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茶道とゲリラと安倍晋三


 “茶道は日常行為が規範化され様式化された時、それがもつ本来の日常性を形骸化する危険性を有していたといえよう。
 しかし逆に言って、作動におけるそうした形式性を否定してしまうと、茶道はたちまち日常に還元し埋没して、その存在の根拠そのものをみずから否定することになる。つまり茶道とは、日常生活にも続く営為であるがゆえに、その日常性をいったん否定し、そこから乖離しなければ成立しないのである。だからそれは一種の「虚構」といってもよい。”
            『千利休』(講談社学術文庫)村井康彦

 
 ロイター:茶道とゲリラとフランス人 
 http://today.reuters.co.jp/tv/videoChannel.aspx?storyId=3f8feb3cee76d93b3e002964496edd3f0b0fb9f6


 都市の路上から砂漠まで、そこに組み立てられた即席茶室が置かれると、日常と「虚構」の日常が出会う。
 「虚構」の日常に出会うことで、日常は自らの日常性を突きつけられる。
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 日常に出会うことで、「虚構」の日常は、自らの「虚構」性と同時に、日常性をも突きつけられる。
 
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 ただ茶を飲むという行いを芸術とした茶道は、その確立とほぼ同時に権力者たちによる政治資源化と芸術行為としてのあり方により、絶えずその否定し得ない本質である日常性を脅かされてきた。 
 ピエール・セルネの「ゲリラ ティー」は、日常性の反撃にして芸術の挑戦という、茶道内部での二律背反のエネルギーを活かした素晴らしい表現に思える。
 
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 “世間一般の常識によってなにかをやるというのは、あまり個人の責任が追及されません。みんながやっていることで、自分はその他大勢の類なわけです。法が規範になっている場合でも同じで、法に基づくといううしろ盾が行為の安全弁となっています。問題が生じても法に訴えるという切り札をちらつかせることができます。しかし美的行為は、なにかに守られているという保証がどこにもありません。いつも危険と隣り合わせの状態です。”
           『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)森村泰昌著

 
 芸術家は一人の感性と創造に賭け、表現によっていかなる強力な他者や異者の思惑を超えゆかなければならない。
 だから、ゲリラ(非正規)は芸術にとっては正統な手法となる。


 “ある年、利休の庭に朝顔が花盛りと聞いた秀吉が、それを所望して訪れた。ところが庭に朝顔はひとつも見当たらない。不思議に思って茶室に入ると、床の間にただ一輪、葉をつけていけてあった。”(『千利休』)

 美は一振りの刀も一発の銃弾もなく、後ろ盾も保証もなく、専制的権力者の権威さえ下す。
 それが天才の為した業ならば。
 

 時の為政者が「美」を持ち出したら、問わなければならない。
 彼は天才なのか。

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 「美」は天才の賭け。
 もし天才でなければ、醜態の一人芝居。
 そして為政者の場合、一人芝居では済まない。





ピエール・セルネの作品集
http://www.paulrodgers9w.com/artists/p_sernet/ps_addwork/tseries.html
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by sleepless_night | 2006-12-04 21:07 | その他

悲しいお知らせ。

 いじめには理由がある。

 
 “協力・助け合いの重要性を実感してもらうため体育の時間に「30人31脚」を行うことなどを提唱している”
 朝日新聞:教育再生会議「心の成長」策提唱
 http://www.asahi.com/edu/news/TKY200611290420.html

 30人の生徒が足首を紐で結び合わせて走る競技を取り入れる。
 そのクラスでいじめの種子、たとえば「臭う」「汗っかきでキモイ」などから「なんとなくウザイ」「ノリがわるい」などの認識を特定の一生徒が複数の生徒達から持たれる、があったとする。
 そこで、30人が足首を結び合わせて走ったとき、何が起きるだろう。
 
               *

 “共同体型の学校では、ネズミや鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると、通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験をわざわざ税金をどぶに捨てながらやっているようなものです。”
     『学校が自由になる日』(雲母書房)「学校リベラリスト宣言」内藤朝雄著
                 
 内藤朝雄(明治学院大助教授・社会学)さんは、いじめの発生を以下のように分析します。
 いじめは、全人的関わり合いを強制される聖域化された閉鎖集団内で、その場のノリ(みんなの気持ち)が規範の順拠点とされ、利益につながる場合に機能する。
 聖域化された閉鎖集団であるため、「人を殴ったら逮捕される」という市民社会の常識は通用せずに、集団内部の論理が市民社会の論理に優先される。
 集団内部では対人距離の調整(嫌な人と離れる)が許されず濃密な関わり合いを強制させられ、その「われわれ」が「いま・ここ」でのノリによって集団内部の秩序を作る。
 「生徒らしい生徒に慕われる」権力者たることをアイデンティティとする教師による保身と昇進を賭けた無意味で些末な校則の徹底される学校で生徒同士が全人的な関わり合いを強制される憎悪や鬱屈を、「いま・ここ」でのノリで誰かをいじめる遊びでの解消という利益が得られる。
 こうして、「楽しくて得になる」いじめという“「自分たちなり」のノリの秩序に従いながらノリをうみだす、きわめて重要な祭政一致の営為(カミ事)”が成立する。
 逃げ場なく全人的関係を強制される場所の秩序を創る神聖な行いに逆らうことは許されない。
 だから
 “いじめをやめさせようとして開いた学級会は、おうおうにして、被害者の欠点をあげつらう吊るし上げの祭り”となり、“女子であれば「なかよくできなくてごめんなさい」と泣いたりします。学校の弱者は「みんなとうまくやっていけるように自分の性格を変えなければ」と思います。”

