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“許された危険”とネットの匿名性

 実名化への舵きりが本気なら、あせらなくてはいけないのかもしれません。
 「自殺・爆弾」などの有害情報発信の阻止が実名化のネタでしかないことは明らかです。
 自殺にせよ、爆弾にせよ、海外のサイトの方が直接的なものがあります。日本国内で単に実名利用を進めてどうにかなる程度の問題ではありません。
 実名化しても、結局、故意的で(それ故に)最も有害性の高い(行政の追跡を遮る技術力とそのコストを負担するだけのメリットを持つ)サイトが残るだけだと考えるのが妥当です。

 実名にすることで、今までの社会で孤立してきたレイプ被害・セクハラ被害などの犯罪被害者や医療過誤被害者や非合法金融被害者、その他のマイノリティーに属する人々にネットが可能にした情報共有・団体活動・救済への入り口を閉じることになります。
 違法関連ではなくとも、人事・人間関係での相談、商品購入のための情報などで存在する、乗り合いバス効果(匿名性が高い空間で、通常の利害関係を離れた判断や意見を得られる効果)も実名化によって無くされることになるでしょう。

 このような利益と爆弾・自殺情報等の有害性のどちらが上回るかは判断が難しいかもしれません。特に、人命が関係すると、利益衡量を持ち出すことに憤慨する人もあるかもしれません。しかし、現に私達は人命をも含む利益衡量をする社会に生きています。例えば、年間約一万人が死傷する自動車は、明らかに走る凶器です。それでも、私達は自動車を無くそうと言いだしません。自動車も含む、存在自体に人命への大きな危険があるにも関らず、社会で許容され、組み込まれているものは“許された危険”と呼ばれることがあります。一人一人が合意したわけでもないのに、社会に大きな危険を生じさせる可能性がある物の存在が許されているのは、その物の有益性と危険の発生する可能性を比較した結果、前者を尊重したからだという発想です。原子力発電所なども代表的な、“許された危険”です。社会は(具体的には時の議会や“危険”を社会に組み込んだ歴史は)人命などの犠牲が一定数存在することで、社会全体の経済等が発展することを選んでいるのです。
ネットが関係する自殺や爆弾などの事件は目立ちますし、カウントすることができます。しかし、ネットが生み出した乗り合いバス効果のような利益は目立ちませんし、カウントもできません。それでも、確実にそれはあるはずですし、衡量すれば、利益が上回るはずです。利益は目立たず、一つ一つにインパクトがないため、害悪ほど印象にのこらなくとも、ネットを支えているのはそのような薄く目立たない利益だと、私は考えます。
 私は、爆弾・自殺情報等をネットから排除することはそもそも不可能だし、それらは“許された危険”としてネットという仕組みに入り込んでしまっていると思います。
 自動車が人を日々殺しても、圧倒的大多数は自動車を無くせとは言わないのと同じように、ネットにも危険があり、それを“許された”ものとして進んでゆくしかないと考えます。(“許された”とは、認めることではありません。自動車があっても人を跳ねてはいけないし、そのようなルールがあるのは当然なのと同じように、ネットで爆弾の作り方を提供することも、自殺を勧誘することも、肯定されません。)車で爆弾や死体を運べる“危険”があっても車体に名前を書かない・トランク内容物を車体外に表示しないのと同様に、ネットに自殺や爆弾の情報があっても実名での利用をすべきだとは考えられません。追跡可能性も自動車はナンバーを警察が把握することで可能になっているのと同様に、プロバイダーが一定の程度・期間ならば把握することが可能になっています。どちらも、匿名性を高めるための技術があれば、ナンバーやアドレスを偽造したり隠蔽できます。でも、自動車では私の知る限り、車体外に実名が分かるようにしようという動きがありません。(自動車は免許制ですから原則禁止されたもの、ネットは原則が自由と言う違いがあります。しかし、自動車の持つだけの直接的な加害性はネットにはありません。それを加味すれば、ネットと自動車を比較するのは許容範囲だと考えます。又、許容範囲ではないと判断しても、“許された危険”が社会にあることは理解されると思います)
私達の社会は、一定の“危険”を“許す”ことで利便性を追求すると言う判断をしているはずです。

