カテゴリ:倫理( 18 )

『殺された側の論理』/愛と正義の不可能性

 “ロープ担当の刑務官が、規定の方法でロープを死刑囚の首にかける。同時に他の刑務間が死刑囚の膝をひもで縛る。間髪をいれず保安課長の合図でハンドル担当がハンドルを引く。死刑囚の立っている踏み板が落下して死刑囚が宙吊りになる。この間わずか三秒程度のものなのである。”
 “宙吊りの体はキリキリとロープの限界まで回転し、次にはよりを戻すために反対方向へ回転を激しく繰り返す。大小便を失禁するのはこのときである。遠心作用によって四方にふりまかれるのを防ぐために、地下で待っていた刑務官は落下してきた死刑囚をしっかりと抱いて回転を防ぐ。”
 “医官は死刑囚の立っている踏み板が外れるのと同時にストップウォッチを押す。つぎに仮死状態の死刑囚の胸を開き聴診器をあてる。心音の最後を聞くためである。もうひとりの医官が手首の脈をとる。脈は心音より先に止まる。心臓がすっかり停止するまでには、さらにもうしばらく聴診器をあてたままでいなくてはならない。
 しかし、それも、そうな長いことではない。ストップウォッチを押してから、心臓停止までの平均時間は十四分半あまりである。この十四分半あまりが、死刑執行に要した時間ということである。”
               『死刑執行人の苦悩』大塚公子著(角川文庫)

 “より多く殺した人間ほど得が大きい刑罰、それが死刑だ。”
                『宣告』加賀乙彦著(新潮文庫)

                  *

(1)愛と正義
①<愛>について
 
“そもそも、<愛する>というのは、ある固有名詞をもった存在が、別のある固有名詞をもった存在と関係を結ぶことである。言い換えれば、<愛する>というのは、固有の「名」と「顔」をもつものとしての、かけがえのない、とりかえのきかないこのわたしが、やはり固有の「名」と「顔」をもつかけがえのないこの他者とかかわるということだ。(中略)それは、システム、あるいは共同体の成立していない地点で、この他者と交通するということである。”
 立川健二(言語学・記号論、元東北学院大助教授)さんの固有名詞を用いた愛に関する上記引用を整理すると<愛>の対象には
 ・不代替性=比較不能性
 ・脱共同体性
 の二つの要素が見られる、と言える。
 一言で言えば、「市場に通用するものではない」ということになる。

②家族について
 私たちの言う家族は、社会学で言うところの近代家族。
 近代家族の特徴として挙げられるのは
 ・公私の領域分離=性別役割分業
 ・子ども中心主義
 ・家族内の強い情緒関係=外部者の排除
 などだが、これも一言にすれば「家内の市場からの分離」と言える。
(定義はどうあれ大部分の当事者が「恋愛結婚」だと認識しておこなわれるのが現代日本の結婚であり、それによって家族が形成されている。それは当然、①で述べたような<愛>の言葉と理屈が近代家族の特徴のひとつである「家族内の強い情緒関係」に当てはめられていることになる。理屈を確認すれば、<愛>とは「比較不能なものの選択」という不可能な行いであり、不可能であるがゆえに<愛>は市場で比較されてはならないものとして認識されなければならない。比較を始めればとたんに<愛>の不可能性が露呈してしまうので、比較されてはならないものと予め認識さていなけれなければならない。<愛>による家族である近代家族の子どもは市場の中に存在せざるを得ない生産財ではなく、建前として市場と接触しない消費財へと変化する。もちろん現実には消費財や奢侈財としての価値の比較・競争はおこなわれているが、比較不能・してはならないと言う建前の認識を堅持しなければ親自身の近代家族としてのアイデンティティが崩れてしまうので、当事者が自認することは稀。 とにかく、「家族は<愛>しあうもの・べき存在」というのが近代・現代家族だと言うことを押さえておけば、ここでは十分。)
 
③正義について
 “正(ディカイオン)とは、適法的(ノミモン)ということと均等的(イソン)ということとの両義を含み、不正(アディコン)とは、違法性(パラノモン)ということと不均等的(アニソン)ということとの両義を含む。”
 アリストテレスは正義を、適法的であることは全ての(ポリスの)人に関る全般的な正義、それとは(全体に対する部分として)別に名誉・財産・モノの分配や取引・犯罪の矯正に関るものとして特殊的な正義に分析した。両者はともに対他的関係での徳として共通する。
 そして、特殊的正義は、分配については幾何学的比例による分配的正義、矯正については算術的比例による矯正的(是正的)正義によるとした。
 整理すると正義は
 ・他者との関係
 ・平等
 の二つに関る概念だと言える。
 当然、正義は比較可能を前提とする「市場に適合的なもの」だと言うことができる。
 この正義に関する考え方は、その後の正議論に影響を与え、西洋思想の影響下にある日本国憲法にも通じる。(正義の定義は、「等しきものは等しく」や「各人に正当な持分の分配」といったものが一般的だが、その内容はアリストテレスの発想と重なる。)
 14条の“すべて国民は法の下に平等であって”の意味とされる形式的・相対的平等は、法の適用がすべての国民に一律的である(算術的・矯正的正義)であることと、具体的差異に基づく合理的な異なる取り扱いの可能(幾何学的・分配的正義)に当てはめることができる。

④愛の正義の不可能性 
  ①で述べたように、<愛>は「比べられない・かけがえがない」不代替性と「対象者以外のとの一般的な関係から離れる」脱共同体性を特徴として持つ、そして②で述べたようにこの特徴は近代家族と重なる。
 両者とも、その特徴から、「価値を比べることができる」比較可能性と「替えが調達できる」交換可能性を特徴とする市場とは相容れないものと言える。
 そして、③で述べたように市場(より広く共同体内・間での一般関係)に適合するのは正義の原則。
 したがって、<愛>の正義を求めることは原理的に不可能と言える。

⑤償い、渇望と飛躍 
 妻と娘を殺害された本村洋さんはこう言う
 “残虐な犯罪が社会で発生する以上、私はそれに見合った死刑という刑罰が必要であると考えます。”
 夫を殺害された上月志津代さんはこう言う 
 “修復が不可能な罪を償うことははたしてできるんですか。”

 だが、<愛>する者を暴力的に奪われた人に、“見合った”刑はない。
 ④で述べたように、<愛>に正義を求めることは原理的にできない。
 一人の<愛>する者を奪った百人を死刑にしても、見合ったものになることはない。比較できない、替えが効かないのだから、“償う”こともできない。(これは、被害者遺族が犯人が死刑になったことで終わりだとは考えないこと、それで忘れられることに納得しないことからも推察される。)
 不可能を渇望、求められないものを求めずにはいれない、激甚な痛みのような悲しみがあるのだと思う。
 しかし、そこに飛躍が生まれ、人々を深淵へ導いてしまう可能性が生まれる。
 
(2)正義の内で
①有益と有害・善人と悪人

・原因不明の難病を薬で抑え積極的に社会生活を営んでいた夫、その妻と生後11ヶ月の娘。
                と
 強姦のために無断欠勤し、殺害を犯し、逮捕後も「勝った」と嘯く18歳の男。

・小さな会社を経営し、障害を持つ息子の教育と仕事一筋に生きた父であり夫。
                と
 引きこもってテレビ・ゲームに浸り、家族からも見放され、大学も除籍され、注目を集めるために模倣殺人をし、心神喪失を主張する男。

・交通事故で半身不随になり通院のために定時制高校に通っていたが、猛勉強をして普通高校を受けなおし、家事を手伝う優しい息子。
                と
 普段から因縁をつけてくる定時制を受験する2人の少年、と呼び出された3人の少年。2人が死ぬまで暴行し続け、それを傍観し続けた3人。逮捕された二人は2年で社会へ、3人は民事責任もなし。

・        警察官を目指していた大学生の息子。
                と
 ヤクザまがいの職質で追い掛け回し、轢かれた被害者を教護もせず、事件をもみ消し、目撃者に圧力をかけて保身しようとし、逃れられなくなると退職し天下った警官。

・   優しく純粋、真面目な勉強家で小学校教師になった姉・娘。
                と
 職を転々とした後に、小学校警備主事となった妄想癖のあるトラブルメーカー。殺害後に遺体を自宅の掘りごたつの下に埋め、時効期間を過ごし、区画整理で事件発覚を覚悟し自首するも、330万の慰謝料のみ負い、退職金を貰い年金生活。

 被害者その家族は、優しさ・努力・真面目といった人格的価値と乳幼児の母・会社経営者で父夫・普通高校生・大学生・小学校教師で姉娘と社会的に肯定的な存在であり経済的利益を生み出し・生み出すであろう人々。
 であるのに対して、加害者は自堕落・淫乱・幼稚・凶暴・卑怯といった人格的負価値と無断欠勤・引きこもり・定時制・不良公務員・流れ者といった社会的に否定的な(社会のメインラインから外れる)存在であり経済的にも利益を生み出していないか・逆に無駄になっている人々。
 
②放置と保護 
犯罪者は逮捕され、起訴されれば弁護士が付けられる。有罪となり刑務所に入れば三食は保障され、医療も(建前的には)保障され、技術などの習得も援助される場合がある。
 税金が投入され、人権が保護されるような仕組みがあると見える。
 対して、被害者とその家族は、頼まなければ支援してくれる人間はいないし、被害にあって肉体的・精神的に勤務や学習が不可能になっても職や学籍が保護されないし、民事裁判も自分で動かなければならず、勝訴しても賠償が実行されることが稀だったりする。
 犯罪被害者給付によって治療費相当額の支給があるが、そのほかには自力で生活・人生を守らなくてはならない。
 犯罪者として人を傷つけ・損害を与えた者が生活・生命を保証され、傷つけ・損害を負った者が自力で生活を支えなければならない。払った税金が、犯罪者を保護することにも使われる。
 
③正義の問題
 ①②で見てきた、二つの問題を確認すると
 ・善人と悪人・有益と有害の間の不平等 ・保護される者と放置される者の間の不平等 があることが分かる。
 つまり、2つの正義に関する問題がある。 
 言い換えると
 なぜ、善人が悪人に殺されなければならないのか? これに重ねて、なぜ悪人が保護され、善人が放置されなければならなかったのか? という疑問。

 “父が殺される理由なんてないわけですから。まじめに生きている者が無残に殺されて、モノとして扱われる。一方、犯人は税金で弁護士をつけてもらい、ぬくぬくとご飯を食べている。この隔たりに強い怒りがあります。”

 前者(悪人に善人が・有害に有益が、なぜ殺されなければならなかったのか)の問題・疑問にこたえることは出来ない。
 これは表現として成立しているが、論理としてあるものではない(上記引用、父を殺害された大鞭孝孔さんの言うとおり、殺されなければならない合理的な理由などない)のだから、答えようがなく、あえて答えようとすれば宗教の範囲になってしまう。
 そこで、後者の問題・疑問に移れば、教科書的な答え-近代国家の成り立ちや立憲主義の考え方-しかできない。
 しかし、それで納得できないから問題があり、疑問の形をした怒りが発せられる。
 そして納得がいかないことの背景に前者の答えられない問題・疑問がある。
 1人以上の命を奪った1人の命を奪っても平等にはならない上に、被害者1人の価値を加害者1人の価値で見合うとすることができない。
 単に保護と放置があるのではなく、善と悪があるから、怒りがある。 

(3)愛と正義
①二つの不可能
 “被害者は加害者が生きていること自体が赦せないのです”
 孫娘を殺害された宮園誠也さんは言う。
 結局、“生きていることが赦せない”という端的な表現が、被害者やその遺族の想いを表す最適ものだと思われる。(家族が殺されたのに自分は生きて笑ったり楽しんだりしているという罪悪感の形を採っても同様のものだと解される)
 ③で述べたように答えられない疑問・問題があり、(1)⑤で述べたように回復不能な喪失がある。
 そこで被害者や遺族は、自分たちがマイナス状態のと同じく、加害者側もマイナス状態にしようとする。
 つまり、均衡・平等=正義を求めようとする。
 しかし、そこに(2)③で述べたような答えられない事実・問題があり、被害者や家族に(1)⑤で述べたように不可能な<愛>の正義を求めさせてしまう。

