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カテゴリ:倫理( 18 )

最も小さい者の一人にしたのは


 “そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」”
            マタイによる福音書25章40節


                 *


 臓器移植法の改訂案・通称A案が参院を賛成138、反対82で通過した。
 A案が改訂臓器移植法として成立したことになる。


 新聞でもテレビでも見た限りでは、従来の要点解説、「改訂によって15歳以下の臓器移植が可能になる」「家族の同意のみで移植可能になる」を変えていない。改訂が何を意味しているのを全く示していない。もしかしたら、提案者の説明や他の記者の解説だけを見聞きして、法案自体を自分で読んでいない記者もいるかもしれない。都議選で自民党が惨敗を喫した興奮で、マスメディアは持ちきりだろうし、臓器移植法の改訂など衆院解散を阻害する一つの要素とくらいにしか思っていないように感じられる。
 テレビのアナウンサーやコメンテーターと呼ばれる人たちはもっと酷い状況だろう。
 印象深かったのは、確かA案が衆院通過した日のNHKの午後7時のニュース。
 番組冒頭で、「臓器移植法が衆議院を通過しました」と伝えるアナウンサーの背後の大きなモニターに子供を移植待機中になくして法改訂運動に携わっていた夫婦(中沢啓一郎・奈美枝さん夫妻)が衆院傍聴席で涙をながしている画像が「臓器移植法」というタイトルを付けて映し出されていたこと。
 NHKが公正中立であることを信じているわけでももちろんないし、ニュースの本編ではドナーとなる側の長期脳死状態にある子供とその家族も紹介されていた。
 しかし、NHKは「臓器移植改訂」というニュースがレシピエントとなる人のものであり、そうであるものとして視聴者に伝えたかったというのは十分に伝わった。
 (この構図は今日のNHK首都圏ニュースでも全く変わらなかった。参院傍聴席には中沢さんご夫妻だけではなく長期脳死のお子さんを亡くされた中村暁美さんもいらしたのに、傍聴席の中沢さんご夫妻しか映していなかった。)
 私の感覚では、これまでもテレビで臓器移植についてとり上げられるのは圧倒的に臓器移植が日本で受けられない「可哀そうな子供」のことだった(募金集めや渡航のニュース)。たまに、臓器不足で途上国で臓器を購入する日本人のニュースやドキュメンタリーも放送していただが、圧倒的に「可哀そうな子供」が臓器移植の世間でのイメージを作ってきた。


 私は積極的意思表示をしないで脳死状態になった人が、「家族・遺族」がいないために、死を判定され、臓器摘出されるということを残酷だと感じる。
 「家族」から何らかの事情で離れた人・のがれた人が、積極的意思表示をしないで脳死状態になると、離れた・のがれたはずの「家族」に死の判定や臓器摘出が左右されることを悲惨だと感じる。
 積極的意思表示をしないで脳死状態になった人と臓器移植を必要とする人が家族にいた時、家族に一方には死を一方には生という決断が迫られることを非道なことだと思う。
 これらは間違いなく、改訂臓器移植法によって生じる事態だ。

 遺体の国の21グラム。   前篇で長々と臓器移植法について書いてみたが、長すぎて読む気が失せるというのが大抵だと思うので、簡単に結論・要旨を記しておく。

●今回の改訂は部分的な変更ではない。法の根本を逆転させている。
 現行法は脳死状態にある患者本人の提供意思が必須だった。これは身体が不可侵であるという原則があり、例外として本人意思による可侵が認められることを意味する。
 改訂法は脳死状態にある患者本人の提供意思は不用になる。これは身体は可侵であるという原則があり、例外として本人の拒絶による不可侵が認められることを意味する。
15歳以下の移植ができるようになるのは、この「本人意思不要」原則のおかげだが、この原則はなにも15歳以下のみに適用されるのではない。日本国民全員の原則になる。そもそも法律に書かれているのは意思表示の問題で、旧臓器移植法にも改訂法にも「15歳」という年齢の制限は書かれていない。

●「脳死は死」を一律に決めるものではない、というA案提出者の説明は間違い。 
 確かに法律が「臓器移植法」なので死一般を定めたものではない。しかし、死を定めた法律はもともとないので、今後、死に関係する法を制定する時は改訂臓器移植法が必ず参照される。法律は単一に存在するわけではなく、関連する法律が整合性をもって一つの現象を生じさせることをA案提出者の説明は無視している。この法律が今後の法制定や医療行政・政策で「脳死は死」ということを前提とした振る舞いを広めることは間違いない。 本気で臓器移植にしか関係がないと言っていたなら、立法者としての能力を疑う。

●親族優先規定は腐っている。
 法の原則が本人意思を不用と変更されたのに、逆に臓器提供先に本人意思を尊重する規定を加えているのは矛盾している。
本人意思を不用とし、家族がいなければ何の歯止めもなく臓器摘出ができるように法の原則を変更しておいて、一方では臓器の提供先まで選択させるのは倒錯でしかないし、レシピエント選択を認めるなら、なぜ家族だけが選択対象なのかもわからない。そもそも医療資源は医療の必要性の観点から配分されるという公正性を著しく害している。

●弱いものを法は救わない。
 繰り返すが、意思表示をしていない人で家族・遺族がいなければ、脳死判定をされて臓器摘出されることになった。
 家族・遺族がいない、というのは家族が何らかの事情で形成できない人、家族から切り離された人・法律が常識語として使った家族の範疇に入らない関係を持っている人を含んでいる(「家族・遺族」というのは法律用語ではない)。
 旧臓器移植法も15歳以下で移植を必要とする子供を救わなかったが、その中でも家族にカネやコネのない子供、家族からケアを受けていない子供は本当に救われていなかった(家族に金があるか、コネをつかって募金活動を展開しなければならなかったのだから、両方ないことのみならず、子供をケアする気がない親の子供は本当に救われていなかった)。これから、そういった子供たちはレシピエントになれるのではなく、ドナーになれるのだ。結局、旧法も改訂法も弱いものを救う法律ではない。



  


 私は98年からドナーカードを持って、臓器提供の意思表示をしてきた。
 家族の署名も入っている。
 しかし、このような法の下で臓器を提供する意思はない。
 
 新しいカードで臓器提供拒否の意思表示をしようと思う。
 だが、カードを持たなければならないことが法に従うことだと思うと腹立たしい。




 


臓器移植関連:救う会の救われない救い


参議院HP:臓器移植法改定案本会議投票結果
 
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by sleepless_night | 2009-07-13 20:13 | 倫理

家族と遺族、臓器移植改正案が示す「常識」からの排除。




 あす参院本会議で採決される予定の臓器移植法の改訂案・通称A案では、本人の臓器提供の意思表示がなくても、“その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき”(A案6条3項1号)には脳死判定ができるし、“遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき”(A案6条1項2号)には臓器摘出ができるとしている。

 しかし、ここで言う“家族”や“遺族”は法律用語ではない。
 誰が家族や遺族なのかが分からない。

 常識的に判断すれば、親兄弟・夫婦・子供は家族や遺族に該当するだろう。
 では、これら全員が承諾する必要があるということなのか。だれか一人でも承諾すればいいのだろうか。

 また、法律的に結婚できないゲイやレズビアンのカップルはこの法律案の家族や遺族に含まれているのだろうか。
 ゲイやレズビアンの人たちの中は親兄弟に受け入れられない・打ち明けられなかったりして親兄弟と音信不通の人だっているだろう。
 もしその人たちが予め意思表示をしていないで脳死状態になったら、だれが承諾や拒否の意思をするのだろう。
 十年以上同居してるパートナーがいても(養子縁組でもしない限り)法律的には何の権利もないのだから、臓器提供に関しても同様なのだろうか。
 最も大切に思っている人の生命に関して、その人を受け入れなかった人たちにゆだねることが生じないだろうか。

 法案の作成や審議において、これらは検討されたのだろうか。








追記)上記エントリの表現について、コメント欄をご覧ください。
 
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by sleepless_night | 2009-07-12 19:26 | 倫理

遺体の国の21グラム。   後編


遺体の国の21グラム。   中編の続き↓

(5)遺体=人体の過剰性
 “新聞の投書であれ文集の随想であれ、篤志家らの文章の特徴は、そこに解剖台がないことである。抽象度の高い言葉でつづられており、「解剖体」や「切り刻む」といった表現は見られない。もしもそれが単に修辞上の特徴ではなく、そのまま篤志家らのもつ世界の表れだったとするならば、篤志家(団体)と解剖学教室とのあいだに横たわる溝は、そうとう深かったといわねばなるまい。遺体の寄贈は、解剖台の近景や解剖体の露骨な数読みが見えないように運ばれていたからこそ行われ得た。そのため、それらが可視化されてしまうと、「篤志」は想像力の基盤を失いかねなかったのだ。”
 香西豊子(日本学術振興会特別研究員、学術博士)さんは、医療・医学への提供を可能にした言説を分析し、今日の移植ネットワークの行き詰まりについて以下のような分析をしている。

 江戸時代の医学である漢方にとって死体は神気が散じた「虚器」であり解剖は不用とされていた。
 1754年の記録上の日本初の解剖である山脇東洋、1771年の杉田玄白、いずれも刑死体を「穢多」が執刀するを見学したものだった。
 刑死体は「御様御用(おためしごよう:刀剣の利鈍の鑑定のために人体を試し切りする)」に供される斬首刑の死罪の男子があてられ、いわば死体をバラバラにする刑の一つとして刑場でなされた。
 明治に医学が西洋医学に制定され医学校が設立されると、解剖の必要が生まれた。
 これにより、刑場ではない場所で解剖する事態が発生する。
 解剖用死体の調達先は東大病院の入院患者で「当人所望之者」「貧民埋葬出来兼候者」があてられることが政府から許可され、1869年に死後解剖を申し出たとされるミキ女が第一号と言われている。
 以降4体ほど「本人の申し出」による死体が出るが、1870年には「刑死者・獄中死者で受取人がない死体」を「平人病死者」でさえ解剖が許されているのだからと供給を申請する。本人意思による死体ではその後の葬儀費用などがかかりすぎること、刑死体の方が容易に入手できることも影響したと推測される。
 1873年には解剖体不足を理由に、引き取り手のない養育院の病死者まで解剖用に願い出て認められている。また、学用患者として診察費無料で死後は解剖体として死体を「願い出る」という施療院も京都や東京など各所で作られた。
 1883年より行旅死亡人の受け入れを養育院が開始し、規則としては養育院の死体は火葬されることになっていたが、解剖学教室と養育院との直接交渉で火葬費用の一部を教室が負担することで解剖体として教室へもちこまれた。1889年、同じように養育院の治療を東大が受け持つ代わりに、養育院での病死者の解剖を東大解剖学教室が受け持ち、内規で顔の解剖をしない条件で正常解剖に充てられた。
 解剖体は刑死体・獄死体、系列病院、養育院の病死体と、開拓されてきたが、これらは引き取り手のない「無縁」の死体という属性で共通することになり、「無縁」が解剖体の主流となった傍流で僅かに「特志」の死体が供給された。
 戦後、1947年に死体交付法が公布・施行され、「無縁」の死体は学校長の要請を知事が許可することで解剖体として交付されることとなった。
 1949年には死体解剖法が制定され解剖の法的根拠を明確にし、解剖が死体損壊に当たらないことを明らかにした。
刑死者の減少や医学校の増加で解剖体不足は深刻だったが、依然として解剖体は「無縁」を想定されていた。
 1955年、一老人の医学への貢献のための遺体寄贈の実現と老人の息子による遺体寄贈組織・白菊会が東大解剖学教室に生まれる。全国に「篤志」による献体の組織が結成され、全国運動にまで発展する。
 1983年には献体法が制定され、献体には「献体の意思」と「家族の同意」が必要とされた。
80年以降、献体は順調に増加し、90年代以降では献体の受け入れを制限する大学まで現れている。

 人体は過剰性を持つ。
 “人体という言葉づかいは、生命科学との連関を予想させるだけでなく、どこかですでに、ある社会性をまとっている。”
 “人体はそれ自体ですでに、物質や言葉が乗り入れる過剰なあり方をしているともいえる。それは、侵襲的な機構を仮想されずとも、言及されるだけで、みずからの物質性をどこか賦活させ、そこに築かれていた意味論をそのたびごとに震撼させる”
 過剰性は「社会」にとって制御しえない生命に脅かされる根源的な不安、“人体という不安”を付きまとわせる。

