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ストーカーになったら・ならないために。

 ストーカーを通して見る現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)の補論として、前回は被害者になった・ならないための具体的な対処法について述べましたが、今回は、加害者になった・ならないためについて述べます。
 幾度も述べてきましたが、ストーカーは本来は好意感情に基づくものに限定されません。ですが、ここでも一応、日本のストーカー規正法の対象範囲となる拒絶型、親密性要求型、求愛型を前提に話を進めます。(分類についてはこちらストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロスを参照してください。)

(1)線引き。
 まず、これもストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世で既述した問題ですが、ストーカーになっているか否か確認してみましょう。

 ストーカーとは規正法の定義では(ストーカー規正法2条3条要約)
http://www.ron.gr.jp/law/law/stalker.htm
[目的]恋愛感情・好意、又はそれが満たされなかった時の感情を充足する目的で
[対象]当該特定の人、その配偶者や同居の親族、社会生活で親密な関係を有する人へ
[行為]以下の行為の反復で保護法益を侵害、若しくは侵害される著しい不安を与える行為
・付きまとい・待ち伏せ・進路に立ちふさがり、住居・勤務先・学校その他の通常所在する場所(住所等)の付近においての見張り、住所等への押しかけ。
・その行動を監視していると思わせるような事項を告げる、または、その知りうる状態に置くこと。
・面会・交際その他の義務のないことを行うことの要求
・著しく粗野または乱暴な言動
・無言電話、拒まれてるのに連続して電話・ファックス送信
・汚物・動物の死体その他著しく不快または嫌悪感を感じさせる物を送る、又は、知りうる状況に置くこと。
・名誉を害することを告げる、又は、知りうる状況に置く。
・性的羞恥心を害することを告げる、又は、それを知りうる状況に置く。性的羞恥心を害する物を送る、又は、それを知りうる状況に置く。
[保護法益]被害者の身体の安全、名誉、行動の自由、住居・生活の平穏 

この4つの要件に当てはまれば、ストーカー規正法の対象となるストーカーです。
但し、この4つの要件を考えた時、[目的][行為]の二つは認定が難しい、特に後者はどこからが法的対象になるストーカーなのかは判断が難しいところです。(※)
具体的に、・・を~回するとストーカーだとは言えません。

そこで、私見ではストーカーとして法的な対応をするべきだと考えるライン(線引き)を「被行為者(ストーカーの被害者・その可能性のある人)が発したメッセージによって、行為者(ストーカー・その可能性のある人)が思考・行動を修正・改善できるか否か」だとしました。
 つまり、前回の被害者としての対応①②の段階で変化がないなら法的対象となるストーカーと考えるべきということです。
  したがって、もし相手が(直接・間接を問わず)拒否の意思表示をしているにもかかわらず自分の感情・思考に基づく行動を変えることができないなら、自分はストーキングをしているのだと考えるべきです。

  既述しているように、概念としてのストーカーの定義は確定していません。
 しかし、“ストーキングと言う考えの中心にあるのは、望まれざる感心を持たれた誰か、そのため不快感を覚え恐怖するその当人の受け止め方なのだ。中略。ストーキングとは被害にあった者の目に映る光景である。”(※1)と言った視点、つまり、相手がどう感じているかに重点が置かれた概念であるということは一致していると言えます。


(2)ストーカーになったら。

 “ストーキングが被害者ばかりか、行為者の生活まで破壊することは分かってはいても関心の対象になってはこなかった。”(※1)

 ここで重要なのは、“行為者の生活まで破壊すること”だと思います。
 つまり、ストーキングをしても何も実りはないし、自らを害する行為だと言うことです。
 
① 心理類型で考えると、精神病系・パラノイド系の場合は、治療が必要ですので、ストーキングをしても何の改善になることもない(むしろ症状を放置されてマイナス)ので当然だと言えます。
 それ以外のパーソナリティ障害系の場合も同様にストーキングは何の改善にもならないはずです。
 もしかしたら、ストーキングをすることで一時的に精神的な安定感・充足感を得られるかもしれません。
 しかし、それは悪い位置での安定や充足です。ストーキングを続ければ、相手と自分の両方を傷つけ、生活を破壊してしまいます。必ず、その安定は崩れますし、絶えず、その現実の不安を感じているはずです。
 自分がどんなに努力をしても、どんなに思いを強くしても、関係とは相手と自分の二者間で成立するものですから、相手が拒めば、そこまでです。
 情熱も努力も、それを受ける意思のないところには絶対に通じません。
 ましてや、相手の心を支配することなどできません。

 自分のために、直ぐに止めることです。
 自分のために、その相手が必要だと思ったとしても、自分の現実の行いを見てみれば、単に自分と相手を傷つけているだけではないでしょうか。
 現に、相手は不安感や恐怖感を持っています。そんな相手と一緒にて、自分が幸せになれる・関係が継続できると思うでしょうか。
 もし、相手がとても素晴らしい人で、その人が自分にはどうしても必要だと感じているなら、自分の行為がその素晴らしい人を傷つけていることはどう考えるでしょう。
 もし、空虚感や不全感で相手が必要だと思っているなら、相手で空虚感や不全感は解決したか、解決して自分が満たされた安心感を得られているかを考えてみて欲しいと思います。
 もし、相手が自分の良さを分かってないだけ、時間をかければ必ず伝わると思っているなら、相手がどう感じ・判断するかは相手自身の権利であること、未来にどうなるかは不明でも、不安や恐怖を今与えてよい理由にはならないことを認識して欲しいと思います。

②ストーキングを止めて、他の何があるのか。
 即効性・有効性のあるものはありません。しかし、ストーキングが自分を害していること、何の解決も、実りももたらさないことは言えます。
 自分を変えるというのは、とても難しいことだと思います。(※2)
 決意と、長い時間、試行錯誤を必要とするはずです。
 一人では難しかったら、カウンセリングの技術を持つ医師や臨床心理士などの専門家に相談・助力を頼むべきでしょう。
 まずは、今の自分のどんな感情や思考がストーキングをする原因となるのかを確認してみること。
 ・対人関係で、見捨てられる不安を持っていないか?
 ・一時的な孤独を永続的な孤独と同じように感じていないか?
 ・他人の人物評価が激しく変化していないか?実際以上に素晴らしく思えたり、けなしてみていないか?
 ・実際的に見て、自分を過剰に評価したり、過剰に卑下していないか?
 ・自分という存在を自分で受け入れられているか?失敗したり、恥をかいたり、惨めだったり、成功したり、褒められたりと言った多面的な自分の経験を一つの自分の人生だと受け入れているか?一部を無視したり、一部だけを見つめていないか?
 
 そして、今の自分から新しく自分がどうありたいのかを考え、そのために一歩一歩、即効性を求めずに、今いる自分から徐々に変化を積み重ねる。
 試行錯誤の中でつらくても、他人で自分を紛らわそうとしないで、孤独に耐えてみる。
 対人関係では、自分と相手の距離を大事にする。それは、自分を大事にすることでもある。
 長い目で、自分も他人も見る。
 
③被害者に対して謝罪や賠償をどうするべきか。
 これは、被害の程度によると考えられます。
 つまり、刑事手続きに入れば責任を問われることは避けられませんが、基本的には相手が要求しているのかで考えるべきです。
 一方的に、自分が謝罪したい、賠償したいと思っても、相手は既に接触することを拒絶し、不安や恐怖を感じているなら、それ自体がストーキングの継続だと見做されかねません
 謝罪や賠償などにあたっても、少なくとも、双方の代理人を挟む程度の配慮はするべきだと考えられます。

(2)ストーカーにならないために。
 ストーカーは社会病理であるという側面は強く指摘されています。(※3)
 現代社会では、誰しもがストーカーの加害者、被害者になりかねません
 特に、既述してきたように、“体感的”なストーカー概念の使われ方はこの傾向を強めているように思えます。
 (1)で述べましたように、ストーカーとは被害者の視点に重点を置いた概念です。それはストーカー概念の歴史から必然的に要請されるので適切なものだと考えます。
 しかし、その歴史的・理論的な前提を欠くと、恣意的・暴走的用法の招く混乱を生じさせます。社会、少なくとも、マス・メディアの状況はその混乱を如実に表していますし、一般的に受け入れられている言論の中にも助長しながら非難するという矛盾した態度は見られます。
世界の中心で愛を叫ぶもてない男とストーカーをめぐって「純愛」の絶望/ストーカーから見えるものpart3で述べたとおりです。

 したがって、二つの方向でストーカーにならないためにどうするかを考えなくてはなりません。
 一つは、(1)で述べたように、自分自身の対人関係のありかた(自分自身のありかた)を見直すと言う方向です。
 もし、ストーカーになりかねない(感情による行動が意思で止めきれない)と意識するなら、ストーカーの心理/人格障害編 PART1ストーカーの心理/人格障害編 part2ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性などの特徴・傾向を自分で確認するなど、自分を引いた視線で見ることが役に立つと考えます(但し、パーソナリティ障害自体の問題点も同時に抑えておくべきだと思いますし、加えて、断定的な自己診断は避けるべきです。あくまでも、自分の中の偏りを認識する道具程度で考えるべき)。
 誰か一人との関係に熱中しやすいなら、その相手以外との関係も大切にして、視野狭窄に陥らないようする。自分の思考・言動に不安を感じたら、非難を含めた意見を言ってもらえるような関係の友人・知人がいれば暴走するまではいかないはずです。
 又、人間関係以外でも熱中できる趣味を持つなど、自分で充実感を感じられるものを見つけておけば、自分も他人も傷つけるストーキングをする必要がなくなるでしょう。(※4)
 もう一つの方向は、ストーカーとは何かを知ることだと思います。
 特に、~をしたらストーカーだというのではなく、何がストーカーという概念を必要としたのか、ストーカー概念は何を裏づけとして持っているのかを知れば、短絡的なハウ・ツーではないので、理論的にストーカーか否かを判断できると考えられます。さらには、“体感的”なストーカーの用法にも冷静に対処できるようになるでしょう。

(3)周囲の人間がストーカーになったら。
 これも、被害者の場合と同様に、その人と自分がどの程度の関係にあるのかによると考えられます。
 積極的に介入する際には、相応の責任が問われることが考えられます。自分のとれるリスクの範囲内で行動するべきです。
 自分の労力・時間をその人の為に使いたいと思わなければ、積極的に介入することは避けるべきだと考えます。
 もし、ストーカーが親しい友人や親族であってたら、だいたいの行動や加害状況を把握して、ストーカーのカウンセリング実績のある精神科医やカウンセラーに相談する、その上で、場合によっては、警察の力も借りるべきです。可哀相だからと放置すれば、被害が拡大し、結果としてストーカー本人をも害します。
 徒に、騒いだり、怒鳴りつけるよりも、専門的知識のある第三者を挟んだ方が安全ですし、有効なはずです。
 特に、家族や親族内という閉鎖状況で解決をしようとすると、そこはストーカー本人が育った状況ですので、ストーキングの根本的な原因の解決に必要な視点を見つけ難いと考えられます。

 以上で、ストーカーを通じての考察を終わり、本論へ入ります。
 

※)『ストーカーの心理』共著(サイエンス社)、『人はなぜストーカーになるのか』岩下久美子著(文春文庫)によると、海外では基準を定めているところもあるようですが、日本では警察の現場でも定まっていないようです。 
※1)『ストーカーの心理』P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著(サイエンス社)より
※2)『境界性人格障害のすべて』J・J・クライスマン、H・ストラウス共著(ヴォイス)   の助言を軸に、『人格障害かもしれない』磯部潮著(光文社)や『パーソナリティ障害』(PHP新書)の記述を参照しています。
※3)社会病理といのは二つの点から言えます。
 一つは、ストーカーとは何か?/ストーカーって一つじゃないの?でのべたように、社会の権利意識が変化したことで、今までも存在していた現象の捉え方が変わったと言う点です。
 もう一つは、都市の匿名性、伝統的なコミュニティーから切り離された不安感、情報技術の発達、過剰な欲求充足、混乱した価値意識といった現代の社会状況が寄与したと言う点です。
※4)『人はなぜストーカーになるのか』岩下久美子著(文春文庫)より
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by sleepless_night | 2005-09-25 14:13 | ストーカー関連

ストーカーの被害者になったら。

 ストーカーを通してみる現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)の補論として、ストーカーの被害者や加害者、その周囲の人間になった場合の対処についてまとめておきます。
 尚、ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世やストーカーの分類についての記事で述べてありますように、本来、ストーカーとはハラスメント(嫌がらせ)の一つであって、日本のストーカー規制法(ストーカー行為等の規制等に関する法律)のように好意感情などの要件で限定されるものではありません。
 ですが、日本のストーカー規正法の対象から外れる類型、行為・関係類型で言えば、憎悪型と略奪型は対処がそれ以外とは大きく違う(※)ので以下は、この二つの類型を除いたものとします。
 したがって、以下は拒絶型、親密性要求型、求愛型を想定しています(それぞれの類型については、ストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロスを参照してください)。
 
(1)ストーカーの被害者になったら。
 ストーカーの心理類型によって最適な対処法が違っていますが、共通してするべきとされる対処を挙げます。(※1)
①率直に、明確に、誤解や疑問の余地のない表現で、自分の意思や感情を伝える。 
 →まず、自分が被害者である自覚を持つこと。
 自分の意思、即ち、「相手(ストーカー)と交際(orを継続)するつもりはない。好きではない。相手の行為は自分にとって迷惑(恐怖)である。直ぐに、止めて欲しい。」をはっきりさせないと、表現に隙や迷いが現れる可能性がありますので、(特にストーカーが元配偶者や交際相手だった場合)しっかりと気持ち・思考を固める必要がある。
 ②接触を断てばよいだろうと、①を飛ばしてはいけない
 ②は①を伴って意味を持つので、①をしないままだとストーカーに想像や妄想を否定する契機を認識させられない。
 表現する際には、絶対に、「あなたには私よりも素敵な人がふさわしい」「気持ちは嬉しいけど」など、ストーカーに希望を持たせてしまう表現はせず、NOがNOとしか採りようの無い明確・率直な表現をするべき。
 最初の段階で曖昧な表現・態度、相手が察することを期待するような表現をすることは状況を深刻化させてしまう可能性があるため、率直・明確な表現を心がける。 
 但し、重要で難しいのが、自分の意思や感情を感情的に伝えてはならない点です。
 理由は二つあります。一つは、既述してありますが、ストーカーには相手を支配(所有)しようとする傾向があるからです。被害者が感情的になっているということは、ストーカーにとっては自分の行為(ストーキング)が被害者に影響を与えていることを意味します。ですから、感情的になっている姿・言動を見せることはストーカーに自分の行為が効果的であることを伝えることになり、ストーキングを助長しかねません。
 もう一つは、ストーカーの心理類型の一つ自己愛性パーソナリティ障害系(ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性)の場合に、感情的な怒りや非難の言葉が、ストーカーを傷つけてしまい、行動を激化させる可能性があるからです。
 感情を伝えることと、感情的になることは別です。どんなに感情的になりたくとも、結果を得るためには我慢することが必要とされます。
 