 さて、なぜ本気であせらなくてはならないと考えるかと言うと、総務省の狙いはネット選挙運動などの政治への本格的なネット利用に備えるためだと、私は考えるからです。現在でも明確なネット選挙運動の法的規制根拠がなく、じわじわと実験的なネットの選挙利用をすすめる動きがあります。このままでは、なし崩し的に広がるでしょう。
 選挙運動と言うほどに本格的なものではなくても、ブログなどで選挙に関して活発な議論が展開されたり、情報発信(街頭演説・討論会の内容やその感想などから詳細な活動履歴の発信)がなされ、それが結合してしまい一気に大きな流れを作られることを総務省、そしてある政党が恐れているのではないでしょうか。
 例えば、ネット利用が実名化されれば、こうなると予想できます。
 自分の属する会社なり組織の利益のためにはA政党・a候補者を応援・投票するのが得策だし暗黙的に会社・組織もその候補・政党への投票をするように働きかけをしているが、全体的に見てその政党を支持できない・発言や活動に容れないものがあると考えることがあっても、それをネットで発信することができなくなります。中小の企業で経営者が社員を個々に把握できるところは勿論、大きな会社・組織に属していてもそうなるでしょう。又、直接に利益が絡まなくても、政治関係の発言をネットですることに大きなブレーキをかけられることは間違いありません。確実に実名化されたネットは、政治活動や政治的な発言を多くの人から実質的に奪うことになります。直接的な圧殺がとられることもあるでしょうが、何より日本独特の“空気”の力がそのような発言行為を殺すでしょう。ただでなくても、組織票が無くなって苦しく、自分達に投票するものだと思われた人達が選挙結果を見る限りあてにならなくてなっている、その上で、政治についての情報を発信されてはたまらないはずです(現実的にどのくらいの力があるかは不明だとしても、余分な労力や不安感が政党側に生じることは確かだと思います)。選挙を管理する上で、ハッキリと規制をかけることができない(ネットでの選挙運動を禁止するなど言っては、寝た子を起こすことになる)のに、思わしくない方向へ向かっている現状を何とかしたい総務省と、ネットを利用されて無党派を動員されては困る政党の思惑が一致したのが、ネット利用の実名化と考えるのは妥当な線だと思います。一人一人は小さく弱くとも、それらに結合されては、行政やある政党に「依らしむるべし」のための、「知らしむるべからず」が崩壊してしまいます。
 実名化によって、(行政やある政党にとって)“有害な情報”がネットから駆逐できます。日本人の“依然としてモラルの高い(知り合いの目が届くところで目立ったことはしない・集団内で目立った人間を叩きたがる)”ことを上手く使うための手です。 この“有害な情報”を駆逐される流れが完成される前に、ネットの持つ政治への力が議員達に届かなければ、ネットの持つ政治への力は根こそぎにされるはずです。
 安全になるのは政権であって、私達の暮らしではありません