 刑場での刑罰という属性内に規定されていた死体は、近代になると西洋医学の解剖によって流通性をもつ「人体」へと見出された。
 そこでは死体を切り刻むことが刑罰であり辱めでしかないという認識から、その認識を上回る人々の「生」への志向が「人民の幸福」を理由として流通を駆動した。
 だが、流通し始めた「人体」はその過剰性ゆえに容易に需要を満たす供給量を出せるなかった。
 そこで、「人体」の過剰性を解除するミキ女の「本人の申し出」を梃子にした施療院と無縁の死体が供給元として選択され、「本人の申し出」は「人体」を流通させるコストから傍流の「特志」へと追いやられていった。遺族のいない無縁の死体は、「人体」の過剰性を解除するコストが低く済んだからだ。
 解剖という営みが制度化されると、解剖が始まった時から・始まったからこそ不足でしかなかった「解剖体不足」が常態として実体化さた
戦後に「篤志」が組織化されると、それまで解剖を支えてきた施療院と無縁の経済と「篤志」の経済とが衝突する、「人体」の過剰性を無縁の死体を選択することで解除してきた仕組みとそれを支えた言葉が「篤志」という新しい過剰性の解除の仕組みとそれを支える言葉と整合せずに、対立した。
 両者を調停するために医療の倫理が紡ぎだされ、それによってかつての無縁による過剰性の回避は否定されるべきものとして語られるようになり、ミキ女らの「特志」は「篤志(善意)」へと読みかえられ、「篤志」の推進による解剖体の経済が確立した。
 そして近年、その経済を生み出した「篤志」は供給過剰によって当初は全く想像もされなかった解剖の意味付けをもたらしている。解剖体不足の時代には医学の基礎知識習得手段に他ならなかった解剖は、解剖体が過剰になると知識の習得ではなく倫理の感得へと意味が変わっていった。
 
 一見、倫理の言葉はそれ自体の価値によって「篤志」の献体を創り出したかのような歴史も、「人体」を流通させるための経済の帰結であった。

 解剖へ「人体」を流通させた人々の「生」への志向は、死体から臓器を取り出し病者へ移植することを求めるようになった。
 ところが、臓器摘出は解剖のように需要を満たすために供給をひたすら探せばよいという経済論のみで成り立つのではなく、摘出臓器とレシピエントの適合という問題、新鮮さをもとめるための死の判定、死体からの臓器摘出、という問題などの技術論もが「人体」の流通形成に影響を与える。
 そして、ドナーとなる「人体」の周りには遺族がいた。
 これをクリアしようと「同意」が持ち出される。解剖を可能にするための言葉が死体をめぐる言葉の整合性や「人体」の過剰性を解除し遺族との調停に持ち出され、移植のネットワークが組み立てられた。
 ところが「同意」のネットワークによる移植は、移植の技術論によって行き詰まる。
 人々はレシピエントへ臓器を提供するという「同意(善意)」によってネットワークへ参入するが、これはドナー側の技術論しか解決しえず、レシピエントとの適合という技術論はのこり、ドナーから「同意(善意)」で取り出した臓器が不適合によって捨てられてしまうという「同意(善意)」にそぐわぬ事態を生じさせた。
 これが人々に知られると「同意(善意)」はドナー不足の一因となり、レシピエントは別の臓器流通の経済へ、生体移植へと向かった。技術的にも親族からの生体移植は適合可能性が高いのだ。
 「人体」は流通し難いにもかかわらず、“「人体」やドネーションに関するさまざまなっ言葉―先行する法の言葉や、経験から抽き出された「教訓」など―が大いに活用され”“「人体」が不在のまま「篤志」が移植片のドネーションへとなだれ込んで”“流通にたいして固有の抵抗係数をもつ移植編が、あたかも容易に流通するかのごとく描かれ”てしまったことが、移植のネットワークを「いびつな」形に導いた。
 “ネットワークというドネーションの難航と生体移植の実施率の高さは、因果の関係にあるのではなく、「人体」の流通しがたさを表す並行現象としてある。”

 私たちは今、「同意(善意)」という言葉によって「人体」の過剰性を解除可能にする社会にいる。
 実は、同じ「同意(善意)」でも、それが持ち出された経緯、流通の経済論と技術論との調整としての倫理も異なっているにも関わらず、「人体」は「同意(善意)」によって流通することができる。
 同意できるもの全員がドナーとなりうる、「同意(善意)」によって解除される「人体」は全身体が流通可能で、抽象化される。
 ちょうど献体の言説から解剖体が消えたように。
 ドナーとレシピエントとは隔絶していった。
 ところが、「人体」が流通可能で抽象化された社会では私たち全員が潜在的にレシピエントでもある、つまり、ドナーとレシピエントとの重なり合いも生じる。 

 “ドネーションへの要請は、どのような機縁のもとでも、レシピエントの「生」に発していた。(略)ドネーションは、レシピエントの「生」をめぐる言葉の編成を起点としていた。(略)とはいえ、いくらレシピエントの「生」が慮られるといっても、その動きがドナーの「生」を侵襲するような場合には、ドネーションは停止する。ドナーのまわりに、とたんに「倫理」的な言葉が醸成され、今度はそちらの「生」が荷重されるようになる。(略)現状においては、ドネーションは、そもそもの<意思>を発露するドナーの「生」ありきのものなのだ。日本では、献体や献血に比べて臓器移植がふるわないといわれる事由も、おそらくここにある。一般に言われているような、ドネーションの歴史の浅さや具体的な手続きの未整備のためなく、現代の増進されるべき「生」がそうした形をとっているのだ。”
 
 一人の「生」の内で、ドナーの「生」とレシピエントの「生」は、どちらかになる日まで調停もされずに潜在する。
  

(6)数の選択
 “誰もがレシピエントでもドナーでもありうる世界においては、「調停」という営みがそもそも、達成不能な企図なのかもしれない。現状では、その配分の場を覆っているのは、単純に数の論理である。”

 6月18日、数は選択した。

 香西さんのように歴史を分析すれば、倫理とは経済論と技術論の調停として登場したが、一人の「生」で矛盾する潜在を調停しうる倫理の級審は探りえなかったのだ。
 倫理に関わることだからという理由で、政党の多くは各議員の自由投票を指示し、見事に倫理の調停がなされなかったことを表した。
 そこで選択したのはレシピエントとしての「生」だった。
 自分は生きて、ドナーにはならないという選択だったとも言えるかもしれない。
 ついにレシピエントの「生」への志向が移植の経済論と技術論を貫徹したのだ。
 調停不能だった倫理は、経済論と技術論にとって用なしになった。
 ドネーションは“<意思>を発露するドナーの「生」ありきのもの”だったら、ドナーは「死」んでいればいいのだし、“<意思>の発露”には耳を澄ませなければいい。
 

(7)倫理の言葉
 医療における倫理へ影響を与えた様々な言葉がある。
 その嚆矢として有名なヒポクラテスの誓いは、患者の利益最優先・無危害、致死・堕胎の禁止での生命尊重、結石手術の専門者への依頼が示す専門性尊重、患者の階級差別禁止、患者の秘密保持などを定め、現在では内容がパターナリスティックであるという批判もあるが、現代にも通じる内容をもつ。
 ヒポクラテスの誓いを現代に改めて医の倫理を規定しようとしたのが1948年のジュネーブ宣言で、人類への奉仕、良心と尊厳をもっての専門職実践、患者利益の最優先、患者の差別禁止、患者の秘密保持、人権や自由の侵害への医学知識利用禁止などを定めている。
 つづく1949年には医師としての義務を一般的義務・患者への義務・同僚への義務と詳細化した医の国際倫理綱領が採択された。
 ジュネーブ宣言、医の国際倫理綱領の精神を受け、1964年にはヒトを対象とした医学研究の倫理原則を規定したヘルシンキ宣言が採択された。75年にはインフォームド・コンセントの概念を導入したことで注目される(インフォームド・コンセント自体は1957年の医療過誤訴訟についてのカリフォルニア控訴栽の基準として登場している)。
 インフォームド・コンセントように医療を受ける側の権利を規定したのが1981年のリスボン宣言(患者の権利に関する世界医師会リスボン宣言)であり、ここで「患者の自己決定権」が明示され、医療倫理の試される困難な事例における判断基準となっていった。

 以上のような各宣言に表されたような医療倫理の原則としてトム・L・ビーチャム(ジョージタウン大教授、哲学)とジェイムズ・F・チルドレス(ヴァージニア大教授、哲学)は1979年『生物医学・医療倫理の諸原則』(邦題:生命医学倫理)で自律尊重原則・善行原則・無危害原則・正義原則の4つを挙げ、誰でも直観的に受け入れられる倫理に共通の言葉を用いて医療現場での議論に対応できるようにした。
 これを用いれば、医療の倫理は、善行と無危害の重視から自律と正義の重視へと変化してきたと言える。
 また近年ではこの4つでは議論が不十分であるとして、尊厳の概念やケアの概念も議論に用いられるべきだとされている。
 この医療倫理4原則自体も大きく2つの争点を蔵している。
 一つは各医療倫理原則内部の争点。
 自律尊重原則についていえば、「自律」の実質的な定義について、当人の持つ何らかの価値に合致した決定(自己決定)・熟慮の上で重要だとみなす価値に合致した決定(神聖な決定)・感情や感覚や他社の意志などに規定されずに自ら定めた普遍化可能な法則に従い下した決定(理性的決定)などがあげられ、さらに「尊重」とは他者の支配的な制約に従わないこと(消極的)か必要な情報を開示したうえで自律的決定を促すこと(積極的)かという見解の違いがある。
 善行原則についていえば、「善行」とは「他者に利益をもたらすために遂行される行為」であるが、「利益」の定義には、は単純に他者の主観的な苦痛を減らし快楽を増やすこと(心理状態説の快楽説)・他者の欲求を充たすこと(欲求充足説)・理性の活動や能力の発達のような客観的に善いと判断さえることをし、裏切りや残忍な行為などの客観的に悪いと判断されるものを防ぐこと(客観的利益のリスト説)があり、また「行為」には、害悪を防ぐこと・害悪を生じさせる原因をなくすこと・利益を促進するよう介入することなどがある。加えて、善行の責務には契約や血縁などの関係にある人への責務(特殊な善行の責務)と関係に関わらない責務(一般的善行責務)があり、其々で責務の限界や条件を考える必要がある。
 無危害原則についていえば、「危害」とは「ある人や物に対して為された害悪またはある人や者が被った害悪」であるが、医療倫理では意図的な人に対する危害に限定される。無危害とは「危害を引き起こさない・及ぼさない・危害のリスクを負わせない」ことだが、医療で求められるのは注意義務の範囲内に限る。具体的な内容は、殺さないこと・苦痛を引き起こさない・能力を奪わない・不快を引き起こさない・他者から良いものを奪わない、など幅がある。
 正義原則についていえば、「正義」とはアリストテレスが狭義の正義を均等だとし、これは命法として形式的には「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱うべし」、実質的には「各人に各人の正当な持ち分を与えるべし」とされている。実質的な命法で「各人に各人の正当な持ち分を」という部分を中心に正義を考えるジョン・ロールズは分配的な正義・公正さを重視する、一方で「各人の正当な持ち分」をという部分を中心に考え持ち分の正当性を重視する正義をロバート・ノージックは説く。
 これら、各原則内部での争点がある上で、もう1つは各原則の間での争点がある。
 脳死の例で考えてみれば、脳死状態になった人が予め臓器提供意思表示を行っていたとして、医師はその意思表示を尊重する責務(自律尊重原則)の一方で脳死への疑問から無危害の責務(無危害原則)や善行原則と対立する。また、その人が自分の臓器を特定の他者に与えるために積極的に脳死状態を自らに実現させたいと精神科医に打ち明ければ、精神科医は患者の周囲に注意を促す(善行原則)か秘密を守るか(自律尊重原則)の対立に悩み、脳死状態になることに成功したら予め指定した他者へ臓器を与える(自律尊重原則)か医療の観点から最も必要性の高い人に与えるか(正義原則)で対立が生じる。
 原則間の争点を解決する方策として、抽象的な原則を事例に即して特定化する、原則間の比較考量をする、優先順位を設定する、単一の原則を決める、などがある。
 
 臓器移植改訂案については既に述べたとおり、6条3項の改訂によってA案は現行法の自律尊重原則を、6条の2の新設によって現行法の正義原則(分配的正義)を覆している。
 代わりに、あえて言えば善行原則を採用した様にも解釈される。
 ただし、医療原則における善行原則の「善行」が向けられるのはドナーとなる患者であるのだから、無理がある。レシピエントの意志や移植医の「善行」には当てはまるかもしれないが、脳死について国民がどれほどの知識を有しているのか、ドナーとなる患者や代理者を守る仕組みの貧弱さを考えれば無危害原則にもやはりそぐわない。 また、6条の2は自律尊重原則にあたると言えるが、そもそも改訂案A案の提出者たちは脳死は死だとする原則を採用したのだから、死者に意志や自律が成り立つのかという疑問も生じる。
 
