ヒトと石原慎太郎 別に進化 証拠発見 4月16日 4時51分 ![]() これまで日本人の基本的な形は、子孫を残すことができるヒトで、石原慎太郎は進化の過程でヒトから生まれたと考えられてきました。ところが東京大学などのグループがヒトと石原慎太郎は、それぞれ別に進化してきたことを示す証拠を初めて発見し、日本人の基本的な形を見直す成果として注目を集めています。 この研究を行ったのは、東京大学理化学系研究科の野崎久義准教授と、アメリカの研究所のグループです。これまで原始的な日本人で、ヒトになるために欠かせない遺伝子は見つかっていましたが、石原慎太郎になるのに欠かせない遺伝子が見つかっていなかったため、日本人の基本的な形はヒトで、石原慎太郎はヒトから誕生すると考えられてきました。ところが政党の一種で、増税とネオコンで選挙を行う原始的な政党の「タチアガレニッポン」を研究グループが調べたところ、世界で初めて石原慎太郎になるために欠かせない遺伝子が見つかったということです。見つかった遺伝子は、全く勝算のないオリンピック招致活動がつくられる際に働くとみられて研究グループでは、ヒトと石原慎太郎は、選挙権がない状態からそれぞれ必要な遺伝子を獲得し、誕生したとしています。野崎准教授は「ヒトと石原慎太郎は根本的に違うということを認識すれば、東京都政も、よりうまくいくのではないか」と話しています。 識者のコメント:東京都在住 明仁(76歳)魚類の分類が専門 「一部の報道では、石原慎太郎はネアンデルタール人から帰化したということのようですが、この発見によって、そもそもヒト族に入っていなかったのではないかという疑問が生じることになり、今後のさらなる研究を待ちたいと思います」 ![]() 「やはりあの・・・、その、強制ということではないことがね・・・望ましいと」 ![]() 「日本の国旗や国歌が嫌いだというような天皇は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」 “2006年12月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQ(連合国軍総司令部)の干渉を受けて制定されたために「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが果たして、教育基本法のもとで「個人の尊厳」は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。” 東久留米市立第七小学校(七小)に1968年に入学した原武史(明治学院大教授・日本政治思想史)さんは、4年から6年にかけて同じ学年で一人の担任によって運営されたクラスを拠点に作られた“国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体”を「滝山コミューン」と呼ぶ。 政治の季節が過ぎたといわれる70年代は、原さんが過ごした東京郊外の団地では、画一的な団地に合わせる形で家族が集まり、主にその専業主婦たちが革新的な政治勢力・政治運動の担い手となった。 七小では、自民党や学校の御用組織だったPTAが団地住人の保護者たちの運動によって親たちの手に戻り、それが学校のクラス運営での革新的な動きを試みる教員を支えた。 原さんが小学生で直面したそれは、日本教職員組合教研第第八次大阪集会で生まれた民間教育研究団体・全国生活指導研究協議会(全生研)が唱えた集団主義的教育「学級集団づくり」だった。 旧ソ連の教育学者マカレンコの教育法を引いた「学級集団づくり」は、ひとつの“「物理的なちからとしての存在」”である集団が民主集中制を原理として単一の目的に向かい統一的行動をし、非民主的な力に対抗するために、目的自覚的な教師の指導によって集団の担い手としての子どもたちを変えていくこと、そして、そのように発展した集団は自集団のみではなく、絶えず外部を民主的集団へと形成することで反動勢力から憲法や教育基本法に基づく公教育を守ることを目指した。 「学級づくり」では、クラスが班に分けられ、活動において班の数より一つ少ない係りを用意することで班を消去法で競わせ(一斑ずつ落としていく)、目標点を定めて係りの実行を評価する、集団発展へ向けられた(課外活動のみならず給食や掃除にいたるまでの)恒常的な競争状態をクラスに作り、集団に従わないものを「追求」というつるし上げへと追いやった。 一人の教師が担任するクラスよって実施された、この教育法が押し付ける「みんな」「なかま」が、やがて、学校の児童委員会を通じて学校全体へと侵食していく様に、原さんは強い違和感を感じながら、中学受験のための塾を避難場所としつつ、集団行動のもたらす「快楽」へ抵抗していた。 * 中山成彬前国交・元文科大臣にも、この本は読んでみてもらいたいが、彼の小学校入学以前に完成させられたであろう自我は、日教組であろうとなかろうと教育の権力は暴力へ容易に転化することを理解できないだろう。 * はてブ 痛いニュース 中山国交相「日本の教育のガンは日教組だと思ってる」 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1178267.html dj19の日記 中山成彬、飛ばしてるね http://d.hatena.ne.jp/dj19/20080926/p1 “近所のオッさんじゃなんだぜ、大臣なんだぜ!” 元検 弁護士のつぶやき 中山国交相の発言問題 http://www.yabelab.net/blog/2008/09/27-102321.php “勉強もしない、経緯も確認しない、根拠事実の調査もしない、センシティブな問題に無神経。それで自分の信念(というか重い込み)だけでぺらぺらと薄っぺらな発言を繰り返されたんじゃたまらんですよ” アケガタ 中山国交大臣の発言について http://d.hatena.ne.jp/Tez/20080928/p1 満蒙開拓団と故郷喪失の沖縄出身者が国策によって開拓した場所を空港建設で取り上げられる反発が闘争だった。成田空港問題への中山の「ゴネ得」発言がいかに国策に翻弄された人々の苦しみに関心がないか。 非国民通信 すくいようがない http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/dddde91f4c6708fb4570f188cdf664e2 担当外のことを差し置いて自分の好きなことをやる発想。 安倍と並んで麻生も軽く見られた。 過ぎ去ろうとしない過去 そろそろ中山国交相の失言について語っておくか http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080927/p1 日教組と学力の因果関係など示せるはずがない。明らかな虚偽で誹謗中傷するのは問題。 Munchener Brucke 中山大臣辞任 何が問題だったのか? http://d.hatena.ne.jp/kechack/20080927/p1 “右派に一定の支持がある妄言は、問題にならない場合があるというのが最近に傾向” 日教組発言への違和感。教育問題への貧困な単因論、所管外、カラ手形。 vanacoralの日記 http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20080928 中山妄言を支持する「有識者」たち。 ですぺら 戦後教育の垂れ流す害毒について http://black.ap.teacup.com/despera/339.html 昭和18年生まれの中山って戦後教育第一世代だよね。 kojitakenの日記 中山成彬の妄言は、争点そらしというより単なるKYだ http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20080928/1222605868 中山発言は麻生の集団的自衛権発言と合わせて、経済問題から目をそらせる狙いがあるようだが、安部の前例からもそれは失敗するだろう。 伊藤乾の常識の源流探訪 中山前国交相の「情報自爆テロ」? http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080929/171976/ 潜在的ネット右翼の数100万票を引っ張れたならたいしたもの。 中山自身がテレビで持論を主張できると共に、麻生内閣にもマイナス要因ばかりではないだろう。国民に見られたくない争点を隠せれば勲章モノ。 EU労働法政策雑記帳 日本教職員組合の憲法的基礎 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-4ed1.html 日教組の憲法的基礎って28条じゃなかったの? 切込隊長blog 中山成彬国交相が華麗に見せた逆炎上パターン http://kirik.tea-nifty.com/diary/2008/10/post-c79c.html “日教組批判の一部だけ切り取って中山支持に回ってあおりまくるという現状というのも、何かすさまじい勢いのネットによる衆愚政治の帰着点なのかしら” * 様々に批評がなされているが、次の選挙も彼は勝つ。 