カテゴリ:藤原正彦関連( 10 )

幻想の「故郷」

 『数学者の言葉では』p134「ふるさと笹原」より
 母である藤原ていが、満州から引き上げ後の過労で倒れていたため、三人兄弟のうち藤原正彦さんだけが約一年間母方の祖父の家で暮らす。
 “信州での生活がはじまってしばらくの間は、村の子供たちに「東京人」と呼ばれ差別されたが━中略━私はほぼ完璧に信州弁をはなせるようになり、そして、持ち前の無鉄砲さと喧嘩強さにより、いつのまにかガキ大将にまでなった。”
 その後も、夏休みを笹原で過ごす。
 “彼等は、私の到着する大体の時刻を知っていて、火見櫓から今や遅しと見張っていたのである。うれしくて堪らないのだが、一年ぶりの共にあうのが照れくさかったのだろう。或いは、閉ざされた山村の人なれしていない子供たちにとって、異邦人とも言える私と顔を合わせるのは極まり悪かったのかもしれない”
 寒冷地であったため夏休みが東京より短く
“学校のある間、手持ち無沙汰の私は毎日校庭にいって、校舎の正面にあったブランコに揺られていた。”
 “ひとりだけ坊ちゃん刈りであることも、ひけめの一因だったかもしれない。”

 『父の威厳 数学者の意地』p30「ふるさとのお盆」より
 “茅野市にあるこの地は、厳密には母のふるさとである。ただ私も、終戦後しばらくの間この山里に住んでいた。その後、東京の小学校に入学してからも夏休みごとにここにいた祖父母を訪れ、一ヶ月以上は滞在していたから、満州生まれの東京育ちにもかかわらず、ここをふるさとと思っている。”


 さくさくさん(http://cafe.gekidan-subaru.com/trackback/253133
)のご指摘のとおり、藤原正彦さんは日本人の歴史・伝統・文化を含んだ「故郷」には「精神的密着感」があると幾度か強調しているにもかかわらず、ご自身には「故郷」があるとは思えないのです。
 信州も“ふるさとと思っている”だけで、生まれ育った場所、帰り行く場所ではなく、夏休みに行く場所です。
 「故郷」は藤原さんの脳内にしかない、だからこそ、(幻想的な)歴史と織り交ぜて、現実が不可避にもたらす摩擦・雑音もなく、自在に作り上げられるのです。



 
[PR]
by sleepless_night | 2006-06-04 10:07 | 藤原正彦関連

『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ

 “私は父を失った。だがそれと同時に、私は父を見出しもしたのだ。”
          『孤独の発明』ポール・オースター著 柴田元幸訳(新潮文庫)

 “意識の深刻な変化はいつでも、まさにその性格上、特有の記憶喪失を伴うものである。そうした忘却の中から、ある特定の歴史的状況の下で、物語が生まれる。”
        『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン著 白石さや・白石隆訳(NTT出版)



 人生の危機に関する論文執筆をするにあたってシカゴ神学校の4人の神学生たちが精神科医エリザベス・キューブラー・ロス博士に協力を依頼したことで、終末期医療の古典的作品『死ぬ瞬間』が誕生した。(※)
 人生最大の危機である死という出来事について、ロスたちは末期にある患者へのインタヴューという、それまでの常識を裏切る手法をとり、200名以上の記録を残した。
 ロスはそこから、死という過程に、否認→怒り→取引→抑鬱→受容という段階があり、“もし患者に十分の時間があり、そして前に述べたいくつかの段階を通るのに若干の助けが得られれば、かれは自分の「運命」について抑うつもなく怒りも覚えない段階に達する”との考えを得た。

 ロスはその後、臨死体験・体外離脱体験、チャネリングなどの研究と実践に傾倒し、信頼していた霊能者の裏切り(わいせつ事件やタネ本存在の露見)、自身の運営していた施設の火災消失(放火の可能性)などとトラブルに見舞われた。1995年に脳梗塞で倒れ、2004年に死去。
 脳梗塞後のロスを取材したドキュメンタリーでは、自身がかつて描いた死のプロセスの「怒り」にある姿が見られた。
 彼女の研究生活の後半の研究と実践に関する疑義を考慮しても、彼女の終末期医療、思想界への影響・貢献の多大さは語るまでもない。

 
 “脳化=社会で最終的に抑圧されるべきものは、身体である。ゆえに死体である。死体は「身体性そのもの」を指示するからである。脳は自己の身体性を嫌う。”
              『唯脳論』養老孟司著(ちくま学芸文庫)
 
 人が死に逝く姿、死体に直面することは少ない。
 これほどニュースで世界中の死が喧伝されている時代に、私たちの前には死は滅多なことでは現れない。
 職業上死を取り扱うことが多くとも、それを眼前に据えることは難しい。
 なぜなら、それらの職業は死を遠ざけること、若しくは、死をパッケージングすることを目的とするものだから。
 
 “労働とは緩慢なる死のことである。労働は普通は肉体的疲労の意味で理解されているが、それとは別の意味で理解しなくてはならない。労働は、一種の死のようなものとして、「生命の現実」と対立するのではない。そのような考えは観念論である。緩慢な死が暴力的な死と対立するように、労働と死は対立する。これが象徴的現実である。中略。次のように主張しなくてはならない━労働に対する唯一の選択肢は、自由な労働とか非労働といったものではなく、まさに供儀なのだ、と。” 
    『象徴交換と死』ジャン・ボードリヤール著 今村仁司・塚原史訳(筑摩書房)

 “緩慢なる死”が“暴力的な死”を覆い隠している社会において、唯一に近いほどの死とは自らのと自らの親の死。
 病院で死に、業者が処分する“緩慢な死”の浸透は激しい。
 死ぬこと、死ぬ姿を見つめることでさえも現代では難しい。
 しかし、死は与えられる。

 “労働に対する唯一の選択肢”である“供儀”について、ロスは“遺族に話させ、泣かさせ、もし必要なら絶叫させよ、ということである。彼らに感情を分けもたさせ、だが彼らの要求にいつでも答えてやれということである。遺族は、死者の諸問題が片付いた後も、長い哀悼の期間を目の前に控えもっている。”と援助者の視点で語っている。

 死を見つめることには後がある。
 悲しみという“供儀”であり、フロイトの呼ぶところのmourning work(喪の仕事)。
 
 自分へと繋がる歴史の担い手であり、自分の誕生と成長を自分以上に知る立場にある親の死は、親が引き受けてきた自分の歴史に否応なく目を向けさせる。
 「喪の仕事」とは、親の遺体の実在(身体性)を通じて、死と親と自分の生に直面させられる作業だと言える。

 失った当初の慌しさを経て、改めて親の死の悲哀に向かい合う時。(※1)
 回想の中で、美化・理想化、自己同一化によって親の死を否定する心の防御作用が働くことがある。
 美化・理想化は敬慕の情と捉えられるが、その下には、うらみ・くやみ、憎しみ、罪悪感、恐れなどの逆の感情がある。
 また、死の悲哀を避けるために、外的な事務・仕事に熱中したり、別の存在へ耽溺したりすることもある。
 しかし、ロスが述べたように、悲哀の感情を吐きつくすことで「喪の仕事」がなされなければ、親の死と自分の歴史は整理がつかずに安らかなものとして受容することができない。(この過程は、荒魂→和魂→祖霊→祖霊神という古代の死後観を連想させる。) 


  “父が死んだ。頭の中で、自分に言い聞かせるようにゆっくりと呟いたが、そのことの意味がよく理解できなかった。”
                 『無名』沢木耕太郎著(幻冬舎)

 祖父一代で興した通信機器会社の次男として経済的には恵まれた生活をしてきた沢木さんの父は戦災で財産を全て失う。
  “食事をしながら一合の酒を呑む。そして、食事を済ませてから一冊の本を読む。それが父の最高の贅沢であり、それ以上の贅沢を望まなかった。”
 手に職があるわけでも、特別な才能があるわけでもなく、生活力もなく、中年近くまで定職もない貧しさにあっても、不平や焦りのない穏やかな人物で、“何を訊いても分からないことがないということが不思議でならなかった。父のほうから私に何かを教え込もうとしたことは一度もなかったがた、訊ねた事で答えられなかったことはなかったように思う。中略。どれだけ本を読んだらあのような知識が頭に入るのだろう?私のその疑問には一種の絶望感のようなものが含まれていたかもしれない。自分はいつになったら父と対等に話し合えるのだろう。”と沢木さんの畏敬の対象であった。
 自身が大変な読書家であるのに、子である沢木耕太郎さんに「本を読め」の一言も言うことはない。だからといって、子供を軽く扱ったのではない。“凄みすら感じられる”不干渉でありながら、妻子を想い、小さな工場の溶接作業で養い、溶接の炎の美しさを飽かずに感じることのできる感性の持ち主だった。

 “もしかしたら、こんなに長く父の顔を見るのは生まれてはじめのことかもしれなかった。私は眠っている父の顔を飽かず眺めた。”  
 “「何も・・・しなかった」
 父はさらに重ねるようにして言った。
 「何も…できなかった」
 私は何もいえず、ただ父の顔を見つづけた。”

 沢木さんは、父の人生が無に等しいものではないことを伝えようと、父が作っていた俳句で句集を作ることを思いつく。
 看病中、そして死の期間、句集のための作業を通じて沢木さんは父の人生の時、父と自分の人生の時を見つめ、父への畏れの裏にあった感情を発見する。
 “なぜ父に反抗しなかったのか。もちろん父が恐かったからではない。それどころか私は、幼いころから、父を守らなくてはならない人と感じていたのだ。そう、私にとって父は守るべき対象だった。中略。そう、少年時代の私は健気な男と子という役割を演じ続けていたのだ。中略。たぶん私は父をいつまでも畏怖する対象でありつづけさせておきたかったのだろう。しかし実際は、そう思ったとき、すでに父は畏怖する対象ではなくなっていた。”
 “間違いなくやさしい父親だった。しかし、そのときのその言葉は、やさしさから出た言葉ではなかった。”

 句集が完成し、父の死の報せに添えて句集を贈り終えた後、父が所属してた句会の世話役から小包で届いた会の句集のバックナンバーを読み、父のためにつくった句集でついたと思った自分の中の整理がゆらぐ。
“わからない。そう思ったとき、突然、いまでも父のことは何も分かっていないのだという思いにおそわれた。”
 しかし、そのゆらぎを携え続ける中で、父の死後、昇華できずにあった父の遺体のひげをそったときの感覚を俳句の言葉にのせることが、ある時ふと、できた。
 そして、“それでよし。私は父の代わりにそう呟いた。”


 『無名』に描かれたのは沢木さんの「喪の仕事」です。
 勿論、これで完全に終わりということはないと思いますが、“それでよし”と一つの区切りをつけること、父を「向こう側」へ送る“供儀”が終わったものと解されます。
 
 “私は父を失った。だがそれと同時に、私は父を見出しもしたのだ。”
 オースターが言ったように、人は父を失って、父を見出す。
 そこで、父を「父」へと美化・理想化して膨張させることなく、父の遺体(身体)に根差して父を見出すことができる経験は、“緩慢な死”に捕らえられている私たちの多くにとって幸運なことだと思います。
 それだけの時間を死に逝く者が残してくれること、さらに、修羅場化する程の長期にならないことなど、望んで得られるものではありません。
 
 歴史とは忘却によって生まれる物語であるという、ベネディクトの言は、国家(nation)だけではなく、一人の人生につてでも当てはまります。
   
  “国家は、手にとるこもできず目に見えることもない「想像の共同体」であり、具体的には接触できないからこそ、決して期待をうらぎらない。わけても過去の歴史は、国家の諸要素のなかでも最も具体的接触が不可能であるがゆえに、公共性や共同性を託せる幻想の場として、特権的な地位を確保しえた”
       『“癒し”のナショナリズム』小熊英二・上野陽子著(慶応大学出版会)
       
 触れることのできない国家については「父」として国民へ物語を語ることができ、時に、神話でさえもおしつけることができます。
 しかし、それと同じことを、触れることができた父について行うことは、父の身体性(死)の否定であり、死に至るまでの生の否定です。
 
 圧倒的多数の人間は程度の差こそあれ、無名のまま生きて死んでゆきます。
 無名であること、死によって自分の存在が無へと帰されることに虚しさを感じることは多々あります。
 父が死んでも、世の中は、父の属していた組織や社会は痛痒なく動いていく。
 きっと、私の死もそうでしょう。
 
 しかし、“無名の人の無名の人生”の“無名性の中にどれほど確かなものがあった”のか。
 国家に品格があろうとなかろうと。
 だから、“それでよし”と私も言う。




新田次郎によろしく/『国家の品格』への道
 幻想の「故郷」
ソープへ行け!
藤原正彦の喪失と成熟への渇望
惻隠の情が堀江貴文に向けられる時
藤原正彦の喪失と成熟への渇望 その2
とりあえず、武士道
好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神



 かつて藤原正彦さんの愛読者であった私が言いえることは以上です。




“「ここはどこですが」と、かたわらの女に嗄れ声で訊いた。 女は本を手にして、ベッドのそばに腰を下ろしていた。その本の表紙に書かれた名前は、ポール・シェルダンと読めた。それが自分の名前だと気付いたが、べつだん驚きはしなかった。「コロラド州のサイドワンダーよ」彼女はその質問に答えていった。「あたしの名はアニー・ウィルクス。あたしは―」
「知ってます」と彼は言った。「私のナンバーワンの愛読者ですね」
「そうよ」彼女はにっこりした。「そのとおりだわ」”
         『ミザリー』 スティーヴン・キング著 矢野浩三郎訳(文春文庫)

 愛読者とは、実に怖ろしきものかな。





※)『死ぬ瞬間』エリザベス・キューブラー・ロス著 川口正吉訳(読売新聞社)
『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス著 上野圭一訳(角川文庫)を参照。
 NHK BSドキュメンタリー『最後のレッスン~キューブラー・ロスかく死せり』
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=104&date=2006-05-08&ch=11&eid=13066
※1)『対象喪失』小此木啓吾著(中公新書)参照。
 
  
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-06-02 23:19 | 藤原正彦関連

好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神


はじめに)
反近代。
論理より情緒。
民主主義より武士道。
家族→地域→郷土→国家への“愛”
世界からの尊敬への欲求、世界を導く日本(の私)。

 その全てがあった。
 その時代の実相と結末を忘れ、「父」「母」の喪失を受容できない固着した想いという私情の産物を“国家”の名で包装した書籍が受け入れられる。(参照:新田次郎によろしく/『国家の品格』への道
 その時代の結末が民衆に示したはずの教訓を忘れて、もうすぐ、“国と郷土を愛する”義務教育が始まろうとしている。

         ********
 以下の冗長な私の文章にウンザリという方、つまらなそうだと感じた方へ。
 書いている本人が申すのも何ですが、読まなくて結構です。


 『ねじ曲げられた桜』大貫恵美子著(岩波書店)定価4200円を読んでください。(⇒ライフログへ追加しておきました)
  書店にお勤めの方は、『国家の品格』の平積みはトイレの個室に入れて置いて、『ねじ曲げられた桜』を空いた場所へ置いてください。
  