               *

 運悪くその一生徒のリズム感覚が悪かった時、何が起きるのだろう。
 ただでさえつまらない学校・授業・教師が、そろえることすら無茶な30人の挙動の同一化を強制したとき、教師と生徒の苛立ちは、何を引き起こすのだろう。 

 ひとりが足を引っ張る。
 いっしょに引きずられて周りがこける。
 練習がうまくいかずに長引く。
 何度やってもそろわず、集中力は時間とともに低下し、失敗と延長の循環が始まる。
 足を引っ張るのは、ノリが悪い奴だ。
 その人間と紐で繋がれて、何の興味もない疲れることをやらされている。

 
 だれかが死んだとしよう。
 「悲しいお知らせ」を体育館でする校長。 

 “ある生徒が自殺した場合には、親友や恋人などの心理的に強い影響を受ける可能性のある生徒に個別に会って自殺の事実を伝えます。生徒たちの反応をよく把握するためにホームルームなどの小さなグループで伝えるべきで、講堂に全校生徒を集めて一斉に伝えたり、「死ぬな」「命を粗末にするな」などと一方的に檄を飛ばすのはかえって危険です。”
                『自殺の心理学』(講談社現代新書)高橋祥友著


 生徒を守りたいのか、殺したいのか、私には本当に分からない。

 最も教育をいじらせてはならない人間たちにやりたい放題させてしまった、その力を与えてしまったことを、未来の子供たちに何と言い訳できるだろう。
 恥ずかしさを通り越し、悲しみとしか言いようのない知らせが、次々と現れて止め処なく現実を動かそうとしている。




その場のノリが秩序を作る基準となること
   『空気の研究』山本七平著について血液型占いに反論するとモテないのか? part3

 内藤朝雄さんのブログ
 http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/
 
 
 
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by sleepless_night | 2006-12-01 20:37 | その他

いわんや生徒をや。

 

 “ある支援者から国語の教員になりたいという学生がいるので、面倒をみてくれないかとの陳情を受けた。学生は運良く教員採用試験にも合格し、わが先生の紹介を受けて晴れて教員に内定。さっそく長崎屋のカステラだったかをぶら下げて、事務所にお礼にやってきたりもした。
 と、ここまではよかったのだが、それからしばらくして当の学生が真剣な顔をして、再び事務所にやってきた。「どうしても単位が取れなくて、卒業できない」というのである。教員免許は卒業証明書と同時に発行される。当たり前の話だが卒業は最低条件だ。そこで、
 「困った奴だ、いったい何の単位がとれないんだ」
 と聞くと、国語教育法だという。こいつはあきれた学生だ。国語の先生になろうという者が国語教育の単位が取れないというのだから…。さすがに腹が立った私は、
 「英語やら数学の単位が取れないというんならわかるが、国語がダメというのはどういうことだ。そんなことは自分でなんとかしろっ!!」
 と怒鳴りつけてはみたものの、有力な支援者からの依頼ということになると無下に扱うわけにもいかない。結局、私が大学に説明に出向いて、なんとかかんとか卒業の基準を満たすよう、拝み倒したのだった。
 それにしても、国語教育法の単位も満足に取れないで国語の先生になったんだから、教わるほうの生徒はたまったものではありませんな。私にしてもこの件を思い出すと、その学校の生徒たちのことに思いがいたり、いまだに良心がチクチク痛んでいけない。だって、この先生から通知表で5をもらっても、本当に実力があるのか、わかったものではないんですから。”

                  

    『代議士秘書』講談社文庫 飯島勲(小泉純一郎 政策担当秘書)著
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by sleepless_night | 2006-11-29 00:58 | その他

教育を、もっと教育を!


 “今こそ徹底的な教育を施して、一から叩き直さなければ。
  誰をって?決まっているじゃない。大人を、だ。”

 “特に「心の教育」みたいなものを強化したいなら、明らかに大人のほうが順番として先だろう。”
    H-Yamaguchi.net 
    (http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/12019621)


 基本的には賛成です。

 “教育とは、社会を映す鏡であり、またその反映にすぎない。教育は社会を模倣し、それを縮図的に再現しているのであって、社会を創造するものではない。国民自身が健全な状態にあるとき、はじめて教育も健全なものとなるが、それはまた国民と共に腐敗するものであって、自力で変化することはできないのである。もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。”とE・ディルケムも述べたのと同じことです。

 問題は子供ではなく、大人であり、大人の社会にあると考えるべきでしょう。

 しかし

 “子供たちの「幹」を作り上げるものの多くが由来するのは、学校教育ではない。子供たちが最も多くのことを学ぶのは、学校ではない。
 家庭だ。
 なにをいまさら、と言う人も多いだろうが、この点は何度強調しても強調しすぎることはないと思う。”
 “特に「心の教育」みたいなものを強化したいなら、明らかに大人のほうが順番としても先だろう。”

