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カテゴリ:血液型関連( 5 )

血液型占いが無くなる日

 前回、“血液型占い”が話題として出された場合に、どういった対処をすることが適切で有効なものかを述べました。
 しかし、このような対処法を考えるまでも無く、社会の変化によって広義の“血液型占い”に含まれる血液型性格判断は廃れる可能性が高いと私は考えます。
 
 推測の理由は、血液型性格判断が日本や韓国などのごく一部の国でしか広まっていないことと関係します。
 日本などのごく一部でしか血液型性格判断が浸透していないのは、他の多くの国・地域では、血液型という調べなくてはわからない程度の差異よりも見てすぐにわかる外見の差異(皮膚・目・髪など)や、性格の差異以上に深刻で歴史的な信仰による差異があるからだと考えれます。
   
 血液型占いに反論するモテないのか?で述べたように現在の血液型性格判断の発信源である能見は古川竹二のリバイバルを行ったのですが、これが成功し、血液型と性格の関係が広く受け入れられた(ている)のは、血液型占いに反論するとモテないのか? part2血液型占いに反論するとモテないのか? part3で述べたのとは別に、時期的な要素が大きく寄与したと推測します。
 つまり、能見がリバイバルを起こした1970年とは、日本の第二次郊外化が進んだ年だということが寄与したと考えるのです。(※)

 第二次郊外化とは、1950年代から始まった日本住宅公団が発売した団地を生活の場とし、男性がサラリーマンとして稼ぎ、女性が専業主婦として家事育児を担い、電化された家財を消費し、「文化的生活」を営むことを理想とした第一次郊外化の後に来た現象を指します。
 第二次は第一次が「文化的生活」を目指した夢やそれに向かう充実感があったのに比べて、それらがある程度達成され風化した状態を指し、団地のような雑多さが無くなり均一化したニュータウンに象徴されます。
 均一化したニュータウンでは、隣と自分には目立った違いはなく、そのためにかえって小さな差異をつけることに集中する傾向が生じたと指摘されます。
表面上の均一の下で、隣よりもいい車、いい家財を揃えること、隣の夫よりも自分の夫が出世すること、子供を偏差値の高い学校へ入れることに集中する、それも突出しない程度の優位差をつけようとする努力がなされる(突出する違いは叩かれる)。

 血液型性格判断が日本やごく一部でしか浸透していないことが、差異への欲望を消化できる目だった目標の無さに大きく依拠するならば、日本の1970年代は血液型性格判断の発展にとって絶好機だったと言えます。(※1)

 そして、現在、社会が大きく変わろうとしています。
一つは、社会の階層化。もう一つは、人口減少です。

 一つ目、社会が階層化すれば、その階層は目立った差異として、人々の差異への欲望を消化する端的な目標となるでしょう。
上層の人間と下層の人間がはっきりと分化したとして、上層の人間の~型と下層の人間の~型が同じだとされるメンタリティには相当の抵抗が生じるはずです。

 もう一つ、人口減少ですが、これにより人口規模を維持するためだけにも年間数十万人の移民を受け入れなくてはならなくなります。
どんな意識を日本人がもつのであれ、経済を維持することを考えれば、移民を現在以上に受け入れる必要があります。
 そうすると、殆どの日本人が、外見の違いを持った人々、目に見える差異をもった人々と生活で不可避的に接することになりますので、血液型のような目に見えない差異にわざわざ注目する意欲は低減されると考えられます。

 それぞれの人自体に向き合うことで判断するのではなく、偏見やステレオタイプで判断しようとすることは、血液型性格判断が廃れても、次々に対象を変えて存在するでしょう。

 しかし、私は血液型性格判断に向かう時よりも、人種や国籍や階級による偏見やステレオタイプに対する方が気が楽に感じます。
 もちろん、それらが軽いというのではありません。
 結果としては、それらのほうが苛烈です。
 ただ、血液型性格判断があまりに面倒で、うんざりするような固着の仕方をしているのです。

 社会が上記のような変化を見せたとき、「遊び」で血液型性格判断を受け入れる態度、人を「科学的」な差異で判断しようとする姿勢が、どれほど悲惨で低劣な差別行為をさせるのか・させてきたのか・繋がっているのかを、身をもって学ばなければならないのかもしれません。



E・フロムの機械的画一化による「自由からの逃走」に関して⇒「ばらばらにされた一人一人」にできること。
科学の装いをした根拠による差別に関して⇒殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド


※)『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者達の行方』(朝日新聞社)宮台真司著
※1)能見正比古が血液型性格判断について出版しようとしたきっかけは、師匠である大宅壮一に「血液型をやると儲かる」といわれたからだという大村政男の指摘もあります。
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by sleepless_night | 2005-11-03 09:00 | 血液型関連

血液型占いにどう対処するか?

 “血液型占い”に抗いたい、しかし、抗うことでその場の「空気」を読めない人間だと思われる、野暮な人間だと思われるのが怖い。
 遊びだったり、軽い話題作りなのだから“血液型占い”(当てっこ)をしたっていいじゃないか。
 この場で相手に反論したところで、どうなるわけでもないのだ。
 
 それでも、ABO式血液型で人をどうこう言うことなどナンセンスだし、生得的な要素で根拠もなく人を判断する遊びなどしたくない。
 何か上手い手はないものか。

 そこで戦略のために、前回述べたように、「空気」とその土壌である「水」の流れを理解してみます。

 前回血液型占いに反論するとモテないのか? part3で、山本七平の「空気」と「水」、状況による絶対的精神拘束と日常性の関係を血液型性格判断について当てはめたところで述べたように、血液型性格判断が生き延び得た環境は啓蒙主義と科学の誤解にあると考えられます。
 つまり、ABO式血液型と性格には何か関係があるという“臨在感”を啓蒙主義は単純に否定して「感じるものを感じないと思え」としてしまったために、“臨在感”は実際に何かが存在することで生じているのか、存在していないとすればどうして“臨在感”があるのかということを究明しようとする意識(即ち科学する意識)までも却下してしまったのです。
 そのため、“臨在感”は啓蒙主義が覆う教育課程による侵犯を受けずに温存されました。
 これが血液型性格判断の「空気」を醸成させる「水」の環境原因だと考えます。