 倫理という思想の圏内に臓器移植法改訂案を入れて見れば、70年代以前の医療倫理でしか正当化しえない代物だと言える。
 倫理の言葉は正に、移植の経済論と技術論でレシピエントとレシピエント側の医師の「生」への意志を貫徹させるために便宜的に持ち出されているだけとしか見えない。
 倫理の言葉は語られようとした、倫理が作り上げてきた言葉の圏内から発しようとしたが、移植をめぐる言葉の磁場に無力だった。


(8)過剰さの放棄
 (5)で述べたように、90年代以降、献体の申し出数は断られるまでに達した。
 中尾知子さんは献体登録者の文集の内容を分析し、献体登録者の献体の動機を行為の志向性とメリットの軸から4つに分類している。
 社会や医学への貢献といった社会への志向性とそれが充たされる満足感などの心理的なメリットとによる社会貢献型。満足を求める心理的メリットは同じだが志向が社会より自分個人の逝く先へ向かっている人生完結型。死によって物質となった身体を利用するほうが合理的だと考える実質的なメリットと社会や医学への貢献といった社会への志向性の合理思考型。死体が物質であるという実質的なメリット重視は同じだが志向が遺体処理という個人的な場合の葬送依存型。
 実際には明確に4つへ分類されるものではなく、複数のタイプが重なってみられると述べている。
 
 注目するのは葬送依存型だ。
 社会貢献型は献体の歴史が「篤志」によって解釈されなおした現在が最も推奨されるものだし、合理思考型は献体登録数の増加から言われる死生観の変化で言及される。
 人生完結型と葬送依存型は個人的な指向で共通するが、葬送依存型は実質的な考え方と同時に社会や人間関係からの孤立が表わされる。

 献体によって自らの葬送をかなえようとする人々がいるということだが、葬儀の変化については多くが研究されている。なかでも、近世からの目立った変化として葬列の消滅・減少が挙げられる。
葬送は場所の実際の移動によって生から死へと遺体を移す葬儀の最も重要な要素だった。
 地域の慣習ごとに異なるが、参列者によって位牌や膳とともに遺体を埋葬地まで運ぶ行列である葬送は、葬儀の場と埋葬地の遠隔化に伴い霊柩車の出現とともに消えていった(残っている場所もある)。
 それが意味するところもさまざまだが、中尾知子さんは碑文谷創(雑誌『SOGI』編集長)の葬儀演出形態の変化を牽いて、葬儀が地域共同体への「死のディスプレー」から職場などの人間関係へのディスプレーに変化していったと指摘している。
 葬儀が誰に向けての「死のディスプレー」かという観点からすれば、献体に葬送を依存するということは、病院での死から一度も病院の外(死んだ病院から解剖のために大学医学部へ運ばれるとしても)へ出ることも無い事態、ディスプレーの否定を意味する。
 もはや「人体」は過剰性を解除されるまでもなく、近世に死体が刑場の中でしか解剖されえなかったように、病院内で完結することになる。


続き→遺体の国の21グラム。   完結編



 
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:30 | 倫理

遺体の国の21グラム。   中編

  

遺体の国の21グラム。   前篇の続き↓


(2)本当の話 
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた。
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


(3)仏教の立場 のようなもの
 これと関連するものとして、やはり以前から仏教側から脳死状態にある患者からの臓器摘出について意見が表明されてきた。

 玉城康四郎(東京大学教授、仏教)
 “「人の命」を端的に表しているのは、父と母との交わりにより、母の胎内に宿った刹那の「命」である。その「命」をサンスクリット語でカララkalalaという。「ひとかたまり」という意味である。(略)カララはいかなるものによって成立しているのであろうか。これについてはいろいろな文献に示されているが、大別すると二とおりある。ここでは『大集経』と『宝積経』から見てみよう。 まず、『大集経』では、カララは、命と識と煖から成立している、という。命は寿命であり、識は意識、煖はぬくもりである。そしてカララが生きているということは、命・識・煖が一つの合体していることであり、カララが死ぬということは命・識・煖の結合がほどけて、バラバラになることにほからないない。命・識・煖の結合のなかで、特に重要なのは命、すなわち寿命である。これによってカララは胎内で成長することができる。この寿命を風道といい、カララはすでに呼吸している、とみられている。それが胎内から生まれて、実際の呼吸となる。呼吸が寿命としていかに重要であるか、むしろ寿命そのものであるともいえる。 次に『宝積経』について調べてみよう。ここではカララは、地・水・火・風によって成立している。生きていることは、その結合であり、死ぬことは、その分散である。地はかたさ、水はしめり、火はぬくもり、風は動きである。かたさ、しめり、ぬくもり、はいわば材料であり、動きこそ生命的なものである。すなわち、地・水・火・風の風は『大集経』の命、識、煖の命に相当するものであり、寿命であり、風道である。いいかえれば呼吸である。(略)以上のように、生きているとは、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・風の合体で、成長を続けているということであり、死ぬとは、それぞれの分散であるということができる。”
 “今日、臓器移植のことから脳死が問題となり、生命維持装置によって、呼吸運動や血液循環を補助することができる。たとい脳の機能が不可逆的に停止して脳死と判定されても、仏教からいえば、命・識・煖の結合、あるいは、地・水・火・かぜの合体は明白であり、けっして「死」ではなく、「生きている」ことは論をまたない。したがって移植のために臓器をとることは、死に至らしめるのであり、殺生罪を犯すことになる。”

芹川博通(淑徳短大教授、宗教学)
 初期仏教典では
“死の諸相について「一切の生きとし生けるものが、それぞれの部類から落下し没すること、[身体が]壊れること、消失すること、死滅すること、臨終をなすこと、諸構成要求が壊れること、遺体を処理すること、これが死であるといわれる」(『サミュッタ・ニカーヤ』)とある。また、「寿と煖とおよび識と、三方の身を捨するとき、所捨の身は僵仆す。木の思覚なきがごとし」(『雑阿含経』)とあるように、人の声明を構成する寿命と体温と意識が肉体を離れるとき、その肉体は枯れ木のように倒れて死ぬと述べている”
 大乗経典では上記の玉城と同様『大集経』『宝積経』を挙げている。
 小乗仏教典では『阿毘達磨倶舎論』の“命根の体はすなわち寿にして、能く煖とおよび識とを持す”を引き“寿命があり、温かさと意識がある脳死は、身体に生命があって生きているので、死を意味するのではない、ということになる”と述べる。
  また万有をアーヤラ識から縁起したものとする唯識からは、“心臓が鼓動をうち、体温があるうちの脳死状態は「人の死」ではない。体温があるというのは、いまだ、アーヤラ識が身体を執受しつづけ、生命あらしめている証拠”としている。
 さらに“仏教の心身観では、肉体(kaya 身)と精神(citta 心)は不二一体のものと説いている。このことを心身一如、心身不二という。仏教では、この身と心を決して二元論的に個別の実態とみなさないで、あくまでも一つのものの両面とみなす。(略)日本人にとって、心身はその生命を失っても、心あるいは霊の宿るより白なのである。(略)また日本では、古くから心臓が動いているうちは霊魂が宿っているので、遺体を傷つけることを恐れる、というものもある。(略)生命を失った肉体をも物質視しない思想を、人々は育んできた”とデカルト的な心身二元論との対比で述べている。

信楽俊麿(元龍谷大学長、本願寺派僧侶)
 “心身一如的な立場においてとらえるというこおとである。(略)原始経典によれば、生命(ayus)とは、識(vijnana)と煖(usna)とともに構成され、存続するという”識とは心理学的な意識ではなく、心(citta)もしくはアーヤラ識を指し、日常的な意識作用や意識下の意識の根底にある根本意識を意味する。
 “仏教の立場からいえば、人間の生命とは何にも代えがたい絶対価値を宿しており、またその生命とは、心身一元的に、識と煖とともにあるということであって、脳死といえども、なんらかの意識が残存し(脳死者の足裏を針でさすと足をうごかすという)、呼吸し、心臓が動いて、体温があるかぎり、それは当然に生きているということであり、一人の人格主体として十分に尊重されるべきである。その点、仏教の立場からするならば、このような脳死を人間の死とすることには、きびしく反対せざるをえない。”
 また“他人の不幸、その脳死をひたすらに待ち望んで、そのうえに自己の生命を充足させようとする発想は、人間の倫理感覚を次第に麻痺させていくにちがいない。”と危惧を表明している。

奈倉道隆(四天王寺大学大学院教授、インド哲学・仏教学・公衆衛生学)
 “死について『倶舎論』は、煖と識と寿とが消え、身体が知覚を失った木材のようになることだと説いている。煖が失われれば体のぬくもりが去って冷たくなる。日本の生活文化では、死を意味する表現として「冷たくなる」と言っている。脳死状態は、意識が完全に失われているが、人工呼吸器によって呼吸は続けられ、脈拍はしっかり触れることができる。体のぬくもりは保たれ、皮膚の血色も豊かである。これを「死」と認識することには生活文化の面から抵抗があろう。また、心身一如、縁起的生命観に立つ仏教思想の立場では、たとえ脳の機能が停止してようとも、また、生命維持装置に依存する状態であろうとも、生かされて生きるいのちとして尊ぶ姿勢には変わりがない。”

奈良康明(元駒澤大学学長・総長、曹洞宗住職)
 “こうした問題に対しては、「仏教では」という答えは難しい。そうではなくて、「仏教者の一人として、私はこう考える」という姿勢でなければなるまい。”と応用問題への解答の多様性を指摘したうえで「私」の生き方を問う仏教としての姿勢を示し、“脳死は、生命をモノに限りなく近づける発想が基盤にあるので、私は認めがたいと考えている。”

庵谷行亨(立正大学教授、仏教学・倫理学)
“仏教ではすべての存在は仏の顕現であると考えている。人間は誰にも仏性があり、すべては仏の子であると説く、不殺生は仏教の基本的徳目である。”

 などと、脳死・臓器移植を仏教の経典を根拠として否定する立場がある。
 仏教の生命観として示された寿・識・煖、あるいは地・水・火・風の結合は、脳死が死かという議論における死の定義である「人体の有機的統合性」と重なる。
 仏教者の脳死についての知識に若干あやしさを感じる部分があり、最重要視する呼吸については脳死では自律呼吸ができない点の処理に弱さを感じる。ただ、体のぬくもり、いのちを構成する要素が結合しているという点を見れば、生命を否定することは難しいだろう。
 脳死を死とみなして臓器移植の供給を増やそうとする人たちからすれば、早晩心停止する相当の可能性があると分かっている患者より助かる可能性のあるレシピエントを助けるという比較が働くが、仏教の絶対的な生命尊重は、どちらも同じ絶対であることから比較の発想は採りえない。
 その一方で

濱島義博(京都女子大学長、消化器外科)
 “自分のいのちとはいったい誰のものなのか。はたして自分だけのものなのだろうか。ここに、縁起と共生という仏の教えを考えてみる必要があるのではないだろうか。(略)脳死を死と法律で定められた今日、脳死の基準を満たしたと決定されれば臓器を提供する他への思いやりと慈悲こそ、仏の教えにもっとも適した行動なのである。”

 といった、「慈悲」という仏教のロジックによる肯定の意見もある。

 だがこれについては
 奈良康明さんは“臓器移植が偉大なる布施だ、という論理はそれなりに理解できる。しかし、仏典に示され、かつ教えられている壮絶な布施行は、慈悲の発露としての行為である。信仰者としての自覚にもとづく慈悲行であるが、私たちがいま論じているのは社会の制度としての脳死、臓器移植であり、とくに脳死を法律で決めていいかどうかという問題である。”と否定する。
 また芦川博通さんも“諸経で諸衆救済のために、菩薩(bodhisattva)は、身命を惜しまずに努力することを「不惜身命」といい、わが身を投げ出して布施(dana)をする「捨身」が説かれており、いずれも仏教の救済思想である。(略)したがって、臓器を必要とする人(recipient)にみずからの臓器を移植する行為は最大の布施行であり、菩薩行ということができるとする、という人もいる。仏教者のなかには、臓器移植が結果的に布施行であり、善なる行為であるから、脳死を「人の死」と認めてよいのではないかという人も少なからずいる。結果や目的がよければ「手段を選ばず」の論法は危険なものである”とこのロジックを否定する。
 同様に「慈悲」「布施」のロジックを否定するも、現実に対する仏教の活動の必要性をも提唱する松長有慶(元高野山大学学長、高野山真言宗管長)さんはこう述べている。
 仏教は死への諦念や浄土信仰など様々な立場があるが“死に対して仏教がとった立場は、精神的な対処であったとみることができる。それに対して現在問題となっている脳死を人の死と認め、脳死の人からの臓器を採取し、それを必要とする人に移植する医療は、延命操作にほかならない。現代の医療の根底には、人間の身体を物質とみなす思想が横たわっている。(略)さらに問題がある。現代科学は人間の欲望の充足を是認する立場を採る。(略)臓器移植の問題を論ずる時、仏教の捨身飼虎の伝承がよくもちだされる。(略)しかしこの話は、真理を聞き、それを人に伝えようとする利他の精神から出た行為であって、一時的な延命のために、不用になった臓器を提供する行為とは一致点を見出しにくい。また仏教の布施の精神が云々されることがある。ただし仏教の施しは三輪清浄といって、授者と受者、それに布施という行為、この三者がいずれもエゴを捨て、利他の立場にたって初めて成り立つ。ところがドナーに自己犠牲の精神があるとしても、患者にほうがそれを受けても、以降の活動のなかで社会還元の意思がみられず、我欲にもとづいた保身に終始するならば、それは本当の意味の布施ということはできない。”と仏教の立場での脳死・臓器移植の肯定し難さを指摘したうえで、“現代社会では、いくら仏教の立場から反対を唱えても事態は進展していくにちがいない。その場合に、仏教がこの医療行為に対して全く手をこまねいているわけにもいくまい”とレシピエントのケアなどを提唱する。