 この部分を「トンデモな精神主義とスポ根政策をまず言いだしっぺがやってみせろよ」や「大人が教育を受けられる余裕ある社会をつくれよ」といった話の導入ではなく、文字通りに受け取ってしまうとかなり危険だと考えます。

 
 第一に、徴農・強制ボランティアで若者を鍛えたがっている人たち自身に実際やらせてみた時に、「イキイキ」してしまう危険性です。
 つまり、農業・その他の肉体労働でも、決められた短期間でかつ、その後にそれに見合う利益が受け取れるポジションが維持・用意されているなら「苦しくても楽しい思い出」になってしまい、自分たち自らが経験したという想いが込められて暴走する可能性が考えられるのです。
 もちろん、彼ら・彼女らが想定するような効果-自発的で従順な若者たちの育成-は上がりません。
 “それに見合う利益が受け取れるポジション”が用意されていないからです。
 しかし、彼ら・彼女らは「自分たちはこんなにも素晴らしいのに」との想い(込み)から、「教育を、もっと教育を!」と方向性自体の誤りを考えずに突き進んでしまう(徴兵)でしょう。

 第二に、“学校ではない。家庭だ。”はこれ以上ないほど、(彼ら・彼女らにとって)おいしそうなフレーズです。狙いの本丸、大人たち(つまり、有権者たち)の自発的服従訓練を行えます。 
 “美しい国”とは、与党自民党の言うことに従順な「男らしい」男と「女らしい」女が結婚して子供を2.08人以上生み、自発的に与党自民党に票と金と命を美しく捧げる「子供らしい」子どもを育て、世襲議員たちがそれらに美しい涙を流す国です。
 “学校ではない。家庭だ”
 学校教育への微細な介入で飽き足らなくなった後に、この素敵なフレーズが使われてしまうでしょう。なにせ、育児・教育の中心が家庭であることは間違いが無いのですから、学校から家庭へという流れは非常に説得的になされてしまう、子供をネタにして学校を通じた大人(親)への行政的(与党的)教育ができます。
 夢のような「有権者教育」です。

 第三に、第一・第二と関連して、そもそも問題とする「家庭」の「教育」がある(在り得る)位置を考え直さないまま、脅迫的になっている現状を悪化させる危険があります。

 “そもそも、現代の青少年のしつけが問題視される際に、しばしば持ち出されるレトリックは、「昔はしつけがしっかりしていた」というものである。しかし、はたして昔はそんなにハッピーな状態だったのだろうか。”
       『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)
 
 広田照幸(東大院教授・教育社会学)は、「昔は…」と語られるものは実際にどうだったのかを検証しこの以下のように述べます。

 まず、江戸から明治時代の人口の八割を占めた農民では、家庭で意識的に教育されるのは家業である農業についてであって、それ以外の基本的生活習慣や公衆道徳についてはされなかった。家庭(親)の関心は生産に向いていて、子供が関心の上位にはなかった。農村の子供たちは子供組・若者組といった年代別の集団に属することによって村内の道徳やしきたりをみにつけていた。
 明治時代に始まった学校制度に対しては、金を払って働き手を奪われ、役に立たないことを教えられる場所というネガティブな反応があったが、それ以前に、親は子供が何をしようと関心の中心にはなかったし、子ども自身も自分の将来に学校が関係するとは認識されていなかった。
 都市部でも、人口の多数を占める下層労働者は夫婦共に働いていたので、子供は小遣いを渡しされて外に出しおかれた。またそれ以前に、農村に「家庭」がなかったように、長屋なども外界との仕切りが弱い住居で、「家庭」という区切りが意識されなかった。
 大正時代に入り、既婚女性の出生数が一気に減少(約5人→約3人)になり、都市部で官僚や医師などの教育を受けた富裕層が出現すると、教育の対象としての子供が意識されるようになる。
 都市部で、夫の給料で生活する人々は、それ以前・以外の人々と異なり、「家庭」の外からのしきたりや規範(村や親族のしばり)から隔離された自由な教育をするようになる。
 つまり、ここで教育の主体としての「家庭」が生まれた。
 夫の給料によって生活できる「家庭」は大正中期から昭和初期には会社員、教員、工場労働者へと徐々に(だいたい人口の二割弱まで。同時期に出生数も約3人→約2人と減少)広まっていった。
 ただし、昭和初期でも人口の半数は農民であり、都市部でも下層の生活者は共稼ぎであったので、子供の教育が関心の中心とはならなかった(学校で習うことは役に立たない)。
 この二層構造が崩れたのは戦後高度成長。
 農家の長男以外が都市部で働ける、しかも農家をやるよりも安定して高給を取れる時代。
 そこで、それまで「学校=役に立たない場所」だったのが、「学校=村の外、都会の職場への入り口」となった。この時期の学校は、「人生の決定機関」として絶大な権力と権威を持った。
 農業人口は20年間で一千万人減り、専業農家はそれまでの三分の一以下に減った。
 70年代、高校進学率が9割に達する。
 すると、学校の意味が変化する。それまで、生活(人生)の上昇手段、(都会に適合する)啓蒙的な知識の伝え手だった学校が、時代に遅れた場所、受験敗者の生産場へと変化した。
 戦前まで約2割程度しかなかった教育主体としての「家庭」は、高度成長を経て、ほぼ全ての「家庭」に及んだ。
 