 値段は『国家の品格』の約6倍です。ページ数は約3倍です。
 『国家の品格』は39字×14行、『ねじ曲げられた桜』は46字×18行です。
 『国家の品格』は藤原正彦さんが専門外のことについて過去のエッセイで定型句化するまで書き連ねたものを講演で話し、さらに書籍にした「楽して儲ける」「出涸らし」です。
 『ねじ曲げられた桜』は、150ページ近い注と付録が示すとおり、大貫恵美子さんが専門の象徴人類学に基づいて膨大な資料、特攻隊員たちの手記・日記を読み解いた作品です。
 
 本物と偽者の文章・作品を比べてみてください。
 本文は450ページありますので、丸一日はかかるでしょう。
 しかし、各章に要約がついています。
 また、文章は簡明であり、専門用語も多くはありません。
 桜という一つの象徴を通じで、日本の近代と敗戦の歴史が語られています。
 価格は書籍としては手が出しにくいという方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、一回飲みに行くのを止めるだけの価値はあります。
 (ソープへ行け! こちらのほうが、ソープよりも安いでしょう)
 
 来年の花見でお酒を召し上がるとき、それ以前とは桜を見る想いが違っているでしょう。
 花見で繰り返される刹那的な享楽の虚しさではない、桜の美しさを感じることができると思います。
 おまけに、藤原さんの妄想ではなく、まともな薀蓄も身につくでしょう。

 グーグルで“国家の品格”は約200万件ヒットします。
 “ねじ曲げられた桜”は約360件ヒットします。
 “藤原正彦”は約150万件ヒットします。
 “大貫恵美子”は約800件ヒットします。

 人物の価値は分かりませんが、少なくとも、書籍の価値は全く逆です。
 新書と単行本の違いではなく、それは、文字の書かれた物質としての価値という次元において違います

 以下、余力のある方はどうぞ。

(1)統率の外道

 “「ご承知のとおり、最近の敵空母部隊は、レーダーを活用して空中待機の戦闘機を配備し、わが攻撃機隊に対し三段がまえでそなえている。この警戒幕によって、わが攻撃機を発見補足し、これを阻止撃退することがひじょうに巧妙になってきた。その結果、敵の警戒幕を突破、または回避してめざす攻撃目標に到達することが困難となり、しかも、いたずらに犠牲が大きく、敵に有効な攻撃をくわえることができない。この窮境を打開するためには、第一線級将兵の殉国精神と犠牲的雌性にうったえて、必死必殺の体当たり攻撃を刊行するほかに良策はないと思う。これが大儀に徹するところであると考えるので、これを大本営としても、了解していただきたい。」”

 ミッドウェー海戦を境にして壊滅的な劣勢へと進む中、体当たりによる攻撃が考案され、実行された。
 1944年10月25日、敷島隊の関行男大尉が第一号として軍は公報したが、実際はその4日前に大和隊の久能好孚中尉が出撃して未帰還だった。
 さらに、それ以前の台湾沖航空戦で第二十六航空司令官有馬正文少将が空母へ体当たり攻撃をしている。

 そもそも、特攻作戦が誰によって考案され、決定されたのかが分かっていない。
 上記引用は、一般的に特攻の生みの親とされる大西龍次郎中将が1944年10月初旬に軍需局総務局長から第一航空艦隊司令長官へ転任する前に海軍軍令部の首脳へ向かって述べたもの。
 しかし、その年の初旬に海軍軍令部から回天(人間魚雷)の製作を指示、陸軍参謀本部でも特攻攻撃の検討がされている。
 遡れば、陸軍の主兵と言われた歩兵は“突撃”を華とし、海軍は兵学校で楠正成を手本とする天皇への死を省みない忠義と“人間が測り知ることのできないものに対する謙虚な随順”という諦念の美徳が教え込まれていた。
 あらゆる面での戦況の悪化を前に、下士官から首脳まで、体当たり攻撃という発想を持った人々が存在した。

 大西中将の言葉に、軍令部の及川古志郎大将は“「あくまでも本人の自由意志によってやってください。けっして命令してくださるなよ」”と答え、特攻は自発的という形式を与えられた。
 しかし、公報で第一号とされた関行男大尉でさえ、実質的な命令だった。
 士官学校出身のエリートたちは、この作戦の無効性(敵の防御網、重すぎる爆弾と高速による操縦難、軽機体衝突の無力)を理解しており、志願者が出なかった(兵学校卒の関大尉は特攻に正統性を与えるために「志願」させられた)。
 だから、予科練生などの下士官や短期間で養成されるための教育素養を持つと考えられた学徒兵たちが特攻の主体を担わされた。
 陸海軍で約4000名が「志願」し、死んでいった。

 宇垣纒中将は、敗戦の放送後、部下数人と最後の特攻に出て死亡。
 大西中将は、敗戦の翌日、割腹自殺した。 
 上級将校たちの多数は生き残り、ある者は慰霊事業幹部、ある者は議員、ある者は企業幹部となっていった。形式上の「志願」を楯にとり、“崇高な犠牲”と特攻隊員を祭り上げ・美化し、作戦の実効性や責任を問うことのできない感情の領域を設定することで保身した。

(2)特攻の精神
① 学徒兵の死の「志願」

 当時、高等教育機関である旧制高校・大学への進学率は10%程度だった。
 学徒兵たちはこの僅かな進学者、つまり、エリートたちだった。
 旧制高校では、「デカンショ」(デカルト、カント、ショウペンハウエル)に代表されるような西洋ハイカルチャーの影響下にあり、エリートとしての余裕と教養教育から東西の古典を数百冊、中には原語で読破していた。知識人の間で流行したマルクス主義の思想は、恵まれたものとしての引け目とエリートとしての社会正義にマッチして、基本的な知識として認識されていた。同じく、明治以来の知識人に受け入れられていたキリスト教に関しても聖書は古典として、あるいは信者として受け入れられていた。
 エリート集団の聖域として反軍的な思想・主張さえ見られた旧制高校・大学にいた彼らが、いかにして、特攻という最も日本軍的で、非理性的な選択に「志願」していったのか。

② 『ねじ曲げられた桜』/美意識とメコネサンス
 “美的価値を自分たちの理想主義と愛国心に投影することによって、自らの犠牲を気高く美しい目的のためと正当化する上で、「一役買うことになった」”
 当時最高の知性と教養にあった彼らが、明らかに悪化する戦況とそれに対する無力・不合理な選択への「志願」を自らに納得させた源泉は美意識だった。
 “理想主義と人生における美の探究”と職業軍人への幻滅、エリート意識が彼らの「志願」を導き出した。
 “隊員たちは皆、行動においては「天皇即国家への犠牲」のイデオロギーを再生産していた、しかし、思考においてそれをそのまま再生産していた者は一人としていなかった。彼らは皆、最後の時まで、心から生きたいと願っていたのである。”
 “特攻作戦を武士道の完全なる再生産とするステレオタイプとはまったく対照的に、彼らの愛国心は、複雑に交叉する世界的思潮、西洋の政治的・軍事的脅威、そしてそれ自体がローカルとグローバルの相互作用の結果である日本の知的伝統、こうしたものの結実であった。”

 キリスト者であり、リベラリストであり、マルキストであった学徒たちは「国のために死ぬ」(プロ・パトリア・モリ)選択をしたが、「天皇と国のために死ぬ」(プロ・レゲ・エ・パトリア・モリ)ことはしなかった。
 しかし、明治以降、徹底された文化的戦略の影響を受けていたことも事実だった。
 その戦略において重要な位置を占めたのが“桜”だった。
 文化的ナショナリズムの象徴としては勿論。
 桜は生命・生・若さ・生殖のシンボルであるのと同時に死と再生をも象徴する。
 武士、男性的な潔さ・秩序と同時に女性的あるいは幼童的・中性的な美や脱規範的な狂気をも象徴する。
 “象徴の美的価値のもっとも重要な点は、象徴にその広いフィールドを横切らせ、「無垢の」文化的な空間から「危険な」政治的空間へと移動させる、その美的価値の能力に関するものである。中略。自然の理想化された美が、人々の猜疑心を和らげ、国家イデオロギーにおける「自然」であっても、人々に今までどおりの「自然」であると解釈させてしまう。”
 特攻に「志願」した学徒兵も、家族も、桜の喩えを多様した。
 しかし、それは“意味のフィールドから違う意味(ミーニング)を引き出しながら、自分たちが同一の意味(シグニフィケーション)を共有していないことにほとんど気付いていない”メコネサンス(象徴的誤認)によって成立したコミュニケーションだった。
 それこそが、明治以降に、大日本帝国の首脳達が目指したものだった。
 不条理・不合理を受苦させるための武器こそが、美だった。
 
 敷島の大和心を人問はば 朝日にによう山桜花

 本居宣長のこの歌は、新渡戸の『武士道』でも紹介されている。
 第一号特攻とされた隊、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊はこの歌から名づけられている。
 生命を意味(シクニファイ)していた本居の歌が、意味のフィールドを横切らせて、特攻隊員の死を美化するのに使われた。
 他の特攻隊命名の多くも桜から採られ、写真などでも有名なように特攻隊員たちは桜を胸に挿し、見送る人々の手にも桜があった。
 靖国の桜には、いつのまにか彼らの再生の意味を込められるようになった。

 “毎年桜の季節になると、大勢の若者が靖国神社の境内(第一鳥居から第二鳥居まで)で飲めや歌えの花見をにぎやかに繰り広げる。彼らは、自分たちの行動の悲惨なアイロニーに気づいていない。”

③ロマン主義、日本浪漫派
 特攻に「志願」した学徒兵の美意識に表現を与えたのが、当時、世界的潮流でもあったロマン主義、日本においては雑誌『日本浪漫派』。
 ロマン主義は、産業社会、資本主義が発展して伝統や自然が失われてゆく中で、過去や異国、神秘への憧れ、逃避、想像などの主観的要素を持つ。
 
 戦後、橋川文三は日本浪漫派を“耽美的パトリオティズム”“産土のパトリオティズム”と呼び、その典型を保田與重郎に見た。
“日本人の生活と思想において、あたかも神の観念のように、普遍的に包括するものが「美」に他ならなかった”
 “政治が政治として意識される以前に、政治の作用が日常的な生活意識の次元で、その美意識の内容として受け取られる”“政治意識の美意識への還元”が行われ、自然である政治が作り出す結果が“絶対に変更することのできない現実━歴史━美の一体的観念が、耽美的現実主義の聖三位一体を形成する。”
 “保田や小林が「戦争イデオローグ」としてもっとも成功することのできたのは、戦争と言う戦時的極限状態の苛酷さに対して、日本の伝統思想のうち、唯一つ、上述の意味での「美意識」のみがこれを耐え忍ぶことを可能なら閉めたからである。いかなる現実もそれが「昨日」となり「思い出」となるときは美しい。”

 そもそも、日本浪漫派というグループは“マルキシズムの陣営で政治と闘って闘い敗れた人か、戦わずに敗れた人か、乃至はてんで闘う意志も経験も持たない人の集団”(江口渙)“雑然たる諸傾向がレアリズムに反対するという意味で合流したに過ぎないものであったから。浪漫主義を欠如したロマンチストの集団、反レアリズムのみを共同座標軸とする消極的なエスプリ”“浪漫主義としての積極性を築き上げることができなかった”(伊豆公夫)という評価を戦前から受けていた。

 しかし、“「都会」の「近代」に傷ついた無垢な地方青年の「故郷」奪還の運動であった、といえるので、それがけっして現実に所有できぬものであることを知悉していたればこそ、彼らにおいて「イロニー」が唯一の時代的現実へのアプローチの方法たりえた”(大久保典夫)のであり、死を「志願」することしか現実にはなかった学徒兵にとって“死ぬことが必然であるとき、戦争のあるべからざることを説いたところで、リアリティをもちえ”(松本健一)ずに、保田與重郎自身が当時の戦争の意味づけには無関心に“憧憬の純潔を守ろうとする心情現実と夢とに強いられた反抗の身振り”(桶谷秀昭)が「イロニー」であっても、「散華の美学」の経典となった。

 “「ヱルテル」は既に云った如く対象の描写より、専ら主体の分析を描いた。つまり近代である。これは先験哲学と共通の発想である。そうしてそのことによって、批判はなんらの存在の確保でないといふことをたしかめてくれた。批判は不安の増大に他ならなかった。宗教の神に代わった愛情の不定と、その不安を克服するための観念論は、ついに愛情の不安と、その不安の増大確保者という、反対の結果を生んだ。中略。主体の分析の無力、この新時代の獲得した価値のもつ泥沼がはつきりとここに示されたのである。中略。ロッテのために、ロッテのために、私はその犠牲になります。とヱルテルは 遺書のなかでくりかえした。この純情の言葉は、残忍な復讐とみえないだろうか。一等美しい言葉ばかりでかかれた遺書は、断末魔の呪言よりも怖ろしくなかろうか。”
           『ヱルテルは何故死んだか』保田與重郎(新学社)

④近代の超克 
“近代の超克ということは、政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克を意味する”(鈴木成高)

 雑誌『文学界』昭和17年10月号に掲載された座談会「文化総合会議シンポジウム」で、京都学派・日本浪漫派・文学界の三派の論客によって“近代の超克”が論じられた。
 京都学派とは、旧制高校生の三大必読書の一つ『善の研究』の著者であり、その名を関して哲学が語られる数少ない日本人哲学者、西田幾多郎を中心とした哲学者のグループ。
 その代表的な論客であった高坂正顕(国際政治学者 高坂正堯京大教授の父)は、“近代の超克”についてこのように考えた。
 中世が古代ギリシア的な世界をキリスト教会の内面の支配(外的世界の否定)によって変化させたが、外的世界の否定によって外的世界を支配することの矛盾から結局は自己否定されて、近代へと変化せざるをえなかった。近代は、中世の神の中心から人間中心へ、そして人間が機械を利用して世界を支配する時代、自由と合理性の世界、だが、機械による支配が実現した後で逆に人間自身が機械として利用され、否定されてしまった。
 “近代の超克”が過去の歴史と同様に必然的に求められ、それを担うのが日本である。
 “東洋の原理はまさに無であるのである。西洋的実在は、自然にせよ神にせよ人間にせよ、要するに有の原理である。ここに無を原理とする東洋の特殊な意義がある。中略。そして日本はかかる世界秩序の主要契機であるべき課題を負わされているのである。”

 また京都学派の哲学者 高山岩男(京大教授、戦後公職追放)は時代的要請としての大日本帝国の役割、第二次大戦の意義をこう述べている。
 “自由主義の根本原理は、かくて無内容な倫理的理想と権力横行の事実と結びつかぬ並存を帰結し、なんら世界の恒久平和をもたらすべき実質的な道義的力を有し得なかったのであって、大戦はこの原理の含む矛盾を如実に示し、従って当然この原理に代わるべき新しい根本原理を産むべき機会に直面した”
 “西欧的な近代資本主義、西欧的な機械技術、西欧的な近代科学、西欧的な個人主義法制、西欧的な政党的議会主義、等々のヨーロッパ文化の世界的普及、中略、このような観念の破れつつのが、まさしく現代の世界史的事実に他ならない。そしてこの世界史の転換に最も重大な役割を演じているのがわが日本である。”
 
 さらに、このシンポジウムには参加していないが、西田と並んで京都学派を代表する田辺元(京都帝大教授)の学徒兵に対する影響も大きかった。
 田辺は出征する予定の学生たちに向かってこう演説した。
 “我々凡夫が身をささげるのは直接に神のためだとは考えられない。国のためである。今日おかれている国家の危急と言うときは、もはや国と自己はくっついている”

