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カテゴリ:性( 26 )

大勝の中の惨敗


 “問題なのはホモセクシュアルな欲望ではなく、ホモセクシュアリティへの不安なのだ。”
           『ホモセクシュアルな欲望』ギィー・オッカンガム著(学陽書房)


(1)大惨敗
 現職議員として初めて同性愛者であることを公表し、21回参議院議員選挙(比例区)に民主党公認で立候補した尾辻かな子(元大阪府議)さんは、38933票で落選した。
 民主比例でトップの相原久美子(自治労役員)議員の50万票、タレント候補の横峰良郎議員の21万票はおろか、当選ラインだった7万票の約半分しか獲得できずに落選した。
 ぽっと出の候補としてなら、比例で約4万はどうということもない。
 しかし、人口の1~5%いるといわれる同性愛者、100万~500万人を念頭において考えれば、これは大惨敗だったと言える。
 セクシュアルマイノリティへの政策を全面に押し出した尾辻さんの訴えはほとんど当事者に影響を与えなかったことになる。
 そして、この大惨敗は当事者がセクシュアルマイノリティへの政策を訴えても日本ではほとんど当事者を動かさなかったことを、非当事者たるマジョリティに示したことになる。
 だから、これは二重の意味-落選とそのメッセージ-で大惨敗だった。

(2)タマは悪くない
 高校時代にインターハイ2位(空手個人組み手)、語学留学経験(韓国)、同志社大卒、28歳で府議。と、経歴を見れば文武両道で、悪印象より好印象を与えることが多いであろう。
 同性愛者であることの公表も大阪府議時代なので、府議当選は同性愛者であることを全面にしたものではないと思われる。
 また、容姿も普通に(私には)見え、「ブスだから~」や「いかにも変態」といった蔑視偏見の対象として不適格なので、カミングアウトの効果を殺がないと思われる。
 確かに、大阪府議は1期であり、実績がハッキリせず、実力に疑問がないといえなくもない。
 だが、実績も実力もよく分からない議員も候補者も他にもおり、尾辻さんには候補者としてとりたてて悪い材料がないように思われた。
 その反面、当事者であることやセクシュアルマイノリティに関する政策以外に強みがないとも言えるが、100万~500万人を念頭に考えれば十分だとも考えられる。
 さらに、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育」を弾劾する安倍晋三の政権下にあることも考えれば、尾辻さんの訴えは反安倍政権の中心を突いていたのだ、反安倍の最適候補だったとも言える。

(3)敗戦の跡
 しかし、結果は見ての通り。
 大都市を有する都道府県で
  尾辻さんの獲得票×100÷投票数→~%
 北海道960.651票→約0.03%  札幌市460.863票→約0.04%
 宮城県349.360票→約0.03%  仙台市221.114票→約0.04%
 新潟県223.682票→約0.017%  新潟市85.396票→約0.02%
 千葉県1,192.377票→約0.04%  政令市228.662票→約0.05%
 東京都7901.295票→約0.13%
 神奈川県2,067.920票→約0.05% 川崎市431.242票→約0.07%
 埼玉県1,303.468票→約0.04%  さいたま市293.124→約0.05%
 静岡県558.748票→約0.03%   静岡市117.601→約0.03%
 愛知県1357.400票→約0.02%  名古屋市553.777票→約0.03%
 京都府764.711票→約0.06%   政令市494.132票→約0.08%
 大阪府7,341.113票→約0.18%  政令市3,708.110票→約0.2%
 兵庫県2808.580票→約0.1%   政令市1026.151票→約0.15%
 広島県454.001票→約0.03%   広島市192.655票→約0.038%
 福岡県1,116.453票→約0.04%  福岡市455.270票→約0.07%
                 北九州189.605→0.04%
 
 その他の都道府県で
 岡山県251.505票→約0.026%  岡山市131.142票→約0.04%
 愛媛県231.082票→約0.03%   松山市105.816票→約0.04%
 高知県147.595票→約0.05%   高知市84.602票→約0.06%
 大分県209.478票→約0.03%   大分市65.375票→約0.025%
 熊本県257.065票→約0.027%
 宮崎県160.638票→約0.029%  宮崎市60.307票→約0.03%
 鹿児島県2477.002票→約0.287% 鹿児島市1170.434票→約0.4%
 沖縄県295.524票→約0.04%   那覇市89.368票→約0.06%
 山口県161.353票→約0.02%   下関市21.7434票→約0.015% 
       参照:総務省 都道府県選挙管理委員会

 見たところ、0.1%を超えているのは東京、大阪、兵庫、そして鹿児島。
 ほとんどの都道府県で都市部の方が若干得票率が高い。
 安倍首相のお膝元はさすがに低い。
 
(4)敗戦の反応・解釈
 尾辻さんの立候補・落選に関してブログでの反応・解釈は、私見で4つに分類される。

①怒りと失望と反省
 潜在的には積極的な支援者。だが、自分が世間的な問題などから運動に関われなかったことや、自分を含めた当事者の反応の鈍さ・引け腰に怒りと失望と反省を述べるタイプ。

 ・Re:桃源郷「尾辻かな子さん、落選」
“正直この結果には怒りというか 失望というか”
 自らの選挙活動への距離、セクシャルマイノリティへの社会の無視、当事者意識のないセクシャルマイノリティ。自分自身への怒り。
 “もっとたくさんの票が集まってもよかったのでは”
  “当事者たちが、マイノリティであるにもかかわらず、生きることに対してナアナアになっているんじゃないでしょうか。”

 ・カミングアウトは出来ない!!「書く」「過程。結果。現実。これから。」「数。」
 “投票日に虚しくなったと書いた。何も出来なかったからなのだけれども。クローゼットとはこんなもんだと、諦めの虚しさもある。そして元々バッチ族が嫌いな自分が何か行動を起こすなんて、まして、選挙がらみなんてと、もう一人の自分がブレーキをかけていた自分に対してと。何かしたいと思う自分の矛盾と。

②日陰で安堵
 セクシュアルマイノリティは日陰の存在として利権を持つのだから、マジョリティと同じ土俵に上がれる権利と引き換えに、それを手放すような主張に対して積極的に反対し、落選を喜ぶタイプ。

 ・あたしの…「あたしの尾辻かな子な祝杯」
 “同じ変態として胸をなでおろしちゃったわ。”
 “あたしたちには、日陰の身であるからこその哀しみが当然ある。けれど、日の当たらないところに身を置くからこその恩恵に浴しているということもまた事実だ。(中略)この恩恵を放棄しろと言われても困っちゃう、そういうことだわな。”

③マイノリティ内部対立
 セクシュアルマイノリティとしての考え・運動方針に関して超えられない対立点があると主張するタイプ。セクシュアルマイノリティとしてのアイデンティティが強いゆえに大同団結には加われない。

 ・ひびの主張/テキスト作品「尾辻かな子さんに意見を送っても意味がない?」 
 “尾辻さんに意見を送っても、無視されるか、利用されるだけなんじゃないか。そんな危惧が頭をかすめたのです。”
 “私には、性的少数者のギョーカイの内部のおける、同性愛者が持っている典型的なバイセクシュアル嫌悪の現れ(それが言い過ぎなら、バイセクシュアルを不可視化する典型的な言説)に思えます。”

④違和感と物足りなさ 
 考え・運動方針へ対立までいかなくとも、違和感・不共感がある。
 特に、同性愛であることを全面に出すこと、ウリにされることヘ(政治意識が敏感ゆえ)の不満。
 同性愛であることの普通さ、普通の権利を訴えたことが、逆に普通(マジョリティ)以上に普通な選挙への姿勢(国政選挙で同性愛だけを問題にするのはおかしい)を導いてしまったタイプ。

 ・闇に響くノクターン 弱虫の論理「尾辻かな子さんの落選に思う」
 “知名度が少なかったというよりは、同性愛者の多くが彼女の行動を支持しなかったということ”
 “社会的弱者(性的マイノリティ)の権利を明確に主張し擁護するという彼女の基本的立場に、何かしら強者の論理を見出して違和感を感じてしまった”
“私には、社会全体に対して自分が性的マイノリティであることを公言するつもりは全くなく、したがって、社会からの差別は容認せざるを得ないものと思っている。だらから、尾辻さんの主張と私の心情は、そもそも最初からまったくかみあっていないのだ。”
 “同性愛者に対する社会的な差別をなくすということは、制度の問題として考えるだけではなく、当事者の心情を顧慮しながら少しずつ行っていくべきではないかと私はおもう。事故の権利を主張しないものは、その権利を享受することはできないといった論理は、あまりにも建前論的に過ぎて、少なくとも私はついていけない。” 

 ・新しい生活「残念」 
 “ゲイの人って、(なぜか)政治的には保守よりの人が多いので、「同性愛者ってだけで投票は出来ない」ということなのかもしれません” 

 ・達tatsu、51の約束 「尾辻かな子 再び」 
“ホームページから受ける印象と実際に新宿2丁目で目、耳にする尾辻さんの印象の乖離に、戸惑いが日々大きくなっていくようになっていったんだな。”
 “尾辻さん、口を開けば『同性愛者は…』で、同性愛の問題しか口にされない印象がある。”
 “俺が最も関心があることについて真剣に考えているだろう、と思われる人に投票するつもりでいるんだ。それは、今は、同性愛云々、同性愛者の権利云々、ではないんだ。”

 ・ にしへゆく「玉を磨く」 
“プロないしアマチュア(と、いう区別ははっきりしないのだが)の立場で長くゲイ・コミュニティについて発言を続けてきた何人かの論者たちは、可能性と現状の両方を見つめながら、疑問は隠すことなくとても新潮に語っていた。やはりことの大きさを、強く意識しての姿勢だったのだろうと思う。”

(5)非在、声無き声
 (2)のような大雑把な数字から、なぜ支持を得られなかったかは分からない。
 だが、低位安定の支持と都市部の優位から言えば、基盤(起爆)となる場所も組織も固められなかった、選択と集中を踏まえたつながりができなかった、そして幾回かのメディア露出に引っかかったセクシュアルマイノリティ(や関心のある)の人々がパラパラと独自に投票したのだろうと推測される。
 つまり、知名度のないタレント候補的な地位で終わった、そのような支持しか得られなかったということは言えると思う。

 可能性としては、実は同性愛者は人口の1パーセントもいないということもある。
 結果を見るとそうも思いたくなる。
 また、そう思いたい人もいるだろうし、この結果はその人々にとって福音となるだろう。
 福音をもたらしたのは、福音によって無視され差別される当事者なのだから、それも仕方がないことなのかもしれない。
 声に出さなかった、票に出さなかった声は、そうして福音にされる。
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by sleepless_night | 2007-08-05 16:45 |

セックスと契約と「えこひいき」。


(1)灰になるまで
①障害者からのカミング・アウト。

 2004年に出版された河合香織著『セックス・ボランティア』(新潮社)はタイトルや“障害者だってやっぱり、恋愛したい。性欲もある。”との帯の文句からも分かるように、タブー視されていた障害者の性の問題を取り上げた作品として話題になった。
 同書は、執筆のきっかけとなった69歳の障害者の介助による自慰行為のビデオから始まり、その登場人物である竹田芳蔵さんの風俗利用などの性生活や考えの話が記されている。
 だが、他の取材相手の障害者は20・30代、海外の事例で50代と老年ではない。
 また、同書の焦点はあくまで障害に当てられ、年齢に関しては特に当てられていない。
 人は死なない限り年をとり、高齢者と呼ばれる65歳を迎える。
 個人差はあるが、やがて様々な身体精神機能に衰えが現れ、障害を持つようになる。
 このことを考えれば、障害者の性には本来、老化による障害を持った人々の性も含まれて考えられなければならない。
 確かに、同書によって河合さんは“障害者の性をタブー視してないもののように扱う現実”“障害者の恋愛を美談として褒め称える風潮”に疑問を呈したが、老年という誰しもが障害を持つ時期の性のタブーに触れられなかった点で、疑問を呈したはずの社会の性に関する先入観や偏見を拭い去れなかったと思える。

②オッパイのある幸せ
 “肩と肘が曲げられなかった寝たきりの特養の入所者が、毎日ベッドにくる若い寮母の尻に触ろうとして、必死になって腕を動かしていた。滑稽な光景かもしれない。猥褻行為との見方もできようが、それがいつしかリハビリの役目を果たすことになり、肩も腕も元のように動くようになったという。 また、男性指導員などがベットを巡回すると、女性入所者が指導員の股間を触り、猥談を持ちかけ、嬉々としていることも少なからずある。”
 “いくつかの施設で、好意を持った入所者同士が月に何度か夜、ベットを行き来したり、夜中に男女でトイレに入り、朝方まで出てこない、といった性交渉の現場が寮母などによって目撃されている。 また、朝出勤すると、前日の夕刻にはきれいに清掃されていたトイレの便座周辺が、自慰によって放出されたと思われる精液で汚れていることも少なくないという。 大半の若い寮母は、始めて入所者同士の性交渉の現場を見たり、自慰の痕跡を見ると困惑する。”(寮母=介護福祉士)
 「女」としての価値を確かめるように一回三百円で売春する女性入所者、触って欲しいと清掃作業の男性に金を渡そうとする寝たきりの女性入所者、寝たきりの女性入所者の胸や性器を触りながら自慰するのをやめさせるために女性器を模した自慰用品を与えられた80過ぎの男性入所者、入所者同士のカップルに嫉妬して包丁を振り回して暴れた女性入所者、頑としてリハビリを拒んでいたのに好きな女性入所者ができたとたんに受け入れて歩けるようになり性交を頻繁にして同室者に苦情を言われて施設側にばれた男性入所者。
 実際に行動に限らず“職員が「新しい男性が入所されますよ」と告げると、女性入所者たちは入所当日の朝はそわそわして、身だしなみにも気を配る。女性が入所してくる、となれば、男性はそわそわして、髭を剃り、髪に櫛を当てたりする。”
 厚生労働省の研究班が全国の老人福祉施設4699へ行った調査では、平均で男性の95.3%、女性の80.9%に性欲があるとの回答結果が出ている。
 もちろん、施設入所者だけではない。
 熊本悦郎(札幌医科大名誉教授)の調査によると、回数に個人差があるが、60代後半の男性の約5割が月2回以上・女性の5割が月1回以上、70代でも男性の約5割・女性の約3割が月1回以上の性交渉を持っている。
 また、中高年専用風俗や特別割引をしている風俗もある。
 女性の場合、金銭によって欲求を満たす場がない。切羽詰って利用しているスーパーの男性店員に500万出すから抱いて欲しいと訴えた裕福な女性までいる。これは極端だが、配偶者を喪い恋人を作ったり、自慰で解消したりする女性はいる。相続問題や介護問題になる老年男女の結婚が近年は問題になっている。
 
③灰になるまで
 若い人の中には、老年の性など特殊な(異常な?)事例だと思っている人もあるかもしれない。実際、こういった話をすると信じない人もいる。
 しかし、性交は生殖のためだけにはないことは理解できるだろうし、本能だけでできるわけでもない。
 どんな体位をとるか、どんな部位を使うか、いつ・どこでするか、それは時代・文化によって異なる。それ以上に、個人個人でも異なる。
 ためしに、親しい同性の友人がどんな性交をしているかを当てられるか考えるといい。
 想像くらいは当てずっぽうや、過去の猥談からできるかもしれない。
 しかし、その想像が当たっているかは、実際に見てみないと分からないし、見てみたところですべて分かるわけでもない。
 それが自分の親や祖父母、その世代にも当てはまる、ということ。
 