②完全に接触を断つ。
 →①をしたら、後は完全に無視すること。決して、「もう一回だけ」などの話し合いに応じたり、相手を説得しようとはしないこと。
 理由は二つあります。一つは、①と同様に、ストーカーに反応すること自体がストーカーを助長してしまうからです。もう一つは、説得が不可能だからです。
 なぜなら、例えば「あなたは私のことを好きになる」とのストーカーの発言に反論、説得しようとしても、私(被害者)が私のことを一番よく知っているとどんなに頑張っても、未来の自分の気持ちなど確実に分かることなど理論的にも、経験的にもありえないからです。対話も説得も、逆に利用される可能性が高いので、するべきではないでしょう。
 “いい人”であることは諦めて、冷徹になることが求められます。
 NOといくら明確に、率直に表現しても、それと同様の明確で率直なNOの態度を持たなくては、①の意味が損なわれてしまいます。

③個人情報・身の回りの安全を守る。
 郵便受けやドアポストから、手紙や請求書が抜き取られないようになっているか。
 電話やドアホンで在宅しているかどうか判断できるようになっていないか。
 カーテンは遮光性の高いものになっているか。
 ドアやベランダのサッシの鍵は簡単な技術で開錠できるタイプになっていないか。
 電気・ガス・水道メーターなどが誰からも見えるようになってないか。
 ゴミに個人情報を含んだものをそのまま入れていないか。
 通勤・通学路、時間が固定されていないか。
 さらには、インターネットのセキュリティ措置(スパイウェア対策等)はどうか。

④証拠・記録を残す。
 →①②にしろ、それで済めばよいのですが、そう上手くいく場合ばかりではないので、公的機関への相談、対処要請をするためにの証拠や記録を残しておかなくてはなりません。
 送ってきた手紙、Eメール、電話、ファックス、プレゼント、などストーカーが接触してきたできる限りの証拠を記録とともに残しておくことです。待ち伏せ、付きまといなどはメモで時間と場所を可能な限り記録しておくべきです。できればビデオや写真が日付入りであればよい。
 物的損害を加えられたら、必ず警察に届けて、記録に残す。肉体的・精神的な損害が生じたら病院で診断書を書いてもらう。 
 
⑤第三者、周囲の人に被害を伝える。
 →自分の周囲、ストーカーの周囲の人に、自分がストーカーの被害を受けていることを伝える。
 理由は四つあります。
 一つは、①②について一人ですることは、特に女性被害者が男性加害者に向かってする場合に、困難で危険である可能性が相当にあるので、精神的にも実務的にもサポートしてくれる第三者が存在することが望ましいからです。
 二つ目に、周囲の人間からストーカーがストーキングに必要な情報を収集する可能性があるからです。
 三つ目に、後々に行政手続、司法手続きに入った時に、証言によって被害を確認できるからです。
 そして四つ目に、周囲に伝えておくことで、ストーカー側が流す虚偽の情報が周囲に伝わって、自分(被害者)を困難な状況にすることを防ぐためです。知らない間に付き合っているとされたり、被害者であるのに被害妄想だと片付けられたり、逆に加害者であるとの偽情報を流されると、周囲の誤解によってさらに追い詰められてしまう可能性があります。(※2)

⑥支援機関に相談する。
 →行政などの支援機関に相談、場合によっては介入を求める。
 具体的には警察、法務局、弁護士会や民間援助組織に相談すれば、状況に応じた対応や助言が得られるでしょう。
 警察なら最寄の警察署や県警に問い合わせればストーカー対策の部署(例:警視庁ストーカー対策室http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/stoka/stoka.htm)が分かります。
 また、弁護士会とは各都道府県に一つ(東京だけは三つ)ある、その都道府県で開業する全ての弁護士が所属する会です。どこに相談したらいいか迷ったら、弁護士会に相談すれば良いでしょう。(日弁連http://www.nichibenren.or.jp/jp/hp/houritu/soudan/houritsusoudan.html)。また、地域によっては無料法律相談所を行政が設けている場合がありますので、市町村役所へ問い合わせてもよいでしょう(http://www.asahi-net.or.jp/~zi3h-wrz/law2shiya.html)。
 その際に、③④が役に立つはずです。相談する際に、被害の状況は明確な証拠や記録によって確認できれば、支援機関はそれだけ正確な対応ができるはずです。また、警察や弁護士などの日常的に接しない業種の人と話すために、あらかじめ何を相談したいのかを具体的に考えておき、メモしておいた方が有意義に支援機関を利用できるでしょう。
 状況が深刻化して、警察の介入が必要な場合には、ストーカー規正法に基づいて警告や命令を警察に実行するように要請したり、場合によっては直ぐに告訴(刑事裁判の手続きにのせるので、ストーカーは逮捕されます)したりすることが考えられますが、その際に一人で行くよりも法的資格を持った人間を同行した方がスムーズだと思います。警察は殺人や窃盗などの明確な刑事事件の捜査は組織人員の性質上得意ですが、ストーカーのような民事との境界が曖昧さを含む場合には、被害が明確化しないと動きにくい傾向が指摘されます。また、警察官は実務的な処置のための知識は詳しくとも、法律に詳しいとは限りません。ですので、専門家だと認めざるを得ない、権限を持った人間が同行することで、警察の対応が変わる可能性は高いと言えます。
 実際に、どこにどこまで相談・支援を求めるかは個々で異なるでしょうが、正確な情報は後の対処において精神的な支えになるはずです。被害者なのにお金を支払わなくてはならないというのは腹立たしいものでしょうが、問題解決を第一と割り切るべきだと考えます。

⑦引っ越す。
 →究極的な対策。
 ストーカーの被害者であるにも関わらず、⑤で料金を支払ったり、時間と労力を取られて腹立たしいのに、引っ越しまでするとは納得がいかない場合が非常に多いでしょう。
 また、現実的に、別の場所で新たな生活を始めることを気軽にできる人も多くは無いはずです。
 ですので、一時的な避難措置と捉えて実行することが考えられます。
 この際、引越し業者や引越しのお知らせなど、引越し先がストーカーに知られる(後を付けられる)ことが無いように情報を管理する(業者に情報秘匿を確認)必要があります。特に、引越しに際してはゴミが大量に出ると予想されますが、その中には個人情報や引越し先の手がかりになるものがある場合がありますので、処分にあたっては細心の注意を心がけるべきです。

 以上の対処法に当たっては、『ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世』で述べたように、自分の発したメッセージによって、相手(ストーカー容疑の人物)が思考・行動を修正できるか否かが対処法を進めるか否かの判断材料として適切だと考えます。
 つまり、①で明確・率直に否定のメッセージを伝え、②で接触を断ったにも拘らず、事態に改善がないならば、③以降の対処を進めるべきだと考えます。ストーカーは反復性と激化傾向が特徴的な犯罪ですので、注意して変化の有無を見定めて対処の停止・継続・進行を決めるべきです。
 ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 で述べたように、心理類型の精神病系やパラノイド系の場合は、ストーカー本人の中でしっかりとした妄想の世界が構築されている可能性が高く、③以降の対処を取らないで放置していても事態は改善しないと考えられます。
 特に、後者パラノイド系は心理社会的機能が低下せず、実生活で生じうる状況に関連した妄想を生じさせているので、⑤⑥の対処を取らないと被害が拡大進行する可能性が高いと考えられます。

 最後に、ストーカーの進行した被害を受けた場合に、心理的なダメージを受け、それによって他人に対する警戒感が強くなりすぎたり、似たような場面で被害時の感情が再現されたりする症状を持つ可能性が指摘されます。
 対処後、直ぐには安堵感で気付かないかもしれませんが、落ち着いて来てから、生活に支障が現れるようなら、カウンセリングを受けて、自分の中で経験を整理したほうがよいでしょう。
  
(2)ストーカーの被害者にならない為に。
①ストーカーの被害者になりやすい人。
 『行為・関係類型と心理類型のクロス』などで既述してありますが、ストーカーの約7割は拒絶型、即ち、一定以上の親しい関係にあった相手をストーキングする場合です。
 ですので、簡単に言えば、配偶者や恋人だった人間が被害者になりやすいと言えます。
 職業的には、医者、看護師、介護職、カウンセラー、教師など、親密さや信頼感を持たれやすい職業にある人が被害者になりやすいと言えます。
 尚、親密性要求型に含まれるスター・ストーカーの場合は、文字通り、芸能人などの著名人が被害者となります。これは古典的な職業病とも言えるでしょう。

 では、このように関係性や職業ではない観点、性格的にはどのような人が被害者になりやすいのか?
 共通して指摘される性格は、所謂母性的な人間です。(※3)
 “母親的なやさしさと厳しさ。”“やさしげではあるけれど、どこか毅然とした雰囲気である場合が多い”。
 加えて、“同情・共感しやすい”“責任感が強く、面倒を見たり尽くしたりする”“罪の意識を持ちやすい”“自己犠牲が得意で我慢強い”などの指摘があります。
 特徴を見る限り、多くの人から好感を持たれる人だと考えられます。
 私見ですが、この特徴の中で重要なのは、“罪の意識を持ちやすい”“自己犠牲が得意”と言う点にあると考えます。
 他の特徴では、ストーキングされても毅然として対処、ストーキングの対処法で述べた①②を自然と実行してしまうので、ストーキングが成立しにくいでしょう。
 “罪の意識を持ちやすい”“自己犠牲が得意”と言った場合に、自己評価が低い人間だと推測されます。つまり、一生懸命に努力したり、誰かの役に立っていないと、自分の価値を認められない傾向があると考えられるのです。
 そこがストーカーの付け入る隙であり、『行為・関係類型と心理類型のクロス』で述べた“特徴的な隙”だと考えられます。
 (ここで勘違いしてはならないのが、隙があるからといって、ストーキングされる理由はないということです。“同情・共感しやすい”ことも“責任感が強い”ととも“我慢強いこと”も褒められこそすれ、責められるべきことではないし、ましてやそれによって法益を侵害されてよい、されるだけの理由があるということは絶対にありません。)

②ストーカーの被害者にならない為に。
 ですから、性格的にストーカーの被害者になりやすい人間でなくなるには、基本的には自己評価を含む自尊心を高めることだと考えられます。
 これは『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論で述べた「健全な自己愛」を持つことと同じです。
 自尊心は外的(社会的)評価と内的(基本的)評価によって構成される、つまり、社会的にどのような役割・地位を担っているかという外から見える自分を評価する側面と、自分は自分の生きてきた経験や姿勢を肯定できているか(自分を自分で受け入れているか)という内からの評価の両方によって構成されていると考えられます。
 どちらか一方が弱ければ、もう一方がそれだけしっかりと支えないといけなくなり、支えきれないと自尊心を保てなくなると考えられます。
 “罪の意識を持ちやすい”ということは、責任を感じなくてもいい場合、ストーカー(犯罪)の被害者になることという責任を感じる必要のないことにまで責任を感じてしまい、自分を責めてしまうことですので、内的評価が低い人が多いと考えられます。
 その場合、内的評価の低さを補うために、“毅然とした雰囲気”や“面倒を見たり尽くしたり”して外的評価を強めて自尊心を保とうとしていると考えられます。
 したがって、根本的には自己評価を高めるようにすることが適切だと言えます。(プライドを高くし高飛車になることではありません。自分を自分として尊重でき、自分の感情の表明や保障されている権利の行使が相手にとって不快・不都合だとしても引け目を感じないで行えるようになることです。)

 対人関係においては、“ギブ・アンド・テイク”の関係を持てるように、与えるだけ、受けるだけにならないような、人間関係を築けるように意識することです。(※4)
 自己評価が低く、「健全な自己愛」を上手く持てないと、補償的に与えるだけになったり、逆に自分を満たそうとするかのように相手に求めるだけになったりすると考えられます。
 ギブ・アンド・テイクの関係が持てるなら、ストーカーの被害を深刻化させる可能性は低いと言えるでしょう。
 “自らが成熟することが一番の防御”だと考えられます。(被害者が未熟だというのではありあません。これは“成熟”と言うよりも、人間関係のバランスと捉えた方が妥当です。)

(3)ストーカーの被害者が周囲にいたら。
 これは、その被害者とどの程度の親しさ、どのような関係にあるのかによりますが、基本的には、情報を提供し、求められれば支援をすることだと考えます。
 まず、確認しておかなくてはならないのは、ストーカーは性別・年齢・職業と関係なくなりうるし、一見した変態とも、異常者とも見えない、逆に非常に魅力的な人物、社会的地位のある人物でもなりうるもの(アダルト・チルドレンとの関係/ストーカーの心理 人格障害編part2補論参照)だと言うことです。無配慮に軽口をたたいたりすれば、被害者を追い詰めることになりかねません。
 指摘された人物がストーカーだと、信じ難い感想を持つかもしれません、ひとまずは相手の立場から情報を聞き、信じた上で、それを確認していくべきです。(※5)単なる印象や評判のみで、被害を訴える人の話を判断し、発言をすることは犯罪の二次被害を生じさせる可能性が多分にあります。
 さて、具体的な支援としては、上記(1)のような情報を提供し、(1)①や⑥に際して同行・協力するなどが考えられます。
 ここで二つ注意するべきと考える点があります。
 一つは、あくまでも被害者本人が何を望んでいるのかを尊重すること。
 被害者の人生はその人の人生です。対処の結果は被害者に向かいますので、被害者本人を支援すること、決定は被害者本人がすることが基本にあるべきだと考えます。
 但し、元配偶者や交際相手にストーキングされている被害者の場合は、“学習された無力”というドメスティック・ヴァイオレンス(DV)における被害者の現実対応力の低下が見られることが考えられます(※6)。その場合、被害は深刻であり、刑法の適応対象になると推測されるので、行政への通報などの積極的措置を取るべきだと考えます。もちろん、介入する以上は相応の責任を覚悟するべきです。
 もう一つは、(1)①②で同行・代理行動する場合に、ストーカーと暴力関係にならないように注意する点です。ストーカーとはいえ、それは暴力を使ってよい理由とはなりません。助けたつもりが、自分が犯罪者となってしまう可能性があります。また、口論や対立などはしない、冷静な対応を心がける点は被害者本人と同様にするべきだと考えられます。

