる限り一つの戦略をとることが必要だと考えられました。
 それは戦略というより技術、「ロー・ボール・テクニック」「フット・イン・ザ・ドア」と言われる技術(テクニック)と共通した技術です。

 「ロー・ボール・テクニック」とは、low ballつまり「低い玉」、低く投げられた球から初めて徐々に高く投げるようにすることで、本来なら採ってくれないような高く投げられた玉でも取ろうとさせることができる、させられるテクニックです。
 「フット・イン・ザ・ドア」とは、foot in the door、つまり「玄関に入った足」、まず家の玄関内に入ることを許諾してもらうことから始め、その許諾を得て中に入ったあとの要求に対しても許諾を得やすくさせるテクニックです。

 読んでの通り、セールスマンなら基本的なテクニックでしょう。

 これと小泉自民党の不可欠な戦略・技術と何が関係するのか?
 それは、この二つのテクニックが下敷きにしている社会心理学の概念、「認知的不協和」です。
 認知的不協和理論はアメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーによって考案された理論です。
 概略すると、人間は認知の間にある不協和(不一致・矛盾・緊張)を嫌い、それを解消するように努力する傾向があると言う考えです。
 例としてポピュラーなタバコの例を出しますと
 認知A:自分はタバコが好きだ。   認知B:タバコは発がん性がある。

 この認知ABは一緒に持っていると不協和(自分は発がん性のあるものを好んでいるという心理的な緊張)を生みます。
 そこで、この不協和を解決するために、幾つかの手段を採ります。
 ①否定:認知ABのどちらかを否定する(例:タバコが身体に悪いからタバコを止める)
 ②変更:認知ABのどちらかの解釈を変える(例:自分はタバコを吸っているがたいして好きではない。たいして吸っていない)
 ③付加:認知ABを両立させるための新たな認知を加える(例:タバコは心理的なリラックスに役立つ。)

 このような認知的不協和理論が「ロー・ボール・テクニック」「フット・イン・ザ・ドア」の理論的下敷きとなっています。
 つまり、「ロー・ボール・テクニック」「フット・イン・ザ・ドア」では、どちらとも最初の要求、「低い玉」や「玄関に入った足」について承諾していることで、それから後に拒絶をしにくくできると考えられるのです。
 認知A:自分は「低い玉」を取った。 玄関に入ることを許した。
 認知B:自分は「高い玉」を取りたくない。 相手の商品を買いたくない。
 二つの認知は不協和を生じさせます(低い玉をとっったのに高い玉を取らない 玄関に入ることを許したのに商品は買わない)。
 最初の自分の意思・行動と後の意志・行動との一貫性のなさは不協和を生みます。
 そこで上手く①②③から、都合の良いものを選ばせるように誘導できれば、自分の意図通りに相手を動かすことに成功します。

 小泉さんは、最初から一貫して郵政民営化を掲げていることは否定のしようがありません。
 その小泉さんを圧倒的に指示したのは国民です。
 その一貫した小泉さんを、支持しない、郵政に関心が薄いということで支持しないことは、かつて小泉さんを支持した有権者の中に認知的不協和を生みます
 つまり、認知A:郵政民営化を支持した小泉を支持した 認知B:郵政民営化に関心がないから小泉を支持しない。
 小泉自民党が勝つには、この不協和を利用するしかないことは明白でした。
 そして、予想をはるかに上回る出来で、今のところ達成しています。

 小泉さんも、郵政が国民の関心外と知っていたはずです。
 それでも、あえて郵政解散と命名したのは、有権者に、かつて自分を圧倒的に支持した有権者に、それを思い出させて認知的不協和を生じさせることが必要だと知っていたのかもしれません。嫌でも郵政民営化を持論とした小泉を支持した記憶を呼び覚ます(コミットメントしたことを意識化させる)ために、次々と知名度のある人物を立てる、しかも、それが極論すれば郵政民営化に賛成かどうかだけで投入される。郵政民営化に反対した議員へぶつける今だかつてない劇を展開する。
 見事というほかないです。