 以上から大きく分けて言えば、脳死・臓器移植に対して仏教は
 否定論…仏教経典の生命観
 肯定論…慈悲・布施
 ということになり、否定論が論として優勢かと判断される。
 だが、この否定肯定の二項対立自体を否定する意見もある。

 脇本平也(東京大学名誉教授、仏教学)さんはこう指摘する。
 仏教は歴史的地理的な膨大な広がり・多様性を持ち、場合に応じて正反対の意味付けを行うこともできるが、“仏教の出発点は、生老病死の苦を超越することにあった。生死の超越とは、生と死とを分けて執着する迷を断じて生死一如の境に住することだ、ともいわれる。この立場からすれば、脳死を人の死と認めるか否かなど賛否を問うことは、問い事態が迷中の迷、無用の閑葛藤ということになるかもしらぬ、どうでもよい、ということになりそうである。どうでもよいことは、各自が銘々で決めればよい。”という自己決定原則の支持もできる

 上記のような仏教独特の二項対立否定ではなく、単に決着できない現状を示す意見もある。

 水谷幸正(元佛教大学学長、元浄土宗宗務総長)さんは、その原因をこう述べている。
 “すでに十数年以前から、脳死の問題について多くの仏教者があれこれ発言しているが、同じ仏教者の立場でありながら、脳死は死であると認める者、認めない者、中間的な者などさまざまであり、その理由も多種多様である。その原因は、どのような状態を「死」とみなすのか、ということの受け止め方の相違もあるが、やはり仏教のどの部分をおさえていくか、という受け止め方の相違が大きい。まさに仏教は偉大であり曖昧なのである。”
 1988年の日本印度学仏教学会の検討委員会でも“各人が状況に応じて判断し、決断してゆくべき”としている。浄土宗総合研究所の脳死に関する中間報告でも賛否は言わず、それぞれの状況での判断を提言している。

 こうした仏教の曖昧さ・多様さのなかで、結論のなさにもかかわらず仏教界の現状として脳死や臓器移植へ否定的な傾向が見られる。
 この理由について、長谷川正浩(弁護士、大正大学非常勤講師)さんはこう指摘する。
 “死と生の境目を決めることは、もともと仏教の教義では不可能に思われる。はっきりいって、それはないものねだりなのである。生と死の境を決めることは、社会的・法律的要請によるものであって、少なくとも仏教ではどうでもよいことなのではなかったか。 では、なぜ仏教者は一般に脳死を人の死と認める立場に冷たいのであろうか。それは、脳死を人の死と認める多くが臓器移植をしやすくるるために主著うしていることを本能的に見抜いているからではないだろうか。”

 ここで紹介した意見にははっきりと見られないが、仏教界が明確な判断を示さないのは、仏教の僧侶たちが生きている人間ではなく既に死んでいる人間を中心に生活しているという実際が影響していると考えられる。
 既に死んでいる人間を中心に死者の遺族に接するのだから、死者がドナーとして死んだかレシピエントで移植待機者として死んだか、どちらでも死んでることには変わらないし、どちらにも当たることが予想され、判断を明確にすればどちらかを「敵」を作る可能性がある。
 そんな事態は面倒であり、上記したように仏教は広大で曖昧なのだから、その時その時で上手く使えばよい、一貫性の無さは対機説法・融通無碍とでもいっておけば済むのだし。


(4)遺体の国
 “遺体にこだわらない文化など、知られている限りでは存在しない。どのような文化でも遺体にはこだわりを持つのである。唯、そのこだわり方が文化によって異なるということなのである。”

 波平恵美子(お茶の水女子大名誉教授、文化人類学)さんは、“死とは何か、どういう状態かという問題を考えるとき、生物体としての個体がどの程度機能を失ったかということのみを基準として決定する社会はない。(略)どの社会でもしは段階的に「確認」されるような社会的慣習を保持している。”と「死の文化」の存在の普遍性を指摘する。
 特に日本では航空機事故で断片となったものまで捜すほど遺体にこだわりを見せる。これは死が死者と生者との断絶を意味しない、死者と生者とには交流・影響があるとする日本の霊魂観・死後観の影響を原因とすると考えられ、これは脳死・臓器移植に対する日本人の態度にも影響していると言う。
 そもそも脳死状態からの臓器提供による死亡は従来の遺族の死の受け入れの順序を混乱させるものである上、臓器提供をすれば遺体を傷つけることは不可避であり、特に遺族が手を下して遺体を傷つけることは強くタブー視される。また、遺体の状態が死後世界での死者の安寧とつながるという信仰、悲惨な死に際なら特に一般より手厚く弔うことで死者の霊を慰めようとすることは、ドナーとして求められる青年の突然死の遺族が最も求めることと言える。
 さらに、臓器移植は従来の「献身」の構図を大きく変える。
 まず、遺族とはいえ臓器は脳死状態の患者のものであり、自分のものではない。また、「献身」した方が死に、された方は助かる。さらに、日本では直接・間接的な知り合いでの相互扶助(献身)は強固に見られるが知らない人への扶助は消極的であり、見知らぬ生者より血縁の死者の価値は高い。
 

続き→
遺体の国の21グラム。   後編
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:27 | 倫理

遺体の国の21グラム。   前篇




“おもしろく、新しく、役に立つことができるかもしれないのに、じっと寝そべっている必要があるだろうか?”
 “いろいろ体験できるかわりに、死体は分別、切開、再配列され、かなりの血をながす。しかし、大切なことがある、彼らは何も我慢するわけではない。(略)この素晴らしい力を人類の向上のために使わずに無駄にする手があるだろうか?”
 “死体で問題なのは、外観があまりにも人間らしいことだ。”
 『死体はみんな生きている』メアリー・ローチ著 殿村直子訳(NHK出版)


“我々には、脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて、迷う自由があります。この自由を人々から奪ってはなりません。
 迷う自由を保障するもの、それこそが、本人の意思表示の原則であります。
 すなわち、迷っている間はいつまでも待ってあげる。もし決心がついてら申し出てください。
 これが、本人の意思表示の原則なのです。”
 “こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器移植などの侵襲を受けないまま、まるごと成長し、そしてまるごと死んでいく、自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。”
 感じない男ブログ「長期脳死、本人の意思表示@参議院での発言」 森岡正博


                  *


(1)新旧の比較と逆転した関係
 第171国会に4つの臓器移植法改正案が提出され、6月18日衆院を通称A案が賛成263、反対167で通過した。
 同法案は主に現行法(臓器の移植に関する法律)6条を以下のように変更・追加することを示している。
 
6条
1項
 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるために臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。 
 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死したもの身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
 一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
 二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
 ⇒この“以外の場合”に15歳以下の脳死状態の患者は含まれるので、現行の本人意思を必須とするために、意思表示が法的に有効とみなされる年齢である15歳の制限をクリアできる。

2項 
前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ってと判定されたもの者の身体をいう。
 ⇒移植のために摘出する場合の限定を外して、脳死は全般的に人の死だとする。

3項
 臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。
 臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。
 一 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意識がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がいないとき。
 二 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により書面により承諾しているとき。
 ⇒家族が同意するか、家族がいないことが必要でったのは現行改訂案で同じ。違いは、旧3項では本人が意思を積極的に提供の意思表示をしていることが必要だったのが、改訂案3項では“判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合”と“意思がないことを表示している場合以外の場合”とで本人に積極的に拒んでいない場合を含めていること。
 4項
 臓器の摘出に係る第二項の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の意思(当該判定がなされた場合に当該脳死した者の身体から臓器を摘出し、または当該臓器を使用した移植術を行うこととなる意思を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断の一致によって、行われるものとする。
5項
 前項の規定により第二項の判定を行った医師は、厚生省令で定めるところにより、直ちに当該判定が的確に行われたことを証する書面を作成しなければならない。
6項
 臓器の摘出に係る第二項の判定に基づいて脳死した者の身体から臓器を摘出しようとする意思は、あらかじめ、当該脳死した者の身体にかかわる前項の書面の交付を受けなければならない。

6条の2 の追加
 移植術に使用されるための臓器を死亡した後に提供する意思を書面により表示している者又は表示しようとする者は、その意思の表示に併せて、親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思を書面により表示することができる。
 ⇒現行6条にはない親族への優先提供規定。おそらく、生体移植で移植先を親族へ指定できることにあわせたのだろう。


 この法律案については衆院通過前にはマスメディアでも相応にとり上げられ、A案が脳死を人の死とし、15歳以下の移植を可能にすることを伝えていた。
 だが、この改訂にもっとも根本的な変更点はこの2点では(直接的には)ない。
 現行6条2項には確かに、“その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって”とう限定があることで、脳死全般が死ということにはなっていなかった。
 しかし、脳死が人の死として含まれるかどうかという点では現行と改訂案で一致して含めているので根本的な思想に違いは認められない。新旧で向きは一緒だ。
 違いは3項の変更部分で指摘した様に、現行3項では必須だった本人の積極的意思表示を改訂案3項では不要に、積極的に拒絶しなければ臓器摘出を認めたところにある。
 これは現行法の大原則を転換したことを明確に意味している。

 臓器提供には2つの方式、コントラクト・インとコントラクト・アウトという方式がある。
 コントラクト・インは現行法が採用している方式で、臓器提供者の積極的な意思表示によって臓器が提供される。
 コントラクト・アウトは新臓器移植法となる改訂案・通称A案が採用している方式で、ドナーとならないという意思表示をしない限り臓器提供の意思があるとみなされる。
 つまり、臓器提供というコントラクト(契約)に対して、入る意思(イン)を表示させる制度化、出る意思(アウト)を表示させるかという違い、契約の前提が逆の立場の2つの方式があるということ。
 コントラクト・アウトには、「弱い」コントラクト・アウトと「強い」コントラクト・アウトの2つがあり、家族によって拒否権があるものが「弱い」コントラクト・アウトで、コントラクト・アウト方式を採用してる国のほとんどがこれを採っている。

 臓器移植法は大きく2つの理念に基づいている。
 臓器移植法2条(これはA案でも改訂されない)の1項2項がドナーの任意性を規定し、3項4項がレシピエントへの臓器提供の公正さを求めている。
 倫理学(医療倫理)でいえば前者が自己決定の原則(自律の原則)で後者が正義の原則に該当する。
 
 そして現行法6条はドナーの自己決定権(自律)原則の具体的な内容を規定している。
 「自己決定(自律)の原則」は人体の不可侵の原則にも基づくものであり、医療のみならず近代法の原則にも含まれる。
 私たちは国家権力はもとより、他者からも自己の同意なく侵襲されない自由と権利を有している。
 もっと言えば、自由の最も基盤にあるのは「ほっておいてもらう自由(let me alone)」であるということ。
 例えば、誰もレイプ拒否の意思表示を書面化されたものを持っていなくとも、レイプさらない自由と権利を持っている。レイプ犯が「相手を気絶させて、荷物をあさってもレイプ拒否の書面がなかったからレイプしていいのだ」と言ったとしても、誰もレイプ犯を擁護しない。私たちは何の意思表示をする義務も責任も無く「ほっておいてもらう自由」があるからだ。本人が触っていいと言わない限り、他者に体を触わられる・侵される筋はない。
 この原則があるから、わざわざ現行法は本人の積極的意思表示を必要とし、加えて社会的要請から家族の同意までを必要とした。
 これを整理すれば、

             原則=不可侵   例外=(本人意思で)可侵

 ということになる。
 もちろん、この原則例外の裏には
          原則=脳死は死ではない 例外=(本人意思で)死と認める
 という関係も存在する。
 だから、マスメディアで盛んにA案の改訂点とする「脳死は人の死」「15歳以下も可能」というのを法改訂の要点とするのも間違いではない。特に「15歳以下」という制限はこの同意の可能不可能にかかっていたので強くこの原則例外に係る。だが、問題は決して15歳以下にとどまるものではないことを「15歳以下」云々は忘れさせる。