 
 補足。
 ネット上で実名の人間が匿名の人物やその人物の言論について批評・非難することが見られます。
 匿名だとその言論の責任を取れないと考えている人や、そもそも批評・批判の内容に自信があるなら実名で構わないはずだ、実名での言論に匿名でものを言う権利は無いと言う様な意見も目にしたことがあります。
 確かに、ネットでの匿名性は一定程度で確保されているために、乱暴な物言いをする人も沢山います。刑事・民事での責任を取ってしかるべきなのに、匿名性とそれを乗り越えて責任追及することのコスト故に、責任を逃れている人も沢山いるのでしょう。
 しかし、内容自体がまともなものについても匿名自体を批判することに私は違和感を覚えます。
 ネットで匿名を使わなくては、ネット外の生活で確実に摩擦が増えます。
 正確には、摩擦を避けるために本当にどうでもいいことしか多くの人は発信できなくなるはずです。実名でブログを書けば、当然検索に名前を入れてヒットされることになり、友人でも知人でもないが利害関係を持っている人間や単に近くに住んでいる人、名前を知っているだけの同じ会社・組織の人などからも読まれることになります。
 そのような環境で、差しさわりの無い日記等以外のことを発信しようとすれば、発信することが割に合う人に発信者が自然と限定されて行くことになるでしょう。つまり、摩擦を生じさせるような言論を発信することで現に収入を得ている人です。現状のメディア状況と変化がなくなります。単に、既存のメディア構造で生きてきた人たちが、よりスムーズに広い言論発信ができるようになるだけです。
 社会を構成する大多数の人間に確固とした倫理観があるとは思えません。しかし、まったく私利私欲が心に満ちているだけでもないはずです。脆弱ながらも善意があるが、それは多くの場合、現実の摩擦が勝って発揮されていないというのが現状ではないでしょうか。
道で倒れている人がいる、多くの人がその横を困ったような顔・作った無表情で通り過ぎてゆく。もし、介抱したり救急車を呼べば自分が金銭的な負担や責任、それに伴う雑事と心理的な負担を負うことになるかもしれないことを考えれば、さわらぬ神にたたりなしと決め込むことが現実を生きる知恵です。そうと分かっていても、心にうずくものがある。
ネットを実名化することは、ネット外よりも厳しい現実をネットにもたらすことになるはずです。
 記録が残り、閲覧可能性だけは大きなネットで、実名で発言すれば、ネット外で同じ発言をするよりも厳密な法の適用や他者の監視ができるようになりますし、可能性だけの大きな閲覧性を根拠に責任範囲が広げられます。その環境では、ネット外と同じ程度の善意の発揮ですら、期待することは無理でしょう。
 匿名という環境が一定程度で保障されているからこそ、脆弱で発揮されることがなかった善意が現れて、今までの社会ならありえなかった情報の共有やそれを元にした活動が可能になったはずです。ネット外の生活で、道に倒れている人(困っている人)を助けることはしないけど、ネットで通り掛かりに困っている人へアイディアを出すくらいはできるという現状を、実名化は確実に無くします。
 匿名性が一定程度で保障されているから、ネット外の生活なら無関係の他者に語り掛けないけれども重要だと考えられる話ができるのです。
実名にすれば、ネットがネット外の生活にはっきりとつながり、ネットの明確な記録によってネット外の社会にある緩やかさまでなくなってしまいます。
 それは、発言に責任を持つ持たないの話ではありません。
 ネットという限られた文脈情報の中での話しが、その記録性と閲覧可能性から、ネット外を圧倒してしまうかもしれないのです。 そうなれば、やがてネットからまともな言論が消え、ネットが持つ社会への力は大きく殺がれることになるでしょう。
 総務省は、ネットは具体的な金銭を生み出す構造に最適化されるべきで、それ以外の政治や思想などの自分達の地位を危うくさせる可能性のある話題はネットからしめだされるべきだと言うのが本音なのかもしれません。
 
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by sleepless_night | 2005-06-30 22:55 | メディア

女子アナものAVではなく、女子アナがAVに出る日

テレビを見ているとき、私はテレビ画面に写っていない場所のことを想像します。
 真面目に原稿を読んで、深刻そうな顔をしているアナウンサーは上半身だけスーツを着ていて下半身は裸じゃないかとか、かなり変態じみた想像をします。

 直接見ることのできるスタジオの中にいる人しか、アナウンサーは下半身裸かどうか分からないはずなのに、多くの人はアナウンサーが下半身裸かなど疑問をもたないでしょう。
 もっと一般的なことを言えば、ドラマで出てくる室内のシーンでは天井がないこと(がある)を意識することはないでしょう。
 
 私達は、テレビを見るとき、「~のはずだ」という信頼でもって、見えない部分を補っています。 アナウンサーは上半身しか映ってなくてもズボンをはいている「はずだ」。ドラマに出てくる室内に天井はある「はずだ」。ということです。
 テレビは「~のはずだ」がないと、成り立たないメディアということです。
 