http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/data/shugiin44/pdf/h17sousenkyo_050911_03_13.pdf 「中山GJ」などと言ってみた人々は、『滝山コミューン1974』を読んでみてほしい。 日教組の生み出した一つの教育が、いかに「戦後的」だったのか分かるだろう。 追記) 次期衆院選に中山前大臣が出馬しないとの報道。 一連の発言について、麻生総理が“閣僚になられたら、されない発言だ”と述べて、中山前大臣が想定外のバカだったと評価したが、あれだけ「子どもたちのため」だの「火の玉になる」だのぶち上げて“次の選挙は本当に危ないが、政治生命を懸けてでも国民に訴える責任がある”と言っておいて、出馬しないとは、どこまで責任感の無いヘタレなのだろう。(官僚一家だから行革担当はできないと断った時点で十分だが) 仮に党が出馬に難色を示したのなら、私財をなげうってでも無所属で出馬するのが、自身の発言を引き受ける人間のやることだろうに。 これで、地盤を引き継ぐのがそのまんま東だったら笑うしかない。 非/国民の続き。↓ その人の名は中村輝夫。 彼は日本軍兵士として、1972年まで「戦った」横井庄一、1974年3月まで「戦った」小野田寛郎よりも長く、1974年(昭和49年)12月までインドネシアのモロタイ島で「戦った」。 だが、最後まで「戦った」彼は横井・小野田ほど知られていない。 なぜか。 もちろん、それは彼が日本人ではなかったからだ。 中村は発見時、捜索隊の「君が代」に直立不動するも「愛国行進曲」を聴くと捜索隊が日本人ではないことに気づき銃を手に戦おうとした。説得に応じたあと、所属部隊・階級・姓名・本籍地を標準語でハッキリと述べこういった。 “「日本はまだ負けてはおりません。自分は日本に帰りたい」” 最後まで「日本人」として「戦った」中村輝夫は、日本人だったのだろうか。 1899年、国籍法が当時に日本全領土へ施行される。 1895年の領有時、講和条約により2年の猶予をもって台湾住民は不動産を処分し島外退去か国籍付与かの選択をせまられた。結果、わずか0.16%しか退去者はおらず、圧倒的多数の台湾住民は日本国籍を持つことになった。 つまり、法制的には台湾住民は日本国民(帝国臣民)になったのだと解釈される、はずだった。 しかし、そうとはいえない根本的な事情が存在した。 すでに述べたように、台湾領有は軍による抵抗鎮圧が長く続いた。 その混乱から台湾総督府は軍組織に位置づけられ、軍人が責任者・台湾総督として事実上の法律となった命令を下し、裁判抜きで即決処刑が行われた。1889年の平定宣言、民政移行後も武官が総督に就いた。 そして、組織や権力者は、一度手に入れた権益・権利権力を手放そうとしない。 議会(立法)を必要とせず、裁判所(司法)の介入も受けない、武官総督(行政)による支配という権益・権力を総督府(軍)は当然手放そうとしない。 だが、近代憲法を持ったまともな国家として三権分立を犯す事態を放置すること、台湾を条約の適用除外地域にすることは、条約改正を考慮する欧米の手前、できなかった。 また、台湾を日本国とは別法体系が支配する植民地と位置づけることも、国防上できないし(植民地では取られやすい、独立の口実を与えやすい)、国力的にも困難(植民地は経済・工業技術などが大きく進んだ国が遅れた国を支配する場合に正当化しやすいが、日本は西欧に追いつこうとする段階にあったにすぎず、文化的にも儒仏は中国が本場で勝ち目がなかった)だった。 そこで1896年に帝国議会に提出されたのが明治29年法律第63号案:通称63法。 同法では総督に“法律の効力を有する命令を発すること”ができると定め、行政に実質的な立法権を与え、台湾評議会と拓殖務大臣の承認を必要とするが、緊急時は事後承認、日本の法律は天皇勅命で施行を可能とした。 つまり、台湾は天皇大権が及ぶことでは大日本帝国憲法の適用下にあるが、国民の権利義務の点では適用されない、憲法の「部分施行」状態だとされた。 同法案は実質的な改憲だとして議会から猛反発を受け、例外措置として、3年の期限をつけて成立した。これにより、児玉・後藤の総督・民生局長のコンビは(日本内地にはない)相互監視と連座制を伴った治安立法(保甲制度)、日本内地では禁止されているアヘン専売制(アヘン収入は歳入の15~30%を占めた)を実施することができた。 もちろん63法は3年の期限後、再延長・再々延長され、1906年には評議会規定を削除した5年の期限を持つ明治39年法律第31号:通称31法が可決。 この法律を審議する際、政府は台湾や台湾人が日本や日本人とは違うことを主張した。 しかし、違っているからといって植民地にはできないし、桂太郎首相が誤って台湾を植民地だと答弁した例を除いて政府は一貫して植民地ではないと答えてきた。 そして、31法の二回の延長を経て、1921年には諮問機関としての評議会を復活させ総督立法権を維持した恒久法、大正十年法律第三号:通称法三号が成立した。 これによって、台湾が日本から法制的に区別される総督府の独裁状態維持が確固としたものとなった。 台湾住民は日本国籍をもった、しかし、日本国憲法(帝国憲法)の下には置かれなかった。 日本人であって、日本人ではない。 教育においては、すでに述べたように領有初期から「一視同仁」の同化政策(少なくとも理念的には)が実施されてきた。1922年には法文上の民族差別もなくなった。 これは、「自分たちは欧米帝国主義の植民地支配とは違う。赤字覚悟で文明をもたらす義挙なのだ」と欧米への劣等感を埋め合わせるナルシズムを日本国民に提供した(している)。 だが、憲法という法制的な次元の話になると、総督府立法を維持しようとしたときに見られるように、言を翻して、台湾は「日本とは違う」という話を持ち出した。 同化政策を主導した台湾総督府初代学務部長・伊沢修二も“「帝国憲法は新版図の人民にまで及ぶべきものと謂ふにあらず」”と言明している。 つまり、同化主義者にとって日本人(国民)とは権力に従うものを指すのであって、国民としての権利を得て主張するものではなかった。 同じ言葉-日本人-を使いながら意味することが違う事態は、台湾議会請願運動での蔡培火らとそれに対する日本人の反応にも同じく現れた。 蔡は請願運動で日本に行ったとき、20年以上台湾での教育に携わった公学校日本人校長にこういわれた。 “君等は常に自由々々と乱叫するが、一体世には自由なるもののあるべき筈がない。若しあるとせばそれは浅薄な西洋被れの考えである。…大和魂は即ち献身服従の大精神であって自由を許すわけがない。(中略)君等は既に日本臣民となった以上はそれを改めねばならぬ。” だが、この憲法「部分施行」による台湾統治には二つの抜け穴があった。 ひとつは、台湾住民が日本国籍を離脱する可能性があったこと。 もうひとつは、台湾住民が日本人となって権利を獲得する可能性があったこと。 まず、国籍離脱については、国際慣習上国籍法に離脱規定を設けいないことはできなかったが、兵役義務を離脱条件に付けることで解決した。つまり、台湾には憲法の「部分施行」しかなされておらず、台湾住民に兵役義務がない以上、離脱条件をクリアすることがないので、離脱できなくすることができた。 もうひとつの可能性は、台湾住民も日本国籍を持っている以上、日本内地へ移住することができるために生じる。つまり、日本内地へ移住した台湾住民は、国籍上は同じであるため日本人か台湾住民であったかどうかを把握されなくなる。移住によって、日本へ台湾住民が紛れてしまうことが考えられた。 そこで、政府は日本の戸籍法を台湾に施行せず、台湾から日本内地への移籍をできなくしておくことで、台湾住民が日本内地へ紛れてしまうことを阻止した。つまり、仮に台湾住民が日本内地に移住しても本籍が台湾から日本に移らないので、日本人と区別することができる。これは、法文上に差別を明記せずに、差別することを可能にした。 だがこの戸籍法不施行でも、日本人に紛れてしまう可能性があった。それは日本人との養子・結婚によって、台湾住民が日本の戸籍に入った場合だ。 これは1917年に共通法によりあっさり認められた。 日本人の戸籍に入ることが認められたのは、総督府特権を侵さないうえに、国内兵員の流出もなく、おまけに「一視同仁」の建前をアピールできたためだった。 ただし、台湾には戸籍制度がなく(代用として戸籍調査簿があった)転籍手続き自体ができなかったので、日本人が台湾住民の戸籍に入るはできず、効果は台湾住民が日本人の籍に入る場合にしかなかった。1920年に婚姻受理が総督通達で許可されたが、婚姻合法化は1933年に勅令で台湾に戸籍制度を認めるまでできなかった。 しかし、この国籍による包摂・戸籍による区別という苦心の政策は時代の変化によってくずされてゆく。 