②切り離して
 “だれだって、生きるチャンスがある者を死刑にするということに迷いはあります。ですが、あくまでも法治国家である日本の最高刑は死刑であり、被害者遺族としてそれを求めるのは当たり前の感情なのです。”
 “死刑制度はその名の通り、人間社会の秩序を維持するための制度です。今現在、死刑制度が存在する以上、死刑廃止をするのであれば、まず死刑を存置することのデメリットと死刑を停止した時のメリットを明確にする必要があります。”
 “死刑になりたくなければ、人を殺さなければよいだけのことです。これ以上でも、これ以下でもない。この極めて簡単で明確なルールを守れず、人の命を粗末にする人間は、ルールに従ってもらうだけのことだと思います。”
 “私は死刑存置論者だと思われていますが、単純に死刑がこの国の最高刑だから死刑を求めているのです。”

 メディアにおいて努めて冷静な議論を展開しようとする(これ自体超人的なことだと思う)本村洋さんの発言に、特徴的に出てくるのが「法治国家」というタームと、それによる加害者・被告人への死刑実施の要求。
 確かに実定法思想(人が決めて書いたものが法律)から言えば、その通り。
 しかし、人権という思想は自然法思想(人が変えることのできない価値があり、それは人が書いた法に優越する)的な要素を(程度の違いはあれ)もつものであり、それは第二次大戦後に法治主義・実定法思想によって合法的になされたナチスの犯罪を処罰する・法的に許容すべきできないと考えられたことを一つの契機とし、以降の世界で否定することのできない人類の価値と確認されたもの。
 現実がどうであるか、たかだか200年程度の歴史しかないということを持っては否定できない。現実が理念とズレるからこそ、理念は理念として持ち続けなければならない、それが理念の意義である。その意義を否定することはできるが、そうなれば現実を前に法も倫理も不要となる。
 「法律がそうなっているから」ということを持ち出してこれを突破してしまえば、私達は歯止めを失うことになる。
 
 おそらく、本村洋さんもこんなことは分かっていると思う。 
 それでも、言わなくてはならない・持ち出さなくてはならなかったのは、<愛>するものを奪われたことの代替不能性を代替可能・比較可能を前提とする社会へ伝えようとする時、社会に通用する言葉としてあったのが法治主義だったからだと思われる。 
 つまり、妻と子を殺されるという経験、「加害者が生きていることが許せない」という発言は、<愛>におけるものであって、それは受けた者以外に伝えることは出来ない(仮に妻子を殺害された経験を持つ他の人がいてもそれは同じではない)し、社会に通用するものでもない。
 しかし、社会において、不可能でも発しなければならない、不可能な<愛>の正義を表現しなければない時、飛躍を承知で社会に通用する言葉として残されていた法治主義(法律がそうなっているから)を持ち出さなくてはならなかった、それしか社会を説得するために使えるタームとして残されていなかったからだと私には思われる。
 
 自然法思想を持ち出すまでもなく、「法律がそうなっているから」という話では、「じゃあ、なってなかったら死刑でなくていいのね」という話で終わってしまう。
 本村さんは、そうではない。
 “少年という理由で死刑にできないのなら、いますぐ社会に犯人を戻して欲しい。自分の手で殺します。”との発言から、そうでないことは理解される。 

 被害者支援と死刑廃止を切り離して論じなければならないのと同様に、死刑や人権と感情や現状は切り離して論じる必要がある。(これは両者を無関係なものとして扱え、ということではない。両者は同一事象で問題になる以上無関係ではなく、無関係として扱う議論は空論になってしまう。そうではなく、感情や現状を人権思想や死刑の理屈に直結させることは、死刑廃止に被害者支援を直結させることと同様に間違いだということ。)
 
③出来ること
 “私は死刑を煽っているわけではない。しかし、死刑制度が廃止されれば、人間を何人殺そうとも国家がその加害者の生を補償するということになる。そして、ここに記録したような犯罪被害者の複雑な思いを封じ込めることにもなる。それが私たちの社会の正義に反するのか、適うのか、どちらなのだろうか。”
 藤井誠二さんは言う。
 だが、これは二つの意味で間違っている。
 一つは、死刑制度廃止と“犯罪被害者の複雑な思いを封じ込める”ことは一致しないし、不可分ではない点で間違っている。
 もう一つは、(1)⑤で述べたように、そもそも殺人犯を死刑にすることで正義は実現されないし、(2)③で述べたように保護と放置の裏にある善と悪の(間にある平等=正義の)問題に答えることは宗教でない限り不可能である点で間違っている。
 藤井さんは死刑を煽っている、ように私には見える。

 <愛>の正義を求めることは出来ない、そして、被害者加害者を両方マイナスにすることで生み出されるのは、当然マイナスだけ。被害者加害者両方とも悲惨になるだけのことを、私は社会の選択(<愛>の範囲ではなく、社会の比較可能な正義の問題)としてすべきではないと考える。
 だから結局、社会ができる正義の選択としては、加害者がプラスの状況にあることを認め、被害者も同様に(それ以上に)プラスの状況にあるようにすること、だと考える。

続き⇒『殺された側の論理』/正義の先と早過ぎる選択
 
[PR]
by sleepless_night | 2007-06-22 21:27 | 倫理

すること・しないこと、愛すること・正しいこと、欺くこと・捧げること。

 “私は、ナチの強制収容所をめぐる「仕方がなかった」を、可能な限り集めました。そして、読者の皆さんに望みたいことがあります。それは、その一つひとつの事例で「仕方がなかった」ではなく、「私がそう欲したのだ」と呟いてみて欲しいのです。そう呟いてみると、「仕方がなかった」という時に、あるいは、誰かの「仕方がなかった」に、「そう、仕方がなかったよね」と頷く時に掻き消されようとしていた、ある「居心地の悪さ」の感触に襲われるのではないでしょうか。
 「仕方がなかった」と呟き、あるいは誰かのその言葉に頷く時に、私たちが掻き消そうとする居心地の悪さとは、何なのでしょうか。こんなことを考えてみて欲しいのです。私たちの誰もが、どういう仕方であれ、一度ならず、人によっては長年にわたって経験したことがあるはずのできごとです。”
           『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』柿本昭人著(春秋社)

“マザーは言った。
「オキ、もしかりに<孤児の家>がなかったら、子供たちはみんな路上にほうっておかれるのよ。それをそのままにしておくか、それとも私にできることをするか、私にはそのどちらかを選ぶしかないし、だから、私は自分にできるわずかのことを選んだだけなのよ。」
「でも」と、僕はいった。「それが、ふつうの人にはなかなかむつかしいことで…」
「そうじゃないのよ、オキ。あなたは、もちろん違うと思いますけどね、ふうつうの人びとは貧しい人間をみくだしているのよ。貧しい人間は、自分と同じ人間ではないと思っているというのが現実じゃないかしら」”
           『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘著(講談社文庫)

“しかし、もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものにたいして責任がある。したがって実存主義の最初の手続きは、各人をしてみずからあるところのものを把握せしめ、みずからの実存について全責任を彼に負わしめることである。人間はみずからについて責任をもつという場合、それは、人間は厳密な意味の彼個人について責任をもつということではなく、全人類にたいして責任をもつという意味である。”“人はつねに「もしみんながそうしたらどうなるか」と自問すべきであり、一種の欺瞞によってしか、人はこの不安をのがれることはできない。”
       『実存主義とはなにか』J・P・サルトル著 伊吹武彦訳(人文書院)

“だがそのとき軍医が言った。「子どものうち1人は残してよろしい」
「えっ?」
「子供のうち1人は残してよろしい」と軍医は繰り返した。「もう1人は連れて行かなきゃならん。どちらをのこす?」
「選ぶんですか、あたしが?」
「おまえはポラ公だ、ユダ公じゃない。だから特権を与えてやる。選択の特権をな」
 ソフィーの思考過程がしぼみ、停止した。それから、脚がへなへなと崩れるのを感じた。
「選べません!あたし、選べません!」ソフィーは泣き叫び始めた。”
        『ソフィーの選択』ウィリアム・スタイロン著 大浦暁生訳(新潮文庫)
           
                 *

(1)すること・しないこと
 ①天才外科医は路面電車に乗って
 
例1:ある天才外科医Aがそれぞれ別の臓器移植を緊急に必要とする(しなければ死んでしまう)BCDEF5人の患者を持っている。たまたまAの近くを通りかかったGは5人の患者に適合する臓器の持ち主だったので、AはGを誘拐して手術し、G1人の命と引き換えに5人の患者の命を救った。
 この例1のようなことを実際に行えば、天才外科医Aの行為は通常非難されるし、殺人で逮捕される。
 だが、Aは1人を犠牲にしては5人の命を救った、5-1で4人の命を余計に助けることができたのだから、非難されるより賞賛に値するのではないか?
 しかし、Aは5人の患者を助けられなくとも「死なせた」にすぎないので非難されず、対してGを「殺した」ことは非難されると考えられる。
 
 例2:ある休日、乗り鉄・天才外科医Aが路面電車に乗っていると、運転手が「ブレーキが効かない」と叫んで死んでしまった。Aは天才外科医なのですぐ手当てしようと運転手のもとに駆けつけると、電車の前方にBCDEFがいることに気づいた。このままでは5人を撥ねてしまうが、ブレーキが効かないし、警笛まで鳴らない。5人のいる場所に行くまで右に支線があり、支線に入れば5人を死なせずに済む。しかし、支線の先にはGがおり、支線に入ればGを殺すことになる。Aは右の支線に切り替えてもらうように通信して、G1人の命と引き換えに5人の命を救った。
 この例2のようなことを行えば、天才外科医Aの行為は通常賞賛されるし、逮捕されることもない(事情聴取はされるが)。
 Aが行ったことはG1人を犠牲にして5人の命を救った、5-1で4人の命を余計に助けたこと。
 もし支線に1人いたことを理由に5人を「死なせた」とAが語ったら、Aは非難される可能性がある(少なくともトリアージは任せたくないと職業能力を疑われる)。
 だが、例1で示したように「殺す」ことは許されず、「死なせる」ことは許容されるなら、1人を「殺す」ことより、5人を「死なせる」べきだったと非難されるべきではないか?「殺す」ことを選んだAは例1同様に逮捕されるべきではないか?