 一方、民主党は、花火大会の横でやる落語のような存在感しかありません。
 居ることは分かるのですが、悲しいくらいに、話が聞こえず、誰も見ようとしません。

 民主党が本当に政権をとりたいなら、一度、日本をあきらめてはどうでしょう
 キャッチフレーズが“日本を、あきらめない”とありますが、一度あきらめてから、そのあきらめの上から戦略を立てた方が有効だと考えます。
 小泉さん、特に、彼の秘書である飯嶋さんにはこの種の諦めを持っている雰囲気を感じます。
 飯嶋さんの著書『代議士秘書』(講談社文庫)には、多くの馬鹿らしい有権者からの陳情の話が出てきます。その馬鹿らしい陳情を処理しなくてはいけない、自嘲が漂っています。
 飯嶋さんは、この様な長年の経験から、有権者へのあきらめ、要求水準のディスカウントを経験しているはずです。つまり、正論言っても通じないというあきらめ、です。
 そのあきらめがあれば、認知的不協和理論のような手を使うことに躊躇しません
 認知的不協和理論を使ったものは多く見られますが、これはマインド・コントロールの基本的なテクニックでもあるのです。このような技術を使うということは、相手よりも自分の方が正しいことを知っている・できるという自信がなくてはなりません。なぜなら、このテクニックは相手の心理をだます、見るべきものを見えなくできるからです。相手より判断力などが上だと確信しないと使うことが正当化できません

 民主党の岡田代表が、「国民は賢明ですから」と口にするのをよく聞きます。

 アイロニカルな発言かもしれませんが、どうも本気で言っているようにも感じられます。
 ここに、今回のここまでの戦略的な敗北の原因があるのではないでしょうか。

 あきらめの上で、自分の信念(利益)を実現させるために必要なら危険な手も使う意気込みを持つ組織と、あきらめを経ずに自分の信念を繰り返すだけで実現できない組織。

 倫理上の是非は争いがありますが、民主党が政権をとる、この一点から考えれば、民主党も諦めを経る必要があると、私は考えます。


 ついでに、このようなテクニックを使うマインド・コントロールを防ぐ・解除するには、多くの粘り強い手順が必要とされていますが、基本的には、コントロール側の出す情報と矛盾する多くの情報を提供して本人の中で疑問を生じさせ、それを上手く補助していくことが必要とされると考えられています。被コントロール者と議論したり、コントロールされていると指弾することはかえって相手を防御的にして被コントロール下に固まろうとするので、相手に疑問を持たせる情報を提供して、その疑問を少しずつ発展できる環境を整えることが必要だとされます。
 
 今、民主党、岡田代表がやっていることは情報提供の方向ではありますが、脱コントロールのような被コントロール者のコントロール環境からの隔離ができないハンディキャップがあるため有効性は低く、少なくとも即効性はないと考えられます。
 即効性を求めるなら、インパクトのある対抗的な情報を打ち出す、例えば、政府の郵政法案から導かれる試算から一つの具体的数字だけ(民営化30年後の郵便局の数、30年後の東京から青森へはがきを出すときにかかる代金、など)を抜き出して全面広告を打つ、繰り返しその数字をマス・メディアで言うなどの方法が考えられます。対話ではなく、その数字を刷り込むことで、小泉自民党の作った思考の枠組みに引っかかりをつくることを目指すのです。抽象的な枠組みに対して、単純で具体的な反例を提示して、刷り込むのです。
 下手をすれば、小泉自民党の劇の敵役と一緒くたにされますが、今の劇へと集中された国民の視線を乱すことはできる可能性があると考えます。
 もし、民主党が、このようなテクニックを使わずに政権を取れたら、その時、日本の政治は本質的な変化をしたと言えると思います。その可能性は極めて低いように感じられますが。
(これは、民主党政権になることで日本が良くなるということではなく、あくまでも、政党のとる手法や手法に対するメディアや国民の耐性の話です。)


選挙後の追記
 岡田さんが「もっと他に大事な問題がある」と言うのはよくなかったです。相手の土俵から逃げているとしか、私には感じられないものでした。相手が「大事だ」と言っている問題に「他に大切な問題がある」と言っても、相手が「大事だ」と思っている問題の解決になりません。
 宗教で言えば、「~教を信じないと地獄に落ちる」と信じている人に、「もっと他に大事な教えがある」と言っても全く説得になっていないし、相手の信念や恐怖感に揺るぎを与え、他に目を向ける余裕を作り出すとは考えられないことと同じです。