1937年に始まった日中戦争、1941年に始まった太平洋戦争によって日本は徐々に「国内」差別を維持している余裕を失っていく。 日中戦争が始まるとすぐに、それまでの教育における同化路線を一気に加速させ、新聞漢文欄の廃止、神社参拝強制、旧暦正月行事の禁止を行い、台湾人軍夫徴用と志願兵制度を開始した。 台湾も朝鮮も、日本は国防目的で領有したが、そこで住民を徴兵してこなかったのは、日本人ではないものに武器を渡してしまう不安ゆえだったが、それを上回る必要が出てきた。 1940年には日本名への変更を「許す」改姓名の措置がとられた。ただし、改姓名したものとしないものに様々な場面で有利不利を付けたが、台湾においては強制措置ではなかった。 同年にはさらに、皇民奉公会が結成され、総督府と一体となって(総督が会の総裁を勤める)台湾を軍事・警察の支配する戦時体制へと進めていった。学校教育での「忠君愛国」教化は激しくなり、台湾語禁止はいっそう厳しくなっていった(42年には公学校から国民学校へ)。 1941年に太平洋戦争が始まると日本は軍事負担に逼迫され、財政独立していた台湾が統制経済下に入っていないことが批判され、1942年に大蔵・文部・商工・内務大臣によって台湾内総督府の監督権限が奪われる。 そして、国外の状況も台湾に大きな影響を与えた。1943年に米英中首脳によるカイロ宣言で、連合国勝利により朝鮮独立・台湾中国返還が基本方針として決定された。つまり、日本は国防上の観点から「植民地ではない。日本だ。」との公式見解を掲げて、汲々と「国内」差別を維持してきたにもかかわらず、敗戦によって「植民地」として奪われてしまう可能性が生じた。44年にはアメリカ軍の攻撃が台湾に及んでいた。 そこで、日本は「植民地」から一気に日本へと法制的な統一を進めていく。 保甲制度・アヘン専売という日本内地にはない法制度を廃止し、兵役義務と選挙権、今まで法制上日本から区別するために維持してきた憲法上の義務と権利を台湾にも及ぼすことにする。 すでに志願兵制度は太平洋戦争開始後に陸軍が1943年には海軍が実施して17000人が「志願」していたが、1945年には徴兵制がとられる。そして最後の切り札、選挙権についても45年に衆議院議員選挙法改正が帝国議会で可決した。ただし、25歳以上男子で直接国税15円以上の納税者のみという制限に加え、日本内地では15万人に一人の割合で議員選出されるに対して100万人に一人の割合での選出という定員を設けた上でだった。貴族院令も改正され、議員選出がなされた(ただし、すでに天皇勅選により1931年に一人貴族院議員がいた)。 こうして憲法上の義務と権利が及んだ形が整えられたが、総督府は維持され、63法から続く総督府立法権も維持されたため台湾選出議員が帝国議会で立法しても、その法は台湾に施行されないことになっていた。 衆議院議員選挙は、敗戦まで解散がなかったため、台湾で実施されることはなかった。 中村輝夫は、山岳部の平定がほぼ終了し初めて文官が台湾総督に就いた1919年(大正8年)台東に生まれた。公学校(4年制)を優秀な成績で卒業、1942年に陸軍特別志願制度に「血書」をして応募して、日本軍兵士となった。 1944年、フィリピン・台湾防衛の対米前線となったインドネシアのモロタイ島の戦闘で偵察隊として交戦中に部隊とはぐれ、さらに一緒にいた仲間から「殺す」と脅されて一人逃げ、現地人ひとりから年に数回、塩・砂糖・魚・タバコなどを受け取っていた(戦争は終わったと説得したが、中村は出て行けば殺されると応じなかった)以外、独りジャングルで「戦い」続けた。 そして、1974年に遺骨収集に来ていた中村の上官が日本人兵生存のうわさを聞き、帰国後に外務省を通じて捜索を要請し、発見される。 中村は知らぬ間に、1951年の日本の台湾領有放棄によって、既に日本人ではなく、中華民国の李光輝と国籍・名前を変えられていた。 さらに言えば、彼は1899年(日本全領土国籍法施行)以降・1940年(改姓名)以前に生まれたので、日本国籍に生まれたが名前は中村輝夫ではなく、スニヨンという名前だった。 名前から分かるように、彼は日本の台湾領有でもっとも激しくしぶとく抵抗を続けた高砂族と呼ばれる台湾原住民だった。 戦前の台湾住民は大きく3つの族群に分かれ、それぞれ使用言語がちがった。最も多くを占めるホーロー語(閩南語・台湾語)を話すホーロー人(閩南人)、二番目の規模で客家語を話す客家人、の2つは漢民族系。そして、もっとも少ない原住民族。原住民族は、漢字文化との接触度合いによって大きく2つに別れ、比較的接触があった平地の原住民を熟蕃、比較的接触の無かった山岳部の原住民を生蕃と呼ばれた。後に、1930年の霧社事件で原住民の反発を和らげるため蔑視表現を改め、熟蕃を平埔族、生蕃を高砂族と呼んだ。どちらもそれぞれ一つの部族ではなく、10程度の部族に分かれており言語も違う、さらにひとつの部族内でも部落が違うだけで言語が違うなど複雑多様な文化を持っていた。 中村輝夫、スニヨンは高砂族のアミ族出身だった。 高砂族は山岳地帯に生活に熟達していたために、日本領有に最もゲリラ的に抵抗することができ、その戦闘能力が日本軍に着目される。 そして志願兵制度が始まると結成されたのが、高砂義勇兵だった。台湾住民から21万の兵士が出され(3万が戦死。軍属は名簿がなく正確な人数は不明)、高砂族は3000~8000人の犠牲を出した。 どうして台湾領有に抵抗していた高砂族が日本軍に義勇兵として加わったのかには、だいたい3つの理由がある。 まず、高砂族の人々が素直で忠誠心が強いため、一度抵抗を止めれば新しい「主人」に忠誠を誓ったこと。 次に、日本の同化教育に対して、複雑多様な高砂族の文化が弱かったこと。高砂族は多様な言語を持つが、文字を持たない部族もあったため、それを口承してきた。したがって、日本が同化教育を推し進め、台湾語禁止を厳しく行い、生活で限定された場面でしか使われなくなり、子どもたちが使われなくなれば直ぐに廃れ・滅んでしまった。 そして、高砂族は漢民族系の多数派に差別されていたこと。加えて、日本の台湾領有によって、台湾住民全体は日本の少数派になり、高砂族はそのさらに少数派に、いわば二重のマイノリティになった。二重のマイノリティはマイノリティ以上にマジョリティに同化する傾向がある。もともとマイノリティであったために自文化が相対化されて認識されており(つまり、自文化を唯一のものとした執着に薄い)、しかもマジョリティに同化することで、自分たちを抑圧してきたかつてのマジョリティに対して優位に立つことができるからだ。 中村輝夫ことスニヨンも、その一人だった。 彼は「日本人」ゆえに生き残り、日本人でないがゆえに国から放置された。 日本人兵発見を受け、日本のインドネシア防衛駐在官が駆けつけたが、確認の結果直ぐに日本人ではないことが分かる。 すると、日本大使館員としては亡命を受け入れるほかは、日本に還す事はできなかったし、日本国民ではない以上、できることは台湾に還すこと以外になかった。 何より、既に中村が“帰りたい”言う「日本(大日本帝国)」は無くなっていた。 そしてちょうど、日中国交正常化後で関係修復に敏感になっている時期でもあり、日本側は国として手を出すことをしなかった。台湾では、日本占領時代に軍に協力した住民がいたことが蒸し返されると国民党政府にとって不都合だった。 だから、中村哲夫・スニヨンは、帰る国を失い、帰った国からも無視された。 彼は日本人になるように教育を受け、日本人として軍人となった、にもかかわらず日本は最後まで法制上日本人とは認めず、戦後は台湾領有放棄の後に放置した。 戦後、台湾に入ってきた国民党政府は人々に北京語を使うように強制し、教育も北京語で行われるようになった。 そのため、戦前の教育で育った中村は北京語を話す孫と直接話すこともでなかった。 日本国民ではないため国家からの支援を受けられなかったが、寄付が寄せられた。彼は、その(当時の現地にとっては)大金で暮らし、タバコとビンロウに浸り、呑めない酒を飲み、暴食する荒れた生活の果てに1979年に死去した。 * 台湾は親日だと言われる。 日本の植民地支配を経験した世代の人々が日本語で「あのころは良かった」「自分は日本人だ」「大和魂を持っている」と語る。李統輝のような親日家も有名だ。 八田與一のように台湾のインフラ整備に貢献した戦前の日本人は有名だし、教科書でも日本の植民地統治によるインフラ・産業への貢献は評価されている。 日本は日本への同化教育(日本化)を進める政策を採ったが、同時に文明化・近代教育の普及にもなった。 それは間違いなく、あったのだろう。 そして戦後の国民党軍の2・28事件を代表とする暴政への反発が、さらに美化させたのだろう。戦前に日本語を忌み嫌った人々でさえ、戦後に国民党の押し付けた北京語への反発から日本語を使った。 だが、「日本は良かった」の日本は、今の日本、今の私達日本人ではない。 そして、過去の日本、過去の日本人たちでもない。 過去に発した、遠い、再び触れることの無い、彼ら・彼女らの時間の中で「日本」と名づけられた想いが良かったと言っているのだ。