(2)男と女と二つの原理
①ケアという概念

 日本では約二十年前から使われだした「ケア」という語は、現在では様々に使われ日常語として流通している。
 特に医療・介護・福祉・教育・倫理などで「ケア」という語、概念は注目されている。
 だが、その意味は一律ではなく、使われる場所や人によって異なる。
 訳語としてみても「介護」や「看護」といった狭い範囲を指すものから、中間的な「世話」、より広く「配慮」や「気遣い」が当てられ、「ケア」の当事者もそれに伴って広く、倫理思想としては人間全体に関るものと言われる。
 「ケア」という概念に関して考察した代表的な一人であるキャロル・ギリガンは「ケア」を男性的な正義の原理と対照的な女性の原理として提唱した。
 つまり、契約関係などの確立した個人による言語的な関係に適用される公正といった近代社会(「男」社会)の中心的な原理とは対照的に、共生的で非言語的で包括的な人間関係に働く原理を「女」性的なものとして位置づけ、従来の正義中心(=男性中心)の西洋哲学に対抗する必要なものとして提唱した。

②必要とされる「えこひいき」
 「ケア」が語られる現場はすべてだが、看護・介護の現場を例にしてみると、理解されやすい。
 看護はもちろん、介護も契約によってなされる場合が多くある。
 その時、契約が求めるのは公正な債務の履行、正義の原理であり、個々の患者や利用者は契約によるサーヴィスを受ける権利を有し、看護・介護従事者はそれをする義務がある。
 反すれば、契約(そして正義の観点から)に基づく批判を受け、責任を追及される。
 従って、患者や利用者に対しては個人というより、その契約がどうであるかが重要になる。同じ契約ならだれであろうと同じ権利と義務の関係が生まれる。そこに個人の違いはない。
 だが、現場でいちいち契約がどうだといったことなど考える余裕もなく、個人個人が必要としてい看護・介護を行おうとする。そして個人個人は異なる存在として認知され・応えられる。その姿勢こそが看護・介護に従事する「ケア」の専門職のアイデンティティだとも言える。
 だから、そこには必然的に「えこひいき」が生まれる。個人個人は求める態度・必要とされる感情が大きく異なり、その相手にする看護・介護従事者も個人の感情が触発され、それに影響された態度と行為を行ってしまう。
 つまり、契約が守備する範囲外の人間関係が生まれてしまえば、だれにでも同じ様に笑うことはできなくなる。
 ここで、正義と「ケア」は、どう相互に関係を調整するかが問題とされ、現場で問われ続けることになる。

③男と女 
クローズな人間関係があり、そこに男と女がいれば、恋愛感情や欲望が生まれる可能性が表れる。
 「ケア」の現場である老人福祉施設でも入所者同士だけでなく、入所者から職員への求愛行動があり、その対応に施設側は苦慮している。
 求愛行動だけでなく、直接的な行動、猥褻行為を行おうとする入所者もいる。
 単に契約関係で規律された場ではない。それでは運営できない・されていない場だからこそ、そのような問題が起きやすい(してもいいと錯覚させるものがある)。
 だから、単に犯罪行為や契約違反として処理することができない。それをすれば楽かもしれないが、場の意味付けが変わってしまう。
 しかし、紛れもなく契約関係もある。
 二つの原理の間で、苦慮する。
 
(3)性欲に限って
①契約による「ケア」の保護

 正義と「ケア」の根本的な対立は措いて、性欲の問題に限って言えば、両者は相補的に使われうると考える。
 この場合や(1)で挙げたような問題化した事例なら、「ケア」を守るために契約を使うようにしなければならない。
 つまり、介護従事職員と入所者は「ケア」の関係であるがあくまでも契約が前提にあるのだから、契約を持ち出して処理するべきだと考えられる。
 この程度の簡単な理屈ですむなら、他の問題でも簡単に処理できるのではないかとも思えるが、そうではない。(2)③で述べたように場の性質を考えると簡単に処理できるものではない。
 だが、性欲の問題、性の問題は他と違い、人間関係の秩序を大きく変える・破壊する力を持つ問題なので、人間関係(「ケア」)を守るための要請が他と比較して例外的に高い。
 性交渉・類似行為(自慰など)に職員が関れば、その職員と入所者との間には強力な「えこひいき」の通用する関係、血縁関係に比する関係が生まれてしまう。同時に、他の入所者にも行えば、別の強力な「えこひいき」の関係が生まれ、当然二つの「えきひいき」の通用する関係は両立せずに激しく対立する。つまり、施設での「ケア」がなりたたなくなる。
 また、介護職員がそれに巻き込まれて精神的肉体的に疲弊すること、介護職員が都合のいい風俗関係者と社会からみなされて福祉に取り組もうとする人がいなくなる危険性はもちろん、これによって施設全体が破壊されうる。
 だから契約という前提を明確に持ち出し利用し、施設の機能により切断できるようにしなければならない。これは、施設職員と利用者が双方で合意しているから・愛し合っているから、望んでいるからいいという問題ではない。リハビリになると寛容する部分でもあってはならない。「ケア」のプロとしての地位を契約で守らなくてはならない。
 具体的には、介護の契約と風俗関係者との契約で、関る人間を可能な限り分離する。
 風俗関係の契約には、その契約に対して別に金銭が発生し、その余裕のない施設利用者も出るが、施設外の社会がそうであるように受け入れてもらうしかない。
 
②残されるもの 
 『セックス・ボランティア』でも問われることになる、権利としての性交・自慰はありうるのだろうか。
 体が動かないから自慰ができない、障害で外に出られず性交相手を探すことはできない、金銭的に風俗関係者を利用することもできないし、障害のために思うように働いて稼ぐこともできない。
 (1)②で紹介したように男性ならまだ金銭で風俗を利用することもできるが、女性では難しい。

(4)二つのQOLの必要性
①二つのQOL

 障害者の性の問題をQOL(生活の質)の視点から捉える必要はある。
 だが、QOLから望ましいから性を積極的にということができるほど、性は単純でも積極的にどうこうできるものでもない。
 人間の生に深く関るからこそ性は必要とされ、それが必要なほど簡単にはいかない。
 性を重要で必要としている人の相手にとっても重要で必要なものだから、契約があれば簡単にできるわけでも、「ケア」だからと言ってできるわけでもない。
 障害者の性をQOLから考えるときに、障害者のQOLを支える人のQOLを同時に考えられなければSOL(生命の尊厳)に反する事態を生む。それを放置すれば、必ずQOLを保つ・向上させようという動機も社会から失われる。尊厳のない人間の生の向上を考えようとする人などいない。
 
 北九州で看護師が70~90代の認知症患者4人の足のつめをはがした事件があったが、この種の虐待は少なからず存在する。
 老人福祉施設でも監視カメラを設置したりしているところがあるが、カメラにはプライヴァシーの観点から写さないところもあるし、映らない死角もある。
 施設に併設してある病院や外部から来る非常勤の医師がいてチェックしているから安心だと思うかもしれないが、特に病院を持ってる施設内で隠蔽できるし、しやすい。変死しても内部の医師が処理してしまえば警察に知られない。
  
 在宅はもちろん施設についても、最大の利用者や予備軍となるこれからの老年世代が自分たちのQOLだけ考えるか、それを支える人々のQOLまで考えて(政治的に)動くことができるかが、本当に大きな違いを生むだろうし、その結果は自身らが身をもって体験することになるだろう。

②「ケア」における二つのQOLの重要性
 ①で述べたこと障害者のQOLを支える人のQOLという視点は「ケア」において、重要な意味を持つ。
 (2)で「ケア」という概念の広さや正義の原理との対象性について述べたが、これに加えて「ケア」には相互性によって形成されるという側面がある。
 つまり、「ケア」とは、「ケア」する側とされる側が独立に存在して行為を行い・受けるものではなく、相互の共同作業であるコミュニケーションのプロセスによって生じる現象を指す。個人個人が主体性を持つ間に「ケア」は形成される。だから、一人一人の「ケア」は違うし時に「えこひいき」的な要素を伴う。
 したがって、片側だけにQOLを求めても「ケア」が望ましいものとはならない。
 「ケア」を受けようとだけ強欲に求めればもとめるほど、「ケア」は手に入らない。
 もちろん、有償の看護・介護の場合には契約による義務と権利が発生するので、共同作業に求められる労力に差はある。だが、「ケア」が「ケア」である以上、契約で成立するものではない。 


引用・参照)
(1)『熟年性革命報告』『熟年恋愛講座』小林照幸著(文春新書)
(2)『ケアを問いなおす』広井良典著(ちくま新書)
(4)「ケアとしての医療とその倫理」清水哲郎著(『ケアの社会倫理学』有斐閣選書)
   「実践知としてのケアの倫理」池川清子(同上)
  高齢者虐待について
 http://careworker.seesaa.net/category/287519-1.html 
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by sleepless_night | 2007-07-21 20:22 |

30代未婚女性への10節/三十路にワルツを踊れ。


 編集者・安原宏美さんのブログ掲載記事について。
 「赤木智弘さん、「強者女性」に「かわいい!」といわれる」 「“30歳からの恋”を邪魔するもの」 
 同記事が25~35歳のキャリアウーマンを対象にしたファッションモード誌『Numero Tokyo』の掲載用とのことですので、以下も主にその女性層に向けてのものと考えていただくのが適当だと思います。
 読者層の地雷原を走る脚気兵士のような脈絡と特有のポジティブさに苦慮が偲ばれる記事にからめて補足や疑問や突っ込みをしたものですが、部分を利用したものなので全体に対して批判や批評するもの・できたものではありません。また、補足や疑問についても最終的なものではなく、考察のスタートに最低限必要な程度です。
 なお、安原さんのブログからの引用は緑色に変えた部分です。
                  *


①働く女は「女」ではなくなる。
 “日本の女性たちが、頑張ったご褒美にステキな王子様を待ちのぞむ気持ちは分かります。でも、“舌も目も肥えた30代女性を満足させ、なおかつルックスも好みで、豊漁力もあって家庭も大事にしているる男性”なんて言い出したら、出会いの多い編集の仕事をしている私でさえ、そうそう会ったことがありません。”

 “フォーマルな組織の持つ規範はいわゆる「男らしさ」という理念とほとんど一致している。情に流されずに目標を追求すること、言い訳しないこと、責任感が強いこと、これらのことは組織人として必要な徳であるだけでなく、男性の理想像でもある。”(※1)
 働くとは「男」になることだと言える。
 第三次産業が産業の中心となった現在であっても、それが仕事である以上、利益・業績を上げることが従業員には求められる。
 働く女性は「男」であることを男性に証明するために過剰同調して「女」を捨てるか、諦めて「女」で売るかすることになり、いずれにせよ男性の評判を落とす。働く女性は、このダブル・バインド状況にどう対処するか、どういった態度で臨むか選択を迫られる。
 業務内容が「女」的なもの、看護師や客室乗務員といった「女」の代表的な職場であっても、計られ・具体的な数値を出す責任が求められる。そこで成功を望めば、「男」として「女」を演じる女性という捩れた状況を生きなくてはならない。(※2)
 このアイデンティティをめぐる混乱は、働く女性に「男」社会に対して殺伐とした感情をもたらし、アクト・アウトとしての浪費(「男」社会に向って、自分たちが男性より力ある「男」だと復讐的に力を誇示しているとも言える)や退行的な「癒し」の消費に向わせる。
 一方、「男」である男性にとっては、そんな「男」女は選択から外れる。
 「男」が欲しいのは「女」なのだから。
 収入という名の“包容力もあって家庭も大事にしてくれる”「男」が欲しいのは「女」であって、“肥えた30代女性を満足”させようなどは考えないだろう。(※3)

②「向上心」は結婚の「上」を向けない。
“「美しくなりた」は向上心のひとつです。つまり、こうした向上心を持つ女性の対象は“美”だけではありません。おしいいレストランの情報、ワイン、エステ、歌舞伎にフラダンス…などなど。”

  そもそも、レストランやワインや野菜や歌舞伎の知識の蓄積やフラダンス習得、マラソンの「向上心」の言う「上」は、何の「上」に向っているのか疑問。
 雑誌やテレビなどのマス・メディア言説が評価する浪費活動能力からすれば確かに「上」かもしれないし、同じ様な知識の蓄積であるオタクやマニアが「向上心」と言われないのもそういうことなのかもしれない。
 だが、“結婚相談所の坂本洋子氏によると、男性が女性に望む要素は、4K(かわいげのある、家事がすき、かしこい、軽い)にまとめられ”(※4)としたら、 浪費活動能力は結婚生活に求められる「かしこさ」に反する。
 しかし、化粧やメイク技術で“いくつか分からないくらいに若く見え”る40代まで現れているのだから、“結婚とは「カネ」と「カオ」の交換”(※5)とまで言い切るのは無理としても重要な資源である「カオ」の点では結婚可能性に対して「上」に向っているのではないか、と考えられる。
 ところが、“いくつか分からないくらい”ではなく、いくつか分かる若い女性がいるという事実を前に、この「上」には直に限界を突きつけられる。

③結婚は「自分磨き」にならない。
 “男性同様に社会に出て、がむしゃらに働いてきた女性の多くが「せっかく面白くなってきた趣味もやめられないし、生活レベルは落とせない」と言います。自分に投資して、磨き上げた彼女らに釣り合う男性は一体どこにいるのでしょう。”

 小倉千加子(心理学・聖心女子大非常勤講師)さんは、女性の結婚を“学歴に応じて「生存」→「依存」→「保存」”に分類した。
 「保存」とは“結婚によって今の自分が変わること”を否定する中堅以上の大卒女性の結婚を指し、上記引用の女性の“「せっかく…落とせない」”は、これに該当すると考えられる。(※6)
 「向上心」をもって「自分磨き」してきた努力に釣り合う相手と結婚する。
 ここで重要なのは、もちろん結婚することではなく、“釣り合う”こと、つまり「自分磨き」をしてきた自分に見合う、「磨かれた」自分を「保存」したまま(その一環として)結婚できること。
 しかし、それまでの「自分磨き」、レストラン情報・ワインの知識・歌舞伎・フラダンス・ピラティス・野菜ソムリエ・マラソンと違って、結婚生活は一人ではできないので、自分の時間と労力を相手に消費しなければならない部分が不可避にある。
 つまり、「自分磨き」は結婚によって「保存」することはできない。
 そして、値上がりすることの無い株に投資し続け、手元に株券は「保存」される。
  
④「男」はオヤジになるが、女性はオヤジになりきれない。
 “私が以前会社で働いたとき、ある同僚の女性が残業しながら「嫁とマッサージチェアが欲しいなー」とふとつぶやきました。みんな「そうだよねー」とか頷いていましたが、でも同時に「やっぱり嫌だ」という空気も漂っていました。”