 “近代の超克”を唱えた中で最も理論性を持っていたはずの京都学派でさえ、その“超克”された先の像はまったく抽象的なものとしか言えなかった。
 
 したがって、結局、“近代の超克”が示しえたのは“「超克」というこのことばがうかべる表情の美”“稀薄さにもかかわらず、どこか深長な意味を蔵するかのように巧に粧いえたという、この語のもった、まさに表情”が“人を強いて「近代の超克」という発想を産ましめた”(谷崎昭男)ということなのかもしれない。
 これは、『国家の品格』の“品格”にも全く同じことが当てはまと思える。

(3)浪漫的滑走
 “「既に開化と云うものが如何に進歩しても、案外其開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争其他からいらいらしなければならない心配を入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうである事は前御話した通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされる為にただ上皮を滑って行き、又滑るまいと思って踏ん張る為に神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言はんか憐れと言はんか、真に言語道断の窮地に陥つたものであります、私の結論は夫丈に過ぎない、アァなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない、どうすることも出来ない、実に困つたと嘆息する丈できわめて悲観的の結論であります」” 
                            夏目漱石講演「日本の開化」

 保田與重郎は、近代文明に疲れ、近代文明に敗れて還るべき過去も失った人々、特に若い人々を結果として浪漫的な“上皮を滑”りへと誘ってしまった。
 特攻とはその典型だと言える。 
 
(4)『菊と刀』の絶望と希望
 “日本人の恒久普遍の目標は名誉である。他人の尊敬を博するということが必要欠くべからざる 要件である。その目的のために用いる手段は、その場の事情の命ずるままに、取り上げかつ捨て去る道具である。事情が変化すれば、日本人は態度を一変し、新しい進路に向かって歩みだすことができる。”

 敗戦後の占領統治のために、アメリカ合衆国が始めて日本を分析した書、『菊と刀』はこう結んでいる。

“日本人は、侵略戦争を「誤謬」とみなし、敗れた主張とみなすことによって、社会変革への最初の大きな一歩を踏み出した。彼らはなんとかして再び平和な国々のあいだで尊敬される地位を回復したいと希望している。が、そのためには世界平和が実現されなければならない。中略。日本の行動の動機は機会主義的である。日本はもし事情が許せば、平和な世界の中にその位置を求めるであろう。もしそうでなければ、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう。現在、日本人は、軍国主義を失敗に終わった光明と考えている。彼らは、軍国主義は果たして世界のほかの国々においてもまた失敗したのであろうか、ということを知るために、他国の動静を注視するであろう。もし失敗しなかったとすれば、日本は自らの好戦的な情熱を再び燃やし、日本がいかに戦争に貢献しうるかということを示すことであろう。もし他の国々においても失敗したということになれば、日本は、帝国主義的な侵略企図は、決して名誉に到る道ではないという教訓を、いかに見に体したかということを証明する。”
 
 皮肉なことに、日本に関する「古典」のうち、新渡戸の『武士道』より『菊と刀』の方が藤原正彦さんと件の本が受け入れられた現状を示すのには適していると言わざるを得ない。(新渡戸武士道について:とりあえず、武士道)

 私が怒りを感じるのは、ここまで述べてきたような見事なまでの戦前との一致を何故、年長者までもが知った話だと気付かないのかということ、なぜ諌める側へ回らないのかということ、何万歩か譲って“品格”云々を認めたとして、そこで槍玉に挙げる現状を作り出してきた(おまけに、現状への道で散々利益に踊った)加害者としての自覚の無さです。
 過去から学ぶのはいつなのか。
 また、繰り返したいのか。
 
 一つ言えるのか、その結果を蒙るのはこれからの世代だと言うこと。
 いつの時代でも、決定に参与できなかった世代が、最も悲惨な責任を負わされること。
 特攻へ「志願」した学徒兵の様に。
 「玉砕」した兵士たち、餓死した兵士たち、「自決」した人々の様に。
 
 藤原正彦さんがどこに突っ込もうと構いません。
 好きなだけ検便容器を壊せばいい。(※)
 しかし、彼の妄想と無知によって、再び美意識しか逃げ場の無い状況へ後の世代を追い込むことになるかもしれない。
 だから、彼の態度・姿勢を本気で批判しなければならない。

 最後に⇒『国家の品格』を超えて/ゆきよふれ

追記) ここまで読んで頂いた方で「ナショナリズムはダメだけど、パトリオティズムはいいんだよ!」と寝言を仰る方はいらっしゃらないと思いますが、念のため。9・11の後、アメリカ合衆国で成立した連邦政府の調査権限を強大化させた法律の通称名が何かを思い出していただけると、寝言が寝言でしかないことは理解されると思います。

※)『父の威厳 数学者の意地』(新潮文庫)
 長男が小学校の修学旅行にあたって検便をすることを聞いて
 “「こんなものは提出する必要がない。絶対に提出してはいかん」私はそう叫ぶが早いか、容器を袋ごとつかんで二つに折り、くずばこに投げ捨ててしまった。”(p266)  

主参照)
『特攻』森本忠夫著(文芸春秋)
『「特攻」と日本人』保坂正康著(講談社現代新書)
『日本浪漫派』日本文学研究資料刊行会編(有精堂)
『保田與重郎』桶谷秀昭著(講談社学術文庫)
『浪漫的滑走』桶谷秀昭著(新潮社)
『日本浪漫派批判序説』橋川文三著(講談社文芸文庫)
『<近代の超克>論』広松渉著(講談社学芸文庫)
『菊と刀』ルース・ベネディクト著 長谷川松治訳(社会思想社)
 
 

 
 


 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-05-17 20:50 | 藤原正彦関連

とりあえず、武士道

 “「武士道」という言葉を聞いて、今日多くの人が思い浮かべるのは、新渡戸稲造の著書『武士道』(現代はBushido,the Soul of Japan)であろう。学問的な研究者を除く一般の人々、とりわけ「武士道精神」を好んで口にする評論家、政治家といった人たち、の持つ武士道イメージは、その大きな部分を新渡戸の著書によっているように思われる。”
 “新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係も無いということである。”
 “新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳のひとつである。”
  『武士道の逆襲』菅野覚明(東大助教授・日本倫理思想史)著(講談社現代新書)


 新渡戸稲造の『武士道』は、おそらく、鍋島藩士山本常朝の語を浪人田代陣基が筆録した『葉隠』と並んで現代人が想像する武士道の源泉となっている。
 と言いたいところですが、時代劇や時代小説の武士イメージを格好付けて表現する際に用いられると言ったほうが正確なところかもしれません。
 
 以下、幾つかの書籍から簡単にまとめて置きます。

                      *

 “武士とくに上級武士は、算術を賎しいものと考える傾向があり、算術に熱心ではなかった。熱心ではないどころか「学ばないほうがよい」とさえ考えていた。上級武士の子弟には藩校で算術を学ばせないようにしていた藩がかなりある。(中略)ソロバン勘定などは「徳」を失わせる小人の技であると考えられていたからである。”
 “ところが、幕藩社会が崩壊し、近代社会になると、この「賎しい技術」こそが枯渇され重視されるようになった。由緒や家柄は藩内でのみ通用する価値である。藩という組織が消滅すれば、もう意味がなくなる。”

 “かつて家柄を誇った士族たちの多くは、過去を懐かしみ、現状に不平をいい、そして将来を不安がった。彼らに未来はきていない。栄光の加賀藩とともに美しく沈んでいったのである。”
                    『武士の家計簿』磯田道史著(新潮新書)

                     *
 

(1)武士
 “ヨーロッパと同様に日本では、封建制が主流となったとき、職業階級としての武士がおのずから台頭してきた。”
 “この階級は、長い年月にわたり絶え間なくつづいた戦乱の世にあって、もっとも男らしく、もっとも勇猛な人々の間からごく自然にえりぬかれたものであった。その時代の選別の過程を通じて、臆病な者、ひよわな者たちは、自然に取り除かれていった。”
        『武士道』新渡戸稲造著・奈良本辰也訳(三笠書房)

 近世(江戸)へと続く武士は、古代王朝の兵士・武官と異なり、地方領主や貴族の私兵を起源とするので、新渡戸の認識どおり。
 ただし、自然淘汰によって云々と言うのは、世襲による統治を役割とした近世の武士には当てはめ難い。

(2)武士道の要
 “義は、もうひとつの勇敢という徳行と並ぶ武士道の双生児である。”
 “これは文字通り「正義の道理」なのである。”
 “「勇気とは正しいこをすること」となる。”(『武士道』新渡戸著)
 
 新渡戸武士道の評価でポイントとなる発想。
 つまり、武士を普遍的な価値観を体現・実現するべき存在と位置づけていると解される。

 たしかに、家法や家訓には仏教や儒教の思想表現、「天道」といった普遍的な世界観を示すような言葉も散見される。
 しかし、大前提は、それが家法であり家訓であること。
 つまり、何かの普遍的価値を実現することではなく、まずもって自分たちの一族集団が存続繁栄するための知恵を自分の子孫に伝えるものである。
 たとえば、北条氏綱(早雲の息子)は“大将だけでなく、およそ侍たるものは、義をもっぱら守るべきである。義に違ったのでは、たとい一国二国切り取ったとしても、後の世の恥辱はどれほどかわからない。”と述べているが、最後に“右の訓戒を護ったなら、当家は繁盛すること疑いない”と締めている。
 さらに、この意識の痛烈な表現として毛利元就が長男に贈った遺訓が挙げられる。
 “この毛利家の繁栄を願うものは、他国においてはもちろんのこと、当国においても一人としていないのである”
 また、「天道」も、孟子の思想と同様に、統治の正当化と下克上の正当化に使われており、使う側の都合によって良いほうに内容を解釈できるようになっている。(孟子について⇒惻隠の情が堀江貴文に向けられる時
 

(3)ねじれ
 新渡戸の武士道が実際の武士の思想と異なっていると言われるにもかかわらず、奇妙に武士の言行と重なって見えるのは、見る側の認識にねじれがあるからだと考えられる。
 つまり、(1)で述べたように近世へと続く武士と言うのは私兵であり、(2)で述べたように自分の家(一族)の存続発展を目的とする家訓がある。これを、見る側、私たちが近代の発想で見てしまうことでねじれが生まれる。
 武士たちは自分たち一家一族の問題を語っているにもかかわらず、それを、近代の国民国家のまなざしで見ている。
 歴史的に見れば、見ている側がねじっているために線のように見える伝統を、まっすぐに伸びた一本の線のような伝統だと誤認している。

(4)私兵としての武士
 ①中世
 軍事化した貴族の末裔である平家の世から、初の武士政権である鎌倉、続く室町、戦国と見て分かるように、武力にる領地の奪い合いの時代。
 この時代、武士の倫理は「弓矢取るものの習い」として表現される。
 内容とは名利(名誉と利益)の重視。
“弓矢よるものは、仮にも名こそ惜しめ候へ”(平家物語) 
“古より今に至るまで、人の望むところは、名と利の二つ也”(太平記)
 そして、特に「名を惜しむ」として名誉を重んじた。
 
 “名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教え込まれる侍の特色をなすものである。”
 “その高潔さに多雨するいかなる侵害も恥とされた。そして「廉恥心」という感性を大切にすることは、彼らの幼少のころの教育においても、まずはじめに行われたことである。”
                         (『武士道』新渡戸著)
 と、新渡戸が述べているのと違いがないとも思える。
 しかし、(3)で述べたように、それは見る側の認識による。

 なぜ中世の武士が「名を惜しんだ」のかと言えば、それは、私兵だから。
 つまり、戦乱の世で、自分と一族が生き残り発展するためには、固定した主従関係以上に自分の固有名をアピールしておかなくてはならない。
 何よりも、戦での活躍によって、自分の名前を広めておく。
 そうすれば、現在の主従関係が崩れたり、敗れても新しい主を見つけることができる。
 武士の世界は狭く、さらに、現代のようなマス・メディアがないので、噂が命取りとなる。
 “他人の家へ行った際には、どこかに穴があいていて、そこから人がいつもながめていると思って挙動をつつしみなさるがよい”(北条重時)
 “天下の情勢が平穏なように見えるときでも、遠近の諸国へ間者を出しておいて、つねにようすを密告させるがよい”(朝倉敏景)
 “不穏の考えをいだくものがあったらならば、決して容赦せずに取り調べるが良い。ただし、その際には外聞をはばかって行うことが大切である。”(武田信繁)
 などと、常に見られているという意識を持っていた。
 したがって、日常生活においても自分の名前に悪い情報が着かないように気をつけなくてはならなかった。

 関連して
 “礼は武人特有のものとして賞賛され”
 “礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人と共に喜ぶことである。”
 “嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。”(『武士道』新渡戸著)
 などの「礼」や「誠」という徳目も、上記の視点から評価すれば、それは自分の名前というブランドを維持するために必要なものだと解される。
 特に、嘘をつくなというのは多くの家訓でも述べられている。
 戦場や、戦闘という生死がかかった状況で、嘘をつくかもしれない(若しくは嘘をつくと言う評判)というのは致命的な傷であることを考えれば当然と言える。
 だから、真実ではないことへの倫理的な忌避ではないので、計略は許されている。
 また、礼ということ、広げて思いやりについても家訓ではかなり細かくふれてあるものが見られる。
 勿論、それも統率の術と解される。
 ちなみに、引用した新渡戸の文章は明確に新約聖書の文言(ローマの信徒への手紙12章15節)。

 ②近世
 近世、つまり江戸時代。
 言うまでもなく、最後にして最強の戦国武将である徳川家康が開いた時代。
 有名な「人の一生は重き荷を…」は過去の創作。

 三大将軍家光の治世(家光の代で、神格化された豊臣である豊国大明神の神位を朝廷に取り消させている)に現れるように、この頃までに江戸幕府は安定期に入る。
 つまり、それぞれの武士の身分・階級が固定化する。
 ただし、完全に動かないということはなく、名家も跡継ぎがなければ養子を迎えなくてはならず、なければ廃絶される。また、長い忠勤によって徐々に役目や石高が上昇することもあった。
 
 この時代に、儒教道徳によって整理された武士の思想が「士道」と呼ばれる。

 近世の武士は非常に厳しい状況におかれる。
 ①で述べたように、武士は自分と一族の名利をかけて戦ってきた。
 近世には、この点に二つの大きな変更が加えられる。

 一つは、戦闘を存在理由にしていた武士が、戦闘を否定される。
 つまり、戦闘による秩序の再編可能性を否定される。
 しかし同時に、武士が武士であることをやめることもできない。
 武士は、中世の価値観を否定せずに、実態を変化させなくてはならないジレンマに陥る。
 戦士として生きる現実を奪われて、戦士としての生き方を捨てることができない。
 端的な、例として、道端での喧嘩や無礼打ちがある。
 可能な限りの争いを避ける義務を課されながら、喧嘩する時にする・無礼打ちするときにすることをしないと、咎められる。自分が当事者でなくとも、そこにいただけで問題になる。
 しかも、その基準が殆どない。ありとあらゆる方向からどうすることが適切だったかの究明を受ける。中世同様に噂という強力なメディアが存在していたので、噂によって藩が動いたり、噂があっただけで切り合いを挑んで死者を出したりした。
 だから、対処法としてみて見ぬ振りをする、人が歩かない悪路を行く、見ている人がいなかったら互いになかったことにする、とりあえず言訳ができるだけのアリバイを作っておく等が考えられ、伝えられた。
 