主参照:『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)西田公昭
 尚、宗教についてで詳しく述べますが、マインド・コントロールという概念自体にはかなりの疑問が呈されています。心理学の科学性については以前の記事で述べてありますが、それと関連し、それ以上に科学性を疑う声があります。さらに、倫理上、マインド・コントロールを認めてしまうと被コントロール者の責任問題を問えなくなる可能性があるためにも議論があります。
追記:また、マインド・コントロールを認めた上でも、多くの伝統宗教の修行や企業研修などでマインド・コントロールと同じテクニックは使われます。問題なのは、どこでどの程度使うことが許されるかといったことが合意できていないことや、(特に宗教については)一般に知識として知られていないために徒に騒いだり怖がったりしてしまい合意の前提となる情報共有が為されないことです。

 
 
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by sleepless_night | 2005-08-20 11:27 | メディア

女子アナと飲酒ではなく、セックスだったら?

 今回、NEWSのメンバーが女性アナウンサー(菊間さん)としたのが、飲酒ではなく、セックスだったら、どうだったのだろう?
 そんなことを考える人はあまりいないかもしれません。
 でも、この仮定を考えることはあながち変態的でもないと思います。
 特に、メンバーと菊間さんへの処分の重軽の意見の二分の意味は、セックスと比較することでよく現れると思います。

 今回、NEWSのメンバーと菊間さんがテレビ出演の取り消しや、謹慎、減給などの処分を受けるのは、このメンバーが未成年だったから、つまり、未成年飲酒禁止法に反し(メンバーは一条一項に、菊間さんは一条二項に反します)たからだと考えてよいでしょう。
 
 しかし、この明らかな違法行為について、賛否が分かれることを支えるのはメンバーが18歳だからだと考えられます
 つまり、高校卒業して就職したり、大学入学したりする年齢、そして、その新入社員歓迎会や新入生歓迎会で当然のように飲酒が容認されていることは大多数が認識し、かつ、自分達も経験していることです。
 法規範と社会規範のズレに18歳という年齢が嵌り、この賛否の二分を支えているということです。
 厳罰賛成の立場なら、法規範を重視し、反対の立場なら社会規範を重視すれば、どちらも同程度の説得力をもつことができます。
 しかし、これは飲酒という一つの行為についての法・社会規範のみを持ち出して賛否を争っているだけです。

 そこで、最初の話をですが、飲酒ではなくセックスだったらどうだったのか
 “お酒は二十歳から”のようなキャッチコピーがないので、明確に意識している人は多くないでしょうが、18歳(と)がセックスすることは合法です。
 刑法では176条(強制わいせつ)と177条(強姦)で“十三歳未満”の男女(強姦は女性のみ)に対しては暴行・脅迫を用いてなくとも、わいせつ・姦淫を処罰対象としているので、“十三歳以上”ならば合意の成立を認めていると考えられます。つまり、刑法では十三歳が性交の合意有効無効(性交の適法違法)のラインとなります。
 しかし、勿論、十三歳以上でも性交をすれば犯罪になります。
 なぜらば、青少年保護育成条例があるからです。
 この条例は、確認をしていないので分かりませんが、殆どの県にあるはずです。当然、今回の事件が起きた宮城県にもあります。
 この条例、宮城県青少年健全育成条例30条では、青少年(14条:青少年=6歳以上18歳未満)との性行為を禁じています。又、そのほかの都道府県でも同様で、18歳未満との性行為は禁止されています。
 刑事処罰のラインは、以上から18歳だと言うことになります。
 では、民事ではどうかというと、民法731条では女性は16歳以上、男性は18歳以上と婚姻可能年齢を定めています。
 つまり、民法は性交(結婚許可に性交許可は含まれる)を女性の場合16歳以上と考えていることになります。
 ちなみに、これでは青少年保護意育成条例に反するのではないか?と考える人もいるかもしれませんが、条例では婚姻した場合を除くとしています(婚姻による青年擬制:結婚するくらいの精神的成長があるのだから、成人と同様に法律上は扱う制度)。
 
 長々と細かい話をしましたが、今回、NEWSのメンバーと菊間さんがしたのが、飲酒ではなくセックスなら法律上は問題なかったのですし、そうするとそれぞれの所属する会社としても罰する根拠は基本的にはないことになるはずです。 ただの痴話話、芸能ネタで、リポーターとの低劣なやり取りをするだけで、処罰という問題にはなる可能性は低かったと考えられます。(但し、深夜に呼び出していたようなので、この行為も条例に反します。条例35条)