 ①で述べたように、働くことに求められる性質は「男」であり、仕事に熱意を持つ女性は「男」とならなくてはならない。
 働く「男」となった女性の結婚観が「男」のそれに類似してくるのは当然だといえるが、それでも女性であるという事実から「男」の結婚観と違う点も残る。
 山田昌弘(家族社会学・学芸大教授)さんは、“男性にとっては「イベント」、女性にとっては「生まれ変わり」”と男女の結婚観の特質を表す。(※7)
 ③で述べたような「保存」を求める場合、結婚は男性と同様に「イベント」に位置づけられるようにも思えるが、世間の意識やそれを内面化した自己は結婚が女性を「生まれ変わ」らせる(社会の位置づけを変える、アイデンティティを変える)ことを意識させずにはいられない。
 
⑤男を養う「男」への覚悟の逃げ場と慈善化。
 “ベターな選択として、「嫁が欲しい」とつぶやいたその言葉どおり「男を養う」という覚悟を持って、恋愛を経て結婚し、長い将来を共に歩み、お互いに成長していくのも一案かもしれないですね。”

 「男」への覚悟を勧めてみた後に“女性が出産や育児で助けが欲しいとき、頼もしい男性として活躍しているかもしれません。”と男性が“化け”て女性を「生まれ変わ」らせてくれる希望の逃げ場を作っておく。(※8)
 そして、本来なら“キョンキョンだから”の部分を“キョンキョンだって”と誘導し。
 さらに、“「愛」とは何かを考えると、社会の状況を理解し、必要とあれば他人にも手をさしのべる優しさと行動力ではないでしょうか。”と結婚を慈善化の高みに誘おうとしている。
 確かに、恋愛も結婚も規範的な行い(「~べし」を求める行為である点と、社会規範から推奨されるという点で)なので、結婚と慈善は方向としては整合する。

 ⑥いい男がいたら、どうだというのか。
 “「いい男がいない、いても結婚している」というボヤキは、未婚の30代以上の女性たちが集まって、ご飯でも食べに行けば、誰かが必ず言うセリフ。”

 ここで言われる「いい男」がいたらどうだと言えるのか疑問。
 つまり、未婚の「いい男」が未婚30以上の女性の近くにいたとして、それがその女性にとって何の意味や影響を与え、関係すると考えているのか。
 「カネ」がその男性が「いい男」かどうかの一つの要素となるとして、現時点で「いい男」なら、「カネ」という要素は今後も増える可能性が比較的高く、「いい男」はより「いい男」になる可能性がある。
 それは、「いい男」は現時点以上に選択可能対象が増える可能性があることを意味する。
 その様な「いい男」の存在が、未婚の30代以上の女性にとってどのような意味・影響・関係があると、当の女性は考えているのか。。(※9)
 (可能性としては、「いい男」は広い選択可能対象の中から相当の確立で自分を選ぶはずだと考えていること、「いい男」の定義に自分の価値を認めることが重要な要件として含まれていること、などもあるが妥当な解釈としては漠然とした結婚願望に充当する具体例があることで高揚感を味わえるということが考えられる。が判然としない。)

⑦「幸せ」な「結婚」と「結婚=幸福」は違う。 
 “30代にもなれば、若気の至りで突き進むことなく、「この人と結婚して“幸せな生活”を送れるか?」と現実的に考える人多いんでしょう。”

 「結婚」と「幸せ」が結びつくと考えている時点で現実的ではない。
 離婚率の上昇を挙げるまでも無く、不幸な結婚も幸福な結婚もある。さらに、不幸や幸福も複雑で、ある人・ある時期に不幸な状況を生き抜くことが、後に・ある人にとっては幸福に感じることだってある。漠然と幸不幸を考えても、具体的に幸せを考えても、幸せを把握することはできない。
 “けれども奇妙なことに、この現実の世界では、「結婚」を飾るのはいつも同じ、決まりきった一つの記号なのだ。いうまでも無く、それは「幸せ」(あるいは「幸福」)という記号である。”という疑問を考えた加藤秀一(社会学・明治学院大教授)さんはその答えを “結婚後の生活がうまくいくかいかないかと言う水準の幸福とは別に、結婚そのものであるような幸福という観念が存在する”ことだと考える。(※10)
 また、山田昌弘さんも“もし独身で寂しく不幸だと感じている人がいるとしたら、それは「結婚すれば幸福になるはず」と思い込んでるからであり”、実証的根拠がない私見だが“結婚は、幸福を保証しない。この点が理解されるなら、結婚はもっと、もっと増えるのではないか。結婚難の本当の原因は「結婚=幸福」という思い込みにあるのではないか”と指摘する。
 現実的に考える人は、「結婚」にそれほど「幸福」を期待しない。

⑧本能ならとっくに出産している。
 “感動の恋愛談”と“犯罪”が紙一重な状況では、男性が自粛傾向に陥っているのは無理も無いことです。それに、もともと30代女性は「結婚をあせっていると思われたくない」でしょうから、積極的にアプローチしづらい。というわけで、恋に発展しにくいのではないでしょうか。 
 そして、恋愛の次は「結婚」です。これはさらに大変な状況です。恋愛は本能みたいな部分がありますが、結婚は「制度と生活」にほかなりません。”


 まず、感動的な恋による結婚の矛盾は当然で、情熱や感動は時間経過で逓減していくし、制度という安定性に本質的にそぐうものではない。
 “実際にロマネスクな恋愛いが多くの障害を克服するとしても、たった一つ、どうしても打ち破れない障害がある。それは持続性である。とろころが、結婚は永続するためにもうけられた制度である。”“ロマンスは障害や、つかのまの刺激や、別離を糧として生きる。結婚の方はそれと反対に、日々の親近と習慣によって成り立つ。”とルージュモンが述べた様に。(※11)
 また、あっせってると思われなくないが積極的になれず感動的な出会いを希望するという態度は、“無私無欲でイノセントな部分を印象付けないと女性のジェンダーは評価されないから、打算はなんとしても隠しておかねばならない”と小倉千加子さんの解釈に加えて、⑦で述べたような「結婚=幸福」の影響も指摘できる。結婚のためにも、幸福のためにもならない(なっていない)態度は、結局「結婚=幸福」という観念が指示する決まりごとの遂行の試みのようなもの。
 
⑨間違った心配はしない。
 “ストーカーもDV男も困りますが、でも「いい男がいない」と遠吠えする前に”

 DVは恋人や配偶者がいなければ成立しないし、最も多いストーカーは親子・親友・恋人などがストーキングする拒絶型なので、「いい男がいない」と叫ばなければならないほど遠くに男性がいる時点で、心配する必要はかなり低い。

⑩必要なのは紀香魂ではない。
 趣味が“女磨き。”英語にすると“Self care”なのか。 そして、“not 100% juice”は嫌い。
 それが紀香魂。(※12)
 
 30代以上の未婚女性に必要なのは、藤原紀香さんのような誤った(無謀な)ロールモデルではない。
 喜びにあふれた音楽だ。
 くるりの『ワルツを踊れ Tanz Walzer』を聞き、カラオケでは「ハム食べたい」を目をつぶって想いを込めて歌ってみて欲しい。男性たちは津波前の潮のような勢いで退いて行くだろうが、いままで見えなかった海底の岩が見えるようになるだろう。(※13)




引用・注)
(※1)「日常生活とジェンダー」江原由美子著(新潮社『ジェンダーの社会学』収録)
(※2)“女性が対人的職業に就くと新しいパターンが展開する。そのパターンとは、女性が受け取る基本的敬意は少ないということである。たとえ、女性がエスコートつきで建物に出入りし、車にはおかかえの運転手がいて、雨上がりのみずたまりから守られているとしても、彼女たちは、女性の低い地位の一つの根本的な帰結からは保護されていない。つまり女性の感情は男性の感情のようには尊重されないのである。こうした地位の効果として、客室乗務員の仕事も、女性と男性とでは内容が異なることになる。”
 “女性は、家庭で感情管理の訓練を受け、家庭から進出し、感情労働を必要とする実に多くの仕事に就いた。一度彼女らが市場へ進出を果たすと、ある種の社会的論理が作動する。社会全体の分業システムによって、<どのような職についている>女性も、男性より低い地位と小さな権威を割り当てられる。その結果、女性には「感情原則」に対抗する防御の立てが与えられない。”
 “女性たちの心の奥底にある「私のもの」に対するこだわりは、自分の中の非常に大きな部分を「私のものではない」と放棄せざるを得なかったことを示しているのである。”
 “「なんでそんなふうににタバコを持つんだい?」とその男は尋ねた。微笑みもせず、相手を見上げもせず、スチュワーデスは再び煙を吐いていった。「もし私にタマがついていたらこの飛行機を操縦しているよ」。女性の制服、女性としての「演技」に包まれた心は男だった、ということである。”
 『管理される心』A・R・ホックシールド著 石川准・室伏亜希訳(世界思想社)
(※3)引用元は“目も舌も肥えた30代女性”。
(※4)『結婚の社会学』山田昌弘著(丸善ライブラリー)
 山田著は十年近く前のものなので、内容が若干古く、国立社会保障・人口問題研究所の「13回 結婚と出産に関する全国調査」では、35歳以下の独身男女の希望するライフコースで、急激に結婚と仕事の両立が上昇し、専業主婦が低下していること、初婚男女の年齢差が縮小・妻年上の増加などの変化を踏まえて読む必要がある。ただ、晩婚・非婚化や男性の職業・年収と結婚の相関性や実際の結婚生活での男女の役割分業の問題は同調査でも変わっていない。また、“男女の魅力の差異は、感情という形で身体に染み付いているだけに、説得などによっては変えることはできない。”という「魅力の性差」の指摘や結婚も恋愛も価値追求行為であるという(別著の)指摘は重要。
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(※5)『結婚の条件』小倉千加子著(朝日新聞社) 
 生存・依存・保存とう図式は、2003年の同書よりだいぶ以前の95年(平成7年)「国民生活選好調度調査 豊かな社会の国民調査」の3章の3「女性にとっての仕事」“女性は家庭にとどまるか、職場にでるかの選択をして、その結果働いている人がかならずしも仕事を収入の手段とは考えていないからであろう”という指摘と一致する。
(※6)小倉著
(※7)山田著
(※8)妊娠出産中に「男」であることは無理なのだから、男性の助けを求めるのは仕方がない。が、“化ける”可能性のある男性を持ち出すのは「生まれ変わり」願望への逃げだろう。もちろん、逃げること自体は悪いことではないし、逃げなくてはならない時だってある。問題なのは、逃げられない場所へ逃げようとしてしまう無理な願望や誤解。
 また、“手をさし伸べる”ことを「愛」とするのは、近代以前の用法からすれば妥当。つまり、目下の物・者をかわいがるという意味の「愛」。
(※9)縮小しても平均約2歳の年齢差があり、女性が20~35までが主な結婚年齢層であるのに対し男性は20~40までと広いことや、男性は結婚年齢が上昇するにつれ相手が年下になることを考えると、男性が選択可能対象からより若い女性を選ぶ傾向は否定できない。
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(※10)『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』加藤秀一著(ちくま新書)
(※11)『愛について』ルージュモン著 鈴木健郎・川村克己訳(岩波書店)
 騎士道恋愛、宮廷恋愛、情熱恋愛の系譜を引き“カップルでできている国”フランスの恋愛と結婚に関して、棚沢直子・草野いづみ著『フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか』(角川ソフィア文庫)は1950年から“恋愛結婚”が“一つの価値としてフランス全体が共有した20年間”があったが、1970年から“恋愛はしてもそれが結婚「制度」に結びつくことを、もうだれも「自明」とは思わない”と述べている。つまり、恋愛と結婚の共存はルージュモンの引用どおりの結末を示した。ちなみに、ルージュモンは“自由意志によってもたらされる結果は、それが幸福なものであろうとなかろうと、それを受ける入れる義務があることを教えるのが、結婚の本質と現実に一層適用する”ので、理性で決定したら“節度を守る覚悟”を決めろと述べている。
(※12)日本語版 http://www.norikanesque.com/jpn/index.html
    英語版 http://www.norikanesque.com/eng/index.html
  (schovanistsも嫌いだそうですが、何かは不明。)
(※13) http://www.jvcmusic.co.jp/quruli/
  聞きながらこのエントリを書いたので。
 
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by sleepless_night | 2007-07-18 23:32 |

改訂版。





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by sleepless_night | 2007-07-07 18:05 |

ナントカ還元嫁


はじめに)
 女性農業実習生の「告白」 、その基礎にある農山村の結婚難について。
 →もと記事が消されているようなので魚拓のページ
 光岡浩二(名城大教授・農学博士)の著書『農村家族の結婚難と高齢者問題』(ミネルヴァ書房)参照による、事実の整理と考察。

 同様の問題として、外国人農業研修生への性暴力事件・裁判がある。


(1)問題の歴史
 ここ1世紀に起きた農家・農山村の結婚難問題は、三つに分類される。
①両大戦間期
 特に東京で、大震災前後に生じた農家の結婚難。
 都市部へ人口が移動し、農地面積の減少が国勢調査などの統計から確認される。
 宅地化は、土地価格の暴騰、野菜価格上昇を招き、農家収入は激増した。
 それによって、零細農家の離農と資産家化した農家が出現、それまで不可能だった中等・高等教育を娘に受けさせる家が出現、高額な嫁入道具の負担可能化。従来からあった娘たちの農業労働への忌避観と都会生活への憧憬も伴い、農家の娘たちは農業青年との婚姻を避けるようになる。農家の嫁の供給源は農家の娘だったために、結婚難が生じた。
 ただし、この現象は大都市近郊の限られた地域のもの。
 
②第二次大戦後
 “婿一人に嫁はトラック一台”
 戦争で婚姻適齢期の青年が大量に喪失されたために生じた結婚難。
 終戦直後の経済状態で女性の勤め口は極めて限定されていたために結婚して農業に就く以外の選択肢もなく、当時の社会観・結婚観も相まって結婚難(したいのにできない)を強めた。
 現在もそうであるが、日本人の結婚は女性を(家格などで)より低い方から採る習慣があった。しかし当時、女性の結婚難を背景に、高等教育を受けた女性が農業青年と結婚することも起きた。そのため、農村で教育を受けられなかった女性たちは一層困難な立場に立たされた。
 ただしこの現象は、各地の集団見合いなどにより数年で解消された。

③高度成長期以降
 都市での第2・3次産業の雇用増大。農地から地すべり的に人口が移動。
 1950年頃から山村地では問題化してきた農家長男の嫁探しが、1960年代には全国各地で問題として語られ始め、花嫁銀行の設立など対策が採られる。
 しかし、近年の各種調査でも都市→平地→中間→山村の順に困難度は深刻なまま。
 特に山村地域は深刻な状態が50年代から継続している。
 男性未婚者の割合は増大したままで、女性の場合も農家の跡取り娘であるために、残された長男長女同士で結婚できずにいる。
 近年、全体的な非婚化が言われているが、これは大都市圏と過疎地で、後者は山間農業地域と重なる。

(2)問題の原因
①結婚難の理由
 
結婚難の原因について1991年に5県で実施した調査で、主な原因として現れたのは以下。
 ・若年女性の農村青年との結婚忌避
 ・結婚観、女性の地位変化
 ・適齢期女性の僅少化
 ・男女交流の機会や場の僅少化
 ・青年本人の消極性
 ・娘の母親の干渉
 この中で男女ともに最も挙げた原因が、若年女性の結婚忌避。