②溺れるものは
 “最初の事例。スミスは、もし彼の6歳の従弟の身に何かがあった場合、莫大な財産を得る立場にある。ある晩、その子が風呂に入っているところに彼は忍び込み、その子を溺死させ、それからあたかも事故であるかのごとくとりつくろった。
 2番目の事例。ジョーンズもまた、もし彼の6歳の従弟の身に何かがあった場合、莫大な財産を得る立場にある。スミスと同じようにジョーンズは入浴中の従弟を溺死させようと風呂場に忍び込んだ。ところが、風呂場に入った途端ジョーンズは、その子がすべって頭を打ち、頭から水の中に落ち込んでしまうのを見た。ジョーンズはよろこんだ。そして、必要とあらばその従弟の頭を押し込もうと、かたわらに立つ…が、その必要はない。ジョーンズが何もしないで見ているうちに、その子はほんのすこし手足をバタバタさせただけで、ひとりでに“事故で”溺れ死んだ。
 さて、スミスは子供を殺したが、ジョーンズは“単に”子供を死ぬにまかせただけである。それが、スミスとジョーンズの唯一の違いなのである。道徳的に見て、どちらがましな振る舞いをしたのであろうか。”
        『積極的安楽死と消極的安楽死』J・レイチェルズ著 小谷野加奈恵訳
                (『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会 収録)

(2)愛すること・正しいこと
①間違いのもと

 “一つの固有物を選ぶとき、人は自ずから、他のものを排除している。もし人をモノ化するのが罪ならば、恋愛や結婚といった形で、一人の他人と排他的に親密な関係を結ぶこと自体が罪なのである。これはずっと昔に、お釈迦様が発見したことだ。だから私は、男女間の感情のことを「愛」と呼ぶのはやめるべきだ、と最近おもっている。「恋愛」とか「愛情」とか、「愛」の入った語で、排他的な関係をさすのは、間違いのもとだ。「愛」というのは、人類愛とか博愛とか、そいういう場合にのみ使ったほうが、間違いがなくていい。”
            『帰ってきたもてない男』小谷野敦著(ちくま新書)
 
②愛が地球を滅ぼす 
①の猫猫先生の指摘のような「愛」が表す内容についての議論は必要だが、「愛」の指示する内容を何とするのが正しいのか(正当なのか)はここでは重要ではないので、専断的に「愛」を親密・排他的な関係を求める心情としておく(また、日常用語としても「愛」はそうした意味に使われている。尚、「それは本当の愛ではない」といった話も上述したように省く)。
 さて、①では排他的・親密な関係(個別的な関係)と人類といった広い関係(普遍的な関係)を対照として扱い、「愛」は後者に相応しいと述べている。
 ここでは前者を「愛」と呼ぶが、そうすると後者を当然に害する場合が現れる。
 例えば、「愛」する男女・家族などのメンバーはそれ以外の人間と同じ扱いをしない。むしろ究極的に差別的な取り扱いをするし、望む。
 「愛」する男女・家族などのメンバーはお互いに、メンバー以外の人間にはしないような馴れ馴れしさと境界侵犯を行い、時に拘束的な関係をするし、望む。
 つまり、人類や隣人などの一般社会・市民社会では通じないどころが、それらを支配する自由・平等の原則(正しさ)を「愛」は積極的に害する。
 「愛」する家族を養うための仕事は他人たちを苦しめ・搾取しているかもしれない、「愛」する家族が快適であるために使う資源は採取や運搬に携わる他人たちの寒さと飢えをもたらしているかもしれない、「愛」する人のために買う嗜好品・贅沢品が生産の現場で血みどろの争いを引き起こしているかもしれない。
 「愛」は地球の半分を飢えさせ、自由と平等、正しさを破壊している。

(3)欺くこと・捧げること/『自己欺瞞と自己犠牲』(勁草書房)
①欺くこと
 
矛盾する信念は一主体の中で共存できるのか。
 柏端達也(千葉大助教授・哲学)さんは、願望的思考による認知バイアスで同時に矛盾する信念は共存しない(一方の信念が他方の存在時点で無くなっている)のではなく、“長期にわたる一連の複合的な行為”の中で矛盾する信念は共存し、自己欺瞞が成立すると考える。
 それは単に人間が理想的に合理的ではないために生じる非合理性ではなく、論理能力以前に“自分の信念や意図や欲求にある意味で気づいているが、しかし系統的に(当人の目からさえも)隠蔽”し、“真実を述べることを系統的に拒絶”すること、そして“自己欺瞞によって否定される事柄にどこかで気づいているのと同じように、自分が自己欺瞞であることにも気づいている”ので“自己欺瞞的であるためには、自らの自己欺瞞を認めてはならない”と自動的(自発的)な繰り返しによって成立すると分析する。 

②捧げること
 マザー・テレサに「あなたほど自己犠牲の精神にあふれた人はいない」と言ったら、彼女は否定し、「自分ほど自分が心から望むことの実行を許された人間はいない」と言うだろう。
 周囲から最も自己犠牲的とみなされる人間が自分の行為を自己犠牲とは思っていないパラドクス。
 いったい自己犠牲とは何か、自分が自分を犠牲にすることは可能なのか。自分の意思で自分の判断と違うことをするなど、合理的にありうるのか。
 柏端さんはこの問いに対して、共同行為という視点を持ち込むことで答える。
 私を部分として持つ共同行為主体「われわれ」は、その構成員個々の信念・欲求に還元できない「われわれ」としての信念・欲求を持ち、「われわれ」の行為が私の身体を通じて実現される場合がある。その時、「われわれ」の信念(判断)と私の信念(判断)が一致しない・対立する可能性があり、私は「われわれ」の行為を実現するために私(自己)を犠牲にする。
 これは、「あなたはなぜ?」という問いに対して「私はしたくない」と答える不合理を生じさせるが、「あなたたちはなぜ?」という問いに対して(行為者である私が問われたら)「われわれは~と判断したから」と答えることができ、合理性を保つことを可能にする。
 自己犠牲をする私に生じるジレンマは「私」と「われわれ」という“別々のテーブルにあるため、それらの評価が統合されることはない。にもかかわらずそれらのテーブルは、「私」の身体という共通のアウトプットをもつ”ことによって生じたもので、自己欺瞞のジレンマのように「私」という一つの場において生じるものとは異なる。
 さらに、「私」は「われわれ」の一部であるので、二つの判断を評価できる視座も存在しない。
 自己犠牲では、ジレンマを解決し「われわれ」を選択する十分な理由を持てないままに、「私」に対立・不一致な「われわれ」の判断を「私」が行うことになる。

(4)ハインツが通りかかったら
 「ハインツは病気の妻のために薬を買おうとしたが、薬屋が強欲でその薬に法外な値を付けている。ハインツは金をかき集め、できるところからは借金もしたが、薬の値段に届かない。薬屋に事情を話して後払いを頼んだが断られた。ハインツは薬を盗むことにした。」
 コールバーグが道徳能力の発達を調べるために用いたこのジレンマで、もし、ハインツの妻ではなく通りがかりの人が病気だったらどうだろう。
 一般に借金をするまで考えない、ましてや盗みに入るなど考えないだろう(自分を破滅させてまで、通りがかりの人を助けないだろう)。
 つまり、たいしたジレンマにならなくなる。

(5)法律と関係
 ①法律
 (1)の②の二つ目の例で、ジョーンズは従弟が勝手に溺死するのを見ていただけだが、法律という観点から言えば、ジョーンズは保護責任者遺棄致死罪か殺人罪に問われると考えられる。
 保護責任者遺棄罪(218条):老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、3月以上5年以下の懲役に処する。
 同致死傷罪(219条)前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、障害の罪と比較して、重い刑により処断する。
 従弟は6歳なので“幼年者”に該当し、ジョーンズは同従弟と相続関係のある相当に近しい年長の親族であることを考えると“保護する責任のある者”と言え、保護義務を認められる。そして、ジョーンズは溺れる従弟の傍らにありながら“生存に必要な保護”をしなかった。よって、保護責任者遺棄致死罪に該当する。
 ただし、ジョーンズは従弟の死を願い・殺人の意図(故意)を持っていたことを考えると、不作為による殺人罪(199条)の実行と考えた方が妥当。
 殺人罪は「すること(殺すこと)」という作為によって実現されることを想定するものだが、一定の場合には「しないこと」によって実現されることも認められる。
 つまり、「すること」と同視できる「しないこと」についても殺人の実行行為として認められる。
 具体的には、法律・契約・慣習・先行行為などが被害者と加害者の間に存在することによって「すること」(この場合助けること)が義務と言え、「しないこと」が義務違反となる場合に、「しないこと」が殺人の実行行為と認められる。
 この事例では、加害者と被害者は従弟関係であり、相続関係もあること、加えてジョーンズが年長であり従弟は6歳と幼少であることを考えると、慣習上の作為義務があると考えられる。
 したがって、ジョーンズには殺人罪が成立する。

②関係
 ①の話は(4)のハインツのジレンマの話と同じことになる(当たり前だが)。
 つまり、同じ「すること」と「しないこと」でも、行為者と相手方との関係によって評価が変わる(ジレンマの程度が変わる)ということ。
 (1)②の2つ例を無関係の2人とすると、最初の例では他人を溺死させた殺人で、2番目は他人が溺死するのを見ていた人の話になる。これについて“道徳的に見て、どちらがましな振る舞いをしたのであろうか。”と聞かれたら、多くはさほど躊躇なく2番目と答えるだろう。
 しかし、そうした考え(関係によって判断を変える)ことが倫理的に正しいのだろうか。

(6)「われわれ」の倫理
 (1)①の例2で、天才外科医Aは運転手の近くに行き、運転手が死んでおり、電車の進路のいずれにも人がいることを知る。このとき、他の乗客も同じ認識を持ち、進路をこのままにして5人を死なせるか、進路を変えて1人を殺すかの選択をしなくてはならないことの認識もあったとする。
 この場合、Aを含む乗客は進路選択という行為の共同行為主体となっていると考えられる。
 Aは医者として運転手の傍に駆けつけた。Aは例1の教訓から「殺すことはできない!」と叫んだが、他の乗客が一斉に「5対1だ!支線に入れ!」と答えたので、Aは支線に切り替えたとする。このとき(3)②から、Aの行いは自己犠牲的だったと言える。
 Aは自分の判断である「殺すことはできない」と「われわれ」の判断である「1人の命より5人の命」との対立の間で、それを解決する視座も十分な理由も持てずに、断絶を跳躍するように「われわれ」の判断を実行した。
 しかし、殺されたGにしてみたら自己犠牲どころの話ではない。
 GはAを含む乗客ではないので共同行為主体ではない、つまり、「われわれ」ではない。
 Gは「われわれ」に殺されたのだ。

(7)通り過ぎる私
 私(達)が日常通り過ぎているのは、「5人の命」だ。
 私達が「われわれ」の「5人の命」を選んでいるからだ。
 正確に言えば、私(達)が選んでいるのは「5対1」で多くの命を救うのではなく、世界的には少数派である「われわれ」の命と快適さなのだが。
 だから、「われわれ」の自己犠牲があるとしたら(6)のAよりも酷いものだ。
 自己犠牲のジレンマを感じるとしても、私(達)は「われわれ」の中で「仕方がなかった」と語り合う、若しくは「愛」を語り、それを甘美な疼きへと変えてしまう。「私が欲した」のは「愛」なのだと。
 もしかしたら、“ふうつうの人びとは貧しい人間をみくだしているのよ。貧しい人間は、自分と同じ人間ではないと思っているというのが現実”なので、自己を犠牲になどしていない「自分がしたいことをすることが許されている」幸福を感じるのみかもしれない。
 死んでゆくのは同じ人間であるという“真実を述べることを系統的に拒絶”して。

                    *
 
場所によるのだろうけれども、路上で人が生活していることは普通だし、それ自体に驚きを感じることは、私にはない。
 ただ、道の真ん中、車道で人が寝ていることに出くわしたときはさすがに驚く。
 放置しておくと車に轢かれるので、声を掛けてみる。
 しかし、幾度かの経験で声に反応(応答)した人はいない。
 なので、声を掛けて、とりあえず抱えて移動させる。
 抱えると酒の臭いがする。
 持ち上げられた相手はさすがに反応をする。
 歩道の脇などまで運んでおろし、「どこか送りましょうか?」と聞くと首を振るか、「ここでいい」といった答えがある。
 
 もちろん、一見して身なりがひどく悪臭漂う人なら、私はしなかっただろうし、これからもしないと思う。
 私が出会った倒れていた人々は、老年の男性で身なりは普通で小さな手提げ鞄を持っていた。その小さな手提げ鞄は、何も入ってないと思えるほど、非常に軽かった。
 だから、「家に送りましょうか?」と聞くことができなかった。
  
 そして、その人がこれからどこに帰るのか、帰る場所があるのか、分からないまま私は置いて行った。

 これは車道ではないけれど、やはり歩道の中央に倒れている男性がいたとき、近くに交番があったので、そこの警察官に「あそこで人が倒れていますよ」と言ったことがある。
 警察官は座ったまま「それで?」と言って、動かなかった。
 「それで?」と言われた私がなんと答えたのかは覚えていないが、「それで?」という答えに呆然として、男性を放置していった。
 
 私が倒れている人を移動させたとしてどうなのだろう。
 「それで?」
 私は彼らを移動させ、やはり、置いて行ったのだ。

 
 
 
 
 