 現代日本は、歴史上初めて、「家庭」が教育の中心的で唯一の担い手・責任者となった時代。

 そこでは、大正時代、教育の主体としての「家庭」が出現して以来続いている、矛盾した三つの教育方針(童心主義:教育以前の生来の純真無垢さ、厳格主義:未教育な子供の野放図さを否定、学歴主義:教育は立身出世の手段)が葛藤する。
子供らしい自由な発想や感情を大切にしたいし、かといって、それが自分(親)の望む範囲を外れられては困る。なんだかんだ言っても、勉強や一芸に秀でて出世してもらいたい、と。
 「家庭」(夫が働いている給料で暮らせるため、要は専業主婦たる母親)が教育の中心で唯一の責任を持っているため、子供の全ての管理を期待され、その結果を帰される。
 しかも、高度成長時代の中流幻想で覆い隠されて存続している階層や地域の違いを無視されて、「最近の親・子供は…、昔は…」と時代で語られる。

 広田照幸さんの教育する主体としての「家庭」分析に加えて述べれば、今私たちが思い浮かべる「家庭」自体が大正時代以降の一部で始まった特殊な存在であるのにもかかわらず、それが普遍的な「家庭」であるかのような言説。
 さらには、その「家庭」が昔は大家族(複数世代が同居)だったという誤解との複合。
 実際は、江戸中期から家族の中心は核家族(だいたいは5人以下の家族)であり、家という意識よりも一族や一村という意識が強く(繰り返しますが人口の大半が苗字の無い農民)、そこに家父長といった指導的で厳格な存在はいなかったし、堅固だと想像される武家でも離婚率は10%と流動的だった。
 明治時代に、それまでの一族・一村といった意識にはそぐわない一家という存在を民法で規定し、地縁血縁からバラバラ(になれるよう)にして行政の統治と直接に結びつけ、さらに家の移動性から産業社会へ対応しやすくした。
 その歴史的な事実を忘れて、一億総武士意識、日本人=サムライ・武士道と夢想する。 
 「家庭」・「教育」の内容を問わず、公定ナショナリズムの夢想に浸った頭でありもしなかった昔を規準に「家庭」「教育」を語られる。
 
 それに煽動・脅迫されて作り出された流れに飲み込まれてしまう。
 教育への熱心さ・専心さが、教育への不安を作っているのに、気付かずに不安の自家発電を続け・増加してしまう。



 ともあれ、今日、この三つの(特に第二と第三)を現実化する危険性が最も高い時代が始まったわけです。


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追記:KawazuKiyoshiさんのコメントを受け、「教育」と「しつけ」という言葉に関して。

広田照幸著『日本人のしつけは衰退したか』では 
 “基本的生活習慣がきちんとみについていること”や“挨拶ができたり、電車でお年寄りに関を譲ったりするするなどの、公の場での社交技術、すなわち礼儀作法や公衆道徳”を“狭義の意味での「しつけ」”。
 “「望ましい(とされる)人間をつくろうとする、子供に対する外部からの作用全体」を広義の意味”の「しつけ」と定義しています。
 広義の「しつけ」は、近現代において学校教育・塾やおけいこなどを当然含みますし、同著でも「しつけ」ではなく教育と同意で使ってある(近現代に関しては「しつけ」ではなく「教育」が用いられる)と解されます。
 
 私は上記記事で現代の教育言説に対するものとして、「しつけ」はなく「教育」と意図的に統一しました。
 それは、近現代に関しては置き換えても問題ないと判断したのに加えて、「しつけ」と使ってしまうと狭義のみを指していると誤認されるおそれがあると考えたからです。
 




 

 
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by sleepless_night | 2006-09-27 01:25 | その他

新総裁へ、総統から。



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安倍晋三 総裁へ

 君の本を立ち読みさせてもらった。
 松岡洋右・岸信介という偉大な政治家につながる君が、民族の誇りを取り戻すためにヴェルサイユ体制と闘った私のように、闘うことを心強く思っている。
 私への評価を「歴史家に任せる」べきだと訴え、ドイツで私の著書解禁を働きかけて欲しい。
 美しい国のために、汚らわしい者達を抹殺した私の感性を君なら共感してくれるだろう。
 印税が入ったら君の本を買おう(eブックオフで)。

 私たちの思想を確認しよう。

 
 “民族主義国家においては、このように軍隊はもはや各人に進めや、とまれを伝えるのではなく、祖国的教育の最後、最高の学校とみなされる。”
 “兵役を終えた後に、かれには二種類の証書を交付すべきである。すなわち、かれに爾後、公的な活動を許す権利許可証としての国家市民証と、結婚のため肉体的に健全たることを確認する健康証明書がそれである。
 少年の教育と同じように、民族主義的国家は少女の教育を同じ視点から行うことができる。そこでも、まず第一に肉体的訓練に重点を置くべきである。女子教育の不動の目標は、将来の母たるべきとこである。”