②農業忌避の理由
 では、当の女性たちはなぜ農業青年との結婚を忌避するのか。
 同様に5県で実施した調査の結果は、大きくは労働問題と人間・環境問題に纏められる。
 労働問題は、収入が低額で不安定、長時間の厳しい労働、休日がない、など。
 人間・環境問題は、舅姑問題、地方の因習、煩わしい人間関係、不利な生活環境、など。
 この中で男女ともにに最も挙げたのは収入問題だったが、男性が他と比べて大きく原因としてこれを挙げたのに対して、女性は舅姑問題をそれほどの差を付けず(しかも長時間労働を原因として挙げた女性より多く)原因として挙げている。
 その他、各地の協議会・委員会や研究機関の農家既婚女性への調査でも、農家の収入不安定・長時間労働と人間関係の問題は上位に挙げられている。

③構造 
 この他に構造的な問題として二つがある。
 一つは、男女の適齢期人口のアンバランス。ベビーブームなど出生数急増に伴う現象。
 もう一つは、女性の高学歴化と社会進出。
 前者については、経企庁の国民生活白書を参照。
 
(3)対策
 “抜本対策が必要となる。その必要性について筆者はこれを早くから機会あるごとに繰り返し強調してきた。しかし、完全に無視された。それどころか、結婚難の要因(と同時に母親たちの意識の規定因)として農業、農家、農山村の問題点を次々と剔抉し明示するために(中略)非難さえされた。”
 光岡浩二さんは対策として、農産村民の意識改革、因習改善、労働問題の改善(けじめ・休息休暇・女性に収入)、農政への取り組み、青年の社会性寛容、農民蔑視の解消などを挙げている。

(4)今までも今回も
 ①つながるもの

 今回の農業実習生の「告白」で連想されるのは、同じく農業研修で来日した外国人女性への暴行問題。
 二つの背景にあるのは、全く同じ、そしてそれは(3)で紹介した光岡浩二さんの調査結果が示した労働問題と人間・環境問題にあるものと同じだと考えられる。
 さらに、結婚難対策として導入されている一つの対策とも大きく関り、それには問題が集約されたかたちで示されていると思える。
 
 ②トド?
 1980年代後半から過疎化、結婚難が深刻化し解決のめどが立たない地域で、行政主導で大規模に国際結婚への取り組みがなされた。
 相手国は韓国・中国・スリランカ・フィリピン・タイ・ブラジルなどの(当時)途上国。
 婿ではなく、嫁のみ。
 問題点として相手の弱みを利用する、外国人差別などもある。
 しかし今回の「告白」や暴行事件につながり、結婚難の労働・人間・環境問題とつながると考えるのは、相手の扱い方とそれを支える意識や価値観。
 問題化したケースなので極端・例外だと思われるが、日本に来るとパスポートを取り上げられて男性にのみ選択権があるとされたケース、教会に通わせない・信仰を無視するケース、結婚後に行動を監視・外出禁止され収入もなく閉じ込められたケース、そして、子供が生まれたけれど日本語が話せない・読めないケース。
 相手を、人間と性交でき・出産ができる家畜くらいにしか思っていない。
 相手が途上国出身で経済的に優位なのを利用するというのは、他の条件がない限りは問題化しない。つまり、相手が絶対的な貧困状態にあったり、距離を利用して虚偽情報を述べたり、脅迫がなされたりしない限り、程度問題として処理できる。
 結婚、男女関係という観点から見れば、どこの国の出身者を相手にしても関係はない。
 国際結婚か否かを問わず、双方が望みのために「利用し合う」というのは、経済・生殖・生活の複合する結婚という関係において避けられない部分がある。
 しかし、「告白」や暴行事件と同様に、これらのケースには人間と暮らすという意識がない。
 自分の農地に入ってきた女性に性交して構わないという意識は、繁殖期のトドがハレムに入ってきたメスに圧し掛かって交尾するのと変わらない。
 
 ③変わらなかっただろう事実
 「告白」では男所帯だったことに触れられているが、ここに女性(母親)がいても変わらなかった可能性が相当にある。
 (2)②で舅姑問題、(3)で光岡さんの嘆きを紹介したように、農村における女性の地位・権利意識自体が極めて低いゆえに、女性の地位・権利が問題だと認識されていないと言う。
 “女性の敵はほかならぬ女性”との日本農業新聞によせられた女性の意見が示すように、結婚して当たり前で、舅姑と夫の言うことに黙って従い、休日休息なく所得も(自分名義に)なく、経営参与できず、行事と家事と育児をこなしてと普通だ考えている(それが女性の幸せだと考えている世代の)女性なら、家にいても女性実習生にとって何の助けにならなかったのは容易に想像される。
 農家の女性(姑)たちは自分の娘は農家にやりたくないと思っている場合が決して少数ではないといわれる。
 つまり、自分の子供が苦しまなければ、他人(嫁)の苦しみは問題ないと思っている場合がある。

④解決した結果だけ
 (2)で述べた労働問題、低収入で不安定、長時間労働というのは他の分野での労働問題とも共通点があるので、農業について特徴的だといえない。
 特徴的なのは、それが人間・環境問題と一体化している点だと考えられる。
 つまり、結婚という最も親密な人間関係と労働問題が一体化している点。
 労働がつらいというのみならず、それが生活や人生と一体化している。
 しかもその一体化には、舅姑や地域も加わってくる。
 それが通用しなくなっているのに、新規参入が少ない環境によって、新しい世代の中にまでも気づかない・気づこうとしない人がいるというのが、農村における結婚難の要点だと考えられる。
 かつては逃げ場のなかった女性たちがいたので、通用できた。
 しかし、社会が変わった今、その時代の人間たちがその時代の思考のままでいる限り、解決はしない、それは(1)①②で述べた農村自体の歴史から証明されている。
 問題を放置したまま解決した結果を求めようとして無理が出る。
 かかるはずの無い水道代計上という現実には有り得ない結果を求めたために、ナントカ還元水という無理が現れたように。
 それが端的に国際結婚の一部に、そして、「告白」の問題につながっている。

(5)なぜ結婚難なのか?
①不可視の前提

 既に結婚難の理由と結果だけ求める弊害について述べてたが、そもそも、どうして結婚難なのかが疑問として残る。
 「告白」に登場したり、国際結婚で紹介したケースの農村男性はどうして結婚をしたいと思ったのか?
 結婚をしたいと思わなければ、問題はないのだから、その点を考えなくてはならない。

②考えられること
 当然、(2)②や(4)④で述べたように、今まで・現在の農業において働き手として嫁があったのだろう。
 しかし、働き手というならば、雇えば済む(金は掛かるが)話で、結婚する必要はない。
 働き手が必要だからと結婚していたら、会社経営者は重婚しなければならない。
 働き手ではない、だけではないとすると、次に考えられるのは性欲の問題がある。
 しかし、これも性欲があるなら、解消のための風俗なりを利用(金は掛かるが)すればよい話で、結婚する必要はない。たしかに、常時というのは困難だろうが、24時間性交を求める男性もそう多くはないと推測されるので問題はないはず。
 では、家に常時いて助かる家事のためになのか。
 だがこれも、家政婦なりを雇えば済む(金は掛かるが)話で、結婚する必要はない。
 だとすると最後に、子供、跡取り息子を得るためか。
 しかし、これも結婚する必要はない。自分の遺伝上の子供が欲しいなら結婚せずに子供を作ればいいし、相手にも割り切って依頼すればよい(もちろん金は掛かるし、契約自体で無効になる虞)。排卵日を計算してもいいし、もっと効率的には人工授精すればよい。子育てについても、舅姑がいれば「英才教育」ができるだろうし、いなければ必要な人間を雇うこともできる。 

 近代以降、そして多くが「恋愛結婚」である現在、結婚には他の関係ではない親密さが要求されるが、今回の「告白」や国際結婚の一部問題化した人達には、これを求めた様子がない。
 それがないということ自体には責めるべきものはない(「恋愛」感がなくても、生活を共にするというのは各々の価値観の問題なので)が、だとしたら逆にどうして結婚なのだろうか?
 結婚すれば簡単には離れ(逃げ)られないと思ったのか。
 世間体として結婚という体裁が必要だと思ったのか。

③曖昧で単純な
 なんとなく体裁が悪いし、料理も洗濯も面倒だし、農作業に人手は必要だし、親の介護だって自分がするのは考えられないし、セックスはしたいし、子供だって一応いた方がいいだろう。
 そんな曖昧で単純な身勝手が原因だったのかもしれない。

 もしそうならば、言えるのは、結婚なんかしなくても、身勝手にやりたいという欲求は叶えられる。料理も洗濯も掃除も農作業も介護もセックスも子供も結婚しなくても得られる、金さえ掛ければね。ということ。
 いっそ農地を売ってしまえば、身勝手できる金にもなるし、農村の結婚難の解決にも助けになる。
 農村が無くなれば、農村の結婚難もなくなるのだから。

(6)少し真面目に、でも新味無く 
 例外で特異だからニュースになったので、農村・農家全般をこれで考えるのは間違いになる。しかし(2)に挙げた問題は問題として確かにあり、それがこの例外を導いたことも確かだと考えられる。
 国家ごと離農するという選択肢も、徴農という選択肢もない(と思いたい)ので、あるのは現在指摘されている問題をまともに解決しようとすることと、その先に新しい農業を創ることしかない。
 端的には、家業としての農業、世襲が主流というあり方を変えるための法整備、資源の移植(農地・農業設備とノウハウ)を可能にする措置。一代で農業をした後、それを他の人が引き継げるようにする、若しくは集団で引き継げるようにするという、とても新鮮味のない、法人の参入という現在言われていることの延長。
 それには、農業に携わっている・資源を持っている人がどれだけ手放すことを受け入れられるか、何を優先して次の社会に残したいのかということに腹を決めなければならないだろう。
 そして、消費する側も何を守るためにどれだけのコストをかける覚悟があるのかを決めて、ナントカ還元水を飲んでいる人ではない人へ農政を委ねるように選択する行動を示すこと。

その一歩に、これを変えること。
でなければ、結婚難どころか、水道水を飲めなくなる地方が出てくるかもしれない。


追記:ひどいけど、済まない事) 
 今回、女性が「告白」した内容や上記した問題化した国際結婚の一部の事例などについて、確かに酷いとしかいいようがない。
 そして、今回の「告白」のような出来事のきっかけになった「農業体験」という名の女性募集も酷い。
 酷いというのは、手段として不当だということと効果が低そうだとうことの二つの意味で。
 「農業体験実習」という企画を考えた人には「結婚相手となる独身女性がどうしても必要だ」という切迫した本心と「あからさまに、花嫁募集では女性は来ないだろう」という認識とがあったのだと思う。
 確かに「農業体験実習」という企画発想自体は、二つを両立できたものだと思える。
 ところが、その実施にあたって、というよりも企画を募集要項などの外に出す形にした段階で「あからさまに、花嫁募集では女性はこないだろう」という認識は吹き飛んでいる。
 残ったのは隠そうとした分、「いやらしさ」まで出してしまった募集ページ。
 そして、今回の「告白」という「いやらしい」実態の露呈。
 
 相手も人間・こちらも人間という関係で生活する相手を探すことを考えれば、できるだけ多くの人に来てもらい・会うことができるというのが目指されるべきで、「農業体験実習」という企画の発想もそこにあったと考えられる。そうでなければ、最初から「花嫁候補募集」と掲げているはず。
 ところが、募集ページに表した段階で「農業体験」という緩さ(間口の広さ)を潰してしまっている。
 
 それには、きっと、緩さ(間口の広さ)や余裕を失わせるような現場の切迫したものがあったのだと思う。実際、上記紹介した光岡浩二さんの著作からもずっと事態は深刻だと分かる。
 だから、女性の「告白」を読んで、酷さを罵り、同じような募集をしているところを叩いても、済まない話。
 叩かれて企画を引っ込めるところがでても、「知りもしない奴らが」と鬱積するだけだろう。「オレが欲しいのは嫁の人権じゃなくて、嫁だ」と「選べるだけ女がいる所の話を、いない所にもちこむな」と言われるかもしれない。

 結婚相手を配給することはできないし、するのが良いことだとも思わない。
 農山村の長男に結婚相手を見つける画期的な企画は、私にも分からない。

 しかし、「農業体験募集」のページを幾つか見て、引っかかっていたことがあった。
 どうして、独身女性を募集するのだろうと。
 もちろん、嫁が欲しいのだから独身女性でなければならかったのだろう。
 しかし、(5)で述べたことと同じだけれど、どうして結婚しなければならないのか、そこまで結婚にこだわるのかが分からなかった。
 正確に言うと、どうして結婚してまで農業をしなければならないのか、農業を続けることにこだわるのか。どうして、結婚してまでその人達、農家の長男たちがしなければならないと考えるのだろう。
 
 その引っかかりを探った時、今の農家がやるという拘り「自分たちが」という意識が(4)④で述べたような、分かっていること・解決しなければならないことをできなくさせているのではないか、と思い浮かんだ。
 「自分たち(の家族)」がやるために、必要なのは新しい仲間ではなく、あくまでも「自分たち」を助ける女(だけ)、「自分たち」を維持するための女(だけ)が必要だという意識があって、それが仲間になろうとする人や女性から忌避されるような雰囲気を作り、間口を狭くするような流れを作り出しているのではないだろうか。

 (6)で述べたことの繰り返しになるが、残したいのは「自分たち」なのか農業なのかということに対して、「自分たち」を残そうという意識が逆に「自分たち」の首をしめてしまってはいないだろうか。
 農業を残すために、新しい仲間を増やす、男だって、夫婦だって、加わわれる間口の広い新しい農業にしようとする。今まで「自分たち」が蓄えてきたものを共有するように変えたほうが、新しい「自分たち」は生き残れるのではないだろうか。
 農業が無くなる、無くなってよいと思う国民は(多くは)いないだろうし、無くなっては困るものなのだから。 

 と、無責任に思う。
 
 

 
 
 
 
 





 
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by sleepless_night | 2007-03-25 10:26 |

日本のブスは美しい。

“ブスは悪いことではない。仕方のないことだ。”
      『ブスの瞳に恋してる』(マガジンハウス)鈴木おさむ著


ブスに関する考え方)
 『ブスの壁』(新潮社)高須克弥著の記述を材料とした分類。
①ブス本質主義
“生物はよりよい子孫を残すため、本能的に自分のもっていない優れた遺伝子を持った配偶者を選ぼうとします。”(p105)
 生物的本能による選別、あるいは、美のイデアのような本質があり、生物的・本質的なブスは存在するとの考え。
 
②ブス相対主義
 “美の基準は常に変わっています。昨日の美人は今日のブスです。”(p105)
 ブスとは地域と時代の基準によって判別されるものであって、本質的な要素はないとする考え。
 時代の権力を握ったものによって決められた基準によってブスは認定されている。
 北朝鮮でもっともいい男は将軍様、となる。  