 次回は、加害者の側の対処法について述べます。

※)憎悪型と略奪型への対処は極めて困難だと言わざるを得ません。
 憎悪型とは被害者の選択に意味が殆ど無い、相手を恐怖・混乱させたいだけのストーカーで、ストーカー規正法の適用外の上に、脅迫行為でとどまる傾向が強いので、刑事事件として逮捕・立件されない可能性が相当に考えられるからです。
 したがって、現状では、最も効果的な対処は⑦のようにストーカーが接触できない場所に自分が行くことだと考えられます。
 略奪型は、最終的な目標が自己の性的妄想の実現ですので、被害者に気づかれないように意図している場合が多いと推測され、対処としては③の個人情報の保護や身の回りの安全を守ることが考えられます。
※1)①~⑦まで、それぞれを挙げている書籍を以下に記します。
 ①:『ストーカーの心理』(サイエンス社/P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著)、『人はなぜストーカーになるのか』(文春文庫/岩下久美子著)、『屈折愛』(文春文庫/春日武彦著)、『あなたがストーカーになる日』(廣済堂出版/小早川明子著)、『ストーカーからあなたを守る本』(法研/高畠克子、渡辺智子著)、『ストーカーの心理』(PHP新書/福島章著)の参照した全てがこれを挙げています。決意の必要性は(小早川)から。感情を感情的にならないで伝えることは、(共著)(春日)(高畠・渡辺)から。段階的・曖昧な拒絶表現の禁避は(共著)から。
 ②:(共著)(岩下)(高畠・渡辺)が挙げています。説得や議論の禁避は(共著)(春日)(高畠・渡辺)(福島)が指摘しています。
 ③:(共著)(岩下)が挙げています。
 ④:(共著)(岩下)(春日)(高畠・渡辺)が挙げています。
 ⑤:(共著)(岩下)(春日)(高畠・渡辺)が挙げています。理由1は、私見。理由2は、(共著)。理由3は、(高畠・渡辺)。理由4は(春日)。
 ⑥:(共著)(岩下)(福島)が挙げています。(春日)では“警察へ届けてもすぐには動いてくれないだろうが”とありますが、規正法があり、専門の部署もあるので、直ぐか否かは別として対応や助言はあるはずです。また、上述したように、弁護士や書士などの専門家が同行していると対応も違うでしょう。
 ⑦:(岩下)(高畠・渡辺)が挙げています。
 ストーカー被害者へのカウンセリングの必要性については(共著)(小早川)(高畠・渡辺)(福島)で指摘されています。
※2) 但し、伝える時期と伝える範囲に注意するべきだと考えられます。
 なぜなら、被害が極めて軽微な段階で広範囲な人間に伝えてしまった場合、逆に、名誉毀損などで民事・刑事責任を追及される可能性が考えられるからです。
 もちろん、ストーカー規正法などに違反すると認められればよいのですが、極初期の段階では、信頼できる少数の友人(つまり、①②で実際に支援してくれそうな人)や被害を防ぐために不可欠な人間(加害者の親族・職場の上司)などから口の堅い、信頼できる人間を選び、事態の進行に応じて伝えることが安全だと考えられます。
 不用意に、「~はストーカーだ」「~にストーキングされた」と広めてしまうと、“公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわず”名誉毀損罪(刑法230条)、“事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した”ら侮辱罪(刑法231条)に問われる可能性があります。“公然”とは、特定の多数人若しくは不特定の人間に伝わる状態、名誉毀損とは社会的な評価を毀損することです。侮辱罪は、“事実を摘示”しない場合です。刑事のみならず、民事的にも賠償を請求される可能性(民法709条)があります。
 相談したり、被害にあっていることを伝えることをためらってはいけません(伝えないとストーカーに間接的に協力してしまっている可能性がある)が、段階に応じて必要十分な範囲を見定めて情報を伝えることが必要だと言えます(これを、被害にあっている不安な状態で見極めることも難しいでしょうから、最も信頼できる人間に相談したり、⑤で状況に応じた対応と情報を得ておいた方が安全でしょう)。
※3)被害者に多く見られるの性格的な特徴については、前段は(岩下)、後段は(小早川)の引用です。
※4)(福島)の指摘です。
※5)先入観や偏見は、ストーカーを無意識に助力をすることになります。但し、実際に偽の被害者、若しくは、自分がストーカーであるにもかかわらず被害者であるようなことを主張する場合もありますので、相談される側は相当な注意が必要とされます。
※6)“学習された無力”とは、家庭内(交際)で相手から暴行を受けた人間が陥る状態。関係から離れよう・解消しようとした初期に暴力によって制圧されてしまい、それが繰り返されることで自分が無力であることを“学習”してしまう。他者から見れば、自分の意思で関係を継続しているかのようにみえてしまう。(高畠・渡辺)参照。
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by sleepless_night | 2005-09-23 13:19 | ストーカー関連

ストーカーを見抜く/全体の補足

 ストーカーを通してみる現代の男女関係(同性愛の場合は同性関係)について述べてきた、全体の補足としてストーカーを見抜くためと言われるチェックリストについて述べます。
 チェックリストについては、ストーカーの心理類型について、特にDSMの基準を出す際の意義の一つにチェックリストを検討することが含まれると既述したように、チェックリストを示すというよりも、チェックリストをチェックするといった意図で述べます。 

 まず、岩下久美子著『人はなぜストーカーになるのか』より、“ストーカーを見破る十か条”を一部(①~⑩それそれの解説文)要約して引用します。
 “そもそもストーカーは一つの社会病理であって、精神科医による「診断名」ではないのだ。中略。私がここにピックアップした内容は、精神医学的なチェックリストではないし、また、そういった類のものとはまったく違うの目的のものである。以下にあげる様々な行動パターンは、ストーカー像を把握し、理解するための一種の手がかりである。”
 ①初対面の人にも「自分史」を話したがる。
  あって間もないのに、こちらが聞いていなのに自分の身の上話を一方的に話す。
 ②筆まめ。
  様々な形態で手紙(メール)を出す。内容は、自分に関することが多い。
 ③電話機。
  狙った相手と連絡を途絶えさせない。
 ④人によくカマをかける。
  人を信用できない不安から、相手を試すような言動をとる。
 ⑤親しくもないのに、突然、高価な贈り物を押し付ける。
  自分の所有物だと分かるようなはっきりした形、目に見えるものを贈る。
 ⑥対人評価がころころ変わる。
  対人関係の距離が上手く取れない、長続きしない。
 ⑦敵・見方を区別したがる。
  デジタル思考。YES・NO、白黒、全無。
 ⑧怒り出すと止まらない。
  自分の思い通りにならないと物凄い剣幕で怒り、コントロールできない。
 ⑨人並み以上に情報に敏感。
  流行ものが好きで、あきっぽい。
 ⑩案外、仕事ができる。
  マメで、切り替えが効き、粘り強い、自己アピールができる。

 さて、一見して分かるようにこれは境界性・自己愛性パーソナリティ障害のDSM基準が混ざったものです。
 これは、岩下さんが被害者・加害者への取材から抽出したものですので、日本のストーカー規制法の定義のように拒絶型(の一部)や求愛型に限定され、それ故に、拒絶型や求愛型の中心的な心理類型である境界性・自己愛性パーソナリティ障害の特徴が現れたと解釈して間違いではないでしょう。
 ということは、憎悪型や略奪型は切り捨てられているということ、思想的に全体から切り離されている(今まで犯罪とされない・できないことが、なぜ犯罪となったのか?犯罪とすることがどういったことを意味するのか?が問われていない)ことです。
 これを含め、岩下さんのストーカーの背景の分析はやや乱暴な観が否定できないと、考えます。(“体感ストーカー”やその表層の分析に揺れ・偏りがある。)
 つまり、これまで述べてきたように、ストーカーを法規制することには、それを支える思想の導いたパラドックスがあることを看過されている、表面的な現象をつなぎ合わせて終わっていると考えられるのです。

 次に、春日武彦著『屈折愛』よりストーカーのチェックリストについての春日さんの評価“ストーカーを見破る「鑑別法」はないのか?”を含めて要約・引用します。
 チェックリストとして雑誌に掲載されたのもについて述べられているので、まず、そのリストを孫引きします。

『ダ・カーポ』1996・12・18号
 ①一件自信満々に見えるが、つきあってみるとどこかいつも不安気な感じ。
 ②いつも自分のことだけを話したがり、相手の話は関心がない。
 ③「どうしてそんなに!」と思うよなことで激しく怒る。またその怒りが長い間、持続する。
 ④気の毒な人、立場の弱い人をネタにしたブラックユーモアで笑いをとろうとする。
 ⑤何かしてもらっても感謝せず、「してもらって当たり前」的な態度がほの見える。
 ⑥慕ってたはずなのに、何かの弾みで急に悪口を言い出す。
 ⑦何となくとっつきにくく孤立した印象があり、付き合い方が難しい。
 ⑧親しくもないのによく電話をかけてくる。「たいした用事はないのに・・」と違和感が残る。
 ⑨服装や髪型がいつもスタイリッシュにきまっている。
 ⑩「あの時はどこに行っていたの?」と実にさりげなく聞くが、こちらの言うことを信じておらず、時間をかけて同じことを聞く。
 YES10~9:ズバリ YES8~6:かなり危険 YES:5~4:注意 YES:3~0:多少

『週間朝日』1996・11・8号
 ①プライドが高くナルシスト ②流行の服を着るのが好き ③自分のことを話したがる
 ④怒りだすと止まらない ⑤毀誉褒貶が激しい ⑥友達が少なく、つきあいが長続きしない   ⑦かつて好きだった人を極端に嫌う ⑧昔の些細な出来事を覚えている ⑨よく人にカマをかける ⑩拒食症や過食症の傾向がある
 6つ以上:要注意 特に③と⑨が両方該当する人は「かなり危険」

 『プレジデント』1996・7号
 ①『ライ麦畑でつかまえて』を愛読している。
 ②おしゃべり(相手の話を聞く耳は持たないで、自分のことだけ)
 ③質問に対して簡潔に答えない。
 ④筆まめ。(②とも通じるが、内容は自分のことばかり)
 ⑤自分の写真を持ち歩く。(好き相手の写真も欲しがる)
 ⑥とことん相手に執着する歌が好き。
 ⑦いきなり貴金属をプレゼントする。
 ⑧携帯電話を手放せない。
 ⑨相手をテストしたがる。(他人が信用できないので、わざと相手を試す)
 ⑩情緒不安定で、衝動的な行動が多い。(ことに日本酒を飲んだときにキレやすい)

 これらについての春日さんの評価ですが、パーソナリティ障害のDSM基準との比較から『ダ・カーポ』のリストは“このチェックリストはボーダーライン人格障害と自己愛性人格障害とが重なり合ったあたりにストーカーの病理が潜んでいる、との前提に立って作成されているように見える。そういった意味では、妥当性が高いとは思われる”と一定の秒かをしているます。
 しかし、“チェックしてみたら満点であった人物がいた場合、だからいって注釈にあるとおり「ズバリ、彼はストーカーです」と言い切れるものなのか”とリストの存在自体に疑問を呈しています。
 さらに、“精神医学にせよ心理学にせよ、これらの学問は基本的に「後知恵」といった性格をもつ。中略。理解と説明のための学問なのであり、予言や予測のための学問ではない。”とリストによる事前判別に精神医学・心理学を用いることを否定しています。
 そして、“10項目のチェックだけで隣人をストーカーと断定してしまうようなテストが平然と横行する世の中にも問題が潜伏している”と社会全般の問題を指摘しています。

 『週刊朝日』のリストについては、③については妥当性を認めるが、⑨は単一の現象を過剰評価しているとしています。また、⑩についても無理があると否定的です。
 『プレジデント』のリストについては①⑥⑧に否定的です。

 結論として、“三種のチェックリストが、結局のところ「一斑を見て全豹とトす」といったまことに乱暴な方法論の実践となってしまっているところに、胡散臭さを覚えてしまう。チェックリストという形式を借りて好奇心に働きかけるための「覗き見装置」でしかあるまい。”とリストの存在自体を疑問視し、“我々の内なるストーカー的心性は、たとえストーキング行為として発露することはなくとも、チェックリストといったものに飛びつくことによってその存在が示唆されるのである。これこそまさにパラドックスではないか。”と述べてあります。

 さて、重複しますが、これらの三種のリストもパーソナリティ障害のDSM基準と重なることは理解されますので、ストーカーをパーソナリティ障害と同一視している傾向があり、是認できるものではありません。それは、このようはリストの形でなくとも、パーソナリティ障害のDSM基準を挙げたり、特徴を抜き出すことで済ませている場合も同様です。
 やはり、ここでもストーカーの法規制が持つ歴史的・思想的な背景から切り離されてしまったことが大きな原因となっていると考えられます。
 また、DSMを中心として、精神医学・心理学自体の弱みが認識されていないことも言えるでしょう。
 それは、一冊の本でこれらの全てに触れることは物理的に難しいということと同時に、自分の使う道具にけちをつけて説得力を削いでしまう、曖昧さ複雑さが読んでいて気持ち悪いことから、編集されたことが多分にあったことによると思われます。

 ストーカーの分類の必要についてで述べたように、ストーカーは分類が困難なほど多様です、と言うことは、分類をせずにストーカーを述べることは不可能であり、許容できないほど乱暴なことです。
 そこに現れるのは、春日さんの指摘の通り、その言論を消費する側の問題です。
 このブログの記事で言えば、“体感ストーカー”という問題です。
 “体感ストーカー”については以前の記事に詳述していますので繰り返しませんが、チェックリストはそれを使う側をチェックする方がストーカーをチェックするよりも有効だと言えるでしょう。 

 次回ストーカーの被害者になったら。に続けて、ストーカーの被害者と加害者、被害者になった場合の対処について、特に法的対処をめぐる問題について述べます。
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by sleepless_night | 2005-08-28 15:41 | ストーカー関連

ストーカーから見えるものは

やっと、ストーカー問題の帰結部であり、本論の導入部へとたどり着きました。

 長々とストーカーについて説明を重ねてきましたので、少しまとめますと。

 まず、ストーカー問題の最初に示した、ストーカーの定義について振り返ってみます。
 ストーカーの定義として、ストーカー規正法の定義とその他の定義を出しました。
 
 法律の定義するストーキングは、
[目的]恋愛感情・好意やそれが満たされなかった時の怨恨の感情を充足する目的
[対象]当該特定の人、その配偶者や同居の親族、社会生活で親密な関係を有する人
[行為]一号から八号の行為の反復で保護法益を侵害、若しくは侵害される著しい不安を与えること
[保護法益]被害者の身体の安全、名誉、行動の自由、居住地の安全

 その他の定義でストーカーは
①一方的な好意・恋愛感情
②妄想・幻想に基づく
③繰り返し・執拗に接近・付回すなどして迷惑・攻撃し被害を与える人

 とされます。

 分析のための類型として、ストーカーの類型として行為・関係類型と心理類型の二つの類型を出しました。
 行為・関係類型では拒絶型・憎悪型・略奪型・親密性要求型・求愛型の5つ、心理類型では精神病系・パラノイド系・境界性パーソナリティ系・自己愛性パーソナリティ系・反社会的パーソナリティ系の5つです。

 そして、前回までに類型の説明を終えました。
 結果として、定義の問題でも“奈良の騒音オバサン”の例で出しましたように、憎悪型ストーカーがストーカーとして認知されていない(定義に入っていない)こと、ストーカーの心理類型がパーソナリティ障害に偏っていることが問題として出てきました。
 前者は、定義の問題で述べたように、ストーカーの歴史から日本のストーカーが切り離されていること。
 後者は、パーソナリティ障害自体の捉え難さ、特にパーソナリティ障害という概念を生み出した精神医学(心理学)自体の弱み・曖昧さとパーソナリティ障害という概念の当てはまる人々の普通さ・膨大さが軽視されてしまっていることが、ストーカーの心理問題として語られるパーソナリティ障害に集約されてしまっている原因だと挙げました。