 では、その環境因子と組み合わさって実際に「空気」を生じさせるのは何か?
 それは、「水」分子の一部に存在する、つまり血液型性格判断を会話に持ち出したり、血液型性格判断に同調する・受け入れられる人間が持つ認識(認知)という発現原因だと考えます。
 この発現原因である血液型性格判断を肯定的に捉える・用いる人間の認識は、その人間の中でどうして生まれ・維持発展できたのか?
 血液型性格判断が科学から支持を受けていないことは、血液型性格判断(を話題に出す程度)に関心がある人間ならば耳にしたことはあるはずなのに、なぜそれを乗り越えて認識(認知)を維持できるのか?
 考えられている理由は以下あります。
 理由Ⅰ:血液型性格判断は当るから。(※)
 ABO式血液型の日本人の比率は、A:O:B:AB=4:3:2:1です。
 これは「あなたはA型でしょ」と言えば40%の確率で当てることができるということです。もちろん、「A型でしょ」と常にいわなくとも、適当に言っても25%の確率で当てることができます。さらに、上記比率を知った上で言えば30%程度の確率で当てることができます。人の見えないことをこれほどの高確率で当てることができる機会は多くはないはずです。
 相当の確率で当てることができるから、血液型性格判断を肯定できてしまうと考えれてています。つまり、当てることができた経験が、科学から支持を受けていないという(漠然とした)情報を乗り越えさせてしまうということです。
 さらに、性格から血液型を当てること以上に、血液型から性格を当てることが容易(~型と聞いて、例えば「あきっぽい」と指摘した場合、「あきっぽい」部分を程度はあれ多くの人が持っているため血液型比率よりも「あきっぽい」比率が高くなるので、結果として当ててしまうことが多い)であること、その両方の経験の記憶が合わさって、血液型と性格が関係するという認識(認知)を個人の中で維持発展させてしまうことが指摘されています。

 理由Ⅱ:自己成就予言。(※1)
 ABO式血液型と性格は関係するという信念を持つ人間が、様々な人と会って、その血液型と性格を知ることになった時、自己の血液型正確判断の信念に合わせた解釈をしたり、信念に外れる場合を無意識的に忘れたり、信念に合致した場合に重点をおいたりすることで、あらかじめ持っていた信念を「客観的に」証明されたとして成就させてしまうこと。
 さらに、血液型性格判断という信念を知ってしまい・受け入れた結果、その内容に自分が性格をあわせてしまう傾向が生じていることも指摘されています。(自分は~型だから…だ、と自己の行動を意味づけすることを繰り返すことで、性格を先に設定されている血液型正確判断に合わせてしまう)

 理由Ⅲ:FBI効果。(※2)
 血液型性格判断が設定する各ABO式血液型の性格内容が以下のFBIの頭文字に表される特徴を持つこと。
 Freesize(フリーサイズ)、即ち、「神経質な方」「二面性がある」など、多くの人が「そうと言われればそうだ」と言い得る。
 laBeling(ラベリング)、即ち、~型は…だと言われると、それ以外の部分よりも指摘された部分に注目を集めることができる。
 Imprinting(インプリンティング)、即ち、~型は…だといわれると、その情報に従った解釈を通じて人を判断するようになる。
 
 これらが「水」分子、つまり血液型性格判断を肯定的に捉え、その認識を維持発展させて、話題として出すことを可能にしている発現原因として挙げられます。

 以上より、「水」の環境原因、啓蒙主義の下で科学する意識を無視してきたこと、そこに発現原因をもった「水」分子が存在し、二つの原因が合わさることで血液型性格判断の「空気」が発生すると考えられます。

 では、この環境原因と発現原因を持って「水」自体の流れの性質はどうなのか?
 つまり、「水」という言葉で表された私達の日常性・日常の人間(集団)関係の特徴は何か?、その流れに環境原因と発現原因はいかに作用するのか?
ということです。
 
 まず、「水」自体の流れ、私達の日常性・日常の集団関係の特徴について、社会心理学者S・アッシュが行った人間の同調性を調べた実験を紹介します。(※3)
 同調とは、同じ集団にいる他人の行動に自分が合わせることです。同調を強要されるような雰囲気(「空気」)を同調圧力とよびます。
 アッシュの行った実験はこうです。
 一方には一本の線、もう一方には三本の線が書かれた二枚のカード(前者を一本カード、後者を三本カードと呼びます)を用意します。
 三本カードには、一本カードの線と同じ長さ、より短い線、より長い線が書かれています。
 一つの部屋に集めた八人に、まず一本カードを渡し見せ、次に三本カードを私見せて、一本カードに書かれていた線と同じ長さは三本の線のうちのどれかを答えさせます。
 八人のうち、実は一人を除いて答える内容を指示されたサクラです(つまり、被験者は実際は一人)。
 同じことを18回繰り返し、被験者がサクラを疑わないように、内6回は普通に、残りは決められた答え(誤答)をするようにサクラは指示されています。
 被験者は7番目に答えるようにしてあります。
 これを実被験者50人に行いました。
 結果、被験者の誤答率は35%。一人で同じカードを見せた実験では誤答率5%。
 一度もサクラに同調しなかったのは、13人。残りのうち、15人が50%以上の確率で同調。 
 個人の行動は集団の行動に影響されるという当たり前と言えば、当たり前なことをこの実験の結果は示しています。 
 さらに、アッシュは同調の実験を重ねた結果、集団内の同調の性質について二つのことを明らかにしました。
 一つは、同調は3人以上のサクラがいることで、それ以上いるときと同じ程度生じること。
 もう一つは、3人以上のサクラがいても、一人でも被験者と同じ判断をとる人間がいれば同調しない確率が大きく上昇すること。
 
 アッシュの実験はアメリカの大学生を対象に行われましたが、他国の実験でも同程度の同調率を記録しました。
 日本でも行われました。
 結果は、アメリカよりもやや同調率は低く、さらに特徴的なのは一人当たりの同調誤答数が目立って低かった点です。
 つまり、実験の結果からは、日本人は集団の同調圧力に対して比較的強いことがいえます。
 
 これは集団主義、人に合わせやすい、という通念や、ここまで述べてきたような「空気」とは反することになります。
 なぜこのような結果が出たのか、一つの推測として、実験の仕組みがその原因ではないかということが考えられています。
 実験では被験者もサクラも全く面識の無い人間を集めて行われました。
 そこで、面識の無い人間間だから同調が起きにくかったのではないかという推測がなされます。つまり、日本人は知らない人間同士では同調がおきにくいという推測です。
 この推測は、日本人が対他的な人間関係よりも、対内的な人間関係の把握に適応しているという実験結果に合致しています(※4)
 所属集団内での人間関係がどのようかを読み取みとろうとする傾向が他国人と比較して強いということ。つまり、無関係な人間との関係を作り出そうとする傾向(能力)よりも、既に所属している、自分が利害関係を有する集団内で人間関係を知ろうとする傾向が強いということです。
 
 以上を総合して考えますと
 啓蒙主義的であるために科学的な探求を妨げる環境
 当った経験・自己成就予言・FBI効果などで維持された個人の血液型性格判断への肯定感
 それが、所属集団内では同調し、人間関係把握をしようとする日本人の日常性(「水」)の流れに圧されてて血液型正確判断の「空気」に逆らえなくなると考えます。