 さて、セックスならよかったという話をするために、以上を述べたわけではありません。

 まず、ざっと読んでみると、法律が(特に、セックスに関しては)バラバラだということに気づくと思います。
 そして、このバラバラなセックスについての法律の規定と飲酒の規定を考えてみると、さらにおかしなことに気づくはずです
 法律には、それぞれ目的があります。
 例えば、未成年飲酒禁止法なら、体(特に脳)が発育段階にあり、かつ、判断能力が未熟な未成年を飲酒によって精神的・肉体的に害を受けることから守ることです。
 刑法でしたら、国民の生命身体財産を侵害から守ることです。
 上述した、セックスに関する刑法に当てはめますと、十三歳以上の男女の身体や性的自由を守ることが、この条文の目的になります。
 青少年健全育成条例でしたら、その名の通り、県内の青少年の健全な育成のために、青少年を有害な行為・場所から保護することです。
 民法は、人々の生活の中でのトラブルを防いだり、トラブルを解決するための共通のルールですから、民法731条が婚姻年齢を制限したのは、制限年齢以下では、婚姻について判断する力がないと考え、その様な判断力不足からする結婚生活をすることの損害(結婚生活を維持するための社会的な能力の欠如からの困窮、子供の育成の困難、育成環境の不全)を防止することが目的だと考えられます。

 気が付きましたか?
 未成年飲酒禁止法が守るのは、飲酒する本人です。
 対して、刑法・育成条例・民法の各法の性交に関する条文が守るものは、セックスする本人のみならず、セックスの結果生まれる可能性のある子供もです。
 本人を守るだけの条例が、20歳を合法違法のラインにしているのに、他者(生まれる可能性のある子供)をも守る法律・条令の場合は、18歳を合法違法のラインにしてあるのです
 
 セックスに関しての法律の混乱もさることながら、この理不尽な差異を意識ていしる人はどれくらいいるでしょう。
 十八歳ならセックスという、新しい生命、自己決定のできない他者を生み出す可能性のある行為をすることが法律で認められている、法律で保護される関係を作ることができる自由があるのに、飲酒という、結局は自分の体が不健康になる(最悪、死亡する)だけ(※)の行為は十八歳では違法になってしまうのです。
 これは、明らかにバランスが悪く、理不尽な状態です。
 このようにセックスの法規範と比較して考えると、今回が飲酒をしたのではなく、セックスをしたと考えたとき、それが非難に値しない(違法ではない)と判断するなら、飲酒も非難をすること(違法として処罰する)はできなくなるはずです。(※1)
  
 このように考えてみると、今回の件、18歳と飲酒すること、それを法的に社会的に処罰することで何がしたいのか、理解しがたいものです。
 厳罰賛成側の論拠だった法規範を中心に考えても処罰することが不合理なものだと考えられてしまうのです。 

 
 さて、「でも、理不尽でも法律は法律。アナウンサーや人気アイドルという社会的な影響力のある人間には、一般人以上の倫理が求められる。だから、一般には飲酒はしているけど、彼ら・彼女らは許されず、厳しい制裁を受けるべきだ。」と考える人もいるかもしれません。
 これに関しては、以前述べたように、現在、アナウンサーは倫理性を求められていません。話す機械として存在していますので、人格は関係なくなっています。(以前の記事『女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日』) ですから、菊間さんは、この件でテレビ出演を降板させられるべき理由は考えられません(期待が無いので、それを失うこともない)。
 だいたい、毎日必ずテレビにでている、自己責任と合唱した国会議員、某政党、責任や倫理から最も遠い人々が映る中で、彼ら・彼女らに、飲酒をしたことで倫理を問うことの重要性がどこにあるのか、私には理解できません。
 最近も飲酒した議員が議場にいたこはどうなったのでしょうね。
 公安委員長も県警も、十八歳、繰り返しますがセックスして子供を作ることが許される年齢の人間、新しい生命の責任をもてるとされる年齢の人間が、せいぜい自分一人が死ぬくらいでしかない飲酒や、公園で騒いだことを騒ぎ立てて何をしたいのでしょう。