 その「~のはずだ」が最近、急速に融解してきています。

 端的には、CMに出ている人が、報道・情報番組に出ていることに表れています。

 CMとは、CMを出している企業の宣伝です。そこに出演することは、その企業の利益のために働くということです。さらには、その宣伝する商品などについて一定の責任を負うことになります。CMに出ることはただの仕事であって、出演者の人格とは全く関係ないということはありません。社会保険庁の広告に江角さんが出ていたにも関わらず、江角さんが未納だったときのことを考えれば理解されます。もし、CMに出ることがただの仕事で、出演者の人格に関係なければ江角さんの未納は社会保険庁のCM出演の障害にはならないはずです。社会保険庁のCMに出ると言うことは、出演者の江角さん自信が年金の掛け金は払うべきだと思っている「はずだ」ということです。同様に、コナカのCMに出ている松岡修造さんはコナカのスーツが良いと思っている「はずだ」とみなされますし、セコムのCMに出演している長島さんはセコムが信頼できると思っている「はずだ」とみなされますし、アメリカンファミリーのCMに出ている矢田亜希子さんはアメリカンファミリーの保険が優れていると思っている「はずだ」とみなされます。
 勿論、それらを仕事でやっていること(建前という要素があること)は視聴者は知っているのですが、それでも「はずだ」という思いが私達にあるから、江角さんはすさまじい非難を浴びたのです。

 CMと対極にあるのは報道です。報道を語る際に公平中立(※)と言う言葉が持ち出されるのを聞けば分かるように、報道をするにはCMのような一私企業の利益にたった姿勢ではできません。 報道する人間は、そんなに優れているとも素晴らしいとも思っているわけではないのですが、それでも私達は報道に携わる人を公平中立な「はずだ」と言う約束めいた考えを捨ててはいないはずです。報道番組を見ると言うときの態度は、社会で起きていることを、ありのままの事実や、それについて公平中立な立場で分析している「はずだ」という態度が基本として存在します(メディア・リテラシーはこの「はずだ」という基盤の上で展開されるものだと思います。何故なら、もともと公平中立「のはずだ」という基盤としての信頼・期待がなければメディア・リテラシーが要請されることはないからです)。
 報道番組でこのような「はずだ」という期待や信頼の構造がなくなるということは、電波の有限性やテレビ・メディアの強い影響力から導きだされた公共性と、それを理由とした寡占体制を否定することになります。民放がスポンサーによって支えられているということがあっても、報道において公平中立である「はずだ」と言えない(報道ができない)のなら、寡占を維持する根拠を失います。

 CMの出演者が報道番組に堂々と出ているということは、「はずだ」というテレビを支えている約束が無くなったということです。

 一私企業の商品を良いものだと思っている「はずだ」という人が、公平中立な「はずだ」というのは無理です。
 例えば、保険のCMでアメリカンファミリーに出ている(アメリカンファミリーの保険が良いと思っている「はずだ」)矢田さんが保険業界の報道をすること(公平中立である「はずだ」)は両立できません。保険会社のCMに出れば、その保険会社をはじめ、保険業界全体の利益と関係します。その会社や業界の利益のために働いている人が、公平中立であることはできません。できる可能性が無いのではなく、見ている側が「~のはずだ」という信頼を持つことができないのです。矢田さんは保険会社のCMに出ている以上、保険会社の利益関係者「のはずだ」としか見ることはできませんし、発言もその制約をうけます。報道に求められる「はずだ」を満たすことは不可能です。

 ラサール石井さんは、何の疑問も無かったのでしょうか?
 ラサールさんは「~のはずだ」の融解現象の象徴だと、私は捉えています。
 ラサールさんが嫌いというのではありません。好き嫌いという感情的な話ではなく、本当にテレビ自体が支えられてきた構造(視聴者が「~のはずだ」と信頼を持てる)が軽々と無化されていること、それにたいして何も疑問が上ってないメディア全体に対して唖然としているのです。ラサールさんが出ている報道番組のあとに、ラサールさんが出ているCMが流れるのを見るのは、本当に信じられない光景です。

 もう、ここまでするならテレビに出る人は、俳優とか歌手とか芸人とかキャスターとかアナウンサーとかの区別を一切なくしてしまったほうが良いはずです。
 そうすれば、視聴者は明確に「~のはずだ」という態度を放棄できます。
 アナウンサーで採用するとか、芸能人として事務所に所属するとかを一切やめて、全て“テレビに出る人”という枠で採用をするようにすれば分かり易くなります。
 現状でさえ、それと似たようなものなのですから。
 俳優は演技ができるから俳優になっているのではないし、歌手も歌が上手いからなるのではない、アナウンサーは日本語が正しく使えるからでもないし、芸人は芸があるからでもない。
 この人は「~のはずだ」という態度を視聴者からなくし、ただ画面に次々と表れる“テレビに出る人たち”の戯れを見る。
 