 既述ように、どちらも、全体からの切り離し、全体を見れていないことで共通しているのです
 このように、切り離されて輸入されたストーカーという言葉が漠然とした不安の中で即座に受け入れられ、定着し現在に至っているわけです。
 それは、近年警察によって言われる“体感不安”になぞらえて言えば、“体感ストーカー”とでも言えるものです。
 確かに、ストーカーの概念に当てはまる人はいます。身近で被害にあった知り合いを持つ人も少なくないでしょう。
 なにより、ストーカーという言葉、ストーカー規正法のおかげで、被害者の8割を占める性である女性は被害を言葉に表せるようになり、被害の深刻化に対処できるようになった(行政や学校・会社で相談窓口ができた)点で、非常に評価されるべきものです。

 ところが、全体から切り離された・根から切り離された言葉・概念が“体感的”に使用されることで、それを使う側にも矛先が向けられていることに気づいている人は多くないように思います。
 つまり、ストーカーと体感的に使うこと、体感的にストーカーを非難する人(※)が同じ口で賛美の言葉を与える対象、もしくは、自分自身の好ましいと思う関係についてまで否定される可能性があることにどれだけの人が気づいているだろうかということです。
 
 ストーカーについてなぜ語ろうと言うのか?
 この根本のスタートで、私はストーカーが日本の男女関係(同性愛の場合は同性関係)をゆがんだ形で拡大されているものだと考えていること、推奨され・賛美される関係と否定され非難される関係の区別の作り出した線が時代の男女関係(同性関係)を描く線だと考えていること、その両者は同じ社会に存在し通底すると考えることを述べました。
 ストーカーの全体を見渡して、その線が浮かび上がってきたのに気づいていただいていると思います。
 類型で言うと、行為・関係類型の拒絶型と求愛型です。
 特に、求愛型ストーカーについて考えてみること。
 求愛型ストーカーの説明でも述べたように、この類型はもっとも通常の男女関係(同性関係)に近い、つまり、境界線上のストーカーです。
 この線が時代の男女関係(同性関係)を描く線だと考えるのです。

 ストーカーの定義の問題で野口英世の例を使って、熱心な片思いとストーカーの判別の問題について述べました。
 そこで、ストーカーと認定し措置を採るべきだと考えるのは、相手が自分の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと述べました。
 拒絶型がまさしくこれに妥当すると考えられますが、求愛型も同様に妥当します。

 メッセージによってお互いの思考・行動を修正するのは、人間関係の基本的なルールであり、マナーです。
 ストーカーとして対処すべきは、このような基礎ができない人だといえます。

 しかし、この基本的であるはずのルール・マナーにあやしさ(危うさ)が現れる関係、その最たるものが、男女関係(同性関係)です。
 正確に述べますと、そのようなあやしさのある欲求や情熱を感じることが一般的だと考えられる・理想とまでされるのが男女関係(同性関係)だということです。
 つまり、相手のメッセージによって物分り良く行動する、修正する人がいたとして、その人を自分の恋人や配偶者にしたいと思うか?、ましてや、そんなドラマや映画や小説を読んで楽しいか?ということです。
 自分に対して相手が特定の強い感情を持って接して欲しいと思うこと、それを実感させて欲しいと思うことが、男女関係(同性関係)では強く現れると考えられます。
 
 ストーカーの歴史は、社会、特に女性の権利意識の向上によることは前述しました。
 つまり、西洋社会(の価値観を共有する社会)の大原則である自由主義(と同時に導かれる平等主義)による権利意識の明確化です。
 自由主義とは、“明白な法的規則か暗黙の了解によって権利とみなされるべき、一定の利益を侵害しないこと”を前提として、“ある一人の人、あるいはどんな数の人びとでも、他の成熟した年齢の人物に対して、彼が自分の利益のためにしたいと望むように、してはならないという権限を与えられてはならない”ことを意味します(※1)。
 つまり、他人の迷惑にならなければ、明らかに馬鹿で自分に有害なことも許されるということです。
 重要なのは、“権利と見做されるべき、一定の利益を侵害”することはできないということです。
 そして、この“一定の利益”に男女関係(同性関係)内部の事項が含まれ、男女関係(同性関係)の開始・継続に双方の合意(同意)が“権利とみなされるべき”こととなった結果の一つがストーカー規正法です。

 拒絶型と求愛型、特に求愛型ストーカーが境界線上となるのは、この合意(同意)をどう捉えるべきか、さらに前提にさかのぼって、“個人的”領域(※2)を守るべき・このような自由主義的な権利意識からの保護地域(聖域)を認めるべきかという問題への問いに対する論者の逡巡と重なるからだと考えます。
 つまり、ストーカーはこれまでも述べてきたように多様に分類され、その中でもグラデーションがあります。そして、明らかに規制の必要なストーカーへ法規制をかけることには、グレーゾーン(境界線上)のストーカーの法適用が不可避的に含まてしまいます。そこで、そのグレーゾーン、求愛型と拒絶型の一部に当てはまる人々について法適用をすることに、感情的に逡巡を覚える論者が出てくるのです。この逡巡は、グレーゾーンをストーカー規正法の対象範囲に含まれてしまうこと、それが法規制にとって避けられないことであるが、そのことが自分達の感情やある種の理想を否定することになることに気づいていることから生まれるのです。
 ですが、この逡巡も、自由主義の生み出したものです。
 そして、逡巡する論者達もこの自由主義という大前提を否定できないのです。

 自由主義が社会の法に取り入れられ、社会の慣習、人々の価値意識に取り入れれなければ、男女関係(同性関係)で自分を特定の存在として求められることを欲求すること、その欲求を実現可能な欲求として認識することは基本的には不可能でした。
 自由故に選択の機会が与えられ、選択にされされる故に、選択される対象たる自分を納得させる理由が求められる
 だからこそ、自分との男女関係(同性関係)を希望する他者の意欲・欲求に強いものを求め、単純で物分りの良い(他の多くの関係では理想的なはずの)コミュニケーションでは満たされなさを感じ、合意を“権利とみなされるべき”ものに入れるかの感情的逡巡が生まれる、少なくとも、物分りの良いコミュニケーションを理想と捉えることに感情的に逡巡すると考えられるのです。
 さらに現代の交通・情報技術の発達で、選択の範囲が人間の選択能力をはるかに上回るまでに広まってしまい“過剰選択肢”の問題(選択肢が多いほうが自分にとって良い判断ができると考えられるのに、選択肢が過剰なほど多いとかえって選択を放棄してしまう)まで絡んできます。つまり、選択対象が過剰に広がり、その中に自分も当然含まれる。そうすると、選択された場合に、なぜ、どうやって自分なのかを問うことが極めて困難になる。困難ゆえに、よけいに問いへの答えを求めたくなる。

 “体感ストーカー”はこう言った状況で広まったと考えられます。
 過剰選択肢で虚脱的な寄る辺の無さ、自分という特定の個人を求められる理由を求める感情・欲求、正確な知識を欠く自由主義的な権利意識。
 その混沌とした不安と願望の入り混じった中で、“体感的”にストーカーという名称が使われてしまい、本当に問題とされる対象を逃し、意識せずに自分の立つ土台を崩してしまっている。

 ストーカーの心理類型の中でも境界性パーソナリティ障害系のストーカーは満たされない空虚感から逃れるための過剰な依存を特徴とすると考えら、自己愛性パーソナリティ障害系は自分の価値を映し出してくれる鏡を求めることがあると考えられます。行為・関係類型の中の拒絶型ストーカーは権利・正義意識をもってストーキングすることがあります(拒絶型に該当する心理類型の中心は境界・自己愛性パーソナリティ障害系、また、この二つは求愛型の中心類型でもある)。

 逡巡を感じることができず、“体感ストーカー”を使う人は、その言葉が、鏡に映し出された自分だということに気づいているでしょうか。

 
 次回は、もう少しこの視点で話を続けて、本論への道筋をつけます。

※)難しい点ですが、問題意識としては“体感ストーカー”を意識するべきと考えますが、ストーカーである可能性がある場合への内心での準備のようなものは必要だと思いますし、ためらうと深刻化する恐れがあります。また、ストーキングは犯罪です。犯罪を非難することは当然です。ストーカーによる被害は直接に肉体的な危害と同様に、その心理的な危害が重大であることは決して軽視されるべきものではありません。
※1)『自由について』J・S・ミル著 水田洋訳
※2)フェミニズム運動、1960年代以降のフェミニズム運動のスローガンの一つ“個人的なことは政治的なこと”。これによって、性関係を含む個人的とされた領域にまでフェミニズムの問題意識が及ぶようになった。
 
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by sleepless_night | 2005-08-06 23:08 | ストーカー関連

ストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロス

 ストーカーの心理類型について、一通りの説明が終わりましたので、心理類型と行為・関係類型のクロス(二つの類型を重ねる)をしていきたいと思います。
 行為・関係類型を軸に、心理類型を重ねます。
 心理類型は、分析や理解には必要ですし、適していますが、ストーカーの情報を集める必要があり、初見では判別できず、具体的な事例の最初の当てはめに使うのには適していません。ですので、直接的に判別できる行為・関係類型を軸にした上で使うことが妥当だと考えるます。
 行為・関係類型はかなり以前に出しましたので、再度、同じ説明文を挙げ、追加的なものを加えてあります。
 尚、行為・関係類型は『ストーカーの心理』(サイエンス社)P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル共著/託摩武俊監訳/安岡真訳に拠ります。

[①拒絶型]
 一定以上の親密さのあった関係(親子・夫婦・恋人・親友・長年の同僚や取引相手・医者患者間・教師生徒間)が壊れたときに生じるストーカー。
 この拒絶型が最も多い類型。警察の統計では、全ストーカーの約70~80%がこれに当てはまる。
 関係の喪失感から、よりを戻したい・断られた腹いせ、の目的を持つが、ストーキングという行為の過剰さがその目的を達成することに有効だではないとの認識はある。
 それでは何故するのかと言うと、権利意識や正義感という妄想の下に自分がストーキングを止めると、関係の喪失を認めることになる、ストーキングが相手と自分の関係を維持する行為なので、それは有効ではない、かえって有害だと認めても止めることができないからだと考えられる。
 権利意識・正義感から、脅迫・暴力につながる傾向がある。
⇒[心理類型]で考えると
 中心的には(3-2)自己愛性パーソナリティ障害系が該当すると考えられます。
 自分への誇大な評価から、相手にも関係を規定する権利があることを受け入れらない。独占欲が強く、相手の意思を考慮せず(共感の欠如)に、自分の思い描く世界に従わせようとする(不当な他人の利用)。
 尊大で傲慢であるようで、それは幼児的な全能感に基づくだけに、批判や拒絶に弱い。
 (3-1)境界性パーソナリティ障害系も、拒絶型に該当することが多いと考えらる。その場合は、自分の権利や正義という妄想が前面になく、喪失された関係への強固な依存が見られると考えられる。
 境界性の持つ空虚感を満たすため、その関係に一切の希望や期待を求めよう(極端な人物評価)とし、関係が失われることは、それに求めた一切の希望も期待も失われることを意味するので、喪失を受け入れられなくなる(見捨てられることへのなりふり構わない努力)。
 (3-3)反社会性パーソナリティ障害系は特徴的な関係の場合には拒絶型に該当すると考えられます。特徴的な関係とは、相手側に特徴的なスキがあり(※)、それに反社会的パーソナリティ障害を持つ人が付け込むようにして作られる関係のことで、同じような相手と同じようなトラブルを繰り返すことが考えれます。
 (1)精神病系(2)パラノイド系も、医者患者間の場合に考えられます。

[憎悪型]
 拒絶型ほどの親密さの無かった関係の相手、若しくは、殆ど知らない他者に対して、相手を恐怖・混乱させたい欲望から生じるストーカー。
 ストーキングの相手の選択には意味が無く、手当たり次第の感がある。
 憎悪とは、自分の中でストーキングのきっかけとなる出来事で感じた自分の感情をすぐに爆発させるのではなく、内にためて反芻し、確認・維持された強固で冷徹な怒りと憎しみの感情のこと。したがって、計画性が強く、脅迫的である。
 きっかけとなった出来事で、自分は被害者であり、ストーキングはそのお返しであると、正当化している。
 どの類型よりも脅迫行為を行いやすいが、実際の暴力行為へ及ぶことはどの類型よりも少ない。
⇒[心理類型]で考えると
 中心的には、(2)パラノイド系が該当すると考えられる。
 妄想以外は正常者と変わらない能力を持ち、妄想に基づく行為をその能力を使って実行し  ていく。
 (3-3)反社会性パーソナリティ障害系のようにも見えるが、憎悪型のストーカーは社会的な能力の低下がなく、自分の行為の結果を計算でき、保身行為をとることができ、直接的な暴力行為を取ることが少ないので、当てはまることは少ないと考える。

[略奪型]
 自分の性的妄想を満たすための相手をストーキングするタイプ。
 性的妄想の実現という目的のための手段としてのストーキング。
 目的が相手との関係を意図したものではなく、自分の欲望と妄想の実現と言う一回性のあるものなので、ストーキングの期間は他の類型に比べて著しく短く、外から観察できることが少ないため、警告となる兆候なしに暴力行為が発現する。
 拒絶型以外で最も暴力行為に至ることが多い類型。
⇒[心理類型]で考えると
 中心的には(3-3)反社会的パーソナリティ障害系が該当すると考えられます。
 特徴的な性癖を社会の中で統御できずに実現しようとする(社会・法規範の無視)、性犯罪  の前科を持つことが多いなど、パーソナリティの偏りが主観的苦痛でとどまらず、他者の法  益(法律によって守られる利益:生命身体財産など)侵害に及ぶ傾向が当て嵌まります。

[親しくなりたいタイプ(親密性要求型)]
 相手と相思相愛の関係を築きたいとの一方的な意図から生じるストーカー。
 最もしつこく、拒絶型以外で最も長期にわたり、多く見られる類型。
 孤独感で切迫する自分の生活を解決してくれる相手(理想の相手)だとみなして強い好意を持ち、その権利があるとの思いもある。求めるのが相思相愛といっても、所謂恋人や配偶者へ求めるような関係性というよりも、保護者的な愛情を求める。
 ストーキング自体が自分の生活の孤独感からの逃避・補償行動ともなる。
⇒[心理類型]で考えると
  見ず知らずに近い相手をストーキングする場合には、(1)精神病系(2)パラノイド系(3-2)自己愛性パーソナリティ障害系が該当すると考えられます。
 該当する心理類型にかなりばらつきがあり中心的なものを特定しにくい。
 ただし、孤独であり、それからの救いのために理想の相手を見るという点からは(3-2)の推定ができる(境界性系も該当すると考えられるが、自分に相手と関係をもつ権利があるとの思いが強い場合は自己愛性を考えた方が妥当すると考える)。
 相手が有名人である場合は、(1)精神病系(2)パラノイド系が中心的に該当すると考えられる。
 歌手や俳優などの芸能人の場合には勿論、社会的地位の高い人(著名な医者や学者、宗 教家などの人を助ける立場の人や行政組織の高官や企業の重役)の場合でも他の行為・関 係類型のように直接的な関係を持つことが考えられないので、それだけ妄想の世界がしっか りしてないとストーカーになれないと考えられる。