 もう一つは、家の独立性の基盤を奪われて、自分の家以上に君主を優先させる滅私奉公が求められるようになる。
 武士が君主の官僚となったため、それまで、いざとなったら自分の家・一族が独立できた基盤となる土地(財政基盤)が失われ、代わりに身分に応じて俸禄をもらい生活する。
 官僚機構として番方と役方に分かれ、評価基準も変化する。

 結果として、中世に存在したような自分の家・一族と主君の家・一族との緊張関係が薄れた。

 中世、江戸幕府を創始した徳川家康は“上を見るな”“身の程を知れ”と家臣に教え、忍従を説いた。しかし、家康自身の生涯を見れば分かるとおり、その忍従は決して盲目的な隷従を説くものではない。耐え忍ぶのは、力を保ち、機を見て自らが権力を握るため。
 大黒天が頭巾をかぶるのは上を見ないで分を弁えて身を守ることもあるが、その本質は、頭巾を脱いだときにある。頭巾だけをみて、それを脱いだときを考えないのは間違いだと家康が説いた。
 この考えからすれば、中世の武士は次第に、頭巾を脱ぐ発想を無くした存在。
 皮肉なことに、武士の中の武士だった家康を基準とすると、当の家康の社会設計によって、武士のあり方が劣化されたと言える。


(5)間違いと美化
 ①感情
 “侍にとっては感情を顔にあらわすことは男らしくないと考えられていた。”
                  (『武士道』新渡戸著)
しかし
 “たけき武士は いずれも涙もろし”(甲陽軍艦:武田信玄の軍書)

 ②切腹
 切腹は、平安時代の袴垂れの切腹が最初。
 鎌倉以降に武士の自死手段として定着、刑罰としての切腹は江戸時代に定着。
 江戸以前は、例外を除いて、斬首が刑罰として一般的だった。
 刑罰としての切腹を定着させた一因が江戸初期の殉死ブーム。
 主君が死亡すると、家臣が追い腹を切った。
 家臣の誰が追い腹を切るかといえば、衆道(男色)の相手をしていた小姓。
 (小姓の殉死は自発的という以上に、武士社会の暗黙的な強制事項だった)
 それが徐々に、側近に広がり、さらにはほとんど関係のない下士まで切るようになる。
 ブームが過ぎるので、綱吉の代に禁令が出る。(だから、『葉隠』の山本常朝は出家で済ませた。)
  
 “中世に発明された切腹とは、武士が自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を逃れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であった”(『武士道』新渡戸著)

 たしかに、切腹は名誉の死という側面がある。
 しかし、刑罰として定着した江戸初期まで、切腹を命じられても武士は従わなかった。
 それは(4)①で述べたように、武士は独立性があったために、他の主君の下へ移ることができたから。
 だから、初期は切腹を命じると同時に討手を遣わして、従わないものを切らせた。
 (映画『たそがれ清兵衛』は幕末を舞台にしていますが、同様のもの)
 つまり、切腹が定着したことは、武士が武士らしくなったというよりも、武士として弱体化した証拠と言える。

(6)武士道の誕生
 明治維新を経て、武士は否定される。
 武士は江戸という終わった時代の象徴として一度捨てられる。
 そして、「武士道」が生まれる。
 武士の思想である「士道」に代わって、明治中期ごろから「武士道」が広まった。
 “忠節”“礼儀”“武勇”“信義”“質素”の徳目を大元帥である天皇が“股肱”の兵に与える。(軍人勅諭)
  私兵としての独立性を基礎にして、「私(わたくし)」の名利を追求する過程で生まれたものを、「私」なき臣民へ与えて、“義は山岳よりも重く死は鴻毛よりも軽し”とする。
 明治政府は、政権の正統性を歴史に求め(“古の制度に復しぬ”)、武士が政権を担った時代を例外とした(“我が祖宗の御制に背き奉りて浅間しき”)。
 正統性を明確にするために江戸時代までは使われていなかった古語を復活させると同時に、利用できる資源として「士道」の生み出した思想表現も使った。
 新渡戸の『武士道』はその一つの作品と言える。
 
 このように見てみると、明治武士道とは、否定しなくてはいけないものとしての武士政権と利用しなければならない近世武士の意識との危うい関係の中で育まれたものだと言える。
 そして、その危うさは現代日本で好んで口にされる「武士道」や「大和魂」が、その内容を少しでも検討してみれば矛盾だらけ(例:日本古来と言いながら漢語表現を好む)であることに引き継がれている。
 (4)②で述べたような近世武士の矛盾と、近代武士道の抱える矛盾をどちらも引き継いでいながら、それに無自覚である人が現代武士道の担い手を称するは、不幸だが、諦めるべきことなのかもしれない。矛盾の重なりを無視できる鈍感さがなければ、武士など称する人はいないであろうし。


(7)武士道のその後
 「武士道」を生んだ新渡戸稲造は、その後の1919年に雑誌『実業之日本』で“武士を理想、あるいは標準とする道徳もこれまた時代遅れであろう。それよりは民を標準とし、根拠とし、これに重きをおいて政治も道徳もおこなう時代が今日来た”と「平民道」を提唱した。
 「平民道」とはデモクラシーの新渡戸訳。



参照)
『武士の家訓』桑田忠親(講談社学術文庫)
『江戸藩邸物語』氏家幹人(中公新書)
『武士と世間』山本博文(中公新書)
『切腹』山本博文(光文社新書)
『江戸武士の日常生活』柴田純(講談社選書メチエ)
『葉隠』松永義弘(教育社)
『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編(角川ソフィア文庫)
[PR]
by sleepless_night | 2006-05-07 01:26 | 藤原正彦関連

会話による言葉の解離的消失と共謀罪の憂鬱

 “いま日本では、会話体主義が支配的なモードとなっている。会話体とは、合意の気分にもとづく文体であり、しっかりとした証拠をもとにした反論を伴わない。”
                        大江健三郎
                  (2004年3月5日、外国特派員協会にて)

 “言葉はただ騒音から発生し、騒音の中で消えうせていくだけである。沈黙は今日では単に、まだ騒音がそこまで進入していない場所であるに過ぎない。それはただ騒音のひとつの中断にすぎないのである。”
 “一切は普遍的騒音語の中に存在しており、しかも、存在していない。そこには言葉の現実的存在もなければ、また忘却もないのである。現代の世界においては、もはや人間によって直接に忘却がなされるのではない。忘却はいわば人間の外へ、普遍的騒音語のなかへと押しやられてしまっている。しかし、そのようなものは決して忘却ではない。それは騒音語の中での単なる消失でしかない。だからこそ、そこにはまた寛恕がないのだ。”
           『沈黙の世界』マックス・ピカート著 佐野利勝訳(みすず書房)

  
 “不動の信念に裏打ちされ力強く語られるテクストが、それを支える基盤であるはずのこの書物の形式によって、語られる端からやすやすと、かつ、にべもなく覆されているからである。”
 “『国家の品格』において顕在しているのは、専門家と非専門家のぶつかりあいという真剣勝負の対極であり、植木等=青島幸男ふうにいうならば、「楽して儲けるスタイル」の追求である。”
 “同書においては、テクストの水準において語られる「読書をとおした人格形成の重要性」という言説それ自体が、メディアの水準において、いかなる言説もただ消費の対象としか了解する用意のない、呵責なき「楽して儲けるスタイル」に接合されている。すなわち、同書がぼくたちに教えてくれているのは、もはや「教養」も「教養について語ること」も消費財でしかないということに相違ない。”
             長谷川一 明治学院大助教授(メディア論)
              http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/


 “データベース消費の局面においては、まさにこの矛盾が矛盾だと感じられないのである。作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだとということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情表現し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。”
             『動物化するポストモダン』東浩紀著(講談社現代新書)



  主張内容自体はスノビズムの典型であり、「大きな物語」への欲望であると解される。
  しかし、それを支えているのは、ポストモダン的な解離と言う態度なのかもしれない。

 だから、歴史的な検証や、主張内容相互の矛盾は問題ではない。
 人間的な欲望を表しているに見えて、内実は動物的な欲求を表している。 
 言葉が力を持って語られているようで、言葉に実がない。

 合意の気分で語られる言葉の形をした心地よい音が鳴り響き、ヒットしたシリーズものの癒し系コンピレーション・アルバムのように、やがて街の雑踏に流されて存在が消失される。
 沈黙が犯罪である会話体で言語空間が埋め尽くされ、言葉は無くなってゆく。

 
 “教養と研鑽を積む必要の無い教養主義”の“甘やかなゆるしと導き”は、どこに人々をつれてゆくのか。                       
            (『ベストセラーの構造』中島梓著 ちくま文庫)



 今までに、予想通り拡大して施行されている幾つかの法律、そして、これから通ろうとする法律。
 役割を果たせないどころか、会話体によって焦点をかき消すマス・メディア。 
  どこかにつれて行ける素振りを見せている後ろで、着実に今いる場所が変化され、気付いたときにはとんでもない状況が作り出されている。
 覆っている会話体が途切れ、沈黙によって言葉を見出したとき、既に言葉では何もできなくなっている。
 本当に、そんな日が、そう遠くなく簡単に来るかもしれない。
 




追記)2つの教養。
 教養番組、教養試験と言われるときの教養、と教養小説や教養学部と言われるときの教養。
 前者はトリビアルな知識を持つこと・雑学、後者は自由学芸(リベラル・アーツ)などを通じての自己の探求や完成を目指す知の営みのこと。      
 「教養として知っておきたい~」の類は、後者を目指しているようで、前者をもたらしている。
 
 
 
         
[PR]
by sleepless_night | 2006-05-06 08:09 | 藤原正彦関連

藤原正彦の喪失と成熟への渇望 その2

(5)喪失のあと/「治者」たちの甘え

 藤原正彦さんと江藤淳の喪失について、前回藤原正彦の喪失と成熟への渇望で整理しました。

 藤原正彦さんは所与の状態としての「父」「母」の喪失、江藤淳は母の喪失と家の零落に伴う「父」の喪失を経験したと解されます。

 そして、両者とも「個人」を引き受ける代わりに、「父」の復活を求めます。

 江藤は「父」に国家を、藤原さんは明治武士道を、それは共に明治の「父」なる天皇が主権を持ち、修身的道徳の源泉として機能した国家を指しています。

 江藤は明治期に留学した鴎外や漱石と自らを比較してこう述べます
 “かつて日本にあり、今はないきずなとは、おそらく国家から各個人に発せられる強力な義務の要請である。あるいは、個人が私情をおさえてその要請に応えるときに生ずる劇である。中略。蕩児荷風といえども、四年の外国留学を通じて、結局父親に象徴される全体への義務の要請から自由でなかった。だが、今日私にたいして発せられる外からの強力な声は何もない。”(江藤淳著作集4・140p)
 そして、明治という時代を
 “「近代化」の進行がもたらす「過去」と「故郷」の破壊に反発して、事故補強を行おうとする意識は、かなり強力なものだったとしなければならない。それは、あるいは、日本人が明治の改革に成功したひとつの原因でさえある。中略。彼らの日常生活は、われわれのそれと同様に激変しつづけたが、かれらが日本人としてのidentityをうしなうことはなかったからである。”(著作集6・99p)と評価します。

 藤原さんは、明治をこう評します。
 “明治の人間が、私にとって魅力的なのは、彼らが日本の精神的風土に開花結実した武士道精神と、そこから生まれる日本人ならではの美しい情緒を、核に有していたからだと思う。明治中期までに海外へ渡った日本人が、その品格によりしばしば欧米人を瞠目させた、という事実はよく聞くことである。古びて黄ばんだ写真に写る先生や生徒、村役場の役人までが、偉そうにみえるのは、ちょびひげばかりのせいではないのである。”(威厳意地109p)⇒(威厳維持235p)でも顔つきの話
 そして、おなじみの新渡戸の明治武士道を絶賛。
 勿論、新田次郎によろしく/『国家の品格』への道の(6)で提示した引用から分かるように、藤原さんの言う武士道は藤原さんの曽祖父が藤原さんの父を教育したということに全てが帰されています。
 その藤原道とも表現するべき規範を“行動原理”や“国民道徳”とすることを主張します。

 当然、両者とも明治時代を直接知りません。
 明治時代は、江藤の祖母の時代であり、藤原さんの曽祖父の時代です。
 そして、江藤の祖母とは、敗戦によって喪失された「父」に代わり家長として在った人物であり、藤原さんの曽祖父は、喪失された「父」の過去における実在を保証する人物です。

 「父」と「母」を喪失した「個人」が、自ら「父」となり、「父」を復活させようとした時、同時に「父」を成立させるための「母」を必要とします。
 江藤が『成熟と喪失』で指摘したように、両者が求める「父」とはあくまでも明治時代を源とし、そこでは近代によって父が「はずかしい」存在となった代わりに、天皇が「父」を支えるものとしてありました。そして、「はずかしい」父が支えた母子密着の「母」は子供の母であると同時に、自然関係・母子関係としての夫婦の相手方であり、良妻賢母です。

 第一の甘えが、そこにあります。
 不安な「個人」である自らを安心させるために選んだことは、自分だけでは完結できず、自分の欲求に応える「母」を必要とします。
 求められる「母」とは、自らの延長である自然関係で自分を包摂してくれる、耐える「母」です。
 「父」とは、なるものという以上に、「母」によって「父」にしてもらう存在と言えます。
 
 しかし、この望みには「母」となることを望まれる女性側からの答えが出ています。

 『抱擁家族』で米兵と不倫する妻が、近代によって「自由」を得て、「母」を拒否すること。
 それについて、『喪失と成熟』に解説文で上野千鶴子さんはこう述べています。
 “男が「治者」を目指そうとするとき、女はもう「治者」を求めていない。男が「治者」になったとき、振り返ってみれば自分に従うものはだれひとりいなかった、という逆説が、「父」になりいそぐ男たちを待っている運命である。”
 「父」を引き受ける「母」がいない男が「父」を演じようとしても“だれも見ていない舞台の上での滑稽な一人芝居のようなものになる。”

 また、「父」を日本と言う国家へ求めた裏に第二の甘えがあります。

 両者とも自らが想像している「父」としての日本国が、「父」を支える「父」としての欧米の存在を想定していることに無自覚です。
 江藤は、日本国が「父」となるために憲法の交戦権放棄規定をなくした上での対等な日米同盟を提唱します。
 しかし、その想像を成立させるには、「父」たる欧米の承認が必要であることの自覚に欠けます。
 藤原さんが持ち出した、新渡戸稲造の『武士道』は欧米に日本を認めてもらう、欧米と類似のものが日本にもあることを必死で訴えたものです。
 
 第三に、「父」を失った父たちのしてきたこと、自らの立っている場所についての認識に甘さがあります。

 “敗戦の当時、「天皇」が死に、また「国」が敗れたときそのむこうからやってきたもの、それは「山河」にほかならなかった。「国敗れて」残り、戦に破れても「何の異変も起こ」さなかった自然が、そのむこう、“天皇”の剥落したむこうから現れ、ぼく達を支えたのである。”
 “ぼく達は自分の手で自分の必要から自然を壊した。その時にぼく達の中で「山河」は破れた。”    
                       『アメリカの影』加藤典洋著(河出書房新社)