 双風亭日常ではhttp://d.hatena.ne.jp/lelele/20050616とマツケンとヒトシくんの壊れ方についておっしゃっていますが、これらも、「~のはずだ」の融解という視点からすれば極めて当然の出来事のはずです。
 つまり、これだけ無茶苦茶にテレビを支えてきた「~のはずだ」という区切りを侵犯する行状が出現しても見ている側も作っている側も問題だと思っているように見えない。マツケンさんもヒトシくんもメディアの中で長いキャリアを持ってきた人たちですが、この現状を見て、もう今までの約束ごとを気にしなくてもしたいようにしても問題ないということを悟ったのでしょう(ヒトシくんはスーツのCMにもともと出ていましたけど)。
 時代劇俳優は時代劇に出る「はずだ」とも、司会者はおちゃらけた番組にでない「はずだ」とも視聴者も製作側も期待・信頼していないということが分かって、やりたいようにしはじめたというのが“壊れて”見えるのであって、“壊れて”いるのはマツケンやヒトシくんではなくテレビメディア自体だと考えるのが自然です。

 ですから、もう女子アナもののAVという世界は終わりになってもいいのです。
 これからは、女子アナがAVに出たり、AVに出ている人がニュース原稿を読む時代になります。
 その時には、アナウンサーという存在自体がもっていた「~のはずだ」という考えがないのですから、だれがニュース原稿を読もうと関係ありません。
 視聴者側も、その原稿を読む人間の属性に今までのような「~のはずだ」という期待を持っていないのですから。
 AVに出演して、男優と激しい性行為に及んでいる女性が、ニュースを読む、そのニュースが過激な性教育を非難する議員の発言の紹介であったり、未成年の性交経験についてであったりしたら、それを見る視聴者にとってまたとない脱「~のはずである」の機会となるでしょう。
 テレビに出ている人が何をし、何を言おうと、そこに立場や役割に要請され、期待される属性は一切ないとありありと実感されるはずです。
 現状と程度の差の問題であって、本質は一緒なのですから、そんな日が来ても、私は驚きません。

(※)公平中立とは、真ん中に立つと言うことではありません。独立性を意味するものです。
 人間が物理的に存在する以上、真ん中に立つとことはありえません。どこかに立つことしかできない人間が、真ん中に立ったりはできません。どこが中心かも、どの規模や時間で測るかで異なるのです。できるのは、独立した自分という立場から、自分がその責任を持つ形で、誠実な資料読解と論理展開をすることです。
 今のマス・メディアの使う公平中立は、単にどっちつかずの状態で責任を取らないようにするための欺瞞であり、公平中立を口実にメディア批判する議員は単に自分の言うことを聞かないことへの感情的反応にすぎないと、私は思います。
また、“ありのまま”の事実と表現しましたが、これも同様の理由でありえません。
 何か出来事が生じたとき、それを見聞きした人が観察・記憶・表現する過程を担う以上、“ありのまま”はありえなくなります。これはビデオなどの記録媒体をつかっても同様です。その記録媒体も物理的に存在する以上、どこから・いつ・どのくらいの間、記録するか、その映像・音声をどうやって編集するかで、“ありのまま”はありえなくなります。
 
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by sleepless_night | 2005-06-17 22:13 | メディア

夜回り先生と金八先生 part2

中山文科大臣はゆとり教育やジェンダーフリーが本当にお嫌いのようで、ぼろぼろと批判を吐き出しています。
http://www.asahi.com/life/update/0605/005.html

 ジェンダーフリー教育・過激な性教育⇒日本をダメにする

 この矢印を成り立たせる理屈や根拠が何なのか知りたいものです。

 国会議員のジェンダーフリーについての話を聞くと、不安になることがあります。
 この人たちは、ジェンダーの意味や意義を分かって話してるんだろうか?と。
 理解できない横文字がある、けしからん!気に食わないことはこのせいだ!
 のような、自分の人生の安寧や正当化のために、感情的な攻撃をしているように聞こえるのは思い過ごしでしょうかね。

 「こんな教育は私は子供のころ受けたことは無い。」「知らないうちに一通りのことは覚える」
 こんなこと言った人もいました。きっと、時代や環境が変わったことに気づかなかったのでしょう。4年に一回くらい、車にのって名前を連呼している以外は特殊社会で生きてきた人ですから。知らないうちに一通りのことを覚えたって、睡眠学習法でもあったのかしらん。