参照)
(1)は『意義あり!生命・環境倫理学』岡本裕一郎著(ナカニシヤ出版)を参照。
 ①の第一の例はフィリッパ・フットの例を岡本さんがアレンジしたものをさらにアレンジしたもの。第二の例はジュディス・トムソンの例の引用からアレンジしたもの。
 ②のレイチェルズの論文も引用の長さが異なるが同書3章に引用がある。
(2)②は『家族と所有』藤野寛著(『所有のエチカ』ナカニシヤ出版 収録)を参照
 「愛」が究極の差別・えこひいきを導くこと、自他を侵食することについて。
 藤野さんは、猫猫先生同様に、普遍的な「愛」は「正義感」と呼んだほうがよいとしている。
(3)は『自己欺瞞と自己犠牲』柏端達也著(勁草書房)を引用・参照。
 上記では同書の結論をかなり乱暴に利用している。
 実際の同書では、結論に至るまで、また結論自体を綿密に論証してある。
 なので、(3)を読むだけで同書の内容を判断するのは、鯛焼きの外殻を食べて済ませるようなもので、おいしいところを捨てることになる。
 全体の4分の3が自己犠牲についてだが、その中でも人間の行動の合理性について述べた部分は、自己欺瞞・犠牲に限らず参考になる。漠然とした感覚がしっかりと言語(論理)化されて気持ちがよい。
 また、結論部で述べられる、自己犠牲を論究した意味も、居眠りとキハン好きな方々の跋扈する今日に必要とされるものだと思う。
 税込み3150円。
(5)②の最後の問いは、ロールズやマッキーやヘアの倫理の普遍化問題と重なり、当然、倫理とは何かという問いにもなる。

 
[PR]
by sleepless_night | 2007-05-18 21:18 | 倫理

救う会の救われない救い


 フィクションです。

    * 

 AB夫妻の娘C(3歳)は先天性の重い心臓疾患を持っている。
 治療手段は移植以外になく、余命1年だといわれている。
 移植は日本ではおこなうことができず、渡航移植にはAB夫妻の預貯金と処分できる財産を合計した金額より一億円必要。
 そこで、Cを救う会を組織し、友人や親戚などの力も借りて募金活動を行うことにした。
 繁華街で活動しているところに、関係はないが関心があるD、E、F、G、が通りかかり、Aと会話する。

 D:「こんにちは」
 A:「こんにちは」
 D:「寄付を考えいますが、その前に、お話を聞かせてもらえませんか」
 A:「ええ、どうぞ」
 D:「さっそくですが、寄付に頼って海外で移植することに問題はないとお考えですか」
 A:「どのような問題が考えられますか」
 D:「まず、純粋に理論的な問題ではなく、現実的な問題について考えて見ますと、平等の問題があると思います。」
 A:「はい、Cは何らの帰責性もなく心臓疾患を持ち、皆がもつ生きる権利を奪われようとしています。平等という観点から寄付によってでも権利を実現させるべきではないでしょうか」
 D:「仰るとおりです。結果の平等ではなく、Cは生きるという参加する権利が奪われようとしています。しかし、やはり平等から二つの問題を指摘させていただきます。一つは、海外で移植することに関して。つまり、海外での医療資源を消費すること、特に医療保険や為替の問題で有利に立つこと、で提供元の国の人々との不平等があると考えられます。もう一つは、寄付で移植することに関して。つまり、Aのような活動できる能力のある親の下に生まれてきた子供とそうではない子供とに不平等があると考えられます」
 A:「一つ目については、医療は人間の生命にかかわりどこの国にいても命は変わらないのですから、国境を問題にするべきではないと考えます。必要な技術や資源は必要な人に開かれるべきだと考えます。もう一つにつていは、私も同意します。そういったお子さんたちのためにも、統一的な支援機関が必要だと考えます」
 D「一つ目のお応えについてですが、生命の平等をおっしゃるならば、Cに有利に働く国家間の経済格差はどのようにお考えになりますか。技術や資源が開かれて必要な人が手に入れられることは賛成です。しかし、現実の不平等がCに有利に働いており、それを利用して生命の平等を害していませんか」

Eが話しに入ってきた。

 E:「お話のところすいません。お二人のお話を伺っていて効率の観点から考えてみてはどうかと考えたのですが、どうでしょうか」
 D:「はい、効率の観点、功利主義からの話はAとの話の続きにもなりますね」
 A:「功利主義ですか。具体的にどのような問題が考えられますか」
 E:「AD間でなされた平等の話は、有限な医療資源を、経済的に有利な立場の人間が優先的に利用していることだと言い換えられると考えます。そうすると、どう利用することが功利的には善いのか、経済的に有利な立場の人間が優先的に利用して(功利的に)よいのかが問題だと考えられます。この問題は、海外での移植の問題と寄付での移植の問題どちらにも問われるのではないでしょうか」
 A:「海外での移植と関係するのは分かりましたが、寄付でのとはどう関係しますか」
 E:「寄付での移植の話とは、Aがおっしゃったように、統一的な支援機関の設立の問題です。Cを救うのには一億円が必要とのことですが、この一億円が統一的な支援機関の元でより効率的な利用ができるのではないかということです」
 A:「効率的なというのは、どういうことですか」
 E:「二つ考えられます。一つは、一億円でC一人を救うのはお金を掛けすぎるということです。一億円でより確実に多くの命が救えることを考えれば、量的に、寄付を使って海外で一人の手術をするのは非効率で、功利的にはよくありません。もう一つは、質です。はたして、Cはこの社会に一億円をかけるほどの貢献をする人間なのかということです。Cの代わりに天才的な知能を持つと推計された子供たちに一億円を掛ければ、社会はより多くの快や福利を得ることができて功利的に善いのです」
 A:「量的なほうは分かりました。しかし、質的な問題は、社会を不安にさせてかえって社会を支える基盤をおびやかしてしましませんか」
 E:「確かに、質的な優劣を徹底して検査した上で、序列をつけて救済するというのはやりすぎかもしれません。しかし、一定の質があるかどうかを検査することは必要ですし、受け入れられるのではないでしょうか」
 D:「質という観点を私の言った平等と組み合わせてみれば、質の低い人間と高等な生物の間の不平等ということも考えなくなりますね」


Fが話しに入ってきた。

 F:「DもEも、他の人とのことを考えすぎていないか。だって、ABはCのために心臓がほしい。どこの誰かわからないけれど、心臓が要らなくなったからあげると言っている。お互いに合意がある。ABは金が足りない。ABに金をあげたい人がいる。お互いに合意がある。確かに、気持ち悪い感覚や容れがたいと思おう人もいるかもしれないけれど、それは人それぞれなのだから、具体的で直接的な侵害がされていない人たちがどうこう言うべきではないのではないか。むしろ、お金で臓器を買っていけないとしてる現状がおかしい」
 E:「Fの意見にも同意できるところがあります。いま臓器が足りないのは、臓器を提供する側はあげ損で、受ける側も待つしかないという現状があるからだと考えられます。臓器の売買が認められれば、あげ損はなくなりますし、需給関係が活発化して流通量は増えるでしょう。功利的には善い考えだと言えます」
 A:「待ってください。Fのおっしゃるような売買構造で移植を受けるのではありません。手術費はかかりますが、提供者にはお金を払いません」
 D:「私は経済による不平等についてお聞きしましたが、その点から開き直って言えば、お金を払ってしまったほうが、払わない現状よりも平等の観点から是認できるかもしれませんが、どうでしょうか」

Gが話しに入ってきた。

 G:「皆さんのお話を伺っていて、そもそも移植をしないという選択肢はないのですか」
 A:「それでは、Cは死にますが」
 G:「逆に考えてはどうですか。Cは誰かが心臓を要らなくなる、つまり死ぬことが必要なのですが、他の子供に死ねということですか」
 A:「いえ、そんなことはありません。不幸にして死んでしまった子供の心臓をもらいたいのです。そのまま使わなければ無駄になるだけですから」
 E:「無駄ということでしたら、私がお聞きしたように、功利性の観点から、一人に一億円を使うのは無駄が多いことは、どうお考えになるのですか」
 G:「ですから、人間の命や身体を利用すること自体をやめた方がよいのです」


一同沈黙。


 テレビ:「さきほどビック・ニュースがはいりました。南部レオズの竹坂選手がメジャーリーグのケンブリッジ・レッドアックスと5年推定総額60億の大型契約を結んだとのことです。今日は後ほど特集でも、たっぷり竹坂選手についてお伝えしますが、さっそく現地の特派員に様子を聞いてみましょう…」
 

 D:「今日はどこも、こればっかりでしょうね…。では、少ないですがこれを」
 Dに続いて、E、F、G、もそれぞれ小額ずつ寄付して去ってゆく。


 テレビ画面には、現地人とおぼしき人達と用意よく日本の竹坂のユニフォームを来た日本人数人のはしゃぎに揉まれながら、楽しそうな声で話し続けてる男が映っていた。



  それを見ていた、渡航移植にも渡航野球にも関係も感心もないHは思った。
 なぜ、Aの論理を否定したのにDEFGは寄付できたのか。
 なぜ、テレビに映る人間たちは自分たちに一銭も入らない契約にはしゃげるのか。
[PR]
by sleepless_night | 2006-12-31 11:36 | 倫理

猫を殺す悲しみが、私を充実させる。 続編

猫を殺す悲しみが、私を充実させる。の続き。


(4)生命の功利主義 
 以上まで述べてきたことは措いて、坂東眞砂子さんの一連の「問題提起」には考えるべき論点が二つあります。
 一つは、(1)で指摘した「他生物所有権否定」の問題。
 もう一つは、生命の功利主義の問題、特に<イシュー2>で述べてある「未受精卵子=新生児猫」の問題(“生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。”)です。
 
 “「平等の原理が、我々人間の種に属する他の人々との関係のための確固とした道徳上の基礎であることを認めた以上、この原理が我々自身の種に属さないもの‐つまり人間以外の動物との関係のための確固とした道徳上の基礎であることも認めることになる」。”
 “動物の平等のために時間を費やすことなどどうしてできようか。 この態度は、動物の利益を真剣に考えようとしないは世間一般の偏見を反映している‐この偏見には、自分のアフリカ人奴隷の利益を真剣に考えようとしない白人の奴隷所有者の偏見と同じ程度の根拠しかない。”     『実践の倫理 新版』(昭和堂)ピーター・シンガー著

 功利主義倫理学を代表する哲学者ピーター・シンガーは、倫理に必要な要素としての普遍化から要請される平等原則を“利益に対する平等な配慮”であると考え、平等を問うにあたって“誰の利益をはかっているのかについては、全く考慮しない”のです。
 それは、平等を問題にされる際に暗黙の前提となっている「人間の平等」を突き破るものです。 

 “どのような本性の存在であれ、その苦しみは、ほかのどんな存在の同様の苦しみとも‐おおよその比較ができる限りにおいてであるが‐同等に計算されるべきだということである。”と、その存在のもつ利益のみを注目し、ホモ・サピエンス(人間)という種であることに特権的な地位を認る態度を“キリスト教の到達以降のものである”として退けます。
 そして、功利主義の立場から、ホモ・サピエンスという種であることからではなく、人格という“理性的で自意識をもった存在”“存続的存在と言う概念”を持つことのできる存在が、自身の安全やの将来への期待に対する利益を持つことから、“感覚することができ快苦を経験することはできるが、理性的でもなければ自意識も持ってはおらずそれゆえ人格ではないような存在”よりも多くの配慮される利益を持つと主張します。
 ですので、“「生命擁護」運動とか、「生きる権利(生命への権利)」運動という名称が間違って与えられた名称であることは今やあきらかである。中絶には抗議するものの、習慣的に鶏や豚や子牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っているというにはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているに過ぎない。理性、自意識、感知、自立性、快苦など、道徳的に意味のある特性を公平に比較検討してみれば、子牛や豚やそれらにはるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠期間にある胎児よりも進んでいることがわかるであろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較すれば、魚のほうが意識の兆候をより多く示すであろう。”と考え。
 これは“チンパンジーを殺すのは、生まれつきの知的障害のために、人格ではないし、決して人格でありえない人間を殺すのに比べて、より悪い”し、“豚やチンパンジーなど人間以外の動物の生命がそれらの動物自身のとって価値を持っているほど、新生児の命は新生児自身にとって価値は持っていない”という結論を導きます。