だから、個々の問題については「親日」のはずの彼ら・彼女らも不満や批判を言うし、差別されていた実態も覚えている。歴史は事実として、日本の採ってきた道-包括と排除の領有、そして放置-を語る。 もし、「日本は良かった」と語る彼ら・彼女らを今の私たちがただ「親日」と呼び、喜んでみせれば、田川大吉郎が蔡培火の著作へ寄せた、かみ締められることのなかった嘆きが、同じ言葉を使いながら通じ合わない日本と台湾との間に放置された中村輝夫の躯から響いてくるだろう。 参照・引用) 『<日本人>の境界』小熊英二著(新曜社) 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮で行われたコスト削減と同化教育の矛盾について読むと、最近の教育改革で一部が唱えている方向性と重なるように思う。国語と修身(道徳)の強化による同化を目指すことだけははっきりするが、他が曖昧として見えない。とりあえず、その二つを強化することで「自分たちと同じ人間」を作ろうと言うが、その実、「自分たちの言うことを聞く人間」を作りたいという差別感が同化には込められている。権利や自由を嫌い、権利の使い方や自由の意味を考えるなかで自分たちとの利益衝突をどう調整するか考えるのではなく、とにかく否定し・自分たちの言うことを聞くような人間を作ろうとする。この感想が当たっているなら、これからの世代を植民地にしようとしている教育改革だといえる。 『台湾総督府』黄昭堂著(教育社歴史新書) 『ある台湾知識人の悲劇』楊威理著(岩波書店) 「宗教的回心とポリヴァレント・アイデンティティー」寺田喜朗著 (ハーベスト社『ライフヒストリーの宗教社会学』収録) 『帝国主義下の台湾』矢内原忠雄著(岩波書店) 『「君が代少年」を探して』村上政彦著(平凡社新書) 『還ってきた台湾人日本兵』河崎眞澄著(文春文庫) 『台湾入門』酒井亨著(日中出版) “「19年間、日本人だった。」 「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」 これらの言葉に私は、日本人以上の日本に対する誇り、愛着を見出すのだが、読者のみなさんはいかがだろうか? 「仲間内の会話は今も主に日本語」というところにも、「自分たちは国(日本)のために日本国民として尽くした」という強い自負を感じる。 当時の台湾の人たちが、自分たちを「日本人」だと思っていた。これは投じの日本による統治が公正・公平だったということの証明でもある。そうでなければ、そう思うわけがない。 (中略) 「反日」日本人たちには、「19年間、日本人だった」「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」という李雪峰さんの言葉を、一度、噛みしめてもらいたい。” 依存症の独り言 「19年間、日本人だった」という台湾人と韓国人の「半日」 “「僕は思ふ、内地の同胞は、君の期待せられる通りに君を理解することができまい、今それができないのみならず、何年になったらできるか、其の時は遂に来るであらうか」” 昭和3年 衆議院議員 田川大吉郎 * (以下で使われる「台湾住民」は日本人植民者を含まない。台湾人と統一して記述しなかったのは、日本統治下の台湾人の法的帰属問題・自覚的帰属意識に触れたため。基本的には「台湾住民」を台湾人と読み替えても構わない) * 田川大吉郎はこの言葉を、日本領有下で台湾議会設立請願運動の中心となった蔡培火の著作『日本々国民に与ふ』へ寄せた。 1915年(大正4年)に林献堂の要請で板垣退助(板垣は対欧米の大アジア主義の観点から同化主義)を会長に据えて設立された台湾道同化会は、統治の現状と乖離した日本の主張「一視同仁」を逆手にとって総督府の弾圧や低度の教育施設を批判し権利要求するという「親日」を掲げた「抗日」運動を起こした。台湾植民者たちは台湾議会設置に反対・抗議するが、日本側は「親日」「同化」に対して表立って弾圧できず祝辞を送り、すぐに経理乱脈を理由に理事を逮捕し、公安を害するとして半年で解散させた。 その5年後の1920年、台湾人内地留学生らによって新民会が結成され機関紙『台湾青年』が発行され、編集兼発行人を林献堂の援助で東京高等師範学校に留学していた蔡培火が勤めた。 当初は台湾文化向上と63法(総督府立法権の根拠法)撤廃を訴え、「一視同仁」を逆手に取った総督府批判を展開したが、当時の殖民政策学の潮流であった非同化・自治主義(の誤解)の影響を受けて台湾住民公選による台湾議会設置へと運動を変化させていった。その背景には、数千年来の文明保持者であった漢民族としてのアイデンティティ(日本への同化拒否)と非文明的・後進的な台湾への不満・批判(文明化への意思)というアンビバレンスがあった。つまり、近代国家日本の権利を欲したが、台湾としての独立性を維持したいという思いが、(国家としての)独立の名を捨てて実を採る台湾議会設立という解に結びついていた。 そして、その帝国議会への請願の紹介議員となったのが田川大吉郎だった。 田川は文明による同化・支配の信奉者だったが、イギリスの植民地統治を(誤解の上に)模範としていたために議会請願に賛成していた。 1921年の第一回請願は何の結果ものこさず終わり、1922年の第二回もほとんど審議されないまま不採用に。 1923年には総督府が自治運動弾圧にのりだし、集会に警官を配して解散を命じさせ、運動に協力した公務員・会社員の解雇、免許停止、取立て・貸し出し拒否などで圧力をかけ、治安警察法で出版制限を行い、議会期成同盟メンバーを一斉検挙した。 1924年第四回、第五回では台湾議会を内地の地方議会に準じるものと釈明するも不採用。1927年には運動母体が分裂、同年第七回請願、第八回も審議未了で失敗。運動は衰退するが、1934年の第十五回請願まで続けられた。 1928年、運動の衰退するなか、蔡培火が日本人に向けて請願の趣旨を書いて出版したのが『日本々国民に与ふ』だった。 1895年(明治28年)、日清戦争勝利、講和条約により台湾は清から日本に割譲される。 しかし、台湾住民は台湾民主国独立を宣言し、日本の領有に激しく抵抗した。台湾住民から危害を加えられるのを恐れた清国代表の求めで船上で引き渡し会議開催が行われた。 日本は抵抗を鎮圧するために軍を送り、台北攻防戦はあっけなく勝利したものの、南進は熾烈な抵抗にあい十月の全島平定宣言までに、日本側死傷者は北白川宮能久をはじめ4500人、台湾側死者は約14000人(当時の台湾総人口約260万人)を出した。 その後も、抗日ゲリラによる抵抗は続き、1987年には13回もの反乱がおき、1902年までに約32000人の台湾人死者を出すことになり、特に山岳部の原住民(高砂族)の抵抗は激しく、1906年から08年まで計18回もの平定軍が派遣され、1915年までほぼ平定されなかった。 しかも同年には西部一体から全島にかけての独立を求める反乱、西来庵事件が起き、1464人の逮捕者、903人の死刑(実際に処刑されたのは200人、残りは無期)を出した。 さらに、統治後期の1930年には総督府の討伐・強制労役・官憲の仕打ちなどを理由にした反乱事件、高砂族200名が学校の運動会・駐在・役所を襲撃、日本人134人・漢人2人を殺害する霧社事件が起きる。 台湾住民による抵抗の鎮圧に追われ、初期台湾統治は混乱を極めた。 総督府官僚の腐敗と植民者たちの横暴が、混乱に輪をかけた。 台湾は官僚にとって「島流し」の地であり、他に行き場のない人材が送られ、能力もなくやる気もない官僚たちは職務怠慢や収賄・職権乱用を重ねた。高等法院長として汚職を摘発した高野孟矩は逆に解職されてしまった。植民者たちの多くは「一旗揚げに」やってきた下層民で、台湾住民への差別むき出しの態度をとり、一攫千金目当てで犯罪まがいの行為をおこなったり、富裕な台湾住民にこびへつらい、遊女として買われたりし、統治者としての日本の威信を大きく損ねていた。 そこで事態を「改善」したのが1898年から1906年まで台湾総督・民政局長に就いた児玉源太郎・後藤新平だった。 治安対策として清国統治下の保甲制度(相互監視と連座制)を敷くと同時に、鉄道敷設・築港・道路整備を行い(行わせ:保甲制度による義務動労)、水力発電事業を起こした。 産業としては鉱産のほか、従来から産地として知られていた製糖事業を法で優遇・保護し日本の財閥の投資を呼び込み、児玉・後藤統治の終わりには生産量は倍に増え、後に最高で160万トンまで増加した。 1905年には、日本からの補助金辞退をし、財政独立を果たす。 1915年の山岳部ほぼ平定の8年後、林献堂や蔡培火らの自治運動に対して総督府が弾圧に乗り出した1923年(大正12年)、葉盛吉は生まれた。 一家は没落により離散し、盛吉は叔父夫妻に引き取られ、叔父の勤める製糖会社の社宅で育てられる。 叔父は師範学校を出て日本の教育を受けており、日本人が経営する製糖会社にも多くの日本人社員がいたため、付き合いはなかったが、社宅では日本人に囲まれていた。 だが、1930年、満7歳で公学校へ入学した葉盛吉は台湾人の子どもに囲まれる。 