 こんな“事件”で騒いで、法律を振りかざし、処分をしていたら、これから有名人は自動車を制限速度で走らせなくてはなりませんね
 自動車は以前述べたように、“許された危険”です。殺人の道具となる可能性を大きく含んだものです。だから、免許という、原則禁止(免許を持たない人は運転を禁止されている)の制度をもちます。
 セックスと同様に、自分の生命身体だけではなく、他者の生命身体への加害・影響を及ぼすものです。法律上、18歳から許される点でも同じです。多数が未成年飲酒禁止法の年齢制限を守っていないと同様に、多数が法廷速度を守っていません。
 多数が法規範を守っておらず、社会規範的には許容範囲の行為でも、有名人であることを理由に処罰されるべきとするなら、自動車の制限速度も守らない有名人を処罰しなくてはならなくなります。
 本当にどうでもいいことで、それが本当にどうでもいいと分かっているはずなのに、ベタに法律や倫理(法律も倫理も考えての上ではなく、法律に書いてあること、それに従うことを倫理と勘違いしている)を持ち出して叩こうとするのは何故でしょうね。
 

※)“だけ”としたのは、アルコールで死ぬことを軽視しているのではなく、新しい生命、自分以外の他者を、その他者の意思抜きに誕生させることと比較してのことです。
 つまり、自己決定が飲酒ではあてはまりますが、セックスの結果の子供には子供自身の自己決定が保障されていません。
 自分の決定で自分が被害を受けることには合理性がありますが、自分が決定権のないことで多大な影響(この世への誕生)を受ける子供にとってはそれ自体がある意味で不合理です。
 ですので、“だけ”と自己決定のあるアルコール摂取について強調しました。
※1)これは、あくまでも現行法を見渡してみたときに導かれる論理の帰結であって、性交を何歳から許可されるべきかという倫理学からの視点から導かれるものではありません。このことについて、私見を導くには、恋愛・結婚の歴史を通覧した上で、男女(若しくは、同性)間の関係性の倫理を考えなくてはなりません。
 
 

 
 
 
 

 




 
 
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by sleepless_night | 2005-07-20 21:49 | メディア

「心の闇」も占うのか?

 マス・メディアもそれが常套句だからなんとなく使っているだけで、本当に「闇」だなんて思っていないのかもしれません。
 近年の不透明な動機、それまでの重大刑事事件と比べて動機が確かに信じられないくらいあっけないものに思えることは確かで、その表された文面通りの動機を信じることができないので、「心の闇」と言う常套句でとりあえずしのごうと言う意図があるように思えます。

 分析心理学の創始者、ユングは“私はパラノイア的観念や幻覚が意味の兆しを含んでいることを理解した。ある人格、生活史、希望や欲望のパターンが精神病者の背後に横たわっている。もし我々がそれを理解しないのなら、我々の方が間違っている。”(※)と述べています。ユングやフロイトといった、臨床心理の流れから私が感じるのは、人間の合理性です。
 一見不合理にしか見えない行為にも合理性があると考えられるのです。例えば、以前に述べたコンプレックスに影響をされた行為でも、外から判断される行為の目的を基準に考えれば不合理な行為ですが、内面にある行為の目的を基準に考えれば合理的だと解釈できますし、コンプレックスの解消がコンプレックスの意識化による認知の訂正という合理性に基づくものであるのも人間の合理性のなせる業に思えます。(※2)
 
 そう考えると、「心の闇」は単に、「闇」だと思っている側の方が“間違っている”のではないでしょうか。 
合理性は、それだけでは駆動原理となりません。常に何に向けての合理性かでしかないと考えられます。
 「心の闇」と表現され、不可解だと言われる動機も、合理性の視点を変えれば合理的だと評価できます。
 今回の高校生の事件でも、同級生との口論・日常のストレス⇒同級生の殺害、と言うのは非常に(そのあまりの単純さから受け入れがたいほど)合理的な行動です。
 何故、かつてはこの様な事件が無かったのか?(※3)
 それはかつての合理性が向けられていた、社会に暗黙裡に共有されてきた合理性の向かう先と現在の若者(特に十代)が無意識的に持つ合理性の向けられるものが違うからだと、私は考えます。 
かつての合理性、これらの事件を「心の闇」と言わしめる合理性は、殺人をすると社会から排除される、社会で排除されると、社会から受けると感じるメリットが受けられなくなるという暗黙裡の前提(合理性の向かう先)に向けられていたのに、現在はそうではなくなってきている、その暗黙裡の前提が変化していると考えられのです。
 正確には、合理性がその合理性によって解体されはじめたということだと考えます。
 