 人間に特権的な立場を認めない立場を貫徹するのなら、このような結論に耐えなければなりません。
 その覚悟もない人間が、飼い猫に過剰な自己投影をして自己慰撫しているだけの話を、倫理問題として語るのは許されるべきではないと私は考え、非難します。
 

 シンガーの功利主義によれば、新生児猫は未受精卵子よりも利益(苦痛から逃れる利益)がありますので、これらを同等とみなすことはできません。
 ただし、一匹の成猫の「生」の充実のために、その一匹をかわいがることで得られる人間の「生」の充実のために、複数の新生児猫を殺すことは正当化できる可能性はあります。
 しかし、(坂東さん自身が述べたように)猫の本来の幸せが野生で自由に生きることであるならば、それを人間が飼うことはできなくなります。人間と動物を平等に考えたとき、人間の娯楽・愛玩のために動物を飼う利益は、動物が本質的な「生」を生きる幸せ(利益)に劣るからです。

 坂東眞砂子さんの話は、自分の都合に甘く、表明した自身の思想に不誠実です。
 他の生物に関して権利が無いとするなら、そもそも飼うことを自らに許してはなりません。
 本来権利が無いが避けられないというのなら、いっそう最小の犠牲にとどめるように配慮するべきであって、全力で子猫の貰い手を探せばいいのです(現実として血統証つきでないと難しいというのなら、著名な作家という自分のブランドを着けてやればいい)。
 
 坂東さんの結論(生ませて殺す)では、「どうせ権利が無いことをやるのだから、後は何してもいいでしょ」という他棄的なスタンスであって、倫理的に正当化することは(坂東さんが神であったり、神託を受けてるような場合を除いて)できません。
複数の新生児猫たちには「生」の本質を味わうことは認めずに、「生」の本質=セックス・出産を理由として新生児猫を殺すことが、いかなる理屈で可能なのかが全く理解できません。「神の選択」をしているのは、ほかならぬ彼女自身であることに、どうして気付けないのか。(この部分、倫理の普遍化要請については補論を述べます)
 
 自分で自分の考えに反することを行っている居心地の悪さを、他人や社会を批判することで紛らわすのは無意味です。悲しむ資格すら疑わしい。
 
(5)南泉斬猫(なんぜんざんみょう)
 “南泉和尚、東西の両堂の猫児を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん」。衆対無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に拳似す。州、乃ち履を脱いで頭上に安じて出ず。泉云く、「子、若し在らば即ち猫児を救い得ん。」”(『無門関』岩波文庫)
(意訳:座禅の修行道場で一匹の猫について論争をしていたところに、南泉和尚が来て、猫を取り上げ「この猫について、自分が掴み取ったものを表現してみろ。できなければこの猫を殺す」と言った。誰も表現できなかったので、南泉和尚は猫を切り殺した。夕方、弟子の趙州が道場へ帰ってきたとき、南泉和尚はこのことを話すと、趙州はすぐさま履物を脱いで頭上に載せた。南泉和尚は「もし、君があの場にいたら猫を救えたのに」と言った。)


 南泉和尚のこの猫を取り上げての問いかけに対する趙州の応え、それぞれが何を表しているのか。 
 そもそも禅の公案は頭で解くクイズではないので、“言句に滞って解会を求むるをや。棒をふるって月を打ち、靴を隔てて痒がりを爬く、甚んの交渉か有らん。(意訳:言葉によって悟りを得ようとしても、棒を振り回して月を打ち、靴を履いたまま痒い場所を掻こうとするのと同じ様に、求めていたものに近づくことはできない。)”のです。
 「道う(いう)」とは、言語表現に囚われない分別のはからいを超えた自己表現をすることを意味します。
 しかし、ここではとりあえず、無謀と僭越を承知で私の考えを分別知上で述べてみます。

 南泉に対して趙州は頭上に履物を載せます。
 この行為に表現の意味(特定の行為を選択した意図)を読み取ることは間違いだという見解もあります。
 ジャスチャーと言う言語表現の一種だと捉えることになり、言語表現に囚われない自己表現としての「道う」に反するからです。
 しかし、私はこの趙州の行為がとっさの行き当たりばったりなものとは考えられないのです。
 帰ってきたから履物を脱ぐのはよいとして、それを頭上に載せるというのは、あまりに大掛かりではないか。
 ですので私は、この履物を頭上に載せた行為は、“下座”の表現であると採ります。
 自らの頭上に全ての生命を頂いて礼拝することです。
 目の前にあった生命について問われたので、帰り来て脱がれた履物を載せた。
 勿論、それを明瞭に意識して行ったのではなく、日常の行いとして無心に合掌することと同じ姿勢でです。
 目の前にある猫という一個の具体的な生命を問われ、頭でのみ働く思想や概念を持ち出して論じ解明しようとしていた修行者たちは「道う」ことができなかった。
 それは、眼前の具体的な生命と言う、抽象的な観念や言葉で表現することなどできないものを、頭で考えていた中で「道う」ことを求められたからではないか。
 趙州は、生命を問われたら、ただ礼拝する。生命は頭で掴めるものではないからです。

 坂東眞砂子さんは、猫の生命の本質をセックスと出産にあると考え、その結果である子猫を殺したといいます。
 私には、彼女の行いは何も「道う」ことができなかった修行者たちが、趙州をまねて履物を頭上にのせているように思えます。
 履物を頭上にのせて、「猫は死んだけど、私の頭は汚れたよ」と得意になって、自分の頭上の汚れを喧伝しているのです。
 頭がどれほど汚れようが「道う」こととは全く関係がないのと同じく、猫が何回セックスして出産しても彼女の言う「生」の本質はつかめないでしょう。
 もし「生」の本質がセックスと出産にあるのなら、彼女自身が見当識を失うまでセックスし続け、子宮が破れるまで子供を生み続ければいいのです。
 そちらのほうが、子猫を殺す悲しみでつかめるはずも無い、自分の「生」を掴めるはずです。
 


(6)非難への非難
 仮に、坂東さんが「猫を殺す痛みが、私の「生」を充実させる。だから、生ませて殺すのだ」といったのなら。
 私は彼女を擁護したでしょう。
 私は人間による(人間を主体・中心とした)倫理を考える、シンガーの言うところの“種差別”主義者です。
 それには、人間だからという諦め(甘受)の部分と人間だからという意志・希望の部分があります。
 甘受する部分として動物の所有権を認めることを前提として、意志・希望の部分によって動物の(人間による・人間のための)保護や虐待防止を訴えます。
 そして、新生児猫を投げ捨てて殺すことは、不快感を催すものの、おかれた環境によっては認められるものであり、可罰的な行為だとは考えません。
 それぞれが飼っている犬や猫を「うちの子」と呼んで(私の価値観から)過剰な保育をする、人間の子供と同様の扱いをし、それを他者に求める(犬を犬と呼んで怒られる)のと同じ程度に不快なだけです。
 それは、「保守」的な家族論者が非難することとは違います。
 何を家族だと感じ・家族と認識したいかは、それぞれの勝手とすることであって、「一緒に住んでない祖父より、一緒にすんでいる犬を家族だと思うとはけしからん」と怒ってみても無意味であり、それは歴史的に変化してきた家族定義の変化の一つだと捉える(外部からの隔離と内部での親密性は、近代家族の特徴ですので、一緒に住んでいなければ家族と認識されなくても仕方が無い)からです。機能的に考えれば、現代において子供もペットも耐久消費財です(だからこそ、逆に、社会制度としては人間と動物の区別・線引きをしておくべき)。
 それぞれの飼い主サークル内部での認識や感情は問題とするべきではないし、できないと考えます。
 
 猫を殺すこと自体は些事です。
 可愛い猫を殺したからという感情で坂東さんを非難する人を、猫と人間の区別を都合よく使い分けて自己欺瞞に浸ろうとする坂東さんと同じ程度、私は非難します。
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-10-06 21:59 | 倫理

隔たり

“ジェノサイドは、ルワンダのケースを考えても、ユーゴスラビアやカンボジア、ドイツのケースを考えても、誘惑ではない、誘惑という機会的な話では考えるとことが不可能な行為だと、私は考えます。
 情熱に支えられた殺人とでも表しえるかもしれません。
 情熱的な殺人ではなく、情熱に支えられた殺人。
 この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいと言う願い。
  最後の一人まで救い尽くそうとする阿弥陀仏や一人の贖いによって人類の罪を引き受けようとしたイエスの情熱(パッション)をベクトルだけ真逆にしたもの。
 それが起きている場面を実際的に想像しようとしても、頭がしびれ、出来の悪いホラー映画程度が私にはせいぜいです。 
 誘惑と情熱の間には質的な差異が存在し、比較や連想を阻むものがあります。”
 と前回の記事殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンドで述べました。

 では、私たちは、私はジェノサイドを実現することは出来ないのか?する可能性はないのか?
 誘惑と情熱の間には質的な差異が存在し、私たちの立つ地面が情熱の殺人の歴史を持たないとして、私たちに(私に)情熱の地へと跳躍する可能性はないのか?(※)
 誘惑と情熱の間には、跳躍できない程の距離が存在するのか?

 この問いに答えるにあたって、前回の補足に関連する非常に有名な実験を紹介するのが有効だと考えます。(※1)

 1971年8月14日 アメリカ合衆国カリフォルニア州に所在するスタンフォード大学で、拘置所や監獄の仕組み、看守・囚人・物理的環境の関係に関する調査を目的にした実験が行われた。
 実験を主催したのはフィリップ・ジンバルドー博士。
 
 日当15ドルで拘置所生活に関する心理学実験のボランティアを募集する新聞広告で集まった75人の中から、検査結果から肉体的・精神的に安定性があると判断された21人が選ばれ(21人のほとんどは中流家庭の大学生)、実験の持つ危険性について告知を受け同意し、コインの裏表によって囚人役と看守役に分けられた。
 
 実験は、14日朝、地元警察署の協力の下、パトカーで囚人役に選ばれた被験者宅を急襲し、武装強盗・住居侵入の容疑で逮捕され警察署に連行することから始まった。
 警察署で、権利告知・諮問採取などの手続きをされ、目隠しをされて、スタンフォード大学心理学部の地下室に作られた模擬拘置所に移送された。
 模擬拘置所は小さな監房3つと独房1つで構成され、実際の拘置所同様に鉄格子と小窓が設置され、記録用ヴィデオ、盗聴マイクが研究のために設置された。
 模擬拘置所に到着すると、身体検索され、頭髪を剃られ、シラミ駆除剤を噴霧され、下着なしのワンピース、ナイロンキャップを支給され、脚鎖を着けられる。
 名前の代わりに番号が与えられ、以降、番号で呼ばれる。
 看守役に選ばれた被験者は、特別な訓練を与えられず、肉体的暴力の禁止と「拘置所の効果的な機能に必要な、適切な程度の秩序を維持すること」という最小限の指示を受けた。看守たちは(実際の)スタンフォード刑務所長をアドヴァイザーにして作成された16か条を定めた。
 看守役被験者たちには制服、笛、警棒が支給された。