③バランス相対主義
 “平均的なのが美人で、そこから突出したのがブスと呼ばれてる”(p218)
 時代や地域によって好みはあるが、バランスのよさが美人には必要、ブスはバランスが悪いことが必要。
 バランスという点では本質主義的だが、結果的に現れる美人やブスは相対的な基準によるという点で相対主義。
 美術で言う黄金比率などと同じ考え方。
 “目鼻立ちのバランスがととのう。この感覚には、時代を超えた普遍性がありはしないか。確証はないが、あんがい美人の目鼻立ちには、昔から一定の基準があるように思う。”
 『美人コンテスト百年史』(新潮社)井上章一著
 にも同様の思想がみられる。

④技術的相対主義
 “美の基準を自分の好みにしてしまうことです。中略。一般人からいったん高い評価を受けてしまえば、あとはなんでもありが美の世界のおもしろさです。”(p21)
 “ブスと言われようが「私は美しい。いまにみておれ」と頑張るあなたを高須クリニックは応援しています。信念はいずれ現実化します。美の基準はいくつもあるんです。”(p110)
 本質主義的なものがあろうがなかろうが、技術的に顔を変えることが可能なのだから関係ない。現実の顔を変えることができるし、基準に合わせることも、基準を合わせることもできるという点で相対主義の一つと考えられる。


非対称性) 
 美人とは、美しい女性の人という意味を指し、社会的に男性に関しては用いられない。
 美人の対応呼称としては美男子。これは成人男性にも用いられるが、「男子」という文言が示すように、男性の容貌の美を問うに当たっては正面から想定されているものではないと言える。
 つまり、容貌の美とは女性にとって意味(重要性)を持つが、男性にとってはそれほどの意味を持つものではないと考えられる。
 近年、美男子ではなく「イケメン」という言葉が多用されている。
 これは容貌の好ましい男性を指すものだといえるが、「イケメン:行けている男性」という言葉を見れば、単純に容貌の問題で判別されるものではない。
 つまり、「行けている」とは、「いかす」から派生しており、「いかす:気が利く」というように外観ではなく機能的な要素を基準としているものであるため、「イケメン」とは容貌以外の機能的(能力的)な要素によっても認定されうるのだといえる。


もうひとつの相対主義)
 上記で『ブスの壁』を用いた分類を試みたが、もうひとつの分類がありうると思われる。
 相対主義として②に含まれるのだが、メディアの(利益関係などの)上で「美人」として扱われることを通じての美人が存在している・しうると思われる。
 それは「美人」だと本当に思っている集団に支えられている場合もあれば、本当に思っていないがメディア上のポジションとして「美人」であるとされている場合もあると思われる。
 メディア上で「美人」と認定され、ラベリングされて、流通している。そのポジショニングについて大衆はたいした関心を持っていないために、流通状況に変化は起きない。
 これは能力と関係する「イケメン」の方がわかりやすいかもしれない。
 「イケメン」は外貌以外の要素を持つので、「美人」以上に相対的なものとなりうる。


ブスである意味)
 映画『愛しのローズマリー』は、美人に固着的な嗜好をもつ男性が催眠術をかけられて外見ではなく内面の美しさを見ることができるようになる話。
 「人はやっぱり、外見ではなく、内面が大切だよね」という教訓を与えたかったと思われるこの映画は、結局、内面の美しさを外見の美しさへと表した点で教訓とはならず、さらに、外見も内面も美しい人を探せば済むという点(映画では外見も内面も変わらない美人が出てくる)で終わっていると言えます。
 『ブスの瞳に恋してる』の著者、鈴木おさむさんは美人を振って“リスペクト”できる現在の“100人中101人がブスだと答える鳴り物入りのブス”である奥さんと交際0日で結婚しましたが、鈴木さんもリスペクトできる美人を探せばよかったのではないかとも思えます。
 しかし、映画の話は措くとして、鈴木さんと大島美幸さんの二者関係にしぼれば、ブスであるということはどのような意味を持つのか。
 大島さんにとってブスであることは、「芸人」として必要であり、その「芸人」であることへの“リスペクト”が鈴木さんには必要である。
 とするならば、ブスであることは二者の間においては間接的なもの、二次的なことであると考えられます。つまり、「芸人」という対社会的な側面としてブスであることは重要であるが、二者間だけを見るとそれは二次的(「芸人」への尊敬をささえるための材料)でしかない。
 

日本のブスは美しい)
 大島美幸さんはメディア上のポジションとしてブスであることは確かでしょう。
 しかし、ブスに関する上記の分類を通して考えると、どうなるのか。
 ブスと言えるのか。
 ブスという言葉が語源であるトリカブトの毒を飲んだ際の無表情から考えれば、その毒々しさが大島さんからは私は感じられず、ブスと呼びづらい感覚があります。
 同書の著者近影にある鈴木さんと大島さんのお二人は「似たもの夫婦」と思え、男女の美の非対称性を強く感じさせるものです。

 人に目があり、視識がある限り、人は美醜を判別し続ける。
 「外見ではなく、内面が大切」という教訓を伝えるために『愛しのローズマリー』が美人であるグウィネス・パルトローを使わざるをえなかったように、それは不可避である。
 外見の美は、やがて衰える。
 人の外見が移ろい易いことを伝えるときに持ち出されることです。
 だが、外見が衰えるのは美醜に関係なく、むしろ、醜がより衰えるなら、美が衰えたものよりも大問題ではないかとも言えます。
 しかし、外見以上に、人の心は移ろい易く、規格品のような安定した一般的なありかたをしない。
 それは、心変わりという悲しみを生むが、反面、人と違うことがその個人や二者関係では直接的に重大性を持たないことをも意味する。
 だから、ブスは美しい、と言える。



追記)『ブスの壁』は、高須クリニックの院長高須克弥さんの著作です。この本を読むと、あのテレビCMが理解できるような気がします。何を言おうが、部分部分がつながっていようがなかろうが、最終的に表したいことは「YES,高須クリニック!」ということなのだなと、納得させられました。


補論)
上の記述は結局、相対主義を採っていることになるでしょう。
私見を述べれば、最も近いのはバランス相対主義です。
ただし、「美」という言葉を取り上げてみればバランス相対主義にもあてはまらない部分が確かにあるとも思います。
言葉内部の問題に過ぎないのかもしれませんが、「~は美しい」との表現には、バランスの良さを表すこと以外に、人間の感受容量を超えた圧倒的な事象を表すことがあります。
美醜という相対的な比較可能性を超えて圧倒され、形容を絶するような場合に「美」があてはめられるのです。
具体的には、神秘的な崇高さを「美」と呼ぶ場合や意図的な特徴の誇張(アンバランス)で構成された作品の「美」です。
前者の場合、一般的な「美」の基準では該当しない、むしろ極めて外れたものにもかかわらず「美」といわれます。そしてその美は、生きていることにとても身近にあるようなものだと思います。「愛しさ」と言ったほうが一般的に適切なものかもしれませんが、「愛しさ」という心が対象に密着する以前に、対象から直感的に与えられるものがあり、それが「美」と言われるのでしょう。
密着する以前のものですので、セクシュアリティとの関係は薄いものとなります。
ですので、この観点から「ブスは美しい」と言うことは、バランス相対主義を利用した「ブスは美しい」とはことなります。
 

 
 
 
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by sleepless_night | 2006-10-29 11:44 |

「エビちゃん」の陰謀/エビの数だけ「幸せ」に

 “私たち日本人がただ単純に「好き」、「もっと食べたい」と思っていたから輸入がどんどん増えてきたのだろうか。前述したように、戦前まで、日本人の食べるエビの量はきわめて限られたものだった。歴史的に「エビ好き」といえるほどエビを食べていたとは思えない。私たちは、ひょっとすると「エビ好き」になるように仕向けられているのかもしれない。”
             『エビと日本人』村井吉敬著(岩波新書)


(1)エビに憑かれて
① 日本マクドナルドが今年一月から発売をしている「えびフィレオ」に使用されているエビは、ホワイト系のバナメイ。
 日本人が口にするエビの多くはクルマエビ科クルマエビ属のエビで、生物学的な分類とは別に色によって、ホワイト系、ブラウン(ブラック)系、ピンク系に分類されている。
 スーパーなどで見かけるエビの代表だったブラック・タイガーはその名の通りブラック系。勿論、ホワイトでも、ブラックでも、輸入養殖エビ。

② 日本でも海外でも、養殖技術が開発されるまで、エビは帆舟や手漕ぎ舟で網を曳いたり、定置網によって漁をしていた。
 エンジン付の船が出現することで、網曳きが動力化され、トロール漁によって多量の収獲が可能になった。
 トロール漁は、収奪的であることに加え、一緒にかかった魚が捨てられる海洋資源の浪費が指摘されている。
 
③ 日本では明治時代から、東南アジアでは十二世紀から稚エビを池で育てる簡単な養殖が行われてきたが、二十世紀に輸出産業として稚エビを養殖池で育てることが始まる。
 海外資本の資金と技術がエビ養殖を促進し、冷凍保存・運搬技術の発展と一緒になり、1961年の日本のエビ輸入自由化に応えることになった。養殖地ではエビ・ブームが起こり、稚エビ採取や養殖池所有者などの一部にエビ成金が現れた。
 エビ(ブラック・タイガー)の完全養殖技術は1960年台中盤から、繁殖・眼柄処理技術・人工飼料開発などが台湾の廖一久博士(東京大学)によって開発され、エビ革命が起り、1980年台日本のブラック・タイガー輸入が急増し、エビは日本で大衆食化した。

④ 養殖輸入という現在の日本のエビを支えるのは、日本を含む商社や水産業者の資本力。単価が高いのに扱いやすい「おいしい商品」であるエビ争奪に、自分たちの食を満たす程度の漁で済ませている場所、エビに食料として興味の無い場所、開発が進んでいない地域へ進出し、契約(借金)の下に資金・資材を提供し、加工工場、冷凍施設、運搬経路を押さえ、国内では大量のエビを消費させるために流通・食品加工・外食・スーパーなどの小売業者を通じてエビを家庭に、人々の食生活に浸透させる。 
 養殖池を作るためにマングローブ林が無くなり、養殖池の土地が塩漬けにされ、エビを作る土地ではエビが食べられなくなる。
 アグリ・ビジネスでお馴染みの構造があるというだけの話。
 
⑤ そして、バナメイ。
 ブラック・タイガーより病気に強く、養殖効率もよく、同じくらいに味も加熱後の色合いもよく、価格が二割ほど安いバナメイに養殖エビの首座が移りつつある。(世界生産はすでにバナメイがトップ)
 だが、既に大衆食材として認知され、日本のエビ消費には飽和感がある。


(2)かわいい系の正統「エビちゃん」
① まず、私は『CanCam』をおそらく一度も読んだことがありません。
 また、蛯原友里さん、通称エビちゃんに関して書かれた書籍等を読んだこともありません。
 この文章を書くにあたって、はてなキーワードの「エビちゃん」を参照しています。
 画像については『CanCam』のHPとグーグルの画像検索を見ましたが、主にはマクドナルドの「えびフィレオ」のポスター・CMを参照しています。
 よって、以下の文章は蛯原友里さんに関すると言うよりも、マクドナルドの「エビちゃん」という極めて限定されたイメージから受けた私の印象を述べたものと解していただく事が適当だと考え、そのような意図の下で読んでいただくことをお願いします。
 尚、蛯原友里さんのファンの方々には不快と採られる表現内容を含むこともご了承願います。
  
② 無関係な人と物が無秩序に活動する何の変哲も無い日常に現れた、対称と反復するイメージが作り出す奇跡の瞬間。全てが調和する完璧な構図の美しさ。煌びやかさ・豪華さとは切り離され時に残酷さや悲しみをも含んだ世界の豊かさ。映し出されたのが「瞬間」でしかない愛おしさ。
 アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」。

③ 「見上げる眼差しと訓練された唇の作り出す曲線」

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 眼輪と眉と唇と顎、顔を囲む緩やかにウェーブした髪、手でつくられたハート形、によって曲線の対象と反復を徹底的が作られている。
 特に、手のハート型と両顎骨のラインと下唇と鼻と下まぶたと眉やまが作り出す反復性、小鼻から口元にかけてのラインと唇が作り出す対称性。
 軽さ軟らかさを感じさせながら、透明感が下品さや軽薄さを抑える髪色。
 広い額と顎を引くことで正面を見上げるようになる眼差し。
 眉やまの頂上角が髪で微妙に隠され、高すぎない鼻梁と柔らかな鼻尖。

④ 商業写真としては当然の計算だとしても、「エビちゃん」の完成度には感心するほかありません。
 しかし、「エビちゃん」の美しさを作り出している完璧な線・曲線の対象と反復からは、統合感を感じられません。もっと申せば、いらだちとも表現できる不調和を「エビちゃん」から感じられます。

⑤ (「瞬間」では全く無い。日常とはかけ離れている。消費、浪費の虚しさと貧しさを映し出していることを除いても)カルティエ=ブレッソンの写真が持つ統合性が「エビちゃん」にはない。
 それは、線・曲線の対称と反復の完璧さを作り出している身体・表情が表す意味に統合性がないから、むしろ外観が完璧であるが故に意味の統合性のなさを表れているからだと、私は解します。
 そして、その統合性の無さ、不調和こそが、かわいい系の正統な後継者として「エビちゃん」を「エビちゃん」たらしめているのだと。

⑥ 「エビちゃん」の不調和には二つの対立する意味が存在します。
 一つは、眼差す主体と眼差される客体。
 「エビちゃん」はこちら側に向かってしっかり・揺るぎの無い視線を向けています。つまり、「エビちゃん」は眼差す主体としての存在を示しています。
 しかし同時に、顎を引くことでこちら側を見上げている、つまり、「エビちゃん」に対する眼差しの主導権(優越性)をこちら側に渡しているのです。
 もう一つは、幼稚さと成熟。
 大きな(大きく見せられた)前頭部、大きな黒目、大きな笑顔、そして見上げる(いたずらっぽい)眼差し。
 これらは全て幼児性(幼さ・子供らしさ)の特徴です。
 しかし同時に、露出した肌と肉体(手のハート形により指示される胸部、所謂「谷間」)は成熟を現します。

 眼差す主体と同時に眼差される客体、成熟した大人であると同時に幼稚性を態度で訴えかける、存在の不調和が「エビちゃん」の身体・表情・態度が作り出す完璧さに明確に現れていると解釈されます。