 改訂案は上記の原則例外の関係で示せばこうなる

              原則=可侵   例外=(本人意思で)不可侵

 そしてこの裏に
          原則=脳死は死 例外=(本人意思で)死ではない
 という関係がある。これはあくまでも裏でしかない。

 「脳死は死」だから「可侵」なんじゃないか、「脳死は死」と全般的に認めた時点で、同意も「不可侵」も関係ないから、新法は原則を「可侵」にしたんじゃないか、というのは考える序列が違う。
 「可侵」にするために「脳死は死」だとするのは現行法以来の発想であり、もっと言えば脳死の発想である。 これは一貫している。移植の可能性が生じ、ドナーが捜された結果、不可逆昏睡・超昏睡が脳死とされたという経緯を見ても、現行法の制限をもってしてまでの「脳死は死」を見ても、「可侵」だから・にするために「脳死は死」と言うのが考える順序だ。
 「可侵」にするための「脳死は死」という一貫した発想にもかかわらず、上記したような医療倫理の原則、近代法の原則があったからこそ、現行法は原則「不可侵」という体裁を採らざるをえなかった。

 だがついに改訂案で、この「可侵」だから・にするため「脳死は死」という思考が現行法の原則例外をひっくり返した。
 ま逆の思考に基づく根本的に異なるものが、あたかも法律の部分的な改訂案かのようにして提出されて衆院を通過した、ということになる。

 臓器移植法は2条で2つの理念、自律と正義の原則を規定していると上述した。
 その両方を、この改訂案・A案は実質的に反故にているのだ。
 自律の原理は上記したように、6条の改訂によって。
 正義の原理は改訂案が新設した6条の2によってだ。
 ドナーの意思によって親族へ臓器の優先提供が可能だとされているが、これは医療の現場において患者が医療上の判断のみによって公正にあつかわれるべきとする正義(分配的正義・公正)の原理に著しく反している。有力者の子弟である、資産がある、コネがある、それらの有無で受けられる医療が変わるということと同じだ。
 もちろん現実に、カネとコネで受けられる医療が変わる、助かることと助からないことがある。しかし、現実の不公正、不正義を法律が追認することと、現実があるということは別だ。
 (この6条の2については、A案作成に大きく影響を与えてた町野朔上智大教授もこの条項には移植の公正を損なうと批判的。そもそも、臓器のレシピエントとなる人間がドナーの生死を決定するというのは無茶苦茶な話だ。ドナーの命がレシピエントの欲望に直接さらされることはもちろん、「家族を殺して自分は助かる」ことを迫られるレシピエントに対しても残酷だ。過去に脳死患者から親族へ指定して臓器提供がなされたことが1件ある。2001年に60代男性が脳死状態になり生前から親族へ臓器提供を希望し、家族も親族以外なら提供しないということで臓器移植ネットワークの移植待機者リストに載っていなかった親族2人への移植を、厚生労働省はこのケースに限り許可した。のちの厚労省検討会で公正の観点からレシピエント指定は認めないという結論が出された。 親族優先規定はA案の提案者である河野太郎衆議院議員が父河野一郎衆院議長へ生体肝移植したこと、脳死患者からの臓器提供が増えれば自分がドナーにならずに済んだという思い、が影響しているとも推測される。また、A案の衆院通過自体に河野一郎衆院議長への花道をつくろうとする説得が働いたことも言われている。もしそれが事実ならば、全国民の生命にかかわる法律が権力者親子による権力者親子の満足のための法律案によって改訂されることになる。)


(2)本当の話
 このようなA案に対しては各所で反対・危惧の声明が出された。
 その代表的なひとつ、生命倫理会議では生命倫理の教育研究に携わる研究者71名が緊急声明でA案への抗議と参院での徹底審議を求めた
 生命倫理会議の代表である小松美彦(東京海洋大教授、科学史・科学論・生命倫理)さんは『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)で以前から臓器移植(法)への問題提起を行ってきた。
 
 同書では脳死判定の「自発的呼吸の停止」を確認するために無呼吸テスト(人工呼吸器の取り外し)が患者へ与える悪影響(血中二酸化炭素濃度の上昇)や「平坦脳波」の確認困難さ(頭蓋の上から測定しなくてはならない)や限界(脳波と心の在り方との関係に疑問)やラザロ徴候といった脳死患者の自発的身動きや臓器摘出時の血圧上昇と暴れるような動作(そのために摘出時に「死体」に麻酔をかける)、長期脳死という10年以上の脳死状態での生存、移植後の生存率と非移植での生存率比較といった基本的な情報や疑問、そもそも一般的に想像されるような「死」の定義と脳死を検討する人々の「死」の定義の違い(脳死臨調で問題とされた「死」は「人体の有機的統合性」であって、一般人が思い描くような「何も考えない・感じない・動かない」ではない)といったことが提示され、さらに脳死という概念自体への疑問・批判(他の臓器の不全は「死」と呼ばないのに、どうして脳だけ「脳死」なのか?)を投げかけている。
 また、日本における臓器移植のキーポイントととなった和田移植(1968年の日本初の心臓移植)と高知赤十字病院移植(1999年の臓器移植法成立後初の移植)の杜撰さを指摘し、批判し、臓器移植法改訂問題へも提言を寄せている。


続き→遺体の国の21グラム。   中編
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by sleepless_night | 2009-07-12 14:25 | 倫理

これはフィクションではありません。/ある国の脳死をめぐる一つの話



これは、フィクションではありません。




ある国の都市にあるたくさんの部屋がある建物内で、ブルーは質問に答えてくれそうな人を探していた。
そこにテレビで見たことがあるグリーンという名の人物が通りかかった。
ブルーはグリーンに質問をし、疑問を解決しようと思った。


ブルー「臓器移植法改正案、通称A案に関して質問があるのですけれど」
グリーン「はい、どうぞ」
ブルー「脳死を一律に死とすることは、特に長期脳死の状態にあるという子供が長期にわたって生存・成長していることを考えると疑問があるのですけれど」
グリーン「長期脳死の状態にあると言われている子供は本当は脳死ではありません」
ブルー「本当のとは、どういう意味ですか?」
グリーン「法的に認められる、という意味です」
ブルー「長期脳死の状態にあると言われている子供が、法的に脳死と認められる子供ではないということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「法的に、という時の法とは臓器移植法のことですね」
グリーン「はい」
ブルー「ということは、長期脳死の状態にあると言われている子供が、現在の臓器移植法の定める脳死判定をされている子供ではないということですね」
グリーン「はい」
ブルー「現在の臓器移植法の脳死判定の実施に必要なのは何ですか?」
グリーン「臓器移植法6条3項で脳死判定の実施には予め脳死状態になった患者本人が臓器提供の意思表示をしていることと、脳死判定実施の告知を受けた家族がそれを拒否しないことです」
ブルー「つまり、本人の事前の意思表示と家族の同意が必要ということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「では、本人の意思表示か家族の同意がなければ脳死判定は行われないんですね」
グリーン「いいえ、脳死状態になった患者本人に家族がいない場合には、患者本人の予めの意思表示があれば判定が行われます」
ブルー「では、本人の意思表示について必要なことはありますか」
グリーン「6条1項で書面による意思表示が必要だとされています」
ブルー「本人が書面で意思表示をしていればいいんですね」
グリーン「はい」
ブルー「では、長期脳死の状態にあると言われている子供が、その状態に陥る前に書面で臓器提供の意思表示をしていて、家族がそれに同意をしてれば、その子供には脳死判定が行われるんですね」
グリーン「いいえ。法律的に意思表示が有効とされるには15歳以上であることが必要とされていますので、その子供が15歳以下ならば臓器提供の意思表示は有効ではありません」
ブルー「脳死判定の実施に不可欠な本人の意思表示が欠けているということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「ということは、15歳以下の子供は本人の意思表示がない以上、臓器移植法の定める脳死判定を受けることは法律的に不可能ということですね」
グリーン「そうなります」
ブルー「グリーンさん。15歳以下の子供が法的脳死判定を受けることが法的に不可能なら、法的に脳死だと認められる子供がいないのは当然じゃないですか」
グリーン「……」
グリーン「ちょっと、トイレに行ってきます」


グリーンがトイレから帰ってきた。


グリーン「ごめんなさい、トイレを我慢していたので、私、少し勘違いをしていました」
ブルー「勘違いですか」
グリーン「はい。長期脳死の状態にあるといわれる子供が本当は脳死ではない、と申したことです」
ブルー「勘違いでしたか。では、やはり長期脳死の状態にあるといわれる子供も本当に脳死だということでよろしいんですね」
グリーン「いいえ」
ブルー「?」
グリーン「私が申しました、本当のとは、法律的に認められた、ということではなくて、臓器移植法が認めていなくても実質的に同じ状態だと診断されたということです。法律的に脳死判定ができなくとも、脳死判定の基準から脳死だと診断されることを、本当の脳死だと申したかったのです。」
ブルー「臓器移植法6条4項の“医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断”に従って診断した結果、脳死判定の基準を満たしている患者ということですね」
グリーン「その通りです」
ブルー「具体的に、その基準とはなんですか」
グリーン「厚生省が85年に定めた基準です」
ブルー「その基準の内容は何がありますか」
グリーン「判定基準は簡単に申しますと、6つあります。深昏睡・自発呼吸の消失・瞳孔固定・脳幹反射の消失・平坦脳波です。これらを6時間以上の間をおいて2度確認することが求められています」
ブルー「長期脳死の状態にあるといわれている子供は、その基準を満たしていない、ということをおっしゃりたかったのですね」
グリーン「はい。具体的に言いますと、そのうちの自発呼吸の消失を確認するための無呼吸テストをしていませんので、脳死と確認するための基準を満たしていないのです」
ブルー「つまり、長期脳死の状態にあるといわれている子供に無呼吸テストを受けて自発呼吸の消失が確認された子供はいないので、本当の脳死の子供ではないということですね」
グリーン「はい。だから脳死と診断された子供からの臓器摘出を考える時に、今知られているような長期脳死の子供のことをもって疑問に思わなくてもいいのです。それは誤解なのです。お分かりになりました?」
ブルー「よく分からないのですが…。失礼ですが、日本語はお得意でしょうか?」
グリーン「当たり前でしょ!失礼な人ですね。私を誰だと思っているんですか。私はこの国の厚生労働に関する立法に関わる重責を託された人間ですよ」
ブルー「存じ上げませんで、失礼しました。厚生労働分野がグリーンさんの御専門ということで意外です。それならば、旧厚生省研究班の『小児における脳死判定基準』という論文を当然ご存知ですよね」
グリーン「もちろ、あっ、いや……」
ブルー「この論文によると、脳死とされる6歳未満の子供について小児脳死判定基準を満たした、つまり2回の無呼吸テストを実施して無呼吸が確認されたのが20例あり、そのうち7例で長期脳死に、さらに4例で100日以上が心臓が動き続けたのが確認されているということです。当然、心臓が動き続ける間、その子供たちは成長を続けました」
グリーン「……ですから…、あの、私、行きますね」
ブルー「ちょっと、どこへ?」

グリーンは、急いだ素振りで大きな会議場へと入って行った。
彼女が入っていくと扉が閉められた。


ブルーは、グリーンがまた戻ってくるのではないかとその場で待った。
すると、グリーンが入って行った大きな会議場のドア越しにグリーンの声が聞こえてきた。


「脳死の議論の際、小児には、長期脳死という問題がたびたび指摘をされます。脳死状態であっても、髪の毛が伸びる、爪が伸びる、歯が生え変わる、して成長を続けていくといわれています。テレビ等で報道されている、小児の長期脳死事例は、いわゆる臨床的脳死と診断されているにすぎず、臓器移植法において求められる厳格な法的脳死判定に係る検査、すなわち、無呼吸テストや時間をおいての2回の検査が実施されているわけではありません。小児の脳死判定に慎重さが必要であるということは、区別して議論する必要があるということを、まず指摘させていただきます。」



参照
感じない男ブログ 子供が「長期脳死」にならないことを判定する脳死基準が必要だろう
         小池晃議員によって嘘は正された
         そこまでやるか石井みどり参議院議員!
てるてる日記 「長期脳死」を否定する議員や政策秘書たち
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by sleepless_night | 2009-07-11 09:20 | 倫理