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 “民族主義国家は学問においても、国民の誇りを助長するための手段を認識しなければならない。世界史のみならず、全文化史もこの視点から教えられねばならない。発明者は発明者として偉大に思われるだけではなく、また民族同胞としてさらにもっと偉大に思われなければならないのだ。すべての偉大な行為への賛美の念は、自分の民族の一員としてのその幸福な完成者への誇りに鋳直されなければならない。だがドイツ史の偉大な多数の名前の中から最も偉大なものを選択し、そして青少年にそれらがゆるぎなき国民感情の柱石となるようう印象深くうつしだすべきである。
 教材はこの観点にしたがって、計画的に組織されねばならず、教育は、若人が学校を卒業するときに、なまはんかな平和主義者や民主主義者、あるいはその他いいかげんなものではなく、一人の完全なドイツ人であるよう計画的に形成されなければならない。
 この国民感情がはじめから純粋であって、単に空虚なみせかけでないようにするために、青少年のころに、鉄のような原則が、まだ教育を受け付ける能力のあるあたまにたたきこまれなければならない。すなわち、自分の民族を愛するものは、民族のために喜んで身をささげる犠牲によってのみ、それを実証するのである。”
 

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 “世界大戦に対する政治的準備や技術的軍備は、わが民族の教養のすくない頭脳の持ち主が統治していたからで無く、むしろ知識と精神はいっぱいつめられているが、健全な本能に欠け、エネルギーと大胆さにかけていた、教育のありすぎる人が統治者であったため、不足していたのだ。”

 
 君に教育がありすぎるか心配することだけはなさそうだ。
 困ったら、彼もいるしね。
 
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追伸

 君は発音が不明瞭なのに早口で、その上、言葉の間を空けすぎている。
 ゆっくり話すことを、間を空けることだとを誤解しているのだろう。
 “重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人になるまで思い浮かべることができるように継続して行われなければならない”
 “すべての問題に対する原則的に主観的一方的な態度”
 という重要な宣伝の原則が、君のメリハリの無い話方では維持できない。
 かえって、語彙の貧弱さと内容の無さが強調されてしまう。
 もちろん、テレビならば編集を使ってどうにでもできるが。
 
 私のような演説の天才でさえ、訓練を重ねたのだ。
 君も「国民的人気」を維持できるように頑張れ。


 好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神

 
 
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by sleepless_night | 2006-09-20 22:44 | その他

「ばらばらにされた一人一人」にできること。

“「ばらばらにされた一人一人」を結ぶことの本の一端が、この僕にもできるのだろうか。できないかもしれない。できないかもしれないが、もしその一人人が苦しんでいると知れば、救うことは出来なくても、せめて「ばらばらに苦しむのはやめよう」と呼びかけることくらいは、自分にも出来るかもしれない。不安に一人で震えていれば、せめて「ばらばらに不安になるのはやめようと呼びかけることも出来るかもしれない。”
            BigBang http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/7914949

 「ばらばらにされた一人一人」が「ばらばらに苦しむのをやめる」こと、どのような形で「ばらばら」から新しい繋がりを作ってゆくのかは、今年、これから数年における日本の最大の課題となるでしょう。
 ただ、そこで注意しなくてはならないこと、気がかりなことは、「ばらばら」であることを止めるのではなく、「一人」であることを止めてしまうこと、その可能性です。

 『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論ご質問への応え。で触れたエーリッヒ・フロムは代表作『自由からの逃走』(河出書房 日高六郎訳)で、ナチス・ドイツが成立した背景を労働者階級とブルジョアジーの政治への諦めと下層中産階級の熱狂的な支持・共感であると分析し、以下の様に考えました。(※)
 “強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちくさいこと、そして本質的には禁欲主義ということである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては穿さく好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化してきた。かれらの全生活は心理的にも経済的にも欠乏の原理にもとづいていた。”という特徴の下層中産階級は、君主制の崩壊と第一次大戦の敗戦によって引き起こされた経済的困窮と社会的威信の喪失から、心理的な支えを失い、“不安とそこから生ずる憎悪”を持ち、“恐慌の状態におちいり、無力な人間を支配しようとする渇望と、隷属しようとする渇望でいっぱいになった。”
 このドイツの下層中産階級の心理は、近代以降の資本主義勃興におけると都市中産階級の心理である。
 中世以前、教会や身分制度によって“個性はかけているが、安心感と方向付けが与えられている”社会(一次的絆)に生きていた人間は、近代に入ると“みずからに方向をあたえ、世界のなかに足をおろし、安定をみつけださねければならな”くなる。
 教会や身分制度から自由になった人間は、自由のもたらす二つの側面にさらされる。
 ひとつは、自分の意思と能力によって自己を自由に成長させることができる側面、もうひとつは、圧倒的な力をもつ外界からの脅威と危険と孤独感の側面。
 それを前にして二つの選択肢が与えられる、ひとつは自由な独立した人間としての自発的で積極的な連帯を求めること、もうひとつは“個性を投げ捨てて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服”しようとすること。
 近代産業社会は、自由のもたらす無力感・孤独感を増大させた。
 この無力感と孤独感から逃れるために、自由から逃避しようとする傾向が生じる。
 自由からの逃避は、権威主義と機械的画一化というメカニズムを持つ。
 権威主義はマゾヒズムのような自分の徹底的な無価値・無力化によって自分外の圧倒的な何かに服従する傾向(“ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることで、ひとはその栄光にあずかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ、それの持つすべての力や誇りを投げ捨てて、個人としての統一性を失い、自由を打ち捨てる。しかし、かれは、かれが没入した力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りを獲得する。”)と、サディズムのように絶対的で無制限の権力で他者を支配し搾取し苦しめようとする傾向がある。サディズム傾向は一見、逃避のように見えないが、被支配者を必要とし、被支配者との支配関係によって自己から逃避していると考えられる。
 機械的画一化は“文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを、完全に受け入れる。そいてほかのすべての人々とまったく同じような、またほかのひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える”こと。
 この自由からの逃避がナチス・ドイツであり、その狂気を普通の人々が支えた原因である。