 中山さん、「これからの日本で生きていく子供達を素直に育てたい。できれば世の中のために貢献できるようになって欲しい」んですね。
 
 素直=性格がおだやかで、逆らわない様子。従順。

 本音が出ていますね。こんな子供が有権者になってくれたら中山さんも安泰でしょう。失政があっても怒らないし、政権交代なんて考えもしない、無茶苦茶な予算管理と支出があっても払えと言われたらそのとおり払い、もしかしたら死ねといわれたら死んでくれるかもしれない。
 いい国を夢見ていらっしゃる。


 皮肉はさておき、前回の続きで教員について。

 前回夜回り先生と金八先生で、本来の職責である学科の指導に教員への期待を移せと述べましたが、これが簡単ではないのです。

 「自然と一通りのことを覚えた」人は気づかなかったかもしれませんが、世の中では高等教育の大衆化と同時に情報社会化が進展したために、教員がそれまで与えられていた下駄を履けなくなってしまっているのです。
 
 大学進学率が大きく跳ね上がったのは70年代から80年代にかけてです。
 その間に、20%付近から40%以上へと上昇します。つまり、現在、子供が教育期間にある親の半分近くが大学を卒業していることになります。
 そうすると、学校の教員と学歴では遜色がありません。進学校や私立校になると、教員よりも難易度の高い大学を卒業した親がごろごろといることになるのです。
 かつてなら、大学に行ったと言うだけで少数のエリートであり、教員はその知的エリートだと認識されることが可能でした。
 しかし、もはや教員に大学卒業ということで与えられていた下駄が許されなくなっています。
 加えて、情報化の進展が同時におこっているので、高等教育を受けた親が教員などの知的エリートしか触れること・理解することが出来なかった情報を入手し・理解することができるようになってしまったのです。

 学科においても、気を抜けばあっという間に、専門知を持った人間という資格を疑われるようになってしまいました。

 さらに、教員が関わる様々な犯罪、特に性犯罪がメディアによって知られるようになりました。
 メディアによる情報以前に、生徒が街に出てみると教員を含む大人が建前の裏で行っている様々なことが知られるようになります。かつてなら、それらが知られても自分の親達のような知的エリートとしての資格がない人間の世界だとごまかすことができたかもしれませんが、教員と自分の親が同様な資格をもっているようになれば、ごまかしが効きません。

 ここまでくれば、もう下駄どころの話ではありません。

 ただのオッサンやオバサンが、つまらない話をしている位にしか授業が受け止められないこと、要は学級崩壊の発生が合理性をもったものとなります。

 教員にこの環境条件のなかで、生徒との“触れ合い”や人格的指導を求めることがどれ程理不尽なことか。学科でさえ、教員としてのレヴェルを保持するために厳しい環境なのに、それ以外のことを重ねて求めれば壊れてしまってもおかしくはないでしょう。

 水谷さんは、殆ど寝ていない生活をおくっているようです。私は、水谷さんを見ていると、もはや担えない期待を負わされている教員達が放置した負担を一人で担おうとしているように感じます。
 人間業ではありません。水谷さんは、ご自身のことをよく「水谷は・・」と三人称のように話をなさいます。これを聞くと、一人称として自分を捉えてしまうと持たないので、あたかも他人がやっているように捉えるとこでなんとかやっているように思えるのです。これは、乖離と似ています。
乖離は、耐え難い苦痛などにあった時に自分を守るために、新しい人格を心に作ってあたかもつらいのは他人であるかのようにして生き延びるための心の防御機能です。(あくまでも類似したやりかたで耐えていると私が感じるのであって、水谷さんが乖離しているというのではありません。)

 金八先生を理想とするような教員への期待と教員自身の願望。

 これらを廃し、新しい教員像が社会に受け入れられるとき、状況は変わると私は思います。

そんな教員像がメジャーになるようなドラマを私は観てみたいです。

 
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by sleepless_night | 2005-06-06 21:46 | メディア

夜回り先生と金八先生

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/yomawari/ http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20050605k0000e040007000c.html 
 夜回り先生こと、水谷修さんについては水谷さんご自身の著書やマス・メディアを通じて多くの人が知るところのもので、多くは肯定的な意見・感想を持ったでしょう。 