 実験初日、看守役被験者が秩序維持の手法として腕立て伏せの懲罰を考案する。
 実験2日目、囚人役被験者たちがベットなどを使ってバリケードをつくり抵抗。鎮圧のために看守役被験者たちは消化剤を噴射して鎮圧、囚人役被験者たちを裸にし、首謀者を独房に監禁。
 秩序維持の方法として、3つの監房のうち1つを特別監房として囚人役被験者に特権を与え、他の囚人役被験者には食事抜きなど罰を与えて、囚人役被験者の連帯を崩す措置を採る。恣意的に特別房の入れ替えをすることで、囚人役被験者の間に密告者の疑いと、看守役被験者への抵抗の無力を生む。
 看守役被験者たちは仲間内の連帯感を強め、囚人役被験者への統制を強めた。
 一人の囚人役被験者は意識障害を起こし始めたため釈放。
 実験3日目、面会日。模擬拘置所内の混乱を知らせないように囚人役被験者の身だしなみを整えさせ、面会時間を限る。
 面会時に集団脱走計画の話を囚人役被験者がするのを看守役被験者が聞く。
 看守役被験者と実験主催者が阻止について話し合う。
 実験主催者は地元警察へ、囚人役被験者の移送を要請するも拒絶される。
 計画は単なる噂と判明するも、囚人役被験者への統制はいっそう厳格になる。
 腕立てや跳躍などの罰、素手での便器掃除などの作業をさせる。
 実験4日目、二人の囚人役被験者に情緒障害が現れ、釈放する。
 さらに、もう一人に精神的原因による発疹が全身に現れたため、釈放する。
 囚人役被験者たちの認識能力は著しく低下。看守役囚人の仕打ちにも従順に従う。
 実験5日目、囚人役被験者を一人補充する。
 新人囚人役が看守役被験者たちの虐待的な扱いに抗議するためにハンストを行う。
 看守役被験者は新人囚人役を独房にいれ、ほかの囚人役被験者に自分たちの毛布使用権を放棄するなら独房から新人囚人役を出すと選択さる。囚人役たちはこれを拒否。
 同日夜に、囚人役被験者たちの親から弁護士を通して保釈を請求。
 さらに、研究者が監視していない夜間に看守役被験者たちが囚人役被験者たちを虐待していることが録画によって判明したこと、囚人役被験者のインタヴューを手伝いに来たジンバルドー博士の婚約者クリスティナ・マスラック博士が看守役被験者たちの虐待行為に強く抗議したこと、によって実験を6日目で中止すると決定。

 
 この実験で、囚人役、看守役は文字通り役割を与えられました。
 どちらも、役割の細かい設定は決められておらず、それぞれが、特に看守役が自分たちの役割を考えて、実行しました。
 中流家庭出身の肉体的・精神的に安定性があると診断された人間が、実験前のインタヴューでは暴力に反対する意見を述べた人間が、手当て抜きでも超過勤務を進んで引き受け、目の前での虐待を止めず、非人道的な行為に無力に従わせるようになる。自らが考えて。 
 
 しかし、この実験結果で最も恐るべき点は、模擬拘禁施設での被験者の示した反応ではないと、私は考えます。

 それは、実験主催者の反応です。
 主催者である研究者たちも、自らに拘置所の監督官としての役割を割り振っています。
 ですので、主催者も被験者の範疇には確かに入っています。
 しかし、主催者は、実験に関する全決定権を持っていることには変わらず、彼らにも、その認識はありました。
 心理学の研究者として専門教育を受けた、観察者として訓練を受けた、その場にいる人間の仲でもっとも人間の心に関して知見を持った人間(特に、ジンバルドーは後のアメリカ心理学会会長を務める一級の学者です)が、自分が課したはずの役割に飲み込まれてしまったのです。

 “異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。”
                                 (『夜と霧』より) 

 この言葉は、被験者たちには適応できます。
 しかし、実験の主催者には適応できません。

 主催者は、その日常において実験をし、そのまま異常な反応と判断をしました。 
   
 映画『es』はこの実験を基にして製作されたものであることは、観た人はもちろん、多くの人が知るところのものでしょう。
 映画は、エンディングを除いて、実験をかなり正確に描いていると見えます。
 ただ、映画の研究者たちは、実際の研究者と異なり、研究者としての役割だけです。
 その映画では、実際の実験で研究者の反応よりも、ソフトにですが研究者が示す反応の問題を表しています。

 囚人役被験者たちの暴動。
 看守役被験者たちも鎮圧行動を期にした、虐待。
 情緒障害を起こす被験者。
 研究者の一人が中止を実験責任者に進言します。
 責任者は却下します。
 この実験がどれほど重要か。研究者として千載一遇の実験であること、実験の反応の興味深さを分かっているからです。
 異議を唱えた研究者は引き下がります。

 
 “大衆の暴力における「我々対奴ら」のシナリオを論じる際には集団の憎悪が語られることが多い。しかし、憎悪を煽り立てるのは可能だが、それは弱さへのアピールである。ジェノサイドの「作者」たちは(ルワンダ人はそう呼ぶ)、大勢の弱い人々にまちがったことをやらせるためには力への欲望に訴えなければならないと知っていた。そして真に人を動かす灰色の権力なのだということも。憎悪と権力はともに、それぞれ異なったかたちで、情熱である。違いは憎悪は純粋にネガティブなものであるのに対し、権力は本質的にポジティブだというところにある。人は憎悪に屈するが、権力を渇望する。”    (『ジェノサイドの丘』より)


 “権力を枯渇”するパーソナリティが、パーソナリティの座を役割に明け渡す。
 役割にパーソナリティを奪われてしまえば、その人を憎む必要すらなく、“奴ら”を憎めればよい。

 誘惑と情熱の間には、確かに質的な差異が存在する。
 しかし、それは一跨ぎできる距離でしかないのでしょう。
 
 その程度の距離が、体験した者としていない者との間に実際的な想像を阻む。
 その程度の距離しかないから、私は、私たちは想像し得ないものを想像することを避けてはならない、と思えます。



※)記事中でジェノサイドの意味を、ジェノサイド条約よりも狭く、『ジェノサイドの丘』で使われる意味に狭めています。
※1)スタンフォードの拘禁実験(模擬監獄実験)に関して
http://www.aliceinwonderland.com/misa/stanford_prison_experiment/
 を主要参照しています。
[PR]
by sleepless_night | 2006-03-18 17:14 | 倫理

殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド

 “日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。”
 『ホテル・ルワンダ』パンフレット 町山智浩著        
     http://d.hatena.ne.jp/kemu‐ri/20060304/1141410831より

(1)
 1923年9月6日、震災から6日後、千葉県東葛飾郡福田村。
 午前10時ころ、5家族15人の行商の一行が、利根川の渡し場に着く。
 渡し場で船頭と渡し賃の交渉にあたっていた一人のほかは、6人が神社の鳥居近くに、9人が15メートルほど離れた雑貨屋付近で涼をとっていた。
 交渉にあたっていた一人に「言葉がおかしい」「朝鮮人じゃないか」との疑いが向けられた。村の半鐘がならされ、駐在所の巡査と福田村の自警団、隣村の田中村の自警団が集まった。
 君が代を唄わされるなど、一行は取り調べを受けた。
 不審感が拭われず、巡査は本庁の指示を仰ぐために現場を離れた。
 行商一行と自警団との間のやりとりは続き、雑貨屋付近にいた一行と自警団との間でこらえきれなくなった緊張が解き放たれた。
 「やっちまえ」
 自警団が一行に襲い掛かる。
 交渉にあたっていた一人は鳶口で頭を割れる。
 乳児を抱いていた母親は竹やりで突き殺される。
 川に逃げた者は小船で追われて、日本刀で切り殺される。
 鳥居付近にいた6人は針金や縄で後ろ手に縛られて、川べりに並べられ、川に投げ込まれようとした。
 そのとき、馬で戻ってきた巡査が止めた。
 20代の夫婦2組、2歳から6歳の子供3人、24歳と18歳の青年2人、計9人が殺されていた。
 “ウンカのごとく”集まった自警団の中から8人が殺人罪で逮捕された。
 彼らの弁護士費用は村費で負担され、家族には見舞金が出された。
 裁判で、3年から8年の刑を受けるも、大正天皇の崩御、昭和天皇の即位の恩赦で釈放。
 出所後、ひとりは村長となり、町村合併後の市議も務めた。

 被害者たちは四国出身の日本人。被差別部落出身だった。

 参照
 『世界はもっと豊かだし、人はもっとやさしい』森達也著(晶文社)
 四国新聞社 シリーズ追跡 福田村事件
 http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/098/index.htm

(2) 
 1923年9月1日、午前11時58分、相模湾を震源として起きた関東大震災で生じた流言が、言うまでもなく、この悲劇を引き起こした。

 流言は、伝播性の恐怖であるパニック、意図的に他者や集団を誹謗中傷する目的で流された情報であるデマ、内容が個人的で伝播範囲が狭く・持続時間が短いうわさ、などとは異なる、人々の感情を基礎に自然発生的に発生し、人から人へ内容を変容させながら形成・伝播し、広範囲で長期間持続する、社会的逆機能をもった情報を言う。
 流言の発生(量)は、情報の需給アンバランスが大きく寄与していると考えられる。
 状況のあいまいさから情報を求める欲求が高まっているにもかかわらず、情報がそれを満たすほどない場合に、不安・恐怖・願望などの感情の消費が流言として現れる。
 流言の形態は二つ、噴出流言と浸透流言。
 日常性を消滅されるような状況で生じ、緊急性の高い指示を内容として、猛烈なスピードで広範囲に広がり、状況収拾とともに消える噴出流言。
 日常性がある程度残存する状況で生じ、低速度で巷間に浸透するように広がり、過程で内容が洗練され、長期間持続する浸透流言。
 
 関東大震災では、噴出流言が複数生じた。
 再度の強震の予言、囚人脱獄、大本教徒の暴動、社会主義者の蜂起など。
 朝鮮人の暴動等に関する流言の発生は、1日午後7時ごろ、横浜市内山手本町警察署管内で「朝鮮人が放火している」との内容だった。同日は横浜市内で留まり、翌2日、近接する神奈川・川崎・鶴見へ、午後には多摩川を渡って東京へと広がり、2日中には千葉・茨城・群馬・栃木へ、3日には福島まで到達した。内容は途中から強姦や強盗など変化した。
             『流言とデマの社会学』廣井脩著(文春新書) 参照

(3)
 “ジェノサイドの期間中、男たちには「仕事を片づけろ!」と激励の言葉がかけられた。”
 “大量殺戮という仕事の膨大さを思うと、集団的狂気や暴徒心理、熱病的憎悪から集団犯罪が生まれたのであり、その場で一人ずつが一人か二人殺した、と考えたくなる。だがニャルブイェでは、一九九四年の数ヶ月のあいだ、この小さな国の幾千の地でそうだったように、数十万人のフツ族たちは定期的なシフトを組んで殺戮を続けた。”
 “組織的に人々を、たとえほんの百二十万人ばかりの無抵抗な少数は男性、女性、子供、つまりルワンダのツチ族だったとしても、根絶しようとするときには、もちろん、血の渇きは役に立つ。だがわたしが立っているドアの裏で起きたような虐殺を計画し、実行するにあたっては殺人を楽しむ必要はない。不愉快にすら思っていた可能性すらある。なにより必要なのは犠牲者にいないでいてほしいと願うことだ。必要性の域に達するほど強く願っていなければならない。”
 “結局のところ、ジェノサイドはコミュニティ形成の実践だった。全体主義の強力な命令は全住民をリーダーの計画に組織する。ジェノサイドはそれを実現するための、もっとも異常かつ野心的な、だが同時にきわめてわかりやすい方法だった。一九九四年のルワンダを、外の世界は崩壊国家がひこおこす混乱と無政府状態の典型だとみなしていた。事実は、ジェノサイドは秩序と独裁、数十年におよぶ現代的な政治の理論化と教化、そして歴史的にも稀なほど厳密な管理社会の産物だったのだ。そして奇妙に聞こえるが、ジェノサイドのイデオロギー、あるいはルワンダ人が言う「論理」、は苦痛を与えるためではなく、それを緩和すると喧伝された。絶対的脅威の影によって人民と指導者は錬金術的ユートピアに融けあい、個人、全体主義にとってはつねに癪の種だ、は存在しなくなる。
 九〇年代前半の虐殺に参加した大衆たちは、隣人の殺害を楽しんではいなかったかもしれない。だが、殺害命令を拒んだ者はほとんどおらず、積極的反対はほとんどなかった。ツチ族を殺すのはルワンダ独立以来の政治的伝統だった。人民を団結させてくれるものだったのである。”
『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著 柳下毅一郎訳(wave出版)より

(4)
 流言の発生、流言が人々を大きな混乱へと導いたこと、導くことは情報の需給アンバランスがあれば、あると容易に考えられます。
 特に、モバイルの通信機器が発達している現在、情報への要求・欲求レヴェルは高く設定されていることから、災害などで情報供給が大きく下がった場合に、情報不足が緊張の高まりに直結し、緊張への耐性力の低下と相乗して、過去の流言以上の現象を起こすかもしれません。
 また、浸透流言は、地理的な狭さを特徴としてきたものが、日常のコミュニケーション範囲の飛躍的な拡大によって噴出的な広まりをみせるようになるのかもしれません。