 父たちは、江藤も藤原さんも、私たちも、豊かさを求め「山河」を崩壊させたのです。
 明治に「父」を支えた「母」を崩壊させ続けたのは、自分たち(私たち)の選択です。
 
 敗戦時に3歳の藤原さんは、日本の経済復興、父・新田次郎さんの作家としての成功、豊かになる家計を自身の成長と共にしています。

 それを忘れ、「父」の復活をして、「私」を満足させようとする。
 藤原さんは、逃げ遅れて家族を全滅においやりそうになった父・新田次郎の選択をこう表現しています。

 “公を私に優先したのだった。”(威厳意地51p)

 今、その息子が父への私情を国家の名で語っているのは本当に皮肉なことです。


(6)成熟への渇望の導く未熟 

 喪失を確認し、それを「父」にではなく、私たちが引き受けなければ成熟は遠い。
 そうでなければ、成熟する主体がないのだから。


 次回に、藤原正彦さんと学徒兵特攻隊員達の思想との類似、近代の超克論についてまとめを述べます。
 話の序を述べておきますと、彼らは旧制高校、帝大と進んだ、常識的にマルクス主義の知識を備え、英語・ドイツ語・フランス語・ラテン語・イタリア語などの語学に長け、原書で哲学書を読んだ人々です。 
 そして、作戦として無意味だと分かっていながら、死を選ぶ特攻隊員となりました。

 まさに、藤原さんが賞賛するエリートたちです。
 ⇒藤原正彦の浪漫的滑走/特攻の思想
 


 
 


 
[PR]
by sleepless_night | 2006-04-29 08:47 | 藤原正彦関連

惻隠の情が堀江貴文に向けられる時

 “孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。むかしの聖人とも言われる先王はもちろんこの心があったからこそ、しぜんに温かい血の通った政治が行われたのだ。今もしこの哀れみの心で温かい血のかよった政治を行うならば、天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、この哀れみの心はあるものだとどうして分かるのかといえば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。中略。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのはちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに備わっているものなのだ。」”
                   『孟子』小林勝人訳注(岩波文庫)

 孟子の性善説を述べた上記引用での幼子を助けるという心が、いわゆる惻隠の心です。

 素晴らしいこの心は、政治、治める側の問題の文脈で述べられています。

 孟子は、仁を備えた王による治世を説きます。
 仁のある王が治める国では、役人、領民がそれを慕い、自ずから大国となると。

 孟子は自らの思想を実現する王を求めて、各地を旅しました。

 孟子は斉の王に、王所有の狩場が領民に広すぎると不平を言われていることを相談されます。
 孟子は、かつてこの王よりも広い狩場を持っていた文王は領民から王の狩場が狭すぎること不平されたことを教えます。
 斉の王はその理由を問います。
 孟子は答えます。それは、その王が狩場に領民が自由に入ることを許し、草や木を刈り、猟をすることができたからだと。

 そもそも、領民のものにすることは提案しない。
 なぜなら、一般庶民は精神ではなく、まかせるとどうなるかわからないから。
 一般庶民は、肉体を使ってエリートである支配者を養い、支配者たる王が仁の精神をもって肉体を納めるのが理想的な社会だから。
 肉体は精神の支配にあって幸福である。

 だから、支配者の思いやりで与えられた以上を望んではならない。
 
 王の心に応えて、王の下で臣下領民として生きること以上を望んではならない。

 http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060428k0000m040132000c.html
 新聞系列局という王の臣下として生きることに幸福を感じたのなら、堀江貴文さんに「惻隠の情」は向けれられたでしょう。


追記) ただし、孟子はこうも述べています。
 斉の王が卿(大臣)の職責について尋ねた時“君主に重大な過失があればお諌め申し、いくどど繰り返しても聴き入れられなければ、やむなくその君主を廃して別の一族の中から選んで君主の地位につけます”
 “国家においては人民が何よりも貴重であり、社稷のカミによって象徴される国土がその次で、君主が一番軽いものだ。中略。それ故に、もし諸侯が無道で、社稷(国)を危うくするのなら、その君を廃してあらためて賢君を選んで立てる。”
 つまり、仁を備えた賢帝による政治を考えた孟子は、それが実現できない、逆に有害な統治者は統治者としての資格を欠くので、廃さなくてはならないと述べているのです。

 この発想を欠いているために、日本では「惻隠の情」が現在の支配体制を維持した上での、支配者(強者)が被支配者(弱者)へ与える哀れみとしか認識されないのでしょう。

武士道について簡単なまとめ⇒とりあえず、武士道

 同様の誤解は、愛国心・愛郷心を巡る誤解にも現れているように思えます。
 愛国心を本当に国民に持たれてしまうと、最悪の場合、統治者(行政)側は殺されます。
 愛郷心(パトリオット)の場合は国家への反逆が正当化されます。
 どちらも、統治者の言う事を聞くこととイコールではないのです。
 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-04-28 00:23 | 藤原正彦関連

藤原正彦の喪失と成熟への渇望

新田次郎によろしく/『国家の品格』への道ソープへ行け!に引き続いて。

 教育基本法の改正(or悪)に纏わって語られる、愛国心、国家を求める言説。
 一貫性もなく、事実としてもせいぜい明治までしか遡れない「伝統」への奇妙に浮ついた憧憬。
 何が、それらを必要とさせるのか。

 藤原正彦さんと江藤淳を通じての考察。
  
(1)喪失/父
 敗戦は「父」の喪失だった。父の死ではなく、父が生き残ったことによる喪失。
 幼すぎた藤原さんには、喪失される以前の記憶はなく、喪失という状態が所与のものとして経験された。
 記憶が明確になるのは、帰国後の4歳ころ(威厳維持60p)。
 父は係長で、課長以上の住める官舎に特別に入居していたため、周囲は上司の家族。
 “「あなたがいつまでたっても課長になれないから、子供たちまでバカにされる」”(62p)と妻になじられる。 
 
 “母の毒のこもった批評に対し、父が余り反論しないのが私には不思議だった。文学上のことばかりか、家庭内のありとあらゆる論争において、父が激しく母に立ち向かう、という場面はまったく私の記憶にない。少々の反撃はもちろんするが、母が激昂するや、父は必ず二階の書斎に消えてしまうのだ。中略。いま思い起こすと、母が窮地に陥ったときの常套句があった。「三十八度線を越えて、三人の子供をつれて帰ったのは一体誰ですか」激しい口論になると、必ずこれがどこかで飛び出した。水戸黄門の印籠よろしく、父はこの切り札を菊や書斎へ退散したような気がする。”(威厳意地51p)
 “(銀座のバーから)父が帰宅するや否や、中略、(母は)嫌味を連発した。中略。父は黙って小さくなっているか、勉強している私の部屋へ来て、半開きのドアから赤ら顔を出し、「お前の母さんの名前を知っているか。バカていケチていヤキモチていと言うんだ。あーいうのと結婚したら一生の不作だからな。覚えておけよ。」などと、ろれつの回らぬ声で言ったりした。中略。母の辛辣な物言いをかわすため、午前様になるようなときは、決まってお供を連れて帰宅した。中略。お供のいるときの父は、天下無敵だった。”(威厳意地54~55p)

 作家として成功しても、妻に頭が上がらないことに変わりはなかった。
 それ以前に、作家としても妻は先輩であった。

そんな父に藤原さんは“父が私の前で弱さをみせていることに、名状しがたい反発を覚えた。私にとって父は常に強くなければならなかった。実際はどうあれ、私の前では強くあってほしかったのだ。”(言葉では237p)と喪失された「父」を求めるうずきがあった。

 成功と繁栄を手に入れる闘いによっても、家庭の統治者・指導者の地位として家族に向けらることはできず、経済的上昇という恵沢が家庭にあっても、孤独であり、弱さの影を持っていた。

 “「闘いだ、闘いだ」と自らを励ましながら二階の書斎へ上がっていく父の後姿は、子供の私にとって、時に恐ろしく見えたこともあった。”(休憩時間189p)
 その書斎は
 “家族にとって最も近寄り難い部屋だった。同じ家にありながら孤島のよう”な“聖域”だった。

 もし強ければ、“「闘いだ、闘いだ」と自らを励ます”ことは不要だった。
 弱さを抱える自らとの闘いの場は、孤独な“(家族が)見たくもない修羅場”(休憩時間148p)だった。
 書斎は喪失された「父」を父自身が供儀する“聖域”であり、家族がそこに踏み込むことがためらわれたのも、そこが喪失された父の斎場だったから。
 家は、“聖域”という存在を感じながらも、視線をそらすことで、戦後(55年以降)の産業化・高度成長のもたらした豊かさを享受することができる空間となった。
  
 “父の死については、小説「孤愁-サウダーデ」を精力的に執筆している最中であったため、「戦死である」と評した人がいた。”(休憩時間189p)

 喪失された「父」を、喪失されて力なく弱い自らを励まし、闘い続けて力尽きた。
 敗戦と占領、産業化と経済成長の社会で、喪失された「父」を社会から隔離し、自らで引き受ける闘いを続けなければならなかった。そうしなければ、自らと戦っていなければ、弱い自らの生涯を続け、変化した社会のなかで家族を養うことはできなかった。
 
(2)喪失/母
 母は、父が「父」であることに拘り家族を任されたことで、「母」を捨てざるを得なかった。
 
 “父は晩年のころ、私にこういったことがある。「お前たちのお母さんはもともとはやさしくて、ロマンティックなお嬢さんだった。それがシベリアからかえって見たら驚いた。可愛らしくおセンチな若妻が、猛女に変わっていたんだ。猛女にならなければ、家族みんな全滅してしまっただろう」”(威厳意地62~63p)

 “家族みんな全滅”の“家族”に父は含まれていない。
 
 母は、「父」に子供たちを任された時をこう表現している。

 “最後まで見栄と、ていさいのために、私たちを犠牲にしようとする夫に向かって、私はただ人並みの妻として涙を流すより仕方がなかった。”(流れる星17p)
 “夫は習慣になっている責任感と犠牲心とそしておせっかいのために私たち一家五人をこの危ない土地に残しておくつもりであろうか。時代は変わった。観象台はない。したがって夫は課長でもなんでもない。”(流れる星34~35p)

 父は逃げ遅れシベリアに抑留されることになる。
 母は、不安と貧窮に満ちた小集団の陰湿な人間関係に一人で向かわなければならない。
 敗戦国民として、国家の後ろ盾を決定的に失い、いつ途切れるかもしれない配給の他に手元にある僅かな金銭が生きるため足がかりだった。
 女性という体力的なハンデに加え、当時の教育が女性に与えたのは妻として夫の存在を前提にしたもの。一人で生きていくこと、他者を支えることの力や知恵をさずけるものではなかった。
 そんなあやふやな衰退へ向かっている時。
 “「よかったら私と一緒に石鹸売りに出かけましょうよ、私だって前に石鹸売りをやった頃、先生がいましてね、とても欲張りの婆さんだったわ。これから私があなたの先生になってあげましょう。あなたは今一銭もないでしょ、貴女がここですっかり変わらなければ、貴女の家族は全滅よ。あなたは団の人に誰からも好かれるようにおとなしく、摩擦をおこさないように上手に、猫をかぶっていらっしゃる。」「猫をかぶっているですって」「怒ったって駄目、あなたの性質はもっともっと、はげしい性質だということが私には良く分かっています。ただあなたはそれを人に見せないようにしているだけのこと、結局あなたはお嬢さん上がりよ。でも、駄目よ、今の生活には少しでも虚栄とか自惚れとかいうものがあればおしまいになってしまうわ、きっと」私には何も言えなかった。誘われるままに、大地さんと連れ立って町に出た。”(流れる星128~129p)

 石鹸売りは乞食も同然の商売だったが、母は母であるために「母」を捨てる。
 強く貪欲に、利己的と言われても、だらしのない男やばらばらになる集団の中で強さを顕していく。
 自分を棚に上げた虚勢や欺瞞を鼻で笑い、自分と子供たちを守るためになりふり構わない。
 南下する厳しい道中で、強さは猛りをあげる。
 “私は前の影を追うことだけしか考えない。頭の中が妙に空白になっていながら前進するということだけが激しく私を支配して、歯を喰いしばり、正広と正彦をどなりつけていた。「正広、なにをぐずぐずしている!」「正彦、泣いたら、置いていくぞ!」私はこの時初めて男性の言葉を使っていた。自覚しないで私の口をついて出てくるものは激しい男性のことばであった。中略。(正彦が)「お母ちゃん、見えないよう」と泣く。「馬鹿!」私は思い切って前に突き飛ばしてやると、まだ起き上がる元気はあった。”(流れる星187~189p)

 幾人もの子供、年寄りが死んでいくのを振り払い、生きるものたちを生き延びるために引きずって行った。
 三十八度線を越えた時、こう叫んだ。

 “「正広、正彦、みんな助かったんだよ。アメリカに助けられたんだよ」”
                         (流れる星232p)

 帰国後、病床に臥し、遺書のつもりで書いた『流れる星は生きている』がベストセラーとなり、夫と子供たちとの生活が徐々に貧しさを脱しても「母」は喪失されたままだった。
 
 “子供の私がそのころ母から感じていたのは、包むような慈愛ではなく、常に激しい、動物本能とも言うべき愛情だった。”(威厳意地62p)

 “今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。”
                『成熟と喪失』江藤淳著(講談社文芸文庫)

 「父」も「母」も喪失した後で、いかに生きるか。 
 “露出された孤独な「個人」”が選択した生き方の結果が何だったのか、それ以外には無かったのか。 

(3)喪失/江藤淳

 1932年(昭和7年)、東京で、父方・母方ともに祖父が海軍の将官、父は銀行員という上流家庭の長男に生まれる。
 4歳のとき、母が結核で死去。
 戦中のインフレで家は没落。
 湘南中学(現高校)で石原慎太郎と同級、のちに都立一中(現日比谷高校)へ転校。
 20歳で慶応大文学部入学。小説や評伝を書き始める。
 23歳でデビュー作『夏目漱石』が三田文学に掲載される、大学院へ進みながら執筆活動をする(26歳で中退)。
 29歳のとき、ロックフェラー財団研究員としてプリンストン大学留学、2年滞在。
 39歳で東京工業大学助教授、のちに教授。他に慶応大、大正大でも教鞭をとる。
 66歳のとき、妻の後を追う形で自死。

 敗戦時、15歳。
 敗戦時の記憶がない(当時3歳)藤原正彦さんと異なり、江藤淳にとっての敗戦、そして家の没落、父の零落は所与のものではなく、思春期という最も敏感な時期と重なって体験された。
 母は、その死によって喪失されており、敗戦によって「父」は喪失された。
 
 江藤は保守の思想家として知られるが、大学院を中退し評論家として活動していた20代のころは政治に対するスタンスが違っていた。

 1960年、安保改定の強行採決に抗議する活動を行ったことについてこう述べている。
“私は政治に多くを期待しない。政治家は日常生活を保障してくれれば良く、できることなら、よりよく、平和な生活を保障してくれさえすればよい。政治が人間を結びつけるということを私は信じない。中略。だから、私はたかだた自分にひとりで生き、ひとりで死ぬ事由を与える政治を要求するだけである。中略。政治はこのような孤絶した人間の内面に干渉することはできず、また干渉すべきでもない。魂の問題は個々人に委ねよう。単に万人の眼に明らかな日常の事実に基づく利害得失だけを政治の役割としよう。中略。議会制民主主義というものは、私の理解のかぎりでは、あたうるかぎり非政治的な政治体制である。換言すれば、政治の人間に対する支配をできるだけゆるやかにし、そのかわりに人間の自分に対する支配をできるだけ強固にするという体制である。”
 “政治を不必要に精神的なものとして、利害得失の代わりに情熱を論じる「民主主義」とは何であろうか?”
 “私の主人は私以外にはいない。そうでなければ、どうして文学をやっていられるであろうか。”