  江戸時代は藩が、明治から昭和の敗戦にかけては天皇とその臣民という壮大な家族幻想が、敗戦から80年台までは会社組織(もしくは、経済復興・経済大国のもたらす目に見える富の増大への共通した期待)が、日本では一次的絆として作用していたと解釈すると、ここ数年は日本人が初めて自由の持つ二面性に直面している時期だと言えます。
 一方では「行き過ぎた自由(個人主義)」への批判が、一方では不透明で非公式な障壁への批判があります。(※1)
 フロムの見解からすれば、両方は自由の二面性への反応だと考えられます。

 もちろん、自由を前にしていかなる選択をしようと、ナチス・ドイツが行ったような虐殺や迫害、侵略を日本(人)がこれから、することはないし、出来もしないでしょう。
 しかし、「ばらばら」である不安や苦しみの解消を「一人」であることの放棄、個人であることの消失、即ち、自由からの逃走によって果たそうとすることは、十分にあり得ることです。
 楽ですから。
 
 「一人」の人間であること、個人であることを支えるために、「ばらばら」を止めるにはどのような仕組みがあるのか、人と人の絆となりうる資源がどれほど残されているのか。
 漠然とした方向は様々に示されていますが、はっきりと施策できる次元のものを私は知りません。
 フロムが批判した産業社会の弊は消えるどころか、増大する一方ですし、代替できる社会もないに等しいと考えるのが今のところ適当でしょう。
 
 その中で、一人の人間にできることは踏みとどまる(ろうとする)ことだけかもしれません。
 諦めの自失と狂騒への誘惑に踏みとどまって、漠然とした絆の萌芽が弱弱しくも立ち上がり、絆としての使用に耐えるだけに発展する過程の不確かさを前に耐えること。
 分かりやすい輝きのない先へ向かって進む「ばらばらにされた一人一人」が「一人」に(で)どれだけ耐えられるのか。
 その答えがこれから先がどこになるのかの決め手になると、私には思えます。
 

※)ナチスは都市の新旧の中間層を中心として運動であり、それまでの棄権者と新しい有権者が最大(約半数)である点、政権獲得に際しては一部銀行家や重工業資本家などの伝統的支配者層の協力が不可欠であり、その大半が不承不承や便乗的な協力であった点ではフロムの分析は正しいといえる。しかし、ナチスの支配者層の多数派は下層中産階級ではなく上層中産階級であり、ナチスの運動自体も発展の局面によって内容が異なる点ではフロムの分析は当てはまらない。『ナチ・エリート』(中公新書)山口定著
※1)「行き過ぎた~」への批判は、何にせよ「行き過ぎ」は批判対象になるので「~」自体の批判として持ち出すことは適切ではなく、批判になっていないとも言い得る。

  
 
 
 
 
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by sleepless_night | 2006-01-09 23:28 | その他

個人的な総括。

 元はと言えば、選挙におけるメディアの問題について触れたことだったのですが、そのままズルズルと引きずってしまいました。
 なので、解毒のための総括として以下を書きました。

 メモのような形式ですので、味気ない文章です。

 まず、投票動機は人によって様々であり、何を重点に、どの位の理解の深度で投票したかも人それぞれであることは言うまでもない。

 そこで、選挙期間中に記した、『民主党は日本をあきらめてはいかが?』で示した、認知的不協和の観点から、選挙の意義をまとめてみる。

 まず、簡単に振り返ってみると。

 認知的不協和とは二つの認知が不一致・矛盾によって両立しない状態を指し、人間はこれを解消しようとする傾向があると言うのが認知的不協和理論の示す内容。
 そしてこの理論を実際に応用するために重要なことはコミットメントであること。
 つまり、コミット(結果形成に参与させること)によって、認知の不協和を明確に意識させることが必要になる。

 私見から考えると、小泉さんの戦略は有権者に認知的不協和を生じさせる戦略。
 つまり
 認知A:郵政民営化を持論とする小泉を支持して首相にした。
 認知B:郵政で解散した小泉を支持しない。
 この認知ABは両立しない上、認知Aについては有権者が重要なコミットをした。
 特に、“約束”や同じ写真を使うことでこのコミットメントの記憶を喚起させた。
 これによって、投票動機に一定の影響を及ぼすことができると考えられる。

 実際にどの程度効果があったかは、もちろん不明。

 しかし、今回の小泉自民党の戦略は、郵政というシングル・イシューの賛否という非常に単純で明確な意思を求めた(それ以外を許さなかった)点にあったことは間違いない。

 この戦略については、メディアを含めて評価は高い(好ましいと評価)とは言えない。
 やり方(戦略)について、容れなさや反発を感じる人も少なからずいた。

 だが、今回の戦略:シングル・イシューの明確な二項対立図式の設定を強く否定できない、メリットがある為に否定して小泉戦略を全否定するべきとは言い切れない点があり、それは少なからず有権者の自民への投票動機に結びついていると考えられる。