 この中で
環境を変えることはできない、肯定感を持った他人の過去の経験をなくすこともできないわけですから、有効性をもって行えるのは同調の性質・人間関係把握の傾向を利用することだということが分かります。

では具体的にどうするのかを、再び冒頭の発言①~③までで考えて見ます。
 発言①は、そういった考えをもった人間(「水」分子)が存在するので動かせませんので、対する発言②でどういった応答をすればよいのか?
 まず、すでに発言①によって血液型性格判断の「空気」を作ろうとする「水」が動き出しています。このままでは、「水」(日常性)の状況倫理にしたがって血液型性格判断の話題が進行し、「空気」が醸成されてしまいます。
 この流れは、同調実験の結果から、三人以上が参加してしまうと単独では変えることができなくなります
 したがって、まず積極的に会話の応答を引き受けて、他に存在する血液型性格判断に肯定的な人間(発現原因をもった「水」分子)に応答させてはならないことが分かります。
さらに、応答を引き受けても、そこに血液型性格判断に肯定的な人間が加わってしまう可能性がありますので、自分が知っている(親しい方)の人間に会話を振ることで流れの変化を補強することが考えられます。
 また、血液型性格判断を会話に持ち出した理由が、それを通じて、その場の人間関係を図ろうとする意図であったのならば、別に血液型性格判断でなくてはならないということではないのですから、血液に関係する別の話題の会話を通じても可能だということを行動で示すことにより、持ち出した人間の意図を引き受けることができます。

 但し、ここで血液型性格判断の話をそのまま引き受けても、意味がありません。
 そこで、発言①の「何型?」のような発言を受けて、血液に関する別の話にもっていく必要があります。 
 つまり、発言①に対して正面から血液型性格判断にの話題で向かえば、すでに動き出した「水」の動きを阻んでしまい、かえって血液型性格判断に注目を集めてしまい、「空気」の醸成を一機に加速させてしまう可能性が考えられるので、血液という発言①の会話の主題だけを引き受ける必要があると考えられるのです
 さらに、この血液に関する話において、できれば日常的で多くが経験する些細な話題が出せれば効果的だと考えます。(例えば、採血や献血のときの話、血液検査でわかったコレステロールの話、そこから血液とは関係ない話へ引っ張れるものならなお良い)
なぜなら、血液型性格判断に肯定的な人間(発現原因を持つ「水」分子)は上述したような経験の効果によって血液型性格判断という認識(認知)を維持できているのですから、体験の記憶という共通項があったほうが変化された会話の流れを受け入れやすいと考えれるからです。
 また、なぜ些細な話か、正確には血液に関する細かい話かというと、それだけのことを知っているということを相手に示せるからです。
血液型占いに反論するモテないのか?血液型占いに反論するとモテないのか? part2で挙げたような、血液に関する細かい話になれば血液型性格判断は否定できます。
 もし、血液型性格判断に関する是非を話すとしても、それを発言②で自ら持ち出すのではなく、相手に振らせてから発言したほうが穏当です。
これで相手が変化させた流れに乗らなければ、そこで利益衡量して行動するべきだと考えます。
つまり、もしその場の重要度と血液型性格判断の流通に手を貸す嫌悪感を比べて後者を優越させるのなら、容赦なく論破します。
 そうすると結局、冒頭の発言③「モテないでしょ」が返ってくるでしょう。
 その場合、血液型性格判断に肯定的な人間、それが支持されない科学からの説明を受け入れない人間は、他のステレオタイプや迷信を持つ傾向があること、集団内の人間関係を決め付けないと不安な人間であることを指摘する、若しくは、レイシスト(人種差別主義者)と呼ぶしかないでしょう。

 おまけ⇒血液型占いが無くなる日


※)『血液型当てっこの実際』川野健治著(『血液型と性格』至文堂 収録)
※1)『自己成就する偏見としての血液型ステレオタイプ』池田謙一(同上)
※2)『血液型と性格』(福村出版)大村政男
※3)『集団の心理学』(講談社現代新書)磯貝芳郎著を中心にまとめています。
※4)『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)山岸俊夫著
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by sleepless_night | 2005-11-03 00:19 | 血液型関連

血液型占いに反論するとモテないのか? part3

 ここまで血液型占いに反論するモテないのか?血液型占いに反論するとモテないのか? part2で、必要とされる一応の知識の整理が終わりましたので、冒頭の問題へと移ります。
 「いんちき」心理学研究所(http://psychology.jugem.cc/?eid=41)で“浅野教授”は“血液型占い”(血液型を“占う”、ABO式血液型の当てっこ。広義の“血液型占い”に含まれる)に対して、日本人のABO式血液型の比率に則った発言をし、女子短大生が“「だからあんたはモテないのよ」”と応じた会話の流れを整理してみますと、こうです。

 女子短大生:血液型性格判断を念頭に置いた、ABO式血液型の当てっこ=「~型でしょ?」等の発言…発言①
             ↓
 “浅野教授”:「『A型』って言えば40%の確率で当たるし、『A型かO型』って言えば70%の確率で当たるよ。」=日本人のABO式血液型の分布に則った応答。…発言②
             ↓
 女子短大生:「だからあんたはモテないのよ」…発言③


 この発言①~③までの、①②間の会話は順当です。
 ①で女子短大生はABO式血液型の当てっこをすることで、その念頭にある血液型性格判断の助けを借りて、会話を通じた相互理解を進めようという意図を持っていたと考えられます。
 対して、②で“浅野教授”は、血液型性格判断という非科学的な人物判断・偏見を用いるという手法へ疑義を、確率の数字を出すことで表明しています。
 つまり、①②とは、血液型性格判断についての双方の意見の違い述べあった会話として成立しています。

 そこに突如、③で“モテない”という女子短大生の印象・意見が表明され、①②で成立していた血液型性格判断をめぐる会話を全く異なった(それまでの会話と整合しない)内容へと飛ばしてしまっています。

 このように③は、会話として大変に奇妙で乱暴な発言です。
 会話として順当な応答は以下が考えられます。
 ③-α:血液型性格判断についての自分の知識からの擁護発言。
 ③-β:“浅野教授”が血液型性格判断について否定的な態度を表明したことをうけて、“浅野教授”の持つ知識や意見につての質問。
 ③-γ:血液型性格判断が非科学的なものであることの認識を表明をした上で、一般的な会話での利用の是非に関する肯定的な意見。
 
 少なくとも“浅野教授”は確率の点で間違ったことを言ってはいないにもかかわらず、③α~γを採らずに、どうして全く筋から外れた感想の表明をしようと思ったのか・できたのか?さらに、私がこの①~③を一読して(“だから”という理由を表す接続詞が使われていることに)違和感を感じさせないのはなぜか?について考えてみます。