 江藤は、日常の生活に根ざした個人として生きることを重視し、安保反対の運動が観念化して氾濫していくことをリアリストであり、リベラリストとして批判した。
 それは、家の、父の没落によって自らが生活を支えてゆかなければならなかった江藤の敗戦後の経験や、戦時中の経験に依るものかもしれない。
 “戦争中、私のかよっていた小学校に代用教員が二人いて、時々抜身の日本刀をひっさげてあるくのを得意にしていた。今から思えばこの先生方は純粋な理想主義で、「天皇陛下」という言葉を口にするとき、気をつけをするのが一瞬でもおくれるとほほを殴るのであったが、その目は大変美しく澄んでいたものである。中略。うっかりすると殺さねかねないので、私はひそかに彼らを嫌っていた。中略。この代用教員たちは、敗戦後しばらくして学校から姿をけしたが、次に見かけたときには赤旗を押し立ててトラックの上で、大音声を張り上げて共産党の選挙演説をやっていた。そのときも、やはり彼らの眼は美しく澄んでいた”

 皇国少年の劣等生として殴られる。
 殴った教師(「父」)たちは、戦後も“美しい眼”をしたままに、完全に非両立な主張を訴えることができる存在であることを、江藤はまさに身をもって学んでいた。
 
 だから
 確かに“こと芸術、文学に関する限り私は絶対的な価値というものを思わずには一行も書けないだろう”と述べているものの、同時に“日本を支えてきたものが生活する実際家たちの努力で、それを危険においやったのが理想化の幻想であった”と述べて、江藤の立つ場所はあくまでも生活であること示している。

 しかし、1964年。二年間のアメリカ滞在の後にこう述べるようになる。

 “二年間の米国生活を通じて、私は戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった。それは国家であることをためらっている国家であり、民族の特性を消去することに懸命になっている民族である。中略。私は、今日の日本で、国家が各個人に対して発する義務要請の声が、ほとんどききとれぬほどか細いものだといった。つまり、現在の日本に、それにてらして個人が各々の行動を規制する客観的な倫理規範はない。修身斉家治国平天下の道徳はもはや顧みられない。中略。個人は、したがって孤独であり、なにをもって善とし、なにを悪とするかを知らない。中略。だが、それにもかかわらず、私は日本につなげているきずながあると感じる。それは、日本から私に向かって来るものではない。むしろ私のほうから日本に向かっていくものである。”
一人で生き、死んでゆくことを政治に望んだ人間が、義務を課されることを国家へ要求した。
 生と死を国家が引き受けてとなることを求めた。
 孤独であれる基盤を、生活という実際的な世界を支えることが政治の役割であると言った人間が、自分の内面へ国家が来ること、自らが国家のほうへ向かってゆき、客観倫理を国家に要請した。

 “美しい眼”をした教師たちの頭上にあり、裡へと垂直に繋がって、少年の江藤を殴らせた国家を求めていた。

 さらに、アメリカの大学にあるオナー・システム(試験時にカンニング等をしていない旨の宣誓書にサインすることで、試験官を置かない仕組み)について触れて、どこかで読んだような話もしている。
 “国の品位というものは、なんらかの内面的規範をもった「エリート」の存在しない国には、決して生まれない。自家用車が持てて、消費生活が派手に出来る人間だけが尊敬される国に、品格ある文化が生まれるわけはない。”
 
 藤原正彦さんのアメリカ体験より、十年前の江藤のアメリカ体験が何故、このような大きな変化を促したのか。

(4)『成熟と喪失』

 “日本の母とこの密着振りと米国の母子の疎隔ぶりのあいだには、ある本質的な文化の相違がうかがわれる”
 江藤は、アメリカの精神分析学者E・H・エリクソンの説を下敷きに、二つの歌に象徴させて日米の人間を比較する。
 アメリカは“ゆっくり行け、母なし仔牛よ”というカウボーイの子守唄、日本は“をさなくして罪をしらず むづかりては手に揺られし”という安岡正太郎の小説『海辺の光景』で母が歌う歌に象徴させる。
 そして、“「成熟」する間もなく母親に拒まれ、心に傷を負って放浪のたびにでたカウボーイは、誰にも頼らずにじ分の死を見つめて「ゆっくり」大草原のかなたに消えてゆく。中略。一方、『海辺の光景』の母親のうたう歌にこめられているのは、成長して自分を離れてゆく息子に対する恨み、あるいは「成熟」そのものに対する呪詛である。”として、アメリカ人が母親という人間関係の原初から拒絶された延長で生きる孤独な人間たちとし、日本人は母親の延長として生きると分析している。 さらに、アメリカ人をフロンティア放浪型、日本人を農耕定住型と位置づける。
 
 近代は、この日本人の環境を変化させ“父にたいする「恥ずかしさ」”を生んだ。
 つまり、“もし彼らが農民的・定住者的な感情の中に安住しているのなら、これほど極端な父を恥じる気持ちが母と息子の間にうまれるわけはない。中略。羞恥心は自他を比較するところから生じる。より正確に言えば、自他を比較し、自分は他人になれたはずなのにどうして自分のままでいなければならないのだろうと疑うところから生まれる。”
 近代学校制度が固定階級を揺るがせた結果、父は「恥ずかしい」存在であり、妻はその「恥ずかしい」父の妻でしかなく、さらに息子はやがて父と同じく「恥ずかしい」存在になるかもしれない。
 また、仮に息子が父よりも出世することで「恥ずかしい」存在ではなくなると、それは母にとって自らの延長を離れることになる。
 近代は母をジレンマに落とし入れ、前近代の農耕定住型の母子密着関係を揺るがした。
 そこでは、母と子はジレンマの中で、馴れ合いの自由を「はずかしい」父という経済的な支えの上で感じる。
 と江藤は分析をする。

  敗戦は、母子の平和ななれあいを支えた父の経済的な支えを奪ったから。
 “父親の経済力の喪失が権威の失墜を意味するとは、残酷な事実である。そして父の権威の失墜は、もちろんあの小宇宙の秩序の礎石が砕かれたことを意味する。中略。父の権威に反抗して勝ち取ったものでもない。敗戦という招かれざる客が彼らの家庭という私的な世界に泥靴のまま踏み込んできたために起こったものである。”
 そして
 “いったん秩序が崩壊してしまえば、そこにいるのは父と母と息子ではなく、二人の男と一人の女にすぎない。中略。これはすでに家族ではない。単に個人の集まりである。中略。思想よりももっと鋭利な「近代」が、家族のあいだのもっとも内密なきずなを切断した結果生じた解体がこれだからである。”

 敗戦という「近代」は、思想によって達成されるべきとされた「自由」な「個人」ではなく不自由な“仕方がなしに引き受けさせられた過酷な現実”にすぎずなかった。
 
 “「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。”

 喪失には、奪われた結果であっても、罪悪感が潜む。なぜなら、喪失の結果で、不本意な自由であり不自由であっても、自由であることには変わりがないから。
 
“「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに沸いてくるこの「悪」を引き受けることである。”

 そして
 母の延長として大地に生きた農耕民族の「自然」ではなく、“「社会」というもののなかで、つまり人と人のあいだで生きてゆかなければならぬことを自覚しなければならなかった。そこにしか彼の「成熟」の場がないことを、そしてこの人と人との間で「自由」に生きることはどういうことであるのかを身をもって示さなければならなかった。”

 しかし、日本人は近代によって喪失を強いられた「母」なる「自然」にしがみつく。

 児島信夫の『抱擁家族』に描かれた妻が米国兵と関係をもった夫婦関係を用いて、江藤はこう述べる。

 “彼らが「夫婦」という倫理的関係であるよりさきに、「母子」という自然的関係を回復しようという要求で結ばれている”
 “「家」が崩壊して「家庭」が生まれ、ひと目盛りだけ「近代化」が進んだなどという楽天的な議論のこっけいさは、断絶しながら同時に奇妙に濃い粘着性のある関係で結ばれ、お互いに救いようのない「淋しさ」を澱ませているのに決して「孤独」にはなれないという、日本の現状を直視すればたちどころに明らかになる。そこには倫理的関係はないがそれを実在するかのような錯覚はあり、夫婦である以上「母子」の自然関係を回復することは絶対不可能であるにもあかかわらず、この動物的衝動が馴致されることは決してない。”

 夫婦は、「自由」のなかで「自由」な振る舞いをしようとしているにもかかわらず、「自由」にあることができない。
 不倫をしたことで、夫婦はその役割から「自由」となることもできるのに。
 「自由」を引き受けて「成熟」することができたのに。
 変わりに、夫婦という母子関係を形を整えることで回復して、「自由」から逃れることを選ぶ。
 ところが、夫婦という母子関係を引き受けると言うことは、妻にとっては母となり、「近代」がもたらした「自由」を失うことである。
 「近代」がもたらした豊かさの下、「自由」であることも、「自由」を失うことも“「成熟」の要件である自信を欠き、その裏づけとなるべき絶望を欠いている”女性は決意できずに、宙吊りの状態に留まる。
 夫は「自由」と「成熟」を逃れて母子密着の夫婦を回復しようとするが、妻の宙吊り状態がこれを阻害する。

 宙吊り状態の妻が「自由」と「近代」の象徴であるアメリカの兵士と話をした時、それも夫の通訳によって。
 “「私は私で責任を感じるが、あなたは責任を感じないかって、きいてみてちょうだよ」
 「責任?誰に責任をかんじるんのですか。僕は自分の両親と、国家に対して責任を感じているだけなんだ。」”

 江藤は、この『抱擁家族』の会話から、日本人の人間関係に決定的に欠けているものが「父」であることを確認する。
 “そのとき彼に影響を及ぼしているのは「母」ではなくて「国家」という形をした「父」である”

 「父」を欠いた「近代」で、外形によって「近代」を実現しようとしても、“「父」であるような絶対的な「他者」の視線”がなく、“相対的な世界であり、主人公はつねにどうして自分は絶対者を演じなければならないのだろうと戸惑いつづけなければならぬ世界である。”と江藤は解釈する。

 そうして、敗戦による日本の「近代」化は「近代」を腐敗させながら進む。
 同時に、「近代」はそれまで日本を支えてきた「自然」の崩壊を加速させた。
 「自然」とは、文字通りの自然であり、「母」である。

 “「隠れ場所」を持たず、どの方向に対しても露出されており、まったく孤立している。”
 “人工的な流民の生活”
 庄野潤三の『夕べの雲』に描かれた高度成長期の日本人を、江藤はそう表現している。
 “「隠れ場所というものをものがない」禿山の上に「全身をさらす」”ようになったのは、“政治思想だけによって実現された変化ではない。その背景には政治思想の対立を超えた産業社会の進展があり、その結果としてもたらされた農耕文化の崩壊がある。”

 神や国家などの「父」をもたず、農耕文化という「母」なる「自然」を喪失し、成熟へ強いられているが、「個人」として「成熟」できない日本人について江藤はこう行く先を示す。 
 
 “もしわれわれが「個人」というものになることを余儀なくされ、保護されている者の安息から切り離されてお互いを「他者」の前に露出しあう状態におかれたとすれば、われわれは生存を続ける最低限の必要をみたすために「治者」とならざるを得ない。つまり、「風よけの木」を植え、その「ひげ根」を育てあげて最低限の秩序と安息を自分の周囲に回復しようとこころみなければならなくなるからである。”

 しかし
 “何の権威によって治めようとしているのであろうか?”
 “「治者」の、つまり「不寝番」の役割に耐え続けるためには、彼はおそらく自分を超えた何者かに支えられていなければならない。”

 江藤は、『抱擁家族』で主人公が妻の不倫相手のアメリカ人兵士の“「僕は自分の両親と、国家に対して責任を感じているだけなんだ。」”によって受けた驚きに、自らのアメリカ体験による強烈な感想を重ねた。
 日本という国家に、江藤は「治者」となるための権威を求めるようになった。

 だが、その選択によって本当に「治者」たりえたのだろうか。
 続いて、その点へ考察を進める。⇒藤原正彦の喪失と成熟への渇望 その2
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-04-23 23:28 | 藤原正彦関連

ソープへ行け!


 前回新田次郎によろしくで、藤原正彦さんの著作群から、その思考を私なりに抽出してみました。
 結果、簡単に言えば、欧米に対する劣等感と父親への激しい敬慕が藤原さんの近年の思考を形作っているのではないか、と言うのが私見です。

 さて、この根深い問題へ対処するための提言をカリスマから頂きたいと思います。

          「ソープへ行け!」
                    北方謙三

 
 “女の子はいつまでもかわいく、やさしく、また話し相手にもなってくれそうだ。それに、いつまでも一緒に風呂に入ってくれるかもしれない。”(『休憩時間』151p)

“私は麗しい娘たちに自分がほめられた如くうれしくなった。「いや、三人の息子は大変です。毎日、風呂で四本もオチンチンを洗わねばならない、僕の悲劇を考えてください。」歩道の三しまいは、どっと声を上げて笑った。意気揚々と家に戻り報告したら、女房がまなじりを上げて下品をとがめた。”(『ケンブリッジ』179~180p)
 
 ソープランドへ行けば、一緒にお風呂へ入ってくれる娘くらいの女性に会えるでしょうし、オチンチンも洗ってもらえるかもしれません。奥様には、武士の甲斐性だとでもおっしゃっておきましょう。なお、ソープではなく、ゲイバーならば、さらに説得力があるかと思います。衆道は武士の嗜みですから。

さらに

 “学生のころ、夏休みにビクトリア王朝時代のポルノグラフィーを読んだことがあったが、肝心の場面で肝腎な単語がスラング辞典にも載っておらず、おおいに焦った思い出がある。”(『アメリカ』233p)
 ⇒(『休憩時間』22p)にも同じ話。

 その成果を若い人に伝えてあげても良いでしょう。

しかし、ソープに行くことの重要点は別にあります。
 藤原さんは、3歳のとき、お母様に連れられて満州から引き揚げを経験しています。
 幼少だったために、一つの恐怖を除いては記憶が残っていないようです。
 その唯一の記憶が、川に対する恐怖です。流されてしまいそうになりながらお母様に抱かれて渡った時に心の深層に刻まれた恐怖です。(※)
 そこで、強引に拡大してしまいますが、水と女性の組み合わせから、ソープランドでこの引き揚げ経験を思い出して頂きたいと思います。

 つまらないことでお父様(新田次郎)を土下座させた同僚、お父様が連行されたときに、年齢制限で助かって笑った同僚がいたことを。
 藤原さん一家が凍えて飢えている横で、少しでも富める者達は良い場所を得、白米に、缶詰や卵を食べていたことを。
 引き揚げの道中に、お母様たちが安全のために集団に付いていくことをだまして妨げ、さらに、お兄様を負ぶっていくように命じられた中年男性が、途中でお兄さんを捨てていったことを。
 発狂した振りをして連行を逃れ、そうしなかった人を馬鹿と呼んだ人がいたことを。
 三人の幼子を抱えて、ぼろぼろに疲労しているお母様に向かって、子供を泣かすなと怒鳴った人、公衆道徳を賢しらに説いた人、挙句の果てに戦争に負けたのは「お前みたいな女がいたからだ」とまで言った人がいたことを。
 入国時の金銭持ち込み制限から少しでも自分の財産を守ろうと、藤原さん一家の持ち込み枠を礼金付の約束で借りて、約束を破った人がいたことを。