[相手にされない求愛者タイプ(求愛型)]
 親しくなりたいタイプとの違いは、相手の扱い方と関係の可能性にある。
 この類型のストーカーは、社交・人間関係のスキルが非常に低く、不器用で、鈍感であるために生じる。
 全ての類型の中で最も世間一般の男女関係(同性関係)に近いともいえる。(※1)
 比較的ストーキングの期間は短期。ただし、本人が変わらないために累犯性がある。
⇒[心理類型]で考えると
  中心的には(3-1)境界性パーソナリティ障害系(3-2)自己愛性パーソナリティ 障害系が考えられる。
 上手く関係性を作れない、相手の感情や思考に鈍感、自分の行動がどのような効果を持つのか評価できないことが、(相手を引き付けるために)自分の価値を喧伝することに夢中になったための場合なら(3-2)、空虚感から相手へしがみつこうとしたための場合なら(3-1)が考えられる。

 以上で、ストーカー問題の下拵えが完了です。
 このように見てみますと、一般にストーカーとして問題にされているのは、拒絶型と親密性要求型と求愛型の3つを指しているために、指摘されるストーカーの心理類型がパーソナリティ障害系に偏って注目されていると理解できます。
 特に、最も多い拒絶型の中心がパーソナリティ障害系であることは大きいのでしょう。
 つまり、このことがストーカーの心理をめぐる乱暴とも思える決め付けにつながっていると考えられるのです。
 そして、この心理類型と行為・関係類型のクロスだけ見ると、いかに心理類型として挙げられる病名や疾患名の持つ悪い面が強調されてしまっているかに気づくでしょう。
 心理類型だけの説明では、疾患全体について述べることができるのですが、クロスさせてみると、行為・関係類型が軸となるのでそれに直接結びつく心理類型の特徴を示さなくてはなりません。そこが、ストーカー問題(の心理類型としてのパーソナリティ障害)と通常のパーソナリティ障害に関する問題の取り上げ方に差が出る原因となっているのだと考えられます。
 
 憎悪型は以前に述べたように、最初からストーカー規正法の定義から外れているために、ストーカーだと認知されておらず、略奪型は目的のための手段であり、目的自体が強姦や強制わいせつに相当するのでそちらの罪に吸収され、独自にストーキングとして摘出されないためにストーカーとして認知されないと考えられます。

 ストーカーの歴史から切り離した定義、差異を無視した言論、社会からの隔離、そこから全体の中での視点が阻害されていることが見えてきます。
 それが、ストーカーと一言で名指される存在を不明なものにし、本来なら被害者として救済されるべき人を外したり、感情的な排除で済ませようとしたりし、騒いだ割に問題の解決になっていない、臭い物にフタ的な発想で終わってしまう。
 
  次回ストーカーから見えるものはで、このストーカー問題の帰結、具体的に何がストーカー問題が現代の男女関係(同性関係)を考える上で重要なのか、何がこれを通して見えるのか、に入ります。
 また、ストーカーの対策などについても補論の形で出します。
 
 
補足)境界性パーソナリティ障害と自己愛性パーソナリティ障害はどちらも、「幼児的な自己愛」に育成原因を求められるので、似ていますし、パーソナリティ障害自体が重複(境界性と自己愛性が重複して診断される)が非常に多いとされています。また、前々回に述べたように、自己愛的な要素はどの精神疾患にもみとめられると考えられています。

※)ストーカーの被害者側の特徴は別に述べますが、明らかに不幸で、本人も不幸だと思っているのに、なぜか同じような関係を繰り返してしまう、同じような相手を選んでしまう人の場合、不幸である関係に痛みの中の安らぎのようなものを感じていることが考えられます。依存が苦しいのにせずにはいられないのと同じことが、人間関係への依存である共依存も同様に言えると考えられます。
 フロイトは、このような苦痛をなぜか繰り返してしまうことを「反復強制」と呼びましたが、これは経験から学習されたものだと考えられます。
※1)求愛型の場合、かなり認定が微妙な人々がストーカーとカウントされることが多いと指摘があります。ストーカーの定義の問題についてで述べましたが、ストーカーと認定するか否かは、相手が自分の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと考えられますので、唐突で不器用な求愛を時流や感覚でストーカーとするのは正確ではありません。
 ストーカーか否か、概念を正確に定義することは、問題を考える上での基礎です。
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by sleepless_night | 2005-08-02 22:11 | ストーカー関連

『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論

 ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性の※1で述べましたように、「自己愛」をめぐる補論です。
 といっても、基本的には精神分析学の範疇の補足で、それに絡めて少し拡張した話をしたいと思います。

 まず、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」とは、幼児的期の自他未分離状態での、自分=世界という認識に基づき、自分の欲求が自分によって全て満たされるという全能感を意味すると述べました。
 自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」の意味はこれでよいとして、考えてみると、そもそも「自己」も「愛」も、このような否定的な意味合いを持っていないのにどうして「自己愛」として二つの言葉が組み合わさると否定的な意味に使われてしまうのか?疑問が沸きます。
 これは前回の※1で述べましたが、「愛」と言う言葉がリビドー(性的欲動・衝動)の訳語として当てられてしまったことが第一の原因なのですが、「自己愛」と言う言葉には精神分析でも悪い意味ではなく、寧ろ必要なものとの意味もあるのです。

 それは、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」のような幼児的なものと区別するために、「健全な自己愛」と呼ばれます。
 現代アメリカの精神科医O・F・カーンバーグによる二つの区別を見てみます(※)と

[幼児的な自己愛]非現実的/正常な自己評価の欠如/他人に助けを求められない/他者を脱価値化/冷たい/無遠慮で過大な要求/非現実な愛の希求
[健全な自己愛]より現実的/安定した自己評価/愛情・信頼感/他者との関係が安定/暖かい/現実的な要求/現実的な愛の希求

 としています。
 「幼児的な自己愛」は自分の全能感に基づくので、非現実的で、実際の自分の力を無視した誇大感をもち、他者を道具のように使い、過大な要求をすることになると考えられます。
 これと、「健全な自己愛」はどう違うか、どうして同じ「自己愛」なのに対照的な特徴を導くのか?
 それは、自己愛性パーソナリティ障害の原因で前回に述べたことと一致すると考えられます。
 繰り返しますと、誰しも幼児の段階では、全能感を持つが、やがて自分と他人(保育者などの、自分の欲求を満たしてくれていた人)が違う存在であることを認識し、その不安・恐怖の中でのその事実の認識・受容が上手くできたかどうかが関係すると考えられます。即ち、その自分と他人の分離の認識・受容時の環境が十分に保育的で安心できるものではないかったり、褒めたり、出来たことを幼児と一緒になって反芻し確認してあげる人がいないと、耐え切れずに全能感に退避してしまう。また、適当な手本の存在がないと、全能感に源を持つ幼児の力が全能感のままに残ってしまうと考えられます。
 これが「幼児的な自己愛」だとすると、「健全な自己愛」は自他の分離を認識・受容するときに十分に保育的で安心できる環境があったり、手本となる存在が近くにいたことで全能感が全能感のまままでは残らずに、その後の自発性の源として収まった結果だとなります。
 このように、二つの「自己愛」は同じものであったのに、一方は発展の機会を逃し、他方は時期と発展の過程が上手く合致したことで違いが生まれたと考えられます。
 但し、留意すべきは、「健全な自己愛」にも「自己愛」が必要だと言う点だと考えます。
 ここで言う「自己愛」は「幼児的な自己愛」という意味ではありません。
 文字通りに、「自分を愛すること」です
 詳しくは後の「愛」についてと言うブログ自体の本論的な話に回しますが、ここでは日本でも有名なエーリッヒ・フロムの言葉(※1)を引用して説明に当てさせてもらいます。
 “他人に対する態度と自分に対する態度は、矛盾しているどころか、基本的には連結しているのである。中略。自分自身に対する愛の態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。中略。もし、ある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身を愛している。もし、他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。中略。利己主義と自己愛とは、同じどころか、全く正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。中略。自分自身をあまりに愛しすぎているかのように見えるが、実際には、真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。”
 フロムの述べている「自分自身への愛」(自己愛)という広い範囲の中にカーンバーグの言う「健全な自己愛」も含まれると考えられますが、正確にはフロムの言う「自己愛」は“自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定する”という“肯定”の意味合いが強いものです。
 そして、この“肯定”こそが、「幼児的な自己愛」という全能感と「健全な自己愛」とを分けると考えら得れる育成環境での幼児の安心感を支えるものだと考えられます。ただし、“肯定”といっても単純に認めることを意味するのではないと考えられます。なぜなら、単純に幼児の行動を何でも認めることとすると、幼児が適切な手本を持たず、無制御に全能感を発揮してしまい、「幼児的な自己愛」にとどまってしまうと考えられるからです。“肯定”は、「健全な自己愛」のための基礎であり、それは、幼児の全能感を適当な目標へと向かわせるための支援や制御の基礎とも言える広いものだと考えられます(“肯定”感があるから、自分が自分の思うように行動できると同時に、保育者などからの注意なども受け入れる精神的な余裕がある。)。
 
 この“肯定”の意味するものを考える上で『世界で一つだけの花』を例にしてみると分かり易いかもしれません。 
 この曲の最後に“No1にならなくてもいい、もともと特別なONLY ONE”とあります。
 この歌詞は破綻しています。その破綻振りが、“肯定”や「自己愛」という言葉をめぐる混乱と合致しているので、理解の助けになると考えます。
 さて、どこが破綻しているかといいますと、“特別なONLY ONE”という部分です。
 この曲の歌詞全体を見てみますと
 “この中でどれが一番だなんて、争う事もしないで”“どうしてこうも比べたがる 一人一人違うのにその中で一番になりたがる”と言うように、個人個人を比較する以前の段階(比較不能の段階)で認めようとするメッセージを伝えようとしていると解釈できます。
 にもかかわらず、“特別な”“ONLY ONE”という比較を前提とした言葉を最後の最も重要な部分で使ってしまっています
 “特別”というのは、文字通り、他とは“特”に“別”であることです。比較表現の最たるものです。
 “ONLY ONE”とは“ONE”であること、一つしかないことを意味し、一つしかないことに価値を求める発想です。一つしかないことに価値を求めるということは、一つではないと価値がないことを意味します。そして、一つしかないといっても、ただ一つしかないことには価値は生まれず、それが求められる・需要があるのに一つしかないことに価値を見出すことを意味します。“ONE”という数詞を使っている段階で、数という抽象化の最たるものを使った段階で、比較以前の話にはならないのです。(※2)
 比較する以前の段階、比較不能の段階での個人を認めることは、フロムの言う“肯定”の概念と一致すると考えられます。
 要は、自分が存在するということだけ、それのみを根拠として、自分を“肯定”する発想です。 “ONLY ONE”という間違った言葉の代わりに入れるとしたら、“ONLY BEING”でしょう。
 ただ“BEING”(在ること)によって“BEING”(在ること)を認める・受け入れる、それが“肯定”です(在ること・生きるということ、というこれ以上遡りえない事実の“肯定”)。
 その“肯定”が与えられること、保育者によって与えられた“肯定”によって、自分自身で自分を“肯定”できること、それがフロムの言う「自分自身を愛する」ことであり、それがないと他人を愛することができないと言うのです。(自分の在ること・生きることに“肯定”感がないと、その自分のうちの空虚感・安心感を埋め合わせるために必死になってしまい、他者を“肯定”する余裕がなくなる)
 
 歌詞の最後の破綻によって『世界で一つだけの花』は、聞いた人を混乱させてしまいました。
 まず、歌っている当人(SMAP)のメンバーが「ONLY ONEになるように努力するべきだ」と言ってみたり、国会議員がこの歌を持ち出して若者を非難する発言をしたと、記憶しています。(※3)
 彼らは、“特別な”と“ONLY ONE”という最も重要な言葉の間違いと歌詞全体のメッセージ(比較以前・不能の段階での話し)の矛盾によって混乱し、あたかもこの曲が「幼児的な全能感」を認めるかのような誤解を持ってしまった(最後の間違った歌詞に影響された)のでしょう。
 そして、この様な誤解は、はっきりと意識されないものの、かなりの人が持っているのではないでしょうか。“もともと特別”など、世襲制の天皇家や王家、一部の天才くらいだというのは、落ち着いて考えれば分かるはずですし、もしそこに奇妙さを感じなければ、それこそが「幼児的な自己愛」だと言えます。カーンバーグの示したように、非現実的で、正当な自己評価を欠きます。
 曖昧な誤解となし崩し的な受け入れが同時にあったのでしょう。
 このなし崩し的な受け入れ、その年最大のヒットを生んだ程の需要が現代社会にあることは看過できないものです。
 さらに、ストーカーは現代の犯罪であり、その心理類型の一つであるパーソナリティ障害も現代の疾患であることから、関係は否定できません。

 つまり、“肯定”感の不足です。
 特に、子供を取り巻く環境での“肯定”感不足は深刻かもしれません。
 現在の文科大臣は“ゆとり教育”が大嫌いなようで、競争を教育に復活させることが信念のような人ですが、ある意味で正しく、ある意味で間違っていると私は考えます。
 つまり、“肯定”感というのは、比較以前・不能の段階の話ですから、競争とは次元の違う話です。順番としては“肯定”が競争の先になりますので、学校で“肯定”を目指すならまずは競争は後回しになります。
 しかし、社会の準備段階での学校教育に競争がない、特に運動会で順位を付けないなどというのは馬鹿げていますし、学校教育の役割を放棄しています。
 学校は学科や体育などの教育が第一で、教員もその訓練を受けてきています。学科や体育を集団の中でやることで、他者の中の自分を認識する、比較や競争の場、そこでの試行錯誤を通じて“No 1”や“ONLY ONE”を探る場です。
 しかし、“肯定”感、「自己愛」がない(“ONLY BEING”を認められる経験がない)と「健全な自己愛」へ育たないように、競争をする、他との比較に耐えるためにも“肯定”感や「自己愛」が必要になります。
 それが不十分な子供が、単一の価値観による競争の覆う社会で生きれば、不安や恐怖ばかりが強調されて、「幼児的な自己愛」への逃避へとつながると考えられます。
 競争のように他との比較がなくとも、やはり全能感がそのままになり「幼児的な自己愛」につながると考えられます。
 どちらもパーソナリティ障害の養育環境要因として挙げられているものです。
 この学校が学校でいられない社会、子供が子供でいられない社会が現代の犯罪と現代の疾患を生むのに重要な役割を果たしていると考えることは少なくとも否定はできないでしょう
 