⑦ では、これのどこに、かわいい系の正統な後継者であるという根拠があるのか。
 初婚年齢低く、初潮を迎えると労働と性において大人の扱いを受けていた近世から、労働が男性のものになり、義務教育というモラトリアム期間が生まれた近代になると、子供でもなく大人でもない時代が生まれる。つまり、(身体的には)大人であると同時に(社会的には)子供という、少女時代の誕生です。
 「良妻賢母」という教育規範と小説・絵や服飾文化(消費文化)に、少女たちの持て余された思春期のエネルギーが向けられて済まされます(リビドーの昇華)。
 その傾向、規範の実践(夫に仕え、健康な子供を生める体を養う)と消費文化が少女たちの場所であることは戦後も続きます。
 しかし、60年代からの学生運動を境に徐々に変化が生じます。
 革命、反抗というカルチャー、主に学校教育が与えてきた規範の綻びに乗じて、性的身体の解放の試みが現れます(不純異性交遊)。
 身体的には大人であること、性的身体を社会的には子供であることで隠蔽してきた(されてきた)ことを止める傾向は70年代には明確になり現代へ至っています。
 そこで、「かわいい」という形容詞が、消費文化と商品を身に付ける少女たちが自らを形容する用いられる言葉として覇権を握りました。
 「かわいい」と性的身体の自覚とは矛盾するようにも思えます。
 だが、「かわいい」と言う形容詞の持つ二つの機能と時代状況が、矛盾をそのままにしながらも利用可能にしたと考えられます。
 「かわいい」とは、保護したい欲求を含み引き付けられる弱い存在を形容する言葉。これは、自分の中の子供っぽい無邪気で魅力的な部分を保護するための自己形容として用いることができると共に、そのような性質を含んだ物(やキャラクター)を通じて他者と意思疎通を可能にします。 
 つまり、「かわいい」とは自分(他者には理解できない自分、踏み込まれたくない自分の領域)を守りながら、他者とも(衝突や対立なしに)繋がることがでる。「かわいい」という言葉によって成熟(性的身体)を包み、内面(自意識や主体意識)を保護し、同時に他者との衝突や対立を無化する。さらに、“私探し”に代表されるような、経済的繁栄がもたらした余裕と戸惑いの部分と消費を謳歌する部分を個人―特に経済(生産)から阻害されてきた女性―に受け入れさせるのに勝手のよい言葉としてもちいられたと解されるのです。
 
 眼差す主体と同時に眼差される客体、成熟した大人であると同時に幼稚性を態度で訴えかける不調和な存在「エビちゃん」こそが、「かわいい」が備えた自己保護機能とコミュニケーション機能の成果であり、正統であると評価できるのです。


(4)「エビちゃん」のいらだち、奈良美智の嘲る眼差し
① 私は「エビちゃん」を見た際、奈良美智さんの絵を思い起こしました。
 
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 「エビちゃん」のような計算されつくした線・曲線の対称と反復が奈良さんの描く子供にあると言うわけではなく、不調和さ(心地悪さ)を思ったのです。
 
 “「フェミニズムって、何ですか?」”
     内田樹の研究室:エビちゃん的クライシス
     http://blog.tatsuru.com/archives/001731.php 
 
 「かわいい」顔をした子供(過去)が「フェミニズムって、何ですか?」と眼差した社会に生きる私(たち)に問いかける。
 勿論、答えを知ってです。
  カッコいい系最後の象徴でさえ、男だらけの専門家集団が支配するF1中継でカッコわるい役割を与えられていること。

 “そんなこといくら言っても、何も変わりはしないということを彼女たちは実感的に熟知しているのである”

② フェミニズムと呼ばれる運動が歴史的に勝ち得てきた成果を享受していない日本人女性はいません。
 フェミニズムによって自覚され、確保されてきた眼差す主体、性的身体を「かわいい」という言葉で温存しながら、見られる欲望・好かれる欲望と消費物で過食嘔吐の快楽から動くことができない。 
 「見上げる眼差しと訓練された唇の作り出す曲線」のまま。
 かわいい系こそが現代社会でアクチュアルに想像できる未来において、最も合戦略的な選択だと認識されるからです。

 “「男ウケだけじゃなく、会社の上司ウケ、女性の同僚ウケもよい」と彼女たちは口を揃えて言う。中略。「誰からも嫌われないほうが得」という20代女性たちの処世術はこんなファッションの選択にも現れている。”
  少子化を救えるか?「バランス美人」経沢社長と「エビちゃんOL」人気の秘密
  http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20060112/114986/  

(5)エビの数だけ幸せに
 ブラック・タイガーからバナメイへ、ブラック系(日焼け)からホワイト系(美白)へ。
 エビの世界と同じく人間の世界も変化しました。
 しかし、病気に強く養殖効率が高い、人間社会に適合したバナメイが登場しても、エビ自体の消費がかつてのようにはいかなそうです。
 
 つくり続けるために消費されなくてはならないエビの数だけの幸せ。
 つくり続けるための消費から抜け出せないエビと同じように、「見上げる眼差しと訓練された唇の作り出す曲線」の不調和から抜け出すことのできない「エビちゃん」が呼びかける幸せ。
 
  もしかしたら、「エビちゃん」はそんな構図をとっくに理解したうえで、エビと一緒になって、消費のために作り出された波に乗っていっているのかもしれない。
 
 「幸せになろっ」と。
 呼びかける自分と呼びかけられる側の両方ともに与えられている「幸せ」を嘲るように。 




追記) カッコいい系とかわいい系の対立で、勝利したかわいい系。
 しかし、中期的な視点から見れば、かわいい系という戦略は相当に限られた女性たちによる熾烈な消耗戦へと突入するでしょう。
 最近耳にする「エロかわいい」というのは、かわいい系よりも「エロ」という性的身体の自覚と主張を表しており、新しい段階へ入る予兆を感じさせます。





 
主参照)
調査研究『日本のエビ輸入』 http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/r0605in2.pdf
『エビ輸入の歴史』  http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkaba703/soyokaze/ebia.htm
日経商品情報『ファーストフードとエビ市場』
        http://www.nikkei.co.jp/rim/shokuhin/shn1new-old/shn1479.htm
読売新聞『養殖エビ“ホワイト系”が急増』
        http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/news/20050621gr08.htm
はてなキーワード:「エビちゃん」
        http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%D3%A4%C1%A4%E3%A4%F3 
「かわいいコミュニケーション」分析編 
 『サブカルチャー神話解体』宮台真司・石原英樹・大塚明子著(パルコ出版)より
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by sleepless_night | 2006-06-14 23:56 |

国旗に向かって

 出生率の低下が止まらず、実効性のある解決策が見出されない中、アメリカ合衆国の出生率維持に着目し、愛国心こそが鍵となっていること分かった。
 そこで、政府は次のような政策を実行する。 
 
【教育】
 文部科学省は、以下の項目の指導徹底する。
 ・国旗掲揚国歌斉唱時の起立。
 →起立は、教員の掛け声対して、全生徒・学生が即時・一斉になされること。
  起立時の視線は国旗(中央部の赤地)に向けられること。
 ・国歌斉唱時の声量指導。
 →健康診断時に、通常声量を測定し、斉唱時は当該数値の1・3倍以上であること。
 ・小学校高学年以上の男子生徒、学生は国旗掲揚と同時に、男性器を勃起させること。
 ・小学校高学年以上の女子生徒、学生は国歌斉唱時に、陰核を勃起させること。
 →国家のことを想起してなされることを確認する。
  性教育において、性交は生殖を主目的とし、生殖は国家繁栄を願ってなされるものとすることを徹底する。
  山崎拓氏、中川秀直氏監修の元で、愛国心に基づく性交の指導用ビデオを作製し、これを性教育時に使用する。
 
【厚生労働・年金事業】
 国民年金事業で国営ラブホテル(通称名:クリーン・ペア)を運営する。
 →室内は純和風。
  床の間には国旗、ご真影。
  ホテル室内に入ると同時に、君が代が流れ、両人の愛国欲動が刺激される。
 →住民基本台帳カード内臓のICチップに記憶された生理周期で、排卵予定日にあたる日の場合は利用料金を無料とする。
 →男性用避妊具(コンドーム)は無料配布するが、一定割合で精子が浸透する構造のものを混入する。
 →寝室に、同日の宿泊者が全員妊娠した場合の国民年金制度への寄与が一目で分かるようなグラフ等を電光表示する。


 教育と年金という二つの大きな問題が、大好きな愛国心で一気に解決できる。
 と言うのは、勿論冗談で

行為そのもののただ中では誰ひとり思い浮かべもしないのに、その行為を価値付けるためにまことしやかに語られると言うことこそが、イデオロギーというものの特性ではないか。中略。二〇〇二年七月、「少子化対策」について発表する坂口力厚生労働大臣は、興奮に震えた口調で「民族の滅亡」への恐怖を語ったのだから。別の政治家は「産む産まないは個人の自由といった考え方を少なくしなけらばならない」と付け加えた。だがこれほど露骨な言い回しはしなくても、結婚や子供をつくるという営みをすぐさま高齢化だの年金だの次世代の再生産だのといった語彙に結び付けて語りたがる人たちは、みな本質的には同類である。かれら自身が率先して「年金崩壊を守るため」と念じながらセックスしているなら、その言い分を真面目に受け取る余地があるだろう。だがそんな人はどこにもいない。かれらもまた、国家のためではなく自分のために結婚し、ただ欲しかったから子どもをつくり、可愛いから育てているはずなのだ。もちろんそれはそれでよい。危険なのは、そこに後からもっともらしい理屈が書き加えられ、どこまでもプライベートなものであるべき性や生殖が第一義に「国家」や「民族」の問題として語られるときなのだ。(念のために付け加えておくが、これは年金制度改革や生殖医療や子育てに対する公的な支援そのものを否定する議論ではない。それらはまさに個々人のプライベートな生そのものを尊重するためにこそ必要なのだから)”
   『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』加藤秀一著(ちくま新書)


 
 “昨今の教育基本法で愛国心がどうたらとくだらねー議論をしているのは、当為としての愛国心であって、事実としての愛国心ではない。先進国の出生率は事実としての愛国心に支えられているのではないか。”
  極東ブログ http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/10384498

 文章全体から判断して、“愛国心”の“国”とは統治機構を指すわけでも、国家(state)を指しているわけでないでしょう。
 しかしそれなら
 “マルタ島の街角で子供がたちがわーっとベビーカーを囲んでいた光景を思い出す。沖縄でもそうだった。赤ちゃんがいるーとかいうだけで子供が集まってくる光景。”を思い浮かべるなら、“国”を持ち出さなくてもよいのでは。(※)
 目の前にいるのは“国”という名の赤ん坊ではないのですから。


 「愛国心=出生率」はある種の議員にとっては美味しすぎるネタです。
 ある種の議員とは「国のため」「年金制度のため」に性交できるらしい人々ですので、あまりいなさそうではありますけれど。
 しかし、どうも重要な場所にその人々がいて、自分達の性的嗜好を国民に押し付けたがっているようなのです。


 国家(統治機構)に生殖や出産が簒奪された成果の一つであるライ予防法が廃止されて十年、行政責任・国会の謝罪決議から五年しかたっていない。
 彼ら・彼女らにとってその歳月は、忘却に十分なものなのでしょう。
 





※)“事実としての愛国心”の“国”という語が想像させる先というのは、国(nation)ですらないのではないか。
 触れることのできる場や日常への愛着が“事実”としてあるのであって、それは“国”という「公共性や共同性を託せる幻想の場」を指すことができる語で表現されなくてもよい。
 勿論、国のことを考えるのに、国という語を用いないわけにはいけないのですが、“国”が統治機構に用いられやすいこと、特に統治機構が国民の内面へ介入したがる、社会の仕組みの問題を個人の問題へ転嫁して解決しようとする最近の動きを考えると、相当の注意があってもよいのではないかと思います。
 
 
   
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by sleepless_night | 2006-06-05 21:53 |

SMのためのメモ。

 前回、フロムが逃避のメカニズムの一つとして権威主義的性格を挙げ、権威主義的性格をマゾヒズム傾向とサディズム傾向に分けたことを述べました。

 以下、このマゾヒズム・サディズム、いわゆる、SMに関してのまとめ用メモです。

(1)言葉の由来。(※)
 ① プラトニックなオナニーとAVの挫折。で述べたオナニーの宗教的罪悪から医学的病気へ認識の変化を主導したのはセクソロジー(性科学)。初期のセクソロジーは現代の基準からは科学として認められない内容、代表的には優生学を含む。
 そのセクソロジーの担い手、セクソロジスト(性科学者)の一人が法医学の鑑定医クラフト・エヴィング。
 エヴィングが『性の精神病理』(1886年)において示した分類に含まれたのがマゾヒズムとサディズム。
 マゾヒズムは19世紀の作家レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホに、サディズムは18世紀の作家ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドに由来して名づけられている。
 エヴィングのネーミングが、現在流通しているいる、サド=攻撃・破壊的性癖、マゾ=被虐・受動的性癖の起源。
 フロイトは『性に関する三つの論文』において、性目標倒錯としてサディズム・マゾヒズムを能動受動の対概念とし、さらに今日でもSMに関して口にされることがある“能動的ならびに受動的の形式が、きついといつも、同一人物で一緒に見られるということである。従って、性的関係において、他人に苦痛をしょうじせしめることに快感を感じるものは、また、性的な関係から、自分にも発生するかもしれぬ苦痛を快感として教授する能力があるのである。サディストは同時にいつもマゾヒストである。ただ、そのパバージョンのうちの能動的または受動的な面のいずれかが強く形成され、その性的活動の主たるものとして目の当たりにみられるということはある。”との見解を示している。
 DSM-Ⅳでも性嗜好異常として性的マゾヒズム、性的サディズムの名で記載されている。
 (DSMについて⇒ ストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前に

(2)SMの相補性
 自分の性交時、性交への態度が攻撃・積極傾向にあるのか、受動傾向にあるのかをさして、「私はS(若しくはM)」と称すること、さらには、積極的なSと受動的なMが相補的であるとの言説の検討。
 この点、確かに、サディズムとマゾヒズムをエヴィングの設定したような二項対立的な意味で解釈すればサディスト(S)とマゾヒスト(M)は相補的な存在だといいうる。
 しかし、サディズムとマゾヒズムの由来となったサドとマゾッホの思想にさかのぼって考えても、この相補性が成立しているのか。
 つまり、エヴィング流の設定をサディズム・マゾヒズムと呼ぶなら、サド自身の思想をサド主義、マゾッホ自身の思想をマゾッホ主義と呼んだときに、両者に相補性は成り立つのか。
 
 ①マゾッホの生涯(※1)
 マゾッホは1836年、ガリチア公国(現在のウクライナ・ポーランド・スロバキア、当時はオーストリア帝国の一部)に警察署長をしていたレオポルト・ザッヘルとルヴォフ大学医学部教授フランツ・フォン・ザッヘルの娘カロリーナ・ヨゼファ・フォン・マゾッホを父母として生まれる。
 虚弱であったマゾッホの乳母としてウクライナ農婦ハンドシャが雇われ、スラヴの女性優位、神秘思想の風潮を持つ民話を伝えられる。
 十歳のとき父方の叔母の家でかくれんぼをしていた際、叔母が情夫と関係を持っているのを取り押さえに入ってきた叔父を叔母が殴るのを目撃し、隠れていたマゾッホも叔母に鞭打たれる。このとき叔母は毛皮を身にまとっていた。
 ギムナジウムを経て、17歳でプラハ大学入学、19歳で法学博士号を取得。20歳でカイザー・フランツ大のドイツ史講座を持つ。歴史論文、小説、戯曲を執筆。
 27歳のとき、医学博士グスタヴ・フォン・コトヴィッツの妻アンナと出会い、同棲。アンナの浪費を支えるために著作活動。アンナが自称ポーランド亡命貴族と出会い、相手のために膨大な額の手形保障をマゾッホにさせるが、自称ポーランド貴族は盗癖のある薬屋の徒弟で逃亡犯だった。アンナの裏切りを受け、関係は終わる。
 著作活動を続け、文名が高まる。マゾッホの文名に引かれた多くの女性と関係を持つ。その一人ファニー・ピストールと初めて6ヶ月限定の奴隷契約を結ぶ。
 36歳のとき、女優イェンニー・フラウエンフェルトととの婚約を破棄して、貴婦人アリス(ワンダ・フォン・ドナーエフ婦人)と偽って近づいてきた下級官吏の娘アウローラ・リェーメンとの間で完全な奴隷契約を結ぶ。
 奴隷契約から一年後、死産したアウローラは自分の嘘を告白、正式に結婚する。アウローラの愛人となる人を探すも、希望かなわず。
 44歳のとき、新聞の編集長のポストへ就くためにハンガリーへ移住。
 45歳のとき、文芸誌『頂上』の編集長ポストへ就くためにドイツへ移住。『頂上』の共同所有権をヤーコブ・ローゼンタールが買い、アウローラと関係を持つ。マゾッホも秘書フルダ・マイスターと関係する。私生活、雑誌の編集権をめぐって争いが生じる。
 47歳のとき、文芸生活25周年を記念した祝賀アルバムが各国の有名作家のオマージュを受けて出され、マゾッホの文名は最高潮に達する。祝賀の翌々日、アウローラと分かれる。
 小村へ隠遁する。59歳で死去。