 流言・流言による暴走は、百年どころか、時間的な距離や歴史とは関係なく、極めて身近な現象と考えて不適当ではないでしょう。
 それは、日常の揺らぎや裂け目を狙って、私たちを誘惑しようとしている存在だと思えます。

 ジェノサイドは、ルワンダのケースを考えても、ユーゴスラビアやカンボジア、ドイツのケースを考えても、誘惑ではない、誘惑という機会的な話では考えることが不可能な行為だと、私は思います。
 情熱に支えられた殺人とでも表し得るかもしれません。
 情熱的な殺人ではなく、情熱に支えられた殺人。
 この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいという願い。
 最後の一人まで救い尽くそうとする阿弥陀仏や一人の贖いによって人類の罪を引き受けようとしたイエスの情熱(パッション)をベクトルだけ真逆にしたもの。
 それが起きている場面を実際的に想像しようとしても、頭がしびれ、出来の悪いホラー映画程度が私にはせいぜいです。
 
 誘惑と情熱の間には質的な差異が存在し、比較や連想を阻むものがあります。


(5)
 “われわれは当時の囚人だった人々が、よく次のように語るのを聞くのである。
 「われわれは自分の体験について語るのを好まない。何故ならば収容所に自ら居た人には、われわれがどんな気持ちでいたかを説明する必要はない。そして収容所にいなかった人には、われわれがどんな気持ちでいたかを、決してはっきり分からせることはできない。そして、それどころか、われわれが今なおどんな心でいるかも分かって貰えないのだ。」”
         『夜と霧』V・E・フランクル著 霜山徳爾訳(みすず書房)より

  
 “「ジェノサイドって何だか知っているか?」
 わたしは教えてくれと頼んだ。
 「チーズサンドだよ。そう書いときな。ジェノサイドはチーズサンドだ」
 わたしはどういう意味かと訊ねた。
 「誰がチーズサンドのことなんか気にする?ジェノサイド、ジェノサイド、ジェノサイド。チーズサンド、チーズサンド、チーズサンド。誰も気にしやしない。人類に対する犯罪。人類ってなんだ?誰かきみに犯罪をしかけたか?ふん、たかがルワンダ人百万人だ。ジェノサイド条約って知っているか?」
 わたしはうん、と答えた。
 「あの条約は」バーのアメリカ人は言った。「チーズサンドの包み紙にぴったりだ」”
                          『ジェノサイドの丘』より 

(6)
 日本において、『ホテル・ルワンダ』は“チーズサンド”として“包み紙”に包まれたまま処理されるはずだったのを、幾人かが中心となった活動の結果、とりあえず店頭には出されることになりました。
 
 それでも、“チーズサンド”は“チーズサンド”だと、私は思います。
 “人類ってなんだ?誰かきみに犯罪をしかけたか?”
 いいえ。
 ホロコーストの生存者の言のごとく、体験者には語る必要は無く、それ以外の人間には実際的に理解することは出来ない次元の出来事でしょう。

(7)
 植民地時代の人種思想植え付け、分断統治、生産手段の伝統的差異による貧富、民主主義の多数者独裁化、旧宗主国と近隣独裁国の思惑、国際援助団体の限界と欺瞞、事件規模の過大さによる法の無力。
 ルワンダのジェノサイドは94年のハビャリマナ大統領殺害に始まったのではなく、それに終わったのでもない中(50年代からジェノサイドは断続していた。つまり、54年生まれのポールさんはルワンダのジェノサイドの歴史ともに生きてきた。)、ジェノサイドの矮小化のリスクを持ちながら、映画が一人の男性に焦点を絞ったのは、それを体験したことのない人間にとっては“チーズサンド”の粋を越す想像を不可能にさせる次元の出来事に、想像を動機付け、ジェノサイドを育成した無関心を放置することを止めることを訴える、唯一の可能性だったからだと私は感じます。
  
 ジェノサイドは“チーズサンド”の粋でしか想像できなくとも、それを投げつけたい、“チーズサンド”のままであっても無視して、気づかないでいようとする人間に“チーズサンド”を投げつけて“チーズサンド”があることの認知を持たせたい、投げつけられて“チーズサンド”が落ちても“チーズサンド”のまま、落ちた地面は、殺人の誘惑という私たちの実際的な想像可能性の側。それでも、投げつけたい、投げつけて“チーズサンド”と投げつけられた自分という存在を意識させたいという使命感に近い欲求が町山智浩さんの最後の一行から感じられます。
 
 誘惑の側の地面とその上に情熱の側からの“チーズサンド”。
 見えるのはポール・ルセサバギナという一人の人間が情熱に乗らなかったこと。見ているのは誘惑の側に立つ自分。
 “「わたしはずっといい続けた。『あなたのやっていることには同意できない』今こうやってあなたに話しているのと同じくらいはっきり。そうしなければならないと思ったら『ノー』と言う人間だった。わたしがしたのはそれだけだ、したと思えることは。わたしはどうしても殺人者たちに同意できなかった。どうしてもだめだった。わたしは拒否した。だからそう言ったんだ。」”(『ジェノサイドの丘』より)
 誘惑の地面を見ながらその言葉を聞く。
 私は言えない。人を殺せる可能性よりも、確実に低いように感じます。
“「この人なら知ってます。沖縄の人だ」”
           (http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060307#p1より)
 までなら言える、言いえる自分でありたいと願っています。
 
(8)
 “強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っている。そしてたとえそれが少数の人間であったにせよ、彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取りえるかもしれないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないと言うことの証明力を持っている。”(『夜と霧』より)
 強制収容所での自身の体験から、V・E・フランクルは実存分析という意思や責任性を重視した心理療法を作り出しました。 
 
 “十代の少女ばかりの生徒たちは寝ているところを起こされ、分かれるように命じられた、フツ族とツチ族に。だが生徒たちは拒んだ。どちらの学校でも、自分たちはただルワンダ人であると少女たちは言った。そのため全員が無差別に殴られ射殺された。”
                           (『ジェノサイドの丘』より)
 希望はあるのか?との疑問にフィリップ・ゴーレイヴィッチはこの出来事で答えました。

 殺人の情熱の地に希望はあるのか?
 “この国の人々、ルワンダ人は、明日にはどうなるか想像できない。”
 ポール・ルセサバギナは答えます。
 彼が想像できないことを、私ができるはずもありません。

 では、殺人の誘惑の地には?

(9)
 希望は二つの点からあると言いうると考えます。
 一つは、フランクルとゴーレイヴィッチが見出したように、悲惨すぎる出来事で示された人間の力という点。
 もう一つは、ハンナ・アーレントが表現したような悪の凡庸さという点。
 “ジェノサイドは「夢のようだった」とギルムハツエは語った。「政府から降りてきた悪夢だった」今、彼は夢から覚めただけでなく新しい夢を見ているようだった。罪の告白と、たいへん都合のよいルワンダ再生への希望、「新政府はとても立派だ。死者はまったくいない。歓迎されたのには驚いた。新しい秩序が生まれている。」、には政治にも心にも何一つ変化しなくてよい、という夢だ。ギルムハツエはあいかわらず中間管理職で、模範市民になって褒美をもらおうと願っている。当局が殺せと言えば殺し、自白せよと言えば自白するのだ。”(『ジェノサイドの丘』より)
  
 後者の希望だけなら、虚無感が足の筋肉から力を吸い取り立ち上がり前進することはできないでしょう。
 そこに、前者の希望があることが、かろうじて立ち上がり、前進させる。
 歴史的な既得権益、当然私たちの日常に関る、を前にすっきりとした解決など望み得ない、過ちを繰り返す世界で、「それでも」といい続けること。
 


 血による差異への欲求について⇒血液型占いが無くなる日
 ナチスに関するエーリッヒ・フロムの見解⇒「ばらばらにされた一人一人」にできること。

追記) 職業倫理という解釈について。

ポール・ルセサバギナのとった行動に関して職業倫理に拠るものだとの意見が見られました。

 人間の社会的な行動・活動を考える上で、主に三つの要素を区別して考える必要があります。
 まず、パーソナリティ(人格)。成長と経験によって形成された思考と行動を持つ主体。
 次に、ロール(役割)。社会内、さらにその中の集団や組織で期待されている行動。
 そして、ステイタス(地位)。社会内、その集団や組織での評価を伴った居場所。

 一人の人間の要素ですので、三つはばらばらに存在するのではなく、個々人によって程度の違いはあっても、三つは重なり合いをもちます。
 ある役割を果たすには、適したパーソナリティが求められ、対して地位が与えられる。
 役割と地位は、相対的、すなわち、どこの社会に属するか、どの集団や組織かにより変化し、さらには、同時に複数の役割と地位を持つことができます。

 職業倫理とは、職業という役割を中心に考える倫理と解されます。
 ポール・ルセサバギナはホテルの支配人でした。
 ホテルの支配人の役割とは何か?
 宿泊を接受すること、従業員を職場とそれに付随した場所において統括すること、ホテルの経済的利益に貢献すること。
 ホテルの運営会社から給料をもらう対価として、です。

 ホテルの支配人の役割範囲には、自分の命を捨てる高度の蓋然性にさらされることや、自分が助かる機会を捨てることまで含まれるのか?
 ホテルの支配人は、沈み行く船に残る船長や、山岳救助隊員や警察官や軍人と同程度の命の危険にされされるリスクを引き受けることを期待されているのか?ということです。

 答えは、否であるとするのが適当だと考えます。
 ホテルは、災害時などに負傷者や帰宅困難者を引き受けること(協定を市町村と結んでいたり、ホテル会社が社会的責任として自主的に行う)はあります。
 しかし、戦闘の当事者から戦闘地域として相当程度の割合で排除されているために安全が保たれる予測を持てる場合を除いて、ホテルの営業を継続することを期待することはできません。
 さらに言えば、ホテルの営業、宿泊客から宿泊費を受け取ることが不可能に近い(通貨自体が意味を失う可能性、通貨を発行する政府の消滅、通貨を行使する自分の未来の消滅がある)時点から、ホテルの支配人という役割を中心に考えることには無理があります。
 ここで、役割はパーソナリティに中心を譲ることになります。
 

 ただし、役割としての職業という大前提を問う余地はあります。
 教育へのアクセス、移住移転や職業選択の自由に極めて厳しい制約が存在した前近代、その時代の影響を残す職人的な職業観を想定するのならば、ポール・ルセサバギナの行動を職業倫理として処理することは可能だと考えられます。

 続き、私たち(私)にとってのジェノサイドの可能性について⇒隔たり






 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-03-15 20:46 | 倫理

ブログ

“「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ。」と鳥はいった。「個人的な体験のうちにも、一人でその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般に関わる真実の展望の開ける抜け道にでることのできる、そういう体験はある筈だろう?その場合、とにかく苦しむ個人には苦しみのあとの果実が与えられているわけだ。暗闇の洞窟で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋も手にいれていたトム・ソウヤーみたいに!ところがいまぼくの個人的体験している苦役としたら、ほかのあらゆる人間の世界から独立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛ではずかしいだけの厭らしい穴掘りだ。ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」。”
                『個人的な体験』(新潮文庫)大江健三郎著

 人間の人生は、この“個人的な体験”というものによって形成されてはおらず、かといって“人間一般にかかわる真実”によって形成されているわけでもない、まったく中途半端なもののように思えます。
 なにによって形成されているかに関わらず、大江さんのような才能によってならば、“人間一般にかかわる真実”を表すこともできるでしょう。
 しかし、世の大多数の人間はそうではないと思います。
 少なくとも、私がそうではないことは確かです。
 
 エキサイトのブログだけでも約40万人、そのほかを含めると約300万人がブログという媒体を通じて何かを表現している。
 その中には、今までなら公に出ることはなかったであろう優れた書き手、知られることがなかったであろう情報があり、そして今までにはありえなかった影響力があります。
 しかし、ブログの相当数はそうではないと思います。
 少なくとも、このブログはそうではありません。