 最近、この人生への“肯定”感の不足を埋め合わせようと、“肯定”を与えてくれる実際の保育者に代えて、国家を持ち出されようとしています。家庭も、学校も、会社も、与えることができなくなった“肯定”感を国家によって補償しようとするように、私には見えます。
 戦前に、天皇が国民の父親であり、国民はその赤子であるというのと同じです。

 「自己愛」をめぐる混乱、『世界で一つだけの花』の破綻、これらを認識し整理し、手を打たなくては、国家意識の宣揚を激化させ、かなり危険な状況をもたらすでしょう。
“肯定”感不足の不安感を紛らわし、埋め合わせようと、過去の汚点をなかったものとしたり、過剰に過去を賛美したりする、複雑で、汚れたり・ぼやけたり・輝いたりを併せ持つ、光を当てる角度や見る位置で違う歴史の中の汚点を拒絶し、輝きだけを見ようとする「幼児的な自己愛」に浸ろうとするこの流れに呑まれれば、非現実的で誇大的な政策が内外ともに対してなされ、結局、過去を繰り返すことになるはずです


※)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)井上果子 松井豊著
※1)『愛するということ』(紀伊国屋書店)エーリッヒ・フロム
※2)この曲の歌詞にはもう一点、おかしなところがあります
 それは、人を花に例える部分です。人には色々な人がいて、誰一人同じ人がいないことを表すのに、“いろんな花”“違う種”と花の中の様々な種類と人間の一人一人の違いを持ち出していますが、これは傲慢です。
 人間を花に例えるなら、花の中でも向日葵なら向日葵、コスモスならコスモスと一つの種に収めて例えなくてはなりません。同じコスモスでも、一つ一つが別の存在であり、(市場的な)価値とは関係なく(むしろ市場的にはマイナスでも)違いがある。同じコスモスという種類でも、一輪一輪の花弁の大きさや形や並びの違い、丈の高低や、葉の付き方の違い、それらの違いが人間の一人一人の違いに相当するのです。そのようなコスモスならコスモスという一種の中で、殆ど見分けがつかないし、市場的には意味のない、無価値な差異を持ちながら、生きること・在ることの“肯定”を歌わなくてはならないのに、花の種類の違いと人間一人一人の違いを重ねて逃げています。
 人間を花という植物に例えて謙虚な、「人間も自然の一部にすぎない」との主張を採るふりをして、花の種類の違いと人間という一種の中の違いを重ねるという傲慢さ、人間中心主義を露呈しています。
※3)この二つの発言の記憶は、本当に記憶であって、何らかの記録を参照していません。
  間違いなどの指摘がありましたら、謝罪して、訂正をするつもりです。
 

 
 
 
 
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by sleepless_night | 2005-07-30 11:15 | ストーカー関連

ストーカーの心理/人格障害編part3 自己愛性・反社会性

 ストーカーの心理類型(3)非精神病系の残り、(3-2)自己愛性パーソナリティ障害(3-3)反社会性パーソナリティ障害について一気に済ませます。
 ストーカーの心理類型について述べてきたこれまでと同様に、以下は医療情報を含みます。注などの書籍に基づく記述ですが、参考に止めてください
 DSM(『精神疾患の診断・統計のマニュアル』)の扱い方の注意、意義・問題点・位置などについてもストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前にを(太文字だけでも)参照ください。

(3-2)自己愛性パーソナリティ障害(※)
 自己愛性パーソナリティ障害は文字通り、「自己愛」的なパーソナリティによって引き起こされる「障害」です。
 そもそも「自己愛」とは何かという問題を問うことは、ストーカー問題の帰結であり、その後の異性関係(同性愛なら同性関係)についての本論の序章になりますが、ここでは自己愛性パーソナリティ障害の説明に必要な精神分析学の範囲に収めます。
 前回・前々回の境界性パーソナリティ障害で述べたように、幼児は最初、自分と他者や周囲の世界との区別が付かない(自分=世界)認識を持ち、徐々に自分と他者は別の存在であることや、それ故に、自分の欲求は常に満たされるわけではないことなどを学んでいくと考えられています。
 つまり、幼児は最初の段階では、自分は何でもできる、自分の欲求は全て満たされるという認識状態にありると考えられます。
 この状態は自分=世界ですので、自分の欲求が全て満たされると言うことは、自分の何でもできる力で自分の欲求を全て満たす(と認識している)状態と言えます。自分(=世界)の全ての感情・欲求が全て自分(=世界)へ向かい・完結する、自分で自分を愛するということで「自己愛」と名付けられると考えられます。(※1)
 簡単に言えば、幼児的な万能感に強く支配されたパーソナリティだと言えると考えられます。
 DSMの診断基準で具体的な特徴を見てみますと

[診断基準]
誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人早期までに始まり、種々の譲許であきらかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上によって示される。
(1)自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇示する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
(2)限りない成功、権力、才能、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
(3)自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
(4)過剰な賞賛を求める。
(5)特権意識、つまり、有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由無く期待する。
(6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
(8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
(9)尊大で傲慢な行動、または態度

となっています。
 どうしてこのような偏りがパーソナリティに生じたかは、他のパーソナリティ障害同様に特定されていませんが、やはり、育成環境に注目する専門家が多いようです。(※2)
 「自己愛」についての上述にある通り、幼児期は自他の区別が付かず、万能感の支配する世界だと考えられますが、それが保育者などの他者との関係の中で徐々に、自他の区別などを学ぶと考えられています。その過程で、幼児は保育者によって作られた安心できる環境の中、自分と他者の分離の認識という不安・恐怖を経験すると考えられるのですが、そこでは、保育者が幼児がもともとの万能感を上手く利用できるようにすることが必要だと考えられています。 
 即ち、幼児の言動を褒めたり、出来たことを反芻するように確認することで幼児が「自分はできる」という自信の源として利用できるようにすると同時に、その万能感が万能感のままでないように大人となることの手本(幼児が自分の力を向けようとする先・自分もなろうとする目標)を示すことが求められると考えられています。その過程が十分に保育的でなく安心感がなかった場合は、幼児的な自分=世界の認識に逃避したり、手本のような存在がない場合には、幼児的な自己愛(万能感)段階で留まったままになると考えられます。
 そのような保育環境が、幼児的を万能感(自己愛、自分=世界)段階に残留させ、誇大感、それに基づく特権意識や傲慢な態度、他者を自分の才能や偉大さを映す鏡のようにしか扱えないで利用する共感性のなさ、自他の区別に基づく他者の尊重の欠如、自分の誇大性を傷つけるような他者への嫉妬や妄想を生じさせると言うことです。
 
 このような自己愛性パーソナリティ障害が、どうしてストーカーの心理類型の一つとなるかは理解できるでしょう。(※3)
 幼児的な万能感のために、相手を相手として認めるのではなく、自分の偉大さや才能の映し鏡のように利用したり、自分のアクセサリーのように利用する、それが満たされなれないと、過剰なまでに怒りをもち、自分の欲求の正当性の確信や、それに基づく妄想(本当は自分のことを愛しているのだ・相手は能力が低くてまだ自分の良さを分からないだけだ)などによってストーキングに至る。
 ストーカーという犯罪の支配性という特徴と幼児的な自己愛(万能感)が一致してしまうと考えられます
 特に、自己愛性パーソナリティ障害の特徴である、誇大性や特権意識というのは幼児期の意識に属すると考えられ、脆弱性があるので、拒絶や非難に弱く、防御的に過剰反応すると考えられます。
 したがって、不幸にして周囲にアドバイスできる人やマネージメントしてくれる人がいない場合で、相手に拒絶された場合にはかなり厳しい事態を招くと考えられます。(※4)

(3-3)反社会性パーソナリティ障害
 パーソナリティ障害は現代の病、二十世紀が統合失調症の世紀だと言われるのに対して、二十一世紀はパーソナリティ障害の世紀であると言われる存在の中でも、特異で古典的な感じを持ちます。
 なぜ、そのように感じるかは診断基準をご覧頂くと理解されると思いますので、さっそく挙げます。

[診断基準]
A他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以降起こっており、以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)法にかなう行動と言う点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
(2)人をだます傾向。これは繰り返し嘘をつくとと、偽名を使うこと、または自分の利益や快楽のために人をだますことによって示される。
(3)衝動性または将来の計画を立てられないこと。
(4)いらだたしさおよび攻撃性。これは身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
(5)自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
(6)一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
(7)良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりするこによって示される。
Bその人はすくなくとも18歳である。
C15歳以前に発症した行為障害の証拠がある。
D反社会的な行為が起きるのは、統合失調症や躁病エピソードの経過中のみではない。

 これは、犯罪者や文字通り反社会的とされる組織に属したり、行動を起こしたりする人にパーソナリティ障害の名前を付けてみただけといっても過言ではないと言えるでしょう。
 この基準のAのどれをとっても、他者の法益(法律によって守られる利益。例:生命身体財産)の侵害の危険を想定できるものです。
 反社会性パーソナリティ障害以外のパーソナリティ障害の診断基準で、このようなものは他にありません。そもそも、パーソナリティ障害は、精神病ではないが、著しく偏った思考や行動のために生活で頻繁に重大な支障や軋轢が生じることで主観的な困難をかかえる人を想定しているとされる(パーソナリティ障害の全般的診断基準を参照。本人が苦しことが中心であって、)のに、反社会性パーソナリティ障害は本人の主観的苦痛ではおさまらず、他者の法益まで侵害することを診断基準にいれている特異な存在です
 『人格障害かもしれない』(磯部潮著)ではこう記しています“B群の反社会性人格障害を除く三つの人格障害は罪を犯すといっても、自暴自棄になって、違法ドラックにおぼれたり、売春行為をしたりするようなケースがほとんどです。中略。自分自身を破滅に至らしめるような罪を犯しても、他人に直接危害を加えることは少なく、それどころか、自分自身を直接的に傷つけてしまうのです。”
 このように、反社会性パーソナリティ障害だけは扱いが別だと考えるのが妥当で、このパーソナリティ障害の心理類型のストーカーの場合には、対処を他の心理類型以上にしっかりと(特に、行政への働きかけを)しないと危険だと考えられます。(対処法なども、まとめて後に出します。)

 反社会性パーソナリティ障害の原因も特定されていませんが、養育環境に注目する説では、養育者との人間的な接触や愛着が欠如していたことで他者への共感性が獲得できなかったり、手本として適切な人物がいなかったことや手本としていた人物がその役割を破綻させてしまったことなどが考えられています。
 このように、反社会的パーソナリティ障害は現代に現れた特徴的な存在というよりも、古典的な“極道”の世界(の育成環境)にも通じる存在に感じられます。

 反社会性パーソナリティ障害を持った人がストーカーとなった場合は、その外の心理類型とは異なった支配性があると考えられます。つまり、他の心理類型では自分の妄想の世界や自分の万能感の支配する世界を満たされたものとするため(満たされなかったときの怒りもありますが、基本的には満たそうとする欲求があってストーカーを行う(幼児期の満たされなかった感情欲求を満たそうとする、ある種の湿っぽさがある)と考えられますが、反社会性パーソナリティ障害を持った人の場合、搾取的で操作的な要素があり、ある種の乾いた乱暴さが支配性の中にあると考えられます

 以上で、心理類型の説明を終了し、次回ストーカーとは何か?/心理類型と行為・関係類型のクロスに行為・関係類型との関係を示します。

※)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)と『パーソナリティ障害』(PHP新書)
  『ナルシズム』(講談社現代新書)をベースにまとめています。
※1)「自己愛」はリビドー(性的欲動)の対象が自他未分離な自分であることを意味するので、本来なら、「愛」ではなく「欲求の向かう先」と言った言葉が適切なのでしょうが、概念の輸入時の翻訳で「愛」とされているのでそのまま使います。補論で述べますが、この曖昧な訳語の導入で、「自分を愛すること」の意味の混乱が生じて、分かりにくかったり、誤解がまかり通ってしまっているのでしょう。
※2)『人格障害』(至文堂)
※3)パーソナリティ障害の全般的診断基準でも、境界性パーソナリティ障害でも繰り返し述べましたが、母数が膨大(百万人単位)なので、原因として自己愛性パーソナリティ障害があっても、自己愛性パーソナリティ障害を持つ人がストーカーになる可能性が高いと言えることはありません
 また、自己愛性パーソナリティ障害自体が、自己愛の病理は精神疾患を持っている人に共通する要素なので独自に設けることが疑問視され、削除するか争われた概念です。
 自己愛性パーソナリティ障害自体を認めても、上述したように、自己愛性パーソナリティ障害を持つ人は、脆弱な自己愛を守るために他者との深い接触を望まない場合もあり、ストーカーとなることにマイナスの要素も抱えています。
※4)芸術家の中には自己愛性パーソナリティ障害を推測される人が指摘されていますし、前衛的だったり、耽美的である作品を作るには、その要素が必要とも考えられます。
 その際、生活面での低い対応能力をサポートしてくれる存在、上手く外部とのマネージメントを担ってくれる存在があると才能(があったなら)を大成できるとの指摘があります。(『パーソナリティ障害』岡田尊司著)


 
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by sleepless_night | 2005-07-29 21:20 | ストーカー関連

アダルト・チルドレンとの関係/ストーカーの心理 人格障害編part2補論

 ストーカーの心理/人格障害編 part2の※4が長くなるので別立てします。

 繰り返しますが、パーソナリティ障害を持つ人は百万人単位でいると推定されています。その膨大な人数と比較すれば、その中でストーカーとなる人は極少数の存在です。
 境界性パーソナリティ障害の診断基準を見て気付いた方もいらっしゃるかもしれませんが、境界性パーソナリティ障害とアダルト・チルドレン(AC)の概念はかなりの重なりが認められます。
 『アダルト・チルドレンと家族』(斉藤学著)は、精神医学との関連でPTSDを持ち出しています。PTSDとは心的外傷後ストレス障害の略称で、災害や事故の報道があるたびに、必ずといっていいほど出る名称です。外傷後ストレス障害は気分障害に含まれ、DSMでは“気分障害または不安障害のエピソード中にパーソナリティ障害の診断を下す場合には注意しなくてはならないが、それは、これらの状態が、横断面的にはパーソナリティ傾向に似た病像を示すことがあり、その人の長期的な機能の様式を後方視的に評価することが困難になるからである。”と混同への注意を促していますが、心的外傷がパーソナリティに影響を及ぼすことや、境界性パーソナリティ障害の家族発現様式には物質関連障害(アルコール依存も入る)があることから、ACと境界性パーソナリティ障害の関連性も指摘されています。(『人格障害』心的外傷と人格障害、依存と人格障害)また、町沢静雄(精神科医・立教大教授)の「アダルト・チルドレンは要するにボーダーラインと同じことを意味している」との発言が『人はなぜストーカーになるのか』(岩下久美子著)では紹介されています。
 アダルト・チルドレンはアルコール依存症の治療の現場の中から提唱され社会的な意味合いの強い概念(アダルト・チルドレン・オブ・アルコーリクス)ですが、拡大して機能不全家族(成人の精神安定機能・子供の保育機能が不全の家族)で育った人へも適用するようになった概念です(アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクション・ファミリー)。
 つまり、境界性パーソナリティ障害の原因の家族関係に注目するものとアダルト・チルドレンの原因とされるものは、幼児期の保育環境が幼児にとって安心できるものではなかった点で共通します。
 アダルト・チルドレンの特徴として『アダルト・チルドレンと家族』は以下のものを挙げます。
 ・周囲が期待しているように振舞おうとする    ・表情に乏しい
 ・何もしない完璧主義者である          ・楽しめない、遊べない
 ・尊大で誇大的な考え(や妄想)を抱えている   ・ふりをする
 ・「NO」が言えない               ・環境の変化を嫌う
 ・しがみつきと愛情を混同する          ・他人の承認を渇望する
 ・被害妄想に陥りやす              ・自己処罰に嗜癖している
 ・抑うつ的で無力感を訴える           ・離人感が伴いやすい