 まず、女子短大生が③の応答をした理由は以下が考えられます。

 ⅰ:経験。過去に血液型性格判断について“浅野教授”と同様の応答をした人間を知っており、その人物が異性(若しくは同性)にモテなかったことを想起したから。
 ⅱ:ごまかし。血液型性格判断が非科学であることを知っており、非科学なことを持ち出してしまった自己の恥ずかしさが露呈することを避けるために、会話を逸脱させようとしたから。
 ⅲ:応酬。血液型性格判断が非科学であることを知っており、非科学なことを持ち出してしまったことを他の知人達のいる場所で指摘されて貶められたと感じ、相手も同じように貶めてバランスを取ろうとしたから。
 ⅳ:一般化。自分が会話のために血液型正確判断を持ち出した意図を“浅野教授”が受け入れなかった(肯定しなかった)ことを、自分が女性であることから、女性一般の意図を受容できる能力がないと解釈したから。
 ⅴ:空気。異性を交えて飲酒をする場、つまり、遊興性の高い場において確率のような細かい話をすることが野暮であることを咎めようとしたから。

 以上のうち、ⅰについては、“だから”という接続詞を女子短大生が用いていることから省いて考えてよいでしょう。
 もし、理由ⅰならば、「モテなかったでしょ?」という確認・疑問の形で発言されると考えられるからです。
 
 とうことで、ⅱ~ⅴの4つの理由が考えられます。
 この4つの理由は、共立可能なもの、もっと言えば、相互の理由が支えあった構造を持つことで、会話の筋を違えた発言がなされたと考えられます。
 理由ⅲはり理由ⅱを強化した形ですし、理由ⅳと理由ⅴは女子短大生自身を拡大させて、女性一般や空気を支配する場(やその背景にある世間の秩序)を利用したものです。
 そして、理由ⅳとⅴだけでは会話の筋を外して発言させるだけの契機となるとは考えられず、理由ⅱとⅲという情動がなければ発されなかったと考えられます
 
 では、女子短大生の発言③の理由が解釈できたとして、私が③の“だから”に違和感を感じなかったのはなぜかを考えて見ます。
 引用したブログの内容から、発言③以降がどうなったのか、発言③に対して周囲の人間はどのような反応をしたのかは不明ですので、全く根拠のない推測ですが、周囲の人間も発言③を乱暴だと感じても奇妙な説得感を感じたのではと想像します。

 実際にいた周囲の人の反応がどうだったのかはさておき、私が違和感を感じなかった、発言③が会話としての筋を外しているのに不適当だと感じなかった、“浅野教授”が「モテない」という指摘が外れていないように感じたのはなぜか?

 それは、理由ⅴに挙げた「空気」です。
 「空気」が読めない、場が読めないこと、その力についての重要な考察をした二人の人物のうち、一人はすでに「性」を語ること、「いき」を語ること。で紹介した九鬼周造です。
 九鬼が分析した日本文化における「いき」という概念の三要素のうちの「意気(意気地)」が文字通りに「空気」に当てはまり、飲酒空間の遊興性が「媚態」に当ります。
 そして、「いき」に必要な「諦め」の観点からすれば、血液型性格判断が科学的に考えてどうであれ、ここまで浸透していることに疑義を持ち出すことは(無駄な抵抗であり、「諦め」の悪い)野暮とみなされ、野暮ということはまさしくモテないことになります。
 したがって、女子短大生が用いた“だから”は「いき」を考慮に入れて解釈すると順当なものとも考えられます。
 
 しかし、それはとるべき態度なのでしょうか。
 前回、前々回と述べてきたように、血液型性格判断は科学的な支持を持ちません。
 さらに、科学的な支持不支持以前の問題として、血液型という生得的な要素で人を判断する・決め付けようとすることを遊びで(あっても)してよいのでしょうか。
 その場における「いき」という“無上の権威”“至大の魅力”の前に唯々諾々と屈する以外にないのでしょうか。
 また、「いき」の要素である「諦め」とは「明らかにする」という前提を必要とするので、もし女子短大生が既述したような血液型性格判断についての前提知識を欠いて“血液型占い”で遊ぼうとしたならば、「いき」ではなく、「粋がっている」だけでもあります。
 「いき」ですらない、その場の「空気」とは血液型性格判断の非科学性や不当性を上回る価値を持ち、守るべきものなのでしょうか。


 とはいっても、発言③が「空気」を乱したことには変わりなく、乱された「空気」の気持ち悪さを考えると、面倒な科学だの倫理だのに目をつぶりたくなります。
 問題だと思っていても、実際にはどうしたらよいのかわからないこと。
 正しいと思っていても、それを口にできないこと。
 その思いをどうしたら、会話に実効性を持たせることができるのか?
 「空気」によって問題意識や正しいと思っている考えを圧殺されないで、どうしたら活かすことができるのか?