しかし1936年、台南一中に入学すると逆に、クラスに台湾人は3~4人しかおらず、日本人に囲まれる。 自分は日本人なのか台湾人なのか。 “公学校に入った時、級の中に内地式に育った人が一人いたが、私はその友達を見て、台湾語を全然知らないということは、どんなに幸福だろうかと思った。台湾語を全然知らないということは、それだけ内地人に近いと考え、ただそれだけのことで、組中の尊敬の的となり、組の大将になることができた。” 彼は二高へ入学した後に「台湾の豊田正子」と呼ばれる天才文学少女・黄鳳姿の書いたこの文章を読み公学校時代を振り返って共感した。 葉盛吉が台湾人に囲まれて「台湾語を知らなければよかった」と独り想っていたとき、王恵美は台湾語を知らなかった。 “当時は「自分が中国人」ということが受け入れられなかった。「私は日本人」であり、「中国人ではない」と思っていた。終戦前、日本人は、中国人を「チャンコロ」と呼んでいた。あからさまに表に出さなくても、日本人の誰もが「優越意識」を「確かに」持っていた。それまで、自分の親が台湾人でありながら、自分が「中国人と同じ(民族)」だとは考えたことがなかった。” 現在、彼女は振り返って、そう語る。 1932年(昭和7年)に、大地主の息子で師範学校卒の教師の父と医師の娘で高等女学校卒の母との間に生まれた王恵美は、日本語が生活言語として使われる家庭に生まれ育った。 小学校に入学し、40人~45人のクラスで台湾人は彼女のほかに一人いたが、小学校低学年のとき松岡恵美子と改名し、周りも王が台湾人だとは認識していなかった。生徒や教師からもいじめや特別扱いもされず、王自身も台湾人だとの自覚はまったくなかった。 葉盛吉と王恵美、一方は日本と台湾の間でアイデンティティに悩み、もう一方は台湾にありながら日本人としてのアイデンティティを疑いなく形成した。 この違いは、二人が通った場所の違いにある。 葉盛吉が通ったのは公学校で、王恵美が通ったのは小学校。 1895年の台湾領有からすぐ、日本は台湾住民に対する同化教育を開始する。 上陸直後の7月には国語伝習所・国語学校が設置され、1896年には抗日武装蜂起で6人の日本人教員が死亡する。台湾総督府初代学務部長・伊沢修二は台湾が人種的・文化的に近く(台湾は古来日本の領土だったのを清が取ったと主張)西欧の植民地における教育とは異なることを主張し、教育同化による精神の征服を目指し無償による国語と修身を中心としたプランを建てた。しかし、抵抗鎮圧と台湾財政の逼迫により伊沢プランは縮小され、1898年制定の初等教育に関する公学校令・規則では国語・修身中心の教育や六年の修学年限は井沢プランを反映したが、科目から歴史・地理・理科などが削除され、(日本国内では1900年から初等教育無償なのに対して)無償教育は否定され費用は地方庁と区域内住民の負担となった。これによって国語伝習所は公学校として台湾住民子弟用の初等教育となった。 国語学校は師範部・国語部・実業部に別れ、師範部は公学校教員養成、国語部は中等教育、実業部は農業電信鉄道に関する中等教育を行った。 1904年の公学校令改正では公学校増設制限、50人学級から60人学級へ、さらに入学年限を半数近くの公学校で4年に短縮。 後藤新平が“「台湾教育方針は無方針であります」”と述べたように、国語による日本人化ということ以外には教育方針がなく、コスト削減による中途半端な日本語教育に落ち着いていった。 一方、日本人子弟は台湾住民子弟の教育とは別系統で、小中高と国語学校付属であったが、1898年~1910年の間にそれぞれ独立。 1918年に台湾教育令が改正され、国語学校が廃止され師範学校、中学校・女子高等学校、医学専門学校(台湾総督府医学校)が設置され、台湾住民子弟に専門教育機会が与えられる(但し、程度は日本の専門学校より低い)。 1922年には新教育令により、初等教育に限り国語常用者は小学校へ(小学校令適用)、日常用者は公学校へ(普通学校令適用)、中等以上は(日本人子弟と台湾住民子弟)共学と定めれれ、法文上から民族差別が消える。ただし、国語常用とは“「業務上国語を使用するに止まる者、又は対話者との関係上国語を使用するに止まる者の類」”では常用と認めないといった非常に厳しい条件だった。 同年には高等学校、1925年には台北帝国大学が設置された。 台北帝大予科医類と台北高校理乙には定員の25%まで、その他学部には5%までという台湾人入学制限があり、法文上の民族差別撤廃は日本人による高等教育独占を実現した(1918年に設置された台湾住民向け医学専門学校なども22年新教育令で日本人向けへと変質した)。そこで、台湾での進学に破れた台湾住民子弟で余裕のあるものは日本内地への留学へ向かうことになる。 また中等学校も、入試は小学校卒業生を基準に作られたため、公学校からの入学者は少なかった。 さらに、制度上共学であっても実際には台北一中・二中、台南二中、台北一高女、台中一高、台南一高女などの「一」がつく学校は実質的に日本人子弟専用となった(台中は林献堂らによって先に一中が作られた)。 つまり、生まれる前年に教育令から法文上の差別が撤廃された葉盛吉は、公学校からの僅かの中学進学を、しかも実質的に日本人子弟専用となった名門台南一中へ進んだ。 だから、台湾住民子弟に囲まれた公学校から日本人子弟にかこまれた中学と環境を激変させ、日本人と台湾人との間でアイデンティティの不安に立たされた。 一方、王恵美はそれこそ生まれながらのエリートとして小学校から高等女学校へ進み、日本人に囲まれ、日本語しか知らずに育ち、自分を日本人だと認識して疑わずに育った。 そして、日本の敗戦は2人の人生を、アイデンティティを大きく変えることになった。 自分は何人なのか。 葉盛吉は中学で日本人にかこまれ、差別・侮蔑にもあい、日本人と戦うか・日本人になるかの二者択一から、積極的に日本人になろうとし、学業に打ち込み、学内2位の成績で卒業する。1941年には日本名に葉山達雄に改名する。 競争の熾烈な台湾を避け、日本内地の岡山六高を受験するも2年連続失敗、3年目1943年に仙台二高に合格。二高の寮生活で再び民族問題に向き合う。 八紘一宇の大理想による統一やユダヤ陰謀説に熱中したりしたが、やがて両方ともを批判し、抽象概念の下で行われた弾圧へと目をむけるようになり、(東北への愛着と同時に)中国(台湾)へ意識を向けるようになった。 敗戦後、東京医学部へ進学していた葉は台湾へ帰り、台湾大学医学部へ編入した。 葉は祖国中国への期待、理想の実現を夢見た。 王恵美にとって敗戦は、自分が日本人ではないという現実を突きつける、アイデンティティ崩壊の危機を意味した。 日本人は引き上げしまい、彼女も高等女学校から台湾省立第二女子中学(旧台北第三高等女学校)へ編入することになる。当然回りは台湾人であり、彼女をクラスメートは「どうして日本人が転校してきたのか」と見る。台湾住民の言葉、客家語もホーロー語(閩南語・台湾語)も話せない彼女にとって台湾は外国のような環境になり、登校拒否をした。 台湾へ上陸した国民党の軍隊は乞食のようにみすぼらしく、その姿が眼に焼きついて離れず、戦前からあからさまにせずとも持っていた優越感も障害となり、どうしても自分が台湾人だとは認められなかった。 王が眼にした国民党の軍隊は、台湾へ希望を胸に帰ってきた葉盛吉も失望させた。 国民党は軍も官僚も腐敗しきっており、軍規はひどく各地で略奪・公私混同の強要・収賄が見られ、インフラの利用方法も知らず(もちろん整備もしない)、台湾住民に対して征服者のように横暴を働いた。 1947年には2・28事件が起きる。台北でヤミ煙草を売っていた林江邁を国民党の密輸取締官が発見し、煙草だけではなく、売上金まで没収しようとしたため林がすがりついたのに対し銃で殴りつけた。これを見ていた通行人たちが取締官を取り囲んだため、取締官が発砲し死者がでた。これまでの国民党の横暴に怒りが積み重なっていた台湾人は警察・憲兵・専売局・台湾行政長官公署を包囲。群集に長官公署から発砲され死者を出す。抗議は台北から全島に広がった。最後は軍が鎮圧に乗り出し1万人以上が殺害された。 インテリ学生たちは国民党の暴政から対抗的に第二党であった共産党へ加担する。 葉も1948年に台湾大学の共産党地下組織に参加し、学生自治組織を使い活動すた。 そして1949年大学卒業し結婚して医師としての生活をスタートさせたが、1950年朝鮮戦争による国民党の赤狩りで逮捕。処刑された。 王恵美はなんとか中学を卒業し、王の父は台北市政府教育課長を国民党の腐敗に絶望して辞職した。王は卒業後、進学も就職もせず、家に閉じこもり過ごした。 王や葉のような激しいアイデンティティの混乱を受けなかった台湾人もいた。 葉盛吉が二高時代に読み共感を覚えた文章の主、天才文学少女・黄鳳姿だ。 1928年(昭和3年)、京都帝大卒の外務官僚の父(後に関西大・立命館大で教える)を父に生まれた黄鳳姿は、王恵美と違い、葉盛吉と同様に台湾住民子弟用の公学校に通った。 台湾における日本の同化教育の精華のような存在だったはずの黄はさめていた。 “台湾の読書人家庭は、みな中華意識が強かったです。自分たちが一番だと思っている。影では、日本を、野蛮人と呼んで、日本の文化程度を低いと思っていました。私の曽祖父は、「気をつけなさい。いまは日本の天下だ。太陽が当たっている。表面は従えばいい。日本で一番注意しなければならないものは天皇だ。ちょっとでも触れれば大変事になる」。そう言っていました。(中略)だから、日本人に対しては、調子を合わせて奉っていればいいと考えていたのでしょう。ちょうど、平素は馬祖や観音といった伝統的な神様を祀っていて、警察が見回りに来るときだけ、その上に大麻を飾るように。(中略)私は子ども心にも、台湾の人たちは裏表があると思いました(笑い)。”と現在語る。 黄も日本の敗戦を解放の日だと喜んだ。 しかし、王や葉と同様に、国民党の腐敗・暴政にすぐさま失望に変わった。 そして1947年1月に公学校3年時の担任で彼女の文章指導をしていた池田敏雄のプロポーズを受け結婚し、日本へ渡った。日本敗戦で日本人が最も軽蔑されていた時代で、母以外全員反対、父からは勘当を告げられるほどのなかでの結婚だった。 王は30歳で日系企業へ駐在員として就職し、企業が台湾から引き上げたのを機に40歳で退社した。 それから、彼女は父が後年熱心に信仰し活動していた日本の新宗教「生長の家」に参加した(生長の家:大本教第一弾圧で離反した谷口雅春が1930年に設立。唯心論思想・想念の転換による救いを説く。戦中戦後に国家主義・天皇主義的傾向を強めた)。信仰は彼女に日本人として育てられた自分を受けさせ、日本時代の「道徳」が失われるのを憂いた父の跡をつぐことを決意させた。 “日本人よりも日本人なんですよ。はは、こういうとおかしいけど。(中略)以前の日本人は私たちといっしょだけどね。終戦後の日本人より日本人なんですよ。” “私はね、日本にも責任があると思うんですよ。今頃、何故、大陸との通称目的かなんかしらないけど、大陸、大陸と、言うこと聴いて…。” 現在、王恵美はそういって日本人以上に日本を想い、その日本が中国へ眼を向け台湾を無視することを責めている。 自分は日本人だ。 1945年の日本敗戦時に、王や葉のような混乱も、黄のような覚めた感覚でもなく、そのアイデンティティを確固として持ち続けた台湾人、「最後の日本人」がいる。 続き→反日/日本人 ![]() ![]() 「カネ、カネ、カネ、カネ、って。もっと大切なものがあるんじゃなかったの」 オーマイニュース「野口英世は偉人か虚人か」で引用してある福岡伸一著『生物と無生物の間』が参照元と思われるロックフェラー大の野口評。 (コメントで野口は“小学校もろくに出ないで”と書かれているが、当時の義務教育だった尋常小学校も、義務ではない高等小学校も出ている。野口生家の近隣で育った(と称する)会津人がこれでは。) 以下、ロックフェラー大のニューズレター「BENCHMARKS」2004年6月7日の私訳。 http://www.rockefeller.edu/benchmarks/benchmarks_060704_d.php 「ウェルチ・ホール、旅行者のメッカ。」 6月、ロックフェラーの細菌学者だった野口英世が日本の千円札に登場予定です、旅行者がもっと図書館に来ることことになるでしょう。 20世紀初期に23年間ロックフェラーで過ごした野口英世は、今日ではキャンパスの有名人の一人ではありません。梅毒、ポリオ、狂犬病、そして黄熱病についての彼の研究は当時喝采されていましたが、研究成果の多くは矛盾し混乱したものでした。そしていくつかは後に誤りが証明されました。彼は大酒のみで遊び人としても評判でした。 ですから結局、1904年にサイモン・フレキスナーの研究室に参加し、1927年にアフリカでその原因を究明していた黄熱病で死亡した野口は、ロックフェラーの歴史の主章より脚注にいるのです。 日本では、全く話が違います。 日本の猪苗代の野口の生地は観光名所です。彼が育った農家は現在、彼の業績、母からの手紙や彼の死後に摘出された肝臓の写真まで展示している博物館になっています。彼は日本の20世紀の最重要人物の一人だと考えられています。そして今年の6月、彼の国は、最も重要な手段、デザインが更新される千円札(大体十ドル相当)に彼の肖像を印刷する、で彼を称えようとしています。 図書館の二階のウェルチ・ホールに入って左手にある、彫刻家セルゲイ・ティモフェエヴィッチ・コネンコフによって1927年に製作された野口の胸像はちょっとした観光地になっきました。年に何十回も66番街門の警備員は日本の観光客に野口の胸像の写真を撮るために入ってよいかを丁寧に尋ねられています。 2・3ヶ月前、旅行会社が三台のバスでカメラを持った観光客団をウェルチ・ホールに連れてきた時、日本人の野口の胸像に対する関心は新しい高みに到達しました。 そして3月25日、大学の司書パトリシア・マッキーは自分が日本人観光客の一陣に飲み込まれていることに気づき、彼らが順でお互いに胸像の前で写真を取っているのを辛抱強く待っていました。マッキーはロックフェラーの人口研究所で働いていた科学者サム・コイデがその団体に野口の研究について話すように手配しました。 2000年に野口についてロックフェラー公文書センターの調査報告を書いた日本のいわき明星大学英米文学部のアヤ・タカハシによると、野口の日本での名声に対しては、いくつかのことが寄与してきたそうです。 まず、彼の子ども時代があります。野口は貧しい農家に生まれ、幼児期に左手に深刻なやけどを負い、それは彼に障害を残すことになりました。彼はその両方の障害に打ち勝ちました。そして国際的な名声を得ました。一時期は、作った黄熱病ワクチンに対してエクアドルは彼を英雄だと讃えました。(後に科学者たちは黄熱病に対してこれが何の効き目もないことを明らかにした。)さらに、彼が追い求めたまさにその病気による早逝は、彼が“科学の殉教者”であるとの印象を強く残しました。 ロックフェラー研究所(もともと大学が呼ばれていたように呼ぶと)はその野口神話を押しつぶさず、タカハシによれば、研究所初代所長サイモン・フレキスナーが個人的に野口の葬儀をすべて取り仕切り、この科学者について尋ねる皆に華やかしい野口の伝記を公表したそうです。 ウェルチ・ホールの胸像が世界に唯一のものではありません。フレキスナーは50年前に野口記念館に複製を送っています。現在、これは猪苗代の野口記念館には展示されていません。 それでも、観光客は個人であるいは団体でわれわれの所有する胸像を観にロックフェラーに現れ続けています。 あなた方の野口の見方がどうであれ、野口の紙幣が流通し始めるまで2・3週間です。この流行はなかなかおさまりそうにありません。 (1)勝手に紹介文/『働かない』トム・ルッツ著 小沢英実+篠儀直子訳(青土社) カウチから動こうとしない息子、コーディ18歳を見て、オヤジであるトム・ルッツは“本能的な全身反応”の怒りに悶えた。 何故、俺は怒っているんだ! 高校を卒業後、自分のオヤジに時間の無駄だと言われながらも、コミューンで暮らし、ドラックを嗜み、肉体労働を転々として必要なだけ稼ぐ生活を経て、午前中に起きなくてもいい生活と楽な仕事を励みに博士号を取り、夢見たお気楽生活は実現しなくとも、毎日通勤しなくてもいい研究者生活に密かな喜びを感じている自分。その自分が、どうして18の息子に怒り狂っているんだ!理解できる大人がいるとしたら、自分ほど相応しい経歴の持ち主はいないだろうに。 その疑問に答えるべく、オヤジは怒りの力で走り出す。 教えている大学で学生を観察し、「怠惰理論」をウェブで公開している現代の怠け者(?)にインタヴューしたかと思うと、独立国アメリカの始まりで「時は金なり」と唱えたフランクリンと対照的に「すべての人間は怠け者か、怠け者志願者だ」と言ったサミュエル・ジョンソン、19世紀初頭に怠け者向け雑誌を発行して人気を得たジョセフ・デニーやフランスのボヘミアンのアメリカ版の作家や詩人たち、そしてチャップリンが演じたさすらいの酒飲み労働者トランプや大戦後のピッピー、サーファーといったアメリカ文化に現れた怠け者たちを膨大な学術論文・文学作品・映画・ドラマ・音楽などとともに調べ尽くした。 そこに見えたのは、変化し続ける産業と労働環境の中で、働くことと働かないことの意味を語り、問い、そして生きたユーモラスでアイロニカルな父と子の物語たち―そう、怒る自分とカウチの息子へと続く歴史だった。 全ての働いてきた父親たちと働いている・いない・こうとする息子たち、必読の作品。 税込み3360円。 (2)『働かない』に登場する怠けものたち。 ①愚痴と意図 『働かない』は、いくつかの論文にできる幅と量のある資料を基にしているにもかかわらず、一つの読み物として成立させた、労作と呼ぶに相応しい作品だと思います。 間違いなく、買って損はしない本だと思います。 しかし、傑作とまでは言い切れない部分もあると思います。 多量の情報を浴びせられ、誰が何世紀でどのようだったかなどを見ようとしても、人名索引は充実しているのに「怠け者」の名前を索引できない(つまり、記憶力の悪い私。