 どうでしょう? どちらも育成時の安心感の欠如や自他分離の不具合を根拠としているために、特徴が重なります。
 安心感を与えられなかったので、自分と他者が違うことを認識するときの不安・恐怖に耐えられず分離を上手く受け入れられなかった。そのため、幼児の万能感(自分=世界のように、何でも欲求が満たされる感覚)が残り、不安感を埋めるために代替的に他者へ依存しようとしたり、常に誰かに承認されていないと耐えられず、承認を失うことを畏れて断れず、楽しくなくてもふりをしてごまかす、他者の欲求を自分の欲求とするので一人だと自発的な欲求が沸きにくく無力感を持ち、自分の欲求があっても外的評価による完ぺき主義のチェックのために行動に移せない、無力感や欲求不満から自傷行為やアルコールなどの物質に依存する、など、基本的に同じ症状を見せると特徴から解釈できます。 
 アダルト・チルドレンという概念を挟んでみると、境界性パーソナリティ障害のイメージが変わったもに見ることができるのではないでしょうか
 すなわち、パーソナリティ障害、「人格」の「障害」という否定的で、本人の道徳的な責任に結び付けられやすい(これは精神疾患一般に言えるのかもしれません)ものから、家族の機能不全の被害者という見方ができるようになると考えられます。
 “生きずらさ”を抱えた人たちに与えられ、社会に認知されたアダルト・チルドレンという言葉にパーソナリティ障害と言う否定的なニュアンスを持つ言葉を重ねることは、せっかくのアダルト・チルドレンという言葉の価値を下げるのではないかとも考えられますが、私は必ずしもこれが悪いことではないと考えます。
 『アダルト・チルドレンと家族』では“ハイヤーパワー”と言う宗教領域の言葉が治療に使われています。これはアルコール依存症を持つ人の救済・互助組織やACの療法技術が、キリスト教がコミュニティーや社会福祉団体で重要な役割を果たしているアメリカで発展したことと関係すると推測されます。これ自体が悪いとも思いませんが、宗教領域に入ることは宗教自体がもつ危険性にも触れると考えられますし、注意しないとカウンセリングが宗教化(カウンセラーや治療の理論が宗教の教祖や聖典的な扱いになるったり)してしまう恐れがあると考えます(宗教は倫理問題に関連してだいぶ後に触れます。宗教は心理学と同様に心に関連しますし、その力が非常に大きいため使い方を間違えると大変危険です。しかし、薬と同じで反作用が大きいと言うことは、効果も大きいですし、わざわざ捨るものでもないでしょう。ですが、良い関係を持つためも、それなりの知識や経験が必要だと考えます。その点、宗教を怖がったり馬鹿にしたりを、知識が無いのに、知識が無い故にしがちで、たまたま“引っかかった”宗教組織にあまりにも容易に没入してしまう日本人が少なくないように思え、カウンセリングで宗教領域のものを扱うことには多分に危険があると考えます)。ですので、アダルト・チルドレンを境界性パーソナリティ障害のような完全に精神医学の対象領域に捉えなおすことで、そう言った宗教領域の話や手段を持ち込まなくてもよくなり、リスクを回避できる点では、悪くないことだと考えます。
 アダルト・チルドレンとの重なりを指摘して被害者との視点を示しましたが、境界性パーソナリティ障害を持った人でストーカーとなった人の罪が軽くなるわけでも、同情するつもりもありませんが、アダルト・チルドレンとの共通という視点は否定的で全員が危険な存在とみなされがちなパーソナリティ障害を持つ人がいかに身近で、大多数が社会で(生ずらさを抱えながら)普通に生活しているかを理解するためには非常に適していると思います。

 ついでですが、パーソナリティ障害を持った人で社会的に成功している人も多くいると考えられています。
 これは、マザー・コンプレックスについてと同様になりますが、パーソナリティ障害を持つ人は、空虚感や不安感から逃れるため、満たすために依存対象の為に過剰な貢献をしようとすることがあると考えられるので、これは企業なり組織なりにとってみれば、忠実で有能な人材と映ります。また、これは一部の人間になりますが偉大な哲学者や宗教家、芸術家は境界性パーソナリティ障害の特徴である空虚感と同様の実存的な悩みを持ち、それを乗り越えることで歴史に残り、人々の考え付かなかったような思想や作品を生み出すことができたとも指摘されています。
 また、パーソナリティ障害を持つ人には魅力的な人が少なくないことも指摘されています
 それは、パーソナリティ障害を持つということは幼児・子供の時期の(万能感の反面の)純粋さを残していることや、パーソナリティ障害とはパーソナリティの偏りであり、偏りとは裏を返せば突出している部分、他の人には真似できない部分だと言えます。ですので、魅力的に映ることがあるようです。
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by sleepless_night | 2005-07-26 22:01 | ストーカー関連

ストーカーの心理/人格障害編 part2

 ストーカーの心理類型の(3)非精神病系、つまり、パーソナリティ障害(人格障害)を持った人がストーカーとなった場合の、今回は(3-1)境界性(3-2)自己愛性(3-3)反社会性という(3)の下位分類についてです。
 心理類型の(1)精神病系(2)パラノイド系(3)非精神病系の説明、使用するDSM(『精神疾患の統計・診断のマニュアル』)については、前回(ストーカーの心理/人格障害編 PART1)前々回(ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 )前々々回(ストーカーとは何か?/ストーカーの心理を問う前に)などをご覧下さい。
 
 以下の文章は注などの書籍に基づいた既述ですが、医療情報を含みますので、参考にとどめてください
 診断基準はDSM-Ⅳ-TR(『精神疾患の統計・診断のマニュアル』第四版新訂版)(医学書院)からの引用です。
 前回同様にDSMからの重要な引用を挙げた上で、文章を進めます。
 “DSM-Ⅳは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるように作成された精神疾患の分類である。診断カテゴリー、基準、解説の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要なことは、研修を受けていない人にDSM-Ⅳが機械的に用いられてはならないことである。DSM-Ⅳに取り入れられた各診断基準は指針として用いられるが、それは臨床判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるためのものではない。中略。このマニュアルに含まれる診断基準を有効に適用するためには、各診断基準群に含まれている情報を直接評価できるような面接が必要である。”
 DSMの診断基準を出すのは、ストーカー問題の理解の道具とするためであって、精神疾患をもつ人を排除・差別するためのものではありません。
 ここまでも、重ね重ね述べてきましたが、ストーカーの原因として精神病やパーソナリティ障害があることと、精神病やパーソナリティ障害を持つ人がストーカーになる可能性が高いことは全く違いますし、示してきたデーターがそれを裏づけています
 それらを念頭に置いた上で、ご覧下さい。

3-1)境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害)
 境界性パーソナリティ障害の属するB群はパーソナリティ障害の中核的な存在で、中でも境界性パーソナリティ障害はパーソナリティ障害の特徴を最も現すものだと言われています(※)。
 境界性パーソナリティ障害の「境界」と言う言葉は、パーソナリティ障害全体の歴史と繋がります。
 統合失調症の概念を生み出した十九世紀ドイツの精神科医E・クレペリンは正常と精神病の中間形態として人格異常という概念を生みます。対して、二十世紀ドイツの精神科医K・シュナイダーはパーソナリティの偏りと精神病を別次元で考え、精神病質という概念を生みます。
 それからも、はっきりと枠に捉えきれない患者に対して様々なアプローチや概念が生み出されてきた中で、二十世紀中盤にアメリカの精神科医R・ナイトがクレペリンの考えた中間状態を「境界(ボーダーライン)」と呼んだことが広まり、診断基準を整えようとする動きが出ます。しかし、捉え処のない・治療の効果が上らない患者を投げ入れるための「くずかご」となったような状態が続きます。
 やがて、現代アメリカの精神科医O・F・カーンバーグがナイトの「境界」概念を引き継ぎ、理論化します。但し、ナイトの考えたようなどっちつかずの中間状態と違い、一つのかなり広い範囲を含む人格構造としてです。
 また、現代アメリカの精神科医J・ガンダーソンはカーンバーグの理論的アプローチと違って経験的で観察可能なアプローチで「境界」という概念を明確化し、これがDSM-Ⅲに大きく影響します。
 現在の、境界性パーソナリティ障害の「境界」は、このようにパーソナリティ障害の複雑な歴史の直系的な位置にありますが、現在の境界性パーソナリティ障害の「境界」には、精神病とそうでない状態の中間という意味(クレペリンやナイトのような考え)はなく、名残のようなものです
 イメージを掴むためにも、境界性パーソナリティ障害の特徴を診断基準からみてみましょう。(注意・必ず前回の記事を太線だけでも読んで下さい。パーソナリティ障害の全般的診断基準や、パーソナリティ障害全般の前提知識無く個々の診断基準を読むと、間違った解釈をしてしまう可能性が高いと思います。)
[診断基準]
 対人関係、自己像、感情の不安定及び著しい衝動性の広範な様式で、成人早期までにはじまり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)現実に、または想像の上で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力。
(2)理想化とこきおろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人様式。
(3)同一性障害:著名で持続的な不安定な自己像または自己感
(4)自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも二つの領域に渡るもの。(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)
(5)自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し。
(6)顕著な気分反応性による感情不安定(例:通常は2~3時間継続し、2~3日以上継続することはまれない、エピソード的に起こる強い不快気分、いらだたしさ、または不安)
(7)慢性的な空虚感。
(8)不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)
(9)一過性のストレス関連性の妄想的観念または重篤な解離性症状。

となっています。
この基準を見ても分かりますし、DSM自体にも“自我同一性の問題をかかえた青年や若い成人たちは、一時的に境界性パーソナリティ障害であるかのような誤った印象を与えることがある。”との既述があるように、境界性パーソナリティ障害の症状は紛らわしいものと言えるでしょう。パーソナリティ障害の全般的診断基準にもあるように、パーソナリティ障害との診断を早期に出すことはできません。(※1)
 また、“この障害を持つ人の大部分は、30歳台や40歳台になれば、対人関係も職業面の機能もだいぶ安定してくる”と考えられていることも、このパーソナリティ障害を、そもそも精神医学の対象とするべきかという疑問を持たせる原因の一つであると言えるでしょう。
 
 診断基準で、イメージはつかめたと思いますので、境界性パーソナリティ障害を持つ人がどうしてそのようなパーソナリティの偏りを持つに至ったかについて話を進めます。
 境界性パーソナリティ障害の原因は(パーソナリティ障害全般でのべたように)特定されていませんが、境界例パーソナリティ障害を持つ人の育成環境(家族関係)に注目する専門家が多くいます。(※2)
 つまり、育成環境が与える人間の内面の成長過程への影響に重要な原因を見出しているのです。
 どういうことか簡単に述べますと。 
幼児は自分と他人の区別が付かない、自分=世界という万能感を持っていると考えられ、それが3歳位までの間に徐々に、両親を始めとする保育者が自分の欲求をいつも全て満たしてくれるわけではないこと、すなわち、自分と違う他人がいて、自分も他者から独立して存在していることを認識するようになると考えられています(勿論、こんな言語化して考えている・認識していると言うのではありません。但し、幼児の認識能力については様々な実験である程度の正確性で確認されています。)。
 そのような自分と他人という認識を持つ中で、自分と言う存在を把握する際に、最も身近な存在(保育者)を観て、人には時や状況によって様々な感情や側面があるが、一人の人間であることを学んだり、保護された環境あることの認識による安心感によって、幼児は保育者や世界から切り離された自分という存在を見つめ、自分を作り出そうとする力を発揮できるのだと考えられています。
 境界性パーソナリティ障害を持つ人の特徴として診断基準の(1)(3)(4)(5)(7)は、この環境の中で保育者が保護的な環境を作らなかったことと結びつく(※3)と考えられます。つまり、他者と自分が違うことを認識するという幼児にとって極めて不安定・不安・恐怖な状況で、十分に保護を与えられ無かったことで、人間関係で常にその満たされなかった安心感を求めて、安心を与えてくれる対象を求め・縋り付く、それでも根源的な安心が満たされず不安であるので、相手をコントロールしようとする(自殺の脅しは相手を自分に引きつけ、見捨てることをさせない手段となる)と考えられます。安心して自分を作ることに向かえなく、常に不安を感じ、相手に見捨てられまいとするので、自分が自分としてどう在りたいのかが不明確で、自分が把握できないために空虚感を持たざるを得ないと考えられます。その苦しみを自傷行為の苦しみで紛らわせたり、浪費やむちゃ食いなどを苦痛なまでにすることで人間関係で満たされない感情を代替的に満たして安心感を得たりすると考えられます(これは、自己と他者が違う存在であることの認識が上手くいかなかったことともつながるとも考えられます)。
 また、(2)(6)(8)は、自分と他者が違う存在であることを認識する時期に、上手く自他の分離ができずに、相手が様々な面を持つが一人の存在であることや、そのような他者とでは自分の思う通りには行かないことの認識が上手くいかなかったことと結びつくと考えられます
 つまり、他者は様々な面を持つが一人の人間であるということを受け入れられなかったため、複雑で曖昧な人間像を持つことに耐えられず、相手の良い面と悪い面を切り離してしまい、どちらも極端であるがゆえに、人物評価が激変する。(これは自分にも向けられ、安定した自己像を持てなくなる)また、自分と他者(世界)の切り離しが上手くできてないので、人間関係に自分の幼児期の万能感(自分=世界)を持ち込んでしまい、当然それは満たされないために不適切な激しい怒りを持つことになります。幼児のように何でもできるという状態と、現実には不可能であることから一気に無力感へと代わるので、感情も非常に不安定になると考えられます。

 この様な境界性パーソナリティ障害が、どうしてストーカーの大きな類型を占めるとされるのかは理解されるでしょう。(※4)
 満たされない空虚感、不安感から、出会って直に全面的に依存できる誰かを探してしまい、その人を過剰に美化してとらえ、それでも空虚や不安が消えないために、相手を強くコントロールしようとする。
 相手に拒絶されたり、欲求が満たされないと、逆に過剰に相手の人物評価を貶め、抑制できない怒りをもち、その感情を元に、相手をストーキングによってコントロールしようとすると考えられます。
 このように、境界性パーソナリティ障害の持つ悪い面がストーキングに嵌ってしまう、満たされない空虚感や不安感からの依存行為の結果が、支配というストーカーの特徴に嵌ってしまうと考えられます。そして、境界性パーソナリティ障害を持つ人の母数の多さ故に、その中のごく一部がストーカーであるにも関わらず、ストーカーの中でも大きな位置を占め、目だっててしまっているのでしょう。
 