 ここで、「空気」に関するもう一人の人物である山本七平(※)の考察を紹介します。
 評論家だった山本は、編集者が思っていても口に出せないことを「そんな話を持ち出せる空気じゃありませんよ」と表現したことに興味を持ち、第二次大戦の戦略決定や公害問題を参考に、非論理的だと分かっているのになぜだか逆らえない状態を“「精神的な空気」”の拘束状態だと捉え、「空気」とその対概念としての「水」というキーワードよって日本人の意識を解釈しました。
 “教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯が立たない何かである。”
 “非常に強固でほお絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに対抗するものを異端として「空気抗命罪」で社会的に葬るほろの力をもつ超能力”であり“論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれている”
 「空気」とは何かを、山本は、その発生状況から以下のように考えます。
 「空気」の醸成には、“物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状況”即ち、“臨在感”があり、この“臨在感”に対して“感じても感じなことにし、感じないふりをすることが科学的と考え”る近代後発国の啓蒙主義が重要な役割を果たしている。そして、科学的な探求を免れた“臨在感”は、“臨在感”を感じさせたものに対する感情移入の絶対化によって、「空気」となり、人々を支配すようになる。
 血液型性格判断に当てはめると、血液型という物質が人間の性格に影響を与えているという“臨在感”を持っているが、それが科学的支持を失っていることもわかっているものの、啓蒙的ではあっても科学的でないために、科学的支持を失った内容や意味を問わずに、非科学故に潜在化させて温存された“臨在感”が血液型と人間の性格との関係性についての感情移入が絶対化されたと解釈されます。
 山本はこの「空気」が生じる土壌が「水」という日本人の日常性だと指摘します。 「水」とは、盛り上がって他が目に入らないくらい熱した状況を一気に冷ます際に用いられる表現「水を差す」から採ったもので、「空気」の絶対的拘束を解消するきっかけとなるのが日常的という卑近で不便で非力な事実の想起(例:酒の席で、嫌いな上司についての話が盛り上がり、失脚させようという話まで出た時に「やっちゃうか?」と問われた瞬間に、「いや…家のローンが…」のように現実を想起させて、場の盛り上がりを一瞬で現実に引き戻す)だと考えたところから用いられています。
 矛盾しているようですが、この日常性である「水」が「空気」を醸成する土壌だとされているのです。
 なぜ「空気」の拘束を解消するはずの「水」が「空気」の土壌かというと、「水」即ち日本人の日常を支える意識が“状況倫理”に則っているからだと考えられています。
 つまり、日本では“「状況への対応」だけが「正当化の基準」とされ”るために、“西欧が固定倫理の修正を状況倫理に求めたのとちょうど逆の方向をとり、状況倫理の集約を支店的に固定倫理の基準として求め、それを権威としてそれに従うことを規範”とされている。状況に対応することで正当化される状況倫理を維持するためには、基準が状況にあわせて伸縮自在でなくてはならないが、その伸縮自在の基準も、無基準となることを避けるにはどこかに固定点を持たなくてはならない。状況やその状況に置かれた人間を尺度に伸縮する必要から、固定点は“状況を超越した一人間もしくは一集団”という虚構に求めなくてはならない。そして、固定点が虚構であることから、虚構であることを暴露することは許されなく、虚構が作り出した(虚構を作り出した)状況の“臨在感”に従うことしかできなくなり、“空気と水の相互的呪縛”の中で一つの虚構で自滅しても別の虚構へと移る。虚構だと知りつつ、それを表に出さないように思い合う気持ちの「真きこと」を求る、“知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり、それを口にすれば、正義と信実がないことになる、ということも知って”いることで“虚構の中に真実を求める社会”となっていると山本は述べているのです。
 これを血液型性格判断に適応して考えると、もともと血液型性格判断が正しいのかまちがっているのかというのは重要なことではなく、会話の材料として便利だと言う程度の認識しかないが、その会話で持ち出された以上は、その状況を維持することに正当化の基準が定められる。
 その状況に適用される基準は虚構によって固定されているだけなので、科学が目指すような統一性は考慮されない。つまり、血液型性格判断が自分の持っているほかの知識と整合しようがしまいが関係なく、その場に適用されている基準に従うことだけに焦点が向けられる。そして血液型性格判断に従って状況を円満におさめなくてなならない「空気」が醸成される。この「空気」を覚ますのも、日常性という「水」(例えば、同じ血液型で性格が全く異なる友人がいることを想起する)であるが、「空気」を醸成したのも「水」即ち、状況に適応された基準に従うことが、統一性や内心に持っている規範性に優先するという日常性である。


 九鬼周造の「いき」の観点からは、血液型性格判断に対して「粋がっているんじゃない」と言うことや、「諦め」て遊ぶことが対応として考えられます。
 後者は、山本七平の「空気」から言えば、「水」に流されるだけのことです。

 山本も分析で終わって、「空気」への具体的な対応は出せていません。結局は、文化の習いということです。

 しかし、この両者の考察を参照すると、一つの大まかな回答は導けます。
 九鬼は「いき」を“無上の権威”としていますので、相手が「粋がっている」としても現実に正面切って「粋がっている」とぶつけるわけにも行きません。それは「空気」の力を考えれば無謀です。故に、正論を単純にぶつけることはするべきではないし、逆効果となりうると考えます。
 では、どうするかといえば、 「空気」を生み出す「水」の流れを理解したうえで、その流れを利用し、流れの力を借りて自分の目指す場所へと向かい、「空気」を「いき(媚態)」を損なわないように解消させる知恵を探るべきです。

 続けて、「水」の流れについて、社会心理学の実験として有名なS・アッシュの同調実験について述べることで理解の助けとし、具体的な対処法を考えて見ます。 

 続き⇒血液型占いにどう対処するか?

※)『「空気」の研究』(文春文庫)山本七平著
 
 
 

 
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by sleepless_night | 2005-10-30 22:31 | 血液型関連

血液型占いに反論するとモテないのか? part2

 前回血液型占いに反論するモテないのか?に引き続き“血液型性格判断”を代表する古川竹二と能見正比古の説に対する評価について述べます。

 ④-2 古川竹二と能見正比古の説にたいする評価(※)
 古川竹二は前回述べたように、最初は勤務先の同僚や生徒を対象にしてデータを集めていました。
 そこで注目するべきは、古川が血液型と気質の関係、ABO式血液型のそれぞれについて気質が異なること、それぞれの気質がどのようなものかを、データを集めた結果から仮説を立てたのではなく、それ以前に自分の親族11人の行動を見て仮説を立ててしまった点です。
 そしてその自分の親族を見た結果で、B型O型=進取的・積極的、A型=保守的・消極的との2分法を立てて、その2分法をもとにアンケート票を作り、生徒や同僚を対象にしてデータを取ってしまいました。
 さらに、古川は異なるアンケート票で得た結果を混ぜて、2分法からABO式血液型に対応できる4分法へと発展させてしまいました。
 そして、4分法用のアンケート票では、ABO式血液型がアンケート票に記載されてしまっています。

 このように、古川は血液型と気質の関係を探ろうとした行為にはいくつもの看過できない間違いがあります。
 
 性格を測ること、調べることは大変にむずかしいことです。
 自省票のような形式をとった場合には、自分のことを自分が判断した結果が正しいと言えるのか、また、例えば「小さなことは気にならない」と聞かれて「小さなこと」とは何かが明確ではなかったりと安定的で信頼できる結論が出ないのではないかと言う疑問や、他者が評価するような場合には、その評価者が被評価者をどれだけわかっているのかが疑問とされます。
 ですから、自省にしても他者評価にしても、その不安定をできる限り抑えるために厳密な条件を測定者に課しています。

 まず、対象が無作為に抽出されていること。
 国勢調査のような全員を対象にした調査は莫大な金額がかかり不可能なので、無作為抽出したサンプルによって全体を推計できるようにする。偏った対象の調査をどれだけ多くしても、それは統計的には意味が無い(サンプルによって全体を推測できない)。
 また、調査に際して、それが血液型と性格の関連を調査するものだということを知らせてはならない。知らせてしまうと、その人が持っている血液型と性格の関係についての情報が現れてしまい、検証する内容を先取りされてしまう。
 調査の前に、調査の内容や結果の解釈基準を設定しておくこと。結果が出た後に解釈基準を決めると、自分の都合の良いように解釈をする危険性がある。

 このような基本的な調査の原則を古川は踏まえいませんでした。

 古川は論文として発表していたため、他の心理学者などが古川のデータや解釈を検証することが可能だった。そして、論理性や不適当な解釈手法について批判がなされ、さらに統計学の手法に則ったより大きなデータによって反論され、1933年(昭和八年)の第18回に本法医学学会総会で否定されました。
 このとき、古川は発言せずに田中秀雄が代わりに論争で肯定派に立ったのですが、最終的には反論できなくなり、気質検査は量的な表示になじまず“本質直感”による必要があるとまで言ってしまい(つまり、直感に優れた人物が調べないと気質はわからないので、アンケートのような調査は無理。だから、データが間違ったのであって、理論が間違っているのでは無いと言ってしまった。これは占いや予言が外れた時に、占いや予言が間違ったのではなく、占われた者の心がけが悪かったからというのと同じ。)、古川説は科学の支持を失いました。