目次に各章のページ番号がありますが、章内の小題のページ番号がない)などを防ぐため、もう少し素直に物語を楽しめるような工夫があれば(物語性を優先して情報量を削るか、物語性を犠牲にして資料を整理するか決める)と愚痴をいいつつ、まずは自分の整理のためと、これから読む人への一助になればと記しました。 以下、第1刷のページ番号で本書に登場する主な怠けものを整理しておきます。 (②については、私見です。申し訳ありませんが、訂正する可能性があります。) ②スラッカー スラッカー(slacker)は、英語の名詞で「怠け者」の意味。 本書p25にあるように、「怠け者」という意味のスラッカーという単語は1898年にOEDに掲載された新しい言葉。 それが第一次大戦で徴兵逃れを指す言葉として普及し、1920年ごろには、怠惰や無気力な人を指す言葉として、それまで使われていたローファーやラウンジャーに代わって使われるようになる。(p274参照) 第二次後、ビート派やピッピーなどと呼ばれる人々が怠けものとして前面に現れたあと、1980年代頃から、スラッカーを称する・呼ばれる人々が現れる。 つまり、スラッカーという一つの言葉には、その歴史にともなった異る意味合いがある。 順に整理してみると、まずスラッカーという語が1898年にOEDに登場した時は「怠け者」を意味する普通名詞であった。悪口としての用法であって、働かないことを主張するアイデンティティといった意味合いは含まない。 次に、スラッカーという語は第一次大戦時に徴兵逃れを指す名詞として普及する。それが拡張して(再び)「怠け者」を指す普通名詞となった。これも積極的な労働の忌避というのではなく、怠惰や無気力といった消極的な意味合い。 対して、1980年代から用いられたスラッカーという語も「怠け者」を指す普通名詞でもあるが、1940~1960年代の反産業的・労働的な意味合いを経て、積極的に労働を忌避する姿勢、自己規定的な要素が含まれる。ヒッピーなどと同様に労働の価値を認めないが、消費欲は認め、諦めに近い物分りのよさから激しい反社会性というよりシニカルな姿勢を持つ「怠け者」を意味する名詞としてスラッカーは用いられる。 このように、第一次大戦の時と1980年代以降では、どちらも「怠け者」を指す語ではありながら、中心となる意味が異なる(時代によって怠けることの意味が違うので当たり前のこととも言える)。 また本書では、一貫してスラッカーが「怠け者」を指す普通名詞として用いられている(例:スラッカーの歴史、スラッカー気質、古典的なスラッカーetc)。 それは、上記で述べてきたような時代ごとにある固有の意味の核を抜いた用法で、単純に「怠け者・働かない人」といった(それ以上の意味を含まない)単語としてに用いられていると考えられる。 この点が整理できずに、混乱する箇所があると思われる(私が勝手に混乱しているので、この整理自体が間違いかも)。 ③ランブラー、アイドラー>:p106参照。 18世紀半ばサミュエル・ジョンソンが最初に自称したのがランブラー(ぶらぶら歩く人)。 後に雑誌『アイドラー』を発行。 「18世紀はアイドラーやラウンジャー」と読んでいると時たまランブラーが表れる。 ④ラウンジャー:p118参照。 18世紀後半にイギリスで発行され、アメリカでも広く読まれた、ヘンリー・マッケンジーが編集者を勤めた雑誌『ラウンジャー』。 ⑤ローファー:p204参照。 19世紀半ばから、フランスのボヘミアンのアメリカ版。 ⑥ソーンタラー:p231参照。 19世紀半ばのフランスのフラヌールのアメリカ版。 なお、このページには“アイドラーの十九世紀版であるラウンジャーやローファー”とあるが、 ④で述べたようにラウンジャーは18世紀後半からで、19世紀初頭も入る。 ③~⑥までは貴族主義的な感覚があり、自称することに誇る雰囲気がある。 ⑦トランプ:p243参照。 ソーンタラーの労働者階級版。 性質によって、ボーボーやバムという呼び名もあるが時代を下ると区別が曖昧に。 訳者さんのブログ⇒http://d.hatena.ne.jp/kica/20070209/1170997029
“そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」についてたいへん興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結び付ける貴重な役割を担っていたと言えよう。”
『テムズとともに』徳仁親王著(学習院教養新書) “その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。” 『表徴の帝国』ロラン・バルト著 宗左近訳(ちくま学芸文庫) “人間が聖なるものを知るのは、それが自ら顕われるからであり、しかも俗なるものと全く違ったなにかであると分かるからである。” 『聖と俗』ミルチャ・エリアーデ著 風間敏夫訳(法政大学出版局) * (1)日本で最も制約された人 憲法13条:幸福追求→公人としてプライバシー制限 憲法14条:平等規定→例外 憲法15条:公務員選定権→選挙権・被選挙権は無い 憲法20条:信教の自由→宗教的行為・結社に関して制限 憲法21条:表現の自由→政治的発言の制限 憲法24条:婚姻・移住移転職業選択の自由→男子皇族は皇室会議の議を経る必要・離婚規定がない・住居職業選択制限 憲法26条:教育を受ける権利→非政治性を侵す分野に関して制限 憲法29条:財産権→88条により財産は国有(宮家は別) 憲法32条:裁判を受ける権利→象徴としての地位により民事刑事裁判権は及ばない (2)財布/税金(18年度) 内定費:天皇皇后両陛下・皇太子殿下御一家の私的日常費用→3億2400万 宮廷費:皇室の公式活動費用、施設維持費用→62億2399万 皇族費:天皇皇后両陛下・皇太子御一家以外の宮家(18方)の私的生活費→2億7359万 (他に宮内庁費が106億、皇宮警察本部予算などの関連費用も) 現在、皇族費が支出されているのは 秋篠宮:5方(親王殿下・妃殿下+未成年内親王2方、未成年親王1方) 常陸宮:2方(親王殿下・妃殿下) 三笠宮:2方(親王殿下・妃殿下) 三笠宮寛仁親王:4方(親王殿下・妃殿下+成年女王2方) 桂宮:1方(親王殿下) 高円宮:4方(妃殿下+成年女王1方、未成年女王2方) 皇族費は“皇族としての品位保持の資に充てるために”(皇室経済法6条1項)支出されるもの(この文言は敗戦後昭和22年の法制定時に、宮家は経済的に皇室と切り離されて独立収入を自ら得ることが想定され、不足分を年金のような名目で支出しようとした名残。実際は“品位保持”といった装飾的な支出向きのものというより生活費、もちろん学費もここから出ているが、約半分は使用人の給与など人件費に当てられている)なので、天皇皇后両陛下・皇太子殿下御一家以外の皇族が対象となる。 皇族費の支出には、独立した生計を営む親王を基準とする定額費(3050万)があり(同条3項1号)、親王妃がその50%の支出を受け(同条同項2号)、その子(つまり親王殿下妃殿下の御子である王・女王)が未成年の場合に定額費の7%、成年の場合には定額費の21%の支出を受ける(同条同項5号)。 高円宮家は憲仁親王殿下がお亡くなりなので、久子殿下が当主。 皇室経済法6条3項2号但し書き“その夫を失つて独立の生計を営む親王妃に対しては、定額相当額の金額とする”、により久子殿下が定額費の支出を受けていると考えられる。 そして、その長女である承子女王殿下に対しては、成年皇族なので定額費の21%の支出がある。(承子殿下の成年は18年3月なので、定額費年額の21%満額ではなく月割り相当) つまり、承子殿下個人には年額約640万の支出がある。 皇族費のほかにも、式典出席の際の「お車代」などの収入がある。 参照 『天皇家の財布』森 暢平著(新潮新書) 宮内庁HP http://www.kunaicho.go.jp/15/d15-03.html (3)彼女の立場 “それは実に不思議なことで、もちろん皇族なんだけれども、小学校に入るまでまったくカウントされないんです。二十歳で成年式があり、われわれ成年皇族は一日に皇居に伺って両陛下にご挨拶をするわけですが、小学生以上の皇族は二日だったか三日に集まって両陛下にご挨拶をして、そのあとお食事をいただいてっていうのがあったんですね。皇族として扱われるのはそれだけですね。” “いわゆる皇族としての仕事はゼロなんですね。十九まではゼロ。二十になると突然百ということになるわけですよ(笑)” “成年式ではじめて自分もそういう格好をして宮中三殿へ伺って誓いの言葉を言う。そういった意味でのインパクトは非常に強いわけですね。ある意味で難しいのは、成年のときに突然、きょうからあなたは成年皇族がするべき仕事をしなきゃいけませんということになるんだけれども、それ以前は野放しなわけね。突然生活パターンが変わってしまう。” 『二世論』船曳建夫著(新潮文庫)より 高円宮憲仁親王殿下へのインタビュー (4)海外の意味 “ええ、印象に残る思い出はいろいろあるが、ヨーロッパに旅行したことです。