 ②マゾッホ主義
 マゾッホ主義の要件として、理想主義、演出、宙吊りの三つが考えられる。
 まず、理想主義という点について。
 マゾッホの作品が耽美的であるということに加えて、ユートピア的な社会主義やヒューマニズムを政治思想として有していた点でもいえる。
 しかし、あくまでもマゾッホの理想主義は脳裏での理想であり、イメージに留められている。
 次に、演出という点について。
 マゾッホはアンナとアウローラと結んだように契約によって奴隷となった。
 奴隷契約は一見、マゾッホを被支配に置くものに思える。
 しかし、アンナとも、アウローラともそうであったように、奴隷契約を結ばせるように説得したのも、実際の契約履行にあたっても、内容をリードしたのはマゾッホであった。
 つまり、マゾッホは奴隷という最底辺の地位で支配されているように見せかけて、実は、すべてを支配する、演出家の地位にあった(“あなたの足で踏まれたい。一生この腕にあなたを抱き上げていたい”※2)。
 自分の偽りを告白したアウローラに、失望するどころか狂喜してアウローラを貴婦人に仕立て上げて、彼女の愛人を探したことに端的に現れる。
 最後に、宙吊りという点について。
 宙吊り、言い換えると中間状態。
 プラトニックなオナニーとAVの挫折。で述べたエロスと似て、絶対完全なる美を求める中間にある。
 しかし、ここでエロスと異なるのは、絶対完全なる美の現実的な獲得を断念している点。
 断念しているが、同時に理想主義である。この状態を成立させるのが演出。
 絶対完全が不可能であることの認識を持ちながら理想を捨てないでいるためには、それを求める活動の普段の繰り返し(宙吊り状態)を演出しなくてはならない。
 そして、その宙吊りを演出する活動がどれだけ積極的・能動的であっても、本質的には受動的・待機状態にある(事実、マゾッホの表面的な活動は積極的)。
 宙吊り状態の演出に欠かせないのが二者関係を三角関係にするため、二者にある自分から相手を奪ってくれる第三者(これをマゾッホは「ギリシア人」と呼ぶ)。
 だから、マゾッホは人妻にしか惹かれなかったし、自分の妻となったアウローラにも愛人を探した。

 ③サドの生涯。(※3)
 1740年、12世紀にまでさかのぼれ、詩聖ペトラルカが恋した女性ロール・ド・ノーヴも先祖に持ち、神聖ローマ皇帝の帝室紋章を佩用する特権をもった名門貴族ジャン・バスティスト・ジョセフ・フランソワ・ド・サド伯爵を父、ブルボン王家につながる大貴族コンデ公爵の夫人を出したマイエ家のマリー・エレノオールを母に、生まれる。
 5歳までコンデ家で育ち、叔父の神父の下で10歳まで教育を受ける。
 イエズス会の運営する富裕層師弟のための学校ルイ・ル・グランに入校、14歳で退校し、貴族の師弟のみが入れる近衛軽騎兵連隊付属士官学校へ入校。15歳で陸軍少尉に任官。19歳でブルゴーニュ騎兵連隊大尉。23歳で、7年戦争終結を機に退役。
 南仏の貴族の娘ローヌ・ヴィクトワル・アドリーヌ・ド・ロリスと婚約、同時に、サドの父伯爵がパリの終身税裁判所名誉長官の娘ルネ・ぺラジー・コルディネ・ド・ローネーと婚約させる。ロリスとの婚約はロリスの両親によって破棄、理由はサドがロリスに性病を感染させたこと。ルネと結婚。
 結婚半年で、娼婦との度外れな乱交を理由に逮捕され、ヴァンセンヌ牢獄に収監、15日で自由に。警察の監視が継続するも、放蕩を止めず。
 26歳のとき、父伯爵が死去、長男誕生。放蕩は止まず、舞台女優や娼婦との関係を多く持つ。
 28歳のとき、アルクイユ事件。復活祭の日曜日に、広場にいた乞食女ローズ・ケレルを女中として雇うと別荘に連れ込み、縛り、鞭打つ。脱出したローズは公証人の屋敷に逃げ込み、そこから憲兵隊に通報が行く。スキャンダルとして急速に伝播。サドの義母(妻の母)モントルイユ夫人が被害者の賠償に応じるも、事件から5日後に宮内大臣から逮捕状が発され、城塞に留置。高等法院も調査に乗り出すが、王から免刑状を得て訴訟打ち切り、保釈。
 次男誕生。再び軍務につく、31歳で連隊長大佐を得るも退役。長女誕生。ラ・コスト城に居住。
 32歳のとき、マルセイユ事件。4人の娼婦と乱交。一人目マリアンヌを鞭打ち、催淫剤を混ぜた菓子を食べさせ鶏姦(校門性交)を要求。鈎針のついた鞭で自分を打たせ、さらに箒で打たせる。二人目マリエットを箒で打ち、自分も打たせ、打たれた回数を暖炉の煙突に刻む。三人目ローズを下男と交わらせ、鞭打ち、鶏姦を要求。四人目マリアネットを鞭打とうとするも逃げられる。マリアネットにマリアンヌを呼ばせマリアンヌと鶏姦。四人の娘を帰し、夕方に娼婦マルグリットに菓子を食べさせ鶏姦を求めるも拒絶され、ラ・コスト城に帰る。
 三日後、マルグリットが胃痛と伴に血の混じった吐しゃをし、サドを裁判所に訴える。アルクイユ事件以上の大スキャンダルとなる。一週間後に家宅捜索、二ヵ月後には欠席裁判で死刑宣告。サドは関係を持っていた妻の妹と伴に逃亡。事件半年後に義母モントルイユ夫人の密告で逮捕。ミオラン要塞に収監。4ヵ月後にトイレの窓から脱獄。夫人を使って再審運動をする。ラ・コスト城に帰る。
 34歳のとき、降誕祭に、女中として夫人が集めた5人の娘を鞭打ちの乱交。娘たちの親の訴えで裁判所が調査。夫人の懇願でモントルイユ夫人が動き裁判所を止める。一人の娘が出産し、サドの娘とのスキャンダルが起きるが、銀器を盗んだとして訴え、収監させる。
 35歳のとき、イタリアに義妹と逃亡。
 36歳のとき、ピストル事件。サドの依頼でディュラン神父が女中(サドの相手)を探し、職工の娘カトリーヌをサドの下に送る。二ヵ月後にさらに4人を探すよう言われて、集めてラ・コストに送ると、サドに迫られて逃げる。その話を聞いてカトリーヌの父がラ・コストに娘を取り返しに乗り込み、発砲。さらに、村中にサドの悪口を言いふらし、再度、城へ戻り発砲。
 サドの母が死去。パリへ向かう。パリ到着5日後に再逮捕、ヴァンセンヌ牢獄へ収監。
 王から再審許可の書状を得て、再審。訓戒処分と罰金の判決。しかし、義母モントルイユ夫人が得ていた勅命拘引状がまだ有効期限内にあったため、高等法院の判決とは関係なく、再度逮捕拘禁される。
 ヴァンセンヌ牢獄への移送途中に脱走、ラ・コスト城に逃げ帰る。約一ヵ月後に逮捕され、ヴァンセンヌ牢獄へ収監。11年に及ぶ監獄生活が始まる。
 42歳、収監されて4年目にひとつの小作を完成させる。
 収監五年半後にバスティーユに移送。45歳、わずか37日で『ソドム120日』を完成。一年の期間をおいて『アリーヌとヴァルクール』を完成、同時に『美徳の不幸』を15日で完成。さらに同作に加筆修正し『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』を完成。中篇や雑文も多数執筆。
 49歳、ジャラトンの精神病院へ移送。10日後、フランス革命勃発、バスティーユ牢獄襲撃。移送から9ヵ月後に釈放。
 妻と離別。無一文に近い状態。喜劇脚本を執筆、上演。マリー・コンスタンス・ケネー夫人と同棲生活。生活は困窮。『ジュスティーヌ』を死者名義で出版。
 52歳、共和制下で病院管理委員、憲法修正議会警備、告発審査委員、地区委員長に就く。
 しかし、反対派に地位を追われ、さらに、53歳のとき反革命容疑で逮捕される。革命裁判所に回れるも、事務の混乱でサドの居場所がわからず死を免れる。ジャコバン派の独裁が終わり、釈放される。
 55歳、困窮の中、『閨房哲学』出版。57歳、『新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸 ならびにその姉ジュリエットの物語』を死者名義で出版。屋根裏部屋での貧窮生活。
 61歳、『新ジュリエット』がナポレオンの風紀条例によって取締りを受け、サドも逮捕、シャラントン精神病院に収監。74歳で死去。

 ④サド主義
 サド主義と呼ぶべきものに対しては、二つの見方が考えられる。
 すなわち、サドの作品内部の思想のみをサド主義と考える見方と、サドの人生における思想と行動を考える見方。
 前者の見方をすれば、サド主義は王権と神権への徹底的な否定、『悪徳の栄え』と『美徳の不幸』の対象に見られる逸脱した性行動によって示される否定、徹底した共和主義と考えれれる。
 後者の見方をすると、サド主義は世界に対する無関心と弱者の保障としての空想に支えられたオナニスムと考えられる。唯のオナニスムのような自己完結ではなく、オナニーのために外部社会・他者を必要とした、社会的オナニスムだと捉えられる。
 前者に反して、現実のサドの政治的立場は共和主義者でも君主制支持者でもなく、反ナポレオンでもなかった。
 前者、後者に共通する要素として、他者の視線がある。
 サドの作品において登場人物の一つ一つの台詞は会話としてはあり得ないほどに長く、演説をしているに近い。サドは作品内の人物間で物語を成立させているのではなく、読み手をも組み込んで作品が成立するものとしていると考えられる。
 実際のサドの行動においても、端的にはマルセイユ事件で鞭打ちをされながら回数を数える観察者の立場を維持したことに現れているように、他者の視線を必要としている。 

 ⑤相補性
 ②と④の結論を組み合わせてみると、マゾッホ主義とサド主義が双方的な関係にないことは理解される。
 サド主義の前者とマゾッホ主義を相対させれば、マゾッホ主義者が演出によって最終的な支配権を得ようとする動きにサド主義者は乗らない。
 サド主義の後者とマゾッホ主義を相対させても、サド主義者がマゾッホ主義者と意思を交わす意欲を持たない。(マゾッホ主義の契約という要素はサド主義とは両立不可能)
 結局、SMという現象を成立させるのは“マゾヒズムに見られる女性の拷問者はサディストたりえないが、それは課の城がマゾヒズムの内部にいるからであり、マゾヒズム的状況の必要不可欠なものとしてあるからだということ、すなわち、女性の拷問者がマゾヒズム的幻影によって実現された一要素にほかならないからだという事実”と“サディストの犠牲者がマゾヒズムたりえないのは、放蕩者にとって犠牲者の体験する快楽が我慢しがたいものだからではなく、サディストの犠牲者が徹頭徹尾サディズムに属し、サディズム的状況に必要不可欠なものであり、奇妙ながらサディストの拷問者として姿をみせている”ということ。
 SMがSとMの相補的な現象とされるのは“一つの倒錯症状に主体(人間)と要素(本質)とを区別すること”をしないために、“一定の倒錯症状を示す人格的固体は、同じ症状を示す「要素」のみを必要とするものであり、それとは別の倒錯症状を示す人格的固体を必要とするものではない”ことを認識しないから。(※4)

 ⑥類似
 サドもマゾッホも反復という点では類似する。
 ただし、方向性は逆。
 サドはあくまでも外部に向かっての否定を際限なく繰り返すが、マゾッホはギリシア人を用いて自分の内面において宙吊り状態にあるように際限なく繰り返す。
 

 (3)SMの現代的意義
 サドについて、遠藤周作は“「君がなぜサドをやるのか、わからん」自分が日本でサドについて書いたいくつかのエッセイを田中は早く頭の中で思い出そうとあせった。彼はどもりながら「サドは現代の日本にも意味があると思うんです。仏蘭西革命を前にしたサドの貴族としての立場はちょうど今の日本の知識階級の位置に似ているんです。だからぼくは…」”と作品内(※5)で触れている。
 しかし、戦後の転換期とはいえ、日本にサドが生まれる余地があった・あるとは考えにくい。
 対して、マゾッホには可能性と親和性と参考にするべき点が見られる。
 可能性という点から言えば、サドにように否定性や破壊性を傾向することがないことがまず挙げられる。
 そして、親和性という点については、マゾッホ主義の三要件が形を変えて日本文化に見れる。
 典型的なものとして茶道のような徹底した演出の技術・精神があり、華道のように、植物を切り取ってしまうことでの有限性(宙吊り)と美(理想主義)の共存が挙げられる。
 ただし、マゾッホ主義における演出に不可欠な契約やそれを実現する説得的なコミュニケーションは無い。あくまでも、「察する」という沈黙がある。角度を変えれば、沈黙の裡に「察する」とは、勝利ではなく敗北を求め合うこととも言え、いわば、「主体」なきマゾッホ主義の本質の精化(これは、契約を主導する「主体」ではなく、定められた手順を黙約し、それに徹底支配されることでも言える。茶道はマゾッホ主義の官能を備えていると考えられる)とも解される。
 参考するべきは、マゾッホはサドと比較して生存力があることと、理想主義的であること。
 マゾッホの生涯とサドの生涯を比べてみても、マゾッホが自分の思想の実現にほとんど身を投じたのに、サドは前半生での稚拙さと後半生の社会的オナニスムに終わっている。
 マゾッホはしぶとさがある。
 そして、マゾッホは理想主義を捨てない。ただし、宙吊りに留まるという逃げ場を備えている。
 宙吊りを脱して、演出に際しての説得的なコミュニケーション技術を用いる力がある理想主義者。
 それはマゾッホ主義とは言えない。
 しかし、参考に値する。



※)『性からの自由/性への自由』(青弓社)赤川学著
※1)『ザッヘル=マゾッホの世界』(平凡社)種村季弘著
※2)『毛皮を着たヴィーナス』(河出文庫)ザッヘル=マゾッホ著 種村季弘訳
※3)『サド侯爵の生涯』(中公文庫)渋沢竜彦著
※4)『マゾッホとサド』(晶文社)ジル・ドゥルーズ著 蓮實重彦訳
※5)『留学』(新潮文庫)遠藤周作著

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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by sleepless_night | 2006-01-23 23:39 |

プラトニックなオナニーとAVの挫折。

 飯島愛さんが出演なさったアダルト・ヴィデオ(以下AV)を見たことがあります。 
 飯島愛さんがテレビのヴァラエティなどに出演するタレント活動をし始めていた頃ですので、1990年台初頭のことだったと思います。
 飯島愛さんが相手のAV男優と後背位で性交している一場面だけですが、写真のようにその場面を今でも記憶しています。
 飯島さんをテレビに出演しているタレントとして認知していたことも一因だと思いますが、それ以上に、後ろからAV男優に性器を挿入され四つんばいで前後に動かされていた(様に見える)飯島さんの姿から澱みのような疲労を感じたことが大きかったのです。
 以来、飯島さんを見ると、この記憶と感情が連想されます。
 飯島さんの半自伝的小説『プラトニック・セックス』(小学館)は2000年に100万部以上売れ、映画・ドラマ化までされたとのことですが、こうして思い起こして調べてみるまで、そこまで大ヒットしたことを知りませんでした。
 5年という時間に記憶を抗わせるほどの興味が私になかったからなのか、2000年当時も興味がなくて知らなかったのからなのかはわかりませんが、『プラトニック・セックス』は、飯島さんについての私の記憶と感情の連想にひとつの疑問を加えています。
 
(1)プラトニック・セックスとは、いかなる性交を意味するのか?