 その否定された古川説をリバイバルさせたのが能見正比古。
 能見が挙げたABO式血液型に対応した性格は、古川が挙げたものに極めて近似している。
 能見は一万人以上のデータに基づく統計学の結果として自説を主張するものの、そのデータが公開されていません
 また、自著や血液型性格判断を支持する組織の会員を標本としているので、無作為性がない上に、調べるべき内容をすでに知っていたり、信じていたりする人間を対象にしているので、統計的には意味がありません。
 政治家や作家やスポーツ選手などの著名人の血液型を調べて、「~型の性格は…だから」との解説は、比率だけに着目しているもの、後付でどうとでも説明できるものだと考えられます。
 比率だけに着目しているというのは、日本人はA:O:B:AB=4:3:2:1の割合なので、~型がその割合よりも多く現れたら、「~型が…である」との説を裏付けるものだと考える目分量のことです。
 では、目分量と統計学の違いは何かというと、それは部分だけを比べるのか、全体を比べるのかという違いです。
 
 例えば、日本人のABO式血液型の比率をA:O:B:AB=4:3:2:1として、ある予備校の渋谷校に偏差値65以上の生徒125人、そのABO式血液型の人数が、A=43人(約34%)、O=44人(約35%)、B型=29人(約23%)・AB型=9人(約7%)、いたとします。目分量の判断では、この生徒達はO型B型が多く、A型AB型が少ないと言え、O型B型の生徒が優秀だと言えることになります。
 しかし、日本人の血液型比率よりも、A型は6%、AB型は3%少なく、O型は5%、B型は3%多いと比率の差がバラバラであり、当然、実数もバラバラで、はたしてデータ全体を見た時にこの生徒達の血液型比率でO型とB型が多いと言えるのかがわかりません(折れ線グラフにしてみると、両者のグラフはそれぞれデコボコになりますが、そのデコボコのどこかが高いとか少ないとか言っても、全体として違いがあるかは分からない)。
 そこで、この生徒達の比率は日本人の血液型の比率と比較して意味のあるものか(ズレがあるのか)を計る必要があります。
 このズレが意味があるほどのものかを調べるのが、統計学のカイ二乗検定です。
 カイ二乗検定は、観察値(この場合は、生徒の各血液型の人数)から期待値(この場合は、日本人の各血液型の割合通りだったら、生徒の各血液型は何人ずついるか)を引いたものを二乗し、それを期待値で割り、カイ二乗値を出し、カイ二乗値がカイ二乗分布表の示す数値(有意水準)よりも大きいか否かを調べるもの。大きければ、帰無仮説(この場合は、生徒の血液型比率は、日本人の血液型比率と変わらない)が棄却される、即ち、生徒の血液型比率でO型とB型は日本人の血液型比率よりも多いと言える。
 (この説明を読んでも、わからないと思いますので、詳しくはこのサイト
などを参照してください。)
 さて、この生徒の血液型のカイ二乗値は5.85とでます。
自由度3で危険度5%(間違って帰無仮説を棄却してしまう確率が5%ある場合)の有意水準は9.35ですので、この帰無仮説は棄却できません。
 つまり、この生徒の血液型比率と日本人の血液型比率のズレは有意ではないので、生徒のO型B型が日本人の血液型比率よりも多いというのは意味のない誤差だとなります。
 
 このように、統計学では、目分量で多い少ないというのを判断せずに、データ全体で考えることを可能にします。
 この統計学の視点は、著名人の血液型など、興味を惹きかつ共感をよぶものの解釈には非常に有効です。
 特に、少ない人数の血液型比率を見る場合、数値が極端になりやすいこと(※1)や、調査対象をより大きな集団や小さな集団に入れたりと比較してみることで全く違う数値が現れることを認識しておくと、都合のよい主張の裏づけに惑わされなくて済みます。

 さらに、重要なことは、ここで仮に生徒の血液型比率と日本人の血液型比率に有意差があると出たとしても、だからといってB型O型が多いことと、生徒の偏差値が65以上であることに因果関係があるということは全く言えません。統計的に有意だとされる違いが各血液型にいえるとしても、他の要素が原因だという可能性や、もし血液型との関係が有力視されるなら、なぜABO式だけなのかといった点を検討する必要が出ます。有意差があっても言えることは、125人の生徒の血液型比率が日本人の血液型比率よりも偏っているということだけで、その偏りの原因が何なのかを教えるものではないのです。


 さて、このように代表的な二人の“血液型性格診断”は難点が多く、否定されておりますが、性格と血液型の関係をより厳密な形で調査した学者もいます。(※2)

 JNNデータバンクが全国都市部の13歳~59歳の男女を無作為抽出で3100名に対して年二回調査した結果のうち、1980年~1988年にかけての4回を松井豊(筑波大心理学系教授)が分析しています。
 結果、24項目の調査項目で4回共通して一項目(物事にこだわらない)だけ有意差があったものの、その有意差が現れるABO式血液型は毎年異なっていました
 他にも、対象を大学生にした調査などが行われているものの、ABO式血液型と性格の関係は否定する結果しかでていません。

 このように、広義の“血液型占い”も科学的に否定されています。
 つまり、血液型“占い”は、単に占いだから非科学だ(狭義の“血液型占い”が非科学だ)というのにとどまらず、非科学だと言えます。

 以上で、ABO式血液型分類という科学的区別と、広義・狭義の“占い”という非科学が合わさっていることが確認されたと思います。
 
 “血液型占い”が二つの要素を備えていることは、他の占いにはない特異性であり、強みだと考えられます。
 つまり、占いは通常の科学的手法では知ることのできないことへの回答を得ることができるという期待感や願望がありますが、それは非科学だということも認識されている。
 ところが、“血液型占い”の場合、ABO式血液型というまがうことなき科学的区別があるために、科学という私達の社会を支える不可避の知識への信頼を向けることができるのです。
 もちろん、上述してきたように“血液型占い”の“占い”にも科学性はありません。
 しかし、もし「“血液型占い”は科学的な根拠が無い」と反論されたとしても、そこで、占いを擁護する際の「科学を妄信している」「科学にはわからないことがある」という発言がもちだせるのです。なぜなら、“血液型占い”は占いだからです。
 “血液型占い”を持ち出したいときは、ABO式血液型という科学への信頼を、“血液型占い”への科学的な反論を持ち出されたときは、占いである言い訳が可能なのです。
 この科学への信頼と、占いへの関心(惹かれる気持ち)の両方を満足させている“血液型占い”は、報道番組(つまり、メディアが取材によって裏づけを取っている社会的信頼のある事実を伝える番組)で占い(社会的信頼がない・裏づけのない言葉)を流している・受け入れているメンタリティと合致している、日本的な占いだと考えます。