 19世紀の社会学者マックス・ウェーバーは、伝統主義的な幸福感からは不合理である(生活するのに不要ほどの利益を作るのに余計な労働をすることは苦痛であり、苦痛な行動をとることは不合理)にもかかわらず、近代資本主義が利潤の合理的な追求による蓄財と富の投資による拡大と言う態度を持ったことで発展できたのは、カルヴィニズムの予定説(誰が神に救われるかは予め決まっているが、人間はそれを知ることはできず、行動とその結果によって自分が救われるかの確信を持つようにするしかない)に基づくエートス(倫理)を持てたからであり、その合理化は進展するに従って合理化を支えたエートスの源泉である宗教から世俗化し、独立したと考えました。(※4)
 つまり、合理化はその根拠を合理化の進展によって無化してしまうということを意味すると考えられます。
 そうだとしたら、合理化はその合理化が向かった先に行く着くと、向かう先を失い、逆にそれまでに築いてきたものの前提を解体する、それまでの基準からは不合理な方へと向かいます。
 その合理化による合理性の解体が、この近年の不可解とされる事件が意味するものではないでしょうか。

 以前人生の意味と目的で、人生の意味に関する二つの用法について述べました(※5)が、その叙述を敷衍してみますと、用法②の「意味」「目的」を持つことが行き詰ってしまったように感じるということです。
 そこで、用法①の「意味」「目的」という超人間的・超自然的な存在や法則によって保証された(ように見える)「意味」「目的」を求めている人々がかなり目立ってきているように思えます。
 かつてはノリやネタであったはずの占いが社会の中で無視できないほどに主流化しており、マス・メディアで現実を侵食しています(占い師の発言が現実に当たっているかどうかではなく、占い師の発言によって現実を変化させてしまっている。例えば、芸能人の改名騒動や朝の報道番組での占いコーナー。確かに、「心霊」「霊界」「超能力」ブームはありましたが、ここまで現実を変化させてしまう力を持つようになった、報道番組にまで浸潤するようになったのは近年のことです。血液型占いについて⇒血液型占いに反論するとモテないのか? part2)。

 少年の「心の闇」は、社会の最も明るい光の当たっているとされる場所にも見て取れる、光が作り出した陰が「闇」となるのではなく、光が無化されてしまっているということです
 この「闇」の合理性がどこへ向かうかは、見えてきません。
 北朝鮮が暴発が生じたり、狭量なナショナリズムと連動すればかなり暴力的で危険な方向へ向かうかもしれません。若しくは、大きな暴力的な事変がなければ、今までの合理性が作り出した仕組みを激化させて、「闇」の合理性がどうしようと、仕組みの中の致命的な部分だけを守って、それによって利益だけは守ろうとするかもしれません。つまり、監視技術の徹底利用とそれによる徹底した違法行為の摘発と重罰化です。
 「闇」が新たに方向を定めることで、その持つ合理性の力を発揮させて光とならなければ、この超監視・重罰化へと現在の合理性が向かう可能性はかなりあるでしょう。

※)『ユング自伝Ⅰ』C・G・ユング著/A・ヤッフェ編/河合隼雄・藤縄昭・井出淑子訳(みすず書房)
※2)以前も述べましたように、これは一つの仮説であり、それに対する私の印象です。
ある理論が現実を正しく表したものなのか、それとも現実をある理論で分析したからそう見 えるのか(理論負荷性)は明確には分かりません。
※3)激増する少年事件などと言われますが、警察統計を見る限りここ十年で大きな変化をしていません。 http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen21/syonenhikoh16.pdf
※4)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』M・ウェーバー著/大塚久雄訳 (岩波文庫)
※5)用法①:超人間的・超自然的存在や法則(神や仏や宇宙の法則など)によって示された人生の「意味」「目的」。/ 用法②:自分が意図した結果へのコントロール力や影響力を持てた時に感じる、人生の「意味」「目的」。例え仕事を受注する「目的」で努力して資料を作りプレゼンの準備をしたら受注成功したという時に「意味」があったと感じること。
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by sleepless_night | 2005-07-02 10:46 | メディア