若い時ヨーロッパに旅行したときのことが最も印象に強く残っています。もちろん大戦前後の苦労したことは申すまでもないことです。 私のそれまでの生活がカゴの鳥のような生活でしたが、外国に行って自由を味わうことができました。そのことが最も印象深いことでした。” 昭和天皇 昭和45年9月16日 那須御用邸にて 『殿下、お尋ね申し上げます』高橋紘著(文春文庫) (5)感想の前の整理 http://www.j-cast.com/2007/02/01005277.html 文春の記事が正しく、高円宮承子殿下がmixiでかなり赤裸々にご自身の生活や内面を表していたとして。 まず非難すべき点は、公人としての皇族の立場を著しく毀損する振る舞い。 自らが自らのタブロイド紙を発行するに等しい軽挙妄動。 生活が国民の税金によって成り立っていること、昨年から成年皇族としての支出を受けていることから、以前より一層の自覚があってしかるべきにもかかわらず、行動自体の下品さとネットに関する甘すぎる認識とを相乗させた愚かしさを天下に晒した。 次に擁護すべき点は、(1)~(4)まで挙げた全てに依る。 承子殿下の父、憲仁親王がインタビューで述べたように“野放し”状態の皇族が二十歳で突然に100%を要求されるのは酷である。 国民の関心、宮内庁の関心も天皇家に集中しており、それ以外の皇族は制約の息苦しさこそあれ支援が十分とは言えない(と言うよりも、住民票もないので行政から放置されているに近いと言われる)。 一般家庭に近いが特殊であるという奇妙な環境から自由な海外への移動は、皇太子殿下の留学等とは異なるものの、国内の無言の圧力からの開放という点では類似するものがあると思われる。海外留学は皇族にとって、人生で初めて“空虚な中心”の圧力を脱する機会。 寛仁殿下は上記引用のインタビューでこう述べている “結局、われわれはあまりにも対応範囲が大きいので、いつでも通用するパターンは、しいて言えばない。そういった意味ではいろんなパターンに小さいときから出くわす機会があったというのは、とてもよかった。私は、親というのは背中で教えるものだと思うんですよ。知識は口で教えられるけれども、知恵は背中で教えるしかない。” 皇族という「仕事」は、かつての武士や貴族がそうであったように、親類や親の見習いによって覚えていくしかないものだとしたら、彼女は成年皇族として踏み出す重要で微妙な時期(ゼロから百になる時)に最も見習うべき相手を欠いたのが不幸であった。 寛仁殿下も他の皇族も買い物や飲食で町へ出歩くことがあるけれども、“マスコミにしられたらスキャンダルになるようなことはできない”(同上のインタビューより)という自覚や、マスコミにばれないような場所の選択があったのに加え、スキャンダルにならなかったのは、外に漏れる経路や環境を絞れた時代の恩恵もあったと思う。 不幸が重なったのだ。 さらに、どちらとも言えないが留意するべき点として、海外の王室との比較。 イギリスの王室スキャンダルがすぐに思い浮かぶかもしれない。 近年の皇太子の不倫や王子の麻薬問題・ナチの制服問題などから、古くは皇太子の未成年時代の飲酒逮捕事件など。 海外の王室のメンバーにはスキャンダルがある。 しかし、それを単純に日本の皇室の比較例とするには疑問がある。 日本の皇室は海外の王室とは違い、聖域、宗教性がある。 イギリス王室は国教会の守護者なので宗教性が無いわけではないが、日本の皇室は宗教祭祀の主催をする存在(法的には天皇の私的行為、ただし予算的には曖昧な処理)であり、純然たる宗教性を有する点でまったく異なる。 この聖俗の相違点を無視しての比較は無意味。 (6)彼女の放射した力、問いかけるもの (5)の最後にふれた点から考えると、日本の「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の問題に触れざるを得ない。 つまり、日本の「公(おおやけ)」とは天皇家という「私(わたくし)」の大きな家である、と同時に「公」の文字を媒介にして、大きな「私(わたくし)」を「公(こう)」としている矛盾。 中国由来の「公(こう)」とは自然の理のような「私(わたくし)」を超越した普遍的絶対的倫理を指し(公平の「公」など)、日本では中世から見られるような「天道」の思想によく現れる。普遍的絶対的倫理たる「公(こう)」は近代国家の理念と親和し、大きな「私(わたくし)」としての「公(おおやけ)」とは矛盾する。 (端的にいえば、「公(こう)」は不正な為政者への革命を認めるが、「公(おおやけ)」は天皇の名による討伐しかできないことに違いがある。両者は同じ字であらわされるために混同される。例として「滅私奉公」があり、これは本来「公(こう)」という普遍的倫理を無私に実現することだが、日本では森喜朗が自分の所属のために行為する時に使っている) 天皇家・皇族というのは聖域として、“不可視性の可視的な形”を採り、近代国家(「公(こう)」)の中心で(by森喜朗)、近代国家の無茶(「公(おおやけ)」)を支えている。球体を布で包んだときに寄ったしわを臍のような穴(空虚)で吸収するように。 しかし、そこにあるのは勿論、生身の人間達であり、痛みもすれば憂鬱にもなる。 それでも “手術の途中に、私が、「痛みはございませんか」と、お聞きすると、かえって、「痛いとはどういうことか」というご返事。 麻酔の効いている手術中はともかくとして、局所麻酔の注射自体は相当に痛いものである。そのときも表情一つ、お変えにならない。” 『天皇さま お脈拝見』元侍医 杉森昌雄著(新潮文庫) 天子は民の幸福を祈る無私の存在であり、私的感情を表に表すことは戒められている。 実のある人間が“空虚”を“不可視性の可視的な形”を演じることで支える。 私-日本国民-はそれ(“空虚”)を彼女に要求する正当性があるのだろうか。 法的(つまり近代国家)には、彼女が聖性を担うのは彼女の家(天皇家・皇室)の事情でしかない。 だから、法的には彼女に聖性を根拠としたふるまいを要求することはできない。 税金という法的根拠で、彼女にそれを要求できない。 また、前近代的思想の立場から求めるならば、俗人たる国民が聖なる方に税金などを持ち出して要求することは不敬の極み。 しかし、その聖性を無くしたとき、国民からの聖性への要求を断ったとき、天皇制はあり得るのだろうかが疑問となる。 (5)で述べた、非難と擁護の二点について言えば、単純な税金支出の問題でしかない。 そこらの代議士が政務調査費などを使って料亭で芸者遊びをしたことと同じ程度の単純な問題。 しかし、彼女に関しては、そんな単純なことだろうか。 「税金返せ」という単純な話で済むのだろうか。 どうしても聖性の問題、聖性保持の問題(ふるまいの問題)がある、無意識的な期待が批判によって表明されているように私には思える。 そして、それが「二十歳のフツーの女の子なんだから」という擁護でも「税金でけしからん」という非難でも収まりきれずに残るものとしてある。 「フツーの」や「税金で」と口にして、収まりきれないものを無視すれば、それこそ空虚だ。 * “-最後に伺いますが、百何代続いたお家に生まれたことをいまどんなふうにお考えですか。 高円宮 ここで終わらせたらいけないと思うんですが、男の子がいないもんで困っているんだけれどもね(笑)。ここで終わらせてはいけないんですね。逆に日本国民が必要としなければ、いますぐ終わったってかまわない。私はそう思っているんですよ。” 悠仁親王の御誕生で、皇室が消滅することは当分の間なくなった。 しかし、典範が変わらなければ、内親王、女王は婚姻により皇籍を離れ、宮家は全てなくなる。 そして、悠仁親王が天皇に即位後、親王・内親王を授からなければ、皇室はなくなる。 皇室を支えてるのは、国民なのだろうか。 確かにそうだろう。 しかし、皇族が担ってきた(耐えてきた)事実性がなくなれば、国民がいくら望もうと存在しないのも事実。 「こんな役回りは御免だ」と、さっさと皆が出て行けば終わり。 そして、「こんな役回り」こそ、近代国家日本の「公」と「私」の矛盾を抱えてきた“空虚な中心”に他ならない。 典範を変えて高円宮を承子殿下が相続できるように変えても、殿下を皇籍離脱した旧宮家の男子と一緒にさせて宮家を継がせようとしても、彼女が否だといえば終わる。 その事実を前に、「二十歳のフツーの女の子」と言う擁護も「税金で」の非難も終わる。 もちろん、国民が必要としないとうならば、それで終わっても構わない。 聖性の期待を投射できない皇室はいらないと国民が言うか、聖性を期待された皇族が役割を降りるか。 どちらにせよ、根拠ない唯の事実の積み重ねが皇室の歴史だった。 それがこの先も続くのか。続けたいのか。続けられるのか。 彼女が“空虚な中心”から遠く離れたイギリスから“放射”した“力”が問い示すのはそういうことなのだと、私は思う。 < 前のページ次のページ >
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