私のお金。


 ほんの月4500円でスリランカの子の人生を劇的に変えられる。
 100万でワーキングプアに貧困脱出チャンスを与えられる。
 →なぜ助けようとしないのか?
    ↓
 ひとつの答え。
 ①自己犠牲教洗脳
 ②自己犠牲教でたいした数を救えない
  →実際には自己犠牲を払わずに他人を助けるほうがはるかに多くの人を助けられる。
 ③人類史上最強の「人助け生産性」を誇るビジネス装置
 例:ユヌスのグラミン銀行
  →“ビジネスというのは、それが利益を生み出す限り、無限に膨張できるという、永久機関のような性質を持っています。だから「貧者の救済」と「利益の創出」の二つの効果を生み出すビジネス構造を組み立てれば、自己犠牲によって貧困者を救う場合の何百万倍もの数の人々を救うことことができるわけです”
 ④自分の体力を温存したまま、「生産性の高い人助け」をする。
  →自己犠牲を払わずに人助けすれば、より多くの人を気軽に助けることができる。
 ⑤募金も投資効果を十分に考えてやれば、何千倍もの人々の未来を変えられる。
  →失業中の日本人より東南アジアの子ども。
   個人の与えられるリソースは有限、助かる人を優先して助ける。
 ⑥生物学的な起源
  →進化の過程で獲得した自己犠牲教は環境変化であわなくなっている。
 ⑦「自分の富をふやす過程」と「その富を他者に分け与える過程」の二つの過程で他者を助ける。
  →搾取でなく、win-win関係で富の総量を増やすべき。
 ⑧ネット空間における人助け。
  →下二割の魚の釣り方を教えても役に立たない人を持ち出す反論。それにより、ネット空間で魚の釣り方を教える子とろみが偏見と悪意に覆われ、伝わらなくなる。本当に必要とする人々がネットに接続していない。
 ⑨終わりに
  →効果的人助けは、自己犠牲で身を減らすよりより自分を強くして、win-winビジネスを展開すること。
   ゲイツは独占して莫大な富を獲得し、使いきれずに、慈善事業へ。
   “ 十分に自分の価値を蓄えれば、やがて自分のなかから価値があふれ、他人の分け与えられずにはいらられなくなる”
   成功には多くの失敗が必要だから、失敗した人も救済に貢献している。

 分裂勘違い君劇場:あなたは、なぜ、自分のお金を貧しい人々に分け与えないのですか?                    

                *

 この「答え」は前提を見逃して導き出されている。

 “そもそもあるものがなぜ自己のものであるといえるのか。”

 なぜ、私は私の身体を含めて、私のもとにあるものを「私のもの」だと言うのか。
 それが問われなければならない。

 私がそれを制御できる・しているからか?
 しかし私のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、それを他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分してよいという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。 

 その人が制御されるもの、生産されるものがその人のものになる。
 “これは事実ではなく、そうなるべきである、そうなるのが正しい、という一つの倫理命題、一つの主張である。”
  
 確かにただの信念かもしれないが、「私が生産した・制御しているものを私が所有する」、という仕組みは、そうでない仕組みよりうまくいくのだとも考えられる。
 しかし、そのことは“財が誰かのものであった方がよいということは言える(言える場合がある)としても、誰のものであったほうがよいのかということは言わない。”
 また、私的所有を前提とした市場による交換・分配の有効性についても、“世界にある財が、交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ、交換は起こりようがなく、その初期値の設定を定める規範は、市場の中にはない。”
 だから、有効性や効率性という観点から言えば、「私が生産した・制御しているものを私が所有する」という仕組みは必ずしも有効・効率的ではない。少なくとも、「生産・制御→所有」の「→」が肯定される必要はない。
 つまり、「私が生産した・制御している」ことと「私のもの」であることをつなげるものではない。

 「私の生産した・制御しているものは、私のものだ」
 「私が生産した・制御しているから、私のものだ」
 は正確には
 「私が所有しているから、私が所有する(べき)ものだ」
 という信念、倫理命題となる。

 だから
 私は、なぜ、自分のお金を貧しい人々に分け与えないのか?
 この問いは、「私がお金を持っている」「お金のない人がいる」という二つの事実を前に発されたものの様に見える。
 だが、「私がお金を持っている」という事実には上述したような信念「私が所有しているから、私が所有する(べき)ものだ」が隠れている。
 従って、この問いは問い自体がすでに答えを含んだ問いだといえる。
 即ち、「私が所有しているから、私が所有する(べき)もの」という答えとなるべき信念に立っているのだから、「貧しい人々に分け与えない」のは当然なのだ

 そして、出された「一つの答え」も、やはりその信念を犯さないものとなっている。

 ちなみに、⑤で日本の失業者より東南アジアの子どもの教科書代へ10万を寄付するのは、本人が制御できないことで倒れたと原因帰属すると援助を強く動機付けられるという救援活動における心理規定要因として知られていることと同じ。
 つまり、それが有効か否かが救援の動機付けとなっているというより、何が原因でその人が救援を必要としているのかという予想された理由に対する感情が動機付けるか否かを規定している

 
  引用)『私的所有論』立岩信也著(勁草書房)

               *

 この記事を読んだときに、池田信夫さんの記事を言い換えたものかなと感じた。⑨で例に出されたビル・ゲイツの財団設立についても、結局、そんなことをするよりマイクロソフトをもっと儲ける会社にすることのほうが有効じゃないか、という話もあるようで、結局どうなのか、ダンコーガイ。



関連記事:すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。テロの隣人
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by sleepless_night | 2008-03-17 22:19 | 倫理

「できるのにやらない」ことについて語るときに、僕の語ること。



(1)発言の構造
 “「おねがいです。できるだけのことをしてください」”

 認知症・95歳男性の肺炎患者の娘がこう発したのは、医師が「輸血製剤」という「できること」の存在を示したからだ、と「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。で述べた。
 そして、これは死生観の変化の問題ではないことも述べた。
 過去の時代を見ても、死に対して可能な限りの反抗を試みた人々の存在は容易に見つかる。
 中国皇帝の不老不死の追及や欧州キリスト教での奇跡信仰を取り上げるまでもなく、過去も死を従容として受け入れられた人々で構成されていたわけではまったくない。
 だから、日本人の死生観を嘆くことは適当ではないし、嘆くとしたら俗流若者論に近いメンタリティーによるものだろう。
もし現代人の死生観を問うなら、高齢者よりも幼児の死を問題にすべき。百年前の幼児死亡率、「七歳までは神のうち」と言われたことを考えれば、現在の幼児への治療、特に障害を持つ可能性のある新生児への医療資源の分配は見直されなければならいだろう。
 
 この上記引用発言で考えるべきは、「できるのにやらない」ことの承諾・決断を娘自身に求めたことの応えである点だと思われる。
 つまり、すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。で述べた作為・不作為の問題だ。
 莫大な遺産を得るために風呂場で従兄弟を事故に見せかけ溺死させたスミスと、同じく遺産を狙って殺そうと風呂場にいったら従兄弟が滑って頭を打って溺れていたので、死ぬのを眺めていたジョーンズ。
 スミスとジョーンズの例を出して、J・レイチェルズが問うた「行為と不作為にどれほどの違いがあるのか?」、という疑問。
 そして、日本の刑法を見たときに作為と不作為の違法性を分かつ関係性。
 倫理的に見て二人に大きな違いはなく、法律的に見てスミスは殺人罪、ジョーンズは保護責任者遺棄致死罪に該当する。だが、仮に従兄弟でなければ二人に倫理的な違いを認め得、法的にもスミスが殺人罪であることに変わらない一方で、ジョーンズは罪を問われないという、関係性による作為と不作為の評価の変化がある。
 即ち、不作為の場合に関係性によって、倫理的殺人から法律的無罪へと大きく変化する。
 
 これが娘の発言を考える場合にも当てはめられる。
 認知症95歳男性の娘にとって、男性の死が父親の死(=「二人称の死」)であることが「できるのにやらない」ことの問題なのであって、見ず知らずの認知症95歳男性の死(=「三人称の死」)ならば「できるのにやらない」ことが問題となるとは考えられない。
  
 医師にとって「できるのにやらない」ことは単なる不作為(≒無罪・正当業務)、娘にとって父親に「できるのにやらない」ことを決断・承諾することは不作為(≒倫理的殺人・法的遺棄致死)になるのだ。
 だから“「できるだけのことをしてください」”と言わなくてはならなかった、と考えられる。

(2)「できるのにやらない」ためにできること
①みんなで渡れば

(1)の考察から、「できるのにやらない」ためにできること、のひとつが考えられる。
 娘にとって父親への「できるのにやらない」承諾は不作為(≒倫理的殺人)になる。
つまり、赤信号を渡ることだ。
だとしたら、それを変えることは容易ではないが、赤信号はみんなで渡ると怖くない。
 つまり、娘一人が「罪」を犯すことから、95歳男性の死を「二人称の死」と捉えることのできる娘以外の複数人を引き入れる、「共犯者」を入れればよい。
 そして、その複数人の内でも冷静であったりする(隠れ「三人称の死」派)人を使って説得させることが考えられる。
 こうすれば、医師・看護師といった病院側の人間と患者との利益衝突を回避できる。
 コーディネーターのような第三者を入れるカネもかからない。

②すり替え
 もうひとつは、「できるのにやらない」から「できることをする」へとすり替えてしまうこと。
 「やらない」(=不作為)ことが、「やる」(≒殺人)と評価されるのが問題ならば、別の「やる」(≒殺人以外)を提示してしまえばよい。
 何かを「やる」ことで、「やらない」ことから意識をそらす、もしくは「~はやらなかった」が「~はした」とマイナスのプラスによる埋め合わせを与えることができる。
 実際は、「できるのにやらない」ことに変化はないが、認知を変えるようにもっていく。

(3)分断統治
 「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。の(6)で、仮にQALYのような功利主義に基づく医療資源分配を医療従事者が提言するならば、自らの立つ現代医療という場を崩すことになると述べた。
 しかし、QALYのような制度を部分的に取り入れることならば、そうはならないと考えられる。
 たとえば、国民健康保険を二種類に分ける。一方は現在と同内容だが保険料を値上げする(通常版)、もう一方は現在より保険料を低く設定しQALYのような制度の適用を受ける(簡易版)とし、どちらにするかを個人個人に選択させればよい。
 これならば無保険者を現在よりも減らすことができ、国民皆保険という建前も守れる。
 そして、医療に対する平等性要求からも、多数派が前者を選択し、対立が後者を選択させられた少数者内部におさまる限り、現代医療に対する社会の支出への異議は起きないだろう。

 

 殺したのが従兄弟でなければ、スミスは殺人であることに変わりないが、ジョーンズは法的には罪ではないのだから。
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by sleepless_night | 2008-01-03 18:06 | 倫理

「諦め」と蛸が足を食べる覚悟。


(1)あきらめてください。
 95歳男性、認知症、肺炎で入院。
 不足している輸血製剤のオーダーを取り消し、それを家族に話す。
 “娘は泣き崩れた。
 「お願いです。できるだけのことをしてください。」”
      ↓ (対する感想)
 “不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。”
 “「老いたら死ぬ」そんなことがこの国では当たり前のことではなくてってる。”
 “日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。”

http://blog.m3.com/Visa/20071227/1より

(2)できるがために
 “技術が発達するということは、つねに新しい「選択」ができるようになるということだ。奇妙なことに、技術は私たちに新たな選択を与えるかもしれないが、必ずしも選択の幅をひろげはなしい。”
 “技術を使うのを「選択」するとき、私たちは女は何よりも母親であるという社会の見方を認め、正当化していることになる。そしてこの選択をするとき、「あきらめる」「自分なりの人生を生きる」という選択の扉が、うしろで閉まってしまうのだ。”

 女性の不妊に対して、現代技術は大きな力を発揮している。
 体外受精はもちろん、代理母という手段まで現実的な「選択」肢を提供している。
 すでに国内でも、産婦人科学会の反対を押し切って閉経後の母親にホルモン療法を受けて娘の子を出産した事例まであり、不妊に悩む人々にとっては希望となっているのかもしれない。
 しかし同時に、技術の発達は、それまで「できなかった」たために「諦める」ほかなかったことを、「できる」のに「諦める」ことへ変えた。「諦める」を事実から理由を必要とする行為に変えてしまったことを意味する。
 不妊であっても子供のいない人生や養子を迎えることで解決すればいいと当人たちは思っていたとしても、周囲は「諦めた」のだとみなしたり、「諦め」ないように励ましたりするために、肩身の狭い・罪悪感めいたものまで押し付けられたりすることが起きる。また、「できる」とされるがために、経済的・時間的・精神的な労力を過度の消費する人々もいる。