 その人たちは、藤原さんのおっしゃるところの情緒に満ち満ちているはずの明治・大正の教育を受けてきた人たちであったことを。
 子供のころから武士道の香りを吹き込まれていたはずの藤原さん自身は、わずかな配給で足らず、お母様の分をねだって貰っていたことを。


“誰の子であろうと、見るに見かねる場合には、公衆の面前でもどしどし体罰を与えることにしている。言葉で諭す方法は滅多にとらない。中略。私が言葉を用いないのは、子供の心を傷つけたくないからである。子供を叱る時はつい感情的になってしまう。そんなときの言葉は相手を傷つけやすい。自らを振り返っても、いたずらをして張り飛ばされたことや、校庭を何週も走らされたことが楽しい思い出になっているのに反し、興奮した大人の感情的な言葉は今でも心に刺さっている。”(『言葉では』42p)

“真に憂うべきは、情緒力不足がめにつくことである。中略。私の育った戦後は、だれもが貧乏だった。中略。また、自然の中で終日遊んだことや読書に胸をおどらせたことも情緒育成に役立ったと思う。”(『休憩時間』162~163p)

“読むべきときに読まねばならぬ本がある。そのときを逸すると後ではもう無意味になるような本がある。小学校のころ私はデ・アミーチス作の『クオレ』を読んで強く心を打たれた。中略。ところが先日必要に迫られ再読したのだが何の感動も得られずがっかりした。中略。読書のほかにも、経験すべき時期に経験せねばならぬことがいくつもある。泥んこになって遊ぶこと、自然に親しむこと、友達との喧嘩、あるいは片思い、初恋、失恋なども、ある時期に何らかの形で経験することが必要である。二十歳まで喧嘩を一度もしないのは不自然だし、三十歳で初恋というのも気味が悪い。それぞれの時期に特有の感受性でとらえられたそれぞれの経験を通して、深い情緒がはぐくまれ”(『威厳意地』172p)
⇒(『威厳意地』180p)“一生のある時期に世まねがならぬ本というものがある。その時期に読めば、情緒力向上に大きな力を発揮するが、それを逸すると、ほとんど無意味な本である。”

“昭和三十年生まれの女房には、生まれる前の時代を懐かしむだけの情緒がそだってない”(『威厳意地』22p)

 根拠は藤原さんの体験であり、基準は藤原さんの育った時代。
 結局、藤原さんの言いたいことは、自分のように育てということに尽きるのでしょうか。
 藤原さんと同じように、本を読み、自然にふれ、恋をする。
 素晴らしい品格にあふれた国になることは必定ですね。
 
ついでに 
 ソープにいらっしゃれば、藤原さんが『遥かなるケンブリッジ』で絶賛なさっていた隣人、パブリックスクールからケンブリッジを出たブライアンの初恋が三十歳だったこと(42p)も思い出されるでしょう。


 さらに続けて⇒藤原正彦の喪失と成熟への渇望

 
 ソープへいらした後にはこちらのブログをごらんいただけると効果的かと思います。
          http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/
          http://tod-blog.com/category/patriotism/


※)『流れる星は生きている』(中公文庫)藤原てい著 300p
  『数学者の言葉では』(新潮文庫)藤原正彦著 141p 

 北方謙三さんの言葉は
http://media.excite.co.jp/book/news/topics/059/p01.htmlより

おまけのおまけ)
“武士道は、もともと武士階級に限定された倫理体系であった。しかし平和の長く続いた江戸時代には、戦いのおきてとしての面が薄れ、小説、芝居、講談などの民衆娯楽が、しきりに武士から題材をとったこともあり、次第に大衆の間に浸透した。”(『意地威厳』231p)
 これがいえるなら、年中、勧善懲悪の時代劇がテレビで流され、時代物の小説が売れている現代は、武士道に満ち溢れているでしょう。だから、藤原さんの著書がミリオンセラーになったのかもしれませんが。

“ナショナリズムによって行われる基本的な欺瞞と自己自慢とは次のようなものである。ナショナリズムは、その本質において、以前には複数の低文化が人口の大多数の、ある場合にはそのすべての人々の生活を支配していた社会に、一つの高文化をあまねくいきわたらせるのである。それは、かなりの程度精密で官僚的かつ科学技術的なコミュニケーションの必要に応じて成文化され、学校で伝授され、学士院の指導の下に置かれた慣用句が広く普及することを意味している。”
       『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー著(岩波書店)

武士道に関してまとめ⇒とりあえず、武士道

 話題の本を読んで、元気になってしまった・スッキリしてしまった方々にもソープへ行っていただきたいと思います。


参考に:変わらない行動)29歳の『アメリカ』と44歳の『ケンブリッジ』

“数学事務室に入ると、二人の若い秘書嬢がタイプを打っていた。可愛いほうへ歩み寄り”
(『アメリカ』124p)

“早速に数学事務室へ行くと、中が左右二つの小部屋に分かれていた。どちらに行くべきか分からず右をのぞくと、眼鏡をかけた五十代と思われる女性が書類に目を通していた。左をのぞくと、イギリス人にしては派手なかっこうをした30歳位の女性がタイプを叩いていた。しがらく中間に立っていたが、どちらも気づかないので三十の方をとった。”(『ケンブリッジ』47p)

 “デッキに出てみると潮風が実に心地良い。中略。私は舷側にもたれかかったままほとんどまどろみそうだった。すると、スピーカーが突然、「右に見えますのが筆禍無飛行場所属の将兵宿舎であります。この宿舎は1941年12月7日早朝、敵の急降下爆撃機に襲われ、ここだけで多くの犠牲者が…」とやり始めた。中略。たっていて目立つのも彼らを挑発し、ひいては自らを危険におとしいれることにさえなりかねないと考え、そばのベンチにあたふたと腰を下ろした。中略。ところが、このころになってどうしたことか、今までのめいった申し訳ないといった感情が私の中からすっかり消えてしまった。あまりに次から次へと日本軍の蛮行を聞かされているうちに、自分が乗客全員から責められているいるような気分になり、何を、と反発したらしい。一方的に何かを言われると、内容が何であろうと、反発するのが私の習性なのだ。中略。私は再びデッキの、しかももっとも人目につきやすい場所に立っていた。そして毅然と胸をはり、数百人の船客を思い切り怖い目で睨み付けていた。中略。こうなると、大空を埋め尽くした日本海軍の艦上爆撃機が向こうの丘陵に沿って、超低空飛行で果敢に突っ込むところを想像しては、“美しい、途方も無く美しい”と感激に涙を流さんばかりであった。”(『アメリカ』22~23p)

“自然科学が社交の場になっている、と感動した。このような場が百数十年も続いているイギリスの、底力と風格に圧倒される思いだった。中略。極東の島国の、そのまた田舎の信州の山奥からやってきたことに、はっきり引け目を感じた。自分だけがこの場の華麗さを乱す異分子となっている。中略。ものの三分もたたぬうちにゆり戻しが着た。中略。私はにわかに台頭した自信と誇りを胸に、「文句あるか」と居丈高につぶやくと、再び女房の腕をむんずと掴み、ホールの中央に歩み出た。”(『ケンブリッジ』87~88p)

 約十五年もの歳月がたっても、変わらない行動傾向。
 変わったのは、アメリカかイギリスかという点。 
[PR]
by sleepless_night | 2006-04-03 20:01 | 藤原正彦関連

新田次郎によろしく/『国家の品格』への道

はじめに)

 以下、『若き数学者のアメリカ』(新潮社・81年)を(アメリカ)
    『数学者の言葉では』(新潮社・84年)を(言葉では)
    『数学者の休憩時間』(新潮社・94年)を(休憩時間)
    『遥かなるケンブリッジ』(新潮社・95年)を(ケンブリッジ)
    『父の威厳 数学者の意地』(新潮社・98年)を(威厳意地)とします。

 ※はじめに、(7)(8)に目を通していただけると、(2)~(6)の意味が分かりやすいと思います。又、(言葉では)と(休憩時間)の間に、イギリス留学が挟まれていることを念頭に目を通して頂くと、(7)で指摘した変化に気づき易いと思います。

(1)略歴(エッセイの記述からまとめたものなので、年齢と出来事の対応について若干の間違いがあるかもしれません。)

1943年、満州国中央気象台の課長をしていた藤原寛人とていの間に次男として生まれる。
三人の子供のうち、父親にもっとも似ており、もっとも可愛がられたよう。
三歳のとき、敗戦。母に伴われて帰国。
十歳ころから、父寛人が新田次郎として文壇で活躍し始める。
中学から英語の他に、フランス語・ドイツ語を自習。
都立西高校では、サッカー部に所属。
東京大学理学部数学科、同大学院修士課程終了。
29歳、ミシガン大に研究員として留学。一年後、コロラド大へ公募で助教授に採用され、二年間在職。
33歳、御茶ノ水女子大助教授。
35歳、十一歳下の教授令嬢(田丸謙二教授)と見合い結婚。
36歳、父の急死。
37歳長男誕生。38歳、次男誕生。
43歳、三男誕生。44歳、イギリス留学。
45歳、お茶の水女子大教授。

(2)父 

 “父が全く突然に逝ってしまってから、半年余りがたった。もう私の原稿は読んでもらえない。よいものを書いてもほめてはもらえない。文を書く上で、父の存在がどんなにおおきかったことだろう。”(言葉では247p)

 “父は書斎への階段を上がる時、「闘いだ、闘いだ」と口癖でいっていた。”(休憩時間148p)

 “父の死を信じたくない、という気持ちが私の胸に深くこもっている。私の内容にある何かが、父の死をみとめることを、意固地なまでに拒否し続けているのである。”(休憩時間189p)

 “いつもの丹前を着て、「戦いだ、戦いだ」と自らを励ましながら二階の書斎へ上がっていく父の後姿は、子供の私にとって、時にはおそろしくみえることもあった。(休憩時間189p)”

 “取材ノートに従って父の足跡をたどってみたい。しかもできるだけ忠実に。こんな気持ちがいつの頃からか芽生え、ふくらみ、ついにはいてもたってもいられなくなっていたのである。父と同じルートを、できたら父と同じことを考え、同じことを主因果らめぐりたかった。父とおなじ山に分け入り、同じ潮騒を聞き、同じ空気を吸い、同じ人々と話、同じホテルに止まり、同じレストランで同じ料理を食べ、同じ酒に酔いたいと思った。父の想い出に、溺れるほど浸りたかった。そうすることで、あっけなく私の視界から去ってしまった父に、もう一度会える気がした。ポルトガルの果てでなら会える気がした。私の腕の中で息を引き取りながら何もいえなかった父に、山積する話をしたかった。中略。私を、家族を、悲しみのどん底に突き落としたままさっさとどこかへいってしまった父に、満身の怒りを伝えたかった。限りない恨みを連綿と訴えたかった。”(休憩時間203p)

“「これは終わりなき闘いだ」と心につぶやいた。戦い続けることだけが、父を向こうへやらない手立てである。それが私の歩む道である。ほかに道はない。”(休憩時間304p)

(3)アメリカ
 対アメリカという形で発露したナショナリズム。

 “夢にまで見た国は単に“文明化された野蛮国”に過ぎないのかもしれない。”(アメリカp10)

 “突然私は、さきほどまで自分を支配していた不安感が一掃され、きわめて不思議な感情に襲われているのに気づいた。“見よ東海の空空けて旭日高く輝けば…”で始まる愛国行進曲を口ずさんでいたのだ。それは、戦時中海軍にいたことのある叔父が、酒に酔ったときに必ず高吟したものだった。私はいつしか、眼下の海で死闘を繰り広げた日本海軍の将兵に思いをはせていた。中略。その瞬間、アメリカに行って静かに学問をしてくるというそれまでの穏健な考えに革って、殴り込みをかける、というような荒っぽい考えが心の底に台頭してくるのを感じた。中略。このような感情の変化は日本を出発する前にはよそうもしなかったものだった。 なぜ、あの朝陽に輝く波頭を見たほんの一瞬に、日本というものを強烈にいしきたのだろうか。”(アメリカ11~12p)
 ⇒(威厳意地136~138p)に同じ話。

 “アメリカに対する根強い劣等感のようなものを棄て切れない“敗戦を知っている人々”の目に余る卑屈さ、それに腹を立てていたのが、反動の形をとって奇妙な時に爆発したのかも知れない。”(アメリカ24p)

 “ハワイで真珠湾を見た頃から、心の底に根強く定着し始めた“アメリカ対私”という奇妙な対抗意識が、時と場所を選ばず頭をもたげては、私を悩ませていた。”(アメリカ49~50p)

(4)アメリカ体験、情緒と論理へ
 アメリカとの比較で考えた日本の情緒性。アメリカの受容。帰国後の、アメリカ=論理性至上主義。経年による、情緒とのバランス。イギリス体験を経て、情緒性へ重点をシフト。情緒至上主義へ。
  
 “私は「アメリカには涙がない」ということに思い至った。中略。土壌に涙がにじんでいなかった。それない反して日本には…。思わず、これだと飛び上がった。これですべてを説明できる、と小躍りした。私は日本で美しいものを見ても、それが単に絵のように美しかったから感動していたわけではなかったらしい。その美しさには常に、昔からの数え切れない人々の涙が実際にあるいは詩歌などを通じて心情に滲んでいた。中略。晃考えてくると、アメリカに歴史のないということが致命的に思えてきた。中略。これに比べて日本は長い歴史があるし、そのうえ国土が狭いこともあって、いたるところに、どの土にも水にも涙の浸透と堆積があった。少なくともそう感じさせてくれた。ひきかえアメリカはどうだ。文化や伝統の重みもなければ微妙な美しさも繊細な情緒もない。あるのは大味で無味乾燥な白痴美だけではないのか。”(アメリカ85~87p)

 “「この海の向こうに何があるか知っているかい」「この海の向こうに?」彼女は突然の奇妙な質問に、そういったまま黙り込んでしまった。中略。「horizon(地平線)」とだけ言った。私は意表を疲れてうろたえた。なんと美しい言葉だ。感動を抑えきれずに「horizon,horizon」と、うめくようにつぶやいた。中略。私はセキを切ったような感情の本流に戸惑いながらも、その奔流のなかで、埋もれていた“愛”がふつふつと蘇るのをしっかりと感じ取っていた。アメリカにだって、どこにだって、涙の堆積はなくとも、新鮮で美しい涙は確かに存在している。こう考えた時、始めてアメリカが美しいものとして心に映った。そして、上陸以来はじめてこの国を好きになった。というよりも、一瞬のうちに恋してしまったようだ。”(アメリカ118~119p)