 以上を前提に、前回の冒頭に出した女子短大生の“「だからあんたはもてないのよ」”の“だから”について続けて考えてみたいと思います。
 というのは、“血液型占い”について科学的な発言に対して、異性(若しくは同性)に“モテない”という判断の発言は、会話の論理として奇妙にもかかわらず、「なるほど」と思わせる説得力があるのはなぜかと言う疑問があるからです。
 その疑問を解明した上で、だからどうするべきか、“血液型占い”への適切な対処指針を提示しておきたいと思います。

続き⇒血液型占いに反論するとモテないのか? part3
 


※)『血液型と性格』(福村出版)大村政男著
 『昭和初頭の「血液型気質相関説」論争』溝口元(『血液型と性格』至文堂 収録)
※1)少人数の比率が極端になりやすいのは、少数であるほど、その中の一人一人が比率に与える影響を大きくすることから理解されると思います。 例えば、10人の中の5人から6人に変われば、50%から60%になりますが、100人いる場合には50%から60%まで変化するのに10人増えなければなりません。
※3)『分析手法からみた「血液型性格学」』松井豊(『血液型と性格』至文堂 収録)
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by sleepless_night | 2005-10-28 22:05 | 血液型関連

血液型占いに反論するモテないのか?

 “この間、女子短大生数人と酒を飲んでいたら血液型の話題がでました。まあ、よくある血液型の当てっことかしていたわけなんですが、その時に教授が「『A型』って言えば40%の確立で当たるし、『A型かO型』って聞けば70%の確率で当たるよな」と発言したら、「だからあんたはモテないのよ」とか言われました。いや、モテないのは事実ですが血液型ごときで正面きって『モテない』と断言される教授っていったい…”
(http://psychology.jugem.cc/?eid=41 「いんちき」心理学研究所より)
 上記引用のブログの管理人“浅野教授”がどういった方なのかは判然としませんが、この女子短大生の「だからあんたはモテないのよ」という一言は非常に興味深いものに思えます。

木村剛さんのブログ(http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/6340865)で血液型性格判断がかなり素朴に取り上げられており、そこに当然のことながら幾つも否定説が述べられたブログがTBされていました。
 情報としても特別に詳しいものを持っているわけでもないので、このブログで書くものでもないと思ったのですが、先にあげた引用部の一言に惹かれて「血液型占いに反論するともてないのか?」という視点でまとめてみたいと思います。
 つまり、この血液型占いというものは、素直な反論では片つかないものが“だからあんたはモテないのよ”の“だから”に秘められているように感じ、その“だから”を解明した上で、有効な対応を考えると言う2段構えで望む必要があるのではないか、その対応法はこのブログで述べていく「性」の問題(特に所謂恋愛について)にも共通するのではないかと考えるのです。


 まず、前提知識を整理してみます。
①:血液型とは何か?(※)
 ABO式血液型は1901年にウィーン大学のカール・ラントスタナーによって発見された、血液の型の中でも最初のもの。血液型はABO式以外にも公式に認めていられているものだけでも40種以上、非公式を含めると400種以上ある。そして、厳密に言えば同じ血液型の人間は一卵性双生児以外にはない。
 ABO式以外にも有名なのはRh式血液型。
1939年にライントスタイナーがアカゲザルの血液にある抗原が人間にも共通していることを発見したことでRh式は発見された。

 ABO式による区別も、Rh式による区別も血液の抗原の違いによる。
 ABO式は赤血球表面の抗原の違い。Rh式は赤血球の抗原の違いを支配する3対の遺伝子のうちで最も抗原性の強いD遺伝子の有無。
 この二つは輸血時に最も重視される血液型。
 異なる抗原を持つ血液を輸血すると、赤血球が破壊されて死亡する可能性がある。
 但し、通常の輸血時には適合性試験によって、ABO式やRh式のみでは見逃される不適合を確認する。緊急時には、ABO式とRh式の検査のみで輸血したり、その時間も無い時はABO式のO型を、Rh式の陰性を輸血する。 
 このように、血液型はそれが解明された経緯から、同じものを集めたと言った積極的な意味を持つものではなく、混ぜたら危険な違いがないという消極的なものと言える。
 ちなみに、ABO式血液型を決定する物質(型物質)は血液中に存在するが、脳の血管は酸素、ブドウ糖、アミノ酸、水などのごく一部の物質しか通過させない(血液・脳関門)ので、型物質は脳細胞に触れない

 このように、血液型は消極的な意味のものである点、ABO式だけではなくRh式も輸血では重視されれる点、ABO式を決定する型物質は脳細胞に触れない点、を考えてみると血液型性格判断は医学的には否定されていると考えられる。

 では、血液型性格判断はどうして世間に浸透しているのか?
 血液型性格判断が持ち出す統計はどう考えるのか?

 そこで
 前提②:血液型性格判断の整理。
 気付いている方もいるかもしれませんが、ここまでわざと“血液型性格判断”と“血液型占い”の二つの言葉を混用してあります。
 この二つは厳密には異なります。
 血液型性格診断とは、アンケートの結果などによってABO式血液型の違いで性格が異なることを示そうという考えです。
 血液型占いとは、ABO式血液型の違いと占いの結果を対照させる占いです。

 しかし、やっかいなのは“占い”という言葉の多義性です。
 つまり、“占い”という言葉は第一に、通常の科学的手法では予測・解明できないことに回答することを意味しますが、“日本経済の未来を占う”のように通常の科学的手法に含まれる経済学(社会科学)によっても一律に解が出ない問題についての意見を述べる場合にも使われるのです。
 そして、この“占い”の多義性によって、“血液型占い”には“血液型性格判断”やその知識に基づいた血液型当てっこ(つまり血液型“占う”)こと、さらには血液型“占う”こと(“血液型占い”)までも含んだ総称のように使われる事態が導かれているのです。
 この総称のように使われる“血液型占い”を広義の“血液型占い”とし、血液型で“占う”ことを狭義の“血液型占い”とします。