 私も初めて水谷さんのことを知ったとき、凄い「馬鹿」な人がいるものだと驚きました。
 私の言う「馬鹿」はもちろん、愚かなや無知を意味するものではなく、通常の理屈を圧倒する力を持ったという意味です。私たちが生活する社会で流通する理屈から考えれば、夜回り活動を始める前に活動内容を聞いたとしたら、無意味だからやめたほうが利口と判断されるものでしょう。たった一人が夜の繁華街で子供に声をかけて歩いても、それは大海に真水を足して塩分濃度を下げようとしているようなものです。
 現に、水谷さんの活動がドラマになり漫画になって、メディアにもてはやされても、全体の状況に変化は見られません。

 水谷さんの活動についての評価は措くとして、一つ気になることがあります。

 それは、金八先生に通じる、マス・メディアでの水谷さんの取り上げ方です。

 先生モノといわれるドラマでは、先生が給料の対価として行う活動である授業のシーンが非常に少ないように見られます。そんなシーンを見せられてもつまらない人が多いだろうから、当たり前なのですけれども、教員の仕事って生徒と触れ合うことでしょうか?
 
 給料を支払われる根拠の第一は、自分の担当する学科の指導であることは異論がないでしょう。
 生徒の側から教員に求める第一のものは、良質な授業ではなく人間的な触れ合いなのでしょうか?
 私は、経験から、第一は良質な授業だと思います。
 教員が“いい人”かは、付加的な問題だと思っています。“いい人”であってはいけないとか、不要だというのではなく、その前に良質な授業を提供できることが第一の問題であると思います。
 「学校は勉強だけをする場所じゃない」や「人間は勉強だけじゃない」という発言が低レヴェルな授業や自分の学科についての学問的な理解不足の言い訳として使われているように感じられるのです。

 考えてみれば当然なのですが、教員は人格的な指導をできる資格があるとはいえません。
 20そこそこの大学や大学院を出ただけのレヴェルの人間が、40人~30人の人間を指導できるなんて稀有な資質の人間しか不可能です。一般企業で30人の部下を持つのは、入社何年目でしょうか?ましてや、人格的な領域を指導できる力は、そのときに備わっていますか?
 自分や周囲が20代だったころを振り返れば答えるのは難しくないと思います。
 20代から先生と呼ばれて、教室では自分は指示する立場であり教える立場を保障されているのです。環境的に、人格的な研鑽に適した場所ともいえません。

 これ程、分かりやすい事実があって、教員に“触れ合い”や人格的指導を期待することは不合理じゃないですか?

 給料が支払われる根拠である、授業をまずは向上させることが何よりでしょう。自分の担当する教科についてどれだけ専門知識があり、それをどれだけ授業を発展させるために使える能力があるかを問うべきです。
 教員の役割は何よりも授業の提供であって、そこで生徒の支持を得られないことは、給料をもらう資格がないということです。
 生徒への「愛」があるのは結構なことですが、それが自分の感情や想いの押し付けになって、生徒の声を無視したり、自分に心地よいもののみを受け入れてしまう恐れがあると気づいているでしょうか。

 理想の教師像に金八先生と上げる教師や生徒は、教員の第一の職責を何だと考えているのでしょう?
 私は、“触れ合い”や人格的指導という過重な役割から教員を解放するべきだと思います。
 教員への期待を授業へと、本来あるべき場所へと移すことで、学校はましな場所になると思います。自分の役割は授業で知識やそれの活用法を伝えることだと意識している教師なら、生徒に対して一般社会なら許されないような横柄な態度や口の利き方、ましてや暴力の肯定をしないはずです。つまり、役割では教える側ではあっても、それ以外は一人の対等な個人として接する意識が自ずと広まると考えるのです。

 水谷さんの活動が、タマちゃんのように一気に持ち上げられ、消費されたのを見ると、金八先生の現実版かのようにメディアは解釈しているように思えます。

 いい加減、架空の教員に理想像を求めるのはやめた方が、生徒・教員両方のためになると思いますけどね。
 強姦や買春なんて、教員かどうかのレヴェルの話ではないでしょう。人間としてのレヴェルです。金八先生の幻想を維持する記事もやめたほうがいいいですね。
 
 
 
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by sleepless_night | 2005-06-05 20:13 | メディア