 “私には、アメリカをアメリカたらしめているのは、何はさておき、まずその国土ではないかと思えるのだ。中略。そんな状態だから、アメリカの国民性などという問題は考えようもない。気取った言い方ではあるが、「国民性がないところが国民性」とでも言うのが精一杯であろう。中略。国民性のないという事実は、日本人がアメリカ人になりきるのを、ある意味で容易にする。多少、逆説的に聞こえるが、日本人のままでありさえすればよいのだ。周囲の目など気にせず、日本人らしい顔をし、日本人としてごく自然に考え、行動すればそのままアメリカ人的なのである。そして彼らに好感さえもたれる。”(アメリカ264~266p)

 “数人の女友達もいたし、週末はデイトやパーティで忙しかった。パーティでは老若男女の誰からも好かれたし、アパートでは子供やその親たちの大変な人気者であった。大学においては、学生たちは私をほぼ熱狂的に支持してくれたし、同僚教授や事務職員にも好かれ、週末の同じ日に複数の人から夕食に招待されて断るのに苦労したことが何度もあった。”(アメリカ271p)           
                         ↓アメリカから帰国
                         ↓
 “ほとんど全てのものに腹が立った。病気だった。三年間ものあいだ日本を恋焦がれているうちに、心の中の日本が極端に美化されてしまったようだった。中略。二言目には必ず、「アメリカでは」が口を出た。中略。私の処置なしぶりにあきれ果て、たまりかねた長老教授に「君はアメリカかぶれだ。そんなに素晴らしいならアメリカへいったらどうですか」と公の席で諫言されたことさえあった。私の病気が落ち着きを見せたのは、帰国後五、六年を経てからだった。”(威厳意地156p)

 “この情緒が、その人の人間性にどんな効果をもたらすのであろうか。中略。これが情操的成長の真髄である。これに付随する魅力は一言で言うと、「涙の魅力」といえるのではないだろうか。中略。これはある意味では、人間としての「弱さの魅力」でもある。中略。一方、これに対する専門的魅力は、人間の「強さの魅力」である。中略。情操的魅力というものが一生をかけて徐々に獲得されるのに対し、専門的魅力のほうは、数年でもよいから、自分の選んだ何かに一途に打ち込むことによってのみえられる。中略。これは、巨大なる精神的および肉体的エネルギーを必要とするから、若いときにしか出来ない。青年が何かに没頭することが出来れば、それは何であってもより。学問でもスポーツでも金儲けでも何でもよい。”(言葉では38p)
⇒(言葉では167p)馬鹿になること でも同じ話
“馬鹿になること。これが受験に限らず人生のさまざまな局面で、成功のための重要な鍵となることが多い。どの分野にすすもうと、その道での第一人者といわれる人はほぼ例外なく馬鹿である。”
                 ↓ 情緒へ重点をシフト
                 ↓  
 “情緒という言葉は、意味が広くやや漠然としている。喜怒哀楽などの一時的情緒だけでなく、友情、勇気、愛国心、正義感など、さらにはより高度なものまで含んでいる。私は多種の情緒の中から、とりわけ重要なものとして二つを取り出してみたい。一つは。「他人の不幸に対する敏感さ」である。中略。もう一つは「なつかしさ」である。中略。私自身の過去を振り返ってみるとき、喜びに比べ悲しみの方が、はるかに底が深くかつ永続的であることに気づく。そして驚くべきことに、印象にのこる悲しみというものは、ほとんど常に、何らかの形で別れとかかわっている。別れは単なる物理的離別ではない。別れの悲しみは、深層において「人生が有限である」ことにつらなっている。中略。アメリカ人の情緒力低下の原因として、アメリカにはどんな事情があったのだろうか。「他人の不幸に対する敏感さ」に関しては、貧困の解消が大きいと思われる。中略。「なつかしさ」に関しては、アメリカ人が「故郷を失った人々」であることを、想起する必要がある。中略。ここに言う故郷とは、故郷の地だけではなく、そこに存在する歴史、文化、伝統などを含めた広いがいねんである。なるほどアメリカ人もホームタウンに住む親や友人を懐かしく思っている。しかしそれは、我々日本人が故郷に対して抱く、精神的緊縛感とはことなるものだ。中略。実は、以上に述べた情緒の問題は、決して対岸の火事ではなく、日本にとっても切実な問題である。中略。強い情緒力が明治から大正、昭和初期までは健在であった、との思いを深めた。この頃までに思春期を迎えた人々の情緒力が、断然光っているように感じられるのである。この情緒はその後、次第に愛国心のみに凝縮されゆがめられ、敗戦と同時にすべてが否定されたため、決定的打撃をこうむった。中略。本質的に重要なのは情緒力の向上であろう。中略。人間の理性ないし論理で、戦争を廃絶することが不可能なのは、歴史的に証明されている。中略。核戦争から人類を守るには、地球上のあらゆる人間の、美しい情緒力にたよる他に、どんな手立てもないような気がする。”(休憩時間119~122p)
 ⇒(言葉では180~182p)でも同じ図式。
 アメリカ=故郷のない=客観的郷愁、日本=故郷がある=精神的密着感。
 私の体験→我々日本人=私の情緒→日本人の(あるべき)情緒

(4)平行して情緒と論理の教育 
 アメリカ=論理性=成熟、から、情緒性への変化。

 “彼らが日本の学生に比べて知識においてはかなり見劣りするのに、精神的にははるかに成熟しているように思われるのは、面白い現象だ。中略。知識というものは、必要になれば学校で教わらなくとも自然に身についてくるものであるのに反し、論理的な思考法とか表現方法は、若いときに身につけないと後になってはなかなかむずかしいということだ。しかし、この問題は、日本では受験地獄という社会現象(その善悪は単純ではない)と密接に関連しているのできわめて複雑だろう。"(アメリカ210~211p)

 “西洋人が“不可解な日本人(inscrutable Japanese)”という言葉を口にすることがよくあるが、これは吟味を要する文句である。不可解なのは、われわれの思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼らによく理解されつつある)、実は、ほかでもない論理面での未熟さ(精神面でのといってもよい)なのであり、それをただ婉曲に言い表しているのに過ぎないのではないか。”(言葉では52p)
 ⇒(言葉では63p)でもインスクルータブル・ジャパニーズを持ち出して論理的な言葉の教育を主張。
 ⇒(言葉では177p)“日米間に存在するこの「言葉と沈黙のギャップ」は、政治経済、外交をはじめ広く文化一般にまで見いだされ、あらゆるレヴェルでの誤解の元になっている。”
 ⇒(言葉では194p)“国際人たるべき最も大切な条件とはなんだろうか。それは多分、「論理的に思考し、それを論理的に表現する能力を持つこと」ではないかと思う。中略。なぜ論理的思考の訓練がわが国では十分にされていないのだろうか。やはり教育が真っ先に思い浮かんでしまう。大学入試を目指して会談を駆け上がるような小・中・高の学校教育しかもその中で知識の習得が偏重されているということ。このあたりに大きな原因があるのではないか。”(言葉では194p)
                   ↓ 情緒へ重点をシフト                  
                   ↓ 
知的判断において決定的なのは、いくらでもある論理の中から、どの論理を選ぶかである。通常この選択は、情緒によりなされる。中略。人間のこういった情緒の多くは、深部において、死の存在と不可分に結びついている”(休憩時間138~139p)
⇒(休憩時間172p)“それぞれの時期に特有の間情緒でとらえられたそれぞれの経験を通して、深い情緒がはぐくまれ、その人の個性の底に沈殿し、あらゆる判断の礎を形作る”


(5)イギリス体験

“私の意識下ではアメリカは巨大である。外国とはまずアメリカであり、外国人とはまずアメリカ人である。アメリカ批判を、種々の形で述べたりしたこともあるが、アメリカはあくまで、胸のうちではナンバーワンである。中略。私たち戦後世代は、映画、音楽、スポーツと、アメリカ文化をたらふく吸い込みながら育っている。中略。恰幅のよい係官は、ほかのイギリス人と同様に、アメリカをなんとも思っていなかった。中略。彼らの微笑は、アメリカへの嘲笑であり、アメリカを後生大事に抱えたままの私に対する、憫笑でもあった。”(ケンブリッジ25p)

(6)武士道から藤原道へ
 武士道の登場は(休憩時間)から。繰り返されるたびに、表現が激しく・陶酔的に変化。

“六歳の父は、雪のしんしんと降る夜に、一理近くの山道を町までおつかいにやらされたという。また、学校へ入る前から毎朝、漢文の素読をさせられた。信州の冬はとりわけ寒く、零下二十度近くにもなる。そんな朝でも廊下に正座させられ、四書五経の音読を命じられたという。”(休憩時間74p)

“武士の家に生まれた曽祖父は大変に厳格な人で、まだ学校に上がっていなかった父に武士教育を施していた。父は毎朝早く起こされ正座で諸所五経の素読をさせられたり、雪の夜道を一里も先の町までお使いにいかされたりした。”(休憩時間184p)

“父の負けず嫌いは、直治との競り合いの他に、祖父(私の曽祖父)藤原光蔵の影響も大きいと思う。江戸時代末期に武家の長男として生まれた光蔵は、きわめて激しい性格の人で、理不尽な上司にたてついて左遷されたりしたが、父が学校に入る前から徹底した武士道教育を施した。零下十度にまで下がる極寒の朝であっても、兄弟とともに廊下に正座させ、四書五経を素読させたという。”(威厳意地46~47p)

“父の生家、藤原家の本拠地は、上諏訪から一里ほど入った山中にある。江戸時代は高島藩の武士だったが、最下級の足軽だったから、武将の乗る馬の横を、歩きに歩いたはずである。明治以降は百姓だったうえ、町まで一時間もかかるところだから、先祖はみな、よくあるいたことになる。歩きは藤原家の伝統といえる。この伝統を、六年生を頭とする三人の息子たちに伝えようと、私は機会あるごとに彼らを歩きに誘う。武士教育の一環として、中略。雄雄しくも美しい伝統精神を叩き込もうと考えている。”(威厳意地103p)

“私の父は、信州諏訪の武士の家に生まれた。父はここで五歳のころから、曽祖父に武士道教育を受けた。零下二十度の厳冬でも、早朝には素足で正座させられ、四書五経を素読させられた。中略。夜遅く一里の山道を、町まで油を買いにやらされたこともある。中略。曽祖父の徹底した武士教育と、毎夜就寝前に昔話を聞かせてくれた、曾祖母の情緒教育があってこそ、いまの自分がる、と父は修正、感謝とともに語り続けていた。中略。私は以前から、父の受けた教育に憧れを持って折り、切腹の間にもあこがれがあった。”(威厳意地159p)

“武士の血を引く私の父は、幼いころから折に触れ武士道精神を吹き込んでくれたが、それは私の人間罫線に大きな影響を残したし、母親の現実的発想とバランスをとる上でもよかったと思う。”(威厳意地214p)

“私の父は明治四十五年生まれで、江戸生まれの曽祖父により、幼少の頃に四書五経の素読を毎朝させられたし、武士としての価値観を教えられた。私は父から武士道の香りを子供の時分に吹き込まれている。”(意地威厳235p)

(7)解釈

 非常に簡単に言えば
 戦後育ちで、父を敬慕している、もともと直情的な男性。
 当初はアメリカへの劣等感を伴ったナショナリズムを生じさせたが、アメリカに受け入れられ、その成功体験で論理性の重要性を体得し、その比較として日本の情緒性を感じ取った。
 帰国すると、アメリカでの成功体験がもたらした論理性を直情的に主張した。
 (強く・優れた)アメリカVS(日本の)私という経験の後、(強く・優れた)アメリカに受け入れられ、成功した結果、アメリカを私の内に受容することで対立を解消した。   受容したアメリカは(強く・優れ)たものとして私の内に存在したために、アメリカ体験の中心である論理性も(強く・優れ)たものとして表した。
 帰国後、五,六年間の日本での様々なぶつかり合いで、この論理性への直情も、力を逓減させた。
 それが、教育という面への、数学の美的感覚と国語での論理性という提言に結びついた。
 ただし、重点はあくまでも論理性。論理性=成熟。
 敬慕していた父が突然亡くなり、父への果たしえなかった想いが残り、それが年を追うごとに強まってきた。
 イギリスで、アメリカの否定を経験した。
 劣等感を含むナショナリズムに裏打ちされていた(強く・優れ)たアメリカが否定されたことで、(日本の)私という面が強く打ち出すことが、イギリス体験によって担保された。
 (日本の)私は、父への非常に強い敬慕の感情を、父=武士として象徴・美化して表した。
 イギリスによって担保され、アメリカの劣等感の反動的に優越感を含んだナショナリズムが、父=武士と重なる。
 武士道の内容は父や父を教育した曽祖父の時代である明治武士道。明治時代に、天皇のために平等に死ぬ権利として国定教科書や唱歌を通じて植え込まれたもの(威厳維持180pでは、山田耕筰作曲の『この道』を“日本人が長い間唄い、胸震わせてきた”としています。しかし、『この道』は西洋近代音楽を日本歌謡に取り入れることに成功した代表作)。(武士道にかんしてまとめ⇒とりあえず、武士道
 そして、教育について、情緒性への重点を移した。
 直情的に、情緒性を主張する。
 情緒性は、私であり、私の敬慕する父の情緒のこと。
 
 現在、父が闘ったように、闘っている。

 ということになると解釈されます。

『国家の品格』は藤原さんが父を向こうに行かせないために書いているとすると、リリー・フランキーさんが母を供養する気持ちで書いたとする『東京タワー』とは対照的です。

 おまけ⇒品格でも持ってソープへ行け!藤原正彦の喪失と成熟への渇望惻隠の情が堀江さんに向けられる時

(8)解釈と残念

『若き数学者のアメリカ』という秀作によってデビューした藤原正彦さんの作品は必ず手にしてきました。
 母藤原ていの『流れる星は生きている』の文章の強い引き締まりより、父新田次郎のリズム感に近い、魅力的な文章の書き手であると思います。
 以降の作品は繰り返しの話が多く、『遥かなるケンブリッジ』のように、海外滞在体験がないと、なかなか材料を生み出せないのかもとも感じました。
 それでも、文章のうまさと、ご家族を持ち出すことで逃げをつくる芸は藤原さんの持ち味としてクスリとさせられてきました。
 
 しかし、『父の威厳 数学者の意地』には、藤原さんの持ち味が放棄されて、ついに自身の情緒を情緒的に武士道として強弁する文章が顕れ、大変に残念に思いました。
 ご自身が武士道教育、厳寒に板の間で正座して四書五経を素読させられた、を受けていない分、記憶が反芻によって誇張されていく、上滑った話に辟易としました。

 “自分の数学が遠い未来のいつか必ずや有用になると確信している。だから、価値について考える必要は感じないし、罪の意識などはそのかけらもない。私がこの意識をいつまでも振り切れないでいるのは、ひょっとすると先祖代々百姓をしてきた信州の土のにおいが、血の中に濃く流れているせいかもしれない”(言葉では220p)

 百姓でも武士でも構わないのです。

“父が個々の文章の巧拙にこだわらなかったと言っても、その内容については当然厳しかった。同じ表現を一つの作品に二度使っただけでもう受け付けなかった。陳腐な表現も許さなかったが、なかんずく、情に流された表現を嫌っていた。淡々とした文章で深い情緒間を表し、抑制の効いた言葉で精神の高揚を表す、というのが父の理想とする文章作法だった。”(言葉では245p)

 戦っても、お父さんは戻ってこないし、今の文章をどう思うのか。


 

 
 
[PR]
by sleepless_night | 2006-04-02 18:47 | 藤原正彦関連