 長さの都合で、次回アダルト・チルドレンとの関係/ストーカーの心理 人格障害編part2補論へ続きをまわします。

※)境界例パーソナリティ障害の歴史については、以下の書籍をまとめています。
 『人格障害かもしれない』(光文社新書)磯部潮
 『パーソナリティ障害』(PHP新書)岡田尊司
 『境界性人格障害の全て』(ヴォイス)J・J・クライスマン H・ストラウス著
※1)『人格障害かもしれない』と『人格障害』(至文堂)成田善弘編より
※2)繰り返しますが、パーソナリティ障害自体が家族関係を重視した精神分析学から生まれているので、家族関係を重視するのは当然となります。
 家族関係については、クラインやカーンバーグを中心の自他分離を『パーソナリティ障害』から、クラインやカーンバーグが取り入れた対象関係論をつかった解説を『境界性人格障害のすべて』から、『境界例と自己愛の障害』からも全般的な既述のヒントを得ています。ストーカーへの適用は、『屈折愛』や『人はなぜストーカーになるのか』と要旨を同じくしていますが、DSM基準自体から読み取れますので、直接の参照はありません。
※3)保護的な環境を作らなかったことと言うと、ネグレクト(育児放棄)などの虐待を中心に考えるかもしれませんが、過保護というのも虐待に含むとの考えもあります。
 つまり、保育者がいつまでも子供を自分の手元に置いておきたい、自分の思うようにいて欲しいために、幼児が自分自身を持つことを阻害する、いつまでも保育者へ依存するように自立の芽をつむことも含まれます。また、理想の押し付けも同様で、幼児や子供に自分の願望を投影して、その投影した像へ従うことを強制することも含まれます。
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by sleepless_night | 2005-07-26 21:09 | ストーカー関連

ストーカーの心理/人格障害編 PART1

 いよいよ、ストーカーの心理類型の本番ともいえる非精神病系に入ります。
 精神病系は、境界性・自己愛性・反社会性と三つに分類してあることでも分かるように、人格障害という精神疾患を持つ人がストーカーとなった場合を指しています。
 “最強のストーカー”(福島)、“現代的ストーカー”“ストーカーの内面を理解するためのモデルとして最も適切”(春日)、“ストーカーの中核となりうる人たち”(岩下)、“ストーカーもストーカー的人物も、精神的虐待行為をするような加害者は人格障害であることが圧倒的に多い”(小早川)、“精神病系以外の3グループに関しては、精神医学において人格障害という診断”“ストーカーの心理背景には、人格障害という様相が深く関わっていることを指摘しておきます”(高畠・渡辺)
 とストーカー関連の書籍でも人格障害について非常に重点を置いてあります。
 以前も、述べましたように、殆ど人格障害の解説書になってしまっているものまで見られるほどですし、ストーカーを見破るチェックリストと言ったものには人格障害の診断基準を混ぜて書き直したようなものがあります。
 
 さて、このストーカー問題で重視される人格障害について詳しい話へと入る前に、以下のことを述べておかなくてはなりません。(わけの分からない名称が多く出てきますが、とりあえず述べる趣旨はご理解いただけると思いますし、細かい話は措いて、太字だけ押さえて頂いてれば十分です。) 
 ストーカーの定義(ストーカーとは何か?/騒音オバサンと野口英世)でも述べましたように、熱心な片思いとストーカーを線引くものは、行為者が相手側の出したメッセージによって思考・行動を修正できるか否かだと考えるので、ストーカーとして法律の適用や措置を採ることを勧める場合、ストーカーには重軽の程度の差はあれ妄想があると考える、精神病や人格障害がある可能性が高いと考えるのは妥当でしょう。
 しかし、繰り返しますが、原因として精神病や人格障害があることと、精神病や人格障害を持つ人が高い確率でストーカーとなることは同じではありません。 
 前回ストーカーの心理/解説編 精神病系・パラノイド系 で述べたように、精神病を持つ人の全ストーカーに占める割合は0.6%です。
 それでは残りは、非精神病系となり、人格障害だと考えられるのだから、人格障害を持つ人はストーカーとなる可能性が高いのではないかと思うかもしれません。 
 しかし、人格障害を持つ(持つと考えられる)人の数は膨大です。
 正確な数字はありませんが、磯部潮(精神科医・臨床心理士・東京福祉大教授)は日本人の約500万人が何らかの人格障害をもっているのではないかと推定をしています。(※)アメリカでも約1000万人が持っていると推定がありますので、人口比から一致します。
 又、DSM-Ⅳ-TR(『精神疾患の診断・統計マニュアル』第四版改訂版)では、人口における人格障害各分類の有病率について以下の数字を出しています(人格障害は10分類あります)。
 妄想性人格障害:0.5~2.4% シゾイド人格障害:不明 失調性人格障害:3% 反社会性人格障害:3~4% 境界性人格障害2% 演技性人格障害:2~3% 自己愛性人格障害:2~16% 回避性人格障害:0.5~1% 依存性人格障害:不明だが多い 強迫性人格障害:1% 
 一人の人物で重なって診断される場合もありますので、総計でどの程度かは不明ですが、少なくとも日本にも100万人単位で持っている人がいると考えられているのが、人格障害という疾患です。 
 ストーカーは警察統計でも年間一万数千人です。しかも禁止命令や警告などの強制力を伴う措置を生じさせたのは、一千数百件です。この統計にカウントされていない被害があると考えるのは当然ですが、そうだとしても人格障害を持つ(持つと考えられる)人たちの全体の人数と比較してみれば、人格障害⇒ストーカーと考えることが不当で偏見によるものであるのは理解されると思います。(※1)
 さらに、人格障害を持つ(と考えられる)人は女性が男性の2~3倍だと言われている(※2)のに対して、ストーカーは男性が8~9割を占めています。このことからも、人格障害を持つことと、ストーカーになることは同じではないと理解できると思います。(但し、男性はストーカーの多数を占めるのに、人格障害では少数派であるのなら、人格障害をもった男性がストーカーとなる可能性は高いのでは?とも考えられます。しかし、人格障害が百万単位の人数であるに対して危険なストーキングを行い強制力のある措置を取られた人が一千数百人なのには圧倒的な差があります。理論上は相対的に高くなりますが、全体を見れば可能性が高いとは決して言えません ※3)
 加えて、DSMというマニュアルについての話(「ストーカーの心理を問う前に」)で述べましたように、人格障害自体を診断のマニュアルに入れること、人格障害という診断に根拠を与えるようになったこと自体に大きな疑問を寄せられています。
 人格障害は精神分析学という心理学の一分野の影響を強く受け成立した歴史もありますので、精神分析学自体への疑問点も同様に意識されなくてはなりません。
 また、何か問題を起こした人、犯罪を犯した人、などに精神病や人格障害というレッテルを貼ること、精神医学(や心理学)という学問によってお墨付きを与えることで、「私達とは別の人間で、私達とは関係ない人たちだ。」との印象を与え、「心の闇」と呼んで、呼ぶ側の安心感を維持しようとする傾向が見られます。
 人格障害はその概念自体に疑問を投げかけられ、また、人格障害という診断が妥当なものだとしても当てはまる人の多さから特殊な問題ではない、非常に一般的で日常的な視点を必要とする(わが身に引き寄せて考える、自分もそうかもしれないと考えるべき)ものだと言えると思います。このことについては詳しく、ストーカー問題についての一連の帰結で述べます。
 
 では、ストーカーの心理類型の(3)非精神病系について述べます。
 今回も前回同様にDSMの診断基準を引用します。これは、繰り返しますが、ストーカーの分析・理解のため、特に人格障害の診断基準はストーカーを見破るチェックリストとの比較をしていただく際に必要であることから引用を出すのであって、差別や排除の道具ではありません。また、注に提示した資料に基づいた記述ですが、医療情報ですので、参考に止めてください。
 さらに、前回も出しました注意書きを再度提示します。
 “DSM-Ⅳは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるよう作成された精神疾患の分類である。診断カテゴリー、基準、開設の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要なことは、研修を受けていない人にDSM-Ⅳが機械的に用いられてはならないことである。DSM-Ⅳに取り入れられた各診断基準は指針として用いられるが、それは臨床判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるためのものではない。中略。このマニュアルに含まれる診断基準を有効に適用するためには、各診断基準群に含まれている情報を直接評価できるような面接が必要である”(序・臨床診断の活用より)

(3)非精神病系
 先程から長々と人格障害と述べてきましたが、どうしてこれが非精神病なのか?と疑問に思うでしょう。
 精神病という言葉自体も幾つかの使われ方の違いがあり、それに対して「非」というのですから、非精神病という言葉にも違いが出てきてしまいます。
 大雑把になってしまいますが、どうして非精神病と言われるかというと、それが人格の障害だからだと考えられます。つまり、病気というのは、病気になった人には健康な状態、病気ではない状態があり、それがその人の通常の状態ですが、人格障害を持つ人の場合は、そうではなく、人格障害を持った状態こそがその人の通常の状態だと考えられるのです。
 したがって、病気とは呼ばないと考えられるのです。
 では、人格障害とは何か?
 DSMは“その人の属する文化から期待されるものから著しく偏り、広範でかつ柔軟性がなく、青年期または成人期早期に始まり、長期にわたり安定しており、苦痛または障害を引き起こす、内的体験および行動の持続的態様”としています。
 分かりやすく逐語で説明しますと、人格とは“環境と自己に関する知覚、関係、および思考の永続的な様式”とDSMは定義しています。つまり、成長し・経験をする中で作られてきたその人の性質を「人格」と呼んでいると考えられます。ですので、人格障害は基本的に18歳以下の人には診断されません(※4)
 そして、その「人格」に「障害」があるとは、その「人格」の持ち主が生活する環境で重大な軋轢を頻繁に起こし、その人自身も苦痛である程の場合を指していると考えられます。
 まとめますと、著しく偏った思考や行動の為に生活で軋轢・支障が生じさせ苦痛を持つ人が人格障害を持っている人だと言えると考えます。
 但し、二つ注意点があります
 一つは、「人格」という日本語だと、思考や行動の偏りの為に軋轢・支障をきたすという現実的な問題以上に、その人の道徳的・倫理的な側面にまで踏み込んで「障害」があると見做される恐れがあるので、以下、「人格障害」ではなくパーソナリティ障害とします。DSMもこちらを採用しています。
 二つ目に、上記の定義を読んで頂いて理解されると思いますが、パーソナリティ障害、つまり、「偏っている」か否かという判断はその人の生きる社会状況・時代に大きく依存します。一つ目の注意点で述べましたことと関係しますが、パーソナリティ障害とは、パーソナリティ障害を持つ人の内面ではなく、その人と周囲との関係の問題に重点があると考えらるのです。但し、いかなる状況・時代であっても軋轢・支障をきたすようなパーソナリティには共通性が見られるとは考えられます。それでも、パーソナリティ障害だとの判断には非常に幅や曖昧さは認めざるを得ないと思います。

 パーソナリティ障害の原因は特定されていません。
 遺伝との関係も指摘されています。人格障害という概念自体が精神分析学の影響で生み出されていることとも関係して、その人の育成環境に注目する説もありますが、この説をとっても家庭だけを指すことは不可能で、広く社会全体の環境を問題にされます。また、脳内物質のアンバランスさや神経系の障害との関係も考えられています。どれか一つというのではなく、複合的な要素が相俟っていると考えるのが妥当なようです。(※5)

 パーソナリティ障害は前述したように10分類に分かれます。
 この10分類は3群に分けられます。
 奇妙で風変わりなことが多いA群:妄想性、シゾイド、失調性
 情緒的で移り気に見え、行動予測が困難なB群:反社会性、境界性、演技性、自己愛性
 不安や恐怖を感じているように見えることが多いC群:回避性、依存性、強迫性
 
 このようなパーソナリティ障害の全般的(個々の分類ではなく、パーソナリティ障害という大本の分類かの)診断基準を以下に引用します。

A.その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った、内的経験および行動の持続的様式。この様式は以下の領域の2つ(またはそれ以上)の領域に現れる。
(1)認知(すなわち、自己、他者、および出来事を知覚し解釈する仕方)
(2)感情性(すなわち、情動反応の範囲、強さ、不安定性、および適切さ)
(3)対人関係機能
(4)衝動の制御
B.その持続的様式は柔軟性がなく、個人的および社会的状況の幅広い範囲に広がっている。
C.その持続的様式が、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な療育における機能の障害を引き起こしている。
D.その持続的様式は安定し、長期間続いており、その始まりは少なくとも青年期または成人期早期にまでさかのぼることができる。
E.その持続的様式は、他の精神疾患の表れ、またはその結果では上手く説明されない。
F.その持続的様式は、物質(例:薬物乱用、投薬)または一般身体疾患(例:頭部外傷)の直接的な生理学的作用によるものではない。
 
 おそらく、この全般的診断基準で大体のイメージはつかめると思いますが、具体的には難しいでしょう。
 この診断基準にもあるように、人格障害との診断は他の精神疾患では説明できないものであるので、その他の精神疾患について知らないと判断できません、また、診断にあたっては長期に渡る評価が必要とされるので、即断できるものでもありません。

 次回ストーカーの心理/人格障害編 part2にストーカーの心理分類(3)非精神病系の-1)-2)-3)の個々の解説を出します。
そちらの方がストーカーの心理分類としての具体的イメージが持ちやすいでしょう。

※)『人格障害かもしれない』(光文社新書)磯部潮著
※1)警察の統計ということは、ストーカー規正法の定義のように、恋愛・好意感情という限定がかかりますが、ストーカーの加害者の8~9割が男性であることは海外でも同様です(『ストーカーの心理』ミューレンら共著)すので、比較として妥当だと考えます。
※2)『境界性人格障害のすべて』(ヴォイス)J・J・クライスマン、H・ストラウス著 白川貴子訳 星野仁彦監修
※3)これはあくまでも統計という数字上の問題を使って、いかに精神病や人格障害とストーカーを同一視することが間違ったものかを示すための記述です。ストーカー被害を甘くみたり、ましてやその一件一件を軽く見ているのではありません。たとえ、ストーカー被害が一件しかなくとも、その一件を受けた人にとってはそれが全てです。ほかがどれ程少なくとも関係はありません。 それでも、精神病や人格障害は偏見を伴いやすく、まして犯罪者がそうだった場合、全体が危険だと見做される恐れがありますので、このように述べているのです。
※4)18歳以下の場合は一年以上の特徴の持続がないと診断しない。さらに、反社会性パーソナリティ障害は18歳以下では診断を下せない。(『DSM-Ⅳ-TR』)
※5)『境界例と自己愛の障害』(サイエンス社)井上果子 松井豊共著 
  『パーソナリティ障害』(PHP新書)岡田尊司著
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by sleepless_night | 2005-07-23 23:00 | ストーカー関連