 私たちの「恋愛」の歴史、「恋愛」の「愛(アイ)」の歴史として最初となるプラトンの愛について述べてみます。(※)

①プラトン的
 プラトニックとは言うまでもなく、古代ギリシアの哲学者プラトンを指します。
 プラトンは中期の著作『饗宴』と『パイドロス』で愛(エロス)の思想を語っています。
①-1 『饗宴』は悲劇詩人アガトンの催した祝勝宴でなされた愛の神(エロス)への出席者それぞれの賛美の演説を取り上げたものです。
 第一の演者ファイドロスは愛の神(エロス)は神々のうちでもっとも古く、徳と幸福の源泉である。なぜなら、愛する者(少年)の存在こそが愛する者にもっとも恥の意識を惹起させ、もっとも勇敢に戦わせることができるからだと主張します。
 第二の演者パッサニヤスはファイドロスの演説へ修正を唱え、エロスを万人向けのものと高貴なものに分けます。前者は、男女を問わず魂よりも肉体を愛し愚昧さを深める。後者は、理性と力強さ故に、女性よりも男性を、少年よりも年長の青年へ向かわせ、導く者と導かれる者として智と徳の増進に結合するものと主張します。
 第三の演者エリュキシマコスはパッサニヤスの主張するエロスの二分を支持すると同時に、より広くエロスを捉えます。肉体においても健全優良と不良病素、音楽の和音、季節の変化による繁殖と疫害、神々への人間の犠牲と占いについてもエロスが役割を話していると主張します。
 第四の演者アリストファネスは愛の神(エロス)への賛美を人間の原型から主張します。アリストファネスによると人間には男・女・男女と三種の性があり、4本の手と脚を二つの顔を持つ球状の姿をしており、力強く気高い存在だったために神々に挑戦するに至った。神々は人間を弱体化させるために真っ二つに切断した。人間は切断されて以降、再びひとつの体となることを切望するようになり、この完全な姿への憧憬と追及がエロスだと主張します。
 第五の演者アガトンは前の演者たちはエロスのもたらす福利を賛美しているが、それ以前にエロス自体の本質を賛美するのが先だと主張します。愛の神(エロス)は神々の中の最年少者であり、これは、愛の迅速さと年若い者に常にあることからわかる。エロスは柔軟でもあり、これは愛が柔らかな魂に宿ることからわかる。そして、強制や不正によって愛が成されないから、エロスは正義であり公平である。エロスに触れたものが勇敢であり詩人となることから、エロスは勇敢であり智恵でもある。醜悪によって生じないことからエロスは美でもあり、美は善である。
 最後の演者ソクラテスはアガトンの否定から始めます。
 愛(エロス)とは何物・者かへ向けてであり、何物・者かを所有していないことから求める。エロスが美しく知恵を持つなら、エロスがそれらを求めるはずはない。したがって、エロスはそれらを有しない。
 ソクラテスはディオティマという識者から聞いた話としてエロスについて語ります。
 エロスは無知でも醜でも悪でもない。
 エロスは術策の神ポロスと貧窮の神ぺニヤの子であり、母によって貧しさや汚さを、父によって勇敢さや術策をもち、決して富裕になることも困窮することもない、中間にある。
 中間者とは求める者であり、美や智や善を追求することが愛(エロス)である
 エロスとはそれらの永遠の所有へむけられたものだといえる。
 死ぬべき存在である人間は、美しい者の中の懐胎・出産によって不死を目指す。
 肉体以上に魂における徳を教育によって若者の中に残し不朽を目指す。
 この愛の奥義に参するためには、若いうちから美しい肉体を愛し、その中に美しい思想を産み付けなくてはならない。そして、最初の美しい肉体は他の美しい肉体と姉妹関係を持っていること、あらゆる肉体の美が同一不二であること、そこから、肉体上の美よりも魂上の美を価値の高いことを悟らなくてはならない。

①-2 『パイドロス』は、当時の高名な弁論家リュシアスが語った愛(エロス)に関する弁論について、『饗宴』の第一の演者ファイドロス(パイドロス)とソクラテスとの対話を記したものです。
 リュシアスの「恋(エロス)によって相手を選ぶべきではない」という演説を賞賛したファイドロスにソクラテスは同じ主題でより優れた演説をし、さらに、リュシアスの演説も、ソクラテス自身の演説も聞こえのよさだけであり内容は真実ではないことを伝えます。
 そして、愛の神(エロス)へ、真実ではない内容をもってその名を汚したことを雪ぐために新たな演説をします。
 ソクラテスは人間の魂の本質について語ります。魂は不生不滅であり、天界において神々に従い諸々の真実の相を見る。諸々の真実の相のうち、美は天界においても、地上においても輝き、人間の知覚を刺激する。人間の内の魂は、魂において見た真実の美を想起、それを求めて翼なき鳥のように不可能な飛翔を欲望(マニア)する。美を備えた存在の放射によって魂は美を求めるもだえから救われ喜びに満ち、離れると苦悶し、相手を自らの魂の癒してとして崇敬する。この心情が恋(エロス)である。かくて、恋を装うものではなく、真に恋するものによって身は神のごとき奉仕をうけ、恋するものの言葉や優しさに感動し、こたえの恋(アンテロース)が生まれる。そして、互いの魂に満たされた情念の力で魂は失われた翼を生じ、神々の世界に向けた道へと踏み出すことができる。
 ソクラテスは、この命題の真偽について両方の演説をすることで、弁論による真実発見の術についてファイドロスに語ります。

② この二つの作品からプラトンの愛(エロス)についての思想を整理するとこうなります。
 まず、人間の愛(エロス)はかつて見た真実の美の相を魂が想起すること、自分の中にない美を求めて生じる。
 美を求める心情は、美しい肉体を通じて美しさそのものへと向かう(確かにプラトンは魂の肉体に対する優越を認めているものの、美という真理へは、美しい肉体を通じて接触することを述べているので、プラトン的(プラトニック)というのは単純な肉体や外見の否定とは解釈できない)。
 真実の美への崇敬から求めるものは欲望の暴走を理性の働きでおさえ、受け入れられた愛(エロス)によって欲望は性交として実現する。そして、真実という永遠を欲するのと同様に、性交の実りは永遠への望みである。

③ こう考えますと、『プラトニック・セックス』とは真実の獲得へと向けた人間の働きとしての性交を意味すると解釈できます。
 同著は未読ですし、映画もドラマも未見ですので、飯島さんの人生がこのような営みであったのかは不明ですが、近いうちに読んで確かめたいと思います。

(2) さて、紀元前4~3世紀の古代ギリシャの思想は、やがて紀元の境目となる出来事で大きく勢力を損なわれます。
 紀元、すなわち、キリスト紀元、イエスの生誕です。
 イエスの新しい思想は、福音書という形で現在に伝わっています。
 常識と思いますが確認しておきますと、福音書は、マルコ、ルカ、マタイ、ヨハネの四つで、成立はこの順に紀元60~90年の間だとされています。
 最後に成立したヨハネ伝はギリシア文化の影響下にあったためか、従来の愛の表現としての主流であるエロスをエロティックな意味合いから避け、アガペーという表現でイエスの愛を表します。
 初期のキリスト教はユダヤ教色の強い部分とアガペーの思想をもたらしたギリシア色の強い部分がありました。(※1)
 ギリシア色、ヘレニズム的な肉体と魂の二元論の受容はユダヤ的な性関係への一般視から罪悪視への変化をもたらします。初期のキリスト教にとっての最大の異端グノーシス主義との接触によって理論・制度の早急な整備を進める中でヘレニズム的な要素を利用しました。権威の混乱から、教会と信徒の整備が必要とされ、信徒集団を律する性規範が要請されます。そこに二重規範が生じます。すなわち、エロスとアガペーです。
 教団の構成員として子孫を必要とし、同時に性交を要請すること(エロス)とヘレニズム的な禁欲と魂の優越(アガペー)をいかに調整するかが問題化します。
 解決策として、教会は専門の聖職者集団と信徒という集団を二分化し、禁欲をする聖職者集団のアガペーによって、その他の信徒の生殖・性交(エロス)に救いを与える仕組みを採ります。
 これは同時に、ユダヤ教の律法のような外形的な社会規範の色彩の強い性の規律・拘束から、規律の内面化・浸透を促したことも意味します。
 つまり、ユダヤの律法のように人間の行動を外形的に拘束することで規律を維持するのに対して、イエスの説教では喩えや抽象的な黄金率を提示するにとどまり、聞くものにとって基準は明らかにされません。具体的にいかなる行動をとればイエスの愛に適うものなのか分からないにもかかわらず、イエスの示した愛(アガペー)を把握しておかなくてはならない。そこに不可視の規律の覆いが生じ、人々は不可視の中心にある愛に向かって、超空間的に結び付けられることになります。そして、愛を判断する正当権を教会が把持します
 “千八百年の間教会は人間の愛を、いわば去勢した形でしか、隣人愛の姿でしかみとめようとはしなかった。そうした形をとった愛はもはや性的魅力とは無関係で、したがって結婚論議にも例外的にしか登場しなかった。中世を通じて、愛が夫婦の抱擁の正当な目手となることは決してなかった。配偶者に対する義務の履行、生殖、それだけが夫婦交接の理由として認められた。”(※2)といわれるように、愛はあくまでも不可視の中心点である神(そして教会)の専売特許となったのです。

(3) このような愛と性交の専売制にあっては、当然、自慰(オナニー)などもってのほかということになります
 オナニー、オナンの罪は“ユダはオナンに言った「兄嫁のところにはいり、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫を残しなさい」オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入るたびに子種を地面に流した。(創世記38章8・9節)”を指し、本来は広く膣外射精を意味します。
 6世紀から11世紀の懺悔聴聞規則書では反自然の罪として2年ないし10年の贖罪断食が規定されていますが、聖職者による自慰であっても実際は50日の贖罪しかかされていない小さな罪として扱われていませんでした。(※3)
 自慰が現在ほどに着目されるのは、18世紀に入って宗教的罪悪から医学的病気へとオナニーが移ってからです。(※4)
 これは、近代に入っての子供観・青年観が大きく関係します。つまり、近代社会の産業によって生産の場・教育の場と家庭の役割が大きく分離し、教育や医療が発達したことで、子供は大人によって保護し・教育されなくてはならない存在として家庭の中心に位置するようになります。家も使用人などが同居する仕切りのない構造から個室化がすすみます。そうなると、教育により文字を読める子供・青年が自分の個室で読書するという習慣が誕生し、さらには、ポルノ小説を読みながら自慰をするという“オナニー空間”が成立します。
 “オナニー空間”は大人の保護によって誕生し、逆に、大人の監視を妨げ不安を増させます。 この不安はオナニーを宗教的罪悪から医学的病気へと表現されるようになりました。

 現在では、自慰が病気であるとの言説は、少なくとも教育や医療の場では流通していないと思います。
 自慰は“オナニー空間”の発達とともに産業を作りました。
 日本では1970年台以降の団地によって子供の個室化が進み、同時に、一家に一台だったテレビが個室へと備わるようになり、80年台ではビデオが普及します。
 この一連の“オナニー空間”の変化は、“オナニー空間”の到達点と言い得るほどに大きなものだともいえます。
 「こんなに清楚で可愛いのに、ほんまにセックスするんかい」との言葉に代表されるAVのアイドル路線からナンパやブルセラやレイプなどリアリティを追求した企画モノを経ての頭打ち、この一連の試みが個室の“オナニー空間”で人知れず、しかも日常裏に起きていたことは興味深いことです。 
 “オナニー空間”の成立以来、追い求められてきた自慰の補助としての性交の姿、ファンタジーが、AVの出現・発展によって終に“オナニー空間”において実現したのです。
 それは、文章でも音声でもなく、公開の空間ででもなく、個室において映像によって実現された。私的領域故に秘され、追い求められた性交の実相がAVによって、私的空間に、しかもファンタジックに再現され、それが性交と同様に日常的なものとして位置を持ちえるようになった(さらには、実際の性交を浸潤することにもなった)のです。
 
(4) 美しさを求め、AVにアイドル路線をとっても、リアリティ(真実)を求めて企画モノをとっても、自慰が自慰であるゆえに、ない翼を羽ばたかせる魂のように無力に地上に留まったままである。
 自慰は宗教的罪悪からも医学的病気からも切り離され、中空に飛び交う電波が伝える「恋愛」と漂う。
 プラトン的な試みも潰え、イエス的な規律も消失し、“オナニー空間”の到達が残される。
 そして、AVに出なくなった飯島愛さん。
 飯島さんのプラトニック・セックスは、挫折した“オナニー空間”に代わり、何かを掴み得たのでしょうか。


 次回も引き続き「恋愛」の歴史についてです。

 前回→「恋愛」/言葉を超えて




※)『饗宴』(岩波文庫)プラトン著 久保勉訳
  『パイドロス』(岩波文庫)プラトン著 藤沢令夫訳
※1)『性愛論』(岩波書店)橋爪大三郎著
※2)『結婚に関するキリスト教教義』(『性の歴史』藤原書店収録)J‐L・フランドラン著
※3)『西洋キリスト教世界における避妊・結婚・愛情関係』(同上)
※4)『性への自由/性からの自由』(青弓社)赤川学著
※5)『AVの社会史』(『色と欲』小学館 上野千鶴子編)赤川学著
 赤川学(信州大学助教授)さんは日本のオナニー界においてオナニー三部作の金塚貞文さん、実践の杉作J太郎さんと並ぶ巨星。
 
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by sleepless_night | 2005-12-29 19:44 |