(3)死生観?
 死生観:死あるいは生死に対する考え方。また、それに基づいた人生観。

 死生観には死亡ということのみならず、死後の世界観も関係する。死後の世界の有無、死後の世界の様相によっていかに生を決める・評価する。
 
 まず、日本人の死生観を伝統という点から言えば、死んだら何もなくなるとはならない。『古事記』では地下の黄泉の国があるが、民族宗教(そして仏教の葬儀・盆・正月のような循環的儀礼に組み込まれて)では山中や海上に他界があると想定され、魂は仏壇の位牌にもしずまっていると想定され、現在では墓にも存在すると考えられている。
 死者は生者と同様に、死んで時間が間もないときは落ち着かず、時間とともに生者の供養を受けて静まり、やがて個性を失い代々の先祖(年神)と一体化し、生者を守る働きをする。
 死者と生者の世界は異質・逆な性質をもつ部分もあるが、同じ構成要素を持ち、二つの世界は相互に関連しあい、力・影響を及ぼしあっていると考えられている。
 そして、基本的には、生きているうちの倫理・戒律の遵守程度による地獄極楽といった厳しい選別になじまない。本覚思想に代表されるような全員が救われることを好む傾向がみられる。
 
 確かに、This is Christmas,so what?でも述べたように明治以来の大きな社会変化・人口移動で先祖観は変化をこうむってきた。仏壇・位牌、神棚といった先祖崇拝の設備を持たない家は都市部に顕著に増加していることは調査からも明らかになっている。
 葬儀もかつては村や近所が仕事を休んで行われてが、火葬場・公営斎場や葬儀業者の進出で大きく変化した。土葬や野辺送りがなくなり、納棺などが省かれ葬儀時間は著しく減少し、葬儀と埋葬は分離した。波平恵美子(御茶ノ水大教授・人類学)さんはこの変化を“「葬送」から「葬儀」”への変化を呼ぶ。

 だが、この儀礼の変化は死生観の変化を意味するのだろうか。
 “「葬送」から「葬儀」”になったこと、また神話・伝説・昔話などの伝承が途絶えつつあることを考えれば、死者との関係やそれに基づく行為に変化はあったのだろう。
 しかし、根本的なところでは変化がないように思える。
 人は死んだら終わりで、死後の世界へ生者が影響を行使できないから、先祖供養は必要ないとという風潮は見られない。仏壇や位牌といった形を取らなくなっても、死んだ祖・父母などが身近に感じられない・隔絶した世界に存在すると考える人が増えたとも思えない。
 戦後に発展した水子供養や先祖崇拝を重視する新宗教、近年のマス・メディアで流される「霊能者」たちの存在、を見る限り基本的・根本的な死生観(死後観)は変化していないようにしか見えない。

(ただ、自分の命/自殺という過酷な自由を考えるためにで述べたようにアリエスや小松美彦さんの指摘する“死の死亡への還元”は否定できないが)

(4)QALYという発想
 したがって、“日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。”のではなく、(2)でみた不妊治療における反作用と同様に、「できる」ようになったために「諦め」られなくなったと評価するのが妥当だと考えられる。

(また、医療にたいする人々の態度の変化も考慮に入れる必要がある。かつては、医者にかかるとを忌避する人がいたこと、かなり重症でも往診だけですませて入院を拒んだ人々がいたことを考えなくてはならない。さらに、インフォームド・コンセントをはじめとする患者側の姿勢の変化も見過ごして考えることはできない。)

(追記:死生観のうち、死亡という出来事のみに対する感情、便宜的に「対死感」と呼ぶ、は確かに変化しただろう。それは、(3)で述べた死後の世界の有無やその在り様に基づく生き方や死への態度とは関係が無い・僅かであり、変化の原因は医療・衛生の向上に伴う期待水準の上昇と近代家族の要件のひとつ「家族内の強い情緒関係=外部者の排除」によると考えられる。つまり、「年をとったら死ぬ」のはわかるとしても、現代医学はその事態にできることがある、しかも、死ぬのは大切な家族。だから、厳密には「死亡感」一般の変化というより、家族などの親密な他者や自分の「対死感」の変化と考えるのが妥当だろう)

 では、「諦める」べきなのだろうか。
 医療資源の有限性を前提にした分配問題に対して、功利主義の観点からQALY(quality-adjusted-life-year)という考え・解決法が提唱されている。
 これは、完全に健康な状態を1、死を0として、ある特定の医学的状態が持つ効用を1~0であらわし、それに生存年数を掛けた値(QALY値)を用いることで最も効率的な医療資源の分配を可能にするという考え。
 たとえば具体的には、腎不全の40歳男性の場合。人工透析の場合、しなければ死んでしまう0から透析を受けること生存できるが活動が大きく制約されるので0.6までしかQALYは上昇しないが、移植が成功すれば0.9まで上昇するとする。70歳までいきるとして、それぞれのQALY値は、透析0.6×30=18、移植0.9×30=27ということになる。
透析には月に40万かかるとして、70歳まで生きるとして30年で約1億5千万かかる、移植には約1千万かかるとすると、それぞれQALY値1を上昇させるのに、透析は約800万かかり、移植は約40万かかる。
 このように数値化できることで、同じ1000万なら、一人を0から7までを上昇させるよりも、三人を6から9まで上昇させるのにかけたほうがよいなど、判断でき、社会全体の医療分配に応用できる。
 ただし問題点として、QOLや選好(何をよしとして選択するか)を評価・測定するのが困難・曖昧であること、医療介入によって得られるQALYのみしか考慮に入れないことで個人から選択を奪ってしまうこと、命のかかわらない場合でのQALY値の上昇が多人数集まると命にかかわる場合のQALY値を超えてしまうこと、などが指摘される。
 浅井篤(熊本大・生命倫理・一般内科)さんはこられの疑問にたいして乱用・過剰使用を阻止する仕組みを前提とした上で“医療と「効果」「利益」「効率」「結果」「費用」などの概念を切り離すわけにはいかない。そしてQALYはそれらの概念を組み入れが唯一の理論で恣意的でない分配方法論である。”と支持する。
 そして救急かQOL上昇のためかを区別した上で少数への高額医療の制限と「ライフサイクル伝統主義」の視点から“若年者が高齢者よりも医療資源分配において優先”されることを許容するとしている。

 医療資源の有限性は否定できない現実であり、(2)のような技術の発達がコストダウンを可能にするかもしれないが、同時に先端技術開発は膨大な費用を必要とすることから、医療資源の有限性を無視してよい時代がくるとも想定できない。
 とすると、国家や社会の政策としてはQALYは有効なアイデアだといえる。
 だが、浅井敦さんがオランダ・日本・アメリカ・オーストラリアの調査を引いて述べている、人々の医療にたいする平等主義的嗜好は無視できないだろう。
 この調査について“「無差別に全員に平等な医療を提供し続け医療制度を崩壊させるか、それとも何らかの選別方法を用いて医療制度を維持しつつその範囲で可能な限りの人々に医療を提供するか」と問うべき”と指摘しているが、この問いに制限肯定と答えた人も、目の前で困難な状態に置かれた肉親・親しい人を前に煩悶するだろう。そして、そのような体験が、目の前に置かれた人だけでも助けてほしい、例外扱いしてほしいと本音をいだかせるだろうし、それこそが制度に立ちふさがるだろう。

(5)誰が言うか。
 曹洞宗の檀徒意識調査によると「なんのために『お坊さん』を尋ねますか」の問いに対し「葬式・法事をお願いするとき」が約66%、「仏教の教えを説いてもらうとき」が約3%、「困ったときや悩んでいるとき」が約1.5%。

 “現在の仏教のいちばん悲惨なところは、人々から何も期待されていないとろこだ。期待するに足る存在だとすら思われていない。”
             『がんばれ仏教!』上田紀行著(NHKブックス)

 “彼(高橋秀利)はなぜ自分がオウム真理教に魅力を感じたかを説明したが、その中で、既成仏教教団は、自分にとって「風景」でしかなかったという趣旨のことを述べた。”
             『若者と現代宗教』井上順孝著(ちくま新書)

 この状況を考えれば、仏教の僧侶に期待することは無理だろうし、期待されてもそれにこたえられるだけの僧侶がどれほどいるのかが疑問だ。
 だとすれば、一番、死の近くにいることになる医者・看護師ということになるのだろうか。
 しかし、それは患者から見て納得しづらい構造、医療行為を停止する当人に説得される、し医者や看護師に宗教領域に入る事項まで面倒をみさせるのは明らかに酷だろう。
 では、誰がいるのだろう。
 可能性としては、移植時のコーディネーターのような存在を病院に配置することが考えられる。
 ある程度の医療知識を備えることで医者・看護師と患者・家族を繋ぐことができる第三者を存在させる。これは、アメリカの保険制度と同じ危険、医療が患者の担当医ではない人間に支配される可能性もあるが、第三者性を担保できる仕組みを整備できれば低減できるだろう。
 だが、この第三者の言葉が、どれだけの説得力を持てるか、それも大いに疑問だ。(それに人件費もかかる。)

(6基盤を自ら壊す覚悟
 また、「諦めろ」が社会的に説得的なこととなった場合、社会は医療技術にたいする費用支出に合意しなくなると考えられる。
 功利主義的社会は利己主義的な人々によっては維持できないのと同様に、医療も利己的(発達はしたいので全員から金を集めたいが、その成果は一部にしか与えない)になれば社会から功利主義的な存在根拠を失うだろう。
 医療従事者が「諦めろ」と求めるならば、自分の足(基盤)を食べる(壊す)覚悟が必要だ、と思う。
 

補論→「できるのにやらない」ことについて語るときに、僕の語ること。

関連エントリ
すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。救う会の救われない救い



引用・参照)
『不妊』レナーテ・クライン編 「フィンレージの会」訳(晶文社)
「QALYと医療資源分配」浅井篤著(ナカニシヤ出版『生命倫理と功利主義』収録)
『日本の民族宗教』宮家準著(講談社学術文庫)
『日本人の死のかたち』波平恵美子著(朝日新聞社)
『葬儀と墓の現在』国立歴史民俗博物館編(吉川弘文堂)
『仏と霊の人類学』佐々木宏幹著(春秋社)
 
 
 
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by sleepless_night | 2007-12-27 22:52 | 倫理

『殺された側の論理』/正義の先と早過ぎる選択

『殺された側の論理』/愛と正義の不可能性の続き。

(4)正義の先、もう一つの選択肢
①もう一つの選択肢

 (3)③結論で、被害者加害者の両方をプラスにする、加害者がプラスの状況にあることは善いことだと認めたうえで出来ること・すべきことを述べた。
 しかし、もう一つの選択肢が正義の先にある。
 
 “大多数の遺族にとって、加害者の「更正」は(するにこしたことはないが)二の次さんの次の問題であって、かつ「真の」更正など期待はしてないのである。もっと言えば「どうでもいいことなのだ」私は100家族以上の犯罪被害者遺族の方々に会ってきたが、これが遺族の心情であると断言することができる。”
 藤井誠二さんは繰り返し「更正が大事か?」と問い、問う形を採って否定の意思を伝える。
 そもそも加害者がプラス状況にある(権利が保障されている)・なる(更正し・社会に有益な存在となる)ことを期待しない、認めないという前提。

 確かに、これはこれで正義となりうる。
 つまり、被害者や遺族の<愛>とは関係なく、純粋に社会における正義(比較可能なものとしての均等・平等)として加害者をマイナスにし、被害者をプラスにすることは、相対的平等・分配的正義の観点から認めることが出来る。
 (2)④で述べたような被害・加害者を両方プラスにしようとする正義の場合も分配的正義によるが、同時に形式的平等による矯正的正義(法の下の平等、人間としての侵されない権利)の観点があるので、加害者をマイナスに放置することが認められなかった。

 中嶋博行(作家・弁護士)さんは、新人権主義と銘打ちこの選択肢を明確に支持し提案する。
 “新人権主義は犯罪者の更正改善など求めない”
 “私は常々不思議に思っていることがある。わが国の行刑目的、いや刑事司法の究極の目的は犯罪者の更正改善にあるとされ、だれもそれをうたがっていない。しかし、犯罪者を更正改善させるのはそんなに大切なことだろうか。”
 “犯罪者を更正させる費用はすべて税金であり、かつ、いたれりつくせりの更正プログラムを用意しても成功する可能性は低い。(中略)いったい、だれがそこまでかけてレイプ少年の立ち直りをのぞんでいるのか?血税が泡と消えているのだ。少年には己の更正より、まず被害者に償わせるべきである。”
 そして、その手段として刑務所に工場を誘致し、働かせた利益を当てる。刑期満了時に賠償額を稼げなければ公設取立人に追わせ、金がなければ犯罪賠償刑務所で働かせることを提案している。

②その先
 中嶋博行さんの上記アイディアはちょっと見で悪くないと思われる。
 しかし、少し考えればこれはうまくいかない、少なくとも中嶋さんが目指す犯罪の無い社会には絶対にならないことは容易に予測できる。
 なぜなら
 「刑務所に工場誘致=安い労働力+法の不適用」となれば、捨てることが公に認められる労働力を国内で調達できるようになるのだから、企業がこれを手放すはずが無い。
 企業は、犯罪がなくなったら困ることになるのだから、犯罪をなくそうとしなくなる。
 これは、刑務所運営参入した民間企業(警備会社)は、治安がよくなったら困る企業なのだから、犯罪がなくなって欲しいはずが無いことと全く同じ。全体的な数が減ったとしても、定期的に国民に恐怖と不安を感じてもらえるような事件がおきてくれなければ困る。これでさらに工場誘致などすれば、何が起こるのか。

 さらにそもそも、刑務所に“健康で働き盛りの人間”が溢れかえっているのかという疑問まである。
 “よく観察してみると、「治安の最後の砦」であるはずの刑務所は、たしかに処遇困難者で一杯になっている。しかし、それは従来よりも手間がかかるという意味であって、凶悪犯罪者というよりは、明らかに労働市場から締め出された、何らかのハンディキャップを持った者たちで埋め尽くされているのだ。”
 法務省の研究官から累犯刑務所(犯罪性の進んだものを収容する刑務所)の矯正官に移動した浜井浩一(竜谷大法科大院教授・臨床心理士、統計学・犯罪心理学)さんが過剰収容の刑務所で見たのは、「福祉の最後の砦」と化した刑務所だった。

 単純で説得的な分配的正義のメッセージ(犯罪者にはその負の価値に応じた扱いを考えるだけでよい)、その先に現れる光景を私達は見たいのだろうか。
 
(4)司法と民主
①民主的基礎=ペコペコ?