 メリット、全否定を拒ませる要因とは、従来の選挙方式の弊害の排除
 つまり、小選挙区制が導入されたのは以下の中選挙区制の弊害を打破するためであったのに、小選挙区制でかえって激化してしまったという弊害を除去する効果が小泉戦略にはあったこと。
 弊害とは
・日本の政党は政党が中心ではなく議員個人が中心であり、議員の互助組織的な色彩が強かったために政党の政策合意が不鮮明だったこと。
・小選挙区制によって政党の力を強くし、政策合意に重点を置くようにしようとしたが、反対に議員個人のネットワークによる選挙が激化して、かえって政党の政策が弱められてしまったこと。そして、これは政党によって候補者が立てられると言うよりも、ネットワーク(後援会)を個人的に形成できる個人が政党の候補者として取り込められてきた日本の選挙のあり方に由来する。
・もともと深刻な社会対立がない日本で後援会を個人的に作るためには、広く無限定なり益集団を取り込まなくてはならず、明確な政策が出せずに人柄による選挙になってしまったこと。そして、議員の投票行動が有権者の投票行動に大きな影響を与えなかった。(今でも、議員の投票行動を公報する媒体がない)
 
 小泉戦略は、郵政民営化法案と言う極めて明確な法案の賛否による候補者選別、それに漏れた人間を容赦なく切り捨て、選挙区に何の縁(個人的ネットワーク)もない人間を投入したことで、この上記の弊害を排除する(少なくとも、そうしたポーズは国民に受け入れられた)メリットがあったと考えられる。

 だからこそ、小泉戦略が全否定できなかった
 有権者も、小泉郵政民営化案に賛成だとは言い切れないにもかかわらず、投票したほうがいいように感じた。(このくらいラディカルな手法をとらないと、変えられないだろうという実感から、許容できた)
 
 しかし、同時に小泉自民党への投票をさせなかったデメリットは何か
 それが、戦略によって目を向けさせられなかった法案の内容

 郵政民営化の目標は財投改革であったはず
 つまり、特殊法人に郵貯・簡保・年金の膨大な資金が旧大蔵省によって自由に突っ込まれては不良債権化するという、国民の資産が非民主的な決定で損なわれることを防ぐ点にあった。
 しかし、2001年にこの仕組みは変わっている。
 以前は、[郵貯・簡保・年金⇒旧大蔵省運用部⇒特殊法人]だった
 現在は、特殊法人は独自に債権を発行してそれを市場で売ることで資金を得る仕組みに変わっている。つまり、構造的には郵貯・簡保・年金の資金は直接に特殊法人に流れないことになっている。
 ところが、特殊法人を支えるのに特殊法人自体が発行する債券だけでは足りずに、国からも資金を入れられている。それが、財投債という国債によってなされている。財投債は年間40兆円発行されている。そして、その国債を買っているのが郵貯・簡保・年金。
 つまり、[郵貯・簡保・年金⇒国債⇒特殊法人]に見かけが変っただけ
 これの流れを郵政民営化で変えることはできそうもない
 理由は二つ。
 民間会社(十年後に郵貯・簡保は完全民営化)になっても、国債を引き受けなくては既に保有している国債の価値を落としてしまう上、兆単位の資金運用先も国債以外に簡単に見つけられない。民間会社であるために、国がその運用を口出しできないため、かえって問題の解決を遠ざける。
 また、根本である特殊法人があり、そこに必要な資金が特殊法人自体で賄えない、特殊法人という天下り先の必要性がある限り、国債発行は止まらない。
 おまけに、株の買い戻しを認めているので、巨大な金融・流通・保険会社という私的独占を生み、かって健全な市場機能を阻害する可能性まである。

 手段と目的とは常に相関関係にある。
 目的が正しければ正しいほど、許される手段はリスクが高くても許容される。
 例えば、おぼれている人を見つけて助けようとした時、自分にロープも船もなければ、その近くにあったり、持ったりしている人から奪うことも許される。
 目的=人命救助と手段=窃盗との間のバランシングの結果、目的の価値が手段の不当さを補う関係が成立している。

 選挙とは、その目的を合意するための手段
 そこで、不当な手法を使うことはかなりの問題がある。
 しかし、シングル・イシューの明確で単純な賛否を設定する以外で、小選挙区制の目的を実効させることが可能かと言えは、今までの状況から考えて、極めて困難であると言わざる得ない。
 したがって、小泉戦略は必ずしも否定されるものではなかった。 
 ところが、その戦略を用いて果たそうとして当の目的たる政策の内容があまりにも穴がありすぎる。言葉の指す内容と、実際の中身が差がありすぎるし、補完的に具体的な法案がなければ有害な面ばかりが表に現れてしまう。
 それを今回主張すると、小泉戦略による二項対立図式に当てはめられてしまう上、本当に既得権益保守の為に反対する人間に誤ったメッセージを送ってしまいかねない。
 即ち、小泉のような人間が出てきても、その時だけうまく使って票を取り、肝心な時になったら潰せば済むということを学習させてしまう。
 また、補完的な政策が採られること可能性もある(一年後に小泉さんが降りるので、可能性は非常に低い)。