 そうではない人間の、そうではないブログとは何なのか。

 このブログは私的なまとめを主な目的としています。
 公の可能的読者の存在から得られる緊張感によって、最低限の内容を維持する意図でブログという媒体を利用しています。
 いわば、中途半端な“不毛ではずかしいだけの厭らしい穴”です。
 
 表題に関係する時事についても随時に触れています。
 公に表現している以上、“ほかのあらゆる人間の世界から独立している自分一人の竪穴”とはなれないからです。
 特にブログという媒体は、繋がることで完成されるというネットの特性がTB機能によって明確に構造化されているものだと考えられます。
 今回の大峰山の件は、表題の性・宗教・メディア・倫理の全てに、これ以上ないほど関係しています。
 そこで、“不毛ではずかしいだけの厭らしい穴”から砂粒を投げるような記事大峰山「炎上」についてを書き、検索でヒットしたブログにTBさせていただきました。
 
 いかなる意図であれ、公に表現していることを忘れて書いたことはありません。
 “許された危険”とネットの匿名性で述べたように、匿名であれ、責任は問われます。
  
 
 マスコミを揶揄してマスゴミと呼ぶ人々がいます。
 そうではない人間の、そうではないブログは、マスではないゴミ、ゴミのゴミとなる可能性が多分にあるでしょう。
 
 この中途半端な“不毛ではずかしいだけの厭らしい穴”がゴミのゴミで埋まらないよう、そうではない人間の、そうではないブログとしての分を尽くして“穴掘り”を続けたいと思います。
[PR]
by sleepless_night | 2005-11-20 08:14 | 倫理

区別と差別

 今回の大峰山の件に限らず、ジェンダー・フリーに関係した内容を含むブログの中に、「差別ではなく区別だ」という言葉を見ることがあります。
 「差別ではなく区別だ」という言葉が、何らかの差異的な取り扱いを肯定する理由に使われているのです。
 そこで、引っ掛かりを覚えるのが、「差別ではなく区別だ」との言葉を用いられているのに、差別と区別の関係が示されておらず、何をもって差別と区別を判断しているのかがわからない点です。
 正直、それを言えば済むと思い込んでいるようにも感じ取れる用い方をしている方いらっしゃいます。


区別がないところに、差別はありません。
正確には、違いがあるから、区別され、区別されるから差別されることがあります。

ただ違いがあれば区別がある(区別される)かと言うと、そうではありません。
例えば、血液型です。
「血液型、なに型?」と質問されると通常は、A型なり、B型なりとABO式で回答するでしょう。
しかし、血液型占いに反論するモテないのか?で述べたように血液型は公式でも40種、非公式では約400種あります。
つまり、血液にはそれだけの違いがあるということです。
ではなぜ、一般には、ABO式という違いだけが、区別として認識されているのか。
それは、既述したように、ABO式血液型が輸血において重視される血液型の一つだからだと考えれます。
つまり、違いがあれば、常に(区別を認識され)区別されるとは限らず、(その人にとって)認識されることを必要とする重要な違いがある場合に、区別されると言えます。

ABO式血液型は確かに区別です。
それならば、ABO式血液型によって、例えば、通ってよい道を指定された場合はどうでしょうか?
「それはABO式血液型という区別によるのだから、差別ではない」のでしょうか?


 
 まず、区別が差別となる基準を考えてみます。
 区別とは違いがあることを前提にしていると、上述しました。
 違いがあるものを同じく扱うことは、不合理であり、有害性も生じます。
 ABO式血液型という区別も、輸血による危険を少なくするためです。
 そこで、合理性がある場合を区別、ない場合を差別と考えます。

 では、ABO式血液型という区別によって、通る道を指定することは合理的なのか? 
 まず、なぜ通る道をABO式血液型によって指定するのか、目的を知る必要があります。
 単純に好き嫌いなのか、A型の人の生命には危険な病原体があるのか、O型の人は通さない習慣なのか?
 さらに、ABO式血液型によって通る道を指定する、その指定の態様を知る必要があります。
 指定はどの程度の強制で行われるのか、指定に他の条件はあるのか?

 合理性の観点から、目的と態様は相関関係にあると考えられます。
 重要で必要不可欠な目的があるのなら、それだけ厳しい態様の指定が許されます。
 目的の重要性が低く、根拠薄弱ならば、それだけ軽い態様の指定しか許されません。
 (許される=差別ではないといえる)

 仮に、その道を通って人に病気が頻発していて、調べてみると、ABO式血液型と事故にあうリスクが関係していることが分かったため、勧告と誘導によって指定した場合だとします。
 
 そうすると、目的は重要だと考えられます。
 そして、態様は勧告・誘導で巣から、強制力もそれほど強くありません。
 重要な目的のためですから、この態様は許される範囲として合理性があると考えられます。
 つまり、これは差別ではないと考えられます。

 ところが、さらに続けて調べてみると、ABO式血液型と発病のリスクの関係に疑いが出て、ABO式血液型ではなく出身地域と関係があることの調査結果が出てきた場合はどうなるでしょう?

 目的は変わりませんが、ABO式血液型という区別によって道を指定することの根拠が非常に弱まっています。
 ということは、勧告・誘導とう態様に合理性が認められるか疑問が生じることになります。
 そこで、ABO式血液型と病気の関係が少しでも残っているのならその旨の情報を提供して、あとは通行者の判断に任せ、代わりに出身地によって勧告・誘導することが合理的だと考えられます。
 もし、ABO式血液型とは関係がない・極めて薄いと証明されたのにもかかわらず、道路の指定をとかなければ、差別となると考えられます。


 このように、区別だから差別ではないというのは、それだけでは、何も言っていないことが理解されると思います。
 区別は、差別かどうかを考えるスタートでしかないと言えます。


 大峰山の女人禁制に限らず、「差別ではなく区別」と口にして済ませる前に考えてみるべきだと、私は考えます。



追加) 
 なお、合理性ということについて、なにを「理」とするかには争いがあります。
 しかし、特定宗教の観点から女人を「穢れ」とすること、1300年続いてきたことに「理(ことわり)」があるということで、この件の女人禁制は片付けられません。
 多様な思想・宗教のある社会で、どうすれば人々がそれぞれの「理」を実現できるのか、なにが確実な「理」かが分からないなかで、一応の回答として、日本社会は自由主義を採っています。
 その価値観に則って憲法があり、法律があります。
 
 ですから、私は法的にはどうか?を考えました。
 それは、伝統や宗教がどうでもいいから、法律が全てだから、という考えからではありません。
 多様な伝統・習慣や思想・宗教をもつ社会では、私を含めこのようなことにあうかもしれません。
 明日は、わが身です。
 わが身を守り、わが身がある社会を考えて、法律を使うことを考えます。
 女人の「穢れ」という思想を持つこととは別に、そのような思想を持つ人も含めての多様性をどう成立させるのか。
 私がその思想に反対するとしても、その思想を持つ人と、同じ社会で暮らす、お互いができるだけ幸せであるためにはどうするべきか、どこを譲り、なにを得るのか、止まることのない時間と社会の中で、どこに一応の解決を見出して進むべきか。
 それを考えたつもりです。

 伊田さんや今回の「プロジェクト」の方のやり方には大峰山「炎上」についてで述べたように、下手な・おかしな点が多々あります。
 しかし、少なくとも、お互いの考える「理」の内容とは何で、どうしたら上手く両立や止揚できるかを考えようとしている姿勢はあると思います。
 伊田さんの質問書の内容は、相手の「理」を正確に把握するためのものだと解釈できます。
 それをするまでに必要だと考えられる手順をすっ飛ばしているのですが、内容はふざけているものでも、無意味でも、ないと私は解釈します。


合理性についての関連記事⇒「心の闇」も占うのか?

一般ということについて。
「性」の世界へなどで既に触れているのですが、軽く私見を述べます。
 一般用語というのは便利で簡明なものを意味するものではなく、むしろ一般という抽象的な言葉に覆われた恣意と錯綜に議論や対話が犯されるリスクを宿した言葉だと考えます。
 科学、平等、伝統、性、これらは確かに一般用語、日常に語義を限定されずに用いられる言葉です。
 日常会話でそれを突き詰めて話を進めることはまれかもしれません。
 しかし、もし、自分が重要だと思ったり、何かを自らの表現で伝えたいと考えるなら、一般用語が胎するリスクは看過されるべきではないでしょう。

 小学生には、小学生に分かるように話されなくてはなりません。
 しかし、小学生ならぬ身なら、小学生ならぬ身として話すべきというのも同様です。

 例えば、今回の「差別」ということに関して述べてみますと。
 義務教育で最低2回は憲法について学ぶ機会が保障されています。
 一般、日常で「差別」だと思うことに出会った時、司法という国家権力による裁定が私達の日常にはあることも学びます。
 つまり、私達が「差別」という言葉を使えば、そこには憲法が不可避的に存します。
 同じく義務教育で最低3年間は英語を学習します。
 同じ物体・現象に囲まれても、どう切り取るか、切り取ったものをどう体系化して理解しているかというのは違うという言語学の初歩的な知識を学びます。
 憲法学、言語学に限らず、専門的な学問は一般や日常と隔絶して存在しません。
 学問は一般や日常を精確に理解し、考えるために(も)あります。
 最低でも義務教育の9年間、そして9割の進学率がある高校の3年間は、専門となる学問への準備に向けられたものです。
 小学生ならぬ身ならば、それを分かっていることになります。
  
 一般用語を一般用語として(を分かって)用いるのは当然宜しいでしょう。
 むしろ、一般に用いられる言葉をあえて語ることでの精確な理解は、このブログで試みていることでもあります。
 しかし、一般用語というのが、無知や怠惰を意味するならば、それを用いることは首肯できません。
 「性」を語ること、「いき」を語ること。で述べたように、「いき」と「いきがる」は違います。
 
 ジェンダー・フリーの結果として男女同室での着替えがあるというのはデマである可能性があること,本当だとしてもそれはジェンダー・フリーという観点からも批判されていることも当然知っておいて然るべきです。
 http://blog.livedoor.jp/suruke/archives/17335186.html#trackback


感情ということについて。
 区別と差別の違いを掘り下げても、当事者の気持ちは理解できない。
 それは当然です。
 私は当事者ではありません。
 皆が当事者になる必要もないし、なれもしないでしょう。
 明日はわが身ということは、わが身である前提に踏みとどまり想像し・考えるということです。
 それは、現にこの当事者ではない人間が当事者のように振舞うことではないと、私は考えます。

 “(当事者)の気持ちを本当に共有して悲嘆にくれる人が、日本全国で何人いるのだろう?殆どの人は悲しみや苦痛などを共有していない。憎悪だけだ。肉を買ったと申告さえすればあぶく銭をもらえると期待した市民達がスーパー側に拒絶されて、「ふざけんなよこの野郎」と罵倒する程度の憎悪だ。明確な射程などない。冷静になれば自分が何に対していきどおっているのかさえわからない、その程度の憎悪だ。でも、その程度だから怖いのだ。”※
  
 「差別ではなく区別だ」という言葉を目にして、その使われ方の幾つかに疑問を持ち、それを整理しておこうと意図してこの記事を書きました。
 もし、同じ疑問や判然としない感をお持ちの方がいらして、この記事をお読み頂き、何らかの参考にしていただければ嬉しく思います。
 また、「差別ではなく区別だ」とお考えになり、その旨を公(※1)で述べる折、「『差別ではなく区別だ』と言えば済むと思っている人いる」と思う人間もいることをお心にとめていただき、いかに判断したかを論述するお手間を掛けていただけますと、「区別ではなく差別だ」と判断する人間にも説得的な言となりうると思われます。
 同時にそれは、「『差別ではなく区別だ』といえば済む」という安易な態度に、外観の類似性によって不本意に与する形となることを防ぐことにもなるかと思います。
 

 感情なき論理は空虚です。
 しかし、論理なき感情は暴力を導きかねません。

 

※引用部。カッコ内は原文を変更。 
※1特定の多数人、若しくは不特定の人間に対して。
[PR]
by sleepless_night | 2005-11-13 20:30 | 倫理