 裁判官は世間知らず、と言われる。
 試験合格・修習の後にキャリア裁判官として基本的にその世界で生きる。しかも膨大な事件・訴訟を抱え込み、裁判所と官舎(転勤があるので持ち家ではない)を通勤バスで行き来し、休日も自宅で仕事をしなければならないのだから、法廷の外と接する機会は限られたものとなる。
 また、それが良いことだとする、エリート意識のようなものを持つ人もある。

 議院内閣制により、国民は選挙を通じて立法と行政のメンバーを選ぶことで、自分たちの意見・選択を国政に伝えることができるとされている。それが実際できていると感じているかどうかは別として、選挙(選ぶ)と言う具体的な行為とメディアによって立法と行政について僅かでも具体的な操作感を持つことはできる。
 しかし、三権のうち司法だけは、そうではない。
 判事・検事の選挙はなく、衆院選時にある国民審査で分けも分からず×をつけてみるしかない(それだって、解職された最高裁判事はいない)。メディアでは弁護士が大活躍しているが、彼・彼女は法廷の外にスタンスを置いている(裁判官・検事が法務省内にいるのと違い、外部者のようなもの言いができる。それが視聴者の味方のような錯覚を与え、共感できない・ように報道される被告(人)の代理人は弁護士失格だとの感覚を与える)。
 「税金で食わせてやっている」のに、なんで国会議員のように定期的にペコペコしてみせ、私達の鬱憤を晴らさせないんだ、と感じてもおかしくない(懲戒請求という手が最近「発見」され、弁護士はペコペコさせることができるかもしれない)。
 この視点は単なるイチャモンではない。国民主権の立場から言えば、司法の意思と国民の意思がズレることは悪いことで、正されなければならない。だから、選挙で判検を選ぶ国だってある。

②感情が正義に
 “被害者にとって法廷は、法的な枠組みの中で扮装を解決すべき場ではなく、彼らの思いが正義の主張として裁判官に聞き届けられるべき場であり、真実を追究し、謝罪を求め、彼らの受けた被害を社会にとって意味のあるものとして位置づけようとする場である”

 刑事訴訟法が改正され、殺人・強姦・重過失致死などの刑事裁判で被害者が、検事の横に座り、証人質問・意見陳述、求刑などを行えるようになる。
 これは、今までの刑事裁判の性質を根本的に変えるものといえる。
 横に被害者を置いて、法の下の平等(と自分のキャリア)を理由に先例との比較をできる検事がいるとして、それが今度は槍玉に挙げられないだろうか。
 もし、冤罪事件だったら、検事の横で求刑などに関った被害者は何だったことになるのか。検事なら、それを職務上の間違いにできる。でも、被害者は何だったことになるのだろう。
 いや、これはいままで被害者が悲惨に放置されてきたのだから仕方がない。多少の犠牲はつきものだ、と流すのだろうか。
 では、冤罪の被害者(犠牲者)は、裁判に参加して自分の自由・生命を奪った被害者にどうすればいいのだろう。

③善いままに、そこから
 (3)③で述べた結論の繰り返しだが、善いことは善いと認めるべきではないか。
 人権が保障されることは善い。人権の「人」には加害者も含まれる。
 そして、善いものを悪くする必要はない。
 現状の効果が期待値以下だといっても、それで善いものを悪くする必要もない。
 どうせ効果が期待値以下ないのだ・そもそも期待などしないのだから、悪くして放置したっていいじゃないか。と思うかもしれないが、犯罪者を全員一生閉じ込めておこうとでもしなければ、社会にその悪く放置された犯罪者は帰ってくる。
 だから、善いものは善いままに、今度は被害者を善く(プラスの状況に)する方法を考えればよい。
 そしてそのアイディアは既に提案されている、賠償や公的な援助者・組織の整備があり、実現すべきだと思う。
 
 <愛>の正義は不可能だということ。
 社会が不可能を追い求め続ければ、とどまることを知らず、深淵に導かれる。
 もしかしたら、社会全体が一緒に深淵に落ち込むことは望ましいと考える人もいるかもしれない。
 しかし、私は違う。犯罪者に期待といえるような立派なものなど持ち合わせていないが、それと法・制度を切り替えてマイナスの状況を加速させるようなことは、社会を安全にするもの・生活したい社会ではないと考えている。深淵に落ち込む必要はない。深淵に落ち込んだ社会で、人々が安心や信頼を持って生き・育てらるとは考えられない。
 (3)②で述べたように、被害者支援と死刑廃止は切り離して考えられるし、そうすべきだ。
 それと同様に、加害者の人権が保障(プラスの状況)されたまま、被害者の人権を保障することだって考えられる。両者はもちろん無関連ではありえないが、完全連動するものでもない。一方のプラスをそのままに、もう一方もプラスにすることは考えられるし、それが望ましいことだと考える。
 
 “「法律がこれじゃどうにもならない」と嘆く本村氏を、その刑事は一喝した。
 「そんな泣き言をいうな。法律が悪いと思うなら、なおせばいい。それが、きみのやるべきことだ」
 本村氏は当時の心境をこう語る。
「ふつう法律を変えるなんて想像もつかないのに、いともあっさりいわれて驚きました。でも、その一言がきっかけで、法律を変えるという、今の被害者活動に結びついたんです。」”

 少なくとも、もう一つの選択肢を選ぶしかないとするのは、早過ぎる。
 法律に納得しないなら変える、その権利は国民にあるという小中高と繰り返し教えられたはずのこの理屈が、当たり前に出てこない現状(これは本村さんのことを特別に指しているのではない。実際、この当たり前の仕組みや三権分立の意義を理解し、どこをどう動かせばいいのか・動かしてはならないのかを分かっている人は多くないと思う。結局、学校で習ったのは穴埋め問題に答えられるための知識で、現実を運営するためのものとして認識させるものではないのかもしれない)で、もう一つの選択肢しかないと考えるのは間違いだし、早過ぎる。 



引用・参照)
(1)①『愛の言語学』立川健二著(夏目書房)より引用
 ②『21世紀家族へ』落合恵美子著(ゆうひかく選書)を主に参照
 ③『ニコマコス倫理学』アリストテレス著 高田三郎訳を引用・参照
 文中ではアリストテレスの考え・用語を利用したが、これはアリストテレスの正議論と一致しているということではない。 
 ⑤『殺された側の論理』藤井誠二著(講談社)より引用。(2)①③④、(3)①も同様。
(3)①『罪と罰、だが償いはどこに?』中嶋博行著(新潮社)より引用。(4)③も同様。
 ②『犯罪不安社会』浜井浩一・芹沢一也著(光文社新書)より引用。
 (4)②は同書に紹介された和田和孝さんの意見。

(2)④で「藤井さんは死刑を煽っている」と述べた理由)
 これは間違いや誤解に註も訂正も入れていないことが大きい。
 取材ノート①被害者遺族の方の対談、p92“犯罪白書によると、住宅地の夜の一人歩き~”の部分で、実際の治安と体感治安の区別をつけない意見や、p97で覚せい剤利用時の犯罪での心神耗弱の議論でも刑法学的に誤解を生む(犯罪の度胸付けで覚せい剤を打てば刑が軽くなるわけではない)記述がある、p101で刑法制定“当時の平均寿命は40代”とあるが、これは乳児死亡率の高さを考慮していないので不適切、p102で“国家が命を奪うのがおかしいと主張するならば、警官が銃を持つのも禁止しなくては”とあるが死刑と警官の拳銃使用場面の意味が違いすぎて無意味、p103で“すべての犯罪者を同一視して、同じ更正プログラムに”とうのも日本の刑務所では分類処遇制度を採っているので間違い。
 いくら対談だからといって、誤解や間違いをそのまま刊行してよいというのは、プロのライターとして誠実ではない。メディア(第三者性)を放棄している。
 また、(2)③で述べたような図式、「なぜ善人が悪人に殺されなければならなかったのか?」という問題、何に怒っているのか、が意識されておらず、被害者が放置されていることの怒りと混合されている。被害者や遺族の方が手記の形で怒りを表現することと、第三者であるライターが同じ表現をとることでは意味が違ってきてしまうことを看過している。
 同書は読者に対して、「死刑以外はない」というメッセージに障るものを意図的に除けて伝えるもので、死刑を煽っているものと言える。


メモ的な追記)
 このエントリで述べたこと
 加害者をマイナスにすることと、被害者をプラスにすることは別でありうる。
 被害者や遺族の求める<愛>の正義は不可能。
 は、ご自身も犯罪被害者で、犯罪被害者の会幹事をなさっていた渋谷登美子さんの幹事辞任理由と重なる。
 
 “私は、『復讐権』を認めた社会は、人間の文明を滅ぼすと考えています。被害者の『復讐したい』という情念を社会に伝えたいという思いを否定しがたいものがあります。しかし、国家が被害者に代わって復讐することを刑罰として捉え刑事司法の改革を世論として確立する働きかけをすることは、私にはできません。
 死刑を廃止すること、それに真っ向対立して死刑執行を求める動きもあります。
 私は、被害者の権利確立は、加害者の刑罰に関らず進めたいと考えています。しかし、「犯罪被害者の会」幹事会では、加害者の刑罰が少しでも重いことが、被害者の権利確立に通じるという情念で働いているように感じられます。そのため、修復的司法とか、和解という意味合いの言葉がどこかででてくると、犯罪被害者の会幹事会では、被害者に対しての裏切り行為のように感じられるようで、加害者を擁護することになるらしく、激しい攻撃にあうことがあります。
 遺族は、「家族を殺害した加害者に復讐したい」というつらい思いを語る吐露することも必要なことだと思います。復讐をかたるなとはいえません。「犯罪被害者の会」は、遺族の自助グループではなく、被害者の権利確立の運動タイとしての働きかけをおこなう団体として設立しました。「報復感情を実現したい」という情念からの被害者の権利確立の動きには、賛同できず、それを議論することは、遺族の感情を著しく傷つけることになるので、辞任することしました。” 
  http://www.k2.dion.ne.jp/~saiko/shibuya/TS1229.htm#辞任

 全くの思いつきだが、この考え方の違いにあるのは、被害者本人と被害者遺族という違いなのかもしれない。
 これは佐藤健生(拓殖大教授)さんが、戦後賠償についておっしゃっていた「赦すことができるのは被害者しかいない」を思い出してのこと。
 つまり、実際に直接被害を受けた戦争被害者が「赦す」と言えるように賠償をせず、ほっといて被害者が死んでしまえば、被害者の後の世代は「赦す」ことができなくなってしまう。「赦す」正当な権限を持つ本人がないゆえに、賠償に「これでよい」ということ、人を納得させる「これでよい」と言える人がいなくなる。とのことを仰っていた。
 犯罪被害者本人は、「被害を受けた自分」で生きていかなくてはならず、どこかで「これでよい」と思っていかなければならない(赦すというより、切り離して他にやらなければならないことがあると思うこと。「赦す」≠「これでよい」であって、「これでよい」を説得的に言えるのが「赦す」権限のある人だということ)のに対して、遺族の場合「これでよい」と言えない、言える正当な本人がいないために、権利確立と修復的司法や和解といった問題が切り離せず、不可能な<愛>の正義を求めてしまうのではないか、と思う。
 もちろん、「これでよい」といってくれる本人が生きていないこと、殺されたことが事実であり問題なのだが、それは解決できないことも事実である。
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by sleepless_night | 2007-06-22 21:28 | 倫理