 つまり、冒頭の女子短大生と“浅野教授”の対話は広義の“血液型占い”をめぐる会話となります。

 この広義の“血液型占い”で特異的なのは、“血液型”という科学と“占い”という非科学が融合されている点です。

 ③:では、科学と非科学の区別について振り返ってみましょう。
 勘違いする男と女/「マザコン」問題の前提で述べたように、この厳密な区別基準は見つかっていません。
 科学とされる薬学では、その研究の成果として出された薬品が後に致命的な欠陥をもたらしたり、科学とされる工学で安全だと考えられた建材が想定されていた重量内にもかかわらず耐えられなかったり、科学とされる気象学による天気予報ははずれることがめずらしくなく、科学とされる理論物理学では堂々と荒唐無稽な仮説が展開されていたりしています。
 では、なぜ科学と非科学が区別されるのか、される必要があるのか?
 それは科学の要件として提起されているものを見れば分かります。
 要件として以下が挙げられます。
・論理性
・仮説と実験・観察による理論構築、修正、否定
・応用性、操作性
・追試可能性、公開性
・制度
 論理に従わなければ「俺が正しいと言ってるんだから正しい」がまかり通ってしまうので論理性がなくてはならない。実験や観察を通して仮説を考えたり、修正したり、否定することでより間違いのない理論へ近づき、その理論を使うことで現在よりも広範で整合した説明ができ、現実や特定の環境下で実験結果を操作できる。そして、それらは他の研究者が追試できるように詳細な手順を示した論文や実験自体が公開されることによる審査に耐えられなくてはならない。さらに研究成果を効率的に同じ分野の研究者に知らせるたり、審査機能を維持するために学会や学会誌などの制度が必要とされる。
 このように、科学と言えるために考えられた要件は、現在非科学とされるものが主張している理論や内容が間違いだと言うためのものというよりも、科学として社会で用いることができるか、社会に適用させるだけの信頼があるかというものです。
 例えば、ある占い師が「来年の12月に富士山が噴火する」と予言したり、「あなたは来年に結婚相手と出会う」と占ったりしても、それは非科学だとは言えても間違いとは言えない(言い切れない)のです。
 しかし、科学が非科学に優越することは同意しなくてはなりません。
 科学は、公開性や応用性や再現性があり、それゆえに科学によって現代社会は営まれているのです。
 非論理的で、非公開で再現不可能で追試不可能なことや主張を信頼(trust:信頼する・身をゆだねる)することはできないし、それで現代社会を営めないから、科学と非科学は厳密ではなくとも区別されなくてはならないのです。
 ある霊能者が「この鉄筋で100トンを支えられる」と言ったのを信じてビルを建設したり、「来年は米が大凶作になる」と言ったのを信じてを輸入量を増やしたり、「この食べ物を食べていれば癌はなおる」と言ったのを信じて手術を保険適用外にしたり、「この人間は良い日銀総裁になる」と言ったのを信じて経済を全く知らない人間を就任さたら、日常生活は確実に崩壊します。
 科学によって多大な恩恵を受けて生きているのですから、「なんでも科学でわかるものではない」や「科学を妄信している」と“占い”などの非科学を擁護したい方は、まず科学で分かっていることや科学とは何かを理解してから発言した方がいいでしょう。(さらに、たとえ科学に間違いがあったり、分からないことがあっても、それによって占いの確かさを増加させるものでもないこことも認識しておくべきでしょう。)

 さて、確かに、ABO式血液型は①で述べたように、厳然たる科学的な分類です。
 
 さらに、科学と非科学の区別で考えると、狭義の“血液型占い”は非科学だと言えても④:広義の“血液型占い”に含まれる“血液型性格判断”は客観的なデータに基づいたものなのだから、科学なのではないか?との疑問が挙げられます。(※1)

 “血液型性格判断”の起源としては、大正5年に原来復と小林栄が発表した『血液の類属的構造について』が先行論文としてあるものの、昭和2年に古川竹二の『血液型と気質の関係について』が挙げられている。
 そして、古川竹二の説を今日程に浸透させたのは昭和46年に能見正比古『血液型でわかる相性』と以降で展開された“血液型人間学”だと考えられている。
 つまり、冒頭の女子短大生はこの流れの結果にあると考えられます。

 “血液型性格判断”の巨匠二人、古川竹二と能見正比古について、その説の概略と評価を述べます。
 ④-1 古川竹二と能見正比古の説の概略
 古川竹二は1891年(明治24年)に医者の家系の家に生まれ、兄と弟は医者になったが、竹二は東大哲学科教育学専修を卒業し、同大学大学院修士課程を経て(女子教育の研究が専門)、東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大)の教授となった人物。
 古川説は、論文の題が示す通り、血液型と性格ではなく、血液型と気質の関係を研究しようとしたもの。
 気質とは、生得的な要素と強く関係し、感情的な特性を生み出す素質のことで、性格や人格とは異なる。
 古川は親兄弟が医者であることから当時発見されて間もない血液型や遺伝についての情報を聞いたことで、教育者として東京女子高等師範の入試に関わってたことなどから、気質の差異による効果的な教育法を探ることを目的に血液型にアプローチしたと推測される。
 古川は東京女子高等師範学校の同僚や生徒や卒業生を自省票というアンケート調査をすることでB型とO型が積極的・進取的気質、A型が消極・保守的気質とする仮説を得た。
 さらに改変を加えた自省票によるアンケート調査の結果を踏まえて
 A型=温厚、慎重、謙虚、同情的、融和的、優柔不断、内気 など
 O型=意志強固、自信家、理知的、強情、頑固、個人主義  など
 B型=快活、活動的、社交的、楽天的、派手、移り気、意志弱い など
 AB型=内面はA型、外面はB型
 とのABO式血液型に対応する4分法を考案して、以降、主に軍人を対象にした調査や血液型による組織、団体気質という優生学に関わっていく。
 1940年(昭和14年)没。

 能見正比古は1925年(大正14年)に生まれ、東京大学工学部を卒業、大宅壮一門下の作家で1971年(昭和46年)に『血液型でわかる相性』出版以降、『血液型人間学』などを次々に出版し、古川竹二以降の“血液型人間学”を支えた。
 能見が血液型と性格に着目した明確な原因はわかっていないが、能見正比古の姉が古川が教授をつとめていた東京女子高等師範学校の学生だったために姉から話を聞いた、若しくは師匠である大宅壮一から古川説を聞いたかしたと推測されている。
 古川とは違い、政治家や作家やスポーツ選手の血液型など、世間の関心事と上手く関連して血液型と性格についての自説を科学として主張した。
 
 続き⇒血液型占いに反論するとモテないのか? part2


※)『血液型学から見た血液型と性格の関係への疑義』高田明和著(『血液型と性格』至文堂 収録)
 適合検査:メルクマニュアルより
http://merckmanual.banyu.co.jp/cgi-bin/disphtml.cgi?c=%B7%EC%B1%D5%B7%BF&url=11/s129.html#x03
 交差適合検査:ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E9%81%A9%E5%90%88%E8%A9%A6%E9%A8%93
※1)古川竹二、能見正比古の経歴について、『血液型と性格』(福村出版)大村政男著、『古川竹二』佐藤達哉著(『血液型と性格』至文堂 収録)より
 
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by sleepless_night | 2005-10-27 20:35 | 血液型関連