 結局、小泉戦略のような二項対立図式に持ち込まないと政策による選択が実現できないが、同時に、その法案自体に問題多いと、政策論を根拠にして法案に反対することも二項対立図式によって阻まれ、法案による選挙という小選挙区制の目的(二項対立を持ち込んだ目的)をかえって害してしまったと言える。

 小泉自民圧勝という結果をどう捉えるにせよ、この過程は通らなくてはならない道なのかもしれなない。
 それは、市場主義の本当の痛みを国民に理解させると言う点もさることながら、具体的法案を備えた政策と投票行動による議員の選択と言うことがどれ程の負担を国民に求めるかを理解させる点でも言える(今回も、郵政以外の政策を考慮に入れた上の選択でなければ、確実に「こんなはずじゃなかった」となる)。


 民主党新代表の前原さんは、ポスト小泉と対決することになるが、前原さんのような攻撃力を競う姿勢では、小泉さんには敵わないだろうし、ポスト小泉であっても与党としての力に対抗できる期待は低いように思う。自民党と同じような力の張りあいをして、自民党に勝てるはずはない。政権保持にかける執念、政権のうまみを知り尽くしている、政権無しには生きてゆけない体の自民党がどれ程の力を見せるかを侮っている。
 管さんの復活は、価値観としての対立軸を持ち出させるだろうが、民主党自体の与党への実現性は低くなったはず。

 行き着くところまで行かないとダメだということ、その流れを加速させるという意義がこの選挙にはあったとだと言えると思われる。
 もしくは、小泉さんを失った自民党も政権から遠くなった民主党も、どちらも内部崩壊して、再編が生じる可能性が出てきた。(ポスト小泉でトップに名前が出ている人が本気で小泉さんの代わりになれると思っているのだろうか?)

 以上、今回の選挙の個人的な総括。

 記事から分かると思いますが、私は小選挙区・比例区ともに民主へ投票しました。
 アメリカの大統領選で民主党ケリー候補へ投票した人が、選挙後に欝や放心状態になったと聞いたときに、大げさだと思いましたが、今回の自民圧勝という結果を見て私も放心気味になりました。
 個々の問題はありますが、根本的に、1000兆もの借金を作った行政を担当した政党がどうして、責任も取らずに延々と政権と言う最大の利権を確保していることを許すのか、なぜ自民党にかくも寛容なのか、私には理解できません。
 60年前、戦争に敗れても、この国は二つの機関的な組織が維持されました。
 官僚組織とメディアです。
 どちらも、そのままに戦後も維持されてきました。
 つまり、責任を取らなかったのです。
 責任を取らせると言うのは、組織の最も基本的で必要なルールのはずです。
 与えられたチャンスやポジションでミスをしたり成果を挙げられない場合には、そのチャンスやポジションを別の人間や組織に渡す。人材や組織の代謝がなければ、ミスを防ぎ、成果をあげるインセンティブが働くことは考えられません。代謝がなければ、内部での融和にのみ視線が向けられ、澱んだ人材や組織となることは避けられないでしょう。
 その二つの組織の上に現在の民主制があり、政党が同じような無責任の構造に組み込まれているように見えます。
 
 選挙のことを洗礼や禊と表現する人がいます
 選挙を経たことで、それ以前の問題や責任が流されてとでも思っているのでしょうか。
 洗礼や禊とは、人間を超えた神などの存在を前提に初めて意味を持ちます。
 選挙とは、最も人間的な営みです。
 神のような人間を超えた存在による赦しや免除の機能など微塵もありません。
 選ぶ人間が間違えば、その間違いはそのまま放置されます。
 神のような引き受け手はおらず、結果はそのままに返ってきます。
 
 あと何年後かは分かりませんが、国家財政が破綻する、つまり、国債を引き受けれる組織も国も無くなると言う状態になったとき、第二の敗戦の焦土からそれを学ばなくてはならない、民主制を血を流して勝ち取った社会が経てきたような混乱や苦しみから学ばなくてはならないのかもしれません。
 もちろん、それは私の単なる感想ですので、この先がどうなるか、自民党政権がどう4年を運営するかなどは分かりません。もしかしたら、驚異的な改革を成し遂げる党になるのかもしれません。経済回復によって税収が増えて、本当に財政問題を解消できるのかもしれません。

 私が民主党に入れたと言うだけのことです。 
 私の選択が間違っていることは十二分にあります。
 だからこそ、民主主義は現実における最善の統治システムだと思います。 

 次回から、元に戻る予定です。




追記・メディアについての雑感) 選挙当日に、自民党のあまりの議席数にテレビの特番を見る気になれなかったのですが、気を取り直してテレビをつけると、古館伊知郎さんが堀江さんと話している中継の場面でした。「金の次は権力ですか」「ホリエモンのロマンが聞きたい」だの「私は(選挙を)するつもりがないんです」だのと、何が彼をあそこまで勘違いさせてしまったのか分かりませんが、テレビを消させるだけの醜さを私は感じました。特番全体があの調子だったら、さぞ酷い番組だったろうと思います。
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by sleepless_night | 